ジャンヌ・ラ・ピュセルのための覚え書
胎動の章
三話 コーション、そしてラ・イール
喪の色に染まった、陰鬱きわまりない冬がすぎた。
待ち望んでいた太陽が、厚い雲から、おだやかな陽射しをふりそそぐ季節になってもなお、フランスの混乱は、なにひとつ改善されなかった。
あちこちで小競り合いをくりかえしながら、ある程度の平和を保っている、いわば小康状態である。
あたらしくブルゴーニュ公となった息子のフィリップは、鏡に映る自分の姿を、じっくりとながめた。
ひばりの声が空を駆ける季節になってもなお、フィリップは、からすのような黒衣を脱ごうとはしなかった。
こうすることで、王太子側への批難をしめしている、ということもあったが、フィリップは、情の厚い青年であった。
心から父の死を悲しんでいたから、喪服を脱がなかったのだ。
ブルゴーニュ公フィリップ、のちに善良公(ル・ボン)と呼ばれることになるこの青年は、このとき、わずか二十四歳。
そんな、人生でもっとも溌剌とした時期をむかえている、若きブルゴーニュ公爵が、父の喪に服したまま、黒染めの衣を脱ごうとしない様子は、見るひとの心を打った。
そして、おなじく、理不尽にも暗殺されたという、前ブルゴーニュ公爵の、むざんな死を思い出し、フィリップに同情するのであった。
世人のほとんどは、王太子が父ばかりではなく、母を愛人とし、妹たちをイギリスに嫁がせたブルゴーニュ公を、王太子が殺したのだと信じていた。
公爵が、先に王太子に斬りかかろうとしていたことは、ほとんど噂にすらならなかった。
世は、あきらかに王太子にたいして逆風である。
狂っているとはいえ、フランス王はフィリップの手の内にある。
王太子側のつよい味方であるアルマニャック伯も、若きオルレアン公も捕虜となった。
王太子は孤立無援だ。
この世相をうまく動かせば、ブールジュにいる王太子を廃嫡することも可能である。
だが、焦ってはならぬぞと、フィリップは、鏡のなかの自分に言い聞かせてみる。
意志の強さをあらわすしっかりした眉、柔和な線を描くあご、善良さを示すやさしげな目、これは母親ゆずりであるが、颯爽とした雰囲気は父ゆずりのものだ。
文人肌というところでは、フィリップと王太子とでは共通点があった。
しかし、あきらかにちがう点がある。
フィリップは、自分がどんな地位にいる何者かをわきまえている、賢明な若者であった。
ジャンという強烈な吸引力をしめす人物がいなくなったことで、ブルゴーニュ派の貴族たち、そしてイギリスは、不安にかられている。
この難局を乗り切るのに、善良な人物は不用だ。
ジャンのように、強引ではあれ、思い切ったことをできる人物が必要だ。
しかし、フィリップは、そうではないと思われていることを、フィリップ自身は知っている。
いま、自分は舞台の袖で出番を待っている役者のようなものだ。
世の喝采をあび、貴族たちを、イギリスを安心させてやるために、効果的な方法で舞台に出て行かねばならない。
鏡の前で、じっくりとおのれの姿を点検し、それから、フィリップは満足してうなずいた。
喪服とはいえ、その仕立ては一流のものだ。
ベルトの高さから袖のパッドまで、当代の流行をふんだんに取り入れており、洒落者の名に恥じないデザインのものである。
これならば、あの方も満足してくださるだろう。
フィリップは、自分を見たときの、王妃、そして摂政であるイザボーの顔を想像し、思わず笑みを浮かべた。
愛情はこれっぽっちもない。
すでに容色におとろえのある、ただ、地位と権力を持っているというだけの、つまらない女だ。
しかし、それでも当面は、大事な駒だ。
危ない橋を渡っていることにはまちがいないが、彼女をしっかりつなぎ止めておかねば、そもそもの計画が狂ってくる。
いまは王太子を批難している世論も、この情事を知ったなら、おそらく気まぐれに矛先をかえて、こちらを批難してくるだろう。
もちろん、フィリップは、それすらも読みこしていた。
世論が情事に気づくまえに、手を打っておけばよいのである。
パリ大学につてをもつ王妃が、選りすぐりの『使える男』をトロワに呼び出したと伝えてきた。
どれほどに使える男なのかはわからないが、フランスの世論を大きく動かす力をもつ、パリ大学の顔を立ててやる必要はあるだろう。
ついでに王妃の機嫌をとってやらねばならぬ。
そうして身づくろいをおえて部屋を出ると、待機している馬車に向かったのであるが、しかし途中で、妻であるボンヌが待ち受けていた。
ボンヌは、フィリップの二番目の妻である。
最初の妻のミシェールは、国王の娘であったが、あいにくと早世してしまった。
そのためフィリップは、五年前に亡くなった、叔父にあたるフィリップの未亡人を娶った。
ボンヌは、いつになくめかしこんだフィリップの姿を見ると、あからさまな嫌悪を顔に浮かべて、じろりと舐めるように、上から下までを点検した。
フィリップは、家庭は、安息の場所であれと願っている青年である。
ボンヌは、未亡人だということで、家を切り盛りするのに向いているだろうという理由から、妻にむかえた女であるが、しかし、性質は嫉妬ぶかく、精神も凡庸で、フィリップは、はやくもこの妻から、心が離れていた。
とはいえ、ここでボンヌの挑発的な態度に乗るフィリップではない。
ボンヌの不躾な視線に耐えつつも、あくまで丁重に接する。
「今日はご機嫌がよくないようだね」
「悪くもなりましょう。どちらへ行かれるのです」
「大事な話があると、摂政に呼ばれたのだよ」
とたん、ボンヌは鼻をふくらませて、苦笑いをした。
「まあ、それはお勤めごくろうさまですわ。けれど、あなたにはそのお勤めは、なにより心地よいものなのでしょうけれど」
妻の皮肉に、フィリップは、一瞬、顔に朱を走らせたが、しかし、すぐさま理性でもって、穏やかな青年の顔を取りもどした。
「世間ではなんと言っているかしらないが、わたしと摂政のあいだには、やましいことなどなにもないのだよ。妻である君が、なぜそれを信じないのかが不思議でならないな。
あの方は、おまえもよく知っているだろう。わたしのかつての義母でもある方なのだ」
「ええ、よく知っておりますわ。あなたは哀れなオイディプスというわけですわね。ダビデ王よりなお悪い!
義父上は、あの女のために死んだも同然だというのに、あなたは、また義父上とおなじあやまちをくりかえされている。なんと嘆かわしいことでしょう!」
「なんと言おうと勝手だが、うわさに振りまわされるのは、賢い女の立ち回りかたではないな」
とたん、ボンヌは眉をあげて、金切り声で言った。
「あなたのおっしゃる賢い妻というのは、何事も黙って耐える、子を産む道具なのでしょう! おあいにくさま、わたしは愚かな妻でけっこう! だからこうして、いそいそと出かけるあなたを笑いにやってきたのですわ!」
ボンヌの声に、フィリップは平然と応えた。
「わかっているのであれば、多少は賢いと誉めるべきなのかな。止めないよ、ボンヌ。好きにするがいい。それで気が済むのなら。
けれど、君がなにをしようと、もう、わたしの心が動かされることはないのだよ」
ボンヌは、怒りのあまり身を震わせて、フィリップをはげしくにらみつけた。
しかしフィリップはどこ吹く風。
用意されているであろう馬の待つ玄関へと、優美に歩を進める。
ボンヌが、どれだけわめこうが嫌味を言おうが、まるで気にならなかった。
ボンヌが無力であることを、フィリップはよく知っていたからである。
その背中に、
「親子二代で、いい恥さらしだわ!」
と、叫ぶボンヌの声が向けられたが、それでもフィリップは、妻を振り返ることはなかった。
フィリップが、王妃と王がいる大広間に足を踏みいれると、パタパタと小鳥の羽ばたきが聞こえた。
アーチ状に組まれた石柱に支えられている、まるで巨大な岩窟のようながらんとした広間には、中央に据えられた玉座と、ぽつんと、不釣合いに置かれたテーブルがあり、その前に、学僧が座っている。
見上げれば、窓から差し込む光が、がらんどうの空間のなかを、自由に飛びまわる黄色い鳥を照らしていた。
そのしたでは、小鳥の飼い主であるイザボーが、無邪気な少女のように、うつくしい鳥のうごきにあわせて、広間を行ったり来たりしていた。
イザボーと小鳥だけを目にすれば、それはおだやかな光景であることにまちがいはなかったが、しかし、その光景をいびつに見せているものがひとつある。
フィリップの目は、すぐに玉座にすわる人物に動いた。
狂ったまま、回復の見込みもない王シャルル六世は、今日も、うつろなまなざしを宙にさまよわせて、他者には意味の聞きとれぬ言葉を、しきりにぶつぶつとつぶやいている。
フィリップは、儀礼上、王にうやうやしく頭を下げたが、しかし王がそれに応じることはない。
王には、なにも目に入っていないのである。
髪も髭も伸び放題で、いったい、いつごろからフロに入らなくなっていたのかわからない。
あまり近づくと汚臭がすることは、フィリップは学んでいたから、適度に距離を置くことにとどめた。
たまに正気に戻ることがあるというが、正気に戻ったところで、狂気の世界に閉じこもっていたほうが、しあわせだったと思い知るだけだ。
もはや宮廷のだれもが、シャルル六世を忘れてしまっている。
石造りの大広間のなか、わざと足音をひびかせて近づくと、イザボーは、それと気づいたのか、顔を向けることなく、挨拶もなにもなしに切り出した。
「あたらしい鳥籠がほしいわ」
「また、あたらしい鳥ですか」
小鳥ばかり追いかけて、自分を見ようとしないイザボーの視線を、ともに追いかけて見あげれば、黄色い小鳥は、ひろびろとした空間を、飛びまわっている。
イザボーの足元には、華奢な装飾がほどこされた、繊細なつくりの鳥篭がある。
「アフリカの商人から買ったものなの。よい子でしょう」
よい子かどうかは、鳥にくわしくないフィリップにはわからない。
曖昧に返事をしても、イザボーはどうでもよいらしく、無頓着に鳥ばかりを追う。
「いっそ、この大広間くらい大きな鳥篭がほしいわ。そうしたら、あの子も自由に飛びまわることができるでしょうに」
夢想的なイザボーのことばに、フィリップは沈黙で答える。
しきりにぶつぶつとつぶやきをつづける王と、瞑想でもしているのか、石像のようにじっとして動かない学僧のほうを、フィリップは気にしていた。
とても十二人の子を産んだとはおもえぬほど、娘のような体型を維持しているイザボーは、口笛をふいて小鳥を呼び寄せた。
そうして、唇を鳴らしながら、鳥をなだめるようにして鳥篭に入れる。
黄色い小鳥は、イザボーによくなれていて、すぐにおとなしく鳥篭に入った。
「今日は、あなたに引き合わせたい者がいるので呼んだのよ」
と、ようやくイザボーは、フィリップとはっきり目を合わせた。
イザボーは、とびぬけて美貌を持っているというわけではない。
しかし、イザボーには、男心を掴んではなさぬ、ことばにしがたいほどの色気があった。
これも才能のひとつに数えてよいかもしれない。
目の動き、指のちょっとしたさりげない仕草、官能的な唇から発せられる、ひどく心をかき乱す声、ひとつひとつが、イザボーの武器である。
トロイのヘレンのように、あるいはクレオパトラのように、イザボーはその周囲の男たちをつぎつぎと惑わせた。
死んだジャンが、
「あれが王妃という名の女ではなかったら、きっと手を出さなかっただろう」
と言っていたが、それはどうであろうかと、フィリップは思う。
わけのわからぬ女であることにちがいはないが、そのまま放っておくことも勿体ないと思わせる魅力が、イザボーにはあった。
官能的な肉体のなかに宿る精神は、いつまでも少女のように無邪気で、どんなに近しい関係となっても、イザボーがほんとうになにを考えているのかは、おぼろげにしか掴むことができない。
夏の盛りにあらわれる遣り水を追いかける子どものように、イザボーがなにを考えているのか、それを知りたくなって、ついつい追いかけてしまうのか。
それとも単に、この女の手練手管に捕らわれているだけなのか。
だとしたら、ジャンが侮っていたように、愚かではないのだろう。
しかし、浅墓であることにはちがいない。
イザボーにとっては、大事なのはいまだけであり、将来のことはどうでもよいのだ。
いや、どうでもいい、というのは語弊がある。
イザボーは、自分が常に特別にあつかわれる存在であることを、重々承知している。
だから、万事において堂々と振る舞える。
世人がどんなふうに自分を悪く言おうと、まるで関係なく過ごしていられるのだ。
狂った夫とは対称的に、イザボーは楽天的で、享楽的であった。
そうならざるを得なかったのか、それとも、もともとそうであったから、夫を狂気に追いつめてしまったものなのか。
その判別は、フィリップにはわからない。
しかし判っていることがある。
イザボーと関係を持った男は、いずれもろくな最期をむかえない。
シャルル六世は発狂してしまったし、王弟オルレアン公ルイは暗殺、ブルゴーニュ公ジャンも、またしかり。
しかし、自分はちがう。
シャルル六世にも、オルレアン公ルイにも、父にもなかった知性に、自分は恵まれた。
イザボーが手練手管に長けていたとしても、フィリップとしては、それをうまく見抜き、利用する自信があった。
それに、月日の経過が、それこそ魔法のような威力を発揮しているイザボーの魅力に、翳りを落としているのは事実であった。
オルレアン公ルイやブルゴーニュ公ジャンがイザボーに夢中になったとき、彼女はたしかに女神のように輝いてみえた。
けれどいまは、確実に月日が彼女の肉体から、その最大の魅力である若々しいみずみずしさを削り落としている。
それはわかっているというのに、なぜ、自分は、この女のために、こうも自分を飾り立てようとしてしまうのだろうと、フィリップはおのれを怪訝に思う。
イザボーが自分を見たときの、一瞬だけみせた淫蕩な笑顔に、フィリップは満足した。
主導権を握っていると思っているのは、実は思いちがいにすぎないのではないか。
そんなことを考えて、すぐに否定した。
弱気になっている場合ではない。この女に呑まれるな。
「会わせたいとおっしゃるのは、そこの者ですか」
と、フィリップは、気持ちを切り替えて、さきほどから沈黙を守っている学僧を見て言った。
「そうよ。まあ、まだそんなつまらない喪服を着ているのね。せっかくの男盛りが台無しではないの」
さすがに、父の死までもつまらないといわれたような気がして、フィリップは落ち着かなかったが、イザボーは他者の心の動きに関しては、ぞっとするほどに鈍感な女である。
そのことを思い出し、不快な心を押し殺す。
「もう春がやってきたというのに、あなただけが、まるで冬に取り残されているみたい。ブールジュの者たちを牽制するためなの。それとも、本当にかなしいの?」
「両方です」
答えると、イザボーは興味がないらしく、そうなの、と、適当な相槌をうつだけである。
こうしたやりとりは、フィリップに虚しさを感じさせた。
虚しさを感じるとは、どこかでイザボーに期待をしているということなのか。
それもおかしな話ではないか。
と、同時に、ボンヌの辛辣なことばが脳裏をかすめる。
父の死の原因は、この女であることは、たしかにまちがいないことなのだ。
溺れてはならないと、自分を戒めつつ、フィリップはイザボーにたずねた。
「その者は、何者なのですか」
「パリ大学の学僧よ。わたくしが要請して、トロワに来てもらったの。もう春になったのだもの。そろそろ先手を打っておかねばならない時でしょう。この者が、協定案の草稿をつくってきてくれたのよ」
「協定案? ブールジュの連中とのですか」
「いいえ、イギリスとの協定案よ。あなたも気に入る中身となっているはずだわ。ピエール、フィリップ殿に、例のものを見せてあげて」
イザボーが言うと、はじめて、テーブルについていた学僧が起き上がり、フィリップのほうを向いた。
ピエールと呼ばれた男が向き直ったとき、大貴族の当主であるフィリップは、思わずぞっと背筋を凍らせた。
異相である。
なんと不気味で鋭く、つめたい双眸であろうか。
自分よりひと回り上くらいだろうが、日のあたらない屋内に籠もっていることが多い男なのか、不健康な青白い肌をしている。
それでいて、病的な雰囲気はなく、むしろ、ずうずうしいまでの力強さを感じさせた。
なるほど、使える男という看板にまちがいはなさそうだ。
だが、心のどこかが、この男にこそ、気を許してはならないと警告を発してくる。
ピエールは、上目遣いにちらりとフィリップを見たあと、うやうやしく草稿の記された紙を差し出してきた。
それ受け取りながら、フィリップはたずねる。
「ピエールといったな」
「はい公爵。ピエール・コーションと申します。教養学士、そして教会法学士でございます」
フィリップが意外に思ったことには、コーションの口調は、いかにも野心家といった相貌からかけはなれて、淡々として、やわらかいものであった。
ふと、もしやという予感にとらわれ、フィリップはイザボーを見る。
イザボーのほうは、フィリップやピエールのほうも見ないで、ままごとをする子どものように、鳥篭の小鳥ばかりを気にしていた。
そうしてコーションのほうを見ると、これはフィリップがさすがに怒りをおぼえたほどに、訳知り顔を向けて、安心しろとでも言いたそうにうなずいた。
おまえの情婦は取っていないから、安心しろと、そういう意味が籠められている。
最後にフィリップが狂王を見たのは、さすがに良心がとがめたからにほかならない。
王は、あいかわらず、ぶつぶつと独り言をくりかえしている。
奇妙な状況にいることに、不安をおぼえつつ、コーションの差し出した草稿に目を落す。
読み進むうちに、フィリップの表情に、驚愕が浮かんだ。
顔をあげ、まるでそこに悪魔がいるかのような表情で、コーションを見る。
「これは」
「シャルルを正式に王太子から外せばいいのでしょう。ならば、シャルルが王の子ではないと公表すればよいのよ」
コーションを見るフィリップに、横から、ごくあたりまえのことを語るように、イザボーは言ってのけた。
自分の息子のことではないかと、さすがにフィリップも考えたが、しかし、しれっとした表情で、なんの罪悪感もおぼえていないイザボーの、あまりの鈍感さに沈黙する。
たしかに、生みの母が、王太子が、王の子ではないと否定すれば、話は早い。
だが、あまりに異常な話であった。
フィリップには、王太子が王の子か否かの問題よりも、あくまで正式に認められた王太子を、実母が、あれは王の子ではないと、敵地から宣言するという状況がもたらす混乱のほうが気になった。
あまりに手段があざとすぎる。
たとえ王太子が、真実、王の子ではなかったとしても、あまりに人情を無視した手法というのは、つよい反発を招くものだ。
「この草稿は、王妃さまがお作りになったものですか」
「わたくしではなくてよ。ピエールがつくってくれたものを、すこし手直しさせただけ。こうすれば、あなたも優位に立てるのでしょう。
そうすれば、イングランドに嫁ぐカトリーヌにも心強い後ろ盾ができるというものです。フランス王家がなくなるのではなく、イギリス王家とひとつになる。そうすれば、争いはもうなくなるのでしょう」
イギリス国王のヘンリー五世に嫁ぐことになっている姫・カトリーヌ云々については、いかにもつけたしであった。
争いがそれでなくなるという動機も、また、しかり。
つまり、イザボーは深く考えてはいない。
若い愛人に気に入られるために、腹を痛めて生んだ子を、切り捨てようというのである。
『フランス王国の王位は、それに付随する諸権利および諸々の物件とともに、以後、永久にわれらの息子となる国王ヘンリーおよび、その後継者に属するものとする』
狂った王の名で発せられるそれは、要するに、イギリスとフランスを統一し、ひとつの王家、つまりはイギリスのランカスター家に帰属することにすると、定めたものであった。
つまり、フランス王家は、王位を奪われ、一貴族に過ぎなくなる。
いや、フランスという国がなくなることを定めたものなのである。
パリ大学が、イギリス・フランス両王国の二元論を準備していることは聞かされていた。
しかし、こうも明確なものを、ずばり持ってくるとは思わなかった。
そして、イザボーが、この協定案を押し通すために、みずから息子を公に私生児であると言い捨てるとは、思っていなかった。
フィリップは、自分が中心でいなければならないこの状態で、じつは蚊帳の外に置かれていることに気づき、愕然とした。
そして、灰色の目をしたコーションの背後に、イギリスの気配をおぼえて、この男を警戒した、自分の直感の正しさにうなずいた。
イギリスは、つまり、いつまでも父の死を悼んで、動きをみせない若い公爵をあなどって、先回りしてお膳立てをそろえていたというわけだ。
イギリスは信用できないと、フィリップはこのとき、はっきりと悟った。
身勝手で、恥知らずで、手段を選ばぬおそろしい相手。
だからこそ、いまは敵に回してはならない。
不愉快さを押し殺し、フィリップは言った。
「この草案をまとめよ。なるべく早く」
コーションは、自分でまとめた草稿を、またうやうやしく受け取ると、満足そうな笑みを浮かべた。
この草稿を通すことで得る報償を、この男はイギリスから、どれだけ引き出せるのだろう。
「さあ、もう、むずかしいお話はおしまい。ピエール、ご苦労でしたね、もう下がってよい。フィリップ殿は、疲れているでしょう。奥の部屋に、飲み物を用意させているのです。そこですこし休んで行かれればよろしい」
このあからさまな誘惑に、フィリップはさすがにたじろいだが、王は、かわらずぶつぶつと繰言をくりかえしているし、ピエール・コーションは、察しのよいところを見せて、さっさと退出の準備にとりかかっていた。
コーションが背を向けるや、イザボーは、ちいさく声をたてて笑いながら、まるで噛みつくようにフィリップの唇を奪った。
猛禽が、食事をむさぼるさまに似ている。
生あたたかい感触に、息苦しさをおぼえつつ、フィリップはそれでも冷えた心で考えていた。
この協定は、ブルゴーニュ側に傾きつつあった、『心ある者』たちを敵にまわすことになるだろう。
しかし、イギリスの動きは、不快きわまりないことではあるが、じつに精確だ。王妃をとおして、この自分を支配しようとしているのであれば、いまは、それに乗っておこうではないか。
唇を離して、妖艶に笑うイザボーに手を引かれ、フィリップは奥の部屋へと移動する。
大広間には、狂った王だけが残された。
トロワ協定とよばれる、王太子の廃嫡と、王位の継承をランカスター王家とその子孫に与えると示したそれは、フィリップの読みどおり、フランスばかりではなく、諸外国からも批難をあびるものとなったが、しかしイギリスもブルゴーニュ派も動じることはなかった。
かれらは、計画通りに着々とことを進める。
1420年5月21日、トロワ協定。
つづいて6月2日、イギリス・フランス両国の王家の統一の象徴になるであろうヘンリー五世とカトリーヌの結婚式が、華やかにトロワにて挙行された。
そして半年後の1420年12月1日、ヘンリー五世は、義父となったシャルル六世をともなって、未来の国王として、首都パリへと入城した。
翌1421年12月7日には、この結婚の輝かしい象徴となる、シェイクスピアの戯曲でも有名な、未来のヘンリー六世が誕生する。
この時期が、イギリスにとって、最良の時期であったことは疑いようがない。
すべてが、思惑通りに運んでいた。
その華やかさの影で、一気にひとびとの同情を買うこととなったブールジュの王太子は、だれからも省みられることもなく、田舎町で傍観しているしかできない。
壮大で、華々しい主張を看板にかかげた、この王国二元論に触れたひとびとは、ヘンリー五世とカトリーヌの結婚によって、ようやく戦争が終わるのではないかと期待した。
しかし、この無理なトロワ協定は、フィリップが危惧したとおり、つよい反発をまねいた。
南フランスは王太子を支持する姿勢を変えようとはせず、ラングドック地方もまた、せっせと王太子側に軍資金を寄付しつづけた。
ブールジュにいる、王太子の長い冬はつづいた。
この頃より、ますます王太子は、祈祷所に籠もることが多くなった。
自分がこれほどの苦杯を舐めなければならないのは、やはりブルゴーニュ公ジャンをみすみす殺させてしまったからではないのか。
自分は父シャルル六世の子ではないのか。
真意を知っているはずの実母イザボーは、いまや世間が公然と噂するように、ブルゴーニュ公フィリップの情婦に成り下がっている。
パリにいるイザボーを詰問することすらできず、王太子は、たったひとりで、疑問と闘いつづけなければならなかった。
まだ二十歳だというのに、王太子はずっと年老いて見えた。
目つきは暗く、皮肉げで、ため息と苛立ちのなかに溺れていた。
もともと、自分に王の資格があるのかと悩んでいただけに、トロワ協定は決定打となった。
それでも父のように正気を失わなかったのは、ヨランドと、妻のマリーの献身があったからこそである。
1422年、事態は動く。
嬰児を残したまま、ヘンリー五世は急逝した。
つづいてその年の十月、シャルル六世が逝去。
イギリス王位、フランス王位が、つづけて空いた。
トロワ協定に従えば、幼い王子がイギリスとフランス両王国の王となるわけであるが、しかしまだ二本の足でしっかり立つこともおぼつかない王子に、そんな重責が担えるわけがない。
王子には、フィリップの妹で、ヘンリー五世の弟であるベッドフォード公に嫁いでいたアンヌ(幼いヘンリー六世にとっては、叔母にあたる)が摂政についた。
つまり、イギリスとブルゴーニュ派が、実質的にフランスの支配者として名乗りをあげたのであった。
これに対抗すべく、王太子側は、トロワ協定を無効として、ポワティエにて王位を宣言する。
しかし、歴代のフランス王がしたように、ランスの大聖堂において戴冠式をおこない、聖レミの聖油をうけるという儀式を受けていない。
ランスは、イギリス側に落ちていたためだ。
だから、王太子は正式な王として認められなかったが、さいわいにも、ヘンリー六世もまた、幼すぎるという理由から、ランスでの戴冠式を行えないでいた。
ここからの歴史は、ざっと述べるにとどめよう。
幼い王子の後ろ盾となったアンヌを妻にもつベッドフォード公は、たちまち頭角をあらわし、イギリス側の中心人物となって政局をうごかしはじめた。
パリの防衛を強化し、各地でくりひろげられるゲリラにそなえ、さらに軍事組織をととのえるべく、ブルゴーニュ公およびブルターニュ公と、あらたな軍事協定をむすぶ。
この協定によって、イギリス側は、まとまりのわるいフランス側とは対称的に、寡兵ながらも整然とした軍事組織が編成されることとなった。
この効果で、各地で、イギリス側は勝利をおさめた。
いまや、時勢はイギリス側に優位である。
幼いヘンリー六世の名のもとに、王太子側からみれば、フランスは、徐々にイギリス側に侵略されつつあった。
1424年。変転するフランス情勢のなかの、パリ西郊外に位置する、ヴィトリーという町でのできごと。
左足をひきずる、あちこちに傷のついた甲冑を身に纏った大男が、愛馬にのって、ヴィトリーの町を背に、部下たちを引き連れて、脱出をはかっていた。
かれらはフランスでも名の知れた大傭兵団で、王太子側にやとわれて働いている男たちであった。
しかし、町がイギリス側の猛攻に耐えかねて、降伏をきめてしまったからには、一目散に逃げなくてはならない。
逃げる途中で、ヴィトリーの裕福な家から、金目になりそうなものを、ちょいとばかりくすねていったのはご愛嬌。
家人を殺さずにいたのだから、かれらにしてみれば、慈悲を示したつもりである。
イギリスに捕まったら、捕虜にされることはまちがいないが、しかし、どう見ても戦意にとぼしい王太子側が、自分たちの身代金を、イギリス側に払ってくれるかどうかあやしい。
金にならない捕虜など、ただのお荷物だ。
だから、おそらく自分たちは、捕まったなら、殺される。
そうしてせっせと逃げる庸兵であったが、ふと、先頭を切っていた大男が、ぴたりと馬の足を止めた。
なにが起こったのか?
怪訝そうにする部下たちを尻目に、男は、くるりと馬首をめぐらせると、なんと、ふたたびヴィトリーに向けて走り出そうとする。
あわてて、となりで轡をならべていた部下のひとりが、男の手綱をつかんで止めた。
「待った、待った! いったいどこへ戻るってんですか! 死にますぜ!」
「てめぇらは、すこしも腹がたたねぇのか、こん畜生ども!」
と、男は、短慮なところを見せて、怖じた表情をうかべている部下たちを怒鳴りつける。
ヴィトリーの町を守るべく、その前線に立って、ずっと部下たちを怒鳴り、励ましつづけ、疲労困憊しているはずなのに、部下たちがあきれたことに、大男はまだまだ元気いっぱいであった。
「負けたんだぞ、負けた! このラ・イールさまが負けたのだぞ! もうちょっと悔しがれ、てめぇら!」
ラ・イールこと、エティエンヌ・ド・ヴィニヨルの部下にして、長くその副将をつとめているリシャール・クレルモンは、獅子のごとく雄叫びをあげるラ・イールを、醒めた目で見つめた。
「なんだってんだよ、負けるなんてことは、いつものことじゃねぇか。いまさら、なにを悔しがってやがるんだ。
それより、さっさと先に進もうぜ。どこかでうろちょろしているイギリスの遊撃部隊でも見つけて、そいつらで憂さ晴らしすりゃあいいじゃねぇか」
とたん、ラ・イールは、リシャールをはげしくにらみつけた。
「いいや、そんな連中やっつけたところで、俺の腹はおさまらねぇ! 畜生、見やがれ、あの旗を!」
と、ラ・イールが示す方向を見れば、城壁には、ヴィトリーの占領を高らかにつげるべく、イギリスとフランスの両王家の紋章である、百合と獅子が描かれた旗が、悠然と風にたなびいていた。
「旗だな」
リシャールがつぶやくと、もっともだ、とほかの部下たちもうなずいた。
そして、だからなんだという目線をラ・イールに向ける。
ラ・イールは怒りのあまり、ますます顔を朱に染めて、怒鳴った。
「なんとも思わねぇのか、この愚図どもめが! あの忌々しい旗を地面に叩きつけてやろうとか、そういう気合の入ったヤツはいねぇのか!」
しかしラ・イールの呼びかけに答えるものはなく、むしろ逆に、うろたえた顔をするばかりだ。
「なんだよ、隊長。急に旗を目の敵にしやがって。あんなの、イギリス側の町じゃあ、どこでもひらひらしているじゃねぇか」
「まあ、そうなんだけどよ。ええい、くそ! なんだか、妙に癪にさわるのだ」
「旗がかい?」
と、リシャールたちが目を旗のほうに向けると、ちょうどそのそばに、白い服を身に纏った男が立っているのが見えた。
司教のようである。
「なんだ、あいつ」
怪訝そうにするリシャールたちの脇で、ラ・イールは、カッと頭に血をのぼらせて、ふたたび馬をはしらせようとした。
「あの野郎! 畜生め、てめぇらがいかねぇってんなら、俺ひとりで戻ってやる! ラ・イール様の最期を、寝ぼけまなこをかっと開いて、よーく見とけ!」
「なに考えていやがるんだ! おい、みんなで隊長を止めろ!」
リシャールの命令により、周囲にいた部下たちが、いっせいに、走り出そうとするラ・イールの馬を抑えにかかる。
ラ・イールは、しばし部下たちをふりほどこうと暴れたが、やがてあきらめて、おとなしくなった。
「おい、隊長よ、今日のあんたは特別に変だぜ。いつもだったら、さっさと逃げて、ほかのイギリス野郎をぶちのめすほうが褒美ももらえてうれしいな、とか言うじゃねぇか。
なのに、なんだってあの町にこだわるんだよ。あの坊主がなんだってんだ? なんか恨みでもあるのかよ。懺悔を聞いてもらえなかったとかよ」
リシャールがたずねると、ラ・イールの顔はひどく渋いものに変わった。
「懺悔だ? 冗談じゃねぇや。そうじゃねぇ。あれは悪魔だぜ」
「はあ?」
「ヴィトリーの町長が、降伏勧告を受けたとき、イギリス側から、坊主が派遣されてきただろう。おぼえてねぇか」
坊主、といわれて、リシャールほか、部下たちは首をひねる。
「そういやあ、いたかも知れねぇな。金髪に灰色の目をしていたっけ。なんだかいけすかねぇ野郎だったが、ああ、もしかして、あいつがそいつなのかい。だからなんだってんだい?」
「わからねぇ」
「はあ?」
不可解なラ・イールのことばに、リシャールは首をひねるが、しかし見ればおどろいたことに、豪胆なラ・イールの顔からは、脂汗がながれていた。
「なんだよ、どうしたんだよ、隊長」
「わからねぇんだけれどよ、あの野郎を見たときに、野郎だけは殺さなくちゃいけねぇと思ったのだ。ぞっとするような目をした男だったぜ。ピエール・コーションとかいう司教だった。
ほかのイギリス野郎はともかくとして、あの坊主だけは殺しておかなくちゃいけねぇ気がするんだ」
「坊主だと? 坊主を殺してぇのか。だったら、この先に僧院があったはずだぜ。そこで思い切り暴れればいいだろ。
うまくすりゃあ、女を隠しているやつがいるかもしれないぜ。イギリスに降伏しちまった町にわざわざ戻るより、そのほうが楽しめるだろ」
リシャールの軽口にも、ラ・イールは乗ることはなかった。
めずらしくも思いつめた顔をして、自分を見下ろすイギリス軍の旗を見上げる。
「わからねぇけど、あいつを殺さなかったことを、俺はとんでもなく後悔しているのだ。嫌な気分だぜ。畜生、なんだってんだ。わからねぇから、余計にイライラする」
「そういうときもあらぁな。疲れているんだよ、隊長。負け戦だったし、そんなに思い詰めることはないぜ。
ったく、あの坊主、まだこっちを見てやがる。お見送りと洒落てやがるのか。手を振ってやれ。おーい」
リシャールが能天気に手を振ると、それに答えるようにして、まさにヴィトリーの町から、どん、と重々しい音がひびいた。
と、同時に、逃走するラ・イールの一行の後方より、悲鳴があがった。
ヴィトリーの城壁より、イギリス兵が、容赦なく大砲で攻撃を仕かけてきたのだった。
せっかく逃げてきた部下たちが、大砲によって倒されたさまを見て、ラ・イールは、ふたたび怒り心頭の面持ちで、ヴィトリーに戻ろうとする。
あわてて、リシャールはラ・イールの行く手を、今度は全身をつかってふさいだ。
「駄目だって言っているだろう! あんた、ここで、傭兵団をつぶす気かよ! あんたが動かなくちゃ、みんな大砲でやられちまう! さあ、なんだかしらねぇが、あの坊主のことはあきらめて、逃げようぜ!」
さきほどとは打って変わり、部下たちがラ・イールに向けてくる目線は、
「ここで死ぬつもりなら、あんたひとりでやってくれ、俺たちは逃げるぜ」
と、語っている。
ラ・イールは、いらだちを隠せないながらも、しかし大傭兵団の頭領として、部下たちをまもる命令を出さなければならなかった。
「仕方がねぇ! 野郎ども! 駆け足だ! 引き上げるぞ!」
そうして、ふたたび傭兵団はヴィトリーの町を背後に、大砲を気にしながら逃げることとなる。
しかし、町から離れれば離れるほど、ラ・イールのなかにあった後悔は、どんどん重くなっていった。
司教ピエール・コーション。
あの冷たい目とあったとき、ラ・イールは、これまでどんな人物にも抱いたことがないほどの、嫌悪と恐怖をおぼえたのだ。
あれはきっと、坊主の姿をした悪魔だったのにちがいない。
それは、ラ・イールこと、エティエンヌ・ステファン・ド・ヴィニヨルの最悪の敵となる、ピエール・コーションとの短い邂逅であった。