花上の千枝は杜鵑の血
Kajou no sensi ha token no ti
第一章 雲と為り 雨と為り
18
年季の入った深緑色の鎖帷子が、まるでうろこのように黒光りしている。
鎧を身に纏った趙雲の勇姿は、思いのほか、威圧感をかもし出していた。
深緑色の鎖帷子のうえに卵色の衣を羽織り、片肌を脱いでいる。
陳応は、趙雲が戦っているところを見たことがなかった。
縁談について怒りをあらわにしていたが、それは殺気というほどのものでもなかった。
だから、陳応は、どこか趙雲をなめていた。
押し寄せる民を見れば、怖気づくだろうと。
ところが、予想とはまったくちがった。
中央門には、ほかに兵の姿はない。
趙雲はたったひとり、民を前に、堂々とそこにある。
自分を憎悪する民の声が聞こえないわけがあるまい。
しかし、その表情に、怯えはいっさいなかった。
おそろしいまでの気迫が、その全身からあふれている。
目に見えない巨大な壁が、突如として中央門のまえにあらたに出来上がったかのような雰囲気であった。
足が止まった暴徒たちの先頭で、もっとも凶悪に暴れまわっていた男が、このぴりぴりと刺すような空気のなかで、場の状況がよくわからないのか、一歩、二歩、と趙雲のほうにおっかなびっくり近づくと、手にした木材をかまえつつ、言った。
「おい、大将、おまえがおれたちの香雪さまを殺したのだ! おまえは人殺しはおなじく命でつぐなわせるとおれたちに触れをだした。おまえはもちろん、自分の触れどおりにするのだよな?」
趙雲は、男をまっすぐ見据え、重々しく口をひらいた。
「俺は太守の姪御を殺してはおらぬ。誤解だ。天地神明にかけて誓おう。おれは罪のない女たちを殺してはおらぬ。おまえは、俺がほんとうに趙範の姪御を殺したと思うのか」
趙雲に問われて、男は、ぐぐ、とことばを見失い、それから、しどろもどろに、答えた。
「わからない。でも、あんたかもしれねえ」
「俺ではない。下手人はほかにいる。それを探しにいけ」
趙雲は、男の方を軽く槍の柄でつつくと、へっぴり腰で趙雲の前にいた男は、とたんに姿勢を崩して、背中だおれになり、もとの仲間のほうに倒れこんだ。
その機を逃さず、趙雲は朗々と、じつによくひびく声で、桂陽の民に向かって叫んだ。
「この男とおなじように、俺を疑うものはおるか? 俺は女たちはだれひとりとして殺しておらぬ! この俺をどうしても疑うというのなら、俺にも俺の意地がある」
言って、趙雲は、槍の柄の部分をずどんと、近くの地面に突き刺した。
「俺が殺したのだと信じている者は、いますぐかかってこい! そうして、俺の屍を越えてこの城へ向かえ! この趙子龍、逃げも隠れもせぬぞ! さあ、俺と勝負をしたいやつはどこだ!」
いつもの温厚な趙雲しかこれまで見たことのなかった陳応にとっては、趙雲の変わりようはおどろくべきものであった。
この恫喝にしても、まさに鬼神の恫喝。
民は趙雲の気迫に呑まれて、一歩も足を動かせないである。
咽喉になにかがつまって、ことばが出ないように、趙雲にたいするあれだけあった罵詈雑言も出てこない。
民は、ただ、目の前の意外な障害物、趙子龍を見つめた。
いまや、場の空気を支配しているのは趙雲であった。
さんざん暴れて町を破壊しつくした民も、いまはその前列でおとなしい。
気圧されたから、というだけではないだろう。
だれもが、趙雲に対して、命の危機を感じているのだ。
恫喝でもなんでもなく、趙雲と対峙することは命のやり取りをすることだ。
まだ一戦も交えていないうちから、気迫だけですでに負けている。
武器でのやりとりとなったら、どれだけもつことか。
それに、忘れてはいけない。開け放たれた門の外には、趙雲の兵が待機しているのである。
陳応は、このときばかりは、叫ぼうと思った。
香雪を殺した男、おまえの首を貰い受ける。
崇高な復讐のために、命をかけても惜しくない。
だが、生身の趙雲の、はじめて見るその野性の虎ように勇ましく鋭い眼力にあてられて、それがぴたりと言えなくなってしまった。
陳応は、趙雲と対峙して、はじめて、自分のなかで隠そう、隠そうとしていた違和感があることに気づいたのである。
その違和感こそが、自分の咎を隠すために趙雲にすべてを押しつけていたということであった。
趙雲の人となりはよくわかっている。
趙雲は、香雪を殺していないのではないか。
しかし、そのことに気づいても、もはや陳応は、後戻りのできない状況のなかにいるのだ。
決然とした表情でみなの前にある趙雲と、陳応率いる千の民のにらみ合いは、なんと一昼夜におよんだ。
だれもかれもが金縛りにあったようであった。
張り詰めた空気が、あたりを包んでいる。
冬のくすんだ青空のうえで、鳥がいつものように飛んでいる。
趙雲を前に、なにをすることもできずに、ただ同じように立ち尽くす黒頭の群れ。
破壊のもたらした高揚感もいまは消え、徐々にかれらのなかに後悔めいたものさえ漂いはじめていた。
かれらは、よくもわるくも期待をしていたのだった。
城を襲えば、いまの面白くない状況を変えることができるはずだ。
香雪を殺した男を裁くこともできるし、戸籍の整備をやめさせることもできる。
そのほか、『北の人間のやり方』を押し付けてくる連中に、目にもの見せてやれるではないか。
そうすることで、気分がすっきりするはずだった。
ところが、現在はそうではない。
かれらは、罠にはまってしまったようにさえ感じている。
こんなに息苦しい思いをするとは思っていなかった。
身勝手な暴力でさんざん自分を解放したあとだけに、この緊迫感は、よけいに耐えられないものである。
しかし、かれらはこの風景のひとつになりきっている。
だれひとり、脱退をすることはなかった。
それこそ、後列にいる者は、ひとり、ふたりと抜けていったが、前列にいた者、すなわち、もっともこの暴動に加担していた者は、発言することはもちろん、身じろぎすることもできなかった。
かれらは、こうなる直前まで、趙子龍という男を、残虐な殺戮者だと思っていた。
いまも、きっかけひとつあれば、襲い掛かるつもりである。
だが、一方で、趙雲の発する気にも呑まれていた。
こいつはすごいやつだと、そう思い始めている。
尊敬の念に近いものが胸のうちに芽生え、それが殺意を中和しつつあった。
かれらがはっきり後悔をしはじめるのは、もうすこしあとのことだろう。
自分は、まるでよくできた、見たくもない絵画をじっと凝視しているようだと、陳応は思った。
組み込まれた寄木のように、だれもがこの風景を崩そうとしない。
中央に趙子龍、迫る黒頭。だれひとりとして、声を発さない。
視界の外、つまり、人々の群れの後ろのほうでは、日常が回復しつつある。
騒ぎに乗じて付いてきた民が、変わらぬ状況に飽きて、自分たちの暮らしへ戻りつつあるのだ。
一方で、これをお祭り騒ぎだと勘違いした野次馬が、すれちがうようにして群れにつづく。
群れの前列と後列とでは、あきらかに緊張感に差があった。
趙雲が相手になるぞと吠えたとき、ならば戦って、生き残って見せよといって、民を率いて動くべきだったと、陳応は後悔をはじめていた。
もはや、時機を逸してしまった。
立ち尽くす趙雲と陳応。
両者の差は、風格の差だ。
どちらが優れているのかは、もう答えが出てしまっている。
もし同じ立場に立たされたとして、趙雲のようにたったひとりで千人を前に出来る男が、このなかにどれだけいる? おそらくいないだろう。
年齢の差? 経験の差? それとも、才能の差なのか。
どれにしても、その理由を知ることは、陳応の誇りを傷つけることだった。
この男が香雪を殺した。そう思いたい。
なのに、その男のほうが優れている。
どころか、この男が殺したのではないかもしれないと、だんだん感じ始めている。
こんなところまできて、弱気に陥るとは。
いまからでも遅くはない。
民は、やがてこの緊張に疲れ果ててしまうだろう。
そして、それこそが趙雲の狙いなのだ。
そのまえに、打ってかかるべきではないか。
早く、口をひらけ。そうして、馬上で手綱をつよく握り締めながら、今度こそはと陳応は口を動かそうとする。
だが、そうするたびに、目に見えない壁のようなものにぶち当たり、なにも言えなくなってしまうのだ。
陳応には、まるで趙雲が魔術師かなにかのように感じられた。
その気迫とことばとで、趙雲は、千の人間の動きとことばを奪ってしまったのである。
こうしているあいだにも、城のなかではめまぐるしい変化がおこっているにちがいない。
期待されるのは、趙範のそばにいるだれかが、陳応に呼応してくれることであったが、残念ながら、なんの気配も感じられない。
趙雲の兵を恐れているのか。
陳応は、不幸なことに、冷静になりつつあった。
復讐心はなりをひそめ、状況を比較的ただしく観察できるようになってきた。
百戦錬磨の趙雲と、その背後にいる、すばらしく錬成された三百の兵。
自分のまわりにいるのは、女子供も含めた烏合の衆。
ぶつかれば、どうなるか、子供だってわかるではないか。
唯一の勝ち目は、こちらに勢いがあることだった。
だが、その勢いは、急速にしぼんでいる。
破滅。そんな予感が、復讐心を押しのけてこみあげてきた。
冗談ではない。悪いのは、あの男ではないか! 香雪のためにも、戦わねばならないのだ。
陳応は、またも口を開こうとした。
そのとき、変化が起こった。
後列のほうから、ざわめきの波が押し寄せてくる。
それまでぴたりと霜に閉じ込められた黒土のように動かなかった民の頭が、せわしなく、ざわざわと動きはじめた。
そのざわめきは、陳応の心を、ひどくかき乱す不穏な響きを含んでいた。
「諸葛亮の兵が桂陽に近づいている」
諸葛亮という人間が、どれほどのものなのか、陳応にはよくわからない。
あまりなじみのない姓で、目立つ名前なので、記憶にはある。
劉備の軍師だとか。
要するに、趙雲の上役というわけだ。
その軍が近づいてきている。
不味い状況だ、ということはわかった。
「諸葛亮はわれわれを鎮圧にきたのだ」
「この騒ぎを起こした者を斬首にするそうだぞ」
首を斬られるのか、と、民はたがいのことばをさぐりながら、さわぎはじめた。
「諸葛亮というやつは、そんなに残忍なやつなのか」
「残忍かどうかはしらんが、賞罰には厳格だそうだ」
「つまり、ここにいる連中は、みんな首を斬られちまう、ということなんじゃないのか」
「冗談じゃない、おれは抜ける」
だれかが口にしたのを皮切りに、やめよう、帰ろうといったことばが、沸騰した泡のようにあちこちから吹き出てきた。
陳応も、陳応に従ってやってきた者も、民のその変わりように、戸惑うしかできない。
町を破壊してまわっていたときというのは、たしかに人々のあいだに連帯感があったのだ。
ところが、それがあっさりと失せた。
こんなにも人はがらりと変わってしまうものなのだろうか。
帯のように一直線に中央門に迫っていた民の列が、徐々に散らばりはじめている。
このままではなにもかもがおしまいだ。
焦って、陳応は叫んだ。
やっと、叫ぶことができた。
「待て! 趙子龍は香雪さまを殺したのだぞ! 女たちを殺したのも趙子龍にちがいない! おまえたちは、あの男を許すのか! われらは、やがて皆殺しにされるにちがいない。そのまえに、殺戮者を殺せ!」
すぐさま、こだまのように、こんな若い声がかえってきた。
「許すもなにも、斬首にされたくはない!」
それが決定的であった。
民は、そうだ、命あっての物種だ、死んではなんにもならない。わりにあわないと言いながら、どんどんその場を立ち去っていく。
「待て、貴様ら!」
なんとかしなければ。
千の民こそが、陳応の真の鎧であった。
纏っていたものが、一枚、一枚とはがれて、自分が丸裸になっていくような感覚がある。
むき出しの肌で当たるには、趙雲は恐ろしすぎた。
あせって、陳応はさらに叫ぶ。
「待たぬか! 趙子龍の首をとれ! やつは敵だぞ! 殺されるまえに殺せ!」
その叫びもむかしく、ひとびとは、どこかしらけたような顔をして、だるそうに、ぞろぞろと列から離れていく。
寄越す目線はどれも冷たく、どころか、こちらを軽蔑しているようでもある。
そのまなざしに籠められた感情の向こうに、陳応は、香雪の顔を見た。
自分と趙雲を比べて、あからさまに失望の念を浮かべていた香雪の顔を。
こいつらも、おれと趙子龍を比べているのだ。
とたん、カッと腹が立って、手にした矛の柄で、いちばん自分のそばにいて、そして、いちばん侮蔑の目を向けている(ように陳応には思われた)、列から離れようとする民のひとりの脳天を叩き割った。
悲鳴が起こった。
その高い、鹿の鳴き声のような音が、さらに陳応を苛立たせた。
「貴様ら、列に戻れ! 諸葛亮、なにするものぞ! 趙子龍を討つのだ!」
叫び、おびえる民にむけて、ぶん、と矛をふるう。
それを避ける民の悲鳴と動揺のどよめきが混ざり合った。
「戻れ、さもなくば」
馬が興奮して同じところをぐるぐると回る。
陳応は、なんとか馬の腹を押さえつつ、矛を天にかざして、叫んだ。
「貴様らを殺すぞ!」
一瞬、おそろしいほどの沈黙が生じた。
陳応は、自分が唐突に耳が聞こえなくなったのではないかと思った。
ひとびとが、あっけに取られた顔をして、こちらを見ている。
とりあえず、自分を見つめるその表情のなかに、侮蔑の顔がないことに安堵した。
なにかが、陳応のなかで軋みをあげている。
だが、良識と狂気とがこすれあうその音を、陳応は無視をした。
まともにそれを聞いてしまえば、もう自分は、自分を捨てるしかできなくなる。
「殺されるまえに、殺してしまえ」
だれかがぼそりとつぶやいた。
その声は、弦が震えるように、沈黙していた全体を揺らした。
「殺されるまえに殺せ」
「そうだ、だいたい、おまえが悪いんじゃないか!」
「そうだ、こいつがわれらをここにつれてきたんだ!」
「諸葛亮が来るまえに、こいつの首をとれ!」
「そうだ、こいつを殺せ!」
民が唐突に凶悪に沸騰した。
趙雲と対峙しているあいだに、抑えられていたものが、一気に爆発したのである。
もちろん、陳応には、そんなことを冷静に考えている余裕はない。
真っ白になった頭で、殺意をみなぎらせて向かってくる、世にも醜い顔の群れを、呆然と見つめていた。
徐々に解散をはじめていた民が、ふたたび集結し騒ぎ立てている。
その中央には陳応の姿がある。
それはまさに、獲物に蟻がたかっているような、異様な光景であった。
この暴力から逃れようと、列を離れて去っていくものもあれば、逆に、一緒になって興奮して、黒山に群がる者もいる。
とても理性ある人間の姿とは思えないあさましいものであった。
もはや趙雲に注意を払うものは、ほとんどいなかった。
いや、趙雲と対決していたことを清算しようとでも考えているかのように、もっとも苛烈に罵倒をくりかえしていた者が、いま、陳応に向かっているのである。
陳応の乗っていた馬の、悲しげないななきが聞こえた。
その圧倒的な光景に、一瞬、ことばをなくした趙雲であるが、すぐに冷静さを取りもどした。
このような凄惨な光景を、許すわけにはいかない。
為政者としてばかりではなく、人として、許せないのだ。
「やめよ! やめるのだ!」
一喝し、陳応に群がる民を払いのけようとする。
しかし、かれに群がる人々は、まるで精巧に組み上げられた細工のように、腕や体が絡まって、容易にほどくことができない。
民は夢中になって、自分たちの最前までの指導者を袋叩きにしていた。
仕方がない。
趙雲は、槍を器用に使って、民をなぎ払った。
別方向から台風のようにあらわれた趙雲に、ひとびとの山が徐々に崩れていく。
「やめろ、解散するのだ!」
この機にとばかりに襲い掛かってくるばか者もいたが、趙雲はそれを難なく撃退した。
趙雲が動いたのを見て、中央門の内側で待機していた陳到が、三百の兵を率いて、外へ打って出た。
とたん、民は殺されると思ったのか、悲鳴をあげて逃げ始めた。
ひとびとの山は、崩れ始めたら早かった。
ある者は武器を捨てて逃げ、ある者は近くの家のなかに飛び込み、ある者は転んだ者をさらに踏み越えて転がるようにして逃げていった。
残って、『香雪の仇を討つ』ために残った者は、ほんの数人であった。
或る意味、果敢であったかれらも、趙雲の槍の前では敵ではなかった。
大路に逃げ惑うひとびとの足音がひびきつづけた。
埃と汗と、延焼をつづける家屋のきなくさい臭いがただよっている。
香を焚いて趙雲を迎えたかつての街とは、まったく別の街に変わり果てていた。
ひとびとが逃げ去ったあと、趙雲は、大路の真ん中で、襤褸切れのようになって転がされていた陳応を見つけた。
ひどいありさまであった。すでに顔は脹れあがり、面影がなくなってしまっている。
「しっかりするのだ!」
陳応の体を抱き起こす。
すると、無残に変わり果てた若者は、すこしうめき声をあげた。
まだ生きている。
手当てをしようとした趙雲に、陳応は、腫れて垂れ下がったまぶたを、すこし震わせた。
そして、
「アー」
と、ひとこと言った。
それきりだった。陳応のまぶたがふさがり、それからまったく動かなくなった。
「死んだ」
つぶやいてから、どっと無力感に襲われた。
賢明な男だと評されてきた。
態度や口にこそ出さなかったが、自分もそのつもりであった。
ところが、いまの町のありさまはどうだろう。
これが、はじめて自分が治めた町の結果なのだった。
逃げ散った人々のなかで、残ってこちらを見ている者がいる。
まだ若い、子供といってもいい者たち。
顔に見覚えがあった。
土地の者と比べれば、ずいぶん垢抜けた顔をしている。
そうか。そういうことか。
早馬がやってきて、孔明が五百の兵とともに桂陽に到着したと報せてきた。
19へつづく
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(C)Hasamino Nakama 10 01 18