七夕フェスタ リクエスト企画 第五弾 結城さまからのリクエスト

寒蝉の恋

リニューアル版 四回目

「おう、兄者! 兄者!」
「黙っていろ、張飛、舌噛むぞ」
殿(しんがり)をつとめていた張飛が、馬の足をさらに早めて、劉備の騎馬とならぶ。
劉備は、思いつめた目をして、風に流れ行く光景に目もくれず、闇のなかをひたすら、新野に向けて走らせていた。

孔明や趙雲、関羽が無事なのは、よかった。
が、曹操がやってくる。この状況はよくない。最悪だ。

「どこかで馬を休ませねぇと、潰れちまうぜ!」
「馬が潰れるのなら、それはそれで、しかたねぇ」
「それじゃ、どうやって逃げるのだよ?」
「決まってらぁな。走るのさ。曹操は電光石火で襲ってきやがる。あいつがせっかちなのは、おまえもよく知っているだろうが。やつは、今度は本気なのだ」

曹操は、今度は本気だ、と言ったのは、徐庶であった。
母親のために、自らの志をまげて曹操の前に膝を屈した男。だが、残してくれたものは大きい。
それまで七年の惰眠をむさぼっていた新野の劉備たちに、曹操への備えを諭してくれたのは、徐庶であった。
徐庶がいなければ、孔明と出会うこともなかった。あいつ、母親を殺されたといって嘆いていたが、その後はどうしただろうか。さすがの曹操も、徐庶の命までは奪わないと思うが。
徐庶のことを思えば、その手紙を読んで、涙を流していた孔明のことを連想してしまう。
無事で何よりだった。
安堵したものの、状況がつかめない。
曹操は本気だ。今度捕まれば、呂布のように、縊られて死ぬだけだ。
樊城から新野へ。方角的には、曹操が迫ってくるところへ向かっていくような形になる。

ああ、じれったい、と劉備は苛立つ。
こんなことになるのなら、孔明と、あらかじめ曹操が来襲した際、どこで落ち合うかというのを、決めておくのだった。
いや、こんなにみながバラバラになってしまうことなど、だれが想定しただろう。
樊城での劉表の急死と、趙雲と孔明の身に降りかかった奇妙な事件の顛末、そして劉琮の意味ありげな態度。
劉備は、とりあえず全体を把握はしていたが、どれも当事者からのものではなく、さまざまな憶測を繋げただけの、ああだろう、こうだろう、という曖昧なものであった。
儂だけが蚊帳の外、というわけだ。まずは孔明に会って、すべてを明らかにしなければ。

「劉表が死んでやがったとはな。兄者、どうして蔡瑁も劉琮の餓鬼も、俺たちにそのことを黙っていたのだろう」
「儂たちが、そのまんま、樊城を乗っ取るのじゃねぇかと思ったのだろうさ。こっちは、そんな余裕なんかこれしきもねぇし、恩を仇で返すような真似はしねぇってのに」
「さんざん俺たちを盾に、曹操に当たらせておきながら、そりゃねぇってものだよな。悲しくなってくるぜ。兄者、恩はもう十分に返したはずだろ」
「そうだ。だから樊城を守ってやる義理もねぇ。ひたすら逃げの一手だ」
「だからよ、樊城を乗っ取っても、よかったのじゃねぇのか」
「莫迦」
と、劉備は、横に並ぶ義弟をにらみつけた。
「そんな義に反する真似ができるか、ってのだ。それにな、儂たちが樊城に籠もったとして、それでどうなる。曹操に囲まれて、結局は降服、あるいは餓死だぞ」
「それは、軍師が言ったのかよ」
「孔明じゃなくても計算できる話だぜ。おまえ、そんなに言うのであれば、いまから樊城に戻ってもいいのだぞ」
「意地悪を言うない。兄者と軍師の仰るとおりにいたしますよ。ったく、袁紹のところから逃げたときも、兄者は俺の言うことを聞かないで、子龍のことを聞いて、今度は軍師か」
「贔屓しているわけじゃねぇ。儂しも、そうだな、と思うから、そうするのだ。おまえだって、いいかげん、孔明の力は認めているのだろう」
「たしかに、今日のこの日を想定していたような仕事振りだった、っていうのは認めらぁな。軍師が商人から、いろいろ買い込んでいたのは、知っているよ」
「兵糧から馬、衣服から武器まで、新野城の全員が、優に一ヶ月は凌げるだけの品物が揃っている。それに、曹操だって、徐州のときとはちがう。劉表に親父を殺されたわけじゃなし。やたら民に無体はしないだろうよ。わしたちだけなら、曹操が樊城の制圧に気を取られているあいだに、南へ逃げられる」
「変なものだな、敵を信頼するのか」
「そうだ。それがわしらの戦略の基本なのだ」
ちぇっ、軍師のがすっかり移っているな、と張飛が傍らでぼやく。

たしかに、劉備は自分でも、孔明の影響を大きく受けているな、と思う。
とはいえ、単にものめずらしさで、その話をすべて受け入れてしまっているのとはちがう。
孔明という存在は、劉備自身にすら気づかなかった内面を、表に引き出してくれる存在なのだ。行く手のわからぬ暗い夜道を、冴え冴えと照らしてあきらかにしてくれるのが、劉備にとって、孔明であった。
月は、世の中になくてはならぬもの。孔明も、また劉備にとって同じ。
家臣というよりは、身内、と呼ぶにふさわしい。
劉備にとって、新野城の家臣たちは、みな身内であるが、孔明は、また特別なところにいる。

「みな無事だったそうだが、子龍が怪我を負った、というのが気にかかる。早いところ、顔を見せてやりてぇな。安心するだろうよ」
「兄者は、子龍に甘い。袁紹のところから逃げるときから、そうだった!」
張飛としては、曹操と対峙する袁紹のところから逃げたときのことを、どうしても切り離せないらしい。
たしかに、あのときと、状況は似ている。
張飛がぶうぶうと言うのは、趙雲が、まだその頃は『新入り』で、例によって例に漏れず、新入りを、よく思っていなかったからだ。
新入りのいうことばっかり兄者は耳を貸す、と思っているのだろう。
ああ、なんだか懐かしいな、と思いながら、劉備は七年前を思い出していた。



七年前、劉備は曹操と対峙し、十万の軍勢を率いている袁紹のもとに身を寄せていた。
ちんまりと大人しくしていたところへ、公孫瓚に居候していたときに、知遇をえていた趙雲が、ぜひに配下にくわえてくださいとやってきたのだ。
劉備はこれを喜んで迎えた。
それから数ヶ月。
趙雲は、顔にこそ出さなかったが、劉備の義兄弟をはじめとする、家臣たちに、受け入れられようと必死だったのだ。
熱心に仲間を増やそうと、大胆にも、袁紹軍の中から、めぼしい人材をみつけては、劉予州の配下にならぬかと声をかけている。
袁紹の陣は、多勢に無勢ということで、曹操を前にしても、緊張感がまったくない状況で、兵卒だけではなく、武将までもがだらけきっていたから、趙雲の大胆な動きを、咎めるものは少なかった。
が、少ないというだけで、まったくいなかった、というわけではない。

「おう、子龍、なんだか昨日、襲われたって?」
無茶をするなよ、という意味をこめて、劉備は趙雲を呼んで、話を聞こうとしたのだが、傍らの張飛は、子供じみた嫉妬をむき出しにて、畏まる趙雲に言った。
「おまえ、頭のいいのをあんまり鼻にかけていやがると、兄者に迷惑をかけるのだ。そのあたり、わかっているのだろうな。俺はな、まだおまえを認めてはいないのだぜ? なあ、関羽の兄貴」
張飛が、大きな目をきょろりと剥いて、自分とは反対側の劉備の傍らに立っている関羽に同意を求めると、関羽は、あえて、はっきりとは声に出さず、牛のように、うむ、と唸った。

袁紹軍自慢の将・文醜、顔良を討ち取った関羽が、ほかならぬ袁紹軍の幕屋にいる、ということ自体が異常である。
その異常が、まかり通ってしまっているところが、袁紹軍が、いかに士気をゆるませているかの、証左でもあった。
まちがいなく勝てる戦をしているので、細かいところは劉備の顔に免じて許してやるか、という空気なのである。
もちろん、袁紹や袁譚には、関羽が戻ってきている、ということを知らせていないが、武将たちはみな知っているわけだから、耳に届いているだろう。

彼らは、自慢の将ふたりを討ち果たしたほどの男が、味方になってくれたのだから、これはこれで良しとしよう、と考えているのだろうか。
薄情な連中だ、斬られた二人も、浮かばれねぇな、と劉備は思う。
袁紹は、人に傅かれることが当たり前の男なのだ。
あまたいる家臣たちも、そこにいて当然の、一種の馬や武器と同じ資源にすぎないのだろう。
もしも、ふたりを大切に扱っているならば、大事な部下の仇である関羽が、ほかならぬ自分の陣にいる、と聞けば、怒って捕らえにやってくるはずだ。

わしであれば、そうだもの。

けれど、その心情を見越して、ずうずうしく居候を続けている、わしもわしだが、と、劉備は、おのれを突き放してみる。
かといって、ここからどこへ行けばいいのか。考えが纏らないうえに、曹操に襲われた際に、散り散りになった家臣たちが、まだ戻ってきていないために、仕方なく、こうして、一つところに留まっているわけだ。

関羽が戻ってきてくれたのは、一番の収穫だろう。
曹操のところでどれだけの苦労をしたのか、関羽はいっそうの凄みと迫力を身につけたようで、自分でもわかっているらしく、ひたすら大人しくしている。
二番目の収穫は、公孫瓚が滅亡してから、行方の知れなかった趙雲が、劉備がいると噂を聞いて、やってきてくれたことだ。
劉備は、趙雲の、関羽とも張飛ともちがう、将としての気質に惹かれていた。
孫子の理想とする将を、そのまま絵に描いたような男である。
これが、いままでどうして、どこからも仕官の要請がなかったのか。
河原の石ころを思い出せばわかるのだが、なめらかで美しい形をした石よりも、いびつで奇妙な形をした石のほうが目立つ。
それと一緒で、趙雲も、完璧にすぎて、かえって地味だから、諸侯の目から漏れていたのかもしれない。
劉備としては、大助かりである。
しかし、困ったことがひとつ。

「おい、張飛」
と、劉備は、趙雲にガアガアとわめく張飛に、コイコイと手招きをする。
お、もしかして、内緒の話か、と張飛は優越感まじりに近づいてくる。
劉備はその頭に、容赦なくゲンコツを落とした。
「痛ぇ、なにしやがるのだ!」
「なにしやがるのだ、じゃねぇ! おまえらが認めなかろうと、子龍は、とっくの昔に、わしの大切な部下だ! 不服が在るのなら、張飛、おまえ、出てってもいいのだぜ? 袁紹も曹操も目と鼻の先だ。どっちでも好きなほうを選べ!」
「なんてことを言いやがる! 兄貴、こいつが派手にあっちこっちに声をかけているおかげで、劉備は忘恩の徒だと噂が立っているのだ。悔しいじゃねぇか!」
「それについては、その通りだからしかたねぇさ」
「申し訳ございませぬ」
「すまぬ、兄者」
と、関羽と趙雲が頭を下げるのは、ほぼ同時だった。
やれやれ、と、ため息をつきつつ、劉備は、張飛に二度目のゲンコツをお見舞いした。
「ほら、おまえの所為で、二人が傷ついちまった!」
「いまさら、傷つくって玉かよ! くそう、なんで俺が殴られなきゃならんのだ!」
ぶちぶち言う張飛を横に、劉備は、趙雲に顔を向きなおした。
「こいつの言うことは気にするな。考えなしに思いつきでしゃべるからな。わしが認めたのだ。おまえはわしの臣だ。堂々としていてよいのだぞ?」
「ありがたきお言葉でございます」
趙雲は、たしかに才覚はあるが、どうも喜怒哀楽に乏しいところがあるな、と劉備は思いつつ、尋ねた。
「で、昨夜はどうした」
「はい。陳叔至なる男に、主公のための兵を集めていること、けしからぬと言われまして、おそわれました」
「ほう、で、逃がしたのか」
とは、関羽の言である。
関羽は、張飛よりは、趙雲を認めていた。
なにより、その武芸の才が、なみなみではないことを知っていたのである。
「いいえ、逃げられました。追っても討てぬと判断いたしましたので」
「それほどの腕だった、というわけか」
「はい」
口下手な武芸達者同士の、ほとんど心の読みあいのような会話である。
面白い奴らだな、と劉備は感心しつつ、口を挟む。
「陳叔至ってのは、どこの武将だい? 聞いたことがないな」
「それが、顔見知りの袁紹の将に尋ねましても、知らぬ、聞いたことがない、と。ただ、今朝ほど、さる幕屋から出てくる陳叔至を見かけました。袁譚に仕える女の幕屋でございます」
「袁譚に仕える女の幕屋から? なんだ、間男か、それとも女の親族か? わしは今宵、袁譚どのの催される宴にお呼ばれしているのだがなぁ。そりゃ、気まずいぜ」
「お気になさらずともよいかと。その女、袁譚の情けのかかった女だそうで、姓は陳、名は紅霞とか。しかし、面白い話を聞きました。その紅霞とやら、ただの情婦というわけではなく、どうやら、細作の長をしているらしいと」
「女が、か。それじゃあ、陳叔至ってのも、細作ってことかい」
「恐らくは。しかし、細作とするには、あまりに惜しい男でございます。主公、お許しいただけるのであれば、その男を、わが陣営に迎えたいのでございますが」
「どうやって」
「陳叔至は、今日の日没までに、それがしの首を取りに参ると宣言いたしました。それゆえ、日没までには、ふたたび我が前にあらわれるかと」
「なんだ、そいつは、それで細作か?」
と、呆れたのは張飛であるが、それは劉備も同じ感想であった。
「細作であるには場違いな、正直な男なのでしょう。味方につけることができたなら、力強いだけではありませぬ。袁紹や袁譚の動きを、これまで以上に探りやすくなるかと」
「ふむ」

やはり、こいつは一味ちがうな、と劉備は思った。
趙雲は、曹操と袁紹の戦の決着がつけば、いずれは劉備に、刃が向けられることを読んでいるのだ。
その対策を練るためにも、人材ばかりではなく、情報も集めようとしている。

「よし、子龍、おまえに任せる。陳叔至とやらを仲間に入れろ」
「ありがとうございます」
と、初めて趙雲が、顔をほころばせた。
傍らの張飛は、面白くなさそうに鼻を鳴らしたが、劉備は三度目のゲンコツで、これを黙らせた。



陳到が趙雲を見つけたときには、趙雲は、首に手ぬぐいをまいて、井戸端で顔を洗っている最中であった。
手桶に水を汲んで、ざぶざぶと顔を洗っている。
ずいぶんと荒っぽく洗うのだな、ほとんど頭から水を被っているようではないか、と呆れつつ、陳到は、周囲を見回す。
まさに白昼の死角。あちこちに人影はあっても、趙雲に気をとめている人間はいない。
いまこそ天の配剤とばかり、その背後に忍び寄り、毒を仕込んだ短刀をかまえて、背中に刃を突き立てた。

武将であったなら、堂々と真正面から名乗りをあげて、いざ尋常に勝負、と挑んでいったにちがいない。
しかし、陳到は、細作だ。 寒蝉という名をもつ細作であるから、細作のやり方に従う。
細作は、名誉のために戦うのではない。
だれかの権威を守るために、その代理で戦うのが細作だ。
毒を塗った短刀を寄越した袁譚の判断は、正しい。
闇から出でて、闇へ返す。 相手が相当の手練れだということは、昨夜の打ち合いでわかった。
かすり傷ひとつでいい。
毒をたっぷり塗った短刀で、傷をつけさせることができたなら、ほどなく体はしびれ、内臓を焼く激痛に襲われ、血を吐きながら死ぬ。
以前にもおなじ毒を使ったことがあり、そのときは、獲物は、あまり身体を鍛えていない男だったから、すぐに死んだ。
趙子龍は身体を鍛え抜いている武人であるから、時間がかかってしまうかもしれない。
だが、助けをもとめ、苦しんで叫んだときは、咽喉笛を裂くつもりであった。そのほうが、長く苦しまなくてよいだろうという、陳到なりの思いやりでもある。 そうして、陳到はこれまで、多くの死を見届けてきたのだった。
寒蝉は、死を最後まで見届けて、首を取って、紅霞のもとへもどる。

細作としてではなく、武将として取立てられていいたなら、こんな仕事はしなくてよいのに。
文醜、顔良のご両名ですら、手駒程度の扱いでしかないのだ。
まして名もなき細作。名誉も功も関係なく、ただただ、利用されるだけ。
消耗される一方だ。

陳到の中に迷いが生まれた瞬間、切っ先が鈍った。
毒の塗った刃が、趙雲の背中の肉に食い込む直前、井戸に屈むようにしていた趙雲は、振り向きもせずに身体を横にずらすと、水の溜まった手桶でもって、陳到に水を浴びせかけた。
陳到がとっさに目をつぶり、視界を失って怯む。
が、そこで混乱する陳到ではない。
瞬時に、どこから反撃が来るか、五感を研ぎ澄まさせた。

右。右側から。

手甲で顔を防護し、飛んできた拳を受け止める。
重い拳に、腕全体がしびれるほどであった。
風の流れが起こる。
拳は牽制に過ぎなかったのか。
舌打ちをして、脇腹に飛んでくる左足を避けようとする。
しかし、完全には避けられず、その手首がどすんと脇腹を打った。
思わず衝撃と痛みに、前かがみになる。

三撃目。

陳到の脇腹を打った左足を戻し、前のめりになり、まさに差し出す形になっている後頭部に、肘を打ち込んでくる。後ろに引くには遅すぎる。となれば、前に進むしかない。
迷う暇はなかった。
陳到は、そのままためらわず、趙雲の懐に飛び込むようにして体当たりをすると、後頭部に落ちるはずであった肘は動きを止め、喰らいつく陳到をはがそうとしてくる。
この男、公孫瓚の白馬義従であったという。
つまり、騎乗戦には長けているかもしれないが、おのが肉体だけを武器にした、接近戦には弱いのではないか。
ならば、勝機はあるかもしれない。
陳到は、手にした短刀をふたたび趙雲の身体に浴びせようとするが、それを察したのか、趙雲は、自分にしがみつく陳到の手首を、つよく捻り上げる。
その力の強さと痛みに、思わず陳到は悲鳴をあげた。
ほんのちいさな傷でもいい。それだけで、この男は死ぬ。 陳到は懸命に腕を伸ばし、刃をひとつでも趙雲の身体に浴びせかけようとした。
「おまえ、毒か?」
と、趙雲が、懸命に短刀を付きたてようと振るえる陳到に、うめくように言った。
「なるほど、おまえは本当に細作なのだな」
「なにをいまさら」
いいながらも、力と力の押し比べ。手首をぐいぐい捻ってくる趙雲の力はつよく、陳到は、指先に力を入れることができなくなってきた。
短刀を握っている感触がない。血が止まってきているのだ。
「刀を捨てろ。おまえに話がある」
陳到は、額を趙雲のあばらのあたりにつよく押し付ける形で、懐に飛び込んでいた。
趙雲の声に、手首に神経を集中させながら、答える。
「話など、なにもない」
「俺にはある。いま一度言う。刀を捨てろ」
「毒に怖じたか、趙子龍」
「そうだ。いかな俺でも、毒は防げぬ。刀を捨てろ」
「断る」

そんな問答を何度か繰り返したのち、陳到は、手首から先の感覚を失い、悔しさのあまり、小さく声を漏らしながら、指から短刀をこぼした。
カランという硬い音が井戸端に響く。
陳到は、趙雲から離れ、短刀を拾おうとするが、趙雲はすぐさま足を伸ばし、それをさらに遠方へと蹴り飛ばした。
趙雲は、そのまま、目にも止まらぬ速さで抜き放った剣の切っ先を、陳到の首先に、ぎりぎりのところで突きつける。
皮膚に、冷たい感触が触った。まさに死の感触だ。
いつ剣を抜いたのか、この剣がどこからきたのか、見えなかった。
さすがの陳到も、ぞっと粟肌を立てた。
目の前にいる、背の高い男は、美貌であるがゆえに凄愴な表情で、陳到を睨みつけている。話がある、とは言ったが、その返答次第では、この場で切り捨てるつもりだろう。 筋を通すことが第一にある、冷酷な男。それが趙子龍という男なのだ。

「おまえには失望したぞ、昨夜のように、堂々と目の前に現われるかと思うたが」
「昨日は単なる挨拶だ。今日は予告どおり、おまえの首を貰い受けに来た」
「なぜに。おまえが、陳紅霞とかいう女に使われている細作だということは、割れている。おまえに命令したのは、袁譚か」
「答えると思うか」
趙雲は、さらに、突きつけた刃を強く押し付けてきた。

皮膚と刃の擦れあうの、わずかな音が耳に届くようだ。
この男、脅しではなく、必要と判断したら、ためらいなく刃を横に動かすだろう。
陳到は、趙雲の力量を読みたがえていたことに後悔をした。
昨夜は、趙雲のほうが、こちらの力量を読むために、わざと力を抜いていたのだ。
とたん、額から、どっと汗が噴出してくる。
逃げられぬ。殺される。

だが意外にも、趙雲は、怖じた陳到の顔を見て、険しい表情を解いた。
「ふむ、俺を読むか。おまえもやはり、ただ者ではないな」
「どういう意味だ」
「俺は、人の役に立てる男ではない。唯一のとりえが武芸…いや、人殺しなのだ。人殺しの技術には、だれにも引けを取らぬ」
と、趙雲は、どこか自嘲めいた笑みすら浮かべていう。
「いろんな奴に会ったが、若すぎると侮るのか、俺の力量を読めずに挑んでくる者は多い。たいがいは骸を天にさらすことになるが、賢い奴は、引く。昨夜のおまえはそうだった」
「たいした自信だな」
「相手の力量を読むには、自分にも、それ相応の眼力と、力量がなければならぬ。おまえは、毒を塗った短刀に頼って、俺を襲ってきた」
「だとしたら、なんだ」
「いま一度、問う、おまえに、俺の首を取れと命令したのは、誰か?」
「答えぬぞ。たとえ拷問されたとしても答えぬ」
「拷問なんぞ趣味ではない。陳紅霞という女か。それとも、おまえが昨夜、口にした、銀兎という女か?」
「ちがう!」
銀兎の名が出たとたん、陳到は頭に血がのぼり、思わず叫んでいた。
ふと、陣内を哨戒していた兵卒たちが、こちらのただならぬ様子に気づいて、ゆっくり歩いてくる。
趙雲はそれを視界の端に認めると、舌打ちして、剣を抜いたまま、いきなりぐっと陳到の頭を抱え込むようにした。そして、素早く耳打ちをする。
「大人しくしておれ。さもなくば、誰の前であろうと斬る」
「あの兵卒どもに捕らえられてもよいというのか」
「逃げるさ」
不敵に、にやりと趙雲は笑い、怪訝そうにやってくる兵卒を、妙に愛想よく迎える。

「お勤めご苦労。それがしは、劉予州の家臣にて趙子龍という」
趙雲のことばに、兵卒たちは怪訝そうに顔を見合わせる。
「劉予州の御供の方が、ここで何をしておられる」
「なに、こいつが昨夜の賭けの代金を払わぬというので、揉めていたのだ」
なんだ、というふうに兵卒たちは肩の力を抜いた。
陣内において、兵卒同士の賭けごとは常であり、綱紀粛正の名のもとに、禁止されても、守られたためしがない。
揉め事もしょっちゅうで、殺し合いにさえなることがあった。
「で、代金は回収できたのでございますか」
「こいつが出し渋っておるので、いまとっちめておったところだ」
と、趙雲は、片腕で巻き込むようにして、捕まえている陳到の頭を小突いた。
「そういうことならばよいのですが、騒ぎを起こすようでは困ります。その剣も、鞘に納めていただきたい」
「すまぬ、つい癖で」
と、趙雲は朗らかに笑いつつ、剣を仕舞う。

身動きもままらないまま、陳到はさらに汗を流していた。
さきほどの状態で、兵が来るからといって、あわてて剣を仕舞ったら、かえって怪しまれる。
だから、堂々と抜いたままにして、嘘の理由を説明し、兵の指示に従ってみせて、騒ぎになるのを防いだのだ。
こいつ、知恵まで働くのか。

「賭けをするにも、きちんと負けた分は支払わねばなりませぬ。一人が踏み倒しを成功させたなら、ほかの兵卒どもも、それに習って踏み倒しをし、さらに揉め事が増えます。その男、われらで調べますが」
兵卒の言葉に、趙雲は手を振って答えた。
「貴殿らの手を煩わすまでもない。こやつの金は俺が回収する。さて、行くか、これ以上、騒ぎを起こしては、迷惑であろうし」
と、陳到を抱えたまま、趙雲は移動する。
陳到は、下手に動けば、斬るどころか、首の骨を折られるであろうことを察し、大人しくついていくしかない。
兵卒たちは、井戸端にて、立ち去る二人を見送っていたが、趙雲は、わずかにもがく陳到に言った。

「そのままで聞け。陳叔至、悔しくはないか」
「まともに歩けぬのが悔しい」
「そうではない。おまえほどの腕を持つ者が、なにゆえ、毒を塗った短刀などで、俺を暗殺する仕事をこなさねばならぬ。悔しいとは思わぬか。おまえ、最初から細作であったわけではなかろう」
「なぜわかる」
「目が荒みきっておらぬ。それに、細作にしては人が良すぎる。ここは、おまえたち袁紹の陣だ。周囲は味方ばかりの状況で、俺がいくら首根っこを押さえていようと、騒ぎたてられたなら、俺とて身が危ない。律儀に俺の言うことを聞く。だから人がよい」
「わたしが騒いだら、首の骨を折ろうと考えていなかったか」
「もとより、殺すつもりなどない」
「なに?」

唐突に、首を押さえていた力が失せ、陳到は解放された。
趙雲は、武器を鞘に納めたままで、何も持っていない。

「どういうつもりだ?」
うろたえて陳到が聞くと、趙雲は、敵意がない、とでも言うように、両手を広げて見せた。
「殺すつもりは、最初からない。すまなかったな」
「なんだと? なにを謝る?」
「俺は口下手だから、前置きは抜かす。陳叔至、劉予州に下れ。そのほうが、おまえのためだ」
陳到は、しばしぽかんと口を開き、趙雲の顔をまじまじと見た。この男、真顔で冗談を言うのか。
「おまえは、ここでは、単なる駒としか扱われぬ。だが、劉予州は、将をそのようには扱われぬ。人として、きちんと認めて下さる方だ。
いまは、おまえは細作であるが、劉予州の配下となれば、それほどの腕だ。将軍職を拝領するのも夢ではないぞ」
「将軍職? くだらぬ。主公のお情けで、なんとか陣の片隅に居候させてもらっている男の配下でか? 将軍なんぞ名乗っても、部下はたったの数名という状態であろう。それで将軍か! 稚戯にも等しいわ!」
「いまはそうかも知れぬ。だが、劉予州は、かならずや天下に覇をとなえる英雄となろう。その手助けをしたいとは思わぬか。
それとも、人を人とも思わずに動かす袁家の支配下で、だれに評価されることもなく、一生を費やしたいか。目先に捕らわれず、先を見よ」
「馬鹿馬鹿しい。話にもならぬ。わが主公は、曹操を潰したなら、ついで帝を奉戴し、漢を復興させよう。そして各地で、不遜にも英雄を名乗って民を苦しめる輩を、平定なさるだろう。その最初は、劉玄徳となろうぞ!」
「それは判らぬぞ」
「なに?」
「この戦、曹操が勝つかもしれぬ」

陳到は、まじまじと趙雲を見た。
正気とも思えぬ発言である。
劉備を尊敬するあまり、妄想にすがって、なお主人を生かそうと考えているのではあるまいな。

「俺は、公孫瓚のもとで働き、幾たびも袁紹と対峙してきた。それゆえ、袁紹の軍の進め方は、なにより熟知しておる。数で押すのだ。ひたすら数を押し付けて、包囲し、相手が音を上げるのを待つ。積極的に仕掛けない。そうする必要がないと思っているのだ。わかるか? 
袁紹の根底には、つねに驕りがある。知恵と知恵とをぶつけ合って生き延びてきた曹操とは、質がまったく違うのだ。たとえ数倍もの兵を率いているとしても、油断はならぬ。その証拠に、曹操は、まるで己が負けているとは思っていないからな」
「なぜわかる」
「関羽殿から聞いた。曹操が勝てば、おまえに未来はないぞ。まあ、曹操の元で働くという手もないでもないが、しかし、おまえのようなお人よしは、曹操のように苛烈な男とは、合うまい」
「だから劉予州のもとに下れと?」
「そうだ。劉予州のもとには、散り散りになったご家来の方々が、続々と戻りつつある。近々、われらはここを去る」
「なんだと? 貴様、それをわたしに報せてよいのか? わたしは細作だぞ!」
「かまわぬ。おまえはいずれ、劉予州の配下になるからな」
「決めつけるな!」
「今日の日没までに返答をせよ。もし答えが否であるならば、俺はおまえの首を取る」
「なに?」
「劉予州の動きを知られたからな。敵になるというのであれば、口封じをせねばなるまい」
「貴様が勝手にしゃべったのだ!」
「今日の日没までだ。それが気に食わないというのならば、俺の首を取るがいい」
できるものならばな、と、趙雲は、見るものの背筋をぞっと凍らせるような、不敵な笑みを残し、堂々と背中を向けて去っていった。

その背中を見つつも、陳到は、ふしぎと追撃しようとは考えず、ただ見送った。

五回目につづく
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