翳りゆく明日
三
このお話は、「風の終わる場所」から続いている部分がございますm(__)m
李巌は、見るからに豪奢な衣で鍛え上げられた体躯を包んでおり、凛々しい風貌には、得体の知れない笑みが浮かんでいる。
李巌は、中腰になったままの孔明を見ると、背後にひかえていた者たちに手ぶりで合図をする。
すると、男たちは、孔明にことわりなく執務室に入ってくると、おなじように無言のまま、扉や窓、そのすべてをそとから見えぬように閉ざしてしまった。
孔明は、李巌から目を逸らさず、ゆるゆると座についた。
部屋の唯一の出入り口である戸口のところには、李巌が悠然と腕を組み、こちらの出方をうかがって立っている。
その、余裕のある楽しそうな表情に、むしろ孔明は持ちまえの負けん気を刺激された。
そして、気づかれぬように息を吸うと、つとめて平静に、問う。
「広漢以来でございますな。なにかわたくしに御用でございますか。あいにくと、これから来客の予定がございまして」
「なに、ちょっとした挨拶に来たのだよ。ところで、客とは、王司塩校尉のことではないかな。ならば、かれはここにはこない」
言いながら、李巌は、壁にあずけていた背をゆっくりと起こし、孔明のほうに足を運んでくる。
文武両道の男だ。その足取りは鍛えられた者のそれで、いかにも俊敏そうである。
李巌は、窓や戸口を閉ざした者たちに、下がるようにと、手ぶりで示し、孔明の前に立った。
男たちが下がり、扉の閉ざされる音が、大きく響いた。
孔明は、文机の上で手を組んだまま、胸元に隠してある短刀をあらためて確認した。
それは、孔明が劉備の軍師になって以来、ずっと身につけているものである。
じりじりと、燭台のうえの火がゆらめく音すら聞こえる。
「無礼は許してくれたまえ。こうでもせねば、なかなか差し向かいで話すことはむずかしいからな」
「何用かとたずねております。お答えいただきたい」
孔明が、李巌の、妙に親しげな態度を突っぱねるようにして問うと、李巌は、こわばった孔明の態度をわらうように、両手をひろげて見せた。
「なにを警戒しているのかね。わたしたちは、おなじ主君を戴く仲間ではないか。武器なんぞ、持ってはおらぬ。人払いをしたのは、君にどうしても言わねばならぬことがあったからだ」
「わたくしには、なにもございませぬ」
「そうかね。しかし、わたしにはある。聞きたまえ。まずは謝らねばならぬ。君を討てなかったことに対してだ」
孔明は、狼狽した。
まさか、堂々と面と向かって、李巌の方から、刺客を送ったのは自分だと宣言されるとは思っていなかったのだ。
なにを考えているのか。
李巌の思考を追おうと頭を働かせるが、それこそが、李巌の思う壺であった。
うろたえる孔明に、李巌はさらにつづける。
「腕のいい連中を雇ったのだがね、事前に察知されていたのでは、たまらぬよ。趙将軍は、相変わらず主騎としては有能なところを発揮したようだな。敵に対する敏感な嗅覚というものは、武人には必須だ。たいしたものだよ」
「では、今宵は、そのお返しをしにきた、というわけでございますか」
憎悪のはっきりと籠められた眼差しを向け、孔明が尋ねると、李巌は声をたてて笑った。
「いいや。君を闇討ちすることは、あきらめた。ああいう手合いに払う金は莫迦にならないからね。君のまわりに目ざとい連中が張りついているかぎり、後ろ暗い手はなかなか通じないと学習したよ」
「広漢の件の口封じのおつもりか」
「それもがあるが、単に君が邪魔なだけだ」
あっさりと、李巌は言い切った。
冗談か? それとも脅しか?
判断しかねて、孔明は沈黙する。
いままで対立したことのある政敵、龐統も法正も、李巌とはちがう性質をもつ男たちであった。
目的のためには手段を選ばぬと言われている法正でさえ、たとえどんなに対立することになったとしても、孔明に直接、刺客を送ってきたことはない。
李巌は、そのさらに上を行こうというのか。
刺客を送ったことを堂々と口にして、こちらを愚弄するつもりなのか。
いいや、ちがう。これは純粋に挑戦なのだ。
それほどに、この男は、おのれに自信があるのだろう。
「たいした自信でございますな。将軍がわたくしに刺客を送ったという証左はなにもない。ゆえに、わたくしが騒いだところで、李将軍は痛くも痒くもない、というわけですな。
たとえ騒いだとしても、すでに周囲は完全に固めてある。世論はわたくしには同調しないであろうという」
すると、李巌は嬉しそうに目を細めた。
燭光に浮かび上がる李巌の顔は、陰影が濃く、不気味ですらある。
まるで蛇に見つめられているようだと、孔明は怖じた。
そして、おのれを励ます。
この男は周瑜ほどではない。
わたしは周瑜も龐統もやりすごしてきた。
この男とて、おなじように乗り越えてみせる。
「君は、本当に飲みこみが早くて助かる。余計な説明をいちいちしなくてすむのだからね。君が片腕になってくれたなら、これほど心強いことはないのだろうが」
孔明が反駁しようと口を開くのを、李巌は手で制して、おのれの言葉をつづけた。
「わかっているよ。君は、誰の下にもつけない人間だ。人の身には、龍を御することはできない。そうだろう」
同調することはできない。
李巌の言わんとするところは、要するに、劉備にさえ、孔明は御しきれていないのだということだ。
「買いかぶりでございましょう」
「慎重だな。たいへん結構」
「わたくしに、詫びを入れにきてくださったのでしたら、もう十分でございます。夜も更けてまいりましたし、お帰りになられてはいかがですか」
「そう邪険にするものではないよ。今日は君としっかり話をしようと思ってきたのだからね」
「話は終わっておりましょう。あなたはわたしを討ちもらした。しかし、わたしを諦めるつもりはない、という。ならば、わたしたちのあいだに、変わるものはなにもない。お引取りいただきましょう」
「もう君の命を狙ったりはしない」
そう言うと、不意に李巌は身を屈め、おのれを見上げていた孔明の顎を上向きに掴みあげた。
逃げねば。払いのけねば。
心が警鐘を鳴らすより、李巌のほうが早かった。
身体に触れられ、とたん、頭が真っ白になる。
呼吸することすら忘れ、全身を強ばらせた。
目のまえに、李巌の顔がある。なにかを語っている。
上下に動く唇を、孔明は感情のすべてがうせた視界のなかで見ていた。
くちびるの動きにあわせて、おなじく動く黒い髭は、まるで生き物のようであった。
「むかし、君が襄陽にいたころに、見かけたことがある。そのころは、君はまだ号をさずけられたばかりのころだった。正直なところ、おどろいたよ。戦乱を避けて男装をした女かと思った。
わたしは従者に思わずたずねたものさ。『あれは男だろうか、女だろうか』とね。しかし従者も答えられなかった。
君を知るものにたずねたら、名前を教えてくれた。二文字の姓はめずらしいから。忘れることはなかったよ。ましてこれだけの容貌、忘れるほうがむつかしい」
ゆっくりと、言葉が、意味をともなって戻ってきた。
孔明は、おどろきからさめて、間近にある李巌の顔をにらみつける。
「君は不思議だ。まるで年を取らないように見える。男とも女とも判別のつかない、清らかな美しさ。それでいて、わたしでさえ、どきりとするような色香を見せることがある。君がもし女に生まれていたならば、国がひとつやふたつ、簡単に傾いていたかもしれないな」
孔明は、きつく李巌をにらみつけた。
「なにを言い出すやら。血迷われましたかな」
孔明が本気でにらめば、たいがいの者は怖じて引くのであるが、李巌はそうではなかった。悠然とした笑みをたたえたまま、言う。
「残念ながら冷静だよ。一度、間近で君を見てみたいと思っていた。宦官でもないくせに、男をたぶらかすことができる顔がどんな顔だろうかとね」
「無礼な!」
孔明は、力のかぎり、おのれのあごをつかむ李巌の腕を振りはらった。
そして、文机のうえにあった漆を、李巌にめがけてぶちまける。
「一度ならずに二度までもわが命を狙い、さらには面罵する無礼、許せぬ!」
「人を呼びたければ、好きにしたまえ。やれやれ、かぶれないといいが」
浴びせかけられた漆をぬぐいつつ、李巌は興奮する孔明を面白そうに見ながら言った。
「どうしたのだね、呼びたまえ。そして、説明するがいい。さきほどのつづきだ。ここには、尚書令どのの、つまりは、わが未来の義父の息のかかった者たちばかりが詰めている。君がなんと言おうと、みなは信じやしないよ。いいや、万が一にも信じることはない」
文机の上で孔明が拳をぐっとにぎりしめると、李巌は効果ありと判断したか、愉快そうに笑った。
「どうやら、わたしと尚書令どののご息女との婚約の話は、君の耳にも届いたらしいな。君に先を越されなくてよかった。
左将軍府の人間は、だれもかれも君とおなじで、正攻法を好む。君と、君の味方は正直すぎるのだ。真正面からぶつかっていけば、人の心を変えられると信じている。しかしね、政事を動かすつもりならば、それだけでは駄目なのだ。地位、金、そして女。この三つを使いこなせない者は勝利できない。
そして君の動きはおそすぎる。隙だらけだ。人の心はつねに変転するもの。変わらないものなど、ひとつもないのだよ。荊州の田舎を治めていればよかった昔とはちがうのだ。
とはいえ、おかげで、わたしとしては助かるばかりだ。尚書令どのの力を得ることができるし、尚書令どのも、わたしという味方を得ることができて、喜んでおられる」
孔明は、興奮して荒くなっている息を懸命にしずめつつ、たずねた。
「なぜだ。あの誇り高い男が、貴様の下につくことを容認したというのか」
しかし、李巌は孔明の心のうちを読んでいるらしい。見下すような目を向けて、あきれたように言う。
「知らないのかね。あの方のご子息はまだ幼い。尚書令どのは、ご自分の年齢をかんがえ、ご子息が成人するまでのあいだの後見人を探しておられたのだよ。それにわたしが名乗りをあげたというわけさ。
聡い連中は、さっそくわたしに近づいてきているよ。魏文長なんぞはよい例だな。あれは成り上がりの武人にしては動きが早い。
魏文長、法尚書令、そしてわたしと、不思議ではないかね。並べてみれば、君と対立し、しかし主公の信頼厚い者ばかりだ」
「わたしを囲んだつもりか」
「つもり、ではない。囲んだのだよ。だから、今日はあらためて宣戦布告に来たのさ。もう君を殺す必要はなくなった。正面から堂々と、君を追い落としにいく。
最初から、ちゃんと向き合って話をすればよかったな。あらためて言おう。わが方に付きたまえ。それが出来ぬというのならば、主公の前から消えるがいい」
「出来ると思うか」
「そうかい。いまならば、君があの男と消えたところで、あまり世人は気にしないと思うのだが」
「あの男とは、誰のことを言っている」
「しらばっくれる気かね。君に異常な執着を見せているあの男だ。君を見ていれば、妖しい気持ちに動かされても、致し方ないところだと同情するが、しかし、こちらも必死なのでね、攻撃の手をゆるめてやるわけにはいかん。
あの男のもとにいた、古参の部将を何名か引き抜かせてもらったよ。これがなかなか優秀だ。上役の奇妙な性癖の影響は受けておらぬようだし、ひろいものだったよ」
孔明は、咄嗟に文机のうえの文鎮をつかんだ。
「おやおや、顔に似合わず凶暴な。そんな顔をするものじゃない。せっかくの美貌が台無しだよ。しかし、君も賢いところでよく考えてみるがいい。尚書令も、魏文長も、わが方にある。それにくらべて、歯抜けの櫛を使い続けねばならぬ君は、なんと気の毒なことだろう。勝ち目はないよ」
「言いたいことはそれだけか。なれば出て行くがいい」
「心は変わらぬか」
「くどい。出て行け!」
「出て行くのはかまわないが」
言いながら、李巌は、しゃんと立つと、孔明に背を向ける。
が、戸口のところへ向かう途中で、ぴたりと足をとめて、振りかえった。
「君もたいがい不器用だな。なぜ否定しない」
「否定するまでもなく、子龍とわたしの間には、貴様が邪推するようなものはなにもないからだ」
「わたしは、『あの男』が趙子龍だとは、一言も言っていないのだがね。ところで、もうひとつ付け加えておこう。わたしは君の癖を知っているよ。君は嘘をつくときに、自分の親指を握りしめる」
孔明は、指摘されてはじめて、文机の上に組んだ指が、親指を握り締めていることに気がついた。
「君は、わたしに敵わない。それではさようなら、臥龍どの」
孔明は、つかんでいた文鎮を持ち上げると、戸口をくぐろうとする李巌の背中めがけて投げつけた。
しかし文鎮は、李巌の背中には当たらず、戸口の横の柱に、にぶく当たっただけであった。
吐き気がする。
頭が痛い。眩暈がしてきた。
吐き気がする。
体中の血が沸騰している。それでいて、頭は奇妙に冴え渡っている。
また、あの厄介な癖が出てきた。
反抗するのが遅くなったが、幸いにも、あの男には気づかれなかったようである。
こちらを完全に見くだしているからこそ、孔明がおびえたものだと勝手に判断して、気づかなかったのだ。
気づかれないでよかった。
もし気づかれていたなら、刺客さえよこしてくる男だ。なにをしてくるかわからない。
李巌につかまれた顎に、その野太い指の感触が残っている。
気持ちがわるい。
孔明の脳裏に、刺客に襲われたときに集落に逃げ込んだときのことが浮かんだ。
あのとき、趙雲はおなじように触れてきたけれど、恐怖はなにも感じなかった。
かれだけに出ない癖なのか。
それとも、李巌の行動が唐突だったからなのか。
最近は、趙雲以外でも、不意に触れられても、むかしのように硬直してしまうことはなかった。
そうだ、李巌の行動が唐突だったから出た癖なのだ。
大事無い。治っている。
趙雲に会わねばと、孔明は思った。
会って、今後のことを相談しなければ。
そうして立ち上がろうとする孔明であるが、意志と反して、身体が動かない。
会ってどうすると、別の声が聞こえてくる。
会って、そして、李巌にいわれた言葉を、なにもかもぶちまけるのか。
できやしない。
そうかといって黙って誤魔化したところで、あの男のことだ。
こちらの様子がおかしいことにすぐに気付き、何事があったのかと詰め寄ってくるだろう。
黙っていられるだろうか。
孔明は両手で顔をおおい、大きく息を吐いた。
駄目だ。こんな有様で顔を見たら、隠し事などできずに、なにもかも言葉にしてしまいそうだ。
そうなれば、すべて破綻だ。
そこまで考えて、孔明は、思わず乾いた笑いを漏らす。
わたしもひどい人間だ。自分の保身のことばかり考えている。
だから、子龍の周囲の異変にも気付かなかったし、なにもかも知っているくせに、知らないふりを続けていられるのだ。
男とも女ともつかない、あいまいな、か。
わたしはつねに中庸のなかにあって、どちらになることもできない半端者なのかもしれない。
しばらく燭の燃えるちいさな音を聞きながら、考えごとにふけっていると、戸口のほうで音がする。
さては、李巌に指示されて、下がっていた文官が戻ってきたかと首をめぐらせれば、そこにいたのは、董和の息子で、十七になる休昭であった。
半開きになった戸口から、おずおずと、内気そうな柔和な顔を見せている。
目が合うと、びくりと身をすくませた。
おそらく、孔明の形相は、修羅のようになっているからであろう。
「休昭ではないか」
なぜここに、と問いかけて、孔明は口を閉ざした。
なぜもなにも、宮城は、休昭の職場である。
休昭は、気まずそうな顔をしながら、か細い声で言った。
「軍師がいらしているとうかがいまして、ごあいさつをしてから帰ろうかと思っておりました。お邪魔でしたでしょうか」
「いいや。邪魔などではない。いまから帰るというのか。ずいぶんと遅いな」
「はい。すこしばかり失敗をしてしまいまして、先輩にやり直しを指示されておりました。いま終わったところでございます」
「今日は、文偉は一緒ではないのだな」
「文偉はもうに帰りました」
そうか、一人なのか、と呟きつつ、休昭のおっかなびっくりとした顔を見て、孔明は、胸の内にくすぶっていた怒りが、だんだんと鎮まっていくのを覚えていた。
休昭は、なにやら親からはぐれた子犬のような目をした少年である。
見るからに頼りないために、なにかしてやらねばという気持ちを起こさせるのだ。
父親の董和は、いまもって休昭を、ゆりかごであやすようにして、大事に育てていると聞いているが、本人を前にすれば、手をかけつづけている董和の気持ちがわかるような気がした。
「一人だというのならば、途中まで送ろう」
そう言って、孔明が立ち上がると、休昭は、えええ、と素っ頓狂な声をあげた。
「なんだ、いやなのか」
「いやではありませぬ。滅相もない。わたしにちゃんと軍師のお相手が務まりますかしらと思いまして」
「文偉と一緒にいるときのようにしておればよろしい。それとも、いまのわたしは、おまえが怖じるほど恐ろしい顔をしているのかね」
はあ、と生返事をしつつ、休昭は床に落ちる文鎮や、漆などを見下ろして言った。
顔に出るやつだ、と孔明は思う。
どうやら、休昭は、かなり前から廊下にいたものらしい。
床を見下ろす休昭には、聞いたほうがよいのか、それとも聞いたら薮蛇になるだろうかと、迷っているのがありありと見えた。
どこから見ていたのだろう。
詰問してもよいが、これは董和の子だ。あまり邪険にはしたくない。
頭のなかでいろいろと探っていると、休昭のほうが、声をこわばらせて尋ねてきた。
「あのう、どなたかと喧嘩をなさったのですか」
「喧嘩というよりも、宣戦布告を受けたのだ。それはよい。さあ、帰ろう」
孔明が流してくれたと思ったのか、休昭はあきらかにホッとした顔を見せる。
このまま、こちらもなにも知らない顔をして、家に帰してやりたいが、そうはいかない。
孔明は、立ち上がり、執務室を出た。
休昭は、すこしばかり落ち着かない様子で、孔明の一歩うしろをついてくる。
乱雑な部屋はそのままだが、あとは、勝手に席を立った文官に片づけさせればよい。
ちらりと斜め後方を見れば、休昭は、顔を赤くして、懸命に話題を探しているところであった。
たしかに黙ったままでは気まずかろう。
とはいえ、休昭の緊張が移ったのか、孔明も、なにを口にしたら良いか、すぐには頭に浮かばなかった。
十七か。
そのころのわたしは、叔父を失ったばかりであった。
そう、徐庶に会ったのも、このころだったな。
徐庶とは、どんなことを話していただろうか。
そんなことを考えていると、休昭が、すこし上ずった声で、言った。
「夜なのに、夜ではないような気がいたします」
「面白いことを言う。なぜ」
「わたしの前には、軍師がおられます」
「それは、わたしが蛍のように派手だということかな」
「いえいえいえいえ! いつもにも増して迫力のあるお姿だと思います、誉めております!」
「それは、どうもありがとう」
「それに、さきほど、李将軍とすれちがいまして、騒いでらっしゃたので、わたしもすこしばかり興奮しております。
李将軍が、なにかにかぶれた、痒くてたまらぬ、薬師を呼べといって、まわりの方々に八つ当たりをしてらっしゃいました」
それを聞いて、孔明は、怒りと不安で強ばっていた体が、すこしほぐれるのをおぼえた。
余裕のある素振りを見せていたが、虚勢だったのか。
となれば、あの言葉も、半分はハッタリと見做してよいものかもしれぬ。
そうだ。おそれるな。
子龍をだしに愚弄されたからこそ、わたしは正気をうしなっているが、戦う手段はまだまだある。冷静になれ。
「休昭、漆にかぶれたら、沢蟹の汁を肌にぬるとよいそうだよ」
「左様でございましたか。わたしもたまに、腹を立てると、漆を投げつけたくなります。実行なさる軍師はやはりすごい」
と、答えてから、休昭は、はっとなって、わたわたと挙動不審になった。
「いえ、あの、その、なんと申しましょうか、たまたま、ええと、いろいろと!」
「休昭」
「あひ」
はい、と答えたものらしい。
孔明は、廊下にいる衛士たちがこちらに注意していないのを確認してから、声を落としてたずねた。
「どこから見ていたのだ。正直に答えよ」
「申し訳ございませぬ。盗み見するつもりはなかったのですが、李将軍が人払いをなさっていたことに気付かずに、ついついお部屋に近づいてしまったのです。迂闊でございました。
李将軍が、そのう、軍師の顎を掴み上げて、ええと、なにやら無礼なことを口にしておりました」
見られたくなかったところを、ほとんど最初から見ていたというわけだ。
孔明は、太い息をつく。
さて、これから、どうやって沈黙を買うべきか。
休昭は、上目遣いに、そろそろとご機嫌をうかがうようにして、そそっ、と寄ってくると、声をひそめて言った。
「あのう、軍師、わたくしはだれにも喋りませぬ。偉度にも文偉にも、ぜったいにぜったいに喋りませぬ。李将軍はひどい。
たとえ相手がだれであれ、ひとを宦官のように貶めるなど、許せませぬ。わたくしは、父上ともども、軍師を応援させていただきます。ええ、そうですとも」
と、おとなしいばかりだと思っていた少年は、最初はおとなしくしていたが、言葉を口にしていくうちに、興奮したらしい。
頬を紅潮させ、目を輝かせ、意気込んでいる。
孔明は、休昭の声がどんどん大きくなったので、衛士のほうをちらりと気にしつつ、ああこれは董和の子であったな、とあらためて思い出していた。
李巌の言った言葉の裏側に、思いもかけない心情がひそんでいるなどと、夢にも思わないらしい。
「わかった、おまえを信用しよう。声を落としてくれ。このことは、幼宰どのにも内緒でな」
「それはもちろん。休昭を信頼してくださいませ」
休昭は、孔明に信頼されたということで嬉しさもあるようだが、どうやら、父親にも言えない秘密ができたことに、冒険心を刺激されたようである。
十七というものだな、と思いつつ、孔明は言った。
「知っているか。漆のかぶれは、3日はつづくそうだ。かぶれた顔で花嫁に会いに行けばよいのだ」
「花嫁?」
孔明の言葉をとらえて怪訝そうにする休昭であるが、孔明がなんでもないと答えようとするより先に言った。
「もしや、偉度の縁談のことでございますか。李将軍が、それになにか噛んでいるのでしょうか」
と、休昭は、らしくもなく乱暴な言葉をつかって、孔明に話をあわせようとする。
目をきらりと光らせた休昭に、孔明は苦笑しつつ答えた。
「おまえも、叔至が偉度に勧めたという、宋家との縁談のことを知っているのか」
「はい、昨日、偉度に会いました。陳将軍が気の進まぬ縁談をすすめてきて、こまっているとぼやいておりました。
陳将軍は、銀輪と偉度を引き裂きたいがために、縁談を押しつけているのでございます。友として、この縁談には、わたしは反対です」
「ほう、めずらしくおまえがはっきりと物を言ったな」
「われら士大夫は、民の模範となるため行動に制約が多く、心をいつも張りつめていなければなりませぬ。家庭は心休まる場所でなければ、やってられませぬ」
「と、父上が言っていたのであろう」
「う。そうでございます」
「幼宰どのが言いそうなことだな。幼宰どのは、おまえの母上とは、たいそう仲がよかったのだろうな。いまだに後妻をもらわず、独り身を通しているのだから。おまえも十七になるだろう。そろそろ縁談が持ち上がっているのではないのかね」
すると、休昭は、沈んだ顔になって、深くため息をついた。
「それが、まったくなにも。やはり貧乏学士に縁談を持ちこむ物好きは、いないのでしょう」
「おや、その口ぶりでいけば、おまえは、はやく結婚したいと思っているのだな」
「それは当然でございます。文偉でさえ、わたしとおなじ貧乏でも、やたらともてているのに、わたしなんぞ、さっぱりなのですから、あせってしまいます」
と、休昭は、しょんぼりとうなだれて言う。
その素直な言葉に、孔明は微笑しつつも、どこかで苦いものを胸におぼえていた。
そんなふうに考えるのが普通なのだ。
これまでの生涯のうち、休昭のように焦ったり、悩んだり、あこがれたりすることが一度でもあっただろうか。
宦官でもないくせに、男をたぶらかすことができる。
李巌はそう言った。
たぶらかしたのだとしたら、楽だったろうよと、いまさらながら、李巌の言葉に反駁してみせる。
そうではないから、苦しむのだ。
ふと沈思にふけっていた孔明であるが、気づけば、休昭が、心配そうに、じっとこちらを見ているのであった。
「すまないな、考え事をしていた。わたしの車はすぐ用意できるから、待っておれ」
「待つのは一向にかまいませぬ。軍師が落ち込んでおられるのが心配です」
「怒っているのではなく、落ち込んでいるように見えるのか」
休昭は、素直にこくりと頷いた。
「はい。とても」
「それでは、わたしがなにに落ち込んでいるかわかるか」
「李将軍のことでございますか」
「まあ、それもあるが、偉度のこともそうだな」
「それはいけませぬ。たしかに、偉度と陳将軍の仲が悪いことでは、軍師もお困りでしょう。わたしも、何度も偉度に、先輩は立てるものだと忠告したのですが、偉度ときたら」
と、大人びたことを言って、腹をたてる休昭が、まるで偉度の小姑のように見えて、孔明は声をたててわらった。
「あの子は孤独な子だと思っていたが、なかなかどうして、立派な友がいるではないか。たしかに、偉度と叔至が娘をめぐって角を突き合わせているのは、わたしも困っているのだよ。
しかし安心するといい。宋家の縁談のことは、偉度には行かぬ。わたしが預かることとなった」
すると、休昭は、安堵したように、顔をほころばせた。
「それはよかった。安心いたしました。偉度には、年上の女人は似合いませぬ」
「おや、おまえもそう思うのか」
「はい。偉度にはなんでも軽く流してくれる、銀輪のように肝の据わった娘が似合っております。宋家のご息女は、聞いたところによりますと、なかなか気むずかしいお方とか。偉度とは、気難しい者同士できっと駄目になります」
「気難しい者同士は、なかなかうまくいかない、というのは当たっているな」
まさに孔明と、その妻がよい例である。
かの女は、いまごろどこにいて、なにをしているだろう。元気であればよいが。
完全に離縁したわけではないのだから、たまには便りくらい寄越せばよいのに。
かの女にも、悪いことをしたということには変わりはない。
女として幸福にしてやることができなかった。
たとえ形式上とはいえ、夫だったというのに。
本当にあのひとに似合いだったのは、そうだ、この休昭のような、素直で温厚な人間だったのかもしれない。
そこまで考えた孔明の脳裏に、ぱっと閃光のように、ひらめいたものがあった。
待てよ。その論法でいったらば、宋家の娘への縁談。
休昭が相手でもよいのではないか。
本人は、縁談がないとぼやいているわけであるし。
宋家のご息女は二十四といったかな。休昭は十七だから、七つの歳の差があるわけだが、休昭のような箱入り息子には、しっかりした年上の女人のほうがよいかもしれぬ。
うむ、なんという素晴らしいひらめき。
「休昭、おまえ、明日、わたしの名代として、宋家に行ってくれぬか」
「はい?」
孔明の唐突な申し出に、休昭は目をぱちくりとさせている。
「じつは、偉度はこのところむずかしい仕事を抱えていて、わたしの用向きをこなせないでいるのだよ。そこでおまえに用を頼みたいのだ」
それを聞くと、ますます休昭の顔が晴れやかになった。
なにやらこちらの良心が咎めてくるほどに明るい顔をしている。よほど、信頼されるのがうれしいらしい。
そのことからして、宮城における休昭のあつかいは、あまり良いものではないのだと推測できた。
たしか、休昭の上役は、尚書令の派閥に属する男だ。
董和は息子のためとはいえ、政務にかかわる部分で、いろいろ便宜を図る男ではないから、休昭は若さに見合わぬ苦労をしているのかもしれない。
なにやら不憫な気持ちになり、ますます孔明は、この縁談を休昭に向けることに乗り気になった。
そんなことも知らない休昭は、意気込んで言う。
「お力になれることならば、なんなりと!」
素直なやつ。
孔明はよしよしと心のなかで呟きつつ、神妙な顔をしてうなずいた。
「諸葛孔明が、叔至にかわって、ご息女の縁談をまとめることになったから、ぜひよろしくと伝えに言ってほしいのだ。本来ならば、わたしが出向かねばならぬのだが、あいにくとこのところ忙しい。
そして、おまえ、わたしの代わりに、宋家のご息女が、どんな方か見てきて欲しい。もちろん、仕事に穴が空くようなことがあれば、わたしがおまえの上役に口を利いてやろう」
「わたしが、そんな重要な役をしてよろしいのですか」
頼りにされたのがうれしいらしく、休昭は目をきらきらと輝かせて言った。
あまりにその目が純粋であったから、なにやら騙しているような気がして、さすがの孔明も、うしろめたい気分になる。
「重要というか、まあ、そうだろうな。じーーっくりと見てくるのだぞ。気に入ったら、そのまま宋家に居ついてもかまわぬからな」
「は? 行ったきり戻らぬのでは、偵察になりますまい」
こういう、冗談の通じないところが父子だな、と幼宰のことを思い出しつつ、孔明は言った。
「偉度のためにも、そしてわたしのためにも、おまえに頑張ってもらわねばならぬ。もちろん、幼宰さまには、わたしから話をしておくゆえ、あとは頼んだぞ。もし手に余るようならば、文偉と強力してもかまわぬからな」
言うと、休昭は、ぶんぶんと首を大きく振った。
「いいえ、一人でも、立派にこなしてみせます。お任せ下さいませ」
と、少年らしい単純さを見せて、休昭は任せろといわんばかりに、おのれの胸をどんと叩いた。