翳りゆく明日
二
このお話は、「風の終わる場所」から続いている部分がございますm(__)m
孔明を狙った者の背後にだれがいるのか、偉度は成都に帰ってからすぐに調査に入ったが、はっきりとその正体を突きとめることはかなわなかった。
しかし孔明としては残念なことに、内部のものの仕業である、ということは確定的となった。
偉度も趙雲も、広漢でのことがあるために、孔明の周囲にいつもよりも多くの人を配した。
偉度がそばにいることができないときは趙雲が、趙雲が無理なときは偉度が、二人が駄目なときは陳到がやってきて、孔明の身辺を守った。
視察の帰りに襲われてから、月日がながれたが、その後は、ぴたりと動きは静かになった。
孔明には、暗殺者を雇ってまで、おのれの道を拓こうとする卑怯者の思考はわからなかったが、この静けさは、こちらの油断を誘っているものというだけではないだろうということはわかった。いや、確信といってもよいだろう。
刺客を送ることができる内部の人間といえば、ずいぶん限られてくる。
法正か、あるいは、もうひとり。
近々、かならず動きがあるだろう。
左将軍府より、宮城へ向かう支度のため、身支度を整えていると、細作の長として、このところあちこちへ出かけていた偉度が、久しぶりに姿をあらわした。
鏡の前で、髪をととのえ、冠をかぶろうとしている孔明の姿に、偉度はあきれたように言う。
「また、いつにもまして艶やかなお姿で」
「嫌味を言うな。一張羅は、このあいだの視察のときに子龍の包帯に変わってしまったから、あたらしい衣を新調したのだよ。派手にすぎるだろうか」
「悪趣味というほどではありませぬ。みな目の保養になると喜ぶことでしょう」
「それは、おまえにしては誉め言葉だな。自信をもつことにしよう。おまえは、わたしが派手好みと思っているかもしれぬが、それはちがうぞ。わが姿を見て、真似ようと思ったものが蜀錦を買い求める。
すると錦の需要が高まり、織工たちの収入が増える。収入が増えれば、かれらは買い物をして浪費する。するとますます市場は潤い、よい循環が生まれる、というわけだ。これも地道な努力の一環なのだよ」
「それは後づけの理由でございましょう。報告をしてもよろしゅうございますか」
「なにかあったか」
「李将軍が、成都にもどられているそうでございます」
「そうか」
偉度から報告を受けた孔明は、おどろかなかった。
広漢の村での出来事が、まるでなかったかのように李巌は振る舞い、孔明もそうしていた。
もし、下手に村での出来事を騒いでしまえば、職務放棄して広漢に向かったとされている趙雲のことも蒸し返されてしまう。
趙雲への糾弾は、すなわち、李巌にとっての本丸たる孔明への威嚇であることにはちがいない。隙を見せることはできない。
「では、宮城で会うかもしれぬ。しかし、広漢の盗賊どもも、いまだに鎮圧しきれていないというのに、なんの用件で成都に戻ってきたのであろう」
「李将軍が成都に戻ってきた理由は、法尚書令のご息女との婚約のためでございますぞ」
それを聞いて、それまでみずから冠を調えていた孔明は、おどろいて、鏡ごしに顔をあわせていた偉度を振り返った。
「李将軍には、もう何人も奥方がいるはずだが」
「左様でございます。しかも聞いておどろくなかれ。法尚書令のご息女は、まだ成人なさったばかりで十五歳。李将軍はたしか、軍師よりも年上であったはず」
「尚書令は、政治には手段を選ばぬが、身辺は清くしている男だ。お子は二人おり、上が娘で、下が息子であったな。どちらも、尚書令は、目に入れても痛くないほどに可愛がっていると聞いていた。それを、政治の駆け引きに使うであろうか」
「この婚約は、まちがいなく政略結婚であろうと、われらは見ますが、しかし、ふつうの縁談としてみたら如何です。もしわたしに娘があり、年頃になったとして、李将軍のように声望高く、男ぶりも良く、これからの出世がのぞめる相手から、是非にと求められたなら、良縁と判断して、飛びつくことでしょう」
偉度は、孔明よりも一回り年下の青年で、常日頃から、わたしに家庭は無用である、と言い切っている。
それが、娘があったなら、などと言うのが不思議に思えて、孔明はたずねた。
「偉度や、おまえに娘があったなら、というが、それは父としての気持ちかね」
「いいえ、母親の気持ちになって考えてみました」
「そうかい。それは想像しなかった。ともかく、李将軍との縁談は、世間的には悪くないにしても、法尚書令は、娘を妾に差し出すであろうか」
「さらに聞いておどろけ、でございます。李将軍は、尚書令の娘を正夫人に据えるつもりで、いままでの正夫人とは離縁するそうでございますよ。娘しか産んでいないことを理由に」
孔明の顔は、ここで始めて嫌悪のために大きくゆがんだ。
「ひどい話だな。よくそれで、周囲が反発せぬものだ」
「正夫人は荊州の豪族の出でございますが、この戦乱で、家門がかたむき、婿に対してつよく出られない事情があるそうでございます」
「ひとを踏みつけにして作った土台はもろいぞ」
つぶやきながら、孔明の脳裏にあるのは、兄の諸葛瑾の家庭であった。
近頃では、少年ながら、聡明であると評判の高い甥っ子が、早くも孫権の侍童として居城にひとりで上がっているとか。
「いま、軍師がどなたを思い出されたか、当ててみましょうか。兄君のことでしょう」
「わかっているなら、いちいち指摘せずともよい」
「江東に地盤を持たぬ兄君としては、子どもや妻の力で、あちこちに影響力をもたねば、生きのこるのがむずかしい。お気の毒といえば、お気の毒。うちの軍師は、そうした手段を選ばずとものし上がる知恵があるのに、先方には知恵がない」
「偉度、口が過ぎる」
「申し訳ございませぬ。しかし、偉度は少々、焦れております」
「なぜに」
「この際、二番目の奥方をもらえとか、妾をもらえなどという野暮は申しませぬ。しかし、せめて実のお子がいればよかったのにと思うのですよ。
聞けば、孫権は、家臣の遺児や、見どころのある子供を手元にあつめて、養育しているそうございます。うちの主公はそういうことはなさらないけれど、軍師のお子であったなら、またちがったかもしれない」
孔明は、首紐を結び終えると、偉度をおいでおいでと手招いた。
はて、内密の話かな、と、にじり寄ってきた偉度の頭に、孔明は、すかさず拳骨をお見舞いした。
「なにをなさいますか!」
「なにをなさいますか、ではない、たわけ者! 子供を主公のお側に差し上げて、そして寵を続かせようなどと、なんという浅ましい。ほかならぬおまえの口から、そんな言葉が出るとは思ってもいなかった! 情けないぞ、わたしは!」
偉度は、殴られたところをさすりつつ、子どものようにふくれ面をして言った。
「妙な意味ではなく、単純に、父子つづけて主公の寵愛があれば、家門も盛り上がりましょう、という意味で申し上げたのです」
「まったく、たわけめ。その発想が愚かしいというのだ。わたしが主公の寵を受けているのは、わたしが天才だからだ。わたしの子がいたとして、その子もまた天才になるとは限らぬ」
「言い切りましたな」
「おまえとわたししかおらぬのに、いまさら遠慮することもあるまい。わたしの言葉は間違っているか?」
「間違っているとは思いませぬが、なぜ、そこまでお怒りになるのです?」
「孫権が、家臣の遺児や、甥のように才覚のある子をあつめて手元に置いていることは、わたしも知っている。それを聞いたとき、わたしは、やはり江東なんぞに仕官せず、主公にお仕えして正解だったと思ったぞ」
「どういうわけでございますか? 孫権が子供たちを集めているのは、やましい意味はなく、手元できちんと教育し、能臣に育てたいという思いからでございましょう」
「それもあるだろうが、本音のところはちがうだろうな。わかるか、孫権は、たしかに傑物ではあるが、猜疑心がつよすぎる。子供を手元に置いて、おのれの理想通りに育てる、すなわち、おのれを決して裏切らない家臣がほしいのだ。
子育てをしたことのないわたしでさえ、育てる前から、子どもが思い通りに育たぬことを知っている。名づけ子のおまえが良い例だ」
「育てられた記憶が、とんとありませぬが」
「親の心、子知らずだな。それはともかく、孫権は、あえて不可能なことを可能にしようとしている。つまりは、それだけ、孫権という男は孤独で、だれも信用できていないのだよ。
江東は地縁の絆がつよい。豪族同士ががっちり結びついており、中原とはちがった地縁社会が成り立っている。
呉の結束力は、魏や蜀、あるいは蛮族といった外敵から、自分たちの領地を守ろうと連合している豪族のそれだ。孫家に心服して仕えている者はすくなかろう。
そんななかで、若手から人材を発掘し、盛り立てている状態が、呉だ。周瑜が死んでから、どこか閉塞感が強まったのは、おそらく印象だけの話ではあるまい」
「それでは、兄君もご苦労なさっているでしょう。名族の王氏と縁をむすび、ご嫡男を孫権の侍童として献上し、敵勢力の中核にいる弟である軍師には、二番目の息子を養子に差し出す。本心からの策ではありますまい。いたわって差し上げねばなりませぬぞ」
孔明は、ちらりと偉度のほうを見る。
「おまえは不思議だな。なぜかわたしと兄上を仲直りさせたがっているようだ」
「気づいておられるのでしたら、もうすこし、兄君と私的なやりとりを増やされたらいかがです。いまのままでは、喬殿がお気の毒です」
「喬のことは考えている。おまえにだから正直に言うが、わたしとて、多くの人の中に入ることになって、兄の苦労が判るようになってきた。だから、昔のように軽蔑するだけではなくなってはいる。
兄や李巌の手法は、古典的といってもいい手法だ。それも判っているとも。けれど、反発は消えないのだよ。嫌悪感と言い換えてもいい」
神妙に耳を傾けている偉度を目の前に、孔明は、胸の内で付け足してみる。
自分がそうすることが出来ないからこその、これは嫉妬なのか?
「判り申した。しばらく、偉度はこの件に口を挟みませぬ」
「そうしておくれ。で、李正方であるが、おまえのほうで、動きを見張っていてくれ」
「軍師、その点で、もうひとつ、申し上げたいことがございます」
偉度は、くだけすぎた雰囲気を糾すため、威儀をなおすと、あらためて孔明に向き合った。
「李将軍の手の者が、軍師を見張っております」
「だろうな。わたしも同じように、かれを見張ろうとしているのだから。先方も同じことをするだろう」
「趙将軍の周辺にも、同じ者たちが」
孔明は、きつく眉をしかめ、たずねた。
「いつからだ」
「わかりませぬ。如何いたしましょう」
孔明は、腹の底から沸き上がるような怒りをおぼえた。
あの男、どうしても、われらの間に不義があるという証拠をつかみたいらしい。
いや。不義の事実がないと知ったなら、ないものをあえて捏造するくらいのことは、あの男はやってのけるだろう。
「子龍はこのことを知っているのか」
「いいえ。お知らせするべきでしょうか」
「いいや。いまは捨て置け。李正方め、くだらぬ真似を」
「このまま黙っていてもよいのですか。ああいう手合いを調子に乗らせてはなりませぬ」
「わかっている。手は打つ。偉度、おまえは、尚書令のご息女と、李正方の縁談について、くわしいことを調べてまいれ。とくに、尚書令側の動きだ」
「判り申した。すぐに手配をいたします」
腰を浮かしかけた偉度を見て、孔明は、ふと思い立ち、呼び止めた。
「ああ、そうだ、すまぬ、すっかり忘れていたが、おまえに聞きたいことがあったのだよ」
「なんでございましょう」
「叔至より、宋家の件はどうなったか、偉度に聞いてくれと頼まれたのだ。今日の随伴は叔至なのだが、挨拶にきたおり、偉度はどこかとたずねられたのだ。宋家のこととはなんだ?」
とたん、偉度は、秀麗な顔を、憎憎しげにゆがませる。
「宋家のことなど、わたしは知りませぬ。陳将軍は厩でございますか。ならば、偉度はしばらく行方をくらましており、しばらくは将軍と会うこともないでしょう、その件は、そちらで処理してくださいますようにと、お伝えくださいませ」
「その件とはなんだ。判るように説明しなさい」
「軍師には関係のないことでございます。失礼」
傲然と言い放ち、偉度は荒々しく立ち去って行った。
偉度の感情のおもむくままの態度には、すっかり慣れている孔明であるから、怒りはしなかったが、さて、なぜに偉度がそこまで怒ったのだろう、宋家とはなんだろうかと首をひねった。
宮城に向かう道すがら、随伴をつとめてくれる陳到に、偉度からの伝言をつげると、いつも飄々とした態度を崩さない陳到にしてはめずらしく、胡椒のつぶを一気に噛み砕いたように、顔をゆがめた。
「いつ戻るかも、判らないとおっしゃるか」
「おまえも知っている通り、あれはひとつのことに熱中しだしたら、ほかを省みなくなるからな。宋家のこととはなんだ」
偉度が怒っていたことは、孔明はあえて伏せておいた。
安車から幌をかき上げたまま尋ねれば、陳到は、足の短い、しかし持久力がずばぬけている自慢の栗毛の馬の背のうえで、むずかしい顔を崩さぬまま、答えた。
「縁談でございます」
縁談と聞けば、偉度から聞いたばかりの、法家と李家のあいだでもちあがっている縁組のことが自然と浮かぶわけだが、陳到が言いたいのは、そちらではないらしい。
「だれの縁談だ。子龍のか」
陳到は、直接の上役にあたる趙雲に自分の知る女を娶らせようと、いままでいろいろ運動をしてきていた。
しかし、一度もそれがうまくいったためしはない。
またも報われぬ努力をしようとしているのかと思った孔明であるが、返ってきた返事は、意外なものであった。
「偉度と宋家の娘との縁談でございます」
孔明は、幌をかき上げた姿勢のまま、しばらくあんぐりと口を開いたままでいた。
「なんだと?」
「いえ、ですから、軍師の主簿である胡偉度と、宋家のご息女との縁談をまとめようと思っていたのでございます。しかし、逃げられたようですな」
「待て。話が見えぬ。おまえはなぜ偉度の縁談の面倒など見るのだ。あれから頼まれたのか」
陳到は、孔明と偉度の複雑な関係を知っている。
偉度の字をつけたのは孔明であり、偉度の両親は他界しているから、もし縁談をもちこむとしたら、名づけ親である孔明にも知らせるのが筋というものだろう。
陳到は、渋い顔のまま、太いため息をついて、答えた。
「頼まれたわけではありませぬ。しかし、このままではわが娘に悪影響が出るかと思いまして」
わが娘、と聞いて、勘のよい孔明は、おおかたの見当をつけた。
陳到には、十三になる長女の銀輪を筆頭に、次女の頂華、さらに二人の娘がいるのだ。
この長女の銀輪が、どこでどうして知り合ったのか、孔明も知らないのだが、どういうわけだか偉度にたいへんなついており、たまに左将軍府に偉度に会いに来ている。
とはいえ、銀輪のようすを見るに、偉度を、将来を共にする相手と見て、売り込んできているわけではなく、純粋に、友達に会いに来ているふうである。
偉度のほうも、顔見知りの子供の遊び相手をしてやっている、というふうで、少女を異性として見なしているようすではない。
ときに口げんかも交えながら語り合う二人の様子は、微笑ましいものであった。
しかし、陳到はこの長女を、目に入れても痛くないほどに可愛がっており、偉度と親しくするのを苦々しく思っているのだ。
孔明がみるに、陳到は、たとえ趙雲や孔明のような人間が銀輪のそばにいても、やはりにがにがしく思い、あれやこれやと理由をつけて、割って入ろうとしたであろう。
陳到は、銀輪を偉度から引き離すため、宋家との縁談をむりやり持ってきて、偉度に押し付けようとしたのだ。
しかし、偉度は、なんであれ、強制されることには、大きな反発をもつ青年である。
偉度のつんけんとした態度の理由がわかり、孔明は納得した。
「宋家といえば、成都では旧家のはずだな。しかし、妙齢の婦人がいたとは知らなかった」
「当主には三人の子がおりまして、上の二人はそれぞれ所帯をもって、立派にひとり立ちをしているのですが、三番目の娘、これが妾腹ということもあり、上の二人とは仲が悪く、そのほか、もろもろの事情があるとかで、今年で二十四になろうかというのに、いまだにどこへも嫁がずに、家に籠もって琴ばかり弾いているのだとか。
だれかよい夫になりそうな男はいないかと当主に頼まれまして、思いついたのが胡偉度、というわけでございます」
「二十四というと、偉度には四つも年上だな。あれには年上女房は似合わぬよ」
「そうでしょうか。ああいう、わがまま気ままな性質の男には、大地のようにどっしり構えた、女人が似合いかと思いますが」
それを言うならば、銀輪は、少女ながら、ずいぶんしっかりした性質を持っている。
偉度に似合いではないかと孔明は思ったが、陳到が泣き出しかねないので、これは黙っていた。
「宋家のほうには、偉度の名は伝えたのか」
「いえ、左将軍府に勤める知り合いに、ちょうどよい男がいるとだけ」
陳到は、ここで言葉を切って、馬上より、すがるような目を向けてきた。
「こうなれば仕方ありませぬ。偉度の名を伝えていなかったのは幸い。あちらはわたしをすっかり頼りにしておりまして、婿候補を出してやらねば、あちらもがっかり、こちらも面子がつぶれ、どちらも泣きっ面でございます。
軍師のお知り合いで、独り身の男を紹介していただけませんでしょうか」
そうくると予測していた孔明は、適当な顔を二、三浮かべてみるが、随伴する陳到は、唐突に、
「はっ!」
と、叫んで、身をびくりと震わせた。
「どうした」
「軍師! 軍師は、このお話をどう思われますか?」
「どういう意味だ。わたしには妻がいる」
素早く先を制して答えると、陳到は目を細めて口をとがらせた。
「あのおそろしい女丈夫は、いまどちらにいらっしゃるのですか。それでは妻とは呼べますまい。いかがです、もう一人!」
「酒をもう一杯すすめるような軽さで尋ねるな! わたしにこの話は不要だ」
「では、だれか独り身の男を紹介してくださいませ」
「仕方ないな。是といわねば、おまえはわたしの名を勝手に先方に伝えるつもりだろう」
孔明が憮然として言うと、陳到は、ばれましたか、などと呑気なことを言って、からからと声をたてて笑った。
やれやれと一息つきつつ、孔明は尋ねた。
「しかし、なぜ左将軍府なのだ。子龍の部将のなかには、独り身の男が何人かいるはずだぞ。なぜそちらを紹介せぬ。武人はいやだと先方が言ったのか」
すると、陳到が、それまでのほがらかな顔を一変させると、真剣そのものの顔をして、周囲を見まわし、それから孔明のほうを向いた。
「馬上からお伝えすることではないかもしれませぬが、そのことにつきまして、急ぎ、お耳にいれたきことがございます。お話してもよろしゅうございますか」
「どうした」
「わが部隊の部将らが、何名か、急に異動となりました」
「聞いておらぬ」
孔明が言うと、陳到は、するどく周囲に目を配りつつ、うなずいた。
「そうでございましょう。この異動は、左将軍府を通さずに、尚書令どのの意向をうけ、王校尉がじかに命令をくだしたものでございます。異動を命じられた者たちは、前もって、このことを知っていた様子でありました」
「王校尉だと? 異動先はどこになる」
「全員が、李将軍の下につくことになっております」
してやられた。
孔明は、沈黙のまま、深い息を吐いた。
王校尉こと王連は南陽の出であるが、もともと劉璋の家臣である。
劉備が成都を制圧したあとは、一時は地方にうつされていたが、最近になって呼びもどされて、塩や鉄の流通をつかさどり、成都の軍を動かす権限を持つ、司塩校尉に就任した。
趙雲の部隊の異動など、まったくの管轄外であるのだが、王連を成都に呼び戻した人物が、尚書令の法正であること、くわえて、王連が李巌とおなじ、南陽の出自であることを考えると、なぜそんなことが行われたのか、理由が見えてくるではないか。
趙雲は将軍職にあるが、翊軍将軍という雑号であり、位もひくい。
つまり、多くの権限を持たないということだ。
情という部分で大きくつながり、たがいに融通をきかせて動いていた荊州時代であれば、身分がひくかろうと、信頼がものを言ったので問題はなかった。
だが、官僚体制のなかに組み込まれてしまえば、情や信頼などといった心の部分は、全体からすれば、関係がなくなってしまう。
組織のなかでは、やはり位が物をいうのだ。
低い地位に留まっているのでは、上の位にある者には敵わない。
戦うためには、それなりの身分を得なければ駄目なのだ。
叔父もやはり、無欲なひとであった。
樊城で暗殺された叔父の姿が、またも孔明の脳裏にあざやかに浮かびあがった。
たけだけしさとは無縁の、温厚で穏やかな叔父と、寡黙で、抜き身の剣のような鋭さをもつ趙雲とは、共通するものはなにもないと思っていた。
だが、根底にながれている心情はよく似ている。
無欲にすぎる。
無欲であるのは、執着がないからではない。意外なところではあるが、人というものに対して、信頼があるからだ。
こちらが礼節を守り、道義を守っていれば、自然と評価は高まっていく。他者はむやみに攻撃してはこないだろうという、そんな考えが根底にある。
だから趙雲は、成都を制圧した際に、ほかの武将たちとちがい、劉備に高位をねだらなかった。
甘かったというべきだろう。
人は、肩書きで相手を判断したがる傾向がある。わかりやすいからだ。
趙雲の場合は、高潔さがかえって損になって、跳ね返ってきているのだ。
交友範囲が、いまもって荊州側の文人中心である、ということも弱い。
李厳はそこをしっかりと見抜いて、さっそく、足元から崩す工作をはじめたようだ。
視察の帰りに刺客に襲われたさい、趙雲が、李巌の動きはどうかとたずねてきた。
孔明の身辺では目立った動きはなかったから、なにもないと答えたわけだが。
孔明は、おのれの配慮の足りなさに舌打ちし、後悔した。
趙雲の性格は知りぬいている。
ならば、李巌がなにかしらの行動を起こしていたとしても、趙雲が、まだこれは自分でなんとかできる範囲だと判断した場合、こちらに心配をかけまいと、口を閉ざしてしまう可能性は、ちゃんと見ぬいておくべきであった。
なぜ、あのときに、そちらはどうかと、ひとこと、そえなかったのか。
「子龍はなにか言っていたか。いや、なにか行動をしたのだろうか」
「いえ。いまは動くときではないとおっしゃって、だまって耐えておられます」
趙雲を孤立させ、じわじわとこちらの力を削ぐつもりか。
そして、もっとも強力な政敵である法正と、婚姻をとおして結びつき、その力を足がかりにして、一気に中央へ復帰するつもりなのか。
しかし、そのたくらみに、尚書令が黙って手を貸しているというのも、不思議な気がする。
あの誇り高い男が、李巌の思うままに動いているというのだろうか。
宮城の劉備の様子は相変わらずで、孔明がひさしぶりに顔を見せたことを、手ばなしで喜んでくれた。
政務上のことに関しては、対立することも増えてきたが、しかし、心情面では、やはり孔明は劉備にぴたりと寄りそっている。
心は同じなのだ。到達しようとするところも同じ。向いている方角もおなじである。
ちがうのは、その手段である。劉備の取ろうとする手段と、孔明の取ろうとする手段がちがう。
劉備は、その差を、むしろ孔明の成長であると、頼もしく思っているらしく、冗談めかして揶揄することはあっても、不快さを示してくることはない。
孔明と劉備は、たがいに切磋琢磨する、理想的な主従関係を、いまも保っているのであった。
孔明は、宮城にいる司塩校尉である王連がいると聞き、それに会うため、使者をたて、約束をとりつけに行かせた。
王連という男とは、評定の場で顔をあわせたことくらいしかなく、私的に言葉をかわしたことはない。
実直そうな、いかにも壮健な、強面の男である。
見るからに策謀のたぐいは嫌いそうな男であるのに、地縁には勝てないのか、李巌についたというのか。
王連があらわれたなら、その意向をたしかめねばならぬ。なんのために李巌につくのか、そこを聞き出し、真正面から、李巌とは手を切るように進めるのだ。
使者は、王連がこちらに出向いてくるという伝言をつたえてきた。
ならばと、王連があらわれるまで、孔明は目の前にある仕事を先に片づけることにした。
解決せねばならない問題はあるのだが、しかし、それは焦って行動して、なんとかなる類いのものではない。
そのことは判っていたから、集中できるものに集中し、雑念を取り払おうと考えた。心を平静に保っていたほうが、不測の事態にも十分に対応できる。
帰路は、陳到とはべつの、趙雲の部将が担当してくれることになっていた。まだ先になると伝えてあるので、孔明はぞんぶんに職務に集中する。
そうして、どれくらいの時間が経ったであろうか。
厚い雲の向こうからこぼれる陽射しは、しだいに暗いものに変わっていき、ほどなく、燭台に明かりがともされた。
ふと、あまりに静かすぎることに気づき、孔明は竹簡に漆を書きつける筆をとめた。
顔をあげ、見まわせば、さきほどまで側に控えていた文官たちがいなくなっている。
更衣であろうか。
しかし、燭光をかかげて見れば、その座っていた文机はきれいに片づけられて、あとかたもない。
声をかけられた覚えもない。それほどに集中していたのだろうか。
なにやら狐につままれた面持ちで、孔明はおのれの熱っぽい額に手をあてて、いまはどれくらいなのだろうと考えた。
自分としては、さほど時間が経っていないように思っていたのに。
それに、王連はまだか。遅すぎる。
立ち上がろうとしたとき、戸口にだれかが立っているのに気がついた。
顔を向けて、そのままこわばる。
戸口に立っていたのは、李厳であった。