翳りゆく明日

このお話は、「風の終わる場所」から続いている部分がございますm(__)m

「で、どうなった」
趙雲は、愛馬の背を洗ってやりながら、自邸の厩の片隅につんである、干草の束のうえに、長い足を投げ出して座っている孔明にたずねた。
孔明は子どもが水辺で足だけを浸してあそんでいるときのように、むき出しの土のうえに散らばる干草を、無意識のうちにつま先でいじめてあそんでいた。
こがね色の草がねじられ、散らばるのを見つめていると、古い土器の表面にきざまれているような、神秘的な文字が浮かび上がってくる錯覚をおぼえる。
実際には、地面のうえに、意味のある言葉はないのであるが。

趙雲はもくもくと、ちょうど孔明に背を向けるかたちで、馬の世話をこなしていた。
厩番はというと、孔明がやってきた時点で遠慮して、用を探して、外へ出て行ってしまった。
孔明は、趙雲に李巌のことを教えなかった。ただ、会って話をしたかったのである。
だから、李巌のことはすべて伏せて、陳到が持ち込んできた宋家の縁談のゆくえを中心に語った。
「休昭はうまくやったのか」
趙雲に問われたので、孔明は答えた。
「意外な展開になったよ。思惑通りというべきか」

休昭は、言いつけどおりに、じつに素直に、翌日には宋家を訪れた、らしい。
らしい、というのは、さらにまた翌日に、休昭がふわふわした足取りで、ひょっこりと孔明の前にあらわれたからだ。
なにやら夢見心地のぼんやりした顔をしているので、最初、孔明は、休昭が熱病でもわずらったのかと心配したほどだ。
脳裏に浮かぶのは、怒り狂った董和の顔である。
董和は左将軍府のなかでは、若年層にも老年層にも人気のある男だから、董和を怒らせるということは、左将軍府の大半の反感を一気に買う、ということだ。
こわごわと、どうであったかとたずねると、休昭は唐突に切り出した。
「旅に出ます」
「旅? なぜ?」
「宋珪麗どのの夫を探しに参ります。では、支度がございますので」
と、ろくに事情も話さず、来たときとおなじようにふわふわと座を去ろうとする休昭を、孔明はあわてて引き止めて、一から事情を聞くこととなった。

ざっとまとめると、以下のとおりである。
休昭は、孔明の名代として、宋家にむかったのであるが、さすが成都でも由緒正しい旧家にて、財産家でもある宋家。
屋敷の構えはじつに立派なものであった。
応対に出てきた宋家の主人は、字を文徳といって、いつもニコニコと笑顔のたえない、感じのよい人物であった。
しかし問題がひとつ。
耳が遠かった。
そのため、休昭が用件を切り出すと、どうやら遠くなっている耳は、良い部分だけを聞きとって、都合のいい方向に思考を持っていかせる機能があるらしく、
「軍師将軍が、わが娘の婿に名乗りをあげてくださったのか!」
ということになってしまった。



趙雲は、馬の背を磨く手を止めて、顔をしかめて振りかえった。
「それの、どこが思惑通りだ」
趙雲の反応は、孔明の予想どおりであったが、あえてため息をついてみせつつ、孔明はつづけた。
「まだまだ先がつづくのだよ」



休昭はあわてて、そうではないと説明するのであるが、文徳はまるで聞き入れない。
いやはや、これはとんでもない良縁が舞い込んできたものだ、と小躍りし、休昭をたいそうな待遇でもてなそうとする。
これはいかんと、休昭は、浮かれて話をまったく聞かなくなっている文徳の仲介をしてくれる者を探そうと、更衣をすると偽って席を立ったのであるが、なにせ屋敷が広すぎる。
勝手のわからぬまま、うろうろしていると、やがて、庭におりて、椿の木を剪定している娘をみつけた。
粗末ななりをしていたから、これは家人か、奴婢であろうと見当をつけ、休昭は声をかけた。
その娘は、目元の涼しげな凛とした雰囲気のある娘で、奴婢にはとても見えなかった。
しかし纏う服も、髪の結い方も地味なもので、海草のように真っ黒で豊かな黒髪を、襟足のところでひとつにまとめているだけである。
娘は、休昭が声をかけると、うるさそうな顔をして、ちらりと険しい目線を向けてきた。
その目に、休昭が一瞬、戸惑いを見せると、娘は、悪いことをした、というふうに表情を変えて、
「なにか御用ですか」
と尋ねてきた。
その、険しい表情から一変、困ったような、やさしげな顔を見たとたん、休昭はつよい衝撃を受けた。
こまごまとした心の動きをくどくど説明するのは、むしろ野暮というものだろう。
つまり、休昭は、その娘に恋をしてしまったというのである。
まさに一目ぼれ。

どうやって説明したかは、休昭は良く覚えていないが、ともかく事情を説明すると、娘は、やはり面倒そうな顔をして、言った。
「軍師将軍さまのお名前は聞いたことがありますが、宋文徳の娘は、たとえどなたがいらっしゃったとしても、夫としてお迎えすることはないでしょう。もうすでに夫があるのですから」
事情に詳しいところから見て、さては、この娘は、宋珪麗の侍女かなにかにちがいない。
宋珪麗に夫がいる、という話は寝耳に水であったが、そのときの休昭の五感は、すべて目の前の娘に集中していたから、だれに夫がいようと、どうでもよくなっていた。
この娘の声を、もっと聞きたい。
そう思った休昭は、それを調べてくるのがわが役目であると食い下がり、宋珪麗の事情をたずねた。
娘は最初、答えることを渋っていたが、休昭が、いつもの困り果てたような、泣きそうな顔をしたのを見て、仕方ない、とため息をついた。
そして教えてくれた話はこうである。

宋珪麗には幼少のころより許婚がおり、これと幼なじみとして育った。
ところがこの男、十六の年になると、出世をしたいのだと言い出して、家族の反対を押し切り、成都を出ることになったのである。
それを聞いた宋珪麗は、男をずっと待つつもりであったから、成都を出る前に妻にして欲しいと懇願し、親にも内緒で夫婦の契りをかわした。
男は成都を出て、それからどこぞの義勇軍に参加したそうなのだが、行方はそれっきり。たよりもとんと来なくなったが、宋珪麗は、男の誠を信じ、ずっと待ちつづけているというのである。

それは貞女だな。いや、烈女というべきか。
休昭が同情しながらも感心していると、庭の向こうから、どたばたと大きな足音を響かせて、まるまると太った娘がやってきた。
やってきた娘に対し、庭木の面倒をみていた娘は眉をひそめてたしなめた。
「小春や、お客さまの前で走るとは、何事です、はしたない」
走ってきた小春は、それでも息を切らせながら、娘に言った。
「けれど、これが走らずにいられますか。とんでもないことになりましたよ。お嬢さまの縁談相手、だれだと思います」
「この方から直に聞きました。軍師将軍の諸葛孔明さまでしょう。もとは徐州の方だと聞きました。でも奥方がいらっしゃるはず。この話がまとまってしまったなら、わたくしは側室にあがることになるのね」
「わたくし?」
目をぱちくりさせる休昭に、娘は堂々と、服についた葉をはらいながら答えた。
「わたくしが宋珪麗です。こんな格好をしているから、奴婢だとお思いになったのでしょう。うかつな使者さまだこと。諸葛孔明さまという方は、おっちょこちょいでらっしゃるのね」
「いえ、その、たしかに軍師の使者ではありますが、縁談の相手は」
ちがいます、と答える前に、珪麗は、ぴしゃりと言った。
「さきほど、わたくしの事情は説明いたしました。軍師将軍さまにお伝えください。珪麗は、すでに夫を持っておりますので、どうぞこのお話は忘れてくださいますようにと」
休昭は、珪麗の凛とした矜持に、つい言葉をなくしてしまった。
夫がいると言い切った。早くも失恋である。
が、普段はのんびり屋の休昭にしては、めずらしくすばやく頭を働かせ、立ち去ろうとする珪麗の背中にたずねた。
「では、もしも、あなたの夫という方は、いまは行方が知れないのでしょう。もしも、その方の行方がかったなら、お心が変わることもあるのでしょうか」
「どういう意味でおっしゃっているのかは、よくわかりませんけれど、そのときに考えます」
と、珪麗は答えた。



「と、いうわけで旅に」
「待て。つまりおまえは、宋文徳に、縁談の相手がわたしであると誤解させたまま、ぼうふらみたいにふわふわと戻ってきたというわけか」
「ぼうふらとはひどい。せめてあめんぼうと」
「同じだ! まったく、呆れたものだな。肝心なところを正さぬまま帰ってくるとは」
「ですから旅に」
と、言いながら、またも座を立とうとする休昭を、孔明はふたたび引き止めた。
「落ち着くのだ、おっちょこちょい! 幼宰どのは、このことをご存知か」
「はい。父に相談しましたところ、『おまえの思うようにするがいい』と」

孔明は、くらりと眩暈をおぼえた。
幼宰は、息子をとことん甘やかすところがあるが、今回の件も、例外ではなかったようだ。
しかし、無謀な。
可愛い子には旅をさせろということなのか。
いまは乱世。街道のあちこちに、道標と同じ頻度で山賊があらわれる治安の悪さ。
休昭ひとりを旅に出したなら、どんなことになるかは目に見えている。

「その夫とやらの足取りはつかめているのか」
「途中までは手紙が来ていたということなので、それを元に探ろうと思っております」
「休昭、ひとつ尋ねるが、おまえは成都から外へ一人旅をしたことがあるか」
「ございません。ですが、なせばなると思っております」
山深い平和な成都で、父親の庇護のもと、ぬくぬくと育ったお坊ちゃまの恐ろしさ。
なせばなる。
この言葉は、日ごろの努力をし、さらに加えて経験と知識が十分にある者にのみ通用する言葉だということを、まだ知らないでいるらしい。
まったくの無鉄砲、無計画で行動を起こしたらとんでもないことになるのは、火を見るよりあきらか。

孔明はこめかみをおさえつつ、言った。
「逸る気持ちはわかるが、ともかく落ち着け。おまえを一人で旅に出すわけにはいかぬ。一日待つがいい。おまえの旅の随伴者をさがしてやる」
「そこまでしていただけるのですか」
と、休昭は、感激したらしく、目をうるませた。
「ありがとうございます」
「礼はよい。おまえにこの件を向けたのは、わたしであるわけだしな」
ありがとうございます、と休昭は繰り返して平伏するが、しばらくすると、おずおずと顔をあげた。
「あのう、ついでといってはなんでございますが、軍師、例の件もお忘れなく」
「例の件とは」
「職場の穴を空ることになった場合に、わたしの上役に事情を説明してくださるというお約束でした」
孔明は、おのれの口を塞いで、ああ、そんな約束をしてしまったな、と嘆息した。
休昭の職場には、左将軍府の力はあまり及ばない。
それに、休昭の上役、尚書令の派閥に属する男だ。
もしかしたら、面倒な仲介が必要かもしれぬ。
そんなことを考えながら、ちらりと見れば、休昭の目は、まさに捨てられた子犬が腹をすかせて、けんめいになにかくださいなと訴えているときのように、哀れさをいっぱいにたたえていた。
これで、すまぬ、この話は流そう、などと言おうものなら、休昭から恨まれるだけではなく、幼宰からも恨まれることになるにちがいない。
当然、左将軍府の人間関係に、微妙な影を落すこととなるわけだ。
李巌や法正の動きにそなえて、まわりをがっちりと固めておかねばならないときに、内輪もめは避けたい。
「わかった。任せておくがよい」
孔明が答えると、休昭は、泣き出しそうな顔をして、ありがとうございます、と頭をさげた。

一目ぼれか。
おのれの心に照れているようでもあり、おのれの心のあたらしい発見に喜んでいるようでもある。
不思議と、手助けをしてやりたくなる少年である。
その屈託のない、素直な顔をみていたら、孔明もなんとなく心がほぐれて、まあよいかと、納得することにした。

そこで、人を介して、休昭の上役に話をつけ、つづいて文偉にもよく言いふくめて、休昭が旅に出たあとも、問題が起こらないように気をつけた。
休昭には、三ヶ月のあいだに夫という男が見つからねば、戻ってくるようにといいつけた。
さて、肝心の随伴であるが、ちょうどよいことに、蒋公琰が旅から戻ってきたので、これを呼び出し、事情を説明すると、休昭のために、また旅に出て欲しいと頼んだ。
ひさしぶりに成都に戻ったかとおもえば、また旅である。
嫌がるかもしれないと思った孔明であったが、意外にも蒋琬は、休昭の話をおもしろがり、こころよく承諾してくれた。
かくて、休昭は孔明のお膳立てのもと、宋珪麗の夫探しという、奇妙な旅に出たのである。


しかし、孔明にとっては、もうひとつ、厄介ごとが残っていた。
宋文徳という男が、どんな男かはわからない。
しかし、休昭の話からすれば、だいぶ調子のよい男のようなので、休昭が抱かせた勘違いを、早いうちに訂正しておくべきであろうと思った。
そこで陳到をあいだに立て、縁談の相手は孔明ではないと伝えに行かせたのであるが、しかし文徳の耳は、都合の悪いことには閉ざされてしまうらしく、あの陳叔至をして、文徳のまちがいを明確に正すことはできなかった。
気まずそうに姿をあらわした叔至のことばどおりに言うならば、文徳は、娘の縁談の相手が孔明『ではないかもしれない』と考えを変えた、ということである。
しかし娘に対し、かなりの自信があるらしく、もし軍師がじつは乗り気でないとしても、わが娘を見たならば、きっと軍師の気に入るだろうと豪語していたということだ。
それを聞いて、孔明は、陳到に、宋珪麗というのは、それほどにうつくしい娘かと尋ねたのであるが、かえってきた答えはこうである。
「たしかにお美しい方ではありました」
と、ここで陳到はことばを切り、同情をたっぷりこめた目で孔明を見た。
「軍師は、どうもあの手のお方と、なぜだかご縁があるようですな」
陳到は、孔明の妻である黄夫人を知っている。
あの手のお方、とは、つまり、かの女を指している。
つまり宋珪麗という娘、世の華やいだ娘たちとは一線を画した、一筋縄ではいかない娘らしい。
本当に縁があるな、とげんなりしつつ、しかし狙いどおり、休昭が活発に動いてくれているのならば、よかったと思うことにした。



「では、話の成り行きでは、おまえが宋家の娘を娶らねばならぬということだな」
趙雲は、ふたたび馬の背を磨き始めながら、ぼそりとつぶやいた。
孔明は、きつく眉をしかめ、その背中をにらむ。
「なぜそうなる。そんなことにはならぬ」
「叔至でさえ、先方の思い込みを正すことができなかったのだろう。それに、おまえは、どうも、ひとの要望に過剰に応えようとする傾向があるからな」
来たときから感じていたが、どうも機嫌がわるいな、と孔明は趙雲の口調から感じ取った。
出直したほうがよいだろうかと思いながらも、つづける。
「だからといって、なんでもほいほいと言うことを聞くほど、わたしはお調子者ではないぞ。だいたい、婚儀といったら、人生の最重要事項ではないか。簡単に、はい、わかりました、いただきます、というわけにはいかん。相手にも失礼ではないか」
黄夫人のときが、まさにその奇妙なノリで話が進んでしまったのである。
その結果はいわずもがな。
同じ轍をまた踏むわけにはいかなかった。

「世間は、わりと簡単に、わかりましたと答えているようだ。だから血は続いていくのだろうな」
「世間がそうだとしても、わたしはちがうよ」
「どうして」
「知っていることを、なぜ聞く」
答えながら、孔明は、地面に落ちる、おのれの影を見つめた。
李巌のことは、趙雲には言っていない。
言ってしまったなら、趙雲がどれほどに怒るか、想像がつかなかった。
趙雲は、怒りにとらわれると、張飛のようにわかりやすく激昂しない。
冷たく、静かに、怒りを滾らせるのだ。
そうなった趙雲は、普段では考えられないほどに残酷なことも、平気でする。
この戦いに大きく遅れをとっているからこそ、慎重にならねばならない。

孔明は、あれから、王連と会見を設けようとしたが、いろいろと邪魔がはいって叶わなかった。
どうやら、王連自身が、孔明の前に姿をあらわすことを避けているらしい。
評定のあとにつかまえようとしても、すかさず逃げられてしまう。
こそこそと逃げ回るような男には見えないのだが、なにかよほど深い事情があるのだろうか。
なにかあるのだとしたら、そこが勝機につながるかもしれない。

偉度の報告によれば、李巌と法正の接近は、日を追うごとに深くなっているらしい。
李巌は荊州人士との付き合いも深い。
劉備の軍師になる前は、人嫌いの変わり者としてとおっていた孔明には、人の縁というところでも、李巌に大きく遅れをとっている。
荊州人士にあたえる影響も、李巌のほうが上だ。
対する孔明は、黄家のつながりがあるとはいっても、名前ばかりだ。
馬家とのつながりといっても、弱い。
辛うじて、龐家に嫁いだ姉の威光がすこしばかりあるだけだ。
この心もとなさを解決するために、やはり手っ取り早いのは、養子を出したりもらったり、あるいは妻を得たりすることなのだろう。
ここにきて、孔明は、はじめて兄の苦労を身に沁みて知った。
だからといって、いまさら、かれらとおなじ道を取ることには抵抗がある。

「目晦ましのために、妻を娶る、というのも手段のうちだろうな」
ぽつりとつぶやいて、孔明は、おのれの顔に触れてみる。
宦官でもないくせに、男をたぶらかす。
襄陽にいたころに、よくそんな陰口を叩かれた。
しかし、だからといって、男から、ふざけ半分にでも、言い寄られたことなど、一度もない。
やはり、李巌の感覚は、邪なのだ。
あの男こそ、心のなかに、やましいものを抱えているのではないか。だから、そんな発想が容易に出てくるのだ。
休昭を見習え、休昭を。口止めをする必要もないぞ。漆をもっと浴びせかけてやればよかった。
好きでこんな顔に生まれてきたわけでもないし、好きで選んだ運命でもない。
李巌のように、才能と男らしい風貌、強運にめぐまれ、やることなすこと、ほとんどすべてが成功につながってきた男には、こちらのことはさっぱり理解できないだろうと、孔明は思う。
不思議なもので、たとえどんなに言葉をかわしても、決して共通点を見い出せない相手というものがある。
それがいまの、孔明にとっての李巌であった。
こうして対立することにならなくても、避けたであろう。苦手な男である。
李巌は、法正や孔明を追い落としたあと、なにをしたいのだろう。
それが見えてこない。
勢力の頂点になることだけが、あの男の目的なのではないかとさえ思えてしまう。
それほどに、行動に哲学が感じられないのだ。
いや、哲学がないからこそ恐ろしいのだ。
美学をもたないということは、ただそこには欲望があるばかりで、そこに恥の観念がない、ということである。
恥をしらない者は、信頼関係をあっさりと切り捨てることができる。
なりふりかまわず動く。
だから、正攻法をこのむ孔明は後手後手にまわざるをえない。

いまのところ、防戦の一方だ。
そろそろ反撃に転じたいところであるが、さて、どう動くべきか。


顔をあげれば、趙雲はあいかわらず馬の背を磨き続けているのだった。
いいかげん、馬もうんざりしているのが、その胡乱な目つきで知れた。
こちらに背を向けたままなのは、なにか言いたいことがあるのか、それとも、帰って欲しいのか。
「目晦ましとは、なにを世間から隠そうとしている」
あきらかに険の含まれた口調で趙雲に問われ、孔明は、おどろき、めずらしく言葉を濁しつつ、答えた。
「隠すというか、すまぬ、言葉がきつかったか。しかし、妙な勘繰りをされないようにする手段として、そういう手もあるな、という話だよ」
「俺はおまえの主騎だ」
「わかっているよ」
なにを言いたいのだろうと、孔明は、じっと趙雲の背中に視線をそそぐ。
顔をみないまでも、その背中が、怒りにとらわれているのがわかった。
「俺はおまえのことは、だいたい把握していると思った。考え方や、嗜好、好むもの、厭うもの、その両方ともだ」
「そうだろう。わたしより、あなたのほうが、きっと知っている」
「いいや。いまわかった。いつか、秘密があることを、気付かれぬようにしろと俺に言ったな。それなのに、おまえは俺に、あけすけに暗い部分を見せつける」
今度は、孔明がその言葉に腹を立てる順番であった。
「なにを言い出すのだ。暗い部分とはなんだ。たまたま出てきた言葉に、どうしてそこまで過敏になる」
「たまたまだから怖いのだ。人の目を晦ますために妻を娶ろうなどと、やめてくれ。その女の心はどうなる」
「だから、わたしはそんな手段はとらないと」
言っているだろうとつづけようとしたが、趙雲は、それを制した。
「言うな。おまえの言葉遊びに付き合いたくない。俺は、おまえが世間一般のほかの男のように、女を道具として見ないやつだと思っていたが、勘違いだったようだ」
「それは」
「おまえも俺の父や兄とおなじで、権勢を守るためならば、どれだけ『道具』が傷ついてもなんとも思わないのだな。自分以外の者を、道具として見ているのではないか。俺には理解できぬ」
「それは言い過ぎだぞ、子龍。わたしは、だれのことも道具などと思っておらぬ」
「本心を知らないだけではないのか」

孔明は口をとざし、趙雲の怒りのこもった眼差しを、黙って受け止めた。
趙雲の家のことは、あまりよく知らない。
陳到から聞いたり、あるいは本人が断片的に語ったことを、頭のなかでつなげて、まとめているだけだ。
人に語りたくないなにかが、この男にもあり、どうやらそこに急に踏み込んでしまったらしい。
いびつな何かを抱えて、この男もまた苦しんでいる。

「子龍、わたしの言葉が過ぎたのは謝る。けれど、今日のあなたもおかしい。いったい、なぜそうまで怒るのだ。父君や兄君の話が唐突にでるのもふしぎだ。故郷の実家から、なにか言ってきたのか」
問うと、どうやら図星であったらしく、趙雲は気まずそうに目を逸らした。
ここでうやむやにする孔明ではない。すぐに追撃に出る。
「なにがあったのだ。あなたがそこまで怒る理由を知らなければ、わたしとて、素直に叱られる気になれないよ」
孔明が言うと、趙雲は、ため息をついて、孔明のほうを向くのであるが、目はらしからぬことに、孔明の顔を見ようとしない。
「兄より、久しぶりに便りがきたのだ」
「それはよかったな」
「絶縁するつもりだ」
話が飛びすぎる。孔明は仰天して尋ねかえした。
「なぜ。絶縁は極端すぎる」
「兄には三人の男子がいる。つまりは俺の甥だ。兄は、跡取りをいままで長男に指名していたのだが、ここへきて、三男にゆずると言ってきた。このまま長男を手元に置いておくと揉め事になるだろうから、養子としてもらってくれないかと言う」
当然、孔明の脳裏にかすめたのは、自身の兄との確執である。
こうまで兄弟仲がわるくなったのは、そもそも、次男で、正妻腹ではない孔明が嫡男としてえらばれたことにはじまるのだ。
しかし、揉め事はこまるからといって、血の分けた子を、十年ちかく会っていない、遠方の弟に押し付けようとすることも、ひどい話であった。
「腹を立てる理由はわかるが、絶縁はまずいだろう。そも、なぜ兄君は、跡取りを変えることにしたのだ」
「理由は単純だ。三男の母親に言われたからだろう」
「ああ、なるほど。劉表のお家騒動を思い出すな」
夫人同士の争いかと思った孔明であるが、趙雲は皮肉げに顔をゆがませる。
「三男の母親は、表向きは奴婢に生ませた子とされているが、ほんとうの母親は、別の女だ。その女は、俺たちの、つまり俺と兄の義母でもある」
孔明は言葉をうしない、まじまじと趙雲を見た。
すっかりあきらめきって、疲れ果てた顔が、そこにあった。
「おまえと俺は似ている。けれど、それは境遇が似ているというだけだ。やはり、おまえはおまえで、俺とはちがう考えや価値観を持っている。俺と同じように、おまえも感じるのだろうと、根拠もなく思っていた俺もわるいが、しかし、こうまでちがうとは」
突き放されたと、孔明はぞっとしながら気がついた。
しかし、こういうときにどうしたらよいのか、わからない。
言うべき言葉をすっかりうしなって、呆然としていると、趙雲は容赦なく孔明に背を向けた。
「もう遅くなるだろう。帰ったほうがいい」
「いままで幻想をわたしに重ねていたと言い捨てて、そのまま終わりにするつもりか」
問うても、趙雲は答えずに、厩の掃除をはじめる。
頑ななその態度に、さすがに孔明も衝撃からさめて、怒りをおぼえた。
目の前に立って、こちらを向けと怒鳴りたい気持ちにすらなったが、趙雲の双眸の暗い影に気づいて、ぐっと堪える。

堪えたのは、人目を気にしたからではない。
やはり、孔明は、おそらく趙雲自身が思っている以上に、趙雲のことを理解しているのだ。
言葉は結局のところ、道具にすぎない。それこそ、目晦ましにもなってしまう。
ぶつけられた言葉の数々のなかに含まれる、苛立ちや怒り、悲しみといったものは、そのじつ、おのれに向けられているのではないことに、孔明は気がついた。
心に抱えた暗いもの、重いものを、受け止められる者が、趙雲には、ほかにいない。
不器用だから、思ったままを、まっすぐぶつけてくる。
憎んでいるのでも、失望したのでもない。思いもかけないほどに悲しいから、どうしたらよいかわからなかったのだろう。
本来ならば怒りを向ける相手は、真から「おのれ以外の者を道具として見ている」者たちなのだ。
しかし怒りをぶつけようにも、趙雲は、あまりに遠くに来てしまった。
捨てたのか、捨てられたのか、それは孔明にはわからない。
けれど、趙雲が避けよう、避けようとしているものは、つねに意地悪く行く手に待ち受けていて、趙雲を苦しめている。

言葉をかけようかと思ったものの、孔明は思いなおして、くちびるを閉じた。
いまは、なにを言っても聞こえないだろう。
「帰るよ」
それだけ言うと、孔明は踵を返した。
そうして歩みを進めたのであるが、不意に、不安におそわれて、振り返った。
しかし、趙雲は、やはり無言のまま疲れたような、暗い顔をして手足を漫然と動かしているだけである。

言わねばならないことがある。

孔明は、ふたたびくちびるを開いたが、しばし悩んで、結局のところ、なにも言わずに立ち去った。

その後、言わなかったことへの後悔と、同じくらいにつよい安堵との、せめぎあいに悩まされることとなった。




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