夏口の夜

※このお話は「飛鏡、天に輝く」を読了された方にお勧めいたしますm(__)m

呼ばれたわけでもなければ、約束をしていたわけでもない。
ただ、気にかかったのだ。
それは評定のときに見せていた、すこし疲れたような表情が気にかかったからかもしれないし、あるいは、新しい戦に出かける直前ということで、心細さがあったからかもしれない。
趙雲がほとんどの者が寝静まった夏口の城の廊下を、音もなく歩いていると、前方に、明かりの漏れている部屋が見つかった。
廊下に佇んでいる宿衛の若者は、疲れてしまっているのか、器用にも立ったまま舟をこいでいる。
咳払いをして起こしてやろうかと一瞬思ったが、やめた。
この自分が来た以上は、しばらく部屋の主である孔明は安全である。
それに、こちらの話し声で、自然と目が覚めるかもしれなかった。
これで宿衛が士卒であったなら趙雲も容赦はしなかったが、そこにいたのは偉度の兄弟の一人である。
昼間は劉gの看病でいそがしい偉度の代わりに、やんちゃ盛りの幼子たちをまとめて頑張っている姿を、趙雲は目撃していた。

趙雲が戸口に立つと、孔明は文机のまえに座り、手紙の類を整理しながら、一方でめずらしく酒を飲んでいた。
出陣前ということで、気がはやって眠れないのかもしれない。
「偉度か」
手紙のひとつを広げて、書面に目を落としたまま、孔明がたずねてくる。
「偉度が訪ねてくる予定でもあったのか」
趙雲が答えると、孔明はおどろいて盃を机の上に置き、顔をあげた。
「すまない、あなたか。いや、偉度が来るのではないかと思っていたのだ。昼間、劉公子のところへ挨拶に行ったのだが、そのとき、あまり話せなかったからな」





劉gの病状は安定している。
それも、伊籍と偉度の献身的な看護のたまものだ。
名目上のことではあるけれど、劉gは父の劉表の後を継ぎ、荊州刺史になった。
劉表は後事を次男の劉jに託そうと考えていたのだから、そうではなく、長男の劉gが荊州刺史に就任したということには、その後ろ盾となっていた劉備政権にも大きな意味がある。
しかし、病身の劉gには、荊州刺史の地位は重圧であることだろう。
それを紛らわせているのは、偉度の存在であった。
偉度は柴桑から帰ると、まっさきに劉gのもとへ戻り、そして、柴桑での冒険をくわしく劉gに語って聞かせた。
偉度の語り口がうまかったので、劉gはよろこび、何度もその話を聞きたがった。
そんな様子を見て、伊籍が、
「偉度のおかげで公子のお顔の色が信じられないくらいよくなった」
と感心するほどであった。

劉gは、孔明からも、直接、外界の様子を聞きたがった。
劉gの寿命が、もう長くないということに気づいている孔明は、出来うる限り、その要請を受けた。
偉度も話し上手ならば、孔明もさらにその上をいく話し上手。
そのうえ、蒼白い頬をして、懸命に周囲に心配させまいと笑みを浮かべている劉gにつよく同情もしていたから、自然とその話にも力が入った。
夏口においての孔明の仕事は、劉gのもとへご機嫌伺いに行くことと、つぎの戦の準備のふたつであったと言っていい。





孔明は、口元に穏やかな笑みを浮かべて、趙雲が部屋に入ってくると、自分の正面に座るようにとすすめてきた。
趙雲はそれに従い、敷物のうえに腰かける。
ちろちろと燭の光がまたたいている。
闇に溶けた城のなかにあって、孔明の執務室だけが明るい。
文机のうえを見れば、何通かの手紙のほか、自分でも書きかけていた手紙が広がっている。
どうやら、孔明は自分で書いた手紙を読み返していたようであった。

「眠れないのか」
孔明が尋ねてきたので、趙雲は素直に答えることにした。
孔明の前で格好をつけても、すぐに見破られてしまう。
それほどに、この軍師はこちらを理解している。
「どうも落ち着かなかったのでな。兵舎では、徹夜で飲んでいるやつらもいたが、仲間に加わる気になれなかった」
「飲んでいるって? また豪気だな。益徳どのだろう」
趙雲は苦笑して答えた。
「聞くな」
当たりであった。
戦の前夜ということで、景気づけにと張飛は部将たちを引き連れて酒をあおっている。
仲間に誘われたが、趙雲は断っていた。
酒を飲んで、この落ち着かなさを紛らわせたい気持ちはあったけれど、騒いではしゃぐ気持ちにはなれなかったためである。
「戦につぐ戦だな。おたがい、落ち着く暇もない。しかし、気を引き締めねばならぬ。こたびの戦は、いままでと比べれば楽なほうだとはいえ、曹操の兵はいまだ残っている。あちこちで小競り合いがつづくだろう。気を抜くと危うい」
「南郡の戦が、ちょうど荊州を北と南に分断したな」

南郡とは、荊州の中央部にある、鳥林からさらに西に進んだ土地である。
南郡の戦、というのは、鳥林での勝利に勢いづいた周瑜が、江陵に立てこもる曹仁の軍とはじめた戦のことで、両者の対立は激しく、細作の報告によれば、両者の力は拮抗して、いつ決着がつくのか、見当もつかないということであった。
曹仁の立てこもる江陵は、荊州南部の主要都市であり、長江のほとりにある、街道筋の大都市である。
交易の要所でもあり、ここを足がかりに、周瑜はさらに西の巴へ入り、益州を狙うつもりであるらしい。
この戦は、しかし、荊州の南北の分断を生んだ。
街道は通行止めとなり、南に取り残された曹操の兵は、主をなくして混乱に陥っている。
そこをついて、残された荊州の四郡を奪おうというのが、このたびの戦の目標である。
四郡とは、武陵、零陵、桂陽、長沙の四つのことだ。
混乱に陥り、増援ものぞめない敵を討つのは、たしかにたやすい。
もともと荊州は劉表の支配下にあった土地で、その長子である劉gを旗頭にあげている劉備は、地元の豪族らの支援を受けやすい状況にあった。
実際、すでに内応の動きも見られている。
孔明の呼びかけもあり、荊州に散り散りになっていた士人たちは、劉備の旗のもと、ひとつに集まりつつあった。

「南部に逃げた知り合いに片っ端から信を送って、曹操に徴兵されていた兵に、劉玄徳は仁徳の人であるから、降伏するならお咎めなしですませると広めてもらっているよ。中原から連れてこられた兵卒ならわからないが、荊州兵ならばこの呼びかけに応えるだろう。
みな曹操に心服して従軍したわけではない。死にたくはないだろうし、うまくいくと思う」
「こういうときに、主公の評判がよいというのは助かるな」
「まったくだ。なるべくなら、悲劇は少ないほうがいい」
と、ここまで言って、孔明はにっ、と子供のように笑った。
「武人ならば、暴れる機会が減るのは困るとかいいそうなものだが、やはりあなたはちがうな。なるべくなら、戦わないほうがいいか」
「当たり前だ。戦うことはたしかに俺たちの仕事だが、あとが困る。抵抗する兵卒を捕まえて、処断するときは、いやな気分だ。なるべくなら、そんな機会はないほうがいい」
「今回は掠奪も厳禁だ。いまから不平の声が上がっているが、あなたのところはどうだ」
「とくに不平や不満はないな。掠奪は禁止で当然だ。今回の戦は、荊州の南部を曹操から解放することにあるのだろう。救い主になるはずの俺たちが、掠奪なんぞしてどうする。ただでさえ」
と、ここで趙雲は言葉を切り、念のため、だれも近くにいて聞き耳を立てていないことを確かめた。
「劉州牧が後継に選ばなかった劉公子を、あえて荊州刺史に押し立てて、無理に代表にしているような状況だ。民の不信を招く行動はしないほうがよかろう。掠奪をのぞんで、懐をあたためようなどと下らぬことを考えているやつらは、全体のことが見えていないのだ」
「武人のすべてがあなたのようであったら楽なのにな。冗談抜きに、爪の垢を煎じて飲ませてやりたいところだよ」
「それほど五月蝿いやつがいるのか」
「主公が夏口で旗揚げしたと聞いて、集まってきた者のなかには、兵卒に掠奪を許したほうが、士気が上がると主張している者もいるのだ。わたしの反対が通ったので、今回は防ぐことができたが、しかし、困ったことに」
と、孔明はここでことばを切り、趙雲の真似をして、聞き耳を立てている者がいないかを探した。
当然のことながら、あたりはみな寝静まっており、だれの気配もない。
「主公は掠奪を許したほうがよいと考えていらしたようだ」
趙雲は、軽く眉をひそめて、胸のうちを明かす代わりにした。
それを見て、孔明も、苦笑して、わかっている、というふうにうなずく。
「主公も流浪生活が長く、古参の兵卒たちのなかにあったから、掠奪を望む者たちの意見がわかるのだろう。
だが、これからは駄目だ。劉玄徳の軍は略奪をほしいままにする凶悪な軍だという評判が広がってみろ。いままでの仁徳の人というよい評判は、かんたんに覆るぞ。民心も離れる。
主公の場合、民心が集まっていることが最大の武器なのだから、そこを損ねては駄目だ」
「主公のよいところは、飾り気のないところだ。自然にしていても、求心力があるところがすごいところだが、問題は、あまりにそれを意識しなさ過ぎることがある、ということだな」

わがままというか、と趙雲はそっと胸のうちで付け加えた。
劉備のことは心から尊敬しているし慕ってもいるが、その気前のよさと、ときに顔を出す身勝手さに、たまに呆れるときもある。
「これから軍の規模はどんどん拡大していくことだろう。人が足りないよ。わたしはわたしでしなければならないことが山ほどあるし。わたしと同じ考えをもち、同じ目標をもつ、主公の補佐役が必要だ」
「つまり、もうひとり軍師が必要だ、ということか」
「ひとりでも、ふたりでも。馬家の良くんなどはうってつけかと思っていたが、実際に頼んでみると、考えていたのとちがうな。主公の破天荒さに、良くんが圧倒されてしまっている。そうなると、やはり惜しいな、徐兄がいてくれたらと心から思うが」

孔明はここで言葉を切り、書きかけの手紙に目を落とした。
「鳥林で徐兄はお元気だったか」
「ああ。曹操の軍に馴染んでいたよ」
「戦が終わるまで、鳥林にいたことを黙っているとは水臭いな。それほど嫌われたかな」
冗談めかしつつも、淋しそうにつぶやく孔明に、趙雲は言った。
「そうではない、おまえが存分に策を振るえるようにと考えてのことだ」
「戻るつもりはないのか」
「すでに曹操に仕えると約束してしまっている以上、簡単にそれを翻すことはできないのだろう」
「行って、またすぐ戻ってきた、では外聞が悪い、ということなのかな。世間だって、事情を知れば許してくれるだろうに」
「世間が許しても、元直どのご自身が、ご自身を許せないということであろう」
真面目すぎるのだから、と悲しげに孔明は言うと、書きかけの手紙の、おのれの文字を指でなぞりつつ、言った。
「徐兄は無事に北部に引き上げることができただろうか。江東の兵卒たちに捕まっていないといいな。この信も、果たして届くのかどうか、心配だよ」
「あのかたはしぶとい方だから、案外、けろりとした内容の信が届くだろうよ。火傷しなくて済んだとかなんとか書いてよこすかもしれない」
沈みがちな孔明を喜ばせるため、めずらしく趙雲が冗談を言うと、孔明は楽しげに声をたてて笑った。
「ああ、それは徐兄が言いそうだな。派手に燃やすのなら、俺のいないところで燃やせ、とかなんとか。そうだな。無事であると信じよう。徐兄だからな」

言いつつ、孔明は、傍らにおいてあった酒瓶を手に取ると、脇机に置いてあったあたらしい盃に注ぎ、趙雲に差し出した。
「まずは、徐兄の無事を祈って飲もうではないか」
「それと、明日からの戦が早く終わりますように、ということだな」
「明日からの戦が早く終わり、わたしたちも無事でありますように。そうだ、祠には行ったか」
「祠?」
なんの祠だろうと趙雲が怪訝に思っていると、孔明は自らも酒を煽りつつ、笑いながら言った。
「最近、夏口の庭の隅っこにできた祠だよ。偉度の話を聞いて面白がった劉公子が、石工に命じて作らせたのさ。北斗君と南斗君の祠で、祈ると寿命が延びるらしい。
出来たばかりでご利益があるのかどうか不明だが、劉公子はそうだと信じて、散歩がてら、祠にお参りに行っているそうだよ。
北斗君は手に泥鰌を持っている。全国広しといえど、北斗君が泥鰌を手にしている石像が置いてある祠は、きっとここだけだろうな」

泥鰌の鳥林の風をめぐる顛末は、記憶にあたらしい。
孔明は、風向きを読める泥鰌をふしぎな老爺にもらいうけ、そのおかげで、大芝居を打つことができたのだ。

「泥鰌売りが北斗君の使者だったと、信じているのか」
「さあて、あの老爺が誰であったのかなんてわからないよ。でも、あの老爺の泥鰌のおかげで、わたしは芝居を演じきることが出来た。
風伯の使者であったか、北斗君の使者であったかわからないが、どれだけ謝辞を述べても足りないと思う。そうだな、いまわたしの持っている財貨をすべて与えても足りないかもしれない」
孔明は首をかしげて、自分の思い付きを検討し、それから一人で笑い出した。
「あなたが鳥林に行っているあいだには、いろいろあったな。わたしがあまりに一人でいろいろ抱えているので、見ていて気の毒に思った風伯が助けてくれたのかもしれない。柴桑の老爺の気まぐれと考えるより、そう考えたほうが楽しいから、そう思うことにしておこう」
「能天気なやつだな。気味が悪いとは思わないのか」
酒をちびちびと口に運びつつ、趙雲は言う。

気味が悪いと思っているのは自分の体験がそうであったからである。
鳥林から逃げたあと、馬から放り出されて、地面に激突した。
怪我を介抱してくれた老爺の頼みにより、柴桑とは真逆の当陽へ、一族とはぐれた母子を送り届けた。
しかし、そこで奇妙なことに、趙雲は一気にふたたび鳥林にほどちかい草むらのなかに戻っていた。
その間、日数も巻き戻っていた。
なにがあったのか、いまだに頭が整理できていない。
たまに、市場などで、例の女たちによく似た母子づれを見つけると、追いかけて確かめるが、いまのところ、再会はかなえられていないし、女たちの一族がどこの一族であったのかも、確かめられていない。
おそらく、二度とわかることはないだろうという予感がする。

「あなたはもやもやが晴れないようだな」
「どう考えても、よくわからぬからだ。あの老爺は何者で、俺が当陽へ行ったのは本当だったのか、それとも夢だったのか。判然としないから苛々する」
「あなたは物事に白黒つけないと我慢がならないのだな。もうそういうものだと割り切ってしまうといいよ。きっとわたしたちの日ごろの行いがいいから、神々が助けてくれたのさ。そう思っていたほうが、気分がいいだろう」
「能天気」
「なんとでも。なるべく前向きに考えたほうが得だよ、子龍。わからないことは、わからないことでいいではないか。いまのわたしたちは、ほかに考えるべきことがある」
「たしかにいろいろあるな。周公瑾は、おまえをまだ狙っているのだろうか」
「そうだろうねえ。そうそう、張子布どのから信が来たのだが」

孔明は、重ねて会った手紙のなかから、ひとつを取り出すと、広げて、趙雲に見えるようにした。
「孫将軍は、主公に一度お会いしたいと言っているそうだ。主公とも相談して、まず南部を平定してからと返事を送ったが、これをどう見る」
「どうもこうも。同盟相手の顔を見ておきたいということだろう」
「さて、それだけではないような気がするよ。思うのだけれど、江陵の戦が長引きそうだということは、江東にとっては誤算だったのではなかろうか。
鳥林での戦の衝撃ゆえに、曹操軍はもっと脆いのではとタカをくくっていたような気がしてならない。だが、実際には、やはり強かった」
「つまり?」
「本当なら、江東は曹操を蹴散らして、いまごろは荊州の南部をすべて手に入れられるはずだった。だが、ところが、曹仁の兵は思った以上に頑強で、江陵に戦力を集中させておかないと、荊州を手に入れられそうにない。
江東としては悔しいであろうな。荊州四郡は、自分たちの手で奪取したいと思っていることだろう。だが、人員も余裕もない」
「そこで、俺たちの登場というわけか」
「そう。鳥林での戦で、高みの見物を決め込んでいた効果が早くもあらわれたのさ。われらは、兵をほとんど失っていない。三万がそっくりそのままだ。この兵を使って、荊州四郡を治めるが、江東は面白くないだろう。
とはいえ、ここで同盟を解消するわけにはいかない。周瑜からすれば、ここでわたしたちを敵に回して、背後から襲われるなんてことがあったなら目も当てられないからだ」
「これから先はどうする。荊州を足がかりにして拠点を固め、南郡に居座るであろう曹仁か周瑜の軍とことを構えるのか」
「いや、それはうまくない。もし首尾よく南郡を取れたとしても、つぎに揚州から兵が押し寄せてきた場合、防ぎきれるかどうか。同盟はつづけるべきだ。さっきの話にも通じるが、劉玄徳は仁徳の人なのだよ、あくまでも。自らの野望のため、同盟を破棄するようなことがあってはならない」
「江東はどう思っているだろうな」
「向こうは向こうで、曹操が恐ろしいから、わたしたちを無視できないでいるさ。もしわたしたちが曹操と手を組んで襲ってきたら、荊州に進出している周瑜の軍は終わりだ。
孫将軍が主公に会いたいといってきたのは、わたしたちを警戒している表れだと思う。きっと同盟を強化するために会いたがっているのだと思う」
「強化するといっても、どのように」
「さて。張子布どのの信のなかに、ひとつ気にかかる記述があった。主公がいくつになられたかということと、夫人は病気だと聞いたが、その後はどうなのかどうか、と尋ねてきているのだ」

その話を聞いて、趙雲は、なぜだか嫌な予感をおぼえた。
負け戦に出なければならないときと同じように、臓腑をしめつけられるような、嫌な感覚が襲ってきたのである。

「もしや、江東は婚姻で同盟を強化せんと考えているのか」
孔明は、手を頭の後ろで組んで伸びをしながら、答えた。
「可能性は高い。主公の奥方は、いまや甘夫人お一人だ。もう一人増えたところで問題はなかろうと」
「思うのか?」
「向こうがそう考えているらしい、ということだよ。わたしは反対だ。美人を使う策など下策もいいところではないか。それに女が絡むと事態がややこしくなる」
「どうする」
「向こうはまだ正式になにも言ってきていないし、周瑜と曹仁、どちらが勝つかでも事態は変わるだろう。いまのところは静観だな。やれやれ、事態は動いているのだよ」
「気が重くなってくるな」
「そう。だから人には酒がある。飲みたまえよ、子龍。いくらか気が紛れるから」
「つぎからつぎへと、気が休まる暇もない。おまえはよくやっているさ」
「あなたがこうして愚痴を聞いてくれるからいいけれど、しかしこれからは顔を合わせる機会も減るだろう。
いまのうちに言っておくけれど、これから軍の規模が大きくなったとしても、わたしを忘れないでくれ」
「なんだ、それは」
「あなたも、いつまでもわたしの主騎というわけにはいかないだろう。さっきも言ったが、これだけ軍が拡大してくると、軍師がほかに何名か必要になってくる」
「あたらしい軍師には、あたらしい主騎が付けばいい。俺はおまえの主騎だ」
「おや、頑張ってくれるのだな。それはうれしいけれど、さて、主公がなんと言うかだな」
「主公は俺と同じ考えだろうよ。なにか気になることでもあるのか」
「気になるというか、まあ、うまく言えないところだけれど、主公は、わたしたちがあまり固まりすぎるのは喜んでおられないような気がしてならぬ」
「なぜ。主公は主公で、益徳や雲長どのと固まっているではないか」
「それはあの三人が義兄弟だからだよ」
「俺はおまえの主騎だ。固まるのは当然だ」
「まあ、そうだけれどね、うむ、むつかしいな。なんと言えばよいか」
「はっきりしないな。なにかあったのか」
「これ、といったことではないのだが」

と、孔明は軽く息を吐くと、盃から唇を離し、趙雲を見た。
「主公は、このところ、変わったか?」
「いや? 俺には変わらないように見えるが」
「ならばいいのだ。わたしの気のせいであろう。だとしたら、変わったのはわたしのほうかな。主公と意見が折り合わない時が増えたような気がしてならぬのだ」
「折り合わない? たとえば」
「掠奪の禁止のこともそうだし、主公が最近、ご自身の周囲に配されている人材にしてもそうだ。わたしとしては、なるべくなら荊州の士人たちと付き合ってほしいのだが、主公はそれよりも武人らとともにいることを好まれる。
そのため、士人たちが主公を軽んじる傾向があって、わたしが間に入るのだが、なかなかうまくいかない。わたしが経験不足で年若い、ということもあるのだろうけれど、どうしたものかな」
「だから、もう一人は軍師が欲しい、とういことか」
「人材がないわけではないが、主公と気が合うかとなると、むつかしくなるのだよ。子龍、わかっているとは思うが」
孔明の確認に、趙雲は力強くうなずいた。
「ああ、わかっている。いまの話は内密に。おまえも迂闊に外に漏らすなよ。偉度にも劉公子にも言うな。妙な誤解を招く」
「あなたにしか言わないさ。と、ここだよ」
「どこ」
「正直に言うと、いま、わたしが本心を打ちあけられるのは、あなただけだ。主公とはどこか壁がある。忠心は変わっていないのだが、隔たりを感じてしまう部分は、以前よりはつよくなってしまった。元に戻れるかどうか、すこし自信がない。
そのぶん、あなたとの関係が緊密になるわけだが、そうなると主公としては面白くないだろう。そこが心配なのだ」
「気の回しすぎではないのか。主公はそこまで細かく考えないだろう」
「そう思うか。そこは意見がちがうな。わたしはそうは思わない。主公の人のよさに隠れて、いままでわたしは誤解していたかもしれないと思い始めている」
「なにを」
「主公の野望の強さ。そこを理解しなければ、本当にあの方を理解することはできないかもしれないな」

そのことばを聞いたとき、趙雲は、あらためて孔明の感受性の鋭さに感心するとともに、やはりこいつは若いな、とも思った。
世間ずれしておらず、人との対処の仕方もよくわかっていない。
海千山千の人間に対して、生真面目に真正面から対応しようとしているので、すべてを受け止めきれずに戸惑っているのだ。
だが、趙雲は、こうした孔明の不器用な悩みを聞くのが好きである。
そして、孔明が悩みながらも前に進もうと努力するところを見るのが好きだ。

趙雲は、孔明の手元にあった酒瓶を取ると、今度は自分が孔明の空になった盃に酒を注いだ。
「飲め。おまえは考えすぎだ。遠征前だというのに、疲れているのではないか」
「そうかな」
「そうさ。不安は不安を呼ぶ。さきほどの泥鰌のことは割り切れたのに、どうして主公のこととなると割り切って考えられないのだ。
思いつめないことだな。でなければ、おのれの気持ちに潰されるぞ」
「ああ、たしかにそれはあるかもな。ときどき、苦しくなることがある」
「苦しくなるほど思いつめてどうする。愚痴なら、俺が主騎でいられるあいだはいくらでも聞いてやるから、気軽に言いにくればいい」
趙雲が言うと、不安げな面差しをしていた孔明の唇に、ほのかに笑みがひろがった。
「ほんとうに? あなたは面倒見がいいな。最初はとっつきの悪い人だと思ったけれど、いまは逆だよ。これだけ優しい人間はなかなかいないだろうね」
「優しいなどと、はじめて言われた」
趙雲がうろたえて言うと、孔明はちいさく声をたてて笑った。
「そう言われる機会がなかっただけだろう。あなたは優しい人だよ。すこし徐兄に似ているところがある」

さて、俺はあの人に似ているところがあるのかな、と趙雲は考える。
二つほど年上だった徐庶は、劉備の元にいた頃は、ほとんど付き合いがなかった。
孔明に比べると、徐庶は若い頃に苦労を重ねただけあり、人に対するときもそつがなく、揉め事を起こすということがなかった。
そのため、主騎も必要なく、交流する機会に恵まれなかったのである。

「これも主騎の役目さ。主公の主騎であったころは、もっと大変だった」
「どんなふうに?」
孔明が興味を示してきたので、趙雲はほっとした。
どのような理由であれ、やはり、守護の対象である孔明がしおれているところを見るのは好きではない。
劉備のことは、たしかに趙雲も気にかかったが、いまはそれより、明日の遠征をひかえ、孔明をどう元気付けてやるか、であった。
「さて、それを話し出すと長くなるのだがな。ちょうどいい、おまえも俺も眠れなさそうだし、すこし話してやるとしようか」
酒を煽りつつ言うと、孔明は期待に目を輝かせる。
それを見て、趙雲は俄然張り切って、めずらしく饒舌に、これまでの出来事を面白おかしく聞かせた。
孔明は何度と声を立てて笑い、趙雲もまた、つられておおいに笑った。

そうして気を紛らせて、翌日に控えた遠征に、心をあらたにした二人であるが、この夜、孔明が吐露した心配事は、やがて現実のものとなっていく。
だが、それは後日の物語として、別な機会に語られることだろう。

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(C)Hasamino Nakama 2008 10