はさみの世界
三国志関係小説の登場人物 設定紹介 その一
あくまで当HPの人物設定ですので、史実と相違する部分もございます。そのあたりはご了承くださいませ。
諸葛(亮)孔明…当HPのメインのお方。ブリのような華麗な出世遍歴を見せる。
三国志にこの人が登場しなければ、もはや三国志とは呼べない。歴史の教科書でも、皇帝にまでなった主公の劉備を差し置いて、ゴシック体の太文字で紹介されている。
実際には小国の丞相で、やりくり上手なところをみせて、何度も戦役を起こして中原制覇に挑戦するが、一度も勝たずに死んでおり、のちの歴史に巨大な貢献をした曹操とは、比べ物にならないのが実情である(孔明が発明した、といわれる物はイロイロありますが、伝説の粋を出ないのです)。それでもその存在は、常に憧憬をもって語られる。時代の象徴。
182年 徐州の琅邪郡陽都県に生誕。
194年 曹操の徐州の大虐殺を受け、難を逃れて叔父玄のもとへ(13歳)
195年 叔父玄、予章太守になるが、朱皓に攻められ西城へ撤退。一家で劉表のもとへ
(14歳)
197年 玄没す。隆中へ移住する。この頃より、徐庶や崔州平らと親交をむすぶ(16歳)
隠棲し、晴耕雨読の日々を送る
207年 三顧の礼。孔明、劉備に仕える(27歳)
208年 呉の孫権の元へ赴き、劉備との同盟を取りつける。赤壁の戦い(28歳)
209年 軍師中郎将となり、荊州の三郡を監督(29歳)
211年 劉備、龐統らとともに益州平定へ(31歳)
214年 龐統の戦死を受け、張飛・趙雲らとともに入蜀。
軍師将軍・署左将軍(劉備の官職は当時、左将軍だった)・大司馬府事となる(34歳)
221年 劉備、皇帝即位。孔明、丞相になる。張飛の死後は、その役目を継ぎ、司隷校尉となる(41歳)
223年 劉備崩御。白帝城にて、劉備の遺言を受ける(43歳)
224年 民を休ませ、米の備蓄につとめる(44歳)
225年 南蛮平定。12月に成都に帰還(45歳)
227年 出師の表。漢中へ。陽平郡の石馬県に陣を張る(47歳)
228年 第一次北伐。街亭にて敗北。泣いて馬謖斬る。責任をとって三階級下がり、右将軍に降格。天水で姜維を得る
冬。ふたたび北伐。陳倉を包囲するが、兵糧不足で撤退。(48歳)
229年 第三次北伐。武都郡・陰平郡を平定した功績を受け、丞相へ復帰(49歳)
231年 第四次北伐。祁山を包囲するも、またも食糧不足で撤退。
このときの食糧不足の原因は、長雨のために李巌(李平と改名)が職務を遂行できなかったため(51歳)
232年 黄沙に駐屯。兵士を休ませ、木牛流馬を開発。兵士の調練につとめる(52歳)
233年 冬、米を斜口谷にあつめ、食糧庫をととのえる。
南方の蛮族がふたたび反乱する。馬忠がこれを平定。
234年 (青竜二年)前年に貯蓄していた斜谷の米を流馬にて運搬、出撃する。第五次北伐。五丈原にて屯田をしつつ、司馬懿率いる魏軍と対峙し百日、病のために没す。享年54歳。
死後、定軍山に葬られる。
諡は忠武侯。
※はさみの設定※
妾腹の子であるが、父と叔父からたいへん可愛がられて育ち、父亡きあとは、琅邪の諸葛家の跡取りとして、姉に厳しく育てられる。
戦乱を避けて荊州の叔父を頼るが、その叔父も暗殺されてしまい、十六にして一族の長として張り詰めた日々を送ることを余儀なくされる。
一族のために、黄家と縁を結ぶも、結婚生活は不幸なものであった。
亡き叔父を慕いつづけており、貰った字の孔明の意味(きわめて明るい)に恥じぬ生き方を心がけている。叔父が暗殺されたとき、その場に居合わせたこともあって、人に触れられることを恐れるように。
不幸な結婚生活から逃れるように、学友たちと各地を放浪。とくに徐庶とは気が合い、穏やかな数年間を過ごす。
叔父の残した遺産が相当あり、そのために、着道楽でもある。
自分の美貌に絶対の自信があるように見せかけて、実は自分の女性的な顔立ちが好きではない。
そのため、孔明が慕う人物は、たいがいが凛々しい風貌をしている。趙雲の容姿は、孔明にとって理想的なものであり、憧れに映っている。
その後、請われて劉備の軍師となる。むさくるしい武将たちのなかにあって、中性的で柔和な美貌は悪目立ちし、くわえて高飛車なくせに内気、というややこしい性格をしているのもあって、最初は苦労の連続。
劉備が直感で決めた主騎の趙雲とともに、なんとか難局を乗り越えていく。
当HPはそれをメインに扱っております。
はさみの設定 2
家族構成・父(十一の時に死亡) 母(不明)
叔父(孔明、十六のときに暗殺される)
兄・瑾(家督をめぐって仲違い。孔明の義母、均にとっての生母とともに江東に暮らす)
姉(龐家に嫁ぐ。孔明とは一回り年が違う)
弟・均(のんびり農業中)
妻・月英(別居中) 養子・喬(成都に入ってから同居)
ばあや(姉が嫁ぐまで諸葛家に仕えた、実はいろいろ秘密を握っている人)
部下 胡偉度(曰くありげな前身をもつ孔明の主簿(秘書)・私的に家の切り盛りまでしている。史実においても孔明から信頼され、董允・費褘らと私的な付き合いがあった)
おまけ・Dan Shui版設定
丞(いまでいうところの県の副知事)の次男としてなに不自由なく暮らす。
生来、丈夫ではなかったことから、生母(兄の母とは別。均と同母)と姉たちに囲まれ過ごす。
そのためか、極端に人付き合いに消極的で、情動面に欠けるところすらあり、周囲をおどろかすこともしばしば(ちなみに弟の均は丈夫だったことや三男だったということもあり、ほったらかしに育ち、ちょっとばかり不良の道に逸れかけたらしい。いまは更生し、ふつうの家庭の父である)。
冷酷なのではなく、自分の振る舞いの果てになにがあるのかを機械的にしか考えられないだけ。特に過去になにがあったというわけではない。むしろ、なにもなかったがゆえの『無知』。知識や社会生活のノウハウだけは熟知しているので、そのあたりのバランスの悪さがよけいに周囲との溝を生んでいる。
周囲になにかしてもらうことがあたりまえなので、身の回りのことに関する知識に乏しく、また自分でなにかする、ということができない。
ただ、極端に人と打ち解けない理由は、性格的なこと以外にも理由がありそうだ。
母親と女兄弟に囲まれて過ごしてきたせいか、その挙搓はどこか女性的。容姿にしてから女性的な美貌をもっているため、よくからかわれるが、「そうですか」でおしまい。つまらないので、すぐにだれもからかわなくなった。友人と呼べる物はほとんどいないのだが、本人はそのことをまるで気にしていない。
孔明の優秀な頭脳と割り切りのよさ、無知であるがゆえの大胆さを高く評価した徐庶によって推挙され、二番目の軍師として劉備に仕える。劉備はこのつかみ所のない新しい軍師を、おもしろがってよくからかっている。仕事を任せれば完璧に仕上げてくることから、劉備の信頼は厚いが、情動面で深く結びついているとはいいがたい。劉備は孔明の世話を、ちょこちょこと趙雲が見ていることを好ましく思っているようだ。
徐庶が曹操のもとにくだったあとは、あくまで荊州の豪族勢力が、劉備との繋ぎ役を選出するまでのを代理として一の軍師となった(と、本人は信じているが、そうではなく、ちゃんと劉備は孔明を信頼している)。
その後、龐統が登場したので、勢力争いをすることもなく、じつにあっさりと座をゆずり、周囲を「無欲というより、なにかちがう」とたじろがせた。
幼少のころより兄の次、と言い聞かされて育ったせいか、兄のことばには弱い。そして自分はつねにだれかの代理なのだという意識がどうしても拭えないでいるが、本人は気にしていないので、これが修正されることは今のところないと思われる。
とはいえ、世話好きで洞察力に長けた趙雲にあれこれと口を出されているうちに、「なにかちがうのではないか」と思うようになってきているらしい。趙雲は、こういうタイプが自我にめざめたとき、どういう状況に陥るか予測しているだろうか……
趣味は笛をかなでること。自由にのんびり楽しみたいので、周瑜のように何事も真剣でないと気の済まないツッコミのきびしい人間は苦手である…
趙(雲)子龍…当HPのメイン。孔明よりあらゆる場所に出没しており、露出度NO.1(でもお客さんも彼を目当てに来ている方が多いので、現状は変わらないと思います)。
無双の大ヒットのお陰で、知名度・美形度ともにぐんとアップしたようで…。正史で「容姿がきわめてすぐれていた」と残っていたお陰でもあります。
大きな武功は実は立てていないけれども、そのバランス感覚に優れた身の処し方、公平で厳格な言動、物怖じしない行動力には学ぶところが大きい。職業軍人の先駆にてお手本、といっても過言ではない。史書の記述から引き出して、趙雲を悪く書くことは、はっきりいって不可能(やってみようかと構想だけ練りましたが、別人にしかならないことに気づき、やめました)。
191年頃 冀州の義勇軍を率いて公孫瓚のもとへ。劉備と知り合い、その主騎となる
その後、兄死去。これを期に公孫瓚のもとを去る。
200年頃 袁紹を頼っていた劉備と鄴にて再会。袁紹に秘密で義勇兵を募り、ともに荊州へ向う
207年 三顧の礼。孔明、劉備に仕える。曹操の南下がはじまる。当陽県長阪にて阿斗(劉禅)・甘夫人を救出
牙門将軍となる
208年 赤壁の戦い
209年 偏将軍・桂陽太守となる。趙範の縁談を断る
211年 劉備、龐統らとともに益州平定へ 留営司馬も兼任する
孫夫人が次第に放埓三昧になる。奥向きの取締りを行う
孫夫人が呉への里帰りを強行。劉禅を取り戻す
214年 龐統の戦死を受け、孔明・張飛らとともに入蜀(趙雲は江陽をのぼって成都で孔明に合流)。翊軍将軍となる
219年 漢中で曹操軍と対峙した際、わざと陣の門を開け、曹操に罠があるのではないかと疑念を起こさせ、これを撃退。虎威将軍のあだ名をつけられる。
221年 劉備、皇帝即位。孔明、丞相になる
関羽死去。劉備の呉征伐に反対する
223年 劉備崩御。中護軍・征南将軍となり、永昌亭侯に封ぜられる。ついで、鎮東将軍に昇進
227年 孔明、出師の表を劉禅に上奏。趙雲も孔明とともに漢中へ
228年 第一次北伐。鄧芝とともに、曹真と対峙。少数でよくこれを守ったが、街亭にて孔明敗北。全軍撤退を受け、殿をつとめるが、撤退するなかでも、大きな損害を出さなかった
孔明が責任をとって三階級下がり、右将軍に降格したのを受け、趙雲も鎮軍将軍に降格。
孔明に絹などを下賜されるが、「負け戦に下賜があるのはおかしい」と、これを拒否。
冬。ふたたび北伐。孔明、陳倉を包囲するが、兵糧不足で撤退。
229年 死去。
261年 春三月。順平侯と諡される(大将軍姜維らの意見で諡号が決まった、らしい)
※はさみの設定※
常山真定の名家の末っ子として生まれる。老いた父親には複数の妻がおり、母親を含めた夫人たちの壮絶サバイバルを目の当たりにして幼少期を過ごす。
結婚したがらないのは、家庭環境もいささか関係あり。
容姿・家柄・武功ともに非の打ち所がないが、性格はやや偏屈で、内に籠もり気味。
武人らしからぬ身の処し方をするために、武人仲間の一部からは、要領が妙によい、と嫌われる。
本人は、彼らとのミゾを埋めることは諦めており、ほったらかしにしている。しかし、なにか仕掛けている、というわけでもないのに、趙雲を嫌う人物は、ことごとく身を滅ぼす。
最初の仕官先である袁紹の下をすぐに飛び出し、公孫氏に仕えるも、先がないと判断し、出奔。各地を放浪したあと、劉備の傘下に加わる。
七年の月日を無為に過ごしたあと、軍師として迎えられた孔明の主騎となる。
エキセントリックな孔明に、最初はひたすら振り回されていたが、だんだんとその本質に惚れこむようになり、孔明を守ることに全力を注ぐように。
孔明の全行動を肯定し、許容する、一番の理解者でもある。孔明との年齢差はだいたい五歳ほど。
はさみの設定 2
家族構成 父 母(父親の何番目かの夫人)
兄と姉(大量にいたので記憶にない)
二番目の兄・敬とに字を授けられる。長兄は育ての親だが、いまひとつしっくりせず。
部下 陳到(字・叔至。袁紹のもとに劉備が居候しているとき、スカウトしてきた男。八方美人な噂好きの世話好きの出世嫌い)
おまけ・Dan Shui版設定
お人よしの世話好き。なにより人の輪がうまく保たれることに気を配る、あえて貧乏くじを引く、縁の下の力持ち。
大事にのぞむさいに、横から派手にあらわれて勲功をかっさらう華のある得なタイプとはちがい、地道に下準備をして、ともかくすべてが無事にすんだら、宴席のすみっこで、みなが盛り上がっているのを横目にみながら、「ああ、よかった」と静かにほほ笑むような、そういう人物である。
そういうわけで上からは信頼され、下からは尊敬される、見事な人格者。いなくなってから、「あのひとがいてくれたからうまくいっていたのか」と残念がられるような人。というか、書いていて、これこそが趙雲ではなかろうかという気がしなくもない。
そこそこに格式のある家の何番目かの男子として生まれ、それなりの教育も受けた。兄弟のなかでもっとも体力があったことや、もともと面倒見がよいことから、頼まれて義勇軍の長となって、みなとともに袁紹、公孫瓚に仕えた。公孫瓚と決裂した理由は、やはり公孫瓚の変節にある。
公孫瓚のもとを去ったあとは、荒れた土地でなんとか暮らしていた兄弟たちと合流し、集落ごとあつまって、いい庇護者をもとめて各地を流浪。劉備と再会したときは、やはりみなと相談して、これに加勢することを決める。ともかく周囲の幸福ありきなのである。
利他的な性格は劉備ともぴったり合い、じつに和やかな主従関係を築き、周囲からの評価もおおむね高い。
そんななか、新野であたらしくむかえられた軍師と、死んだ妻をめぐってかかわるようになり、以後、打ち解けない気性の軍師が人間らしく振る舞えるようにと、頼まれてもいないのになんやかやと、世話を焼く。頼まれなくても身体が勝手に動くのが趙雲らしい。要するに余裕があるのだ。
ムリなものはムリと言い切れる性格の強さももっており、判断力の高さも、仲間に信頼される所以である。当時からすれば、つねに二番手であった孔明の能力の高さや、無知であるがゆえの危うさと、純粋さゆえの利点を見抜き、精神的な成長をうながしたことからして、先見の明もあったようである。
とはいえ、趙雲としては、孔明を補佐することで得られる利便性などはまるで考慮していない。自分が世話をすることで、孔明が人間らしくなってきたことを単純に喜んでいる。すでに仲間内では、『孔明のことは趙雲にまかせておけ』という空気ができあがっている。
ちなみに孔明との年齢差は十歳。
趣味は整理整頓、日曜大工。いつのまにか人の家に上がりこんで、棚を据えつけたりしているらしい。袖をまくるためのたすきは常に携帯している。
費(褘)文偉…名門費家の出自で、劉璋とも親族にあたる。もともと荊州で暮らしていたが、両親を早くに亡くし、伯父に育てられた。成都にいる劉璋の母が費家の女であったため、戦乱を避けて、伯父とともに成都へ向かう。
しかし落ち着く間もなく、成都は劉備によって制圧され、劉璋は追い出されてしまう。一気に費家は没落し、出世コースからも外れて、貧乏生活がはじまる。
しかし、董和のひとり息子、董允と親友だったことから、董和つながりで孔明に認められるようになり、呉への使者、という大任を果たして、出世街道をまっしぐら。孔明の死を前後する、魏延と楊儀の争いには重要な役割を果たし、軍部の暴走を食い止める役を担うように。
しかし策謀家ではなく、天真爛漫な人好きのする人物であった。その美点が仇となり、正月の酒宴で酔いつぶれたところを、ニセの投降をしてきた魏の将軍に暗殺される。
?年 江夏郡に生まれる。
?年 父死去。伯父の元へ。
211年? 劉璋の招聘を受け、伯父とともに蜀へ遊学。
214年 劉備の入蜀。そのまま蜀に留まる
219年 劉禅の立太子に伴い、董允とともに舎人となり、庶子に昇進
223年 劉備崩御。劉禅が皇帝になり、費褘は黄門侍郎に
225年 南蛮平定後の凱旋パレード中の孔明の馬車に同乗。呉の使者に抜擢される
227年 孔明に請われて参軍に
230年 中護軍、のち司馬となる
234年 孔明死去。後軍師となる
238年 蒋琬、「呉と共に魏を討て」との詔を受け、漢中に駐屯。幕府を開く
241年 漢中の蒋琬のもとへゆき(このとき尚書令)計策について語るも、年末になったので、費褘、帰る。
242年 11月、尚書令から大将軍へ
243年 魏軍が興勢に攻めてくる。費褘はこれを防護し、その功績を受けて成郷候に。益州刺史も兼任する
秋九月、成都に帰還する
245年 11月、費褘、漢中に駐留する兵士の守備の陣営を視察
246年 夏6月、費褘、成都に帰還。冬11月、蒋琬・董允死去
247年 姜維とともに、大将軍・録尚書事に。
248年 夏5月、出陣し漢中へ駐屯
251年 夏、占い師(趙直?)に、「都に宰相の位がなくなっている」と占われ、成都には入らず、冬にふたたび北方へ向い漢寿に駐屯
252年 幕府を開く
253年 正月、魏の降将郭循に、酔いつぶれているところを刺殺される。敬候と諡される。
※はさみの設定※
孔明は男に関しては面食いだろうなぁ、と思う今日この頃。ゆえに、発掘し、呉への使者を任せた費文偉も美形。
しかし生活苦が顔に出ているため、孔明のような浮世離れした華やかさには欠ける。
孔明と家庭の事情が似通っており、伯父のことを実の父のように慕う。
もとの育ちが良いので、破天荒な中にも、気品がある、得するようにできている人物。
彼の愛嬌は、天性なものに加えて、あっけらかんと前向きな思考ゆえ。
当HPにおいては、妙ちくりんな行動をして孔明に迷惑をかけたり、逆に孔明のワガママの犠牲になったりと、変に持ちつ持たれつになっている。
はさみの設定 2
家族構成 父(十歳のころに死亡) 母(早世)
伯父(伯仁。費家の族父。董和の友だち。姉が劉璋の母)
費観(従兄。費家を背負って立つ若き将軍で李巌の部下。妻が劉璋の娘なので劉備陣営では気遣いの連続。若いのに老け込んでいる)
董(允)休昭…巴蜀にて民からの絶大な人気をほこる董和のひとり息子。
史書では、親子だというのに、伝の場所が離されており、董和とセットにせず、目立つように個別で伝をたてた陳寿の配慮が、董允への高評価を逆にあらわしている。
費文偉の親友で、生涯を終えるまで、変わらず添うように側にいた。孔明の死後、自堕落になりがちな劉禅を必死で支えるが、しだいに厳格な態度を劉禅に誤解され、憎まれるようになったという理不尽さ。
特にこれといって目立った功績をたてていないのだが、董允が人を立て、自分は補佐にまわる、という縁の下の力持ちに徹底したおかげで、孔明をはじめ、蒋琬、費イの政治活動が円滑だったのだ。
219年 劉禅の立太子に伴い、費褘とともに舎人となり、洗馬に転任
223年 劉備崩御。劉禅が皇帝になり、費褘と同じく黄門侍郎に
227年 北伐へ赴く孔明により、費褘らと共に、信頼できる人物として上奏される
成都の留守をあずかり、侍中と虎賁中郎将を兼任。劉禅のお目付け役となる
234年 孔明死去
243年 輔国将軍に
244年 侍中守中郎将のまま、大将軍費褘の次官となる
245年 死去
※はさみの設定※
父親に溺愛されて育った、ファザコン気味の貴公子。
当HPでは、あまり目立たないが、暴走気味な費イの突っ込み兼ストッパーをしている。
つねに有能で人から愛される費褘にコンプレックスを感じており、影でいろいろ努力をしては、失敗して落ち込む、を繰り返している愛すべき人物。
ときに性格の良さがわざわいし、孔明にこきつかわれることも、あるようである。
はさみの設定 2
家族構成 父(董和。バリバリの現役) 母(早世)
じいや(董親子の身の回りをお世話するお爺さん)
蒋(琬)公琰…荊州の出自で、若い頃から名を知られていた。
しかし、運悪く、公務中に居眠りをしていたところを、巡察していた劉備に見咎められ、孔明のとりなしもむなしく、即日解雇。
しかし孔明は蒋エンを忘れず、丞相になると、丞相府に呼び寄せ、片腕として使うように。
あまり目立たない印象の蒋エンだが、孔明にもっとも信頼され、その遺志をついだのも、姜維でも費イでもなく蒋エンである。
孔明の死後、動揺する蜀を建て直し、その延命に一役買った。晩年、孔明の遺志を果たすべく、北伐を決行しようとするが、病が重くなり、断念。董允と同年に病没。
?年 零陵郡に生まれる。
?年 二十歳のときより世間に名前を知られるようになる
214年? 劉備に随行し、入蜀。広都県の長になる。昼寝をして仕事をさぼっているところを劉備にみつかる。
クビになる。
奇妙な夢を見たので趙直に相談。出世の夢と解いてもらい、はげまされる。
219年 劉備が漢中王になると、政府にふたたび入り、尚書令となる。
223年 孔明に招かれ、丞相府へ。東曹掾となる。
229年 第三次北伐中の孔明の留守番。丞相府の事務を取り仕切る。
230年 長史、撫軍将軍となり、兵糧調達・軍兵補充を取り仕切る。
234年 孔明死去。大将軍・録尚書事に昇進。安陽亭候に封ぜられる。
238年 「呉と共に魏を討て」との詔を受け、冬11月、漢中に駐屯。幕府を開く。
239年 大司馬になる。
241年 漢中にやってきた費褘(このとき尚書令)と計策について語るも、年末になったので、費褘、帰る。
243年 蒋琬、漢中から帰り、涪に留まる。
246年 冬11月、病没。恭と諡(おくりな)された
※はさみの設定※
朴訥で不器用な誠実さをもつ。孔明からすると、徐庶によく似ているらしい。
生真面目で有能なのだが、言葉が足りない。そのために貧乏くじを引かされ、罠にかけられ、失職してしまう。
孔明によって救われ、以後、絶対的な忠誠を誓うように。
孔明もまた、実子の代わりとして、蒋エンを鍛えていく。
当HPではあまり出番がないが、これから大活躍の予定。
董(和)幼宰…なぜに名前がマイナーなのか、不思議でならない巴蜀のカリスマ官僚。
上の人間には憎まれてさえいたようだが、民衆からは慕われまくっていた。
腐敗しきっていた劉璋の統治下において、必死になって民のため、豪族たちを向こうに回して戦い続けた人物。
劉璋降伏後は孔明とともに左将軍府で働き、その名声を死ぬまで保ち続ける。
孔明は部下たちに訓告を与える際には、周囲にいる人物を例にとることが多いが、董和に関しては徐庶・崔州平と並べて、自身を啓発してくれた恩人として述べている。
※はさみの設定※
当HPでは連載の主役をつとめる中年英雄。
地味といえば地味だが、趙雲と同じく、批判しようのない、きわめて立派な人生を全うしている。
しかし注釈の付きまくっている趙雲伝とはちがい、人物像が曖昧なのが残念なところ。
しかし董允の父であり、孔明の職場の同僚兼先生、という美味しい立場からして、伝には記載されていない大きな貢献があったはず…それを現在連載中(宣伝)。
若い頃は血気盛んな正義漢で、無茶もしたそうだが、四十に入ってからは落ち着いて、慎重に行動するようになった。
その発言には重みがあり、人々の耳目を集める。平和主義者ではなく、戦う時には、万全を尽くして戦うタイプ。
自分のことより人のことを優先させるため、ときに理不尽な目に遭うことも。
そのあたり、親子でよく似ているようである。
はさみの設定 2
家族構成 董家の五男坊で兄と姉がいる。
息子(董允。費褘の親友) 妻(早世)
じいや(董親子の身の回りをお世話するお爺さん)