襄陽美人
後編
「はい?」
それが、徐庶の考えた策を聞いたときの、孔明の第一声であった。
孔明がここまで面食らった顔を見せるのはめずらしい。
愉快であったから、思わず笑っていると、とたん、その秀麗な顔が不機嫌にゆがんだ。
「遊んでいるだろう、徐兄! そんな策がうまくいくものか」
「やってみなければわからん。州平、おまえはどう思う」
水を向けられた崔州平は、おのれの顎をさすりながら、しばらく怒りに顔を赤くしている孔明をじっと眺めていた。
そして、目を閉じて、じっくり考えたあと、言った。
「うまく行くかもな」
「だろう。俺も最初思いついたときは、あまりに馬鹿馬鹿しくて笑ってしまった。だが、じっくり考えてみて、けっこう行けるような気がしてきた。
なにより、楊子英を助けてやろうと言い出したのは孔明だし、言い出したやつが重い責務を背負う、理にかなっているぜ」
「ああ、そういうわけで、ここなのか」
と、崔州平は、三人が立っている路地から見える、立派な門構えの屋敷を見た。
張家の屋敷である。
いまのところ、文嘉永の取立ては来ていない。
「そうと決まれば、早いところ話をつけておくべきだな。当然、馬車は張家から出すのだから、話が合うようにしておかなければ」
「楊子英にも話を通しておかないとダメだな。うっかり間違ったことを聞いて、また首を括ろうとしてしまったら意味がない。
善は急げだ。そこいらにいる小僧に駄賃をやって、楊子英に使いを出そう」
「子供に用事を言いつけるのは、元直、君がやってくれ。わたしは子供が苦手だ」
「まあいいさ。さて、どうした孔明、行くぞ」
「なにじりじり後退しているのだ。おまえだって、なんとかしてやれないかとずっと言っていたじゃないか。元直の策は当たる。行くぞ」
徐庶と崔州平、ふたりに促されて、顔を怒りで赤くしていた孔明は、忙しいことに、今度は顔を青くした。
「ちょっと待て。二人とも本気なのか。正気じゃないぞ、どうかしている」
「そうかね、いたって正気だが」
「おまえが乗ってこないのが意外だな」
言いつつ、崔州平は手を伸ばし、後退しながら逃げようとした孔明の肩をがっしりと掴んだ。
とたん、孔明は硬直し、おびえた目を向けてくる。
対照的に、崔州平は、意地悪なほど優しい顔をして笑い、言った。
「逃げても駄目だ。適任がいない」
「いるだろう。そうだ、良くんなんかちょうどいいのじゃないか」
「馬家の白まゆげは根性が足りない。駄目だ」
「その弟!」
「余計なことをして失敗すると見た。あきらめろ孔明、おまえが一番だ」
「無理だよ、無理。絶対に無理だ。こんな莫迦な策、聞いたことがない。いくら徐兄の策だろうと、わたしは賛成しないね」
「じゃあ、おまえがほかにいい策を出したら、そっちをやろうぜ。なにか思いついたのか」
「これから考える」
「駄目。いますぐ」
孔明は、きょろりと目を動かして、なにか思いつかないかと自分を探っていたが、やがてあきらめて、答えた。
「なんにもない」
徐庶はおおいに頷くと、張家に向かって歩きながら、崔州平から孔明を引き取って、抱えるようにして言った。
「いいか兄弟、自分で考えておいて莫迦らしいと心から思うが、だからこそ、かえって当たると思うのだ。おまえの大好きな人助けだぞ、人助け。なにか起こったら、すぐに助けてやるから、大船に乗った気でいろ」
「その大船、底に穴が開いている船じゃないの」
「おまえらしくないぞ、後ろ向きだな。いつもだったら、やってみなければわからない、やってみよう、とか言うくせに」
しかし孔明は顔を引きつらせて言う。
「これには賛成できないよ。わたしが張家の娘になりすまして、文嘉永の屋敷に入り込むなんて、本当にできると思うの? すぐに怪しまれるって!
というか、なぜこんなことを思いついたの。もしかして、わたしは女装が似合うのではないかとか、常日頃から考えていたとか?」
「莫迦」
不気味なことを口にする孔明にげんこつを落とし、徐庶は先に張家に行って、話をつけにいっている崔州平を待った。
崔州平の的確な説明と、説得力のある態度が功を奏したのか、徐庶の、だれしも呆れるような策に、張家は乗った。
いや、それほど切羽詰っていたから、藁をもすがる思いで乗ったのだ、というべきかも知れない。
張家は、さっそく徐庶の言うとおり、文嘉永に使者を送り、そのあいだ、孔明を一室に案内した。
まるで屠殺場に引き出された牛のように、孔明は往生際わるくごねていた。
あまりにごね方が見苦しいので、徐庶はさすがに言った。
「おいおい、いい加減にあきらめろ、孔明。いつまでもガタガタ言うのであれば、この場で脱がして着替えさせるぞ!」
しかし孔明も負けていない。猟犬に追い詰められた狐のように食ってかかる。
「やれるものならやってみろ! 徐兄がその髭を剃って、女に成りすませばいいだろう!」
「こんなに重苦しい空気の女はいないよ、孔明」
と崔州平が言ったので、孔明は、きっ、と眼差しをつよくして、かえした。
「それじゃあ、州平、きみがやればいい!」
「こんなにエラの張ったごつい女もいない。あきらめろって。潔くないやつだな」
「勝手なことを」
しばらくぶうぶうと不平をこぼしていた孔明だが、泣きはらした目をした、やつれた姿の娘があらわれると、さすがに口をつぐんだ。
「お助けくださるのですね、ありがとうございます」
さすがに涙声で言われると、孔明も黙り込んだ。
見れば、両親も、まるで孔明が救いの神であるかのように、ありがたやと拝んでいる。
こうなるともう観念するしかない。
孔明が奥の部屋にひとりで消えると、徐庶は外で遊んでいた子供をつかまえて、楊子英に、これから悪い知らせが耳に届いても、すべてこちらの策であるから安心するようにと伝えさせた。
そうして、崔州平とふたり、しばらく待っていると、やがて、奥の部屋から二人の娘があらわれた。
ひとりが、さきほどの、やつれた面差しの、泣きはらした目の痛々しい妙齢の娘。
もうひとり。
目が合うと、その娘もどきは傲然と胸をはり、二人に言った。
「笑いたまえ、せいぜい笑いたまえ。耐えてみせるとも!」
怒りと恥ずかしさとで顔を赤くする娘もどきであるが、徐庶は思わず崔州平と顔を見合わせた。
「なんだ、思ったよりふつうだな」
崔州平も、意外だ、というふうにうなずいた。
「まったくだ。孔明、どこかにいるぞ、おまえみたいな女」
ふつう、と言ったのは、孔明の女装姿が、あまりにふつうの女に見える、という意味でのふつう、であった。
もともとの黒髪に蛇のようにくねった髪型の鬘をつけ、切れ長の目を際立たせる化粧をほどこし、首、手首、足首、耳に、それぞれ品のよい装飾品を身につけ、細い体の線を際立たせる流れるような線をえがく衣を身につけた孔明は、高すぎる背丈を除けば、女そのものであった。
崔州平の評したとおり、どこかにいてもおかしくない。
ついでに言うならば、美しさの点でも、かなりのものであった。
まともな男が孔明を見て、そして、孔明が本物であったならという条件がつくが、まず口説き落とそうと躍起になったことだろう。
「孔明、おまえ実は、戦乱を避けて落ち延びてきたどこぞの姫君で、正体を隠すために普段は男装している、とかいう秘話の持ち主じゃないよな。正体をばらすならいまだぞ」
「なに言っているの? ねえ、なに言っているの?」
「よせよ、孔明の目が三角になってきた。しかしこれならば文嘉永を誤魔化せるぞ」
「誤魔化すというか、惚れられちまうんじゃないかい? 付き添いが必要な気がしてきたな」
「付き添いは不自然だろう。孔明、身の危険を感じたなら、大声で叫ぶのだぜ。
俺たちは御者として屋敷に入り込んでおく。馬車をわざと壊して、修理するとかなんとかてきとうに口実をつくって屋敷のなかで待機しているから、安心してくれ」
孔明はぴくぴくと頬を震わせつつ、言う
「安心ねえ。文嘉永がどんな男か知らないが、相手をするなんて冗談じゃないぞ」
孔明のことばに、崔州平はうんうんとうなずいて同意する。
「まったくだ。おまえにだって選ぶ権利はあるはずだ。若いとか、賢いとか、顔がいいとか」
「地位があるとか、血統がいいだとか、将来性があるだとかな」
「勝手なことを! もし本気で選ぶのなら、それなりにいい育ちをしていて、教養もあれば武芸の腕も一流で、顔立ちも立派で、なおかつ尽くしてくれる男を選ぶさ」
「なにやら具体的だな」
「なにを考えているのだ、おまえ」
「そっちが振ってきた話だろう! もしわたしが本物だったら、という話だ。馬車はまだか! 行くなら行くぞ、さっさと終わらせよう!」
「叫ぶな、化粧が落ちる。いくら見た目がよくても、がさつな雰囲気ですべてがぶち壊しだ。花になったつもりで大人しくしておれ」
「花は花でもどくだみだよ」
「憎まれ口を叩けているあいだは大丈夫だな。馬車に乗ったなら、正体がばれないように気をつけるのだ。おまえは張家の娘になりきるのだ」
徐庶が言うと、孔明は、いまなら虎になれといわれてもなれる気がする、などとぶつくさ言いながら、用意された馬車に乗り込んだ。
策はこうだ。
文嘉永に、覚悟も準備もととのったので、娘を渡すと使者を出す。
文嘉永は喜んで娘を迎えることだろう。
その心の隙をつき、これで借金を返済したことになるのだから、証文を破って欲しいと訴える。
おそらく、文嘉永は承知するだろう。
証文が破かれたのを確認してから、部曲を避け、秘密の通路を抜けて外に出る。
張家の娘に化けた孔明を乗せた、御者に扮した徐庶と崔州平の運転する馬車は、ほどなく文嘉永の屋敷に到着した。
待ち構えていた家令の指示にしたがって、背を誤魔化すために猫背になっている孔明は、徐庶の言いつけを守って、しゃなりしゃなりと足を運び、屋敷の奥へ消えていく。
張家の娘が正真正銘の深窓の令嬢で、あまり表に出たことがなく、文嘉永と顔を合わせたことがない、ということが、この場合、ちょうどよかった。
徐庶らは、孔明を見送ったあと、帰るふりをして馬車を壊した。
文嘉永の家の御者が、代わりの馬車を、と言い出したが、これは断り、自分たちで修繕するからと言い張って、なんとか屋敷のなかに留まることに成功した。
さて、問題はこれからだ。
徐庶は司馬徳操に、二度と剣を抜いて戦わないと約束していたのだが、今回ばかりはそれを破ることになるかもしれないと考えた。
顔でばれぬように頭巾を深くかぶり、馬車を修理するフリをしながら、屋敷の内部の様子をうかがうが、やはり、あちこちに部曲の目が光っており、気を抜くことはできない。
※
その頃、孔明はどうしていたか。
なるべく目立たぬようにと、袖で顔を隠しつつ、孔明は用意されていた部屋に入った。
そこは小奇麗な部屋で、娘がくつろげるように、かわいらしい柄の敷物と、脇息が置いてある。
厄介ごとに首を突っ込むのではなかったと心から後悔しながら、孔明が大人しくしていると、やがて、屋敷の奥のほうから、どすどすと荒々しい足音が聞こえてきた。
どうやら、文嘉永のお出ましのようだ。
徐庶から、だいたいの人となりは聞いていたが、孔明にとっては、同窓の楊子英を苦しめる悪者という印象しかない。
さて、どれだけいやらしい男だろうと、顔を上げてみると、しげしげとこちらを見入っている、思ったよりずっと平凡そうな中年男と目が合った。
孔明は、脂ぎった、性格の悪さが表情にまであらわれている、絵に描いたような悪者を想像していたのだが、こちらをじいっと熱心に見入っている男は、どこにでもいるような、金貸しということが信じられないほどふつうの男である。
男は真正面から孔明を見て、つぎに、眉をきつくしかめると、右から見て、うーんと唸り、左から見て、また同じくうーんと唸った。そしてふうっ、と大きく悲しそうにため息をつくと、その場に座り込んで、腕を組んで考え込んでしまった。
なにやらがっくりしているようである。
この男、わたしが気に入らなかったのか、とムッとした孔明であるが、あわてて思いなおした。
気に入らなくていいのである。
とにもかくにも証文だ。証文を破らせることが、このばかげた芝居の狙いなのである。
証文、と口にしようとして、孔明は気づいた。
声。
いくら外見をうまく誤魔化せても、声ばかりはどうにも誤魔化せない。
徐兄め、そのことに気づかなかったな!
かくいう自分も、いま気づいたが、ともかく。
いかん。
孔明は激しく咳払いして声をごまかし、精一杯、甲高い声をあげて、言った。
「申し訳ありませぬ。風邪のためにろくに声が出せないのです。紙と筆をいただけませぬか」
文嘉永は、孔明の申し出にすぐに答えて、筆と硯、それから紙を持ってきた。
孔明は筆をとると、紙に一気に書き付ける。
『見てのとおり、約束を守ってお屋敷に来たのですから、証文は破いてしまってください』
いきなり過ぎたかな、と思った孔明だが、見れば、文嘉永はひどくがっかりしているようで、孔明たちにとっては大事な証文を、どうでもよさげに持ってくると、孔明の前に広げて見せた。
目の前に出された目当てのものを、孔明はひったくって破ってしまいたい衝動にかられたが、ぐっとこらえた。
ここで馬脚をあらわしてはいけない。あくまでしとやかに。
とはいっても、しとやかの意味がよくわからない。
大人しくしていれば、だいたいまちがいないだろうか。
「たしかにおまえはわが屋敷にやってきたわけだから、この証文を破ってしまってもよいが、しかし、いますぐというわけにはいかん。わたしは慎重なのでな、ここで破ってしまって、おまえが家に帰ってしまっては意味がない」
孔明はすぐさま、紙にあたらしく文字を書きつけた。
『そこをなんとか』
「おまえが完全にわたしの女となり、そうさな、子の一人でも産めば証文を破ってもよい」
なんだと、この好色漢め、と孔明はつよい反発とともに思ったが、腹立ちを隠すため、恥ずかしがっているふりをして顔を伏せる。
と、意外なことに、文嘉永のほうも、顔を伏せると、大きくため息をついている。
どうしたのだろうかと様子をうかがっていると、文嘉永は、つらそうな顔をして、何度目かのため息をついた。
そして、言う。
「似ておらぬなあ」
最初、なにを言われているのかわからなかった孔明であるが、徐庶から聞いた、張家の奥方と、文嘉永の若い頃の話を思い出し、納得した。
どうやら、この中年男、昔の夢よ、もう一度、ということで、張家の娘が、若い頃に恋した女と瓜二つであることを期待していたようなのである。
ところが、当然のことながら、張家の娘は本物の娘ではなく娘もどきなので、張家の奥方には似ても似つかない。
だからがっかりしているのである。
とはいえ、そこで安心できる話ではない。
男というものは、目の前にある美味そうなものには、とりあえず手をつけてみるものなのだ。
子を産めだとかなんだとか、恐ろしいことを口走っていたではないか。
「仕方ない、約束は約束だし、これで借金は払ったことにしよう」
いかにも不服そうではあったが、文嘉永は、差し出した証文を、孔明の前でびりびりと破った。
これで目的は果たした。
あとは逃げるばかりである。
だが文嘉永は、気を取り直したのか、孔明のそばに寄ってくると、その手を掴もうとにじりよってくる。
あわてて孔明は、三度目に筆を走らせた。
『疲れているので、すこし休ませてください。そのあとに、お相手いたします』
「ふむ、そうだな、来たばかりだな。ゆっくり休むがいい。またあとで来るぞ」
文嘉永が承諾してくれたことにホッとして、孔明は息をつく。
相手をする? 冗談ではない!
そして、一人、部屋に取り残された孔明は、長居は無用とばかりにすっくと立ち、扉を開けると、衣の裾を引っつかみ、徐庶たちが待っている馬場まで猛然と走りだした。
※
馬車を修理するフリを必死につづけていた徐庶であるが、ふとどたばたと聞こえてくる足音に顔を上げ、そして目を疑った。
なにを思ったものか、衣の裾を両手でつかんだ孔明が、池の鯉のように派手な艶姿で廊下をばたばたと走ってくるのである。
文の屋敷に配置された部曲が、いったい何事かと目を向けてくる。
これでは、いくら秘密の抜け穴があろうと、意味がないではないか。
孔明は、呆気に取られている周囲の目線をものともせず、はあはあと息を切らせて徐庶と崔州平のところへやってくると、手に、破かれた証文を見せる。
「やったぞ、目的は果たした! もうここに用はない、逃げよう!」
「なにを考えているのだよ、もっと、そっと抜け出してくることはできなかったのか?」
すると孔明は、青ざめた顔を向けて、早口にまくしたてた。
「冗談ではない。のろのろしていたら、あの男の毒牙にかかってしまう! そんなことになったならば末代までの恥! 一刻もここから逃げ出すのだ!」
これはだめだ。
細い身に合わず、度胸のあるやつだが、文嘉永と差し向かいになって、自分を見失ってしまっている。
もともと潔癖症であるから、我慢できないことがあったのだろう。
孔明は、井戸を視界の先に見つけると、あそこか、といいながらばたばたと走っていく。
この勢いならば、ふつうに門から出たほうが早いのではないかと徐庶は思ったが、引き止めている暇もなければ、言い聞かせている暇もなかった。
孔明は、呆気に取られている部曲の男を大胆にもおしのけ、井戸の中をのぞいてみる。
そして、叫んだ。
「井戸だ!」
「ああ、井戸だろうぜ」
井戸を覗き込んでいる孔明に追いついた徐庶だが、まずいことに、騒ぎを聞きつけてあちこちから部曲の男たちが集まってきている。
使いたくはなかったが、と思いながら、徐庶は隠していた短剣を取り出した。
せめて孔明と崔州平だけでも逃がしてやらねばならない。
見る間に、周囲を取り囲まれた。
これでもう、外へ逃れることはできない。
唯一の頼みは井戸の抜け道であるが、孔明はその中へ進もうとはしない。
梯子が架かっていないのか?
「どうした、なぜ行かない」
焦れてたずねると、孔明のあせりを帯びた声が返ってきた。
「だから、井戸だよ。これはただの井戸だ。抜け道などではない!」
「八方塞り、まさに四面楚歌」
と、さして危機感をおぼえていないような、崔州平の声が加わった。
しかし実際に四面楚歌であった。
四方をぐるりと剣呑な顔つきをした男たちに囲まれており、逃げ出す術は、もうどこにもないようである。
あるとすれば強行突破であるが、さて、いかにも動きづらそうな格好をしている孔明を引っ張って、どこまで行けるものか。
ともかく、こいつは守ってやらねばと、徐庶は孔明を背後に隠し、短剣を構えると、男たちを睨みつけた。
そして、こんなときであるというのに、穎川での敵討ちのことを思い出していた。
あのときも、こんなふうに敵と差し向かいになったものだった。
生き残れたのは運が良かったのだろう。
さて、いまはどうだ。
策が甘かった、見通しが甘かったから、こうなったのだ。
俺はまだまだ勉強が足りないな、と苦りながら、徐庶は、どこから突破すべきかを考える。
巻き添えを食うことになった孔明と崔州平の二人は、なるべくならば無事に外へ出してやりたい。
しばらくにらみ合いがつづいた。
汗が頭巾から、一筋、また一筋と垂れてくる。
拭う暇はない。
鬱陶しかったので、徐庶は頭巾を脱ぎ捨てた。
とたん、部曲の長らしい男が、おや、というふうに顔をしかめ、徐庶をじっと見つめてくる。
徐庶のほうは、男を知らなかった。
「もしや、貴方様は徐の兄貴じゃありませんかい」
すると、襄陽の荒くれ者を選抜してつくられたという部曲のなかから、どよめきが起こった。
みな、互いに顔を見合わせ、徐庶のほうを見ると、兄貴、兄貴と口にする。
妙な空気だ。
さきほどまでのぴりぴりした空気が薄れてきた。
目を輝かせてこちらを見つめてくる者もいる。
「なんで徐の兄貴が御者なんぞに化けて、嘉永さんの屋敷に入り込んでいなさるんです。代書のお仕事なら、もう終わったはずでしょ」
なにかの間違いであってほしいといわんばかりの部曲の長の口調に、徐庶はつられて答えた。
「すまぬな。張家と縁のある者のため、一肌脱ぐことになったのだ。世話になった嘉永どのを裏切ることになったかもしれんが、仕方ない。一戦を交えなければならぬというのなら、受けて立つ」
だが、後ろの二人は助けてくれ、と言い終わらないうちに、部曲の男たちは、ぶんぶんと大げさなほどに大振りに首をふって否定した。
「冗談じゃありませんよ。徐の兄貴と言ったなら、百人の男を相手に、たった一人で仇討ちを成功させたっていう伝説の持ち主じゃありませんか」
「しかも槍と剣と矛をそれぞれ自在に操って、百人を百人とも再起不能にさせたんでしょう」
それを聞いて、背後に庇われている孔明が
「すごいな」
と感心している。
徐庶はあわてて否定した。
「ちょっと待て。その伝説はだれのだ。俺のじゃないぞ」
いつのまに噂が大きく膨らんだのだろうと思っていると、ふと、孔明の隣にいる崔州平が、はげしく肩を震わせて、唇をかみ締めてうつむいている。
噂の発生源はここらしい。
「そんな方に勝てるだなんて、俺たちも思っていやしませんよ。それに、徐の兄貴といったら襄陽の『顔』じゃないですかい。
俺たちが調子にのって手を出したら、黙ってないやつらがいますぜ。俺たちがいくら嘉永さんに恩があるって言ったって、それはマズイですよ」
いつ襄陽の顔になったのかな、と思いながら、やはり崔州平を見ると、とうとう堪えきれなくなったらしく、けらけらと笑っているのが見えた。
こいつとは、あとでたっぷり話し合う必要があるようだ。
そうこうしているあいだに、屋敷の奥から、文嘉永その人がやってきた。
御者の変装を脱ぎ捨てた徐庶を見て、やはりおどろき、つづいて、徐庶の背に庇われている孔明を見て、顔をしかめた。
「あんたとはこれまでうまくやってきたはずだが、状況が変わったようだな。どういうことか、説明してもらおうか」
「説明は簡単だ。張家と縁のある者のために、娘を守ることにした。文嘉永、あんたは金貸しにしてはいいヤツだと思っていたが、逐電しちまった遊び人が勝手につくった証文を片手に、娘を差し出せなんていうのは、ちょいとやりすぎじゃないか。
あんたと張家の奥方の昔話は知っている。でも張家の娘には、何のかかわりもないことだろう。借金は相当な額だというが、少しずつなら張家だって払えるはずだぜ。それをわかっていながら無理を通そうとするなんて、あんたらしくないんじゃないか」
怒るだろうなと覚悟を決めた徐庶であるが、しかし意外なことに、文嘉永は、目を見開くと、徐庶に言った。
「なんだ、兄貴、あんたはその娘のいい人だったのか」
どうしてこの男まで兄貴と呼ぶのかと思いながら、徐庶が答えに窮していると、背後から、孔明が『そうだと言え』としきりに小声で伝えてくる。
ここはそういうことにして乗り切ろうということらしい。
「まあ、そんなところだ」
「そうか」
文嘉永はあっさり認めると、徐庶が奇妙に思うくらいにさっぱりした顔になって、体から力を抜き、いつもの、代書を頼んでくるときとおなじような気さくさで、言った。
「なら、仕方ない。その娘は兄貴の好きなようにしな。借金は別な方法で張家に支払ってもらう。それでいいだろう」
「は? いいのか?」
あまりにあっさりと引き下がったので、思わず徐庶は尋ねた。
なにかの罠ではないかとさえ警戒したが、文嘉永の、肩の荷が下りてホッとしているような態度に、そうではないらしいと察しをつける。
ひとつ、推測が浮かんだ。
もしや、この男、昔の恋が忘れられずに夢中になって娘を得ようと頑張ったが、しかし、当の娘(しかし本物ではない)を見て、突然に現実に引き戻されたのではあるまいか。
ホッとしているのは、いまさら引っ込みがつかないので、どうしようと悩んでいたからではないのか。
「おい、おまえら、ぼおっと突っ立ってないで、兄貴を門までお送りしないか。お帰りだぜ」
言われて、部曲の男たちが整列して、徐庶と孔明、それから崔州平に道を開ける。
どうやらこのまま無事に外に出られるらしい。
早すぎる話の展開についていけない徐庶であるが、そこへ、よせばいいのに、孔明が口を開いた。
「しかしわたしたちがこのまま帰ったとして、二度と貴方が張家に手を出さない保証はない。約束はしてくれるのですか」
すると、文嘉永は、太い眉をしかめて、言う。
「こっちも商売だから、借金の取り立てはさせてもらうが、あんたにはもう手を出さないと誓おう。必要なら、あとで証文を書くさ」
「なぜ徐兄にすべてを託されたのです」
「これは言っていいのか、悪いのか」
文嘉永は困って、自身の口ひげをぽりぽりと搔いていたが、やがて意を決すると、孔明に言った。
「ずばり言うなら、あんたが全然俺の好みじゃなかったからだよ。顔も姿も悪くないが、背が高すぎるし、なにより声! いくら風邪を引いているからといって、それはないだろう。興ざめもいいところだ、ほとんど男じゃないか!」
「はあ」
「気を落とすなよ。あんたみたいな娘でも、気に入る男がきっといるさ。それにしても」
と、ここで言葉を切り、文嘉永は、盛大にため息をついた。
「似てないなあ。誰に似たんだ。親父か? まあいいや。俺はもともと、うじうじ拘るのが好きじゃないんだ。あんたのことは忘れる。あんたも俺のことは忘れてくれ」
孔明は、屈辱のせいか、ぴくぴくと片側の頬を痙攣させて、小刻みに震えている。
これはいけない、爆発して余計なことを口にする前に外に連れ出さなくては。
徐庶は文嘉永と部曲の男たちにてきとうに挨拶すると、孔明と崔州平を引っ張るようにして、足早に屋敷をあとにした。
その後、遅れて孔明の怒りが爆発したが、徐庶は、宥め役を崔州平に一任することにした。
大げさな武勇伝を広めた崔州平には、ちょうどいい仕置きとなったようである。
張家の娘をめぐる騒動は、それで一件落着となった。
張家には借金が残されたが、ほどなく、楊家が雇った男が逃亡生活をしていた放蕩者をつかまえて、それ相応の落とし前をつけさせるべく、文嘉永の前に差し出した。
その放蕩者が、以降、どうなったかは、誰も知らない。
ただ、奇妙な噂が流れた。
張家には絶世の美人がいるのだが、惜しいかな、柳のようにすらりとしているものの背が高すぎ、しかも声は男のように低いという。
さて、それでもかまわぬ、絶世の美人とは、どんな美人かと、近隣の若者が、こっそり張家を覗きに行くのが流行ったが、実際に張家の娘を知る者から言わせると、たいしたことはない、ということである。
そしてもうひとつ。
「徐の兄貴は金貸しにも顔の聞く、真の男だ。襄陽の荒くれ者も、兄貴のために道を空ける。あの方に頼めば、どんな揉め事もたちまちのうちに解決するそうだ」
その評判を聞いて、徐庶のところには、思わず首をひねってしまうような奇妙な頼みごとが持ち込まれるようになった。
評判の出所は、どうやら文嘉永でも張家でも楊家でも、荒くれ者たちでもなく、司馬徳操の弟子のひとりらしい。
「仕返しのつもりなら、十分すぎるほどだぜ。昨日だって、夢枕に立った十年以来顔を合わせていない孫を探してくれとかいう婆さんが家にやってきた。
聞けば、背の高い徐州訛りのある女みたいな顔をしたやつが、徐兄ならなんとかしてやれると言ったというのだな」
徐庶が言うと、孔明はそらとぼけて書物をめくりながら、答えた。
「背の高い徐州訛りのある女みたいな顔をしたやつとは、いったい、どこのだれのことだろう。わたしは知らない。もし手伝ってほしいのなら、そいつのところに言いにいけ。きっと女装でもなんでもしてくれるだろうさ」
「心からすまないと思っている」
孔明は、書物から目を離すと、ちらりと徐庶を見て、それからまたそ知らぬ顔をして書物に目を戻した。
「知らないね。一人で悩めば。徐兄に出来ないことはないだろう」
「意地悪言うなよ。俺ひとりで出来ることと出来ないことがあるのだ。州平はさっそく逃げちまった。おまえだけが頼りだ。このとおり」
徐庶が潔く頭を下げると、孔明はぱたんと書物を閉じ、そしてため息とともに言った。
「そこまで頭を下げてくれるなら許すけれど、もうこのあいだみたいに無茶なことはしないだろうね。そう約束してくれるなら、手伝ってあげるよ」
「する。約束する。なんなら、証文を書いてもいいぜ」
徐庶が実際に証文を書くべく、筆と紙を用意しようとしたのを見ると、孔明は、ようやく明るい笑顔を見せて、身を乗り出しながら、言った。
「いらないよ。どうせそんなもの、ただの紙だもの。徐兄がわたしとの約束を破らないのは知っているよ。
それより、なにを頼まれたって? 最初からくわしく話を聞かせてくれないか。一緒になんとかしてみようよ」
おしまい
ご読了ありがとうございましたm(__)m
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(C)Hasamino Nakama 2008 11 05