ジャンヌ・ラ・ピュセルのための覚え書

暁光の章

四話 ロレーヌの乙女・四

「ねえ、はかどっている?」
と、オーヴィエットは、自邸の屋根の修繕をしてくれている、ダルク家のピエールに声をかけた。
ピエールは、ジャネットと一緒で、夢中になると口数がすくなくなる。だから、かなりの間をおいて、屋根のうえから
「まあまあいいよ」
という声が聞こえてきたとき、オーヴィエットはホッとした。

ブルゴーニュ派の兵士たちがドンレミ村を襲った際、オーヴィエットの家もおそわれたのだったが、さいわいにも、家族は、みなヌーフシャトーに避難をしており、無事だった。
家も、もともとダルク家ほどに裕福ではなかったから、さして略奪にあうこともなかった。
ただし、その腹いせとでもいうのか、兵士たちは、家の一部に火をかけてしまったため、家を建て直さなくてはならなくなった。
オーヴィエットの家には男手が少なかったため、父親がこれを主に担当していたのであるが、はりきりすぎて、腰をいためてしまった。
それを見かねた近所のジャック・ダルクが、男手がじゅうぶんある自分の家から、ジャネットとならんで働き者である、次男のピエールを、オーヴィエットの家に派遣してくれたのであった。
そして、ピエールはオーヴィエットの家の修繕のため、泊り込んではたらいているのである。

「パンと、それから水を持ってきたから、ちょうどいいときに下りてきて、食べてね」
オーヴィエットが言うと、またも間をあけて、ピエールが、うん、そうするよ、と答えてきた。
そのあいだも、とんてんかんと、槌の音が止まることはない。

ブルゴーニュ派による襲撃から、すでに半年ちかい年月が過ぎようとしていた。
畑の収穫も終えて、どの家も冬にそなえている。
だからこそ、オーヴィエットの家の屋根がいつまでも吹きさらしではまずいのだ。
ドンレミ村へのブルゴーニュ派の襲撃による被害は、今回は、さほどではなかったといえるだろう。
ざんねんながら、被害者は出たが、以前のように大勢ではなかったし、家畜もほとんど盗まれることはなかった。
それもこれも、ヴォークルールから、ブルゴーニュ派の襲撃を聞いた騎士団が、いちはやく駆けつけてくれたからである。
聞いた話によれば、王太子(アルマニャック)派であるドンレミ村への襲撃は、かなり前から決められていたものらしい。
それを事前に知っていたヴォークルールの騎士団は、有事の際にいつでもドンレミにこられるようにしていたのだという。
ブルゴーニュ派の不穏な動きについての情報をあたえたのは、王太子から雇われて、ヴォークルール経由でロレーヌ公国に向かっていた、老兵オリヴィエであるとされていた。
つまり、老オリヴィエのことばによって、村は救われたのだ。
だから、村人は、オリヴィエに感謝をし、死んだ老兵のために、村のいちばん見晴らしのよい、小高いうつくしい丘のうえにその墓をたててやった。
ダルク家のジャネットを守って死んだその勇敢な兵士のため、村人たちは、かかさず毎日、花をたむけにやってくる。
その墓参りに、もっとも熱心なのは、ジャネットである。

ここまではふつうの、といえば、薄情にもひびくかもしれないが、よくある美談のひとつである。
ピエールとオーヴィエットの耳には、もうひとつ、気になる話が聞こえてきていた。

ブルゴーニュ公フィリップの命令をうけた、アントワーヌ・ド・ヴェルジーが、ほかならぬ五月、かならず王太子派であるドンレミ村に襲撃をかけてくると、はっきり日付や時間をオリヴィエにおしえたのが、なんとジャネットだったというのだ。
つまり、ジャネットのことばを信じたオリヴィエが、友人であるヴォークルールの騎士団長であったロベール・ド・ボードリクールに教えたからこその、今回の騎士団の出動につながったのだという。
一介の羊飼いの娘のことばではなく、旧友の言葉があったために、ボードリクールは、騎士団に命じてアントワーヌ・ド・ヴェルジーの攻撃にあらかじめ備えていた。
そのため、ほんとうにド・ヴェルジーが攻撃を仕掛けてきたと知るや、すぐにドンレミ村に駆けつけることができた。
おかげで、村はさほどの被害を出さないまま済んだ、ということである。
その話を、ピエールとオーヴィエットは、ドンレミのブルゴーニュ派を掃討し終わって、村人に見送られていくなかでしていた、騎士団の騎士たちの、ひそひそ話しから聞いたのだ。
『信じられない。信じられないが、やはり老オリヴィエが言ったとおり、あの娘が予言したとおりになった。ジャック・ダルクとかいう農夫の、小娘のことばが的中するなんて』

ジャネットは、ブルゴーニュ派の襲撃の直前に、ヴォークルールに向けて家出をしている。
ジャネットがそのときにあった出来事を、かたくなく話そうとしないので、ピエールやオーヴィエットの憶測にすぎなくなっているのであるが、ジャネットは、家出をしたあと、ヴォークルールにて老オリヴィエと再会し、オリヴィエにド・ヴェルジーの襲撃の予言を告げたのであろう。
だが、なぜジャネットに、ブルゴーニュ派の動きが、正確にわかったのだろうか。
そして、なぜそれを老オリヴィエに打ち明けたのか。
老オリヴィエが騎士団長のボードリクールと親しかったことを見越しての、計算うえでの打ち明け話だったのか。

さらに、オーヴィエットとピエールが不思議に思っていることがひとつある。
このことについて、村に噂が流れるようなことは起こらなかったし、その後、ロベール・ド・ボードリクールが、ジャネットを疑って、尋問するようなこともなかった。
普通ならば、ジャネットが、ブルゴーニュ派と内通しているのではと疑うところである。
老オリヴィエが、ジャネットについて、ボードリクールにどのように説明したのか、それはなぞであるが、情報源がどこかをさぐるための尋問がおこなわれない以上、ジャネットをかばうような形で語ったことはまちがいない。
それは幸運なことであったけれど、ピエールとオーヴィエットには、なんともぬぐい難い不安が残った。
ジャネットは、かれら二人のあいだでは、ただすこし変わっている妹、あるいは親友という存在だけではなくなりつつあった。
ジャネットには、一介の農夫の息子、そして娘が理解するには、不可思議な謎が多すぎる。
だが、ふたりとも、そのことをたがいに相談しあうことはなかった。
語り合い、ことばにすることで、どんどんこの奇妙な状況が、現実になっていくことが怖かったのである。


オーヴィエットは、家事をこなすかたわら、しきりに表に出てきては、ピエールの様子を気にした。
彼女はジャネットとおなじ年で十六歳。崇拝者もあらわれる歳となっていたが、これはすでに断っていた。
なぜならば、オーヴィエットは、ダルク家のピエールに、だいぶ前から心を寄せていたからである。
それは周囲もみんな気づいており、ダルク家のジャックやイザベル、そしてオーヴィエットの両親も、たがいに仲良しであったから、このふたりがうまくいけばよいと思っていた。
だから、オーヴィエットがそわそわと、糸を摘む手をとめたり、あるいは刺繍をする手を止めたりしては、ピエールの世話をやきたがるのを、止めたり、叱ったりするものは、だれもいなかった。
しかしこのちいさな恋には、障害があった。
それは、すでに妻をもってもおかしくない年になっているピエールに、まったくその気がない、ということである。
ピエールに、ほかに好きな娘がいるわけではない。
ピエールの心にいつでもあるのはジャネットのことで、生真面目なピエールは、ジャネットのことが落ち着かないかぎり、自分が結婚することなど考えられないのだ。
おさないころから、この、村でいちばん品のよい、うつくしい顔立ちをした兄妹を知っているオーヴィエットは、ピエールがどれほどジャネットをかわいがっているか、よく知っていたから、なにも口を出さなかった。いや、出せなかった。
けれど、あまりにピエールがジャネットのことばかり気にしているので、ときには、大好きなはずのジャネットを、恨むことさえあった。
そうして、そんなきもちをもつ自分を責めて、ひとしれず、ひっそり泣いたこともある。
オーヴィエット自身は、とりたてて美しい娘ではなく、いかにも村娘といった、垢抜けない、どこにでもいそうな、素朴な顔立ちをした娘である。
だが、気立てはたいへんによく、働き者で、敬虔で、芯のつよい娘であった。

さて、ピエールが動かす鑿や金槌の音を聞きながら、これでほんとうにピエールが『うちのひと』であったなら、どんなによいかしらと想像しながら、おだやかな時間をオーヴィエットが過ごしていると、草原を、ぱたぱたと息を切らせて駆けてくるものがある。
栗毛色のおさげを揺らして走ってくる、マンジェットであった。
マンジェット自身がわるい、というわけではないのだが、オーヴィエットは、この友達が道を駆けてくるときは、たいがいろくな話を持ってこないことに気づいていたので、このときもまた、ため息をついて、息を切らせている友達をむかえた。
「どうしたのよ、そんなに急いで。またなにかあったの?」
教会の鐘は鳴っていない。兵士の襲撃ではないだろう。
オーヴィエットの様子に苛立ちすらみせて、マンジェットは息を切らせながら、目を大きくして、言った。
「あんたって、なんだってそう呑気なのよ! 大変なのよ、ジャネットが、裁判所に呼ばれたの!」
とっさに、オーヴィエットの脳裏に浮かんだのは、老オリヴィエのことである。
ただの農夫の娘にすぎないジャネットがなぜ、ブルゴーニュ派の村の襲撃を予知を、老オリヴィエに教えることができたか、そのなぞを追及する審問ではないか、ということであった。

この時代、魔女裁判はまだ一般に浸透していない。
オーヴィエットには、ジャネットが魔女として疑われて裁判を受けるのでは、という発想は浮かばない。

ゆえに、オーヴィエットは、ジャネットがブルゴーニュ派に通じているのではないかと疑われて、裁判所に呼び出されたのではないかと恐れた。
「裁判所だって? なぜ!」
と、いいながら、はしごを、ころげ落ちるようにして降りてきたのはピエールである。
マンジェットは、切らせた息を整えながらも、二人の顔を交互に見ながら、言った。
「なによ、あんたたち、ほんとうに知らなかったの? ジャネットが求婚を受けたのに、それを急に断ったから、相手が怒って、訴訟を起こしたのよ!」
「訴訟? 結婚?」
それは、二人の口から、同時に出た言葉であった。
寝耳に水であった。
「結婚って、だれが?」
唖然としてたずねるピエールに、マンジェットは、ますます、その眉間のしわを深くして、言った。
「ピエール、あんたが知らないなんて、ナゾだわね。いま村じゃ、この話でもちきりよ。知らないのは、きっとあんたたちだけなんじゃない?」
「知っていたの、ピエール?」
血の気をなくして、うつむきかげんに思案しているピエールに、オーヴィエットがおずおずとたずねると、ピエールは首を横に振った。
「知らない。なにも聞いていない」
すると、小柄なマンジェットは、鼻をふくらませて言った。
「変なの! あんた、父さんや母さんから、仲間はずれにされたのよ。あんたがジャネットのそばにいたら、きっと結婚の話をすぐにめちゃくちゃにしてしまうでしょうからね」
「ちょっと、言いすぎよ」
オーヴィエットがマンジェットをたしなめると、この気のつよい少女は、なによ、あんたのためでもあるのよ、という意味をこめて、ちらりと睨みかえしてきた。
「マンジェット、それで、裁判はどうなったんだい」
ピエールの問いに、マンジェットは、お下げを揺らして首を振った。
「そりゃあもう、傍聴にいった人がいったけれど、すごかったって。あたし、ジャネットのことを、教会にばっかり行っている、大人しい子だって思っていたけれど、これからは、すこし考えをあらためるわ」
「それじゃあ、ジャネットは、家に戻っているんだね」
「ええ、そうよ」
「おじさんも、おばさんも、急にどうしたのかしらね。マリーとジャックマンが結婚してから、下の子たちも結婚させるって、前から言っていたのに、急にジャネットに結婚話だなんて」
と、オーヴィエットは首をひねる。

ジャネットには、これまで、男女のそうした浮ついた噂は、まったくなかった。
それに、父であるジャックが、ジャネットによその男を近づけさせなかったという点も大きい。
それが急に話が飛んで、ジャックは、なぜジャンヌに結婚をすすめたのだろうか。しかもピエールをのけ者にするようなかたちで……
と、そこまで考えて、オーヴィエットは、大人たちの考えを理解し、同時に恥かしく思った。
つまり、親たちは、ジャネットの結婚話をうまくすすめるために、ピエールはオーヴィエットの家によこされたのだ。
妹の結婚話を、ピエールはきっと反対する。
しかし、自分もまた、オーヴィエットとうまくいって結婚ということになったなら、ジャネットのこともうるさく言わないだろうと、計算したのだろう。
それにピエールも気づいたらしい。
目線をあげて、オーヴィエットを見る。
その目線が、申し訳なさそうな色を浮かべているのが、オーヴィエットとしては、悲しくてたまらなかった。
自分が想っているようには、ピエールは想ってくれていないらしい。

「オーヴィエット、すまないけれど」
言葉をさえぎって、オーヴィエットは答えた。
「いいわ。父さんや母さんには、あたしから言っておくから、あんたは早くジャネットのところに行ったほうがいいわよ。かわいそうなジャネット。もしかしたら、いま、泣いているかもしれないわ。あんたが慰めてあげなくっちゃ」
そういうと、ピエールは、秀麗な顔に、愁いのふくまれた笑みをうかべて、言った。
「ありがとう、オーヴィエット」
言うと、ピエールは、すぐさま野の道を、一路、自宅へと向けて走り出した。
黄金色に揺れる冬の草原のなかにある白い道を走り抜ける青年のうしろ姿を見て、となりにいたマンジェットが、まるで年寄りのようにため息をついて、言った。
「オーヴィエットのおばかさん。父さんや母さんたちがせっかくお膳立てしてくれたっていうのに、またピエールをジャネットにとられちゃったのね」
「仕方ないじゃないの。あの二人は特別に仲がよいのですもの。昔っからそうなのよ。だれであれ、あの二人を引き裂くなんて、できないんじゃないかしら」
「ダルク家の人たちは、みんな、すこし変わっているわよ。特にピエールは変わっているわ。
けど、あのご面相には、みんな弱いのよね。ちょっとどこかの貴公子みたいだもの。村の娘たちが目の色をかえてピエールを狙っているのは知っているでしょう? せっかくの機会なんだから、もっとしっかり捕まえておかなくっちゃ」
「わかっているわよ。でも、なぜかしら。いまは、ピエールを行かせてあげなくちゃ、って思うの」
「なぜよ。あんたも変よ」
「変だと、自分でも思うわ。でも、そう思うのよ」
そうして、丘の彼方に消えつつある、ピエールの背中を見つめるオーヴィエットであるが、自分でもわからないほどに、胸がどきどきと不安で高鳴って、抑えることができなかった。
なにかが起こる気配がある。



走りながら、自分の家が見えてくる。
その屋根が、壁が、どんどん近くなるにつれ、だんだんとピエールは、混乱から醒めると同時に、つよい怒りが、ふつふつと胸のうちに沸きあがってくるのを感じていた。
そうして思い出されるのは、オーヴィエットの屋敷の修繕を手伝えといった父の様子が、いつになくそわそわしていたこと。
そして、なるべくオーヴィエットの家のためになるように、なんでも手伝え、どれくらいかかってもかまわない、と、くどいくらいに言って聞かせてきたこと。
さらに、ふだんではありえないほどの額のこづかいまでくれたこと。
その理由が、やっとわかった。
すべて、ジャネットの結婚話をすすめるためであったのだ。

ピエールにとって、幼い頃より、聖ヨハネの名をもつ妹は、ただの妹ではない。
いっしょに、母のイザベルの語る、ローマ巡礼での出来事や、聖者や聖女、ふしぎな聖杯や魔法使いの登場するものがたりを、そのひざのうえで聞いた、親友、分身であった。

母のイザベルは、正しくは名をイザベル・ロメと言って、この『ロメ』とはつまり『ローマ』、ローマ巡礼を果たした敬虔な女性にだけ与えられる、とくべつな姓である。
この時代の娘たちは、母親の姓で呼ばれるのがふつうだったから、ジャネットも、ふつうはジャンヌ・ロメと呼ばれるのだが、そのあたりは曖昧で、公的には父親の姓で呼ばれることもある。
ゆえに、ジャネットは、『ジャンヌ・ダルク、もしくはジャンヌ・ロメ』であって、これはどちらが正しいとは、いまでははっきり分からなくなってしまった。

それはともかく、ジャネットの母であるイザベルは、ダルク家の最高の語り部であった。
教養は、農婦のそれであったから、文字も読むことができなかったけれど、なにより、豊かな想像力をもっていた。
イザベルの口から語られる、騎士ものがたりや聖者のものがたりは、すこしばかり、よその家とはちがっていた。
イザベルが語る話は、イザベル自身のもつ、つよい信仰心や想像力が絶妙に盛り込まれた、たいへんに面白いものばかりであった。
聖者のものがたりも、ときに、イザベルがおぼえていたケルトの昔話や、妖精のものがたりもおりまぜられて、生き生きと語られた。
イザベルの語る聖者たち、聖女たちは、あまりに生き生きと、憧憬とともに語られたため、ダルク家の子どもたちは、自然と、みな敬虔なキリスト教徒に育っていた。
イザベルの影響をもっとも受けたのが、母親のとなりで、いつも糸をつむぐ手伝いをしながら、語られるお話をせがんでいたジャネットであった。
ジャネットはいかなる悲劇や苦境にも屈せず、信仰をつらぬいて殉教した聖女たちの話が好きであったし、また、摩訶不思議な旅をする気高い騎士のものがたりを聞くのが、大好きであった。
とくに、信仰のために苦難と試練を乗り越え、ついには勝利を得る騎士のものがたりが気に入っていて、あきることなく、なんども、イザベルに、勇敢な騎士の苦難と勝利のものがたりを話すようにせがんだ。
騎士は、たったひとりの美しく気高い貴婦人への愛を貫き、誘惑にまけず、艱難辛苦をのりこえて真の幸福を得るのである。
ジャネットは、まるで物語の騎士に恋をしているようだと、ピエールはからかったことがあるほどだ。
そのため、ジャネットは、聖者や聖女に尊敬を抱くのとおなじくらいに、騎士にあこがれていた。

この時代、武装がどんどん重くなっていったがために、戦場での花形であった騎士の存在は、次第に影を薄くしつつあった。
武装が重いために機動力に劣り、戦場での主役の座は歩兵や槍兵に奪われつつあったのだ。
華やかなる騎士道は色をあせ、貴婦人への純潔の愛はやぶられた。
その失墜の象徴が、じつは王妃イザボーの乱倫であったのであるが、しかし村娘のジャネットはそんなことは知らない。

ともかく、ジャネットの結婚話である。
ピエールとしては、たとえ相手がだれであろうと、こうして自分をのけ者にして話を進めようとする父親に、断固抗議をするつもりでいた。
それに、ジャネットがそれでいいと言っても(言うとは思えなかったが)、反対をするつもりであった。
永遠に妹を妹のままにしておきたいなどという、大それた願いを持っているわけではない。
ただ、ピエールにとって、ジャネットは妹という区切りを越えた、とくべつな少女だったのだ。
それを、こんなふうに騙されるようにして奪われるのは、耐えられなかった。
そうして、ピエールが息を切らせてダルク家の扉をひらくと、居間では、いかにも不機嫌そうな顔をして、テーブルに頬杖をつくジャックと、怒るべきか、それとも同情すべきかを判断しかねている、といった顔つきの長兄ジャックマンと、スカートの裾をしきりにいじりながら、娘を案じて悲しげな顔をしているイザベルの姿があった。
かれらは、息を切って家の扉を乱暴にひらいたピエールの、その剣幕をみて、ばれたのか、といわんばかりに、
「ああ」
と、嘆息した。
その声が、さらにピエールの怒りをあおった。
「どういうことだい、ジャネットの結婚って? 俺はなにも聞いていないよ、父さん! しかも裁判って、どういうこと! 村中が知っているのに、俺だけが知らないのも、どういうことなのさ!」
ピエールは、血相を変えてジャックに詰め寄った。
だれより可愛がっている妹の、突然の結婚話である。
混乱もあるが、ピエールの場合、それをほかの家族が黙っていたという怒りのほうが大きい。
父ばかりでなく、母や長兄へも怒りがあった。

つかみかからんばかりにいうピエールに、疲れの色をはっきりと見せて、ジャックは言った。
「おまえは、きっとそんなふうに怒って、ぜったいに結婚なんてだめだというだろう。だから、母さんと相談して、おまえに黙っていたんだよ」
「だからって勝手に! だからオーヴィエットの家の手伝いをしろって言ったの? あんまりじゃないか! ジャネットは、相手の男のことを知っていたのかい?」
「知らなかったのよ。だから余計にこじれてしまって。父さんたら」
と、イザベルは、夫を恨みがましく上目遣いで見た。
ピエールの怒りは、いくぶんか、やわらいだ。
母のイザベル自身は、この話に乗り気ではなかったようだ、ということがわかったからだ。
じっと腕を組んで、瞑目をしていたような長兄のジャックマンが、重い口をひらいた。
「ヌーフシャトーで見かけたジャネットに一目ぼれした男が、結婚を申し込んできたんだよ。悪い男じゃなかった。家だって、しっかりしていたし、歳だってそう離れていなかったし、熱心に教会に通っているということだったし」
勘の良いピエールは、ジャックマンの説明に、ぴんときて、むっつりと不機嫌な顔をしている父に言った。
「わかった。それで勝手に、いいですよと、父さんが答えてしまったんだね! それじゃあ、ジャネットが怒るのも当たり前じゃないか! 
それに訴訟だって? 一方的に結婚を申し込んでおいて、それを破棄したからって、裁判所に訴える男なんて、ろくなものじゃないよ!」
ピエールのいうことはもっともで、三人が、そろって沈痛な面持ちをしているのは、父の早合点によって、物事が訴訟になるまで、こじれてしまったためである。
せっかくブルゴーニュ派からの襲撃の災禍から立ち直ろうとしているドンレミ村のなかで、ダルク家だけが暗かった。
ジャネットに良かれと思って勧めた結婚が、こんなふうに、結果が惨憺たるものになってしまったからである。

「呆れたものだね。ジャネットはどうしたの。まさか、部屋に籠もって泣いているんじゃないだろうね、かわいそうに」
「かわいそうかもしれないけれど、泣いてはいないよ、ピエール」
いささかうんざりした口調で、ジャックマンは言った。
それを次いで、イザベルもそれに同調する。
「ほんとう。あの子が、あんなに弁が立つ子だなんて知らなかったわ。裁判に呼び出されて、かわいそうに、きっと震え上がって、なにもいえないだろうと思っていたのよ。
ところがまあ、被告人として呼び出されて証言台に立ったとたんに、いったい、どこでおぼえたのかしらというくらいに、立て板に水の勢いで、ことばがぽんぽん飛び出してきたのよ。
そのうえに、こてんぱん、というくらいに相手の言い分をことごとく論破してしまって、裁判官が始終、くちをぽかんと開けていたもの。
ジャネットの言い分があまりにしっかりしていて、正しかったから、結局、全面的に相手が負けたかたちで、なんとか裁判は終わったのよ。
男であればたいそうな弁護士になれただろうに、農夫の娘にしては、すごい娘だと、裁判官たちがあきれて話し合っていたのが聞こえて、恥かしいったら」
「おまえに似たのさ」
皮肉を言うジャックを、じろりとにらんで牽制しつつ、イザベルはつづけた。
「まったく、きっとしばらくは、この裁判のことは噂になるでしょうよ。きっととなりの村にまで噂が行くにちがいないわ。ダルク家のジャネットは、とんでもなく強情で口がたつ、嫁にするには、ぜんぜん向いていない女の子だって。あんなに器量よしなのに、どうしてこんなことになってしまったのかしら」
イザベルはそういって、またも抗議のまなざしをジャックに向ける。
ジャックはジャックで、うるさそうにそれを手で振り払う仕草をした。
「だから、ほとぼりがさめるまで、ジャネットを、デュランのところへ行かせるんだろうが。初めての子だから、デュランの嫁はきりきり舞いで、すっかり気が立ってしまっているらしい。ジャネットがいけば、すこしは息がつけるだろう」

自分と同年の叔父である、デュラン・ラクサールの名を聞いて、ピエールの顔は、とたんに曇った。
先だって、ブルゴーニュ派に村が襲われたさい、ピエールと一緒に子供たちを守りきったことから、デュランの、ダルク家への出入り禁止は解けていた。
ピエールと同年の、この気のよい若者は、愛妻の自慢話をくりかえしながら、はじめて子を得るにあたって、義姉にあたるイザベルに、親としてなにをしてやるべきかを聞きに、ヒマさえあればやってきていた。
ただし、ピエールは、すでに以前のように、同年の叔父であるデュランを、気のやさしい、ちょっぴりおっちょこちょいの青年とは見なくなっていた。
ジャネットの家出を手伝った男、そうして、ジャネットを自分から奪おうとしている不穏な空気をもつ男として、デュランを警戒するようになっていた。
ジャネットには、たしかに、ほかの村娘とはちがうところがある少女だ。
どこがちがうのか。
具体的にうまく説明しろと迫られたら、口下手なピエールは困ってしまっただろう。
けれど、ちがうのだ。
ふつうの娘は、たとえどんなに気のつよい娘であろうと、あんなふうに、ふたりの屈強な傭兵に、堂々と立ち向かったりはしない。
そして、ジャネットの声に応じるようにしてあらわれたオリヴィエ。
偶然だとは思う。
偶然ではなかったのなら、なんなのか。
説明すら、うまくつけられなかったが、ともかく、オリヴィエがジャネットにさいごにいったことばがきっかけとなって、ジャネットの様子がかわったように、ピエールは思っていた。
そうして、オリヴィエのことばを聞いて、顔色を変えたのは、ジャネットだけではない。
顔色を変えたのはデュランもそうで、つまり、ふたりは、ボードリクールからドンレミに帰ってくる途上、オリヴィエとなにか会話を交わし、その内容が、ジャネットの内側を揺さぶるようなものだったにちがいないのだ。
ピエールは慎重な若者であったし、賢明でもあったから、それとなくデュランから、顔色を変えた理由を聞こうとしたのであるが、デュランもさるもので、ピエールの質問をいつもうまくはぐらかして、きちんと答えようとしなかった。
そのデュランのところへ、その妻が初めての子を持て余してしまっているから、ジャネットを家事の手伝いに行かせようというのである。

これが結婚話の出たあとでなかったら、ピエールは、これほどいやな予感に捕らわれなかったであろう。
「母さんが代わりにいくわけにはいかないの」
ピエールが言うと、ジャックが目をむいて反論した。
「なにをいうか。それじゃあ、うちの家事はだれがやる」
「ジャネットと、カトリーヌがするよ」
「駄目だ、カトリーヌはこのあいだのことで、かわいそうに最近じゃ籠もりきりになって、家の中から、なかなか外に出ようとしなくなってしまった。母さんがいなくちゃどうにもならない」
子羊を守ろうとして、そのやさしさが仇となり、老オリヴィエの凄惨な最期を見なくてはならなくなったカトリーヌのことを持ち出されると、ピエールもなにも言えなかった。

そこで、ジャネットの部屋へと様子を見に行く。
ピエールは、ジャネットが結婚話にまだ興奮していて、おそらくぴりぴりしているだろうと想像していた。
ところがそうではなく、ジャネットは、気が抜けるほど平然と荷造りをしており、ピエールの姿を認めると、にっこりと明るく笑ってみせさえした。
「おかえりなさい、兄さん。オーヴィエットの家は直ってきた?」
「ああ、だいぶいいよ。雪が降るまでには間に合う」
ジャネットがあまりにいつもどおりなので、ピエールは毒気が抜かれた気分である。
几帳面に荷造りをしながら、ジャネットは言った。
「明日の朝、おじさんのところへ行くわ。結婚話で父さんも母さんも、兄さんだって、なんだかぴりぴりしてしまっているし、早いほうがいいとおもって。それにおじさんのところ、てんてこ舞いだっていうから、手伝いに行く甲斐があるわ」
「そうかい。なら、途中まで送っていくよ」
「あら、だめよ、オーヴィエットの家の修繕が途中なのでしょう? 叔父さんが途中まで来てくれるって言っていたし、よく知っている道ですもの。もうブルゴーニュ派は出てきやしないわ」
「それでも、送っていくよ、ジャネット。途中まで」
ジャネットは、すこし困ったような顔をしたが、やがて言った。
「いいわ。じゃあ、途中まで送ってね。明日の朝は、早く出るつもりなの」
「わかった、そのつもりで準備をしておくよ」
答えながらもピエールが、ジャネットの目に、すこしだけ翳りがあることに気づいていたが、これはきっと、結婚話で家をもめさせてしまったことへの反省だろうとしか、そのときは思わなかった。



翌朝、朝陽ののぼりきらないうちに、ジャネットは身支度をととのえると、ダルク家の玄関に立った。しんと冷える、十二月の朝であった。
カトリーヌと三男のジャンはまだ眠っており、玄関口で見送ったのは、めずらしいことに、両親と長兄のジャックマンであった。
なにがめずらしいかといえば、ジャネットがひとりでデュランのところへ行く、というのはよくあることであったからだ。
それなのに、両親と長兄が玄関まで送りだし、そのうえ、ピエールまでが途中まで送って行く、ということは、いままでにないことだった。

「じゃあね、気をつけて行ってらっしゃい」
イザベルがジャネットにキスをすると、次いで、ジャネットを子供たちのなかでいちばん可愛がっているジャックが、ジャネットを、これまでになくつよく抱きしめた。
あまりそれがきつかったので、思わずジャネットが笑いだしたほどであった。
「どうしたの、父さん。また夢の話なの。怖がることなんかないわ。わたしには神さまがついているのですもの。きっと帰ってくるわよ」
ジャネットに励まされるようなかたちとなったジャックであるが、その顔は、ずっと晴れないままであった。
最後に、長兄のジャックマンがジャネットを送り出すかたちで軽く頬にキスをしたが、これもまた珍しいことであった。
ジャックマンとて、ジャネットがかわいくないわけではないが、照れ屋なために、あまりこうして妹にキスをすることがなかったのである。
「きっと帰ってくるわ。それじゃあ、行ってきます」
「ブルゴーニュ派の兵士に見つからないようにな。なにかあったら、すぐに逃げるんだぞ」
ジャックのことばに、ジャネットはにっこりと、明るい笑顔で答えた。
これまためずらしいことであるが、ジャネットは、父のことばを「そうするわ」と、肯定しなかった。


薄紫色の雲のたなびく、うつくしい暁の空の下のドンレミ村は、いつになく神秘的な顔を見せているように感じられた。
朝の冷気を胸に吸い込みながら、ピエールとジャネットは、ことばすくなに、歩きなれた道を歩いた。
柏の木立まで来たとき、ジャネットが不意に、手を差し伸べて、言った。
「ねえ、手をつなぎましょうよ、兄さん」
「子供みたいだ」
「いいじゃない。だれも見てないわ。手をつなぎましょう」
ピエールには、ジャネットがいつもよりも楽しそうに見えた。
いやな結婚話が破綻したことで、気持ちが晴れ晴れとしているのだろうと、ピエールは想像した。
デュランの家ならば、歩いても数時間の距離である。
なにかあっても、すぐに駆けつけてやれる。
わかってはいるが、この不安はなんなのか。
働き者の妹の手は、見た目よりも、ずいぶんとしっかりした固さを持っていた。
子どものころは、よくジャネットの手を引いて、この道を歩いたものだと、ピエールはなつかしく思い出していた。
カトリーヌの御守りはジャンの役目で、ピエールはジャネットと一緒にいた。

外では戦乱が止まず、血風が吹き荒んでいる。
しかし、ドンレミ村は、とりあえずは平和な村であった。
ここにいれば、そしてここで外界の時間が過ぎていくのをひたすら待っていれさえすれば、平凡ではあるが、幸福な人生をあるいていられる。
父や母がそうであったように、自分やジャネットも、そうなのだろうと、ピエールは思った。
いや、思おうとした。

薄紫色の雲のうえに、あざやかな朱の光が差しこんで、雲はまるで、天使が空を飛んでいるかのように見えた。
「わたし、きっと帰ってくるわ、兄さん」
と、夢心地にうつくしい空を見つめたまま、となりの妹は言った。
「うん、早く帰って来るんだよ」
ピエールは応じた。

柏の木立が切れるあたりで、もうここで見送りはいいとジャネットが言ったので、ピエールは、その手を離し、デュランの家の方角へ、ひとり歩くジャネットの姿を、しばらく見送った。
それはどこの村にもいる、赤いスカートを履いて、金色のお下げを揺らした、愛らしい十七歳の娘にしか見えなかった。
ジャネットが帰ってくると言ったのだ。
信じよう。

そうして、ピエールは踵をかえすと、ドンレミの、自分の家へと足を向けた。



一人になったジャネットは、もはやドンレミ村の方角を振り向くことはなかった。
暁光のさす朝雲のうえに、彼女の見るものは、かぎりなく美しく、幸福に満ちあふれたものであった。
それらを憧憬と、よろこびで見あげながら、ジャネットはこみあげてくる喜びを、どうしてもおさえられなくなってきた。
まるで、風を得た帆船のように、足がじっとしていられない。
最初は早足であったが、やがて、こらえ切れなくなり、ジャネットはとうとう、お下げを風になびかせて、道を雌鹿のように走り出した。

彼女には、たくさんの声が聞こえていた。
彼女を祝福する、そして鼓舞するための壮大な音楽が天にあふれているのを聞いていた。
彼女のために、おおくの天使たちがみまもってくれているのを感じていた。
かれらが口をそろえて告げる。
人の子よ、人の子よ、ゆけ、ゆけ、と。
たった一人のために捧げられた行軍歌に押されるようにして、ジャネットは道を走りぬけながら、叫んだ。

「わたし、会いにいくのよ! 王子様に会いに行くのよ!」

ジャネットの走り出した方角の向こうには、『フランス』が待っている。

1428年12月。のちにジャンヌ・ダルクと呼ばれる少女は、まずはたった一人で、フランス解放のための行軍をはじめたのであった。

五話につづく
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