ジャンヌ・ラ・ピュセルのための覚え書
胎動の章
一話 パリ陥落
階段を降りる。一歩、また一歩。
ふと、夜闇に、ぎい、と木の軋む音が響いて、ペリネ・ルクレールは身をすくませる。
しまった、この段は、真ん中を踏むと、大きな音がするのだった。
心臓をはげしく鼓動させながら、息を殺し、慎重に耳をそばだたせ、家人が、物音にきづいて、だれも起き上がってこないかどうかを確かめる。
大丈夫だ。親父は鼾をかいて眠っている。
あれだけたっぷりと酒を飲ませたのだ。起き上がってくることはない。
ペリネは、無意識のうちに、盗みとった鍵を、汗ばむ手のなかで握りしめていた。
その鍵こそは、父親の枕の下から盗み出したものであり、寝静まるパリのひとびとのうえに、災禍をもたらす、パンドラの箱の鍵なのである。
鉄商人ペリネ・ルクレールは、シテ島からセーヌの左岸にかかる橋のうえに店をかまえている男であった。
鉄をあつかう商売をしていることから、自然と、王太子派の兵士たちとだけではなく、ブルゴーニュ派の兵士とも交流がある。
ペリネは博打好きのだらしない性分を持つ男で、信心深く老いてもなお壮健な父親からは、いつもだめ息子とののしられ、莫迦にされつづけていた。
この父親は、パリの市門のひとつであるサン・ジェルマン・デ・プレ門を警備する守備隊長でもあり、周囲の人望も厚かった。
そのため、だめ息子のペリネを見る目は、周囲も自然ときびしいものとなった。
俺がこんなことをするのは、親父がいけないのだと、ペリネは心のなかで悪態をついてみる。
親父はいつだってみんなの前で、俺を腰抜け呼ばわりしやがった。
博打好きで、酒にだらしない、ろくでもない放蕩息子だと。
親父がそんなふうに言うから、まわりだって、俺を舐めてかかる。
親父が、一度だって俺を守ってくれたことなんて、あったことがない。
だから、これはいままでの仕返しなのだ。俺はちっとも悪くない。
1418年5月8日。
パリはいま、ブルゴーニュ派の大軍を眼前に見据え、不安と恐怖のただなかで、浅い眠りのなかにある。
ブルゴーニュ派は、パリを落すべく、甲冑に身を包んだ獰猛な兵士たちを引き連れて、昼も夜も、狼のように、パリ攻略の機会をうかがっている。
かれらの目的はただひとつ。
フランス国王シャルル六世の捕縛と、アルマニャック派の中核であるアルマニャック伯ベルナール七世および、その傀儡である、王太子シャルルの捕縛。
かれら三人を捕らえてしまえば、アルマニャック派は瓦解する。
そして、首都を制圧してしまえば、フランスは一気にブルゴーニュ派のものとなる。
どうしてこうなってしまったのか。
鉄商人という商売柄、兵士と会話することも多いため、単純なペリネでさえ、概要を知っている。
そうだ、親父も悪いが、王様たちもいけないのだ。
あいつらがしっかりしていないから、俺がこんなことをしなくちゃならない。
軋む扉から、そっと滑るように外に出れば、五月の風が身に沁みた。外気の冷たさに、ペリネはぶるりと震えてみせる。
闇に向かって足を運ぶのがためらわれて、ペリネは自分を励ますように、深く息を吐いた。
ここで足を動かさなくちゃ、俺はどこへも行けないのだ。
借金取りはこのところ牡蠣のようにへばりついて、しつこく金を返せとせまってくる。
金を得るために、そしてこの辛気臭い町と別れるために、足を動かさねば。
俺が悪いわけじゃない。王様たちが悪いのだ。
国王を、心のなかでののしることで、ペリネは自分の罪から眼を逸らすことを考えた。
なにがいけないかといえば、いまの王様が狂っていることだ。
狂った原因はよくわからないが、王様がおかしくなってしまったので、それじゃあ、国はどうなると、野心をもった親戚が集って、いろいろな策謀をめぐらせはじめた。
なんやかやと争いがあったなかで、最悪だったのは、王様の弟のオルレアン公を、ブルゴーニュ公ジャンとかいう男が暗殺してしまったことだ。
このために、王家は真っ二つ。
普通なら、ブルゴーニュ公は責められて、下手すりゃ裁判にかけられ、絞首刑、あるいは打ち首だ。
ところが、殺された王様の弟は、あんまり評判の良くない男だった。
王様が狂っているのをいいことに、国王の財産を自分のものにして、好きにつかっていたとかなんとか。
まあ、ブルゴーニュ公があとから言い出したことかもしれないが、野郎はうまく立ち回ったのだろう。
人を闇討ちしておきながら、なんとなく、それじゃあ仕方ないか、という空気になっちまった。
二年後には、野心家のブルゴーニュ公ジャンと、殺されたオルレアン公の長男で、十六歳になっていたシャルルは、とりあえず和解する。
とはいえ、形だけだ。
ジャンは賢い野郎だったから、シャルルが成長する前に、自分の力を固めようと、王妃の妹と結婚してみたり、パリの有力な組合を味方につけてみたりと、いろいろやって、力をたくわえた。
一方のお坊ちゃまシャルルは、これがなかなか文人肌のしっかり者で、南フランスにたくさん土地をもっているアルマニャック伯の娘と結婚して、南フランスを味方につけることに成功した。
こいつはまずいと思ったのかしらないが、ブルゴーニュ公は王妃のイザボーに取り入って、自分を王太子(いまの王太子じゃない。死んじまった可哀想な王太子のほうだ)の後見人にしてもらうことにした。
ま、噂だが、良くある話で、このブルゴーニュ公と、王妃はできている、ということだ。
お気の毒なのは王様だ。わけがわからなくなっているあいだ、自分の女房が寝取られちまったのだから。
そんな噂も流れるくらいだから、おえらい貴族さまのうち、ブルゴーニュ公のやりかたに眉をひそめた連中が、暗殺された先代の長男オルレアン公シャルルを中心とするアルマニャック派に加わってきた。
ブルゴーニュ公はアルマニャック派を潰すために、パリの食肉業者どもをそそのかして、暴動をおこさせたのだが、これがあまりに効果がありすぎて、収拾がつかなくなっちまった。
迷惑な話だぜ。
このブルゴーニュ公は、やることは大胆だが、見通しが甘いところがある。
俺なんかでも思うくらいだから、賢い連中は、もっとイライラしているだろうよ。
笑えることに、ブルゴーニュ公は結局、自分がそそのかした連中に追われるようにして、パリから逃げなくちゃいけなくなった。
でもって、この惚れ惚れするほど大胆な男は、そのときに国王を誘拐して、自分のところに連れて行っちまおうと考えた。
ところが、パリの勇敢な奉行のジャン・ジュヴネル・デ・デュルサンとベリー公兄弟ががんばって、王様をとりもどした。
このブルゴーニュ公の失敬な振る舞いには、みんなすっかり呆れてしまって、パリの人間は、それまでブルゴーニュ派だったのが、アルマニャック派のほうが良さそうだ、と意見が変わった。
パリがそうならばと、地方の都市も意見をころりとかえて、アルマニャック派が勢いづいてきたので、またまたブルゴーニュ公は、アルマニャック派と仲良くするべく和議をした。
こいつが1414年9月4日。
さて、ここから、ややこしいやつが介入してくるのだ。
海の向こうのイギリスも、同じころ、お家騒動でもめていた。
なんやかやと争いがあって、そこを勝ち抜いて王様になったのが、ヘンリー五世とかいう男。
もともと、イギリス王家っていうのは、フランス王家の分家筋。
昔っから、フランスの王冠も寄越せと図々しく言ってきていたのがイギリス王室だが、このヘンリー五世、自分が権力闘争に買ったものだから、波に乗りまくっているらしく、調子に乗って、いまこそ先祖代々の悲願を果たせとばかり、本当に波に乗って、兵士をフランスに送りこんできた。
ヘンリー五世の言い分はこうだ。
もともと、イギリスとフランスは同一のものではないか。
そも、百年戦争の始まりにおいて、プランタジネット朝はフランスの半分以上を支配していた。
それがどんどんとブリテンのほうに追いやられてしまったわけであるが、血筋からいっても、プランタジネット朝は、フランス王室からはじまっている。
われらが去ったあとのフランスは、気の毒に、いまや無法地帯である。
力ある諸侯がそれぞればらばらに動き回り、都市を襲い、農村の掠奪を許している。
フランスという国はない。
あるのは、フランスという名のついた土地であり、実際にはそれぞれの大貴族たちの所領の連なりだ。
みなをまとめて、混乱を収めるのは、フランス王家の血を引く余の義務でもないか。決して侵略などではないのだ。
勝手なことを言ってやってきたヘンリー五世は、1415年8月1日、イギリス兵を上陸させた。
もちろん、フランス側は、ようこそいらっしゃいましたと道を開けるほど間抜けではない。
みんなでがんばってこれを迎撃したのであるが、もともとが、最近まで角をつき合わせて戦っていた連中の、連合軍だ。
うまく行くはずがなく、10月25日、数だけはやたらいっぱいいたというのに、イギリスにボロ負けした。
アザンクールの戦いとかいうらしい。
アルマニャック派にとってはかなり痛いことに、オルレアン公シャルルが、この戦でイギリスの捕虜にされてしまった。
おかげでフランスは、すべてがぼろぼろ。
当然、一時は連合していたブルゴーニュ派とアルマニャック派も、お互いに敗戦の責任のなすりつけ合いをはじめる。
そして、またまたブルゴーニュ公が裏技を見せて、イギリス側についてしまったのである。
その主張はこんなふうだ。
狂った王はいらない。
カペー朝を祖にもつ、同じ血筋の王家が、二つあった、いままでがおかしいのだ。
フランス王家、イギリス王家をひとつに。国をひとつにまとめよう。
勝手にしてくれと言いたいところだが、話がでかいし、とりあえず筋が通っているから、パリ大学のインテリが喜んで支持をして、ブルゴーニュ派を助けるようになった。
対するアルマニャック派は、戦がヘタクソだとさんざん莫迦にされたアルマニャック伯を中心に、ちょいとばかり元気がなくなっていたが、それでも主張する。
イギリス王家とフランス王家は同一にならない、ブルゴーニュ公やイギリスには従うことが出来ないと。
しかし、その声は、イギリスの勢いの前には、いささか弱弱しい。
ブルゴーニュ公はイギリスの力を借りて、パリを寄越せと迫ってきている。
アルマニャック派は、その気配に怯えながらも、いまは静かにおねむの時間というわけだ。
それはもう、今日限りになるわけだが。
夜のパリの街を、しのび足で行くペリネは、実際のところ、ブルゴーニュ派だろうとアルマニャック派だろうと、どちらが上に立とうが、どうでもよかった。
どっちが上に立とうが、変わらないからだ。
フランス国王などというものが、あちらこちらにいる大貴族の連合体の代表的なものに過ぎないということは、ペリネでさえもわかっている。
それにパリの市民だけに限った話でもないが、自分たちが、フランスという大きな括りのなかの一人だという意識は、民衆のなかには、まだない。
ペリネは思う。
ただ、弱いやつは嫌いだ、強いやつがいい。
強いやつならば、自分たちを恐ろしい傭兵の掠奪から守ってくれる。
ちょいとばかり痛い目に遭うかもしれないが、それは一時のことだ。
怯えた毎日に耐えるより、一時を我慢して、長い物には巻かれてしまったほうが楽だろう。
面倒でむずかしいことはともかく、博打でこさえた借金を、早いところ清算することが重要だ。
今日も、借金とりが店にやってきて、いい笑い者になった。
父親は、いい加減にしないと勘当するというし、女房は、とっくの昔に愛想をつかして出て行ってしまっている。
ペリネは、手にした鍵を、ふたたび握りしめた。
借金の肩代わりをしてもいいという男があらわれたのは、ブルゴーニュ派の兵士がパリを取り囲んでから、しばらくしてからだ。
その男は、見るからに坊主見習いであったが、男のいうことには、ある仕事さえ請け負ってくれたなら、借金の肩代わりをしてやろう、自分の主人は、裕福な学士だから、ペリネのこさえた借金の肩代わりなど、痛くも痒くもない、という。
浅はかなペリネは、一も二もなく、この申し出に飛びついた。
ただし、と、男は、ペリネに付け加えた。
タダで借金の肩代わりなどはしない。条件がある。
おまえの父親が守っている、サン・ジェルマン・デ・プレ門の鍵、それをおまえの父親はいつも夜になると抱えて眠っている。
それをこっそり盗み出してくることだ。
そうすれば、借金の肩代わりというだけではない。
おまえに褒美を与えよう。
ペリネは、迷うことなく、これに頷いた。
この躊躇のない決断のために、フランスの運命は、大きくゆがんでいくことも知らず。
夜のパリの街を歩きながら、ペリネは、警邏中の兵士にみつからないように注意しつつ、男が待っているはずのサン・ジェルマン・デ・プレ門を目指した。
闇がいつになく薄く、そして頼りのないものに思える。
門が近づいてくるにつれ、ペリネの鼓動は早くなり、咽喉がひりつくほどに渇いてきた。
不意に、家のひとつから扉がぱっと開かれて、自分を咎める者が飛び出してくるのではないかというような、奇妙な妄想にとらわれる。
たまに、ねずみの一団が足元を通り過ぎて、ペリネを仰天させた。
門に到着したとき、ペリネは安堵した。
門の脇には、借金の肩代わりを申し出てきた男が、黒いフードをかぶって待っており、ペリネが近づいていくと、その手にしていたランタンを掲げて、誰何してきた。
「ペリネ・ルクレールか?」
そうだ、と答えると、男は、満足したように、明るく弾んだ声で言った。
「よしよし、ご苦労であったな。鍵は持ってきたであろうな」
「ここにありますぜ」
と、ペリネはふところにしまっていた鍵を、男に差し出した。
鍵は、ペリネの汗で、しめった感触がしたが、男もまた、興奮しているのか、それには頓着しない。
すると、黒いフードの男は、背後にいた、灰色のマントに身を包んだ男に、鍵を渡す。
ランタンの明かりに、灰色のフードの下の、浅緑色の瞳が浮かび上がった。
それをひと目見ただけで、ペリネはぞっと背筋を震わせた。
光の加減によっては金色に見える瞳と、明るい金髪をした、まだ若い男だ。
パリ大学の学士だろうか。パリ大学は、ブルゴーニュ派を支持している。
まあ、借金の立て替えをしてくれるのなら、なんだってかまわないが。
なるべく、男の顔を見ないように目を逸らすペリネであるが、しかし、なにかに惹かれるように、つい男のほうに目が向いてしまう。
目が合うたびに、その鋭い目に宿る、酷薄そうな光にぞっとする。
それは、自分の認めたもの以外には、とことんまで容赦なく振舞うことのできる、悪魔的なまでに冷酷な性格をあらわしている瞳であった。
こういう奴には、近づかないのが正解だ。
「首尾は上々でございます、ピエール様」
ピエールと呼ばれた男は、渡された鍵を、なんの感慨もなさそうに眺めてから、ペリネのほうに目を向けた。
「気づかれてはおらぬな?」
ペリネは、商売人の勘で、この男の不興を買ったなら、報酬は得られないだろうと悟った。
そうして、畏まって、うなずいた。
「それは、もちろん。親父は酔いつぶれて眠っております。だれも俺を見ていねぇ」
「よろしい。では、おまえに褒美をくれてやる」
ピエールは、見るからに金貨が詰まっているものと判る袋を取り出して見せた。
金袋をみて、ようやくペリネはほっとした。
ともかく、早いところ、この場から立ち去りたかった。だれに見咎められるとも限らない。
イスカリオテのユダ。
不意に、あまり熱心に足を運ばなかった教会で聞いた説法のなかに登場した、ユダヤの司祭どもにイエスを売ったという人物の名が浮かんだ。
あのユダヤ人は、イエス・キリストを売ったあと、どうなったのだったかな。
畑で首を吊ったのだったっけ?
いいや、そんな不吉なことを思い出している場合じゃねぇ。
ともかく、金を受け取って、そのあとはパリを離れるのだ。
思った以上に額がありそうじゃねぇか。
これだけあれば、しばらくは遊んで暮らせる。
ペリネが両手を差し出して、金袋を受け取ろうとすると、ピエールの、金袋を持たぬ手のほうが、おのれの腰のあたりを探っている。
蚤でもいるのかな、とペリネは呑気に考えた。
金袋は、なかなか掌に落ちてこない。
いざとなって、惜しくなったんじゃないだろうな。
冗談じゃねぇ。
そうしてピエールの顔を上目遣いに見るのと同時に、腹に、重い衝撃が走った。
なんだ?
なにが起こったのかわからない。
金袋はいまだピエールの手の中にある。そして、ピエールの片手が、なにやら自分のほうに伸ばされていて、その指の先には………本当に冗談じゃねぇや。
腹を貫く激痛は、あとからゆっくりやってきた。
ありがたくないことに、ペリネは即死しなかった。
腹に深々と突き刺された短剣に触れることもできずに、その場に崩れ落ちる。
世界が反転し、ピエールの姿と、黒いフードの男の姿が斜めに見えた。
それは、闇に浮かぶ神殿の、そびえる二本の柱ようにも見えた。
腹が痛てぇ。
ピエールと男は、鍵を手に、サン・ジェルマン・デ・プレ門を開けようとしている。
腹が痛てぇ。畜生、だまされた。
激痛のために、こめかみを中心に、脈動がはげしくなり、周囲の物音がまともに聞こえない。
そんな中でも、ピエールが鍵を錠に差し込んだ音は、はっきりと聞こえてきた。
重々しく扉が開かれ、そしてあらわれた光景に、ペリネは思わず笑ってしまう。
そこには、ずらりと、武装した騎兵が立ち並んでいた。
ピエールが門を開けるのを、いまかいまかと待ち受けていた、ブルゴーニュ派の兵士たちである。
甲冑が、篝火に凶悪に、鈍く光っている。かれらは、時の声をあげるでもなく、無言のまま、鋼鉄の全身から殺気だけをみなぎらせ、パリの街に突入してきた。
「騎士たちよ、パリを取り戻せ! 無能なアルマニャック派を捕らえよ! パリをふたたび、ブルゴーニュ派の手の中に!」
痩せぎすのピエールが、雪崩れこむ兵士たちに、檄を飛ばして見送るのが見えた。
フードを下げたその顔は、これからパリに巻き起こるであろう悲惨な掠奪と殺戮に、歓喜しているように見えた。
死神。
明るい金髪を持つ、学士ピエールの声を聞きながら、最期にペリネの見たものは、いま、自分を踏み潰さんとしている、眼前に迫った、大きな馬蹄の底であった。
眠りは浅い。
酒で誤魔化す気にもなれず、タンギー・デュ・シャテルは、妙に興奮している頭を宥めるために、夜風に当たりに外に出た。
歩哨たちが、篝火の下、警戒を怠らないでいる。
どの顔にも、緊張がある。
眠気に負けて、たるんでいる者はひとりもいない。
イギリスと手を組んだブルゴーニュ派の勢いは、いまやすさまじく、かれらがいつ襲ってきてもおかしくない状況だということは、みな知っている。
それに、戦争の惨禍も、空想の中にあるのではなく、実際にみな、その身に経験していた。
暴虐と掠奪の末に、ようやくパリは落ち着きつつあった。ここへきて、また恐ろしい目に遭いたくはない。
それはシャテルも同じである。
ブルゴーニュ公ジャンは、なにかにつけ強引な男である。
シャテルは、自分と同じ奉行職にあるデ・ジュルサンから、パリで暴動が起こったときに、ブルゴーニュ公がどのようにして国王を誘拐しようとしたか、どうやって国王をとりもどしたか、その一部始終を聞いていた。
デ・ジュルサンは、ブルゴーニュ公が国王誘拐という暴挙に出たときに、勇敢にこれを追跡し、奪還することに成功した騎士の一人である。
シャテルもまた、デ・ジュルサンと同じく、国王に忠誠を誓っていた。
ひとたび忠誠を誓ったからには、ニ君に仕えることはしない。
それが騎士道というものだ。
ブルゴーニュ公は、そうではないらしい。
シャテルにとって、国王は、たとえ狂ってしまっているとはいっても、教皇より叙任された尊い存在である。
それを不遜にも誘拐しようとしたことが、シャテルには、まったく理解ができなかった。
パリ大学の嫌味なインテリたちが、大昔の王様の話を持ち出して、あれやこれやとブルゴーニュ派の正当性を訴えているが、シャテルには屁理屈にしか聞こえない。
一本気な武人シャテルは、自分が国王に仕える騎士のひとりであることに、誇りを持っていた。
同時に、その息子であり、やがては国王になるであろう、十五歳の王太子の守衛を任されていることが誇りであった。
いまはもう深夜である。
闇夜のなかで衛兵詰所から、王太子がいるであろう城のほうを見遣る。
どこか無表情で、いつも悲しげに目を伏せている少年は、いまごろぐっすりと眠っていることだろう。
こちらは一介の騎士に過ぎないから、王太子とこれまで、言葉を交わしたことはない。
ないけれど、親子ほどに歳の離れた王太子を、シャテルは優しい目で見ていた。
むかし、ちょうど同じ年頃の息子がいたのである。
騎士見習いとして働き始めていたが、馬の暴走の事故によって、あっさりと逝ってしまった。
自分に似ているから、きっと将来は、よい騎士になるだろうと期待をかけていただけに、その死はシャテルに深い傷を負わせた。
息子を思い出してしまうために、なかなか家に帰らなくなり、妻とはほとんど疎遠の状態である。
家に帰らないでどうしているかというと、遊ぶわけでもなく、こうして夜警を買って出たり、あるいは騎士仲間と飲んで憂さを晴らしたりして、時を過ごしているのだ。
デ・ジュルサンとも飲み仲間で、酒が入ると勇敢な友は、いつも国王誘拐をいかに未然に防いだかを自慢した。
ベリー公兄弟とともに、馬を駆り、鼻持ちならない野心家のブルゴーニュ公の手から、どうやって王を奪い返したか、何度もくりかえし聞かされた。
あいつも今頃、ぐっすり寝ているだろうよ、と思いつつ、シャテルは、冷気の籠もった、五月の夜風を吸い込んだ。
風に揺れる青葉の音が、篝火の向こうでする。
息を吸って、また吐きながら、シャテルは、その炬眼でもって、闇をにらみつけた。
なにかが変だ。どうも落ち着かない。
気が騒ぐ。
なんだろう、これは?
そのとき、風に乗って、かすかだが、はっきりと、地響きをシャテルは聞いた。
とたん、腹の底から、恐怖がこみあげてくる。全身が、ぶるりと震えた。
これは、聞きまちがえようがない。
五年前にパリを血の嵐に巻き込んだ、残忍な傭兵たちの立てる足音だ。
ブルゴーニュ派が、パリに攻めてきた!
見れば、塔の見張りの兵士たちの手にする松明が、闇のなか、蛾のはばたきのように激しく移動しているのが見える。
ほどなく、襲撃を告げる鐘が、周囲に響き渡った。
シャテルは、行動をためらわなかった。
先に、デ・ジュルサンより国王誘拐のときの話を聞いていたのが幸いした。
すぐさま走り出すと、王太子の寝室に向かった。
それに追いかけてくるように、部下たちが、ブルゴーニュ派が、サン・ジェルマン・デ・プレ門の方角から、攻めてきたようだ、と報告してきた。
シャテルは走りながら、舌打ちをする。
畜生め、あそこを守っていたのはルクレールの親父だったはず。
鍵はどうした。なにをしていやがった?
鉄の音を響かせて石の階段を荒々しく登ると、王太子たちは、下の騒ぎが聞こえたのか、明かりをつけて、もう起きていた。
十五歳の少年は、事態がまったく呑みこめていないというように、唖然とした表情をして、あらわれたシャテルを見た。
寝巻きのままで、髪は、あどけなく寝癖がついている。
王太子の侍従たちが、おろおろと、衣装箱に、貴重品を詰めている。
侍女たちは震え、うろたえ、シャテルの前で右往左往するばかりだ。
「王太子さま、お逃げくださいますように! ブルゴーニュ派の連中が、パリに攻め入って参りました!」
シャテルの言葉は、周囲に落ち着きをもたらすどころか、ますます恐慌をもたらした。
かれらはみな、傭兵たちのもたらす、容赦ない掠奪と陵辱の悲惨さを、目の当たりにしている。
身に沁みて知っている者もいるだろう。
貴重品を懸命にまとめ、王太子に衣を着せようとしている侍従たちを払いのけ、シャテルは王太子の前に進み出た。
「お急ぎ下さいますように! 連中は、もう目と鼻の先に迫っているのです!」
「王太子さまを、裸同然の格好で外に出せとおっしゃるのですか!」
と、侍従が、震える声ながらも、気の強いところを見せて言った。
しかし、シャテルは、それを鋭い眼力で黙らせると、さらに言った。
「いますぐここをお逃げくだされ。連中の目的は、国王陛下と王太子さまにございます。格好を整えているあいだに、連中はここになだれ込んでくることでしょう。
取り返しの付かない事態になる前に、どうぞ、お早く! このタンギー・デュ・シャテルがお守りいたします!」
すると、はじめて王太子が口を開いた。
声変わりを終えたばかりの、幼さの抜け切れない声をしていた。
「けれど、わたし一人で逃げるのか? 父上はどうなる? アルマニャック伯は?」
「それは、わかりませぬ」
「わからぬと申すか。ならば、わたしもここに留まろう。父上やアルマニャック伯を見捨てて、一人で逃げるわけにはいかん」
王太子は、そう言うと、シャテルに、ふいっと横顔を向けた。
それを受けて、周囲の侍従や侍女たちも、動きを止めてしまう。
いかん。
なんとか説得をしなければと、シャテルが焦りはじめたときである。
「その者の言うとおりになさい、シャルル殿」
威厳のある、凛とした声が部屋に響き渡った。
声がしたと同時に、シャテルの背筋も、自然と反応して、ピンと張った。
あらわれたのは、これもまた寝起きだったのであろう。
簡素な衣服に身を包んだ、豊かな黒髪を豪華に胸まで垂らした貴婦人であった。
威厳ある彼女の姿に、それまで混乱をきわめていた王太子の寝室は、ぴたりと収まり、彼女に向かって、みな、丁寧に頭を下げる。
貴婦人の姿に、王太子までも安堵の色を浮かべるが、しかし、すぐに顔をしかめて、反駁した。
「しかし義母上、わたし一人で逃げることはできませぬ。父上や伯爵を見捨てるなど、どうしてできようか。わたしは、臆病者ではないのだ!」
抗弁する王太子に、貴婦人は、まったく慌てることなく、落ち着いて王太子を見据えると、不意に、片手を挙げて、ぱん、と音も高らかに、王太子の頬を張り飛ばした。
「冷静におなりなさい、お気持ちはわかります。しかしここは堪えなさい、シャルル殿。いまのわたくしたちには、残念ながら、陛下や伯爵をお助けする力はない。
このままでは、貴方まで捕らえられてしまいましょう。そうなれば、あの傍若無人なブルゴーニュ公の思う壺。フランスは、あの男の勝手にされてしまうのですよ。それでもよいのですか」
まだ風貌に若さを止めているが、その神秘的なまでに深い色をたたえる黒い双眸は、静かに落ち着き払っている。
その眼差しに見据えられているだけで、張り飛ばされた頬をおさえている王太子も、徐々に混乱から脱け出していくのが、そばにいるシャテルにも見てとれた。
王太子の表情を見て、その心までも読んだのか、女は微笑むと、声を柔らかくして、言い聞かせるように語りかけた。
「わかりましたね? いたずらに騒いではなりませぬ。いまは、逃げること、それだけを考えるように」
貴婦人の言葉に逆らえないと判断したのか、王太子は、口を閉ざして、悲しそうにうつむいた。
どうやら、この少年は、言いたいことがあっても呑みこんで、ぐっと堪えてしまう性質にあるようだった。
「そこな者、いまひとたび名乗れ」
貴婦人に呼びかけられ、シャテルは、ふたたび名乗った。
「タンギー・デュ・シャテルと申します」
王太子に『義母上』と呼びかけられたこの貴婦人は、かのルイ2世の妻で、王太子の妻の母、賢婦として名高い、ヨランド・ダラゴンその人であろう。
アラゴン王ファン1世の娘である。
ヨランドは、シャテルを見据えると、深く頷いて、尋ねた。
「おまえがわらわたちを逃がしてくれるようであるが、おまえは、わらわたちをどこへ連れて行くつもりなのじゃ?」
「はい、サン・タントワーヌ砦へひとまずお送りいたします。かならずや、王太子さまをパリから無事に脱出させてみせましょう」
ヨランドは、しばしシャテルを観察していた。
その眼は鋭く厳しい。しかし、厳しいばかりではなく、やさしさもどこかに含まれている。
「よろしい。おまえに従うとしよう。さあ、みな、荷造りはやめよ! 身軽になれ! いますぐ出立するぞ! シャテルに従い、パリを出る。王太子をお守りするのじゃ!」
ヨランド・ダラゴンが命じると、その場の全員が、まるで生き返ったように、よく訓練された兵士のごとく、きびきびと動き出した。
王太子の着替えをしようとしていた侍従も、衣裳箱を引っ掻き回すのをあきらめたようであるが、大切な主人が風邪をひかないよう、衣裳箱より上着を持ち出すことは忘れなかった。
シャテルは、自分の部下と、すでに火の手の上がったパリの惨禍より、なんとか逃げ出してきたアルマニャック派の兵士たちを加えながら、十五歳の王太子と、その一つ下の妻マリー、そして、ヨランド・ダラゴンを守りつつ、サン・タントワーヌ砦へと向かった。
人形のように表情が無い王太子だと、間近でその人柄に接して、シャテルは思った。
怯えるでもなく、泣くでもなく、すべてを、その悲しげな顔の下に呑みこんでしまっている。
ヨランドは、王太子の妻であり、自分の娘のマリーが、恐怖のあまり声もたてられずに震えて泣いているのを、馬車のなかで、宥めたり、叱りつけたりして守っていた。
娘ばかりではなく、怯えて、敵の気配に、ときに足を竦ませる一行を叱咤し励ますのは、ヨランドの仕事で、王太子は、寝巻き姿に、上着だけを羽織ったまま、馬上にて、ほんのすこしだけ、ヨランドの言葉につけたしをするだけであった。
不意に、潮のような大きな歓声が、炎と闇の向こうから遠く響いてきた。
まるで獣の声のようだと、シャテルは忌々しく思った。
その声は、ルーブルの方角から聞こえてきた。
ルーブルには、国王がいるはずである。国王シャルル六世が捕らえられたのだ。
パリは落ちた。イギリスと、ブルゴーニュ公によって、ふたたび占拠されてしまったのだ。
悔しさのためなのか、王太子を守る兵士たちの中には、啜り泣きをする者さえあらわれた。
ふと、馬上の王太子が、赤い炎の上がるパリの町に目を向けて、つぶやいた。
「あんなに火が燃えているよ。焼かれてしまうということは、とても恐ろしくて、苦しいことだろうね」
「そうでございましょう」
「想像はできるのだけれど、なぜだろう、わたしは、火にまかれていく者たちの気持ちにどうしてもなれないのだ。悲しいのか、苦しいのか、恨んでいるのか、それとも絶望か。なにも心を寄せることができない。むしろ、炎を、まるで天上の天使の羽根のように、鮮やかで美しいと思ってしまう」
「炎からその翼で人々を守るのが、大天使ミカエルだと聞きます。王太子さまがあれを翼だと思うのならば、もしかしたら、パリの市民たちを、ミカエルが庇ってくれているのかもしれませぬ」
シャテルがそう答えると、王太子はびっくりした顔を向けてきた。
その顔は、自分のことばが通じる人間がいたことに驚いている、異邦人のようにも見えた。
そして、はじめてシャテルは、はっきりと王太子と眼を合わせることになった。
王太子は、幼子のような顔をしていると思った。
「ミカエルは戦士の守護天使でもある。わたしは戦士ではないが、ミカエルが守ってくれたのだろうか。どうやらわたしは助かるようだ。
けれど、ミカエルは、わたしの心までは守ってくれなかったらしい。わたしの、名誉はパリで、あの火と共に燃えてしまった。
父上を見捨て、あんなに良くしてくれたアルマニャック伯爵を見捨てた。伯爵は、よい人だったのに」
よい人だった、という表現に、王太子の幼さが感じ取れたが、シャテルは静かに、王太子の横に轡を並べるだけにとどめた。
「わたしは、これからどうすればよいのだろう」
途方に暮れたその声に、応える者はだれもない。
背後では、人々の嘆きをすべて飲み込んで、赤い炎が、朝になるまで燃えつづけていた。