ジャンヌ・ラ・ピュセルのための覚え書

暁光の章

五話 最初の試練・三

サン・ニコラ・デュ・ポール村へ向かう途中で、ル・ロワイエ家の夫婦と出会ったジャネットたちは、そのまま、雪の残るくらい夜道を、ヴォークルールへ戻ることとなった。

ヴォークルールに、遅くに戻った翌朝、ジャネットは、さっそく、広大なル・ロワイエ家の召使として、働きはじめた。
ドンレミ村のダルク家といえば、村でも二番手の大きな家で、けっしてだれかの家に奉公をしなければ食べていけないという身の上ではない。
ダルク家の敬虔さと、そして誇りの高さはよく知られていて、ル・ロワイエ家で働く少女が、ダルク家の長女だとわかると、すぐに町の噂となった。

それというのも、ジャネットはすでに町の噂の中心であったからだ。
ヴォークルールの人々の知る噂には、ふたつある。
ひとつは、親の決めた縁談を蹴り、そして裁判に引き出されても、堂々と相手を論破して、突っぱねとおした話。
ふたつめは、どうしてもブールジュの王太子のところへ行かせてほしいと、町を守る騎士団の長ボードリクールに二度も嘆願した話。
このふたつの話が、せまい町でもちきりになっていた。

二度目にボードリクールに追い返されたとき、町の人は、赤いスカートをはいた金髪の娘が、実直そうで素朴な顔立ちをした、若い叔父とともに、荷馬車で南へ向かうのを見ていた。
だからダルク家の娘は、きっと騎士たちを頼るのをあきらめて、自分たちだけでブールジュに向かうことに決めたのだと思った。
街道にはブルゴーニュ派の騎士たちのほか、傭兵団からも爪弾きにされた落ちこぼれども、そして狼が跳梁跋扈しており、とてもではないが、武器をもたない農夫が、無事にはるか南西にあるブールジュへ行くことができるとは思われない。
生真面目そうな二人で、王太子にうまいことを言って金を騙し取ってやろう、などという不届きなペテン師ではなかったようなのに、運が悪ければ、もう二人とも、あの世に行っているかもしれない、気の毒に。
と思いつつ、やはり他人事なので、夜には二人のことなどすっかり忘れて眠ってしまい、朝、起きてみたら、ル・ロワイエ家になぜか二人がいる。
これを不思議に思わぬはずがない。

いや、二人ではない。
三人であった。

町人たちは、その三人目の、暗く、ぎらぎらとした眼差しをもつ、しかしどこか途方に暮れたような表情を見せることのある髭面の男が、いったい何者なのか、まったくわからないでいた。
男はジャック・アランといい、ル・ロワイエ夫妻がサン・ニコラ・デュ・ポール村からヴォークルールの町へ戻る途中の街道で知り合ったのだという。
とはいえ、ジャック・アランの扱いは、完全に作男に対するもので、当のジャック・アランも、自分のこうした扱いを不満に思っているらしい。

しかし、ジャック・アランの態度の悪さを不審に思う町人はいない。
なぜなら、ル・ロワイエ家のでっぷりと太ったカトリーヌの人使いの荒さは、町では知らない者がいないほどであったからだ。
ル・ロワイエ家はこのご時勢のなかでも、うまくブルゴーニュ派とアルマニャック派の両派を器用に泳ぎ渡り、順調に稼ぎを作っていた。
しかし、それだけうまく商売している、ということは、嫉妬を買いやすい、ということでもあった。
事実、夫婦をよく思っていない者は、町の中にもいた。夫婦は金の亡者で、貧しい者に憐れみをかけることもなければ、きちんと教会にも通わず、せっせと商売ばかりしている、あれでは、きっと地獄に落ちるにちがいないと、陰口を叩いていた。

もちろん、アンリとカトリーヌのル・ロワイエ夫婦は、そのことを知っている。
知っていても、知らぬ顔を決め込んで、このご時勢にまともな手段で稼げるはずもなし、努力をしようともしない負け犬の遠吠えなんぞ、気にしなければいいのだと、お互いに言い聞かせていた。
とはいえ、どれだけ厚顔の持ち主だったとしても、かれらはまったくの愚か者ではなかったから、町の人々から尊敬を受けることもなく、蔑まれ、疎外されていることに対しての、寂しさ、そして鬱屈は抱えていた。
特にカトリーヌのほうが、そうした世間の噂に敏感で、年を追うごとに、どんどん頑迷になっていき、すねた性格になって、世間を軽蔑し、敵意をむき出しにするようになっていた。

そんなカトリーヌの鬱憤晴らしの犠牲になったのが、ル・ロワイエ家の奉公人である。
ル・ロワイエ家は、ヴォークルールの町のなかでも、一番といっていいくらいの大きな家であったから、奉公人を雇い入れていたのであるが、カトリーヌの癇癪に耐え切れず、みな、つぎつぎと辞めてしまっていた。
カトリーヌは特に若い娘にいじわるで、若い娘の自尊心ばかりか、その性格まであげつらって、細かくねちねちと責め続けるので、どんなに気丈で鈍感な娘でも、一月ともたずに逃げ出してしまう。
カトリーヌのこうした奉公人いじめは有名であったから、どれだけ賃金がよかろうと、町の娘で、この家を奉公先に選ぶ者はなかった。
だから、遠方の町や村から、あたらしい奉公人が雇われるのであるが、これもまた、カトリーヌのとんでもないいじわるさに仰天し、短くて十日、長くて半年で、みな逃げてしまう。
このあいだも、遠くの村から連れてこられた奉公人三人が、みなで示し合わせて集団脱走したばかりであった。

「ダルク家といったなら、ドンレミ村でも大きな家だというのに、そこの娘が、なんだって奉公人などしているのだろうね」
と、町人たちは不思議がったが、もっと不思議であったのは、ジャネットの叔父であるデュラン・ラクサールの存在であった。

デュラン・ラクサールが、ダルク家の当主であるジャックの、父子ほどにも年が離れた弟だ、ということは、ヴォークルールの人々も知っていた。
つまりはジャネットの叔父にあたるわけであるが、その叔父が、なぜか自分の村には帰らず、ジャネットや、謎のジャック・アランと一緒に、ル・ロワイエ家で働いているのだった。
デュラン・ラクサールの家は、そう大きな家ではない。
そして、その妻は、かわいらしい赤ん坊を産んだばかりであった。

「もしかしたら、ダルク家は、分家を支援できないほど、困窮しているのではないか。このあいだ、ドンレミ村を襲ってきたブルゴーニュ派に、財産を取られてしまったのかもしれない。
それに、あの長女のジャネットは、気の強い娘で、村の男はだれも嫁に欲しがらないくらいだとか。だから、町でいい男をつかまえようとしているのかもしれないよ。
デュランのほうは、きっと、新しく生まれた赤ん坊のために、せっせと食い扶持を稼いでいるのだ」
と、勝手な噂も流れた。
この噂が、遠く離れたダルク家に届かなかったのは、幸いだったというべきだろう。

ジャネットとデュラン、そしてジャック・アランの行動について、世人は適当な噂を流しつづけたが、共通して一致している意見が、
「どちらにしろ、あのカトリーヌの下で働くなんて、正気の沙汰じゃない。あいつらだって、一週間ももたないあいだにル・ロワイエ家を逃げ出すに決まっている」
というものであった。

町人のなかには、図々しい者もいて、毎日のように休まず働くジャネットに、どうして親元を離れて、こんなところで働いているのかと、尋ねたこともあった。
尋ねられるとジャネットは、まったく臆することなく、きっぱりと答えるのだ。
「ブールジュへ行くためよ。わたしは、どうしても王子さまにお会いしなければならないの。だからここにいるのだわ」
頓珍漢な答えに、質問者もあきれて、こう尋ねる。
「ブールジュへ行きたいというのに、どうしてヴォークルールに留まっているのだい?」
自分を疑い、そして双眸に軽蔑の色すら浮かべて見やる人間を前にしても、ジャネットはひるまず、決然とした眼差しをしっかりと返して、答えるのだ。
「神様がそうしなさいとわたしにおっしゃったのです。わたしはここにいれば、ブールジュへ行くことができると神様はおっしゃいました。ですから、ここにいます」
神の名を持ち出されては、そんな馬鹿なと迂闊に反論することもできないわけだが、それ以上に質問者を沈黙させるのは、ジャネットの、神の意志に従っているのだと信じている、その心の強さに気圧されてしまうからであった。
ジャネットが妙なことを言う娘だ、という噂を聞いて、ちょっとからかってやろうと思った者でも、ジャネットと会話をすると、みな、こんなふうになった。
からかうこともできず、揚げ足をとることも、ましてや意地悪をしてやることもできずに、むしろ、こんな純情な娘に意地悪をしてやろうなどと考えた自分が恥ずかしくなって、すごすごと帰ることになるのだ。

ダルク家の娘がル・ロワイエ家に滞在しているのは、どうやらブールジュに行くためで、最初に流れた男を捜しにきたのだという下世話な話ではない、ということが、徐々に町に広まっていった。
誤解が早くに解けた理由は、ジャネットの暮らしぶり、そのものにあった。
ジャネットは、日の出よりも先に早起きをして、ル・ロワイエ家の家事を率先して行った。
どんな仕事も、嫌な顔ひとつせず、むしろ嬉々として取り組んだ。
細いからだをしているのに、意外にも力持ちで、若い男のするような仕事(たとえば大きな藁束を運ぶ作業や薪割りなど)も、軽々としてのけた。

近所の噂好きに、同情の声をかけられて、カトリーヌの悪口を言うように仕向けられても、ジャネットはまったくそれには乗らなかった。
むしろ、カトリーヌを誉めるほどであった。
「みなさんはいろいろおっしゃっているけれど、奥さんほど働き者はいないと思うわ。
金儲けばかりしているというけれど、ル・ロワイエ家は町にたくさん寄進をしているでしょう? 
あまり教会に行かない、というのはたしかによくないけれど、行かないのにも理由があると思うわ。
だって、心を穏やかにするために教会に行ったのに、逆に自分の悪口を聞かされるはめになるのは辛いと思うもの。
むしろ、神様の御前で、他人を悪く言える人のほうが、よっぽどどうかしていると思うわよ。
奥さんは、ちゃんとわたしたちに食事もくださるし、噂ほど意地悪はしないわ」
ジャネットは強がりを言ったわけではない。
実際、カトリーヌを誉めるときのジャネットは、自分のことばに、なんの疑いも持っていなかった。

これまた、話を聞いた人間は、カトリーヌも、この子には優しくなるのだろうかと首をひねりつつ、ジャネットを自分たちの噂話の輪に巻き込むことをあきらめた。
客観的に見れば、ジャネットの言葉は真実ではなかった。
カトリーヌはジャネットを特別扱いしていたわけではなく、むしろ牛馬のようにこき使った。
それというのも、自分たちが留守にしているあいだ、奉公人たちも逃げてしまっているので、やらねばならない家事が山のように溜まっており、どこから手をつけたらよいのか、わからないほどであったからだ。
アンリは家のいっさいはカトリーヌに任せきりであったから、そうなると、太りすぎて、すぐに疲れてしまうカトリーヌでは、なかなか家事をこなせない。
しかも、商才に関しては、アンリよりもカトリーヌのほうが上であったから、家事よりもそちらのほうを優先しなければならないときもあった。

その穴埋めとしてのジャネット、デュラン、ジャック・アランというわけだが、カトリーヌはジャック・アランが野盗であったことを隠していることネタにして、三人をぞんぶんにいたぶるようにして働かせた。
せっかく終えた仕事を、仕上がりが気に入らないからといって、最初からやり直しさせるのもしょっちゅうで、食事にしても、これはジャネットが作るのであるが、味付けが気に入らないからと、最初から作り直しをさせたこともあった。
カトリーヌはこう考えていた。
「神様の声が聞こえるだとか、気味の悪いことを言う娘だこと。もし神様が、田舎の小娘に気さくに声をかけてくれるような存在だったなら、あたしには、もう何百回と声がかけられているでしょうよ。
あんな清純そうな顔をしているけれど、騙されてはだめだわ。あちこちの町で商売をして、いろんな人間を見てきた、あたしにはわかる。あれはペテン師の仲間にちがいない。
人にはあたしのことを誉めているようだけれど、きっと、『よい娘』をいまから演じていないと、ブールジュへついたときに、化けの皮がはがされてしまうだろうと考えているのよ。そうとも、きっとそうにちがいない。
だったら、あたしは、王子さまをペテンから守るために、この娘の化けの皮を、いまここではいでやるのよ。
いい子ぶっているようだけれど、本音はきっと、いままでこの家にいたほかの娘たちのように、あたしの前ではにこにことしていても、ちょっと背中を向けると、とたんにべろり舌を出しているにちがいないわ」

こうして、自分に正当な理由をつけてしまうと、カトリーヌは、さらにジャネットに多くの仕事を言いつけるようになった。
料理に関しては、とくに自分が美食家ということもあり、細かい難癖をいちいちつけた。
ジャネットは忍耐強く、カトリーヌの言うとおりに従っていたが、あるとき、カトリーヌは、ジャネットがあまりに平然と自分の言うことを受け流してしまうことに腹を立て、せっかくジャネットのつくった料理を、意地悪くも豚のえさとしてぶちまけてしまった。
このときばかりは、温厚で忍耐強いジャネットも、めずらしく怒りの色を顔に浮かべた。
カトリーヌとしては、ほらやっぱり、してやったり、といった気持ちであったのだが、しかしジャネットが口にしたのは、カトリーヌの理不尽な意地悪を糾弾する言葉ではなかった。
「なんという、罰当たりなことをなさるのでしょう! 遠く西のオルレアンでは、敵軍に囲まれて、食糧もまともに手に入らない町の人たちが、恐怖に怯えて過ごしているというのに、あなたはこんなふうに、神様からいただいた食糧を無駄にしてしまうの! 
同じフランスの地に住まう者なら、恥を知りなさい! 
あなたのように食べ物を粗末にする人のためになんて、食事を作ったりしないわ。あなたは自分の分だけ作りなさい。
わたしは、旦那さんと、わたしと、叔父さんとジャックのためだけに食事を作るから!」

カトリーヌは、唖然とした。
てっきり、ジャネットが、なんてひどいことをするのだと、泣くか、あるいは怒りで喚き散らすであろうと思っていたのだ。
オルレアンがどうだとか、フランスがどうだとか、そういった、カトリーヌにはぴんとこない理由でジャネットが癇癪玉を爆発させたようにはげしく怒ったため、ふだんなら、ああいえばこういうで、たいがいのものを言い負かすことができるカトリーヌも、黙るしかない。

以来、カトリーヌは、友達だというジャック・アランのために、家事の手伝いをしている娘への意地悪を、控えるようになった。
理由は、漠然としているのであるが、この娘が怖くなってきたのである。
ジャネットは、いつも規律正しかったが、しかし、やはり変わった娘でもあった。
教会の鐘の音のとおりに行動し、ほかの同じ年頃の娘のように、若者目当てに着飾ったりすることもなければ、遊びに行く算段をとりつけて、夜中にこっそり家を抜け出すような真似もしなかった。
家事をてきぱきとこなし、そして、教会に足繁く通った。
教会には、だれがいるというわけではない。
ジャネットは教会に行くと、ひたすら祈った。
ジャネットの、そうした振る舞いに、最初は見世物を見るような目つきで、遠巻きに見ていた町人たちも、次第に評価を変えつつあった。

最初に評価を変えたのは、ジャネットと同じく、フランスじゅうに吹き荒れる暴虐の嵐を嘆いている者たち、そして、ジャネットと同じく、敬虔な者たちであった。
「最初は変わった娘だと思っていたけれど、なかなかどうして、あの若さで、浮ついたところがすこしもない。受け答えもしっかりしているから、頭がおかしいふうでもないし、だらしないふうでもない。
それに、ペテン師にありがちなずるさがすこしも感じられない。この町で、あの娘ほど真剣に祈っている娘がいるだろうか。
もしかしたら、神の声が聞こえるという話も本当じゃないのか」
ジャネットには、みずから働きかけることなく、人に自分を信頼させることができた。
特に策を弄しているわけでもなければ、意識して言動を演出しているわけでもない。
ジャネットの場合、そのみずみずしい若さと、そして規律正しい行動と、ぶれることのない言動が、人々を説得し、納得させたのである。

ジャネットは、自分を疑い、そして奇異に思って、なぜ、おまえのような17歳の田舎娘がブールジュへ行きたいのかと尋ねる人々に、真摯に答えた。
「わたしだって、できれば母さんや父さんのそばで暮らしていたいと思います。けれど、ブールジュに行って、王太子さまをお助けせよと、神さまがそうおっしゃっているのです。
いまは、ボードリクールさまはわたしの言葉を信じていらっしゃらないようですが、でも、じきに、正しいと判ってくださいます。ですから、わたしはかれを信じてここにいるのです」
こうして、最初は奇異の目で見ていたヴォークルールの町の人々も、ジャネットに対し、『もしかしたら、このヴォークルールから旅立とうとしている娘が、本人が言っているように、かのメルランの予言した『ロレーヌの乙女』ではなかろうか』と期待を抱くようになっていた。




こうした状況の変化に、まったくついていけていない人間が、三人いた。
ジャック・アランとカトリーヌ・ル・ロワイエ、そして、ボードリクールである。
ボードリクールは、自分の守る町に、まだジャネットが滞在していることにおどろいた。
そして、その滞在先が、ル・ロワイエ家であることにもおどろいた。
ル・ロワイエのカトリーヌの人使いの荒さはボードリクールも知っていたから、気の毒に、ダルク家の娘は、カトリーヌの厳しさによって世間の厳しさを思い知ることになるだろう、などとタカをくくっていた。
ところが、ジャネットは音を上げるどころか、むしろ、カトリーヌの意地悪にも負けることなく、町の人々に感心さえされている。
ボードリクールの前に二度目に現われたときにした、『オルレアンが敵の攻撃にさらされている』という話も、町に伝わって、町の人間は、ジャネットの言葉のほうを信じて、オルレアンが危険なのだと信じ込んでしまっている。

オルレアンが敵の攻撃にさらされることなど、ないのだ。
領主が敵の捕虜となっている、その土地を襲うことは、してはならない。
騎士ならば、誰でも知っている約束ごとである。
オルレアンの領主であったオルレアン公シャルルは、数では優勢であったにもかかわらず、統制がまったくとれていなかったためにフランス側が大敗し、多くの犠牲を出したアザンクールの戦いのおり、捕虜になっていた。
現在、オルレアンの町を守っているのは、シャルルより任命を受けたラウール・ド・ゴークールである。
オルレアンの町は、ロワール側の河畔にある町で、たしかにアルマニャック派にとっては、防備の最重要拠点である。
オルレアンの町を制される、ということは、ロワール川全体を抑えられてしまう、ということになるからだ。

だが、領主が捕虜となっている以上、いくらイギリスでも、オルレアンを制圧することができないのである。
領主が捕虜になる、という、このうえなく不幸な事態が、逆に町を救っているのであった。

妄言である。あきれた妄言だ。
これ以上、オルレアンが危険だ、などという、人を不安にさせる噂が広まらないうちに、娘になんらかの処罰を与えるべきではなかろうか。

ボードリクールがそんなことを考えているとき、やはりジャック・アランも、ル・ロワイエの家に厄介になりながら、ジャネットについて、考えを改めはじめていた。
薄気味の悪い娘だと思っていたが、そんなものだと納得してしまったあとは、さほどその突拍子もない言動も気にならなくなっていた。
ジャネットは、ジャック・アランを役人に突き出させないために、ヴォークルールに残ったのであるが、ジャックはすっかりやさぐれていたから、そのことについて、まったく感謝をしていなかった。
むしろ、隙を見て、こっそりル・ロワイエ家から逃げ出して(ついでに金目のものを拝借して)しまおうとさえ考えていた。

ところが、二日たち、三日たち、そして一週間たっても、ジャック・アランはル・ロワイエ家から抜け出すことができなかった。
ル・ロワイエ家は、たしかに金はあるのだのが、けっして居心地のよい場所ではない。
カトリーヌの意地悪さには、腹が立つばかりであるし、夫であるアンリの、カトリーヌを好き放題にさせて、見て見ぬフリをしている様子は、同じ男として、苛々するばかり。
町の人も、こちらの存在を怪しんでいるのか、どうにも愛想が悪い。
出て行く理由はたっぷりあるのだ。むかしのジャック・アランであったなら、即日、町に入ったなり、ジャネットにすべてを押し付けて、逃げ出していたことだろう。

もちろん、ジャックは逃げようとした。
だが、逃げようとして、カトリーヌが眠るときに抱えている金袋から、苦労して金貨をすこしばかり拝借し、さて、裏口からまわって、さようなら、というときに、台所の暖炉の前で眠っていたジャネットを起こしてしまった。
もちろん、ル・ロワイエ夫妻は、ダルク家の娘には、きちんとした部屋を与えていたのであるが、ジャネットは暖炉の前で眠っていたのである。

「なんだって、こんなところで眠っているのだい」
うろたえてジャックがたずねると、ジャネットは、眠そうに目をこすりつつ、答えた。
「だって、ここで起きたほうが、すぐに家事にとりかかれるでしょう? このおうちは、とても広くて立派に過ぎるわ。
アンリさんがわたしのためにって用意してくれた部屋に寝泊りしていたら、きっと居心地がよいので、寝坊をしてしまうと思うの」
「だからって、床に寝ていたら、体が冷えてしまうだろう」
「そうね。でも、わたしはこれから、野宿をつづけるようになるわ。いまから鍛えておかなくちゃいけないもの。
あなたはどうしたの。こんな夜中に、散歩なの?」

逃げるの、と言われなかったジャックは、かえってうろたえた。
ジャネットがまだ寝ぼけていることをいいことに、このまま逃げてしまえ、とも思った。
だが、足が動かなかった。
一方のジャネットは、毛布にくるまったまま、体を起こし、そして、よい夢でも見たのか、微笑んで、言った。

「よかったわね、ここのご夫婦が、二人とも良い方で。あなたは役人に突き出されたりしないわ」
「わかるものか。あんたがいるから、あの二人もオレを許しているだけさ」
「そうかしら。そうではないと思うわよ。本当にあなたに腹を立てているのなら、わたしとの約束を反故にして、あなたを役人に突き出していたでしょう。
でも、そうしていないということは、あの二人は、あなたを信じているのよ」
「オレじゃない、あんたを信じているのさ」
「ちがうわ。わたしじゃない、あなたを信じているのよ。だって、あなた、ここに来てから、ちゃんと真面目に働いているじゃないの」

ジャネットの指摘に、ジャックはさすがに返答に詰まった。
たしかにジャックはきちんと働いていた。
というのも、ジャネットとデュラン、この両者があまりに真面目にこつこつと働くので、なにもしないと自分が悪目立ちしてしまうからである。
逃げ出そうとしていたジャックは、ここで目立ったらまずいと思い、二人に合わせていただけなのだ。

「ねえ、強盗なんてやっているより、こうして真面目に働いていたほうが、よっぽど安心できるでしょう? 
さっき、アンリさんが言っていたのだけれど、わたしたちがよく働いてくれるから、賃金を出してくれるのですって。
そうしたら、わたしの分は、あなたにあげるわ」
思いもかけない申し出に、ジャックは仰天した。
「なんだって、賃金を、オレにくれるって? 賃金を?」
「そうよ。わたしには必要ないもの」
「ブールジュに行く旅費にすればいい」
「旅費はボードリクールさまが出してくださるから、いらないわ。あなたのほうが必要でしょう? 
だって、あなたはここに残ることになるのですもの。新しい生活をするためにも、少しでも多くのお金があったほうがいいわ」

ジャックは、また、うろたえた。
ここへきても、まだジャネットに対する感謝の念は沸かず、ますます恐ろしさのほうが膨らんだ。
この娘は、よほどの世間知らずか、そうでなければ、狂信者のたぐいではなかろうか。
水がワインに変わるように、神のご意志で、石ころが金塊に変わるから、不自由なく旅ができるとでも思っているのか。

「なんだって、そう言い切れる。あんたはブールジュにいけるどころか、ここで足止めをくらっているのだぜ
ボードリクールが心変わりをするのを待っているのかい。
そのころには、あんたの心も変わって、やっぱり町に残ります、と思っているかもしれない。
そのときに、やっぱり金を返せといわれても、オレは知らないからな」
ジャックが狼狽しつつ言うと、ジャネットは、面白そうに、ころころと笑いながら、答えた。
「そうね、もしそうなったら、いいことだわ。わたしがここに残ることになるということは、フランスが平和になる、ということですもの」
言いつつ、ジャネットは、すこし淋しそうに笑った。
「でも、そうはならない。わたしはブールジュへ行かねばならないの。たくさんの人が待っているわ」
「あんたをかい?」
いいえ、とジャネットは首を振った。
「わたしが述べる言葉を、よ。わたしはただの伝令だわ。声のとおりに動き、行動するだけ」
「なんで、あんたなんだ」
「わからない。声に尋ねたことはあったけれど、答えてはもらえなかった。疑ってはいけないということかもしれないわね。
でも、人と人のあいだだって、そうじゃない? わたしがあなたを疑ったら、あなただってわたしを疑うわ」
「あんたはオレを疑ってないのかい」
「疑ってないわ。あなた、いい人だもの。わたしの体のことを心配してくれたでしょう。森で、叔父さんを心配してくれたこともそうだし、それに、逃げ出すことはいつでも出来るのに、ちゃんとわたしたちと一緒に居てくれるもの。
世の中が、あなたみたいに、いい人ばかりだったらよいのにね」
「オレがいい人か? オレはあんたを襲おうとした男だぜ」
「でも出来なかった。あなたは、いままで、ちょっと運が悪かっただけよ。だから拗ねて、自棄になっているだけ。
神様は、あなたがご自分の前に戻ってきてくださることを、待ってらっしゃるのよ」

それまで、ジャックは、ジャネットの語る神になど、まるで興味を持っていなかったし、むしろ、声が聞こえるというジャネットの言葉をつよく疑っていた。
だが、ジャネットの語った『待っている』という言葉が、それまで隙間だらけだった心を、ひどく打った。
まるで、雷電に撃たれたような衝撃があった。

ジャック・アランは、確かに運の悪い男だった。
農家の大家族の一人として生まれたが、ジャックの村は、街道沿いにあることから、よく傭兵たちの掠奪の対象となった。
くりかえされる悲劇の傷跡は、ジャックの家にもしっかり残っていた。
ジャックは父親の顔を知らない。
育ての父は家にいたが、しかし、本当の父親は、村を襲ってきた傭兵の一人だった。
敬虔だった母親は、ジャックをおろすことができず、産むことにしたのだが、父親はいやでも悲劇を思い出させる子供を嫌った。
家族のなかでのジャックは、いつでも孤独だった。
みなの気を引くためにいたずらをしても、みなが冷ややかにジャックを見た。
父親がならず者だから、この子供も、どうしようもなく莫迦だと、自分を見る目がそう言っていた……そうではなかったのかもしれないが、そうだろうと思い込んだ。

ジャックは常時、落ち着かなかった。
ここは自分の居場所ではないと、そんなふうに感じられて仕方がなかった。
とはいえ、行く場所など、どこにもないのである。
自分にあるのは健康な体だけで、ほかにはとりえなどどこにもない。
成長していくに従って、孤独感と不安は増した。家に居る限りは、安らぎは得られない。
もし自分のなかの父親の血が、戦場へと向かわせようとしているのなら、それに従おうではないか。

かくて、ジャック・アランは戦場へ向かい、その途中、傭兵団に加わったのであるが、想像以上に、傭兵たちの振る舞いはひどいものであった。
人を家畜、いや、それ以下に貶め、なぶり、殺しつくす。
ただモノを奪うために殺すのではなく、殺す過程を楽しんでいるかのような蛮行の数々を目の当たりにし、ジャックはうろたえた。
かれらにとって、もはや日常茶飯事となっているこの行いの果てに、自分が生まれたのだ。
襲われる女を見るたびに、母親の姿を思い出し、女を助けようと追いすがる男を見るたびに、育ての父の姿を思い出した。
仲間に入れと誘われたが、傭兵たちのように、羽目を外して楽しめるはずがない。
かくして、自分の居場所になるはずの傭兵団からも、ジャックは浮き上がるはめになった。
そうして彷徨の果てに、自分の思い通りになる傭兵団を作ればいいと思ったのであるが、結局失敗して、ここにいるのである。

どこにも行けないし、行く場所もないと思っていたジャックにとって、待っている、といったジャネットの言葉は、言葉以上の効果があった。
「神様が、オレを待っているっていうのは、本当かい。あんたの声が、そういったのか」
「そうよ。戻ってらっしゃいって、そう言っているわ。そこがあなたの居場所なのよ」
「なんでオレなんか待ってくれているのだ」
「だれのことも待っているのよ。あなたのことも、忘れていない」
「ふん、まるでうちの母ちゃんのようだな」
思わず、母親のことを口にしていた。
そして、思い出した。
母や、父やほかの兄弟たちにどれだけ無視され、仲間はずれにされようと、庇ってくれた。
自らの身を汚された果てに、望まぬ子を授かり、どれほど辛い思いをしただろうか。
いままで、自分ばかりが辛い、孤独だといじけていたが、父も母も、もっと深い業を抱え、苦しんだにちがいない。
黙って家を出た。
これまで、きっとオレのような厄介者がいなくなったから、むこうもホッとしているだろうと思ったが、そうだろうか。

これまで、どこにも居場所がないと、世を恨んできたが、ちがう。
行く場所を間違えていた。
母は、自分に何を託して育ててくれたのだろう。
けっして、自分を酷く貶めた相手と同じようになるようにとは願っていなかったはずだ。

突如として、憑き物が落ちたような感覚に、ジャックは陥った。
危ないところだった。
盗賊になんぞならなくてよかった。失敗してよかった。

家に帰らなければ。
唐突に、しかし強烈に、ジャックは思った。
家に帰らなくちゃ、だめだ。
オレが、母や父を苦しめた人間とはちがうということを、示さなくちゃだめだ。
そうだ、家を出たのは、家が嫌いになったからじゃない。
嫌いだったら、きっとこれまでに、何度も家族の顔を思い出すことはなかったはずだ。
オレが本当にしたかったことは、偉くなることでも稼ぐことでもない。
ただ、認めてもらいたかっただけなのだ。
傭兵なんぞになったところで、いくら偉くなろうと、認めてなんぞもらえない。
そうだ、オレが望んでいるのは、そういうことだったのだ。
霧が晴れたような思いがした。

これだ、という確信と同時に、未来にたいする希望が、むくむくと胸のうちからわきあがってきた。
そして、これまで心を重くしていた鬱積の正体がわかったことで、肩の荷が軽くなったように思えた。
そうだ、オレはいったい、なにに対して怒っていたのだ。
まだ若く、幸い、健康だ。
これから先のことにくよくよする理由は、どれだけあるのだ。
幸い、ここで、あの太っちょのわがままにさえ我慢していたなら、食べることと、寝る場所には困らない。
ここでしっかり働いて、大手を振って家に帰ろう。
そして、あんたたちがオレを育ててくれたことは、けっして間違いじゃなかったと、両親に教えに行くのだ。

「賃金が入ったら」
「ええ」
「金を貯めようと思う。金を貯めて、家へ帰る。もう盗賊にも傭兵にもならない。
あんたが言ったとおり、オレはあんまり頭がよくないから、そういうのは向いてないみたいだしな」
「頭のよしあしではないわ。成功するということは、正しい道を歩くことよ。
あなたなら、きっと大丈夫。だって、いい人ですもの」
そう言って毛布に包まって笑うジャネットを見て、思わずジャンも誘われるようにして、笑みをこぼした。

そして、また気づいた。
こんなふうに笑顔を浮かべることができたのも、いったい何十日ぶりだろう。

そうして、ジャンは、カトリーヌの金袋から盗んだ金を戻し、あてがわれた部屋に戻ると、朝までぐっすりと眠った。
久しぶりに堪能する、煩わされることのない眠りのなかで、たっぷりと、その平安を楽しんだ。



翌日、ル・ロワイエの家に、事件が起こった。
ジャネットが用意した朝食をみなで食べ終わったころ、町ではまず見かけることのない、ひときわ豪華な馬車がル・ロワイエ家の前に止まった。
そうして、一人の男が、ル・ロワイエ家の前に降り立つ。
何事かとおどろいて、みなが外に飛び出すと、馬車から出てきた男は、くっ、と顎をあげて、いかにも慇懃無礼な態度で、一同を見回すと、言った。
「わたしは老ロレーヌ公シャルル閣下の使者である。この家に滞在しているという、ロレーヌの乙女を自称するダルク家の娘に、公がぜひお会いしたいと申しておる。
ダルク家の娘は、わたしとともにナンシーへ来るように」

つづく
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