ジャンヌ・ラ・ピュセルのための覚え書

暁光の章

五話 最初の試練・二

サン・ニコラ・デュ・ポール村へ向かう道へ進んでいくと、ほどなく、街道から外れて、いまにも倒れそうになっている馬車が、雪の残る街道のなかに見つかった。
つながれていたはずの馬はなく、そしてその乗り手の姿も、どこにも見当たらなかった。

「馬はどうしてしまったの」
デュラン叔父の荷馬車に揺られ、ジャネットがたずねると、盗賊になりそこなったジャック・アランは、田舎娘に説教を食らってまだふてくされていた。
荷馬車のうしろには、痩せ馬のエドがつながれて、これも大人しくついてくる。
ジャック・アランは荷台で背中を丸めて、口を尖らせた。
「捕まえて売ろうとしたのだが、畜生め、逃げられちまったのさ」
「そりゃあ、一人で、馬車の中身から馬から、ぜんぶ盗ろうったって、無理だよ」
デュランが呆れて言うのに同調して、ジャネットも大きくうなずいた。
「まったくだわ。あなた、ほんとうに、とことん盗賊なんて向いていないのよ」
「そりゃあ、最初だからだぜ。というか、なにもかも計算づくでやる人間なんて、俺ぁ、きらいだね!
人間、始めっからなにもかも上手くこなせるやつなんて、そうそういるものか。
それに、このご時勢だ。俺のように食い詰めて困っているやつは、ほかにもまだいるはずだ。今度は人数もそろえて、きっちり仕事をこなしてやらあ!」
「あなたに次はないわ」
容赦なく、ジャネットはぴしゃりと言った。
悪を突き放すときのジャネットは、決して本人はそんなつもりではないのだが、すこしばかり尊大で意地悪く見えた。
この妥協しない正しすぎる態度は、のちのち、理不尽に彼女を追い詰める原因となっていく。

「威張りくさった小娘め、仲間を集めたら、真っ先におまえの家を襲ってやる」
黄色い歯をむいて、野獣のように威嚇するアランであるが、ジャネットはまるで気にするふうでもなく、さらりと返した。
「あら、次はないと言ったではないの。わたしはたしかに小娘かもしれないけれど、あなたみたいな間抜けな人についていこうと思う仲間なんて、どこにもいやしないだろう、っていうくらいは、ふつうに考えるくらいはできるのよ」
「なんでそうはっきり言いやがる。おい、あんた、この娘っ子の叔父貴なんだろう。こんな生意気な口を利く娘は、張り手をかまして、口の利き方を一から叩きこんでやれ。それが女に対する、ほんとうの躾ってもんだ」
「そんなことをしたら、この子の父親と三人の兄貴に俺が張り倒される。それよりも盗賊見習いのジャック・アランさんよ」
「皮肉な口の利き方は血筋か、こん畜生め」
「馬車の主はどこへ行ったのだい。どこにも見えないようだけれど」

デュラン・ラクサールの指摘はもっともで、残雪のところどころに残る野原に打ち捨てられた馬車の中には、ついさっきまで人がいた痕跡があるのであるが、肝心の人がいない。
「村に助けを求めに行ったんじゃねぇのか」
言いつつ、ジャック・アランはぶるりと身を震わせた。
サン・ニコラ・デュ・ポール村もまた、ブルゴーニュ派の息のかかった傭兵たち、あるいはそういったはみ出し者から、さらにはみ出た乱暴者たちからの脅威にさらされ続けており、かれらへの憎しみも強いものであった。
追いはぎが初っ端から未遂に終わったからといって、村人たちはジャック・アランを許しはしないだろう。
よくて首かせをはめられて広場で晒し者、悪くて縛り首だ。

「いいえ、村ではないわね」
ジャネットのきっぱりした物言いにつられるようにして、デュランがたずねる。
「それじゃあ、逃げた馬を追いかけているのだろうか。もう暗くなるのに、気の毒に」
窮地に立たされた人間に対して、心からの同情を寄せられるのは、ダルク家の美質のひとつである。
「いいえ、馬は、このそばの泉にいるわ。逃げたはいいけれど、疲れてしまって、いまは休んでいるの。人から離れて生きることなんて考えていない、いい子だわ。迎えにいってあげないと、狼に襲われてしまうかもしれない。
叔父さん、あの森のなかに泉があるから、迎えに行ってあげてくれる? わたしが行ってもいいのだけれど、わたしがいなくなったら、この人、なにをするかわからないもの」
「莫迦にするなよ、おまえみたいに骨と皮だけの、鶏がらみたいな田舎娘を、だれが襲うもんか」
目をむいて抗議するジャック・アランであったが、ふと気づき、薄気味悪そうにジャネットを見た。
「ちょっと待て。えらく自信たっぷりに馬が森の泉にいると言うが、本当なんだろうな。このあたりの森には狼が出るんだぜ。
あんたの叔父さんが、あんたの言うとおりにして森に入ったら、狼の餌にるかもしねぇ。そうなったらどうする」
「たぶんそれはないだろう。この子が、こういうふうに断言したときは、間違ったためしがない」
デュランは言うと、赤いスカートの裾を引っ掛けないように馬車から降りたジャネットを確認すると、荷台にいるジャックを振り返った。
「すぐ戻ってくるけれど、あんたがさっき言ったことばを信じるよ。くれぐれもよろしく」
「ああ? 俺のなにを信じるって?」
威嚇してみるが、やはりデュランにもそれは通じなかった。
純朴な田舎村の、もうじき父親になろうとしている若者は、うす闇に包まれつつある草原を抜けて、森へと荷馬車を向けて行った。

あとにぽつんと残されたのは、ジャネットとジャックの二人だけである。
武器こそ持っておらず、腹も減っていたが、やはり体格からして、見るからにジャックのほうがジャネットに勝っている。
あのうすら莫迦、俺みたいなのと姪っ子を二人きりにして、ほんとうに行っちまいやがった、と胸のうちでジャックは悪態をついてみる。
が、どうも気分がわるい。
盗賊になり損ねたからではなく、さきほどから、自分自身に対して、やたらと腹立たしいのだ。

「この馬車の持ち主は、きっとどこかに隠れているのよ。日が暮れる前に、探してあげましょう。
さあ、あなたも手伝って。あなたのほうが、顔を知っているのだし」
言いつつ、どこからどう見ても痩せぎすの金髪の農家の娘は、さくさくと白く積もった雪の上にあざやかな足跡をつけながら、行き先がはっきりわかっているように、迷いなくまっすぐ歩いていく。
「おい、どこへ行くんだ、そっちにはなにもありゃしねぇよ」
「いいえ、こっちにいるのよ」
「なぜわかる」
ジャネットは足を止めると、街道から反れて、横倒れになりかけている馬車を指さした。
「よく御覧なさい。馬を失った馬車の持ち主は、逃げ場のない街道の真ん中であなたに出会って、まずは金袋をかかえて、馬車を飛び出して行った。
足跡がくっきりと残っているわ。あちらの木立のほうに続いている」
言われて見ればそのとおりで、二人分の足跡が、ちいさな木立までてんてんと続いているのが見て取れる。
「足跡の深さが浅いわ。走っていたのね。奥さんのほうが足をくじいたと言っていたでしょう。ここだったのではない?」
足跡を辿りながらジャネットは歩いて、ジャックに説明する。
転んだ、とジャネットが指摘した場所の雪面には、足跡のかわりに、樽が落ちてきたような丸い跡と、手形や、ほかのよくわからない凹みなどが無数についていた。
足跡の主が、ここで転げて、あわてて手をついて立ち上がったのが想像できる。

草深い田舎の農家の娘にしては、上品で知的な顔立ちをした娘は、木立へ続いていく二人分の足跡を見て、ふしぎそうに眉をひそめた。
「村へは行かなかったのね。怪我もしているのに、どうしてかしら」
「知るもんかい」
「あとで聞いてみればいいわね。まだあちこちに雪が残っていて、冷えるでしょうに、ずっと隠れているのかしら」
「命の次くらいに金が惜しいのさ。俺が仲間をつれて戻ってくるのが怖いんじゃないのか」
「だからって、もうじき日が暮れてしまうわ。ほんとうに狼が出るわよ。もしかしたら、わたしのことも、あなたの仲間だと思って、おびえて出てこないのかもしれない。
そうだわ、あなたが声をかけてあげたらいいんじゃないかしら」
ジャネットのその言葉に、ジャックはすっかりあきれ果てて目を剥いた。
「俺が? さっき襲った夫婦に、もう襲わないから、さあ出てらっしゃいって言えって? 
それであんた、あの夫婦者が、はい、わかりましたと素直に出てくると思うのかい?」
「わたしが呼びかけるより、効果があると思うのよ。どうして村へ逃げなかったのかはわからないけれど、このまま放っておいたら、凍死するか、狼の餌になるか、どちらかだわよ」
「あの女房のほうは、食いでがありそうだったが」
と、ジャック・アランは、このご時勢に、でっぷり太っていた、いかにも裕福そうな夫婦者のうちの妻の、どたばたと逃げまどう後ろ姿を思い出していた。
「いやな冗談を言わないで、早く呼びかけてあげなさいな。『もう襲ったりひどいことをしたりしません、安心して出てきてください、武器もありません』って」
「なんだ、その間抜けな言葉は」
ジャックが言うと、ジャネットは肩を怒らせ、腰に手を当てると、母親が子供を叱るような顔をして、言った。
「いまさらなにを格好つけるというの。芝居がかった言葉なんていらないわ。
あなたはあの二人に謝らなくちゃいけないのよ。なにも盗みはしなかったけど、怪我をさせて、怖い思いもさせたのだから、心から、素直に自分のことばで謝りなさい」

ジャックはおどろき、そしてますます呆れていた。
たしかにジャネットの言うことは正しいのだが、しかしあまりに単純すぎて、子供っぽくさえ思えた。
謝れば許してもらえるほど、この世の中は優しくないということを、ジャックはこれまでの人生でたっぷり学んでいる。
この娘は、おそろしく世間知らずにすぎる。十八くらいにはなっているだろうに、頭がゆるいのか? 
この年頃の娘っていうのは、もうすこし世間ずれしているものだろう。

ジャネットの単純さにつられて、ジャックはうろたえつつも言った。
「謝って、それでどうなる。あいつらは、きっと俺を役人に突き出す。そうしたら、俺は晒し者になるか、縛り首になるかのどちらかだ」
そうだ。
暗い未来はすぐに予想がついていた。
ここにいるのは、痩せっぽちの田舎娘ひとり。二人きりになったとき、すぐに逃げ出すべきだった。
どうしてぐずぐずとこの娘に付き合っていた? 
いまからだって遅くはない。

だが、逃げようと思っても、ジャックの足は言うことを聞かなかった。
「もしかしたら、逃げた二人はあなたを許してくれないかもしれないけれど、あなたを縛り首になんてさせやしないわ。あなた、いい人だもの」
根拠のなにもない言葉につづいての褒め言葉に、ジャックはますます混乱して、不気味なほど澄んだ目で、うろたえているジャックを不思議そうに見つめている少女を見つめ返した。
「なにを根拠に、いい人だなんて言いやがる」
「あら、だって、あなた、さっき叔父さんが一人で森に入ると聞いて、狼が出るからって心配してくれたじゃないの。
あなたが根っからの悪人だったら、そんなことは言わないで、きっと黙っていたでしょう」
「それは」
それは、どういうわけか、ジャック・アランは、この兄妹ほどにしか年の離れていない叔父と姪の二人連れに、心を許してしまっていたからであった。
この二人が、呆気にとられるほどお人よしで、純朴で、そして無防備だということは、すぐにわかった。
だが、莫迦ではないことも、襲撃に失敗した経験からわかっている。
妙なやつらだ。調子が狂う。
それに、なんだかわからないが、この娘の言葉には説得力がある。
この娘が縛り首にさせないと言ったのだから、俺は助かるんじゃねぇか、という気がする。

「強要はしたくないけれど、あなたのためなのよ。ここであなたが心から謝ってくれたなら、あなたは死なないわ。
けれど、そうでなければ、わたしはあなたを守れなくなってしまう」
「守るって、なんだい。ブルゴーニュ派のトンチキどもからか?」
「それもあるけれど、運命からよ」
次第に黄昏ていく街道のど真ん中で、ジャックは素朴な身なりの娘の口から出た、運命ということばに、恐ろしい重さを覚えて、ぞくりと震えた。
ちょっと教会あたりで知恵をつけた子供が、背伸びをしてわざわざ大げさな言葉を使って偉ぶっているのとは、空気がちがう。
娘のまなざしはまっすぐとジャックを見つめていた。
その目は、冷徹な説教師のように、ジャックの選択を待っていた。
どちらに転ぼうと、冷静にその行く末を見届けようと決めている目だ。
容赦なく感じられるほどに公平に世の中を見つめる覚悟を決めた目である。
こんなふうに恐ろしい目をした娘を、ジャックはこれまで見たことがなかった。

なんなのだ、この娘は。
ジャックは生つばをのんだ。
怖くなってきたのだ。

「俺がさっきの連中に謝って、出て来いと言ったらいいのだな?」
「そうよ。心から謝って」
ジャックは、しばらく言葉を選んで逡巡し、やがて心を決めると、夫婦者が逃げ込んだ木立ちに向かって叫んだ。
「おおい、さっきの二人、俺はあんたらを襲った盗人の見習いだ。さっきはほんとうに悪かった。
謝るから、出てきちゃくれないか。武器はもう持っていないし、あんたたちを襲おうなんて、もう考えていないよ!」

返事はなかった。
しばらくは、冬の風がぴゅうぴゅうと草原を吹き渡っているだけであった。
ジャックは迷いつつも、二度目の呼びかけをはじめた。
「おおい、聞こえているのだろう。もうじき日が暮れる。このままじゃ、あんたたちはここで凍死するか、狼の餌になっちまうよ。
出てきてくれないか。怪我をしたのなら、俺がかついで村まで連れて行ってやるから」

「そんなこといって、騙されるもんか!」
と、こだまを引きつれながら、中年女の声が返ってきた。
「今度は自分の女房に手伝わせるつもりだね! さっさとあっちへお行き、この盗人! 
おまえにくれてやる金なんて、一文もないよ! おまえにやるくらいなら、狼にくれてやったほうが、よっぽどマシだ」
「すごい女だ」
言いつつ、ジャックは隣で黙って聞いていたジャネットをちらりと見た。
ジャネットはというと、中年女の声がしたほうに向かって、言う。
「なにか誤解をなさっています、わたしはこの人の女房なんかじゃありません。盗人の仲間でもありません。
この人は、さっき、ちょっと魔が差してしまったの。いまはとても反省しているわ。
どうか安心して、出てきてくださいな。困ったことがあるのなら、お助けしますから!」

「信じられると思うかい、この小娘!」
悪態をつきつつ、木立のそのひときわ大きな木の陰から、冬眠から覚めたばかりの熊のように不機嫌そうな大女が、ひょっこりと顔を出した。
「わたしはドン・レミ村のダルク家の娘です。お疑いなら、父の名と母の名に誓ってみせますわ!」
すると、ダルク家、という名前に聞き覚えがあったらしく、木立の向こうで夫婦が話し合っているのが見える。
不機嫌な熊のような顔つきをした女房のとなりで、対照的に痩せた男が、なにやら早口で女房に訴えているのがわかったが、くわしい言葉までは聞き取れない。

やがて、のっそりと、直立歩行をする熊とでもいうべき巨体の女が木立の影からあらわれて、そして疑い深そうな目をして、ジャネットとジャックのほうへ向かってくる。
「ダルク家なら知っている。けれど、そのダルク家の娘が、なんだってこんな街道のど真ん中にいるんだい、しかも、そんな野郎とさ! 
逢い引きかい? それとも娼婦になって、傭兵くずれと旅をしようとでも思ったのかい」
名家の女主人とは思えぬ乱暴なことばを吐きつつ、女はたずねてきた。
しかしジャネットも負けてはいない。
「いいえ、どちらも違います、奥様。わたしは神の声に従い、王太子さまのいらっしゃるシノンへ行く途中なのです。
この人とは、ついさっき、友達になったばかりですわ」
ジャネットのことばは奇矯なものであったから、女は前半部分を鼻で笑い飛ばし、のこる後半部分について言った。
「野盗と友達になったって? 本当かどうかわかったものじゃないよ。おまえがこの男とつるんで、あたしたちを襲うと考えてない保証はないさね。
シノンに行くための旅費をためるため、そいつをそそのかして、あたしたちが汗水たらして働いて得た金を、奪おうって魂胆かもしれない。言っておくけれど、腕っ節なら、あんたより強いよ」
「でも、足をくじいてらっしゃるわ」
ジャネットが指摘したとおり、女はひょこひょこと、不自然な格好で歩いてきた。
片方の足を庇ってあるいているのだ。

「それで村まで行けなかったのね。お気の毒に、痛むでしょう」
同情をたっぷりこめていうジャネットに、熊のような女は、ますます大きく目をむいて、うなるように言った。
「あたしは騙されないよ。あたしは金袋を放さない」
「ええ、かまいませんわ。わたしたちの目的は、奥様のお金じゃありませんもの。
ねえ、そちらのご主人も出ていらして。いつまでもそんなところにいたのなら、体を冷やしてしまうでしょう」
ジャネットの呼びかけに、木立の物陰でじっとしていた男が、気まずそうに顔を出してきた。

じつに対照的な夫婦だった。
妻のほうがでっぷりと太っているのに対して、夫のほうは藁のように痩せぎすで、苦労性であるのが表情にあらわれている。
「あんた、出てくるなっていったでしょ!」
女房の叱責に、びくりと体をふるわせ、肩をすくめる男だが、ジャネットは女の体から顔をひょっこりのぞかせて、言った。
「遠慮なさることはないわ。お二人が揃っていたほうがいいもの。わたしたちは、あなたがたに謝りにきたのよ。
とても怒ってらっしゃるようだけれど、そんなの当然よね。いったい、どうしたらお二人に許してもらえるかしら」
と、本来ならば頭を下げなければならないジャックが戸惑うほどに、ジャネットは悲しそうに、しかし切々と、ル・ロワイエ家の夫婦に訴える。
「いまさら哀れっぽくしたって、騙されないからね」
「まあ、おまえもそうぽんぽん言うものじゃないよ。ダルク家の人間なら知っている。ジャックもジャックマンも気持ちのいいやつらで、どう食い詰めようと、盗賊の真似事なんてするくらいなら、飢え死にしてやる、と言いかねないくらい誇り高い連中だ。
そこの娘なら、言っていることだって、まずほんとうだろうさ」
亭主のほうが女房の剣幕を抑えるために言うと、意外にも、女房はすこし大人しくなって、今度はつま先から頭のてっぺんまで、じろりとねめつけるようにジャネットを見た。
「それじゃあ、なんだってダルク家の娘がここにいるのさ。しかも知らない男と」
「ですから、シノンへ行く途中、わたしたちを襲おうとしたこの人と会って、それから友達になったのよ。でもこの人ったら、あなたたちを襲ったと言うから、どういうことなのかしらと様子を見に来たの。
だって、もしお困りなら、助けて、そして、謝らなくちゃいけないわ」
「だとしたら、あんたが謝る筋合いはないよ、お嬢さん」
物静かで気弱そうに見える亭主だが、意外にも主導権はちゃんと握っているらしく、亭主が口をひらくと、がみがみと怒鳴りたてていた女房のほうは、ぴたりと口を閉ざす。
「でも、友達があなた方にひどいことをしたのだもの。わたしも謝らなくちゃいけないわ。どうしたら許していただけるかしら」
「許すもなにも、まずその男が頭を下げないことには意味ないだろう」

ジャック・アランは、生来の天邪鬼の性格が胸のうちにこみあげてきて、ここで
「だれが謝罪するか、ばかやろう!」
と叫びたくなった。
だが、となりで、ル・ロワイエ家の夫婦に必死に訴えている少女を見て、気持ちを変えた。
見ず知らずの俺のために頭を下げてくれる娘にぜんぶ押し付けて、俺は知らん振りか。
そいつは情けない。あまりに情けない。

「悪かった、魔が差したんだ」
それでも拗ねたような、不機嫌な表情をして、それだけ言うと、ぷいと顔をそむける。
とても本心から反省しているようには見えない。
「なんて男だろう、謝ることもろくにできないなんて、お里が知れるってものだね。
こんなやつ、サン・ニコール・デュ・ポール村に引き渡してしまえばいいのさ。しばらくは、あの村の門のあたりでぶらぶらと、ぶら下げられることになるだろうけれど」
「それはいけません!」
それまで哀願する調子でル・ロワイエ家のふたりにのようすに、ジャンヌは、とたんに顔を厳しく引き締めた。その変化に、ル・ロワイエ家の夫婦も、はっとして、ジャネットを見る。
「人には過ちをおかしてしまうときがあります。この人は悪い人ではないわ。ほんとうに、ちょっと魔が差してしまっただけなの。
いまあなた方がこの人を許さずに村に引き渡してしまったら、この人の心はほんとうに捻じ曲がって、世の中を呪うようになるでしょう。
そして、もっと多くの人が傷つくことになるわ。あなた方はそれでいいの?」
強い調子で弾丸のようにことばを打ち込まれ、夫婦としては黙るしかない。
さしてとびきり冴えたことばを口にしているわけでもない娘のことばに、ひどくうろたえていた。
恫喝を受けているようですらある。

「けれどね、馬は逃げてしまったし、それに頭を下げられたところで、あたしは、足をくじいて一歩、足を踏み出すのだって大変なんだよ。
これじゃあ、家に帰ってもなににもできない。このあいだ雇った召使いは辞めてしまったばかりだし」
と、そこまで言った女は、なにやら悪巧みを思いついたらしく、その大作りの顔を、いじわるそうににやりと笑わせて、言った。
「そうだ、謝りたいというのなら、あんたがあたしの代わりに、あたしの足が治るまで、あたしの家で家事をおやんなさいよ。
それで、あんたの友達って言う、そこのしみったれたやつを許してあげるわ」
すると、それまで訴えるような真剣なまなざしをして女を見ていたジャネットの表情が、みるみる曇った。
「けど、それはできませんわ。奥様たちはヴォークルールへ帰るのでしょう。それは逆だわ。だって、わたしはシノンに行かなくちゃいけないのですもの」
「あたしの足が治ったら、シノンだろうとトゥールーズだろうと好きなところへ行けばいいわよ。
あたしの許しがほしくないの? あたしゃ口ばっかりのものなんていらないの。ほんとうにすまなかったと思うなら、態度で示すべきだわよ。
そうでなくっちゃ、あたしは許さないし、正式にあんたのそのお友達を訴えて、厳罰を与えてもらうようにするわ」

ジャネットは、しばらく軽く胸の上で手を組んで、瞑目するように薄く目を閉じて考え込んでいたが、やがて、ぱっと明るい表情で顔を上げると、言った。
「ええ、それで許してくださるなら、よろこんでしますわ。お宅で家事をすればよいのでしょう。足が治るまでね。ええ、きっと頑張るわ」

さきほどのうちしおれた様子とは一転して、突如として明るくなったジャネットに、夫婦者も、となりにいたジャック・アランも、薄気味悪さを感じていた。
この娘は、なにをどう考えているのか、さっぱりわからない。
自分たちの理解しがたい、彼女だけの基準があって、そしてそれは常識とかけ離れたところにあるようだ。
かといって、娘は気が狂っているというふうでもない。
気のふれた娘の持つ、開けっぴろげなだらしなさ、投げやりな雰囲気、過度な神経質さ、そのどれもが娘からは感じられない。娘は正気なのだ。
「けれど、ヴォークルールまで帰る足がない。馬はどこかへ逃げちまった」
と、亭主がぼやいたちょうどそのとき、見事な頃合で、デュランが馬車馬を引いて戻ってきた。
デュランは、やってくると、
「ほんとうに利口な馬だよ、ジャネットのいうとおり、森の泉で憩っていたさ」
と、当たり前のことのように話したのだが、ジャック・アランは、もう、笑うことも、そんな馬鹿なと怒鳴ることもできなかった。

つづく
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