七夕フェスタ リクエスト企画 第五弾 結城さまからのリクエスト

寒蝉の恋

リニューアル版 ニ回目

その男は、姓を陳、名を到、字を叔至という、平凡きわまりない容姿をした、これといった特長がないことが特長の、二十六になる男であった。
汝南郡のかれの家には、兄弟と両親と、そのまた両親があつまって暮らしており、それがまた、どいつもこいつも似たように特長がない。
だから、よその人間は、陳家は、だれがだれだか、さっぱりわからぬ、辛うじて近くに寄れば、ようやく黒子の位置で区別がつくわい、とまで、言うのであった。

次男坊である彼は、成人し、由緒正しき地元の大貴族・袁氏に仕えることとなった。
が、ここで、平凡きわまりない容姿に見合わぬ、煌星のごとき才能を見出され、重宝されることとなり、そこから数奇な人生がはじまるのである。

それはさておき、かれはいま、暗い夜道をひたひたと歩いている。
ひとりではない。
ちかくに義勇軍やら雑兵やらの陣があるので、賭けに興じたり、酒宴をしたりと、ほうぼうで賑やかで、そんなかれらを目当てに、行商人たちが店を出し、そうして、さらに軍の移動に、ついてまわっている娼妓たちが、稼ぎ時、とばかり、陣のそばに、さらに自分たちも幕屋を張って、急ごしらえの妓楼をつくり、兵卒たちに声をかけている。
そうした雑多な中にあり、目の前を行く男は、なににも見向きもせず、悠然と真っ直ぐ歩く。
歩幅が大きいので(足の長い証左だ)、さほど急いでいるふうでもないのだが、なかなかの早足である。
夜の喧騒に見向きもしないその様は、潔癖というよりは、気取っているように見える。
その広い肩幅と、八尺はある上背、そして自信に満ちた足取り、さらに加えて、全身から『よさげな男』の風を吹かせているため、娼妓たちが熱心に声をかけていくのだが、男はまったく無視している。
陳到はというと、やはり同じように……いや、むしろ、男より立派な身なりをして同じようにあるいている(つもり)なのに、女たちには、まったく無視をされている。
これで振り返って、あの男が、顔もよい男であったなら、許せぬな、と陳到は思った。

陳到という男は、人の輪の中にいても、話が盛り上がっているさなかに、仲間のひとりに、ふと真顔で「あ、おまえ、いたのか。もしかして、最初から?」と言われがちな、とかく影の薄い男であった。
しかも、名前の印象も、ありきたりで、さらに印象の薄さを手伝うものだから、戦で頑張っても、褒賞から漏れそうになることが、たびたびであった(それを回避するため、陳到は人との交渉がうまくなった。人間万事塞翁が馬である)。
そうしてようやく目を掛けられたと思えば、その役目は…いやいや、愚痴は言うまい。集中だ。

陳到の前を行く男の名前は、趙子龍という。



「寒蝉(かんぜん)よ」
陳到は上役に呼び出された。
陳到は、ただの兵卒ではない。
袁紹の陣において、細作を影で束ねる長であった。
もともとは、ごくごく平凡な兵卒であったのだが、彼の容姿の、あまりの特長の無さと、それに見合わぬ、綺羅星の如く光る武芸の才を見込まれて、大抜擢されたのである。
たしかに、陳到の存在感の薄さは、どこに潜入するにも便利であったから、実入りの抜群によい天職につけた、と喜ぶべきであろう。
以前は、対曹操の対策として、許都や洛陽に派遣されていたのだが、最近の彼の仕事は、陣の中の不穏分子を見つけ出し、秘密裏に始末することである。
寒蝉とは、一般的に『蜩(ひぐらし)』を称することばであるが、陳到がそう呼ばれたのは、寒蝉には、『鳴かない蝉』という意味もあったからだ。
細作として、まさにぴったりな裏の名前である。
本人も、陳到という平凡な姓名より、こちらの名のほうが気に入っていた。
さて、寒蝉は、上役に呼びつけられ、こんな命令をうけた。
「寒蝉よ」
緊張した声である。
この場合、『寒蝉』である陳到に対して、恐怖や畏敬の念を、声の主がもっているからではない。
「わたしが先日命じたことを覚えておるか」 「それは勿論。忘れもいたしませぬ」
「そうか? わたしは親切ゆえ、復唱してくれよう。 このところ、わが君と若君のご厚意をよいことに、劉備のやつめが、わが陣営の兵に、われらの将兵にならぬかと、声をかけているらしい。
あれは、ろくなこともしていないのに、義侠の徒として名ばかりは高いから、一緒にひと旗あげようかと考える愚か者も、嘆かわしいことに、わが陣にはいるようなのだ。
最近、北のほうから、かつて公孫瓚のもとで働いていた、とかいう男がやってきて、わが陣を勝手にうろつきまわり、われらと共に来ないかと、不埒にも堂々と声をかけているようなのだ。これを捨て置くわけにはいかぬ。
とはいえ、わが君も若君も、劉備をなぜだか好いておられるから、お二方に気づかれぬよう、この動きを封じろ。お二方に気づかれぬのであれば、多少は荒っぽい手段をとってもかまわぬ」
「そうそう、それそれ。さすが、大層な記憶力でいらっしゃいますな」
その様子が気に食わなかったのか、派手な怒鳴り声と共に、座のそばに置かれていた、文庫の中身やら竹簡、あるいは短刀までがいっせいに投げられる。
それをひょいと軽く避けつつも、陳到はへへえ、とますます平伏する。
上役の飼っている雀が、主人の勢いに、鳥籠のなかで、ばたばたと暴れた。
「貴様はわたしを馬鹿にしておるのか!」
「とんでもございませぬ!」
「いいや、おまえのすべてがわたしを莫迦にしておる! おまえは、細作の長でであったこのわたしが、このように閑職に追いやられたあおりを食らって、自分も閑職にいることで、わたしを恨んでいるのであろう! 劉備の動きを封じろといって、二日も経っておるのだぞ! なぜに報告が無いのだ!」
「申し訳ございませぬ。これが、予想外に動きが読めぬ男でございまして」
「言い訳は無用!」
と、しまいには、片手でしっかりと握っていた金杯を投げようとするが、高価なもので、しかも想い人からの贈り物だということを咄嗟に思い出し、上役は手をひっこめて、決まり悪そうに、浮かせていた腰を、獣の皮に覆われた座に落ち着ける。
そうして、いまだバタバタと、羽ばたきをやめない雀にむかって、嘆くのであった。
「欣欣や、もしわたしが仙人であったなら、この男を、本物の寒蝉に変えて、おまえに食べさせてしまうのに」
さて、雀は蝉を食ったかな、と思いつつ、陳到は黙って頭を下げていた。
「寒蝉よ、この話は、いまや我らが同胞はみな知っておる」
「と、申されますと」
「細作たちの間では、『寒蝉』が、浪人風情に煙に巻かれて、とぼとぼと陣をうろついている、あいつはまだ若いのに、もう駄目だと、噂になっている、ということだ!」
荒々しく言うと、上役ははげしく鼻を鳴らす。
陳到は、あまり自尊心の強くない性格であったから、だれに笑われようと、さいですか、と流すことができたが、上役が、冬眠から覚めたばかりの腹をすかせた熊のように、いらいらしているのは、気の毒に思えた。
「わたしが閑職に回されたのは、あなた様の所為ではございますまい」
「半端な優しさを見せるな!」
と、上役は、幕屋の幕がびりびりと震えるほどの声を張り上げた。
「わたしは、おまえごときに同情されるほど、落ちぶれてはおらぬぞ!」
「左様でございましょうとも、かつては袁紹軍の細作のほとんどを仕切っていらした貴方様と、成り行き上、なんとなく細作を勤めておりますわたくしとは、格がちがいます」
「それが、余計だというのだ!」
上役は苛立って、ぶん、と空中を殴る素振りをした。
上役が動くたび、その纏う絹が、さらさらと心地よい音をさせる。
これでもかというくらいに、頭のてっぺんから靴のつま先まで、流行に染まった格好だ。残念ながら、似合ってはいない。
さあて、これは、またまた若君に相手にされなかったのだな、と陳到は見当をつけたが、それを口にだしたらおしまい、ということは理解していたので、黙っていた。

上役はぶつぶつと愚痴をつぶやく。
「なんという不運だろう。単に同じ陳姓というだけで、たった二人、こんな愚図と組まされて、劉備の動きを探れたなんて、まさに閑職。左遷もいいところではないか。
ほかの細作たちは、みな曹操のもとへ向かって、高い報酬を得ているというのに。北からやってきたよそ者の細作たちが大量に流れてきてから、よいことがまったくない!」
「若君が、それがしのことを口にしておられたので?」
「まあな。どうせ、若君のまわりに侍っている、あの薄気味悪い妖童らが吹き込んだにちがいない。わたしと若君を引き離し、その座を奪おうというのだよ。忌々しい!」
「劉備のもとにやってきました浪人は、必ず、今日の陽が落ちるまで、その首を跳ねて参ります」
上役はぴくりとひきつり、眉根を片方だけ、器用に吊り上げた。
「その浪人」
「趙子龍と」
「趙子龍とかいう浪人、どれほどの男か、判っておるのか」
はい、と陳到が素直に頷くと、めまいを覚えたのか、上役はため息をつきつつ、眉の上にあるツボをぐりぐりと揉みながら言った。
「で、趙子龍の経歴を述べてみよ」
「常山真定の武門の家に生を受けた男でございまして、地元では父親似の槍の名手として、少年ながら名を馳せていたそうで、当初は、袁紹軍に義勇兵として参加しておりましたが、途中で逃げ出しまして、公孫瓚に仕えた、という敬意を持つ変節漢でございます。公孫瓚の元で、白馬義従として仕えていたとかで、騎馬戦にはめっぽう強いとか」
「寒蝉よ」
ふうっと大きな息を吐き、しばし沈黙した。おや、なにかおかしなことを言ったか、と陳到が戸惑っていると、上役は、切れ長の目を強くして、さきほどの倍ほどの金切り声で怒鳴った。
幕屋全体がびりびりと震える。
「たわけ! 貴様は、そこまで調べておきながら、今日までなにも手出しをしていなかったと言うのか! 間抜け!」
耳鳴りを堪えつつ、陳到は、ひたすら我慢の子で、耐えた。上役のこれは、発作、あるいは嵐のようなものだ。通り過ぎるのをひたすら待つのみ。

「聞いておるのか! 薄ぼんやり!」
「しかとこの耳で聞いております。趙子龍は、かならずや討ってまいります」
と、陳到が真面目な顔をして上役を見ると、上役は、すこし気圧されたようになったが、しかし、それも一瞬のことで、だめだ、というふうに首を振った。
「おまえは、見た目以上に実力があるくせに、呆れるほどに人が好い。本来ならば、細作も、武官すらも向いてはおらぬのだ。故郷へ帰って、畑でもゆっくり耕せ」
「そうしたいのは、やまやまでございますが」
実家は、長男夫婦と弟たちの家族が食べていくのがやっとのありさまで、兄弟たちのなかでは、辛うじて出世しているという状態の陳到が、いまさら帰れる場所ではなかった。
「寒蝉よ、これは冗談でもなく、本当の話だ。おそらくわたしは若君に疎まれておる。劉備の動きを押さえられないようであれば、消されるであろう。それは、おまえも同じことだぞ」
「一大事にございますな」
「他人事のように軽く言うな。わかっておるのか、まったく」
「わかっております。わかっておりますゆえ、いますぐにでも、行って趙子龍を討ち、劉備を牽制いたします」
「む、その言、信じてよいのであろうな」
「勿論でございます。この寒蝉が、貴方様を裏切ったことがいままでにございましたか?」
「いつもだ!」
「見解の相違でございますな」
「ええい、ここでくらだぬ言葉遊びをしていても、何も変わらぬ。必ず討つというのなら、死ぬ気でゆけ! そして、己の名誉を己の手で回復させるがよい! いけ、寒蝉!」
はは、と平伏し、上役の幕屋を出た陳到であるが、雀の欣欣が、その背中を応援するように、ちゅんちゅんと鳴いた。



劉備という男、陳到は、嫌いではない。
評判はすこぶるよく、袁紹をはじめとして、この陣内において、劉備のことが嫌いだ、という者に、会ったことがない。
目立つ大きな耳に、七尺五寸の背丈。手足が長く、際立って目立つのは、背丈のわりに、胴が短く、顔がちいさいからだ。
愛嬌のある顔をして、いつも楽しそうにしている。
なにをするでもない。ただ座って、ニコニコとしているだけなのに、周囲を明るくさせる。そういう不思議な男であった。
事前に調べたところによれば、劉備のところに最近やってきた、公孫瓚のところに仕えていたという経歴の浪人は、自分と同じくらいの年であるらしい。
公孫瓚の、音に聞こえた白馬義従のひとりであった、というのだから、実力はあるのだろう(とはいえ、北のド田舎の軍隊の話だが、と陳到は、そっと付け足してみる)。
本当は、もっと劉備の側に近づいて、どれだけの人間が、兵卒を集めるために動いているのかを調べたかったのであるが、劉備のとなりには、いつも短気なことで有名な豪傑張飛と、気むずかしいことで有名(曹操の仕官の誘いを断ったことでも有名)な関羽のどちらかがいて、近寄ることができない。
そこで、元公孫瓚の白馬義従、趙子龍に近づくことにしたのであるが、この男、妙に殺気だっているというか、近寄りがたい雰囲気がある。
そのため、上役を苛立たせるほど長い間、実は陳到は、一定距離を保ったまま、趙子龍に近づくことができないでいた。
趙子龍は、早朝に劉備たちのいる陣から出てくるや、噂どおり、あらゆるところに顔をだし、これと見た将兵に声をかけている。
そして、俺は、劉左将軍に仕えているのだが、おまえも一緒に来ないかと、飾り気のないことばで、ずばり誘っている。
わが君を裏切れるわけなかろうと、怒って追い出されるときもあれば、ふむ、おもしろそうだな、あんまりその気はないが、話だけ聞こう、という者と話し込んだり、あるいは突然、ひとりになって、なにもせずに人の流れをながめていたりして、一日を過ごしている。
陳到の目からすれば、男の交渉の仕方は、あまりに直截的で、まるでなっていない。
目立ちすぎる。噂になって当然だ。それに、言葉の選び方がヘタクソ。
事実、運動量に反して、反応のほうは、芳しくないようであった。

そしていま、今日の成果を報告するために劉備の元へ帰るのだろう。
男は、いかにも騎馬を得意とする将兵らしく、しゃんと背筋を伸ばして、堂々と夜をゆく。

陳到が、そのあとを、兎のように足音をしのばせて、てってけと付いていくと、ちょうど劉備の陣営では、旅芸人の一座が招かれて、やんやと盛り上がっている最中であった。
まったく、客将のくせして、たいしたくつろぎぶりではないか、と陳到は呆れつつ、存在感の薄さを発揮して、大いに盛り上がっている陣の中に、こっそりと紛れ込む。
呆れたことに、盛り上がっている面々の中には、袁紹の側近といってもいい、身分高い者まで紛れ込んでいた。
そのほかにも、知っている顔がそこかしこにある。
あの男の地道な成果か、それとも、劉備の存在に、強烈な吸引力がある、と見るべきか。
満座の中心に劉備はいて、旅芸人の披露する、滑稽な踊りに大喜びで、手を打って調子を合わせている。
なにやら、動物を模した格好をした芸人たちが、当世の風刺を披露する踊りを、見せているのである。
劉備の傍らに、さきほど、陳到の前を歩いていた男が、寄っていく。
そうだと知れたのは、鎖帷子の形、それから非の打ち所のない均整のとれた体つきからだ。
天才は天才を知る、とでもいおうか。
朝、その男の体つきを遠方から見ただけで、陳到は、その男がただ者ではないということに気づいていた。

一同は、車座になって旅芸人を迎えており、陳到は、ちょうど劉備の正面にあたる位置に、紛れ込んでいた。
だから、夜更けになって、ようやく、自分が追いかけていた男の顔を、真正面から見ることができた。
眉目秀麗という言葉がぴったりくる、それでいて優男の気配など微塵も感じられない、素直に美しいという言葉が出てくる男であった。
花や蝶の美しさではない。抜き身の剣の、月光に映える姿にも似た、緊張感のある美しさである。
陳到は、自分の容姿が、不細工とはいわないまでも、あまりに特長がない、ということで、損ばかりしてきたから、逆の位置にいる男、すなわち、美丈夫と言われる男が嫌いだ。

さて、どうしてくれよう、と陳到が物騒なことを思いながら、それでも周囲にあわせて作り笑いを浮かべ、手を叩いていると、旅芸人の座長らしい男があらわれて、一同に礼をする。
「さてはて、ご観劇ありがとうございまする。これよりお目にかけまするは、みなさまお待ちかねの、兎の舞。狐に追われて逃げ惑う、かわいい兎の運命やいかに。この舞は、当座いちばん人気の出し物でございますれば、みなさま、ごゆるりとお楽しみくださいませ」

座長が口上を述べて一礼すると、それが合図だったように、コーン、コーンと狐の鳴き声を模した声が響く。
と車座になっていた一同の背後から、大男たちの座っている上を、まさに鳥のように飛び越えて、輪の中に飛び込んできた者がある。
いつもの癖で、得物に手をかけ、腰を浮かせかけた陳到であったが、次の瞬間、頭のなかが、海辺に落ちている貝殻よりも真っ白になった。
輪のなかで、兎の耳の形をした飾りを頭につけた娘が踊っていた。

その愛くるしさに、一瞬で心が奪われてしまったのである。 目はくっきりとまん丸で、色の白さはまさに月の兎のごとし、笑みを浮かべる唇の愛らしいこと、つんと上向きの鼻も愛嬌たっぷりで、そのすべてが陳到の心臓を見事に鷲掴みにした。
それだけではない。ちょっとした所作が、たまらなく可愛らしい。 手首を軽く捻る仕草、首を傾げてみせる動き、すべてが陳到の目に飛び込んでくるようであった。
が、心臓を鷲掴みにされているのは、陳到だけではなかったらしく、ほかの観客たちも、やんやとひときわ大きな拍手を送っている。
やがて、キツネを模した踊り子があらわれて、兎を追いかけようとするのだが、その逃げる仕草も可愛らしい。
陳到は、あんぐり口を開いたまま、ひたすら兎を追っていた。
とはいえ、ときに下品な野次を飛ばす輩がいたら、すかさず背後に忍び寄って、さりげなく、ぽかりと頭を殴るくらいの冷静さは残っていたけれど。
劉備もこの兎には大喜びで、いちばんはしゃいで手を打っている。
兎は、キツネの手を逃れ、ふたたびぴょん、ぴょんと跳ねると、観客の輪を身軽に跳躍して、そのまま去って行ってしまった。
だれかが帰ってこーい、などと冗談めかして叫んだが、まさに陳到も同じように叫びたい気持ちであった。

兎の踊りをしめくくりに、一座の出し物は終わったようだ。
座長が挨拶をし、そのまま場は酒宴になだれ込む。
陳到は、いまだ夢見心地で、ざわつく周囲をふらふらと水母のように漂いながら移動した。
それでも役目を忘れなかったのは偉いところで、視界の端に、例の趙子龍が見えたので、こっそりと背後から近づいていく。
趙子龍は、どうやら、さきほどの座長と話をしている様子だ。
いや、趙子龍だけではなく、もう一人の、かなり酔っ払っている男も一緒である。 まだ甘い陶酔感にひたっていた陳到であったが、男のするどい声に、それも吹き飛ばされた。
「酒が過ぎるぞ、子方殿! 無理なものは無理なのだ。あきらめて男だけで呑め! それでも寂しいというのであれば、娼妓でも呼べばよかろう」
「なぜだ。俺は、この一座の娘たちが気に入ったのだ。普通は、出し物がおわれば、伶人どもは酒席に侍るものだろう。なにをお高くとまっているのだ、金が足りぬのか。なれば、兄上に頼んで、いくらでも用意させるぞ、どうだ」
酒瓶片手に、にやにやと、いやらしい笑みを赤ら顔に浮かべる男も、やはり陳到とそう年の変わらない男だ。相当に酔っているらしく、千鳥足である。
その男が、わかるだろう、というふうに、座長の肩に手をかける。
すると、すっかり困り顔の座長であるが、それでも、きっぱり言った。
「そうは申されましても、わが一座の娘たちは、踊りのほかに能のない田舎娘。娼妓とは違います。しつけもなっておりませぬし、とても酒の相手はつとまりますまい。如何でしょう、わたくしからも、ご縁ということで金子を出させていただきますゆえ、娼妓を呼んでくる、というのは」
その言葉に、子方と呼ばれた酔っ払いは、があっと虎のように口を開けて噛み付いてきた。
「なんと、我らが流浪軍と聞いて、愚弄しておるのか? 我は徐州の糜家の子方さまだぞ。許さぬぞ、貴様!」
「待てと言っているだろう。駄目なものは駄目だ。貴殿が下らぬ真似をすれば、主公の名をも貶めることになるのだぞ」
座長に食いつこうとしていた酔っ払いの牙は、不器用な男の言葉に、方向転換された。
「なんだと、子龍! 新参者の癖して、よくもまあ、ぬけぬけと意見をしてくれるものだな!」
陳到は、趙子龍の不器用な直言に、ほんのすこし好感を持った。
いがみ合う二人の間に、座長が、満面の笑みをたたえて、割って入る。
「まあまあ、お二方。どうぞここは、わたくしの顔に免じてお鎮まりを。せっかくの酒宴でございますれば、わたくしがとびきりの妓女を呼んでまいります。それでどうか、お納めくださいませ」
「ふん、おまえもちだぞ。よいか」
「駄目だ。おい、座長、こいつは徐州一の大金持ちの糜家の次男坊だ。こいつに出させろ。おまえが自腹を切ることはない」
「子龍、おまえは俺の敵か? 味方か?」
「状況による」
無愛想に子龍は答えると、酔っ払いを助けるようにして、酒宴へと戻っていく。

それを見送って、娼妓たちのいるほうへ向かおうとする座長であるが、ふと足をとめ、暗闇の中、陳到のほうに向かって、もう大丈夫、というふうに手を振って見せた。
こちらに振ったわけではあるまい。
奇妙に思って見渡せば、すぐそばにあった天幕の影に、ほかならぬ、さきほどの兎が、ひょっこりと顔を出していた。
とたん、陳到の動悸は激しく揺れた。
兎は、どぎまぎする陳到のほうをちらりと見ると、可愛らしくにっこりと笑った。
篝火に映えるその笑顔は、可憐としか表現がしようのない、花のこぼれるような笑みであった。
「貴方様は、劉予州のお供の方?」
ちがうのだが、ここで、そうではない、といえば、兎は行ってしまう。
勘のよいところでそう判断した陳到は、初めて聞く兎の、すこし鼻にかかった甘い声にうっとりしつつ、嘘をついた。
「そうだ。わたしは劉左将軍にお仕えしておる」
「そうでしたの。やっぱり。ねぇ、さっきの方はご存知?」
「酔っていた方か?」
すると、兎は眉間に皺を寄せた。 しかめた顔も可愛らしい。これは奇跡だ、と陳到は感動した。
「ちがいます、嫌な酔っ払いを追い払ってくださったほう。趙子龍さまとおっしゃるのでしょう? お名前だけは存じております。凛々しいお姿にぴったりのお名前だと思いません?」
思いません、気障です、と答えたかったが、ぐっと我慢して、陳到はあいまいに頷いた。嫌な予感がする。
「どんなお方なの? あの方、あまり酒宴にはお顔を出してくださらないから、滅多にお目にかかれないのですけれど、今日は運が良かったわ。ですから、いつもより上手に踊れた気がするの。ねぇ、教えてくださいな。どんな方?」
ピーンと、脳を針で刺されたような、嫌な予感をおぼえつつ、陳到は律儀に答えた。
「く、口下手」
「おしゃべりな男なんて、男じゃないわ。雀のほうがずっとマシ。ほかには?」
「不器用」
「小ざかしいのも御免だわ。不器用で実直な方なのね。ほかには?」
「いや…特には」
陳到が答えると、兎はがっかりしたらしく、なあんだ、と言った。兎をガッカリさせてしまったかと思うと、陳到もガッカリであった。
「ねえ、貴方様は、子龍さまと親しいの?」
「うむ」
親しくなる予定だ。劉備の動向を探るために。嘘ではない。うむ。
頷くと、兎は、愛らしい顔をぱあっと輝かせて、手をぽんと打った。
「素敵! 今夜のわたしはついているのね! ねぇ、あの方に、わたしの気持ちを伝えてはいただけません?」
「なに、それは、つまり」
「一目見たときから、あの方のことが頭から離れないの。助けると思って。ねぇ、駄目かしら」

陳到は、生まれて初めて、外から突つかれたわけでもないのに、胸が痛むことがある、ということを知った。
いつの間にか針を飲み込んでしまい、兎が夢見心地でしゃべるごとに、意地悪な針めは、ちくちくと心臓をいじめる。そんなふうだ。

「惚れておるのか」
ずばり尋ねると、兎は、娘らしく頬を真っ赤にそめて、両手で押さえた。
「恥ずかしい。ずいぶんはっきりとおっしゃるのね。でも…そうだわ」
なぜだ。相手は客将のさらに下っ端。滅亡した勢力からこぼれ落ちた流れ者ではないか! と、よほど陳到は言いたかったが、兎の幸福そうな、熱っぽい瞳を見ると、そんな気も失せてしまい、やはり胸がちくちくと痛むのであった。
「わたくしの名は、銀兎と申します。明日の夜も、こちらに招かれております。ねえ、座が引けたら、結果を教えてくださいな」
銀兎(ぎんと)。月の兎という意味だ。愛らしくも典雅な名。ぴったりだな、と思いつつ、陳到は、返答しかねていた。
なにせ、『趙子龍』とは一度もことばを交わしていない。
陳到が困っているのを、銀兎はどう見たのか、ああ、と独り合点して言った。
「ごめんなさいね、貴方様のお名前を伺っていなかった。わたしって、いっつも先走ってしまうの。だから、兄さんにも怒られてばっかり。あ、兄さんというのは、座長をしているのだけれど」
妹たちを守るために、あの座長は、酒宴には出せない、と言ったわけか。
普通、こうした太鼓もちたちは、酒宴にも顔を出して、おおいに権力者のご機嫌を取るものだが、おひねりを期待しなくてもやっていける自信がある、ということだろうか。いささか、今後が心配な方針である。
「わたしの名は、陳叔至だ」
ああ、なんだって父上は、『趙子龍』に並ぶくらいの格好よい名前をつけてくださらなかったのかな、と陳到は胸のうちでぼやきつつ、名乗った。せめて『陳子虎』とか、『陳飛龍』とか。
「覚えやすいお名前ね。陳叔至さま。もう覚えられた。忘れないわよ。だから、貴方様も、銀兎との約束を、忘れないでくださいましね」
と、銀兎は篝火に、その白い野菊のように、可愛らしい笑顔を向けてくる。
平凡すぎる名前を、覚えやすいなどといって誉めてくれたのは、銀兎が初めてだったので、これまた陳到の心臓は鷲掴みにされた。
なんと気立てのよい娘なのだろう。
感動した陳到は、ついつい言ってしまった。
「よし、明日の夜には、おまえに色よい返事をかえせるようにいたそう。この叔至に任せておくがよい」
「まあ、なんて頼もしいのでしょう。ではね、叔至さま。明日の夜、きっとよ」
言いながら銀兎は、軽い足音をさせながら去っていく。
どうやら一座の張っている天幕の中で、舞姫たちが首尾を待っていたらしく、夜風にのって、
「うまく行ったわ! よい方がいて、代わりに気持ちを伝えてくださるそうなの!」
と、弾んだ声が聞こえてきた。
同時に、仲間の舞姫たちが、銀兎を祝福したり、からかったりする、にぎやかな声も聞こえてくる。

しかし、それとは対称的に、陳到の心は、これまでになく重くなった。
細作に嘘はつきものではあるが、なんと意味のない嘘をついたことか。
あの男と親しいだと? 明日は色よい返事をかえせるようにする、だと?
どうする?
素朴な問いに、返せる言葉はただひとつ。
無理。 
それである。
銀兎は、あの男が好きだという。
しかし、命令は命令。上役の命令は絶対だ。なにせ、これを外したなら、上役ともども、袁紹軍から追われる身になってしまう。 いや、追われる程度で済めばよい。以前の仲間たちから責められ、いじめ殺される可能性のほうが高い。秘密を知りすぎている細作の末路とは、たいがいがそんなものだ。 銀兎の言葉からするに、まだあの娘と趙子龍は、さほど言葉を交わしていないようである。 若い娘のことだ。言葉を交わして情を深めてしまうより先に、顔見知り程度の今の状態で、恋する相手が居なくなったほうが、傷も小さくて済むのではないか。 どちらにしろ、あの男は、死なねばならない。上役の命令である。従わねば。
「よし、殺るぞ」
陳到は結論を導き出し、そして、趙子龍をさがすべく、劉備の酒宴へと戻って行った。

陳到は、目立たぬよう、劉備の陣をうろうろし、趙子龍の姿を探した。
すると、男ばかりで盛り上がっている酒宴のなかにあり、ひとりだけ、ぽつんと外れて、醒めた目をしている、趙子龍を見つけた。
酔っていないのは面倒だ。己の役目をわかっていて、いつ命を狙われてもおかしく無いように、酒を制限しているのではるまいか、と陳到は思いつつ、ゆっくりと距離を詰めていく。
とたん、どっと座が沸いて、見れば、満座の中央で、張飛が、片肌をぬいて、なにやら奇妙な踊りを踊り始めた。
どうやら、さきほどの銀兎の踊りを真似ているらしい。
兎はもっと愛らしい。あんな虎みたいなのは違う、と悪態をつきつつ、ふたたび趙子龍に目を戻すが、いない。
どうやら、ちょっと目を離した隙に、座を外してしまったようだ。
まさか、こちらのことがばれたのではあるまいな。
足音を忍ばせつつ、急ぎ足で闇を探れば、てくてくと、独りだけで天幕のひとつに帰ろうとする、趙子龍の姿を見つけた。 幸いにも、周囲にはだれもいない。みな、酒宴に顔を出しているか、眠ってしまったかの、どちらかなのだろう。
足を早め、徐々に距離を詰め、趙子龍の背後に近づいていく。
だが、この闇夜のなかにあっても、いや、闇夜の中にあるからなのか、趙子龍の背中には、隙というものがまるでない。
闇討ちは難しい。下手に討ちかかれば、こちらが危うい。
狙われ慣れているのか? 若い癖して、なかなか経験を積んでいるようだ。
陳到の脳裏に、あの夢見心地の、熱っぽい眼差しをしていた、銀兎の顔が浮かんだ。
もし闇討ちをしたとして、そうなれば、あの娘の気持ちは、永遠に宙ぶらりんのままだ。それは哀れというものだろう。
だが、哀れなどといって、いちいち情けを見せていては、細作ではおられない。いやしかし…陳到の脳裏に、銀兎が、趙子龍を語るときの、あの幸福そうな、熱っぽい表情が浮かんだ…恋しい男を、ほかならぬ自分が奪ってしまうのだ。それに、想いを伝えてやるという約束までしてしまったのだ。 非情が求められる細作ではある。 わかっている、わかってはいるが、今宵は特別に、ほんのすこしの情を見せてもかまうまい。
陳到は、そう決めると、すうっと息を吸い込み、そして、わざと足音を立てて趙雲の背後に立つと、気合を込めて、言った。

「好きだ!」

すると、趙子龍は、ぴたりと足を止め、怪訝そうに振り返る。 しかし、その姿には、あいも変わらず寸分の隙もない。
剣呑な横顔を振り向かせてくるが、篝火に映えるその顔は、嫌味なほどに秀麗な輪郭をもっていた。
趙子龍の唇が動く。
「貴様、出自は?」
「汝南だ」
「汝南の人間は、こんばんはと言う代わりに、『好きだ』というのか」
「言わん」
「ならば、なぜそのような気味の悪い言葉を吐く」
「伝えてくれと言われた」
「だれに」
「銀兎という娘だ」
「あいにくと知らぬ」
「だが、伝えたぞ」
いいざま、叔至は剣を抜いた。
趙子龍は、それを見るや眉根を寄せ、全身を振り向かせながら、剣を抜く。
相手が剣を抜き放つ前に、攻撃をする。
陳到は地を蹴ると、跳躍したまま、趙雲の脳天めがけて剣を振り下ろす。

陳到が得意な攻撃方法である。 跳躍力には自信があった。相手が真正面から来ると計算していた敵は、いきなり、助走もなしに飛び上がり、宙から攻撃を繰り出す陳到に対し、対処に迷う。
その一瞬の隙を突いて、剣を振り下ろすのだ。
仕損じても、怪我を負わせることはできる。
そこで動揺させ、すかさず次の攻撃を繰り出す。砂山を削るように、相手の余裕を徐々に削いで行き、最後にとどめ。それが陳到の攻撃方法である。

高い跳躍に、趙子龍がおどろいたのが判る。
間合いがつかめず、たいがいは、ここで対処に迷うのだ。思惑通り。
そうして、ほくそ笑んだ陳到であるが、その笑みも途中で凍りつく。
きらりと光るものが地上から突き出してくる。
とっさに身をかわし、避けたものの、それは、ほかならぬ、趙雲には抜ききれまいと思っていた、剣先であった。
すさまじく早い。行動もそうであるが、判断力も早すぎる。
標的がぶれたために一撃を浴びせるのを断念し、地に下りた陳到に、すかさず、趙雲が真正面から堂々と剣戟を繰り出してくる。 まるで、小細工は止せと、暗に言っているような激しさであった。
それを、やはりすさまじい速さで防ぎながら、陳到は、勢いに圧倒され、ひとつの攻撃も繰り出せない、防戦一方の自分に気付いた。
遠目からでも気づいた、ただ者ではなかろうという判断は、まったくもって正しかったというわけだ。
ぎん、と剣と剣が激しく組み合い、趙雲と陳到は、ちょうど真正面からにらみ合う形となった。
「おまえ、すごいな」
と、趙雲は、真っ直ぐに陳到を見据えたまま、それでも口元には微笑を浮かべて言う。
息もほとんど上がっていない。化け物か。
「名を名乗れ。俺は趙子龍。劉予州の部下だ」
「陳叔至。劉予州は、恩人の陣で、盗人の真似か」
「盗人ではない。独りでも多くの勇士を、正道に立ち返らせているのだ」
「正道だと? 劉勝の子孫とうそぶく、出自の怪しい男の部下になることが、正道か!」
「なれば、天下は袁氏のものとでも? 天の姓は劉なり。どちらが盗人だ!」
「口下手というほどでもないな」
ぎりぎりと刃と刃を擦り合わせるような小競り合いがつづき、やがて、どちらともなく力いっぱい押し合うと、二人はいっせいに後方に飛び退った。
そして、ふたたび剣を構えなおす。
もはや奇襲はきかない。どうするか。
にらみ合っていると、ばたばたと、剣戟の音を聞いて、飛んでくる者がある。劉備の座が、ざわめいているのがわかった。
陳到は舌打ちし、趙子龍に言った。
「次は、首を貰い受ける。次というのは、明日の夜までの時間のいつかだ! ところで、返事は?」
「なんの返事だ?」
「銀兎への!」
ああ、と趙子龍は拍子抜けしたような顔をして、言った。
「そんな女は知らぬ。それに、いまは女にかまけている暇はない」
「冷たい奴だな。嫌いだ」
「そうかい、良かったよ。男に好かれるのはぞっとしない」
「首を洗って待っていろ、冷血漢!」
言い捨てて、陳到は闇の中に去って行った。追っ手はかからなかった。

三回目につづく
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