花上の千枝は杜鵑の血
Kajou no sensi ha token no ti


第一章 雲と為り 雨と為り

17

城に暴徒が押し寄せてきていると聞いたのは、ちょうど民に襲撃された兵のひとりの様子を見に行った帰りであった。
趙雲の胸のうちにまずこみ上げてきたのは、怒りであった。
悪意のある何者かに煽られ、民は趙雲が香雪を殺したものだと思いこんでいる。
桂陽に入ってからずっとやってきたことは、すべて民のためであった。
劉備のものとなったかれらに、昔よりよい暮らしをさせる、そのことが自分のつとめだと思い、寝る間も惜しんで働いてきたのだ。
それに対する答えがこれなのか? 
香雪を殺したのだと、本気で民は信じているのか? 
愚かで乗せられやすい浮ついた民。
軽蔑に値する得体のしれない大きな何者かが、いま、目の前で勝手に暴れ出しているような気がした。
それを解体すれば、残されるのは、きわめて善良なひとりひとりだと、頭ではわかっている。
わかっているのだが、許せないという感情のほうがつよく胸にこみあげてくる。
民が劉備の、いや、趙雲のものになりきっていないのと同じく、趙雲もまた、桂陽の土地に、慣れきっていなかった。
かれらを駆逐してしまおうか。
それはたやすいはずである。
城に迫ってきている暴徒は千人ほどである。
側に置いている鍛錬を受けた精鋭の三百ほどで、かれらを平らげることはできるだろう。

「どうされますか」
緊張した声色で、陳到がたずねてくる。
陳到以下、零陵から家族を連れてきた者たちは多い。
ようやく土地に慣れてきたとみなが思っていた、その矢先のこの出来事である。
自分たちを守るはずの町すら破壊して、声高に殺戮者の首をと叫ぶ輩の暴力が、家族におよばないかと心配しているのだ。
こちらに向けてくるかれらの固い目を受けて、趙雲はますます心をこわばらせた。
桂陽の民が敵となるならば、それも仕方ない。
もともと戦をするつもりでやってきたのだ。
ここでつよく出なければ、かれらはまた騒ぎ出す。
劉備が派遣してくれる救援を待ってはいられない。

「兵を」
中央に集めよ。そう口を開きかけた趙雲の視界に、片隅にてこちらを見ている夏侯蘭の姿が映った。
だれもかれもが状況の深刻さに口を曲げて身をこわばらせているなかで、せむし男だけは、ひとり、高みの見物をしているつもりなのか、笑っていた。
その邪気に満ちた顔に、窓から差し込む光が落ちる。
陰影の濃いその顔の、白い頬に、趙雲は醜悪な月を連想した。
月はいつでも突き放すように空からこちらを見下ろしている。
みにくい蝦蟇の住むところ。

唐突に、まったく唐突に、蒼い夜の闇の中、雪のうえをひとり歩いてきたときのことを思い出した。
劉備に出会う前に、ひとり雪原のうえを移動していたのである。
そのとき見上げた月の、圧倒的な存在感。
あのときほど、月というものを憎んだことはなかった。
この世にたったひとりということが、容赦なく月の光が暴いていたからである。
月なんぞ大嫌いだ。

こんなときに、なにを思い出している。

その連想をしていたのは、ほんの一瞬のことであったろう。
すさまじい速さで、趙雲の心のうちを、さまざまな感情が駆け抜けていった。
駿馬のように駆け抜けていった感情のさいごに残ったのは、月を憎んだあのときの、ひどい孤独に追いやられていた自分の心であった。
冷静になれ。
俺は民を憎んでいるのか?
なぜ怒る? 
兵を傷つけられたからというだけではあるまい。
民から拒まれたということが、いちばん腹が立つのではないのか。
なんと小さい。
いまは、そんな小さな感情で動いてよいときではないぞ。

「すぐに戦える準備はできております」
陳到のことばに、しかし、趙雲は静かに首を振った。
「いや。おまえたちは待機せよ」
そうして、趙雲は愛用の槍を片手に、暴徒たちの押し寄せている中央門へと歩いていった。

そもそものきっかけは、香雪であった。
香雪の死体が見つかったその朝、陳応は趙雲こそが殺害犯であると騒ぎ立てた。
もちろん、この無礼なことばは、すぐに周囲からたしなめられた。
まさかの思いが、すぐにだれの胸にも浮かんだからであった。

そも、趙雲は、対応こそ柔らかいが、征服者にちがいはないのである。
すこし強い態度をとれば、香雪を手に入れることはできたのである。
それにもしも香雪を欲して、そのあげくに揉めて殺してしまったというにしても、状況があまりに不自然であった。
香雪は城のなかで殺されたのではない。城の外で殺されたのだ。
だれかが香雪を城の外に呼び出して、その命を奪ったのだと考えるほうが自然である。
陳応のことばは、気が動転してのものだとして、そのまま片付けられるはずであった。

ところが、状況は思ったよりも甘くなかった。
趙子龍が太守の姪を殺したのかもしれない。
その刺激的な噂は、またたく間に町を席捲した。
噂は、かねてより民のあいだでくすぶっていた不満と、容易に結びついた。
趙雲はこれを止める間もなかったのである。
いや、止めようとしたところで、よそ者である趙雲のことばを、民はもう素直に聞かなくなっていた。

趙雲が香雪を殺したのかもしれない、という噂は、三日もしないうちに、趙雲が香雪を殺したのだ、という話にかわっていた。
香雪の殺されていた状況や、その場所の不自然さといったことは、ほとんど無視された。
どころか、状況と噂をうまく合致させるために、こんな説を考える輩まで出てきた。
いわく、香雪は城の中で殺されたのだ。
もちろん、下手人は趙子龍である。
趙子龍は自分の犯行を隠すため、香雪の死体を城の外に捨てたのだ。
そして、朝になって、何食わぬ顔をしてみなのまえに出てきた。
もちろん、この場合も、大切なことは無視されている。
つまり、趙雲が無力な少女相手に、そんな陰惨な真似をするような男ではない、という点である。

噂はさらに広まり、つづいて、趙雲が、あわれな三人の女たちをも殺したのだというものに変わった。
理由は単純である。
趙雲が来てから、女たちは殺されはじめたからであった。
それまでは平和だったのだ。たまに夜盗が出たが、これほど残酷なまねはしなかった。
おそらく、趙子龍というのは、ひどく残忍で、なおかつ、きわめておぞましい変態なのだ。だからこそ、龐夫人との縁談も蹴ったのだ。
かれはふつうの女では満足できないのである。

一触即発の緊張感が、町全体を覆っていた。
趙範たちの態度もおかしい。
あからさまに趙雲を避けるようになり、その側近のなかには、憎しみを隠さないものまであらわれた。
趙雲の命令のほとんどは無視された。
そのため、桂陽のこなさねばならぬ業務のほとんどが止まってしまった。
趙雲は騒ぎ立てる男ではない。
ここで強くですぎるのも大人気ない。
ふだんどおりにしていれば、みな、やがてくだらぬ噂も忘れてしまうだろうと考えた。
そも、自身について、これだけ悪い噂を立てられたことがなかったことも、このばあい、消極的になった原因だろう。

だが、趙雲は、じきに、おのれの見込みが甘かったことを感じるようになった。
状況はいっこうに良くならなかった。
趙雲を見るひとびとの目が、日増しに厳しいものになっていく。
もはや、釈明すれば場が落ち着くような、そんな状況ではなくなっていた。
もはや、趙雲のことばは毒にしかならなかった。
なにを言っても、それがたとえ、どんなにいいことであっても、桂陽の人間は、悪意をもって受け止めてしまうのである。
この緊迫した沈黙のあとにつづくのは、大混乱であることは、容易に予想がついた。
失敗したと後悔したが、もはや時間を取りもどすことはできない。
ひどく苦い気持ちを抱きつつ、趙雲は劉備に向けて、救援を請う手紙を送った。
そして、兵卒たちに、ひとりで町へ行かないようにと指示をしていた。

ところが、それを破った者たちがいた。
かれらは愚鈍にも、群れをなしていればだれにも害されないものとたかをくくり、数人でつれだって町へ繰り出したのだ。
民から向けられる、異物を見やる軽蔑と憎悪のまなざしに、かれらがすぐに気づかなかったことが不幸であった。
浮かれ気分の、まだ少年といってもいい年頃の分別のない兵卒たちは、街の若者たちがたむろしている裏町に出かけ、そこで喧嘩を吹っかけられたのである。
街の若者たちからすれば、殺戮者の手下をとっちめる気分である。
兵卒たちのほうは、自分たちの大将の人となりをよくわかっているから、言いがかりをつけられて、黙ってはいられない。
ほどなく血なまぐさい殴り合いとなり、兵卒たちは、武器を佩びていたこともあり、勝った。
だが、それがよくなかった。
ことのなりゆきを見ていた人々が騒いだことから、あちこちから男たちが駆けつけ、兵卒たちを取り囲み、袋叩きにしたのである。
兵卒たちが城に無事に戻れたのは、幸運だったといっていいだろう。
しかし、みな、殴られていない場所がないほどに体中がぼろぼろになっていた。

暴動がはじまったのは、そこからであった。
人々は興奮し、手がつけられなくなった。
木材や鎌などといった手近にある武器を手に、趙子龍を殺せと騒ぎ出したのである。
最初は数人であった暴徒は、やがて数十人、数百人となり、趙雲に協力した商店などを襲ってさらに凶悪化し、千人近くなって、とうとう城にやってきたのである。

襲われた商店では、死者も出たという話が、趙雲の耳に届いていた。
憎むべき暴徒ども。
凶暴で、愚かで、あとさきを考えない。

趙雲は閉ざされていた中央の門を開かせ、自身も、その中央に立った。
片手には劉備から賜った槍。
大通りを、潮のように押し寄せてくる民の群れを、じっと睥睨する。
耳をふさぎたくなるような罵倒の声をあげる民のなかには、女も子供も、年よりもいる。
そして、民の中心には、ほかならぬ、陳応の姿があった。





陳応は思っていた。
中央の門は閉ざされているだろう。
民を扇動して、陳応は材木屋から牛までつかって大木を運ばせていた。それで門を破壊するためである。
趙子龍が香雪を殺したのだ、やつを血祭りにあげるのだと民を煽りたてながら、騎乗にて進み、城から四ツ半をしらせる鐘が鳴り響いたころ、その目の前に、開け放たれた中央門が見えた。
そして、その門のさらに中央には、鎧に身を固めた趙子龍そのひとが、槍を片手にこちらを睥睨しているのである。

陳応は桂陽から古くある、封人をつとめる家柄に生まれた。
兄弟が多かったこともあり、食べていくのがやっとの貧しい家のなかにあって、長男であった陳応は、弟たちにくらべれば、かなり恵まれた育てられ方をした。
塾にも通わせてもらったし、武芸の師匠にもつかせてもらえた。
だれもかれもがどんぐりの背比べをしているなかで、陳応は、ちょっとだけ抜きん出ていた。
だが、そのほんのわずかな差が、陳応に大きな自信と、そして野心を植えつけた。

陳応はこつこつと、地道に努力を重ねた。
野犬を狩ったり、盗賊を追い払ったり、民の喧嘩の仲裁などもした。
とくに大きな失敗をすることもなくこられたのは、もともと、頭の回転がよかったせいもある。
陳応は、感情を素直に出す一方で、おのれの野心を巧みに隠すずるさも持ち合わせていた。
気の利いたことも言おうと思えば言えた。
度胸もあったから、みなのいやがることも進んで引き受けた。
そのため、だれからも好かれ、出世が早かった。

いま、こうして趙雲と対決することになったのも、陳応の人柄に問題があったからというわけではない。
野心を抱いているということ、そしてそれをうまく隠すことができるということも、欠点のはずがない。
だれしも、すこしでも才能に恵まれたなら、等しく野心を抱くものである。
そして、うまく世を渡るために、ずるさを見せることも、悪ではない。
陳応はどこにでもいるひとりである。
いや、どこにでもいる凡庸なひとびとよりは、頭ひとつ抜け出ているくらいのひとである。

ただひとつ、陳応に咎があるとしたら、間違えている、ということだろう。
趙雲が香雪を殺したと思い込んでいることか。
そうではない。
問題の夜、自分が香雪を見失ってしまった、その後悔のすべてを、趙雲にすべてぶつけることで誤魔化している、ということである。

たしかに陳応は、趙雲を憎んでいた。
冷血な征服者ではなくて、寛大な征服者だとわかっているから、憎んだのである。
勤勉さ、名声、容姿、そして人柄においても抜きん出ている趙雲に、香雪は、自分が恋をしつつあると知っていただろうか。
はたから見ていた陳応には、香雪がどんどん女に変貌していくのがよくわかった。
妹のようにかわいがっていた少女は、日に日にべつのなにかになっていく。
その恐ろしいまでの変化を、陳応は止めることができなかった。
陳応の心のなかでは、すでに香雪は未来の妻であった。
それなのに、香雪はかれを裏切った。
どころか、香雪が、自分と趙雲をくらべて、あからさまに失望していることにも気がついた。
香雪は天真爛漫な少女であったが、だからこそ、どこか人の気持ちに鈍感なところがあったのだ。
陳応は、自分を傷つけた香雪をうらみ、そしてそんなふうに変えてしまった趙雲を憎んだ。
その気持ちが、香雪の死で爆発したのだ。
香雪から目を離してしまったという、そのことで自分を責めるのは、あまりにつらすぎた。
そのつらさから逃れたい一心で、すべての咎を、趙雲に帰した。
もちろん、おのれの心がそんなふうに動いているなどということは、陳応は気づいていない。

いま、こうして千におよぶ民と一緒になって、趙雲憎しと声をあげている分には、陳応の心は落ち着いている。
自分の傷をみなくてすむからだ。
傷口があまりに深く大きいので、緊張感がゆるめば、すぐにその存在に気づいてしまう。
それがいやなので、陳応は、必死になって叫ぶのだ。
趙雲を殺せ、その首を獲って門に飾れ。
あとのことは、なにも考えていない。

暴動が起こったときも、ほんとうはこれを鎮める立場であった。
ところが、そうはできなかった。
陳応は、復讐の機会を逃さなかった。
民を扇動し、そして興奮した気持ちのまま、民と一体となって城へ押し寄せた。
それまで懸命に守ってきた町を壊す行為は、意外なほどに快感をもたらした。
破壊することが、これほど気持ちのよいものだったのだと、そのとき知った。
街の大通りに面した商店のあちこちから、火の手があがっている。
もっと燃えろと思う。
やはり、あとさきのことはなにも浮かばない。
民と同じことばを叫んでいるあいだは、自分が正義の使者にでもなったように感じた。

趙雲を殺せ、そう叫んで、城の中央門までやってきた。
だが、そこまでやってきて、門も開いているというのに、民はぴたりと足を止めてしまった。
その中央に佇立する男のためであった。

18へつづく
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(C)Hasamino Nakama 10 01 11