翳りゆく明日

このお話は、「風の終わる場所」から続いている部分がございますm(__)m

「軍師」
安車のなかで、視察の疲労のためにうつらうつらとしていた孔明であるが、ふと、幌をかきわけてかけられた声に、身を起こす。
寝起きのままのぼやけた視界で見あげれば、主騎として横についていた趙雲が、幌をかきわけて顔をのぞかせている。
趙雲の顔が、こわばり、緊張しているのがわかる。
孔明は、すぐさま海草のように身にまとわりついていた眠気を跳ね飛ばし、尋ねた。
「何事ぞ」
「なるべく平常を装って、顔だけ出して、前方を見てくれ。林があるだろう」
趙雲の言うとおり、顔だけを出して風景を愛でるふうを装い、前方の林を見る。
とくに変わったことない、杉と松の林である。ゆるやかな曲がり道となっている道の両脇に、林があるのだが、これが天に届かんとばかりに高く生い茂り、空をおおうようにして枝を張っている。
そのため、道は昼間もうす暗い。
道には、ほかに、行く者の姿はない。
趙雲は、幌から顔を出した途端に、柔和な表情に転じた。
しかし、目だけは変わらず、油断なく周囲をうかがっている。
孔明もそれにならって、何気ないふりをつづけながら、たずねた。
「林がどうした」
「うむ、俺たちが近づく直前に、鳥が飛び立った。それに、木の枝のなかに、しなり具合の奇妙なものがある」
「人がひそんでいると?」
「おそらく。数が多そうだ。狙いはおまえだろう。このまま引きかえして逃げてもよいが」
「が?」
ふと、趙雲が好戦的な口調になったのに気づき、孔明は、となりに目を転じて確認する。
趙雲は、ゆったりと鞍のうえで馬に揺られながらも、前方に向けて目をほそめている。
「何者がおまえを狙うのか、それを知りたい。連中は、此度の視察に、ずっと張りついてきていたからな」
何者かがぴったりとくっついてきている、という報告は、同行している胡偉度から聞いていたので、孔明はおどろかなかった。
「どうするつもりだ? こういうときの対処は、あなたのほうが得意だろう。それに従うよ」
「では任せよ。偉度とも相談したのだが、囮になってくれ」
「いきなりまた、素晴らしい作戦の予感がしてきたな」
「わざと、こちらが気づいたと向こうに気づかせるのさ。まず、おまえが逃げ出す。連中は、気付かれたと知って、あわてて姿をあらわし、おまえを追うだろう。それを、俺と偉度たちが、横から捕らえるのだ」
「そうか。ならば頑張って逃げるが、どこへ逃げればよい」
「この途中に、集落があっただろう。そこへ逃げろ」
「了解した。あなたはどうする」
孔明が尋ねると、趙雲は、莫迦なことを言う、とでも言いたげな顔を、ちらりと孔明に向けた。
「ひとりで逃げるつもりか。逃げられやしないだろう。おまえのことだ。その、田舎者を驚かせるための派手な衣裳につまづいて、途中で倒れるのがオチだ」
「田舎者を驚かせるためのものなぞではない。わたしは、これが普通なのだ」
「そうか? 行く先々で、あきれられていたではないか」
「ほとんど休まずにわたしの警護をしていたから、疲れで観察力が落ちたようだな。あれは、わたしの美々しい姿に感心していたのだよ。あきれていたのではない」
「そういうことにしておくか。だいたいはわかったな? 逃げる用意をしておいてくれ」
「台詞は必要かな。『お助けー』とか、『だれかー』とか」
「言いたければ言ってもいいが」
「やめておく。では、鹿のように走るとしよう。援護をたのむ」
「亀をかかえて走るのには、慣れているさ」

いろいろと誤解があるようだな、成都に戻ったなら、いちど、話し合う必要がありそうだ、と思いつつ、孔明は逃げる準備をはじめた。
安車に持ち込んでいた竹簡や、筆や硯などの文具類をしまい、趙雲が派手だと称した、いつもどおりの絹の衣裳を、走りやすいようにまとめる。
一行の先頭が、ゆるゆると林に入っていく。
孔明は、耳をそばだてて、林のなかで息をひそめているであろう者たちの気配をさぐった。
いま、目の前に、息をひそめておのれの命を狙う者たちがいる。
かれらが、いま、このときになにを考え、なぜにこちらの命を狙っているのか、考えようとして、孔明はその空想を振りはらった。
顔のない敵に心を寄せすぎるのは、あやうい。
かれらがなにを考えているかなど、想像したところで、わかりはしないのだ。
ふと、血潮のように赤い夕陽の落ちる樊城で見た、叔父が刺客に討たれたときの光景が脳裏に浮かぶ。
孔明は、すぐさまおのれを叱りつけた。
考えるな。いまは、感傷にひたっている場合ではないのだ。

風が大きく木々を揺らす。
と同時に、趙雲の声が聞こえた。
「走れ!」
返事をしているひまはない。孔明は安車から飛び出すと、走り出した。
すぐに、脇に趙雲が並んだ。
ちらりと目線を投げると、趙雲もやはり無言のままうなずいた。
そうして前を見れば、晴天だというのに、傘をかぶせられたように視界がくらい。
上空を見上げようとして、すかさず、隣の趙雲が孔明に追いすがろうと、樹から落ちるようにして襲ってきた刺客を切り伏せた。
刺客の断末魔が、耳元で聞こえた気がして、思わず立ち止まる。
地響きとともに、刺客の体が、足元に倒れた。
黒地の目立たぬ衣裳に身をつつんだ、当然であるが、見知らぬ男だ。
振りかえれば、偉度を中心とした同行の兵たちが、陽光に白銀の刃をひらめかせ、上空から襲撃を仕かけてきた敵と戦っている。
趙雲の作戦は当たったらしく、孔明に気づかれたということで、襲撃者のほうにあせりが見てとれた。
はげしい剣戟のくりかえされるその上空には、青空に、小麦をこねたような、真白い雲が浮かんでいる。
なにやら不釣合いな光景に、孔明は一瞬、現実感をうしなった。
そうして足がわずかにゆるんだ孔明を目ざとくみつけ、ひとりの刺客が、孔明に気づいて、武器を手に向かってきた。
咄嗟に体が動かない。どうしたらよいのか、わからないからだ。
「この莫迦!」
悪態をつきながら、滑り込むようにして、趙雲が、孔明に背中を向ける形であらわれると、向かってくる刺客と斬りあいをはじめた。

襲撃者は、思いのほか数が多かったのか、偉度たちの攻撃をすりぬけて、孔明をめがけて、ひとり、またひとりと、追撃者が向かってくる。
趙雲は、まさに体を張る形で、孔明を背中に庇いつつ、刺客すべてを一手に引き受けた。
そのため、ちょうど真うしろにいる孔明からは、趙雲の動きがよく見えた。
まるで、自分が趙雲そのものになり代わり、刺客と戦っているような気にさえなる。
みずから陣頭に立ち、多くの戦場を見、多くの武人たちの戦いぶりを見た。
剣を持たぬ身でも、趙雲の武芸のすさまじさは見てわかる。とんでもなく早いのだ。
それは身体能力がずば抜けているからというだけではなく、敵の力量を瞬時に見分けるのが早く、そして攻撃の予想が的確で、ほとんどブレがないからだろう。
趙雲の踊らせる刃のもとで、刺客たちがつぎつぎと、泥人形のように倒れていく。それは、呆気ない作業であった。命がたやすくうしなわれていく。
すぐ目の前にある光景が、よくできた悪夢のなかの出来事のようにさえ思えた。

「いまのうちに走れ!」
不意に、趙雲に叱咤され、孔明は我にかえり、踵をかえすと、安車から見かけた集落を目指した。
目指す集落は、緑濃い風景のなかにぽつんとある、石造りの家の立ちならぶ、遠目からながめれば、灰色の、巨大な岩塊のように見えた集落である。
田園では、この騒ぎに気づかないのか、地元の農民が、水牛をかたわらに、ゆったりとくつろいでいるのが見えた。
関係のない絵画が、ただつらなっているような光景ではないか。なにもかも、どこか現実感がない。
すでに息があがりつつある、おのれの耳ざわりな呼吸を聞きながら、孔明は集落の門をくぐった。
剣戟はすでに背後に遠くなり、だれも追ってくる気配はない。
なおも、石畳のうえを走りつづけて、地元の民の不思議そうな顔を尻目に、見えざる手で押し込まれるように、ちいさな薄暗い路地へと身をすべらせた。
ほとんど日の差さぬ石造りの壁に囲まれた空間は、ひんやりとつめたく、そして静かだ。
排他的な気風のつよい土地なのであろうか。
日陰で激しい息を整える孔明を、さきほど追い越した民が怪訝そうに覗き込んでくるのだが、孔明と目が合うと、無言のまま、立ち去ってしまう。
いや、排他的なのではなく、こちらの形相が鬼のようになっているためだろうと、孔明は考えをあらためる。

いまさらながら汗が吹き出てきた。
急に走ったためか。こめかみが痛み出し、軽い吐き気もする。
身をかがませ、空咳をして、吐き気をまぎらわせていると、不意に両腕をつよくつかまれた。
あまりに突然であったから、身が強ばり、頭が真っ白に飽和する。
目の前にある顔が、だれのものなのかを判断するのに、いつもの倍以上の時間がかかった。
その口が、なにかを自分に言っているようだ。
額から垂れる汗をうるさく思いながら、孔明は、こめかみを中心につづく鼓動の向こうで、ようやく声をはっきりと聞き取った。
「無事か?」
「ああ、大事無い」
自分の熱をおびたてのひらを、開いたり閉じたりしてみる。生きている。
しばし呼吸を止めていたことに気づき、孔明は大きく肩で呼吸をする。
まさに血風を巻き起こさんばかりの戦いぶりをしめしたあとだというのに、目の前にいる趙雲の息は、ほとんど上がっていない。
「刺客は?」
「だいたいは倒した。あとは偉度たちが始末する」
路地に差し込む明るすぎる光のせいで、影のなかにいる趙雲の顔は、輪郭ばかりが濃く浮かびあがっている。
それこそ、息がかかるほどに目の前にいる趙雲の体からは、汗と血の匂いがした。

いや、血の匂いが濃すぎる。
ふと、下を見れば、利き腕ではないひじの裏側の、身につけた甲の裂け目をちょうど斬りつけられたものらしく、血がしたたっている。
孔明は眉をひそめ、身をかがませると、すばやくおのれの下衣を切り裂いた。
趙雲が驚いてなにか言おうとする前に、孔明は、手早く腕の止血をはじめた。
趙雲は、しばし、孔明になにを言おうか迷っていたようであるが、止血が終わるころになって、ようやく言った。
「高い衣だったろうに」
「また買えばよい。あとでちゃんと手当てを受けることだ。痕になる。それが勲章だ、などと言うなよ、あなたに刀傷は似合わない」
「そうか?」

派手な刀傷があればあるほど、戦場の古強者だと思われる傾向があることはたしかだ。
関羽などに言わせれば、古傷を見せびらかすような真似をするのは三流で、真につよいものは、おのれの力を隠そうとするものだという。
そうでなければ、おのれの名を上げるためにやってくる、若い血気盛んな連中に絶えず襲われて、息をつくひまがなくなってしまうからだそうだ。

孔明は、丁寧に布をしばりながら、不満そうな趙雲の顔を、ちらりと見上げた。
「あなたは、傷を見せびらかす必要のないひとだよ」
「単に強敵と当たってこなかった、運の強い男なのかもしれぬぞ」
「なにを言い出すか。そんなことはないと、だれよりわたしが知っている。武芸の腕だけでいうならば、たぶんわが陣営ではあなたが一番だろう」
「武芸ならばな。だが、俺は将だ。それだけでは、兵卒はついてこない」
「最近は、関羽のように書をよく読んでいるそうだな。あなたには、もともと培った教養があるのだから、努力が身につくのは早いだろう」
「この年になってしまえば、どんな本を読もうと、もはや気休めにしかならぬ」
「否定的だな。せっかく誉めているのに」
「どんな努力をしようと、結果がともなわねば、意味はないのだ。まして、俺は兵卒の命をあずかっているのだから、気休め程度の努力では駄目なのだ」
気むずかしい顔をして答える趙雲であるが、しばし、石造りの壁にもたれて沈黙したあと、ふと笑みをこぼした。
「まったく、こんな狭い場所で、なぜこんな話になる」
そうして、外の様子をうかがおうと身体をずらす趙雲に、孔明はたずねた。
「元気がないようだな。なにかあったのか。だれかが怪我をしたとか」
「なにがあったというわけではない。みな無事だろう。しずかな街だな」
「誤魔化さないでくれ。視察に連れてきた将兵の顔ぶれも、いつもとちがうし、なにかあったのではと思っていたよ。わたしに言いづらいことがあったのか」
「おまえに言いづらいことは山ほどあるが、おまえが心配するようなことではない」
「主公のことではあるまいな」
孔明が指摘すると、趙雲は意外そうな顔をして孔明を振り返った。
どうやら的外れであったようだ。
「おまえのほうに、主公からなにかお話があったのか」
薮蛇であったかなと思いつつ、孔明は否定した。
「いいや、なにもない。広漢の村の一件以来、特別なお話はなにも」
「そうか、俺も同じだ。李巌のほうはどうだ」
「李巌のほうが、なにか仕掛けてきた気配はないな。尚書令とも相変わらずだし、いつもと同じという意味でならば、平穏だよ」
「俺を心配してくれるのはありがたいが、おまえも疲れているように見えるぞ。さっき、白昼夢を見ているような顔をしていた」
白昼夢などという、どこか、らしくない抽象的な言葉が出てきたのがおかしくて、孔明が思わず笑うと、趙雲は顔をしかめた。
「熱があるのではなかろうな」
「疲れているのはたしかだが」
おかしくはなっていない、と答えようとする前に、今度は趙雲が指をのばして、孔明の頬に触れてきた。
そうして、汗で頬にまとわりついている髪を、そっと払いのける。
「ありがとう」
言うと、趙雲は、怪訝そうに、孔明の顔をのぞきこむようにした。
「熱いな。このところ、無理が利かなくなっていないか」
「大丈夫だ。医者は、問題はないと言っていた」

嘘であった。
広漢の村をめぐる事件以来、孔明は、微妙に変わった周囲との折り合いをつけるべく、以前にもまして公務に励んでいた。
この視察も、あまり無理の利かないおのれの体を、騙し騙しに組んだ、強行軍であったのだ。
侍医は、みつばちのように働く孔明を心配して、つづけて働くにしても、せめて合間に、ゆっくりできる時間を持たねば、すぐに無理が体に出るだろうと忠告してきた。
しかし孔明は、おのれがいくらか医学をかじっているのを恃みに、忠告をあえて無視していたのである。
なぜかといえば、それはやはり、不安から生じる恐怖と戦うためであった。

「李正方か」
不意に趙雲の口から出たことばにおどろいて、孔明は顔をあげた。
「李正方がどうしたと? 動きがあったのか。わたしのほうでは、なにもないが」
「いいや、おまえのほうに、李巌からなにかあったのではないかと思ったのだ。なにもないのなら、よい」
言いながら、趙雲は、路地の片隅の、光に追われるようにある影に、李巌そのひとがひそんでいるかのように不機嫌そうに影をにらみつけた。

趙雲が、このように、特定の人間にたいして、あからさまに嫌悪の情をしめすのはめずらしい。
しかし李巌が趙雲にむけている感情をおもえば、それも当然だろう。
李巌は、劉備に対し、広漢での事件をわざと大げさに吹聴し、趙雲が孔明に肩入れをしすぎるあまり、劉備への忠心を忘れていると讒訴した人物なのである。
そればかりではなく、孔明にたいする肩入れする理由が、邪な感情の混じったものであるとにおわせて話したのだ。また、李巌はそれをまちがいのないものだと思い込んで、動いている。
実際には、李巌が思っているようなことは、なにもない。
李巌の世に対する邪さが、おなじように、邪な妄想を生み出しているのだと孔明は思う。
しかし厄介なのは、それがただの虚妄だと一蹴できないところなのだ。
劉備はそれをうすうすと感じとっている。
李巌の讒訴を、表面では突っぱねてくれたものの、あれから、孔明と趙雲、そして劉備をめぐる関係は、以前のようにおだやかなものではなくなって、どこかよそよそしく、緊張感のあるものに転じてしまった。

「面倒なことだな。李巌は野心のつよい男だ。素早い行動力、男らしい堂々とした美貌と、才覚で、はやくから荊州でその名をとどろかせていた。わたしも、隠棲していたころに、あの男の名前を何度も聞いたよ」
「俺も樊城で顔をあわせたことが何度かある。押しのつよい目立つ男だという印象があったな。最初の印象は、さほど嫌なものではなかった。それがこのざまだからな。俺のひとを見る目も、あまり当てにならん」
「そうではないよ。むかしは謙虚で礼節を守る、士大夫の鑑のようにいわれていたのだ。ところがどうだ。中年にさしかかったとたん、本性が出てきた。
あの押しの強さのおかげで、荊州や益州での声望は、わたしなぞをはるかに上回る。実体はどうだか知らぬが、おのれの名を、世につよく訴える才能もあるらしい」

いまいましいことだ、と孔明は心のなかで付け加えた。
成都や荊州では、孔明の名前は十分に知られているが、益州の地方となると、まだまだ知名度は低い。
だからこそ、孔明は視察という名目で、各地に足を運ばねばならない。そのための、今回の強行軍であった。

ふと、目の前にいる趙雲が、厳しい顔をして、こちらに視線を注いでいるのに気がついた。
孔明は、趙雲ほどに、自分をじっくりと見ようとする者をほかに知らない。
肉体の内側にひそむ心までも正確に読み取ろうとしているかのようだ。真摯で、貪欲な目だと思う。
すべてを知られることは、相手がだれであろうと落ち着かないものだ。
しかし、趙雲に観察されることも、触れられることも、孔明にとっては、苦ではなかった。
なにもかも知っている。
しかし、それを気取られないように注意している。
こちらがすべてを知っていることに気づいたなら、趙雲は、また、みずから姿を隠してしまう可能性があったからだ。
孔明の脳裏には、樊城にて命を失った、叔父の姿が、そして外交の駆け引きのうえで犠牲となり、中原に去らねばならなかった徐庶の姿がある。
二度ならず、三度も、頼りとする者を失うなど、耐えられない。
失うくらいならば、沈黙を守るつらさを耐えたほうがずっといい。

「やはり、顔色がよくない」
「走ったし、ここが日陰だからだよ。偉度たちはどうしただろう」
「大丈夫だろう。俺がおまえを追いかけてきた頃には、ほとんど斬り伏せられていたからな」
「そうか」
屍の山を想像し、孔明はこめかみを抑える。
その様子を見て、趙雲はしばし、じっと孔明の面差しを見つめていたが、やがて口をひらいた。
「刺客はおそらく、内部の者から放たれたものだと思う」
孔明は、沈黙のまま、柳眉をしかめた。趙雲はつづける。
「確信はない。だが、魏や呉の動きは、あれから静かなものだ。あれは、内部で、おまえを狙う者が仕向けてきた連中だ」
「だから李正方の名を出したのか」
「連中が李正方の手のものかどうか、確信はなにもない。なにせ、まったく尻尾を出さぬ連中だったからな。わざとこちらの隙をつくって誘い出すしかなかった」
「李正方が、刺客をよこすような真似をするだろうか」
孔明が言うと、孔明よりもずっと悪感情を李巌にもっている趙雲は、めずらしくも感情的に言った。
「十分にありうるだろう。あれは、典型的な乱世の臣だぞ。厚顔無恥の輩。平気でニ君に仕える男だ」

李巌の来歴は複雑だ。
劉表によって引き立てられた李巌は、各地の郡県の長をまかされ、その力を各所で遺憾なく発揮し、おおくの名声を得た。
劉表が死に、曹操の南下とともに荊州の平和が瓦解すると、いちはやく益州に入って、劉璋の傘下に入った。
しかし、劉備が荊州を足がかりに、力をつけて益州に入ってくると、あっさりと劉備側にくみした。
その功績をもって、益州平定後は、降将のなかでも高い地位を得たのである。

「こまごまと動いているのは知っていたが、ここまでするだろうか」
孔明が言うのを、趙雲はすこし苛立ったように言った。
「広漢での一件を忘れたわけではあるまい。あいつは、隙あらば、おまえの首をよろこんで取る。刺客が魏でも呉の者でもないのなら、残るは李正方だ」
「尚書令かもしれない」
「尚書令はたしかに残忍な性質を持っているが、つねに残忍であるわけではない」
「めずらしいな、尚書令の肩を持つとは」
「李正方より尚書令のほうが、まだマシだ」
「それを聞いたら、尚書令は泣いて喜ぶかもしれないぞ」
孔明は揶揄するが、趙雲は同調せず、むずかしい顔を見せるばかりだ。

李巌は、このところ、勢力をひろげるための動きを活発に見せている。
もともと、文武両道、なにやら先頭にかつぎたくなる雰囲気を持っている、亡き江東の美周郎を髣髴とさせる男だ。
その魅力を武器にして、孔明を中心とする左将軍府の面々に反発していた人々を、積極的に取り込もうと、あれこれ動きを活発にしている。
李巌は、おそらくは劉備に降った時点から、だれを追い落とせば、この勢力内で頂点に立てるかを計算したにちがいない。
目下、目障りなのは孔明、そして法正のふたつ。
益州人士に多くのつてをもつ孔明とちがい、孔明は、地縁による地盤を足がかりに立っている政治家ではない。
人の心のなかに、おのれの地盤をつくって立っているのだ。
孔明のもつ、もっとも強力な武器は、劉備のいちばんの寵愛を受けている家臣である、ということである。
劉備との関係が良好なうちは、強い力を持てるのだが、すこしでも関係がぎくしゃくすれば、とたんに影響をうけて身が危うくなる。
そこが、孔明の力の、安定しないところである。
広漢の事件のあとに、劉備の寵が失せたわけではない。
劉備には劉備の志があり、孔明には孔明の志がある。
劉備のすばらしいところは、おのれの志を、他者に押し付けようとしないところだ。どころか、それを認め、尊重し、堂々と挑戦してこいと言ってくれる。
孔明は劉備以上に大きな人間を知らないし、もし、たとえ劉備に疎まれることになったとしても、いままでどおり、家臣のひとりとして、劉備に仕えるつもりですらいた。
しかし、周囲の、孔明と対立する者は、劉備と孔明が以前のように親密にすぎるふうではなくなったを見て、いよいよ孔明が寵を失いつつあると勘違いを起こし、ここぞとばかりに追い落としにかかっているのだ。
いまのところ、もっとも強力な敵である法正は、大きく動きを見せないでいる。
李巌のように派手に仕掛けてくる者は、ほかにない。
だからいま、孔明は、李巌の視線を常におぼえつつ、おのれの力を増やし、確実なものにするために、ひたすら職務に励んでいるのである。


「子龍、ひとつ気になることがあるのだが」
「なんだ」
「いつ、刺客が内部の者から放たれたのではないかと知った?」
「いままでおまえに黙っていたことは謝る。だが、俺も確信がなかったのだ」
「偉度は知っていたわけか。あれの使っている者たちが、魏や呉の動きを見張っているからな」
孔明の主簿の偉度は、わけあって、兄弟と呼ぶ細作の仲間たちとともに、孔明の身辺を守り、また、魏や呉、あるいは異民族といった外部勢力の動きを見張っていた。
偉度たちと連動したとすれば、趙雲の動きもわかる。
しかし、孔明としては、それをなぜ、いままで黙っていたのか、不満である。
「子龍、われらのあいだには、くだらぬ隠しごとは、いままでなかった。あなたは近ごろ、わたしを信用していないのではないか。たしかに、広漢でのわたしは、あなたから見ればぶざまであったかもしれぬ。だからといって、いま、このように疎外される理由にはならぬぞ」
言葉にすれば、さらに腹が立った。
強い眼差しを向けると、暗がりで、濃い輪郭を浮かびあがらせる趙雲の顔が、うろたえたものに変わった。
たしかに、自分は武人ではなく、文官のなかでも身体が弱い。
そこを頼りなく思われているとしたら、情けないことだ。
文官には文官の戦い方がある。武によって趙雲が守ってくれているならば、孔明は、文の領域で精一杯、趙雲を守っているつもりであった。

「疎外なんぞしておらぬ。確かではないことをおまえに報せて、不安にさせることはなかろうと思ったのだ」
「それだけか」
「それだけか、とはなんだ。俺には、他意はなにもない。おまえを餌として扱ったことを怒っているのなら、それも謝ろう。しかし、おまえも言っていただろう、不確定な予断は、正しい判断を狂わせる、だったか」
「ああ、言ったおぼえがあるな」
孔明が尖った口調ながらも同意すると、趙雲は、それをとっかかりに、つづけた。
「ならば、わかるだろう。おまえは態度に出やすいからな。慎重にせねば、相手に気づかれて、正体を探れなくなると思ったのだ」

言うとおり、趙雲に他意はないだろう。
実際に、刺客に狙われると知ったら、孔明の態度は、自分は平素を装ったとしても、目ざとい人間から見れば、どこか不自然な部分が出たかもしれないし、見えざる敵の正体をさぐろうと趙雲が躍起になったのも、すべて孔明のためなのだ。
もはや腹を立てる要素はどこにもないわけであるが、しかし、孔明は、趙雲が自分に秘密をつくったことと、それを自分が見破ることができなかったことに腹を立てていた。

「難しいやつだな、おまえは」
ため息をつきながら、趙雲は腕を組み、孔明をなだめるための言葉を探している。
これではわたしが、駄々をこねているみたいではないか、と不満に思いつつも、このままでは深刻な喧嘩になりそうだと判断した孔明は、口調をあらためて、言った。
「ほんとうに、ここは、ずいぶん静かな村だな。なにも聞こえぬ」
孔明の言葉に安堵したのか、困り果てた様子の趙雲の顔に、明るいものがきざした。
複雑な内面を持ちながらも、反応はときに子供のようになる。その落差が面白くて、孔明は思わず笑った。
複雑すぎるがゆえに、理解者がすくなく、孤独であったこの男を、理解できるのが自分だけだという優越感が、この絆の一端にある。
ほかのだれでもなく、自分だけなのだ。

「子龍」
安堵の表情を浮かべる趙雲に、孔明は呼びかけた。
趙雲は、なんだろうというふうに、顔を向けてきた。
そこには、期待と恐れが入り混じっている。叱られたばかりの子供のようだ。
「秘密を作るなとは言わない。わたしには、そこまであなたを束縛することはできないからな。けれど、秘密があるということを、わたしに気取られないようにしてくれないか」
「ほかに隠しごとはない」
「そうかな。疑っているわけではないけれど、秘密のひとつも作れない間柄なんて、むしろ窮屈で窒息してしまうだろう。わたしはあなたの首を絞める存在にはなりたくないのだ」
「それは、おまえは、俺の知らない秘密を持っている、ということだな」
「そうきたか」
と、いいながら、孔明は、路地から顔を出して、表の様子を探った。
「大丈夫そうだな。出てもよいか、主騎殿」
「誤魔化したな」
「なにもかも知っていればよいというものでもない。偉度たちのところに戻ろう。さあ、あなたの主騎としての仕事の再開だ」
趙雲に手を伸ばして、外に連れ出せと示すと、渋々ながらも、趙雲は孔明の手を引いて外に出た。
暗がりから外に出れば、とたんに陽ざしが眼窩を射ぬいた。
思わず手で目をかばう。
まぶしいな、とつぶやくと、趙雲が、そうだな、とみじかく答えた。

ふたたび街道に戻れば、偉度たちは集って、土を掘りかえしている。
そのかたわらには、整然と横たわり、ならべられた、黒装束の者たちの姿があった。
「駄目であったか」
趙雲が尋ねると、みずから手を土で汚して、穴を掘る作業に従事している偉度は、顔をあげ、憮然と言った。
「ご覧のとおりでございます。捕虜にしようとしたとたんに、みな自害してしまいました」
「自害とは。よほど、われらが恐ろしかったのか」
孔明が眉をひそめると、偉度はそうではない、というふうに首を振った。
「いいえ、おそらくは、そういう契約だったのでございましょう。なにがあろうと正体を突き止められてはならぬと。もともと、吐いてはならぬという契約なのでございますから、捕らえられ、拷問を受けて自白をせまられ、苦痛を受けるよりは、おのれの手で決着をつけたほうがよいと考えたのかもしれませぬ」
「決着だと?」
おおいに顔をしかめる孔明であるが、見慣れた偉度たちの姿が酷薄に見えるほどに、だれもが淡々と埋葬作業をこなしていく。
人を埋めるからといって、そこに過剰な愁嘆はない。魂の抜けたそれは、もはや人であったモノにすぎないのだ。

孔明は、黒装束たちのそばに寄ろうとしたが、それを趙雲が手ぶりで押しとどめた。
しかし、孔明はそれをふりほどき、かれらの顔をのぞきこんだ。
凶悪な気配は消えて、かれらはみな、しずかな、意外なほどに落ち着いた顔をしていた。
ざくざくと街道の脇で土を掘る偉度が、顔をあげて言う。
「それよりも、このままでは日程に狂いが生じます。お許しをいただけるのであれば、近在の農民たちに賃金を払って、この作業を手伝わせたいのですが、よろしいでしょうか」
ふと目を転じれば、すみれ色の空の下では、さきほど逃げる時に見た水牛と農夫らが、やはり、こちらの殺伐とした光景とは無縁の様子で、のんびりと畑をたがやしているのが見えた。
あちらとこちらの、この世界の差はなんなのであろう。
「おまえのやりやすいようにするがいい。任せた」
「ありがとうございます。ところで軍師、お顔の色がよろしくありませぬぞ。すこしお休みになられたほうがよろしいのでは」
「やれやれ、おまえと子龍の二人から言われては、わたしも不安になってしまうよ。では、休むとしようか」
言いながら、孔明は安車に入り、体内でざわめく神経を鎮めるべく、すこし目をとじたのであるが、眠ることはできないでいた。

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