七夕フェスタ リクエスト企画 第五弾 結城さまからのリクエスト

寒蝉の恋

リニューアル版 三回目

当初より数は減ったとはいえ、十万という数の大軍が何ヶ月にもおよび駐留するわけであるから、食糧の確保も勿論のことだが、日用雑貨の調達も必要となってくる。
軍が移動するのと同時に、商人たちも歩を合わせて移動する。
商人といってもさまざまで、行商人もいれば、隊商もいるし、扱うものも、雑貨から、妓女まで、さまざまだ。
兵卒たちの息抜きをさせる旅芸人もいたし、街で買えるような物品、女物の小間物すら扱っている商人さえ、中にはいたのである。
女物がなぜに必要かといえば、目当ての妓女や舞姫たちの気を引くためであった。
街にいるのと変わらぬな、と陳到は思いつつ、商人から、最高級という触れ込みの香油の壷を仕入れた。
香油の壷を売ってくれた商人は、さすが袁家のとのさまが率いる軍だ、みな金払いがいい、と喜んでいた。

たしかに余裕はあるだろう。負ける可能性など、だれか考えるだろうか。
十万に対して二万。
緒戦で負けたのは、主力ではなく別働隊だったのだ。主力が負けることはない。四世三公の名家袁氏が、負けるはずなどないのだ。
秋の気配の濃くなってきた。 陽射しは柔らかく、地に落ちる影は長く伸びていく。 絶えず聞こえる鍛冶屋の鉄槌の音と、行軍する軍靴の音と、掘削のために借り出されている兵卒たちの、つらい作業に弾みを付けるための歌声と、さまざまなものが交差して耳に届いてくる。

この戦は、いつになったら終わるだろう。
主公が天子を奉戴し、天下に安寧をもたらすのはいつのことだろう。

陳到にしてみれば、平和になってくれたほうが、自分としては苦労しなくてすむわけだから、早くなってほしいのであるが、さて、真剣に論じてみるに、本当に袁紹が天下を取るのがのぞましいか、と尋ねられたら、名家の殿様だし、当然のことなのだろう、という答えしか、返せなかっただろう。
陳到は袁紹と相対したことはない。
あたりまえのことであると思う。こちらは、兵卒から細作になった身。 袁紹は、生まれも育ちもまったくちがう、遠い雲の上の人である。
袁紹の命令というのは、つねに雲の上から降ってくるもので、陳到のような下っ端は、その思惑もよく知らされないまま、言うとおりに動くしかない。
それはごく当たり前の話で、陳到に限らず、陳到の上役すらも、それを疑問に思ったことがなかった。
大所帯であれば、当然のことがらである。
陳到の上役でさえ、袁紹の息子・袁譚と会うのがもっぱらで、袁紹とは直に会ったことがないくらいなのだから。

いろいろ連想してくうちに、上役のことを思い出し、陳到はうんざりとため息をついた。
昨夜から、ろくなことがない。
劉備の手勢を集めるために、陣内を我が物顔でうろうろしている男を暗殺するはずが、銀兎をひと目見てから判断が狂い、よせばいいのに自ら名乗った挙句に討ち漏らし、しかも今日の日没までに首を取る、と本人に宣言してしまった。

なぜ名乗ってしまったのか?
銀兎の想いが伝わらないまま、殺してしまうのは、銀兎が哀れだと思った。
だからといって、名乗る必要などなかったはずだ。もし、あの男、趙雲の首を取れなければ、本当に命がないだろう。
名乗ってしまったのは、勢いということで仕方がないとはいえ、なぜ、今日の日没までに首を取るなどと、正々堂々と男らしく宣言してしまったのか。
正々堂々などという言葉は、戦場で馬を駆る武将たちに似合う言葉で、細作である陳到には、縁のないもののはずだ。

陳到は、いまだ昨夜の痺れを残す手を、ぐっと握ってみた。
すさまじい力だった。
あれほど重く、変幻自在な剣を使う相手と、はじめて戦った。剣先が、どこから飛んでくるのか、その軌跡を読むことができなかったのだ。
昨夜は、らしくもなく、本気を出して戦った。
いや、本気を出さねば、いま生きているかどうか。
時間が経てば経つほどに、陳到は、昨夜、剣を合わせた男の実力がわかってきた。
こちらは精一杯だったのに、あの男は、まだ余裕があったではないか。息ひとつ乱さず、汗もかいていなかった。こちらをすごいと誉める余裕さえ見せつけられた。
そうだ、だからこそ、意地になって、まるで武将のように正々堂々と、今日の日没までに首を取る、などと言ってしまったのだ。
負けたくないと、あの男を前にして本気で思った。
あの時は、細作ではなく、まるで武将のようだった。

そこまで考えて、陳到は首を振って、己を戒めた。
武将のようだった、のであり、自分は武将ではない。
武芸の才を買われたものの、出自の低さと、冴えない容貌のために、いいように使われて、出世の見込みのない細作。それが自分ではないか。
いや、細作として出世しても、いいことなど、ひとつもありはしない。
お偉方の秘密を知れば知るほど、消される可能性は高くなる。
そこそこに働いて、そこそこに俸禄をもらい、そこそこに暮らす。大望なんぞ抱かない。
どうせ、名門を自負する袁氏の元では、以前の通り、家柄がものをいい、出世の見込みなどありはしない。最初から期待するだけ、無駄なのだ。

……無駄。無駄か。先の見込みがなにもない、無駄だと判っているのに、なぜ自分はここに立っているのだろう。

不意に、突然に足元がおぼつかなくなったような感覚におそわれたが、陳到はあわてて平常心を取り戻した。
余計なことを考えている場合ではない。何年か先を考えるより、日没までの過ごし方を考えねば。 趙子龍の首級を取り、上役に納めること。
いや、それより前に、上役に報告をし(もちろん、名乗ったことは伝えない)、ご機嫌を直しておくことが必要だ。たとえ首尾よく趙雲の首をとったとしても、上役があれほどにツンケンしていたら、こちらとしても面白くない。 上役がかわいがっている雀のエサのミミズを拾ってくる、ということも考えたが、安上がりに過ぎるので、かえって怒られてしまうかもしれない。
そこで、自腹を切って(かなり懐が痛かったが)香油の壷。本当ならば、銀兎に贈りたいところであるが。
銀兎のことを思い出せば、陳到の胸は痛んだが、その痛みは、浮き上がりたくなるほどの幸せな心地も、一緒に連れてきた。
それまで、真剣にだれか(自分を含めて)を想う、ということを知らなかった陳到にとって、銀兎は画期的な存在であった。

あんな愛らしい娘と一緒になれたら、どんなにか楽しいことだろう。
戦が落ち着いたら、どこか田舎でいいから所領をもらって、そこで平和に暮らせたら。 細作であろうと、それくらいの夢はみてもいいだろう。夢を見るくらいならば、だれであれ自由なはずである。

と、顔が、自然とにやける陳到であるが、ちょうどその前を、座長に引き連れられた舞姫たちと一緒になって、歩いている銀兎が目に入った。 陣中であるから、華やかな娘たちの姿は、注目の的である。色を売らないという娘たちは、妓女たちとは違って、どこかあどけなさがあり、またそこが、あこがれをかきたてる。
なかでも銀兎は抜きんでており、清らかで愛らしく、その笑顔を見ているだけで幸福になれる。
ふと、銀兎が、こちらを見た。
陳到は胸を高鳴らせたが、いつもの癖で、すぐにそれを抑えた。
銀兎が、こちらを覚えているはずがない。昨夜は暗闇であったし、たとえ真昼間であっても、顔を忘れられることが、たびたびなのが陳到なのである。
息を詰めて銀兎を見つめていると、銀兎が、なんと娘たちの輪から離れて、陳到のもとへと駆け寄ってきた。
「劉予州のご配下の陳叔至さまでしょう? わたしを覚えてらっしゃいますか?」
忘れるはずもないではないか。
陳到は大きく首を縦に振った。
すると、銀兎はうれしそうに顔をほころばせ、手を小さく叩いてみせる。
「よかった。わたしが覚えていたのですもの。きっとおぼえて下さっていると思った」
と、言ってから、銀兎は、大きな瞳を、上目遣いにして陳到を見た。勘の良い陳到は、そこで夢見心地を破られた。
趙雲に、代わりに想いを告げると約束した。 その後、たしかに約束を果たしたが、相手の言葉はつれないものだった。
曰く、
「そんな女は知らぬ」。
トーヘンボクめ。
陳到の表情が渋いものになったので、恋する乙女特有の敏感さか、銀兎の顔はとたんに曇った。
そして、今度は顎をしっかりあげて、陳到を見あげる。
「なんて仰いましたの、あの方は? 心の準備は出来ているの。正直におっしゃってくださいな」
正直になど言ったら、きっと泣くだろう。こんな愛らしいものに涙をこぼさせることなどしたくない。
が。

陳到の脳裏に、浮かぶ考えがひとつ。
銀兎が趙雲をあきらめてくれたなら、こちらとしても嬉しい限り。落ち込んでいるところを優しく慰めて、見事に心を射止めるのだ。
いや、それはあまりに男らしくない。実に細作らしい、いやらしい考えだ。
そんなのは嫌だ。自分が細作であることは動かせない事実だが、この娘の前では、細作として立ちたくない。

銀兎が、黙り込んだ陳到に、不思議そうに首を傾げて見せた。
その仕草を見てしまっては、もう駄目であった。なんと愛らしい。
往来の目も気にせずに、抱きしめてしまいたくなるほどの愛らしさであった。
陳到は、ぎゅっと目をつぶると、己の中に強くある、卑しい声を押さえつけ、精一杯、平静な声色を作って、答えた。
「すまぬ。機会がなくて、まだ伝えておらぬのだ」
とたん、銀兎は、晴れやかな笑みを取り戻した。
「まあ、そうだったの。でも、すこし安心したわ。こうして、結果をじっと待っているのは、苦しいけれど、楽しいんですもの。 みんなは、あのひとはきっと駄目だろう、なんて意地悪を言うのよ。冷たい人にちがいないって。でも、わたしは自分の目を信じているわ。きっとあの方は、よい方よ。そうなのでしょう」
ああ、この娘は、まだ幼いのだな、と陳到は思った。
自分に対して、なんの警戒心ももたず、自然に語る銀兎は、ひどく無垢であった。何色にも染め上げられていない、真っ白な糸である。
こんな心の純真な娘が、群狼の集まりのごとき陣中にいるという事実が、痛々しい。
「あら、素敵な壷。それ、買おうと思ったのだけれど、兄さんが、そんな高価なものは、おまえにはまだ早いと言うの。わたしだって、もう十五なのだもの。早くないわよ、ねぇ? 叔至さま、兄さんに言ってくださらない? 
兄さんって、昔から、わたしにばかり厳しいのよ。いっつもお小言ばかり。あまり外にも出してくれないし」
ちらりと見れば、足を止めた舞姫たちと、座長が、じっとこちらの様子を伺っている。
とくに、銀兎の兄だという座長は、剣呑な眼差しで、陳到を刺すように見ている。妹に悪い虫がつくことを恐れているのだろうか。
「叔至さまは、おえらい武将さまなのでしょうね」
唐突に、銀兎はそんなことを言った。
「なぜだね」
尋ねると、銀兎は、すこしもじもじとしたあと、決まり悪そうに笑った。
「人に聞いたのですけれど、幕屋を陣に構えてらしてるのでしょう? そこに奥様もおいでだと聞きました」
「だれがそんなことを!」
思わず声を高くすると、銀兎は怪訝そうに目を丸くして、首をかしげた。
「だって、叔至さまと同じ陳姓の高貴な女性が、中にいらっしゃると聞きました。奥様ではないの?」
ちょっと待て。
「いや、誰から聞いたのかは知らぬが、それはなにかの間違い、いや、人違いであろう。だいたい、劉予州の家臣は、みなひとつところに集められておる。わたしが、袁紹軍の只中に幕屋を与えられるはずがない」
「まあ、そうでしたの? わたし、陣地がどうとかという話に疎くて」
「ともかく違うのだよ。それはそうと、兄君が待っておられる。趙子龍には、今日の日没までに必ず伝えておくから、わたしを信じて、待っていてはくれぬか」
「わかったわ。きっとお待ちしております」
と、銀兎は、無邪気な笑みを浮かべ、軽やかな足音と共に去って行った。

無邪気なものだ、と陳到は、銀兎のうしろ姿を見て思う。
一方の上役ときたら、立場も危ういところにいるうえに、若君の寵愛が失せ、閑職に追いやられてしまって、毎日がご機嫌斜めである。
幕屋を出入りしているところを、誰かに見られていた、というのは厄介だ。 陳到は、慎重に周囲に目を配りつつ、上役のいる幕屋に入っていく。
首はまだかと問い詰められるのはわかっていたが、すこしでも慰めるためであった。
以前は、冷静沈着の鑑のようで、だれかに当たって物を投げつけるような真似は一度もしなかった。これは、よほど追いつめられていると見てよい。
陳到の上役は、同じ陳姓ではあるが、血縁でもなんでもない、陳紅霞という女である。
前身は低い階層の女だった。その美貌に袁紹の長子袁譚が目をつけ、情けをかけた。
ただ、紅霞は美しいばかりの女ではなかった。紅霞は、女だてらに人をまとめ、情報を整理し、報告する能力に長けていたのである。
紅霞は、細作の長として活躍し、袁譚を長いあいだ助けてきた。
紅霞のもたらす情報のお陰で、袁紹の陣内においても、袁譚は、次の世継ぎとして、確固たる地位を築いている節がある。
袁譚は、この紅霞をうまく利用している様子であった。
しかし、ただの主従でさえ、長く時間をもてば、あれこれと諍いがあるものを、まして情のからむ男女のことである。
袁譚が、紅霞にどんな約束をしていたのかは知らないが、二人は、このところ、しっくりきていない。

その証左が、それまでは、対外的な細作の長を任され、百余名もの部下を操っていた紅霞なのに、曹操軍と袁紹軍が対峙してからは、その任を解かれてしまった。
そして、たった一人、陳到だけを部下に、陣内の不満分子の洗い出しという、この勝ちの見えている戦においては、さほど重要ではない仕事を任された。
いわゆる左遷である。 原因は、公孫瓚が滅びて以降、袁譚のそばに侍るようになった妖童たちを中心とする、細作集団のためであるらしい。
それまで尽くしてくれた紅霞を捨てるほどに、彼らは有能ということか。
紅霞としては、袁譚よりわずかに示される、か細いお情けに縋るようにして、陣に留まっているのであるが、本人も自覚しているように、袁譚の寵は、もう戻ってこない。
だからこそどんな怒りも、水のように受け流してしまう陳到にばかり、当たるのだ。
陳到のほうも、紅霞の胸のうちは察していたし、以前の活躍もよく知っていたから、若君は、いささか冷たいのではないかと、同情していた。
ご機嫌をとるために、高価な香油を買ったのも、単なる処世術だけではなかったのだ。

「おまえにしては、ずいぶんと値の張ったものを買ってきたではないか」
紅霞は、香油を渡すと、とりあえず、怒鳴り散らすことはしなかった。
紅霞が、数日振りに見せた笑顔に、陳到もホッとする。
紅霞は強面の美女である。
袁譚自身は、力のない顎をした、鎧装束がまったく似合わない青年だ。
自分にない物を求めるのか、選ぶ女は、いつもとびきりの、健康的な美女ばかりで、紅霞も、その例に漏れない。
手足はすらりと長く、無駄な肉はひとつもなく、それでいて、出るべきところはしっかりと出て、男の目を奪う。清楚な銀兎とは正反対の容姿の、華やかな女だ。とはいえ、流行を追いすぎるところがあり、派手な容姿と派手な衣裳が相殺してしまい、いまひとつ垢抜けない。

「これで、若君のお心を悩ます、不届きな劉備の家臣、趙子龍の首を取ってきてくれれば、言うことはないのだがな、寒蝉、まだ首は取れぬか」
「は、あやつめ、こちらを警戒しているのか、常に人ごみのなかにおりまして、なかなか一人になりませぬ」
ここで、紅霞が、それみたことかと怒鳴ってくる危険をおぼえ、構えた陳到であるが、香油の贈り物が利いたのか、紅霞は、あっさりと言った。
「今日の日没まで、期待しておるぞ」
「おや、なにかよきことでもございましたか」
陳到が尋ねると、紅霞は、切れ長の瞳をちろりと動かしたが、怒鳴ってくることはなかった。
「よきことではない。寒蝉よ、わたしは、今宵、若君の催される宴に侍ることとなった」
「それはおめでとうございまする」
嫌味でもなんでもなく、陳到は単純に、袁譚の心が、ふたたび紅霞に戻ろうとしているのだと思い、祝辞を述べた。
しかし、紅霞の顔は晴れず、椅子に斜めにもたれたまま、彼方を見遣ってため息をつく。
「宴までに、趙子龍とやらの首を取ってまいれ。若君は、以前は劉備に心服していたようであるが、最近は、やつめが、若君の武将らに、平然とわが家臣になれ、などと、声をかけていることに気づき、たいそうお腹立ちだ。
劉備の動きは、逐一若君に報せていたが、若君のご心痛は深く、もう我慢できぬとおっしゃっておる。
そこでだ。若君より直々のご命令ぞ。劉備の手勢を増やさんと画策している男、趙子龍の首を、不届き者を討ち取ったりとして、宴の際に、ほかならぬ劉備の前に差し出してみせるのだ。今宵の宴には、劉備も出席する」
香油を手のひらで弄びつつ、紅霞は陳到を見ずに、淡々と言う。
こういう、感情の起伏がなくなっているときの紅霞というのは、逆に、内面にはげしい葛藤があるときなのである。
「なんと、若君のご発想とも思えぬ。残虐にすぎませぬか。劉備のいらざる恨みも買いましょう。あの男には、張飛と関羽という、天下無双の豪傑がおります。もしかしたら、その場で二人が暴れだし、若君に害を為すやもしれませぬ」
「わたしがそれに気づかぬとでも? 若君にはちゃんとそう申し上げた。文醜い、顔良、両将軍亡きあと、武において頼りになる将軍は、いなくなってしまった。
お二方を討った、ほかならぬ関羽が、わが陣営にいるのであるから、ここは私情を捨て、劉備を刺激せず、うまく利用することを考えるべきで、趙子龍は、秘密裏に殺してしまえばよい、と」
「同感ですな。で、若君はなんと?」
「若君ではない。若君のもとに侍っている童どもめが、伝令だと言って伝えてきたのだ。若君は、劉備のような勝手な男は許せぬとお怒りなのだ、われら細作は、余計なことを考えず、ただそのご意向に沿って動けばよい、と。
こうとも言った。文将軍、顔将軍とも、あまたいる将軍のなかの一人にすぎず、その二人が戦死したといって、客将に頼るなど愚かしいと。代わりはまだまだ沢山いるゆえ、劉備なぞに気を遣う必要はないのだ、とな」

その言葉を聞いて、陳到の中に強烈な反発が生まれた。
文醜、顔良、どちらも突出した将軍であった。 いささか知恵が足りなかったかもしれないが、愚かに過ぎたとか、特別に欲が深かったので計略に引っかかった、というわけではない。
ふたりの武将をもっと大切にして、ちゃんと補佐のできる文官がついていたら、曹操の計略に、これほど見事に嵌まって、命を落とすことはなかったはずだ。
袁紹軍のなかでも二本柱であった将軍を二人も失って、なおも、影響はなにもないと言うのか。
それは、仕える家臣にとっては、なんと虚しい言葉だろう。

「寒蝉」
名を呼ばれ、陳到は我にかえって顔を上げるが、そのときはじめて、自分が拳をつよく握っていることに気づいた。
「あらためて問う。おまえは、だれに忠誠を捧げるか」
「もちろん、紅霞さまと若君に忠誠を」
「なれば、わかっておろうな。必ず、趙子龍の首を取ってこなくてはならぬ。これを」
と、紅霞は、陳到に、一振りの短刀を見せた。鞘からすらりと抜くと、白銀のなかに、なにやら液体の沁みこまされた跡が見える。
「毒、でございますか」
「おまえの腕は信じておる。だが、必ず仕留めてまいれという、若君たってのお言葉なのだ。おまえの信条に反するかもしれぬが」
「信条など」
物憂そうに言う紅霞のことばに、陳到はかえって驚いた。
紅霞との付き合いは、それこそ、陳到が細作として働くようになって以来で、腐れ縁のように妙に長いが、互いに胸襟を開いて、あらためて語り合ったことなどない。
紅霞は、一方的に命令するか、あるいは当たってくるばかりであったし、陳到は、紅霞の心を予測して、命令をこなす、あるいは八つ当たりをうまく避けることに専念する、そんなことの繰り返しであった。
だから、紅霞が、寒蝉という細作のことを理解していたということに、思わず感動する。 腐れ縁であるからこそ、知らぬ間に、この女との間に、友情めいた絆が出来上がっていた、ということか。

そんな陳到をよそに、紅霞は、かたわらの鳥篭の雀を愛でつつ、言った。
「若君は変わってしまわれた。以前は、たとえ細作にであろうと、闇討ちをせよなどと、あからさまにおっしゃる方ではなかった。名門袁家は、天下に恥じぬ道を行くのだと、いつも誇らしげにおっしゃっておられたのに」
「僭越ながら、若君の、お世継ぎとしてのお立場が、悪くなっているのでは?」
「かもしれぬ」
答えて、紅霞は、自嘲の笑みを漏らした。
「情けないことよ。以前は、若君のお心は、おのれのことのように感じ取れることができたのに、いまは靄がかかったように、なにも察することができなくなってしまった。 こうして、心というものは虚しく離れていくものなのか。それでも、わたしは、若君に忠誠を誓ったのだ。命じられたことは、守らねばならぬ」
「若君のお立場を強くするために、劉備を敵に回す、ということでございましょうか」
「味方につけるならばともかく、敵に回してもかまわぬということは、おそらくは、主公もまた、劉備に対し、当初とはちがい、疑いを持ち始めている、ということなのだろう。父君に、劉備が将兵を盗もうとしていることを訴えて、歓心を買おうとしてらっしゃるのだ。
曹操はたった2万。じきにその勢力は費える。であるから、若君は、世継ぎ問題がじきに発生するであろうことを考えて、動こうとしてらっしゃるのだ。主公は末の若君を、深くご寵愛されているからな」
「若君もご苦労なさいますな」
「まったくだ。しかし矛盾したことだ。客将として関羽が留まることは見逃しているのに、手勢より兵を募ることは許せぬとは」
「矛盾ではございませぬ。おそらく、主公のお考えでは、将兵は財産。財産が増えるのはよいが、減らされるのは許せぬ、ということなのではないでしょうか」

ふと、紅霞が、視線を陳到に戻し、面白そうに言う。
「寒蝉、おまえも変わったな」
「なにがでございましょう」
「おまえは、くだらぬことはぺらぺらとよくしゃべるのに、本音は決して口にしない男であった。おまえが本音を吐露するのは、初めてだな」
「寒蝉は、常に正直者でございます」
「細作がなにを言うか。まあよい、おまえの変化は、あとでゆっくり聞くとして、いまは趙子龍の首ぞ。嫌な仕事とは思うが、若君のご意向。しっかり勤めてまいれ」
紅霞が、陳到を気遣うなどというのは、はじめてのことであった。
自分が代わったのではなく、紅霞が変わったのではないかと陳到は思いつつ、毒の塗りこめた短刀を受け取ると、懐にしまい、必ず首を取ってまいります、と約束し、ふたたび幕屋を出た。
もうこうなったらば、なんとしても趙雲の首を取らねばならぬ。



「待て、確認したいのであるが」
「なんでございますかな、軍師」
話の腰を折られた陳到は、迷惑そうな顔をして、孔明のほうを見る。
「興に乗っているところをすまないな。確認をさせてほしいのだが、おまえの上役というのは、女人であったのか?」
「左様でございますが。おや、わたしはそのように説明しませんでしたかな」
ハテ、と陳到は首をひねる。
孔明の片手には、陳到の焼いた餅があるが、ほとんど口にしていないので、固くなりつつあった。
ぱちぱちと火花の散る音が夜闇に、ちいさな主張をしている。
「おまえの上役の紅霞という女人は、若君の寵がなくなることを恐れていたのだな。若君というのは」
「袁紹の長子の袁譚でございます」
「袁譚と紅霞が疎遠になったきっかけが、『北からやって来た薄気味悪い妖童ら』、ということであったな。それは、もとは公孫瓚のもとで働いていた者たち、つまり、『壷中』の前身の組織の者たちなのだろうか」
「いまにして思えばでございますが、わたくしは、それで繋がると思っておりました。わたくしが言うのもおかしなことかもしれませぬが、なんとも人らしくない、冷酷な連中でしてな。細作とは非情なものではございますが、一方で、仲間意識は強いものでございます。
連中は、いわば普通の細作のありようとは真逆。仲間同士で人質をとるのでございますよ。
壷中と同じ手法ですな。いくつかの班に分かれておりまして、ある者に役目を与える。その者にとって親しい者を、班長が人質にとるのです。
ですから、任務を負った者は必死になって働きます。仲間にすら気を許せぬなかでの仕事ですから、命を落とす者も絶えませんでした。もし役目をまっとうできなければ、人質は容赦なく殺される。
そして、他の者に使命が行くわけですが、彼らは前任者の無残な失敗を目の当たりにしておりますゆえ、さらに必死に働き、ときには、不可能を可能に変えてしまうことすらございました。
とはいえ、いけない子供が色を武器に媚びるさまを見るのは、気持ちのよいものではありませぬ。嫌な話でございますな」
「そこだ。昔から、彼らは色を武器に使っていたのだろうか。袁紹のもとに属していたときからか?」
「すくなくとも、彼らが、若君のご寵愛を独り占めするようなってからは、ずっとそうでございましたよ。なにか気にかかる点でも」
「うむ…合点がいかぬな」
そうつぶやきながら、手にしていた餅を、食欲もないのに、うわの空のまま、なんとなく口に運ぶ孔明であるが、餅は固くなっており、咽喉に詰まった。
むせる孔明に、陳到は立ち上がると言った。
「いけませぬな。曹操の大軍を前に、軍師が餅を咽喉に詰まらせて死んだ、となったら天下の笑いもの。水を持ってまいりますゆえ、しばしお待ちください」
咳き込みながら、孔明は頷いた。


そうしてひとり残され、燃える炎のゆらめきを見つめながら、孔明は考える。
合わない。
『壷中』は、荊州を守るというお題目のもと、子供たちに閨房術や殺人術を教え込み、細作として、あるいは刺客として育てていた組織である。
それは、公孫瓚の配下であった播天流が、公孫瓚滅亡後、袁紹から劉表に鞍替えし、最終的に劉表のもとで作り上げたものだと、孔明はそれまで思っていた。
だが、播天流は、劉備よりも先に荊州に落ち着き、劉表のもとで『壷中』を作ったのだ。 陳到たちと播天流(と、その直属の子供たち)は、袁紹の元では出会うはずがない。三年ものずれが生じるからだ。
とすると、袁譚のそばに侍っていた『妖童たち』というのは、別な組織、ということだろうか。
それにしては、陳到が指摘したとおり、『壷中』に似すぎている。
播天流が袁紹の元で、同じような仕事をして、そのあと、組織だけを残して、劉表のもとへ行ったのだろうか。
もうひとつ、孔明には気になることがあった。
播天流によって育てられた子供たち。 公孫瓚の白馬義従として育成された趙雲と、『壷中』の名うての刺客として育てられた胡偉度。
同じ播天流が育てたはずの、この二人の育成方法に、あまりに差がありすぎる、ということである。
当初は、それぞれの勢力下の環境の差、あるいは播天流の十数年におよぶ流転ののちの変化だと思っていた。
だが、播天流は、すくなくとも趙雲や朱季南ら白馬義従の少年たちは、武将として立派に育てあげた。
趙雲は現在は将軍であるし、白馬義従の同僚である朱季南は、曹操治下の許都で役人をつとめている。
趙雲だけが特別だったのではない。すくなくとも、白馬義従は、まともな軍隊であった。
一方の『壷中』はどうか。
これは、ひたすら闇へ、闇へと引っ込んでいく組織である。
そこに属した子供たちは、みな屈折して、表に立つことを厭う。それは、刺客として育てられたから、というだけではなく、欲のはけ口として利用されたという、屈辱的な過去を消すことができないからでもあるのだ。
貞潔といっていいほどの趙雲や、朱季南とは、あまりに違いすぎる。

孔明は、播天流と対峙したが、あの男は、人を屈服させる手段としては、欲望という物をうまく使っていたが、自身がそれに手を染めることはなかった。
逆にそれが、趙雲とも共通する、潔癖さをつよく感じさせるのだ。
すくなくとも、あの男のもともとの発想として、子供たちに房事をつとめさせるというものはなかったのではないか。

すべては終わったはずなのに、なにかがすっきりしない。

はっきりとした証拠はないのだが、勘、あるいは霊感が、なにかがおかしいと囁きかけてくる。
わたしは、すべてのことの起こりを、播天流という狂人から発せられたものとして考えた。
本当に、それで正しかったのか。
確かめようにも、一番の証人になってくれそうな偉度は夏口であるし、嫦娥も行方が知れない。

気のせいだといい。終わったのだと思いたい。


足音が近づいてきた。陳到が水を持って帰ってきたのかな、と顔を上げれば、そうではない。
孔明は、あきれて、さすがに声を尖らせた。
「怪我人だろう。わたしは、休んでいろと言わなかったか」
腰を浮かせかけた孔明をいなすように、趙雲は手で制した。
その足取りが、以前のように颯爽としたものではなく、どこか引きずっているのが、怪我が癒えていない証拠である。
「厠のついでに様子を見に来ただけだ。先刻までちゃんと眠っていたとも」
「ならば、すぐに部屋に戻り、眠るがいい。いくら重症ではないとはいえ、休みを取らねば治るものも治らぬぞ。それともなにか、添い寝が必要か」
「薄気味悪いことを言うな。それより、一人なのか? 無用心だろう」
「叔至と一緒だよ」
ほら、と孔明は、食いさしの陳家特製の餅(趙雲の部隊では、『叔至のエサ』と呼ばれている)を見せた。
「頭が変に冴えて眠れないので、叔至の昔話を聞いていたのだ。なかなか面白い」
それを言うと、趙雲は、ああ、と暗い声で相槌を打つ。
「またノロケ話か。曹操と袁紹が、官渡でぶつかった時の話だろう。とんでもなく長いぞ」
「そうなのか? わたしとしては、七年前のあなたの様子や、主公のことがわかって興味深い。それに、叔至は、ほんとうに女房殿を大切にしているのだな。会ったことはないが、きっと銀兎という名前どおりの、うつくしい方なのだろうね」
孔明が言うと、趙雲は怪訝そうに眉をしかめた。
「銀兎…? そんな名だったかな」
「そうだよ。たしか以前にも、女房殿の名は銀兎だと言っていた。面識のあるあなたが、なぜ知らないのだ? むかし舞姫だったという」
そこまで言って、趙雲は、なにか合点がいったらしく、うなずいた。
「むかしは違う名前だったからな。すまん。俺の勘違いだ」
銀兎は芸名か。そうか、叔至は、昔の名前で女房殿を呼んでいるのだな、と孔明は納得した。
「むかし歌妓だったのだ」
「そうだってね」
「懐かしいな。思えば、あのときの空気は、いまと似ているかもしれない」
「叔至も同じことを言っていたよ」
孔明が言うと、趙雲はそうかもな、と笑った。 ふと、孔明は、立ったままの趙雲に尋ねた。
「すこし尋ねてよいかな。眠りのさまたげになるかもしれぬが」
「なんだ」
「すまないな。播天流についてだが」
その名が出ると、とたんに、趙雲の顔は戦士のそれに戻る。まるで自分が射すくめられたように思い、孔明は緊張しつつ、つづけた。
「公孫瓚のところにいたとき、やつは、白馬義従やほかの集めた少年たちに、壷中の子供たちのような真似をさせたことがあるか、あるいは、そういう噂がたったことはないのだろうか」
そう聞くと、趙雲も、うむ、と頷いて、腕を組んだ。
「それが無いのだ。やはり、おまえもおかしいと思っていたのか。単に、年月がヤツを変えただけなのかと思っていたが」
「唐突に変わったというわけでもないと思う。偉度がいれば、村での様子をもっと詳しく聞けるのだがな。あれは義陽だし」
「しかし、思い込みが激しい男であったから、一度だけ、本意ではなく、子供に断袖の真似事をさせて敵を籠絡させる手段をとったのが、思いのほかうまくいったので、以来、その手法に頼ることになったのかもしれぬ」
「ああ、そういう可能性もあるわけだな。たしかに、一つが上手く行くと、全部が上手くいくと、根拠もなく思い込むようなところがある男だった」
「なぜだ。叔至の話に気になる点でも?」
趙雲が、詰問する様子ではなく、むしろ、気遣うように優しい口調であったので、孔明は笑みをこぼしつつ、頭を振った。
「いいや、わたしの思い過ごしだろう。引き止めてすまなかった。ゆっくり休んでくれ」
孔明が言うと、趙雲はすこし拍子抜けしたような顔をしたが、素直に、ふたたび眠るために、自分の部屋に戻っていった。

ほどなく、陳到が水差しとともに戻ってきて、昔話は再開される。

四回目につづく
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