古鏡と銀の櫛
後編
新野城に、いままでにないほど不穏な噂が吹き荒れていた。
曰く、
『諸葛孔明は曹操の刺客で、われわれを離間させるために派遣された『古鏡』という刺客だ』
というものだ。
そしてオマケが趙雲の気持ちを逆撫でする。曰く、
『あの趙子龍が篭絡されて、言いなりになっているらしい』
劉備はそれを知りつつ、冗談のネタにして、苦りきった趙雲に、
「おまえが女を娶らぬ理由は、そういうところにあるのだなあ」
などと不気味なことを言う始末。
城内のだれもかれもがぴりぴりした空気を放つなかで、劉備だけはいつも以上にほがらかでありつづけた。
「やっぱり薬湯がいいんだよ」
と、ますます薬湯をみなに勧める。しかし関羽がぽつりと洩らしたところによれば、
「体にいいと思えばよい気もするし、効果が無いと疑えば、効果が無いようにも感じる」
という曖昧なものであるらしい。
それはともかく、趙雲は孔明とともにひとくくりにされる立場になったことを痛感した。
周囲の視線がつめたい。態度もそっけなくなった。
会話の弾んでいる場に行き会えば、趙雲が姿をあらわしただけで、ぴたりと会話が止むのはあたりまえ。
劉封をはじめとする、孔明につよい反感を示す者は、趙雲はおれたちを裏切ったのだと言ってくるし、直属の部将たちでさえ、子龍さまは、なぜあの御仁の味方をされますのかと、遠まわしに不満を訴えてくる。
趙雲は言い訳を好まないから、孔明は、みなが言っているほどに見かけ倒しではないし、劉備の目は正しいと思っていると答えると、
「おまえも、元は育ちのいいお坊ちゃまだからな」
と、やっかみ半分に嫌味を返された。
いままで居心地のよかった場所が、天地がひっくりかえったように、針のムシロとなってしまった。
このような雰囲気に、趙雲は慣れていない。
愚鈍に振る舞うことはできるが、愚鈍ではないので、いままで親しかった者からはじかれると、これほどまでに苦痛と孤独を感じるものかと、あらためて思う。
味方が味方ではなくなる心細さというのは、なによりも耐え難いものである。
逆境にあると、人はおのれを深く省みるものである。
数々の命の危機を乗り越えてきた趙雲であったが、このような類の危うさを感じるのは、はじめてのことであった。
らしくないな、と趙雲は苦笑する。
らしくない、といえば、短慮に過ぎる張飛もそうだし、城の者のとげとげしさも過剰であるし、劉備の無頓着さも異様であった。
なによりおかしいといえば、そのことに、いままで気づかないでいたおのれがおかしい。
趙雲は鋭敏な人間である。
けして深くかかわらないが、人の機微を観察することにつけては確実なものをもつ。
いつもなら、たやすく気づき、そしてやんわりと外から歪みを矯正してやるのがおのれの役目ではなかったか。
それを忘れ、なぜおれは、心のおもうままに流されて、厄介ごとの中心にいるのだろう。
その原因は、噂を知っているだろうに、飲まず食わずで仕事をこなし、誹謗中傷どこ吹く風、といった涼しげな様子である。
そして夜になると、孔明はこっそりと城を抜け出した。
趙雲は、今度はそれを見逃さなかった。
すくなくとも、張飛のように、孔明を殺してしまえと声高に言う人間がいる以上、夜の外出など、もってのほかである。
まして女の元に通っているなど、それこそ中傷のネタを提供して、おのれの首を絞めているようなものだ。
主騎として、そしておなじ立場になった者として、孔明の夜遊びはやめさせなくてはならない。
趙雲は、孔明のあとをつけた。
ただ面と向って忠告したのでは、なんやかやと言いくるめられるおそれがある。
現場を押さえて、夜遊びを二度としないと約束を取り付けるつもりであった。
月が出ていた。
風に乗って聞こえてくる犬の遠吠えが、悲しげに耳に届く。
孔明は軽装のまま、供もつけずに、ひとり、人気のない夜道を、足取りもかろやかにゆく。のまず食わずの人間とは思えないほど、しっかりとした歩きようである。
月明かりに浮かび上がる背中は、これからの逢瀬に浮き立っているように見えなくもない。
気楽なものだ、と、このときばかりは趙雲も、孔明を憎たらしく思った。
孔明は、複雑に道を曲がりつづけ、ようやく、一軒のちいさな民家にたどり着いた。
戸口を叩くと、すぐに扉は開いた。
孔明は、長身を曲げて、狭い戸口をくぐっていく。
趙雲は、あとをつけて、そっと扉に耳を寄せた。
中からはぼそぼそと話し声が聞こえてくる。
嬌声ならば困ったものだが、と思った趙雲であるが、そうではない。
「…で、新野城の人間は、噂どおりなのかい?」
男だ。まだ若い、張りのある涼やかな声である。
「噂以上にひどいね」
と、これは耳になじみのある孔明の声である。
趙雲は、思いもかけないことに緊張した。
噂を信じ、孔明は女と会っているのだと思っていた。
そうではなく、ほんとうに、孔明が間者であり、どこかと通じている?
「だれが悪い、というわけではないのだよ。むしろ、人の結びつきの固さは、感動的ですらある。だが、それが仇となることもあるのさ。
あの人たちはずっと、自分たちとおなじ種類の人間しか受け入れてこなかった。剣が炎に打たれて強度を増すのと一緒でね、彼らもいくたびの戦を越えて、無類の強さを手に入れた。
だが、残念なことに、その剣を振るうための知恵が欠けている。喩えていうならば、天下でもっともつよい剣があるとしよう。しかし持ち主は愚か者で、剣を使うためには、鞘から剣を抜き放たねばならないことにも気づかない。
鞘に納まったままの剣なんて、ただの鉄の棒さ。ある程度の攻撃を防ぐことはできても、切り伏せることはできない」
「手厳しいね。それがきみから見た、劉備というわけかい。徐庶の力で、すこしはマトモになったのかと思っていたけれど」
「徐兄はよくやったよ。だが敢えて言うならば、徐兄が受け入れられたのは、新野の人間が、徐兄を自分たちとおなじ側の人間だと錯覚したからさ。
元剣客だというので、受けがよかったみたいだからね。そこへ行くと僕は大変だ。彼らの大嫌いな『儒者』なんだから」
「儒者? 君をそんなふうに言っているのかい? それはたいへんな見立て違いだな」
「彼らから見れば、僕なんぞは、自分だけ安全なところにいながら、人に死地へゆけと指示する嫌なやつに見えるのだろうね。まあ、事実だけれども」
「それは軍師というものを誤解しているよ。そんなに程度の低い連中なのか」
「呆れることは山ほどあるよ。新野城は一枚岩に見えるが、実は殿がいるから保っているだけの話で、組織としてはまるで成り立っていない。系統だった指示がまるでできない状態なのだ。
いままでどうしていたかというと、だれかが困っていれば、だれか余力のある者が助けてやる、という、うるわしい自己犠牲の精神があってね、これが劉備の強さにもなっているのだが…まあ、最初に戻るのだけれど、もちろん、そんな、なあなあな関係で天下なんて取れやしない。
劉備が何度も好機に恵まれながらもすぐに領土をうしなったのは、人に対する甘ささ」
と、孔明のみじかい嘲笑が聞こえた。
それだけで、趙雲の怒りの火はついた。
こいつ、やはり張飛たちの言うとおりの『腐れ儒者』だったのか? おれはだまされていたのか?
「すると、もし新野を手に入れようと思うのなら、やはり劉備を?」
「そうだろうね。殿がいなくなれば、あの集団は瓦解する。何万という兵士を動員するまでもない。たった一人の腕のいい刺客がいれば、それだけでおしまいさ」
孔明はつづけてなにか言ったが、趙雲の耳にはもうなにも入らなかった。
問答無用で扉を蹴破り、中に飛び込んだ。
とたん、胃袋を刺激する、香ばしいにおいがぷんとした。
その違和感に、趙雲は、剣を抜こうとしたその手を途中まで止めた。
卓に二人の青年がいた。
ひとりは孔明。口にもって行きかけた箸を止めたまま、飛び込んできた趙雲を振り返る姿勢のまま、固まっている。
あまりの無防備な姿に、趙雲の殺気は見事に殺がれた。
ほかほかと湯気の立った、うまそうなにおいを放つ料理を挟んで向かいには、見たことのない、大人しそうな品の良い青年が、目を白黒させて、ぽかんと趙雲を見ていた。
どこをどう見ても、間者には見えない。
そのまとう雰囲気は、良家のお坊ちゃまそのもので、まったく世間ずれしていないようである。
「……つけてきたのか」
と、孔明はようやく口にした。
「ああ」
とだけ、趙雲はかえした。
ひどく決まりがわるい。ゆるゆると、抜きかけた剣を鞘にもどす。
沈黙が流れた。
女と会っている、という噂は否定された。
かわされていた会話は不穏当ながら、間者という可能性もうすい。
となれば、この青年は、なんだってこんなところで食事なんぞをしているのか。
「あのう、どちらさまですか?」
と、沈黙をやぶったのは、卓の向かいにいる青年であった。
明かりに浮かぶその面貌は、善良な良家の子息そのものであったが、めずらしいことに、眉の毛だけが白かった。
白い、といっても雪のように白いのではなく、黒々とした髪とは対照的に、色が極端に薄いのである。
そのために、この青年は、ずいぶん軟弱そうに見えて損であった。
「良くん、紹介するよ。これが常山真定の趙子龍だ。子龍、こちらは馬家のご子息で馬季常」
自分のあつかいが『これ』なのは気に食わないが、趙雲は『白眉』とあだ名されるほどの俊英・馬良の評判は聞いたことがあったので、すぐさま礼を取った。
馬良も趙雲の評判を聞いていたらしく、すぐさま相好をくずして、流麗な動作で礼を取った。
これで落ち着いた趙雲は、気まずそうに、箸を止めてつくねんとしている孔明にたずねた。
「で、おまえはなにをしている」
「食事を」
「それは見ればわかる。たしか、城では夕食はいらぬと言っていなかったか。なのになぜ、ここで食事をしているのだ」
「そうだ、子龍どのも羹をお飲みなさい。温めなおさせましょう」
と、緊迫した空気をなだめるように、おっとりしたことを馬良が言う。
奥に下男が控えていたらしく、趙雲が止める間もなく、羹を温めるよう指示を出した。
「人間、腹が減ると気がたつもの。満腹でありさえすれば、人はたいがいのことに耐えられるとは思いませんか。
亮くんも、遠慮しないでおかわりをしてくれたまえ。きみはわれわれの代表として劉備どのにお仕えしているのだから、たくさん食べて、力をつけてもらわねばね」
馬良はそんなことを言いながら、人の良さのにじみでている善良そのものの笑顔を向けてくる。
それが作り物でないことを、流浪生活で人間観察力をみがいた趙雲はすぐに見抜いた。
やがて出された羹を、なりゆきですすりながら、なんでおれはこんなところで、なごやかに羹なんぞを飲んでいるのだろうと趙雲は首をひねった。
素朴ながらも料理はたいへんうまく、新野城ではろくに箸のすすまなかった孔明も、馬良に勧められるまま、おかわりまでしている。孔明は馬良には気をゆるしている様子で、たまに軽口を挟みながら、たのしそうに食事をすすめていた。
新野城の強ばった…と、いまのこの顔を見れば、相当に緊張した面持ちであったのだと趙雲は理解した…顔とは打って変わっての、穏やかな表情。まるで別人である。
そう思ったのが顔に出たのか、孔明は趙雲と視線がぶつかると、憮然と言った。
「わたしの顔がそれほどにおもしろいか。夜道をわざわざつけてくるほどに好かれているとは思わなかった」
「買いかぶるな。噂がひどくなっているのは知っているだろう。なぜわざわざ揚げ足をとられるような真似をするのだ。あらぬ疑いをかけられて、何事もなさぬうちに殺されたいのか」
「殺されるようなへまはせぬ。しかし良くん…いや、季常も言ったとおり、腹が減っては何もできぬからな」
「犬の死体のあった井戸は閉ざされて、別の井戸で料理を作っている。それでも気味がわるい、とでもいうのか。神経質にもほどがあるぞ」
孔明は、目をぱちくりさせて、怪訝そうに趙雲を見た。つくづく、この若造は、いったいおれのなにが珍しくて、こうもじろじろ眺めるのか、と趙雲は思う。凝視したところで、そこに答が浮き上がっているわけでもなし…趙雲としては、特別めずらしいことを口にしたおぼえもない。
「わたしが曹操の刺客だと疑ってついてきたではないのか」
「まさか。刺客というには派手すぎる。新野城の全員から疑われ監視されるような人間は、もうそれだけで失敗だ」
それを聞くと孔明は、わずかに口端をほころばせたが、それを隠すようにして、憮然と言った。
「では、なぜ扉を蹴破ってあらわれた。気の毒に、錠前がこわれてしまった。この家はな、馬家の料理番の実家なのだ。せっかく好意で使わせてもらっていたのに、なんてことをしてくれる」
趙雲は、ちらりと扉を見た。蹴破ってはいった扉には、ぶらりとだらしなく、壊れた錠前が垂れ下がっていた。
「すまない。弁償はする」
なんで、こいつにあやまらねばならんのだ?
釈然としないながらも、趙雲は頭をさげた。孔明は傲然と言う。
「そうするがいい。ところで答がないぞ、子龍」
「それはおまえが、殿を貶めるような会話をしていたからだ」
「ふむ、立ち聞きしていたのか。艶めいた声でなくてわるかったな」
ことごとく先回りをされており、しかも行く先々で道を塞がれているような気分になったが、趙雲は頷いた。
「むしろよかった。女が絡むと困る。それより、あえて言わせてもらうが、いくら親しい者との内内の話とはいえ、言動が軽すぎるのではないか。おまえを疑う人間が聞いたなら、すぐさま疑われ、処刑場行きだ」
「だが事実だ。殿ご自身は、このことに気づいておられるぞ。なのにあなた方はついてこない。あなた方がいま在るのは、いったい誰の力なのか、いちばん基本的なことを、忘れてしまっているのだ」
馬良と下男が、食後の酒を運んできた。
しかし、孔明は手振りでそれを止めた。
「すまないが、今宵はいらぬ。酒で話をごまかしてしまいたくない。それと、すまないついでにもうひとつ。すこし二人にしてくれないか」
馬良は孔明の性格を心得ているのか、なにも言わずにこくりと頷くと、家の奥に引っ込んでいった。
馬良がいなくなってしまうと、孔明は、いつになく冴え冴えとした真剣なまなざしを趙雲に向けた。
それはまさに、伏したる龍の名にふさわしい、堂々とした厳しいまなざしであった。
「子龍、ここからは確かな情報だが、だれにも口外せぬと約束できるか」
「殿のための話ならば」
「よろしい。よいか、曹操は近々、荊州を目指して南下してくる。曹操が来る前に、われらはまともな組織としての形を作っておかねばならぬ。
今度の曹操は、殿を捕らえればかならず殺す。あれももう年だ。おそらく一気に南下を進めて、荊州を奪い、それを足がかりに江東を、最後に益州を取るつもりだろう。
われらには時間がない。曹操から見れば、われらなど咽喉にささった魚の小骨程度の障害に過ぎないだろう。だがその油断にこそつけ入る隙がある。しかしいかな良策を用いようと、所詮、運用するのは人なのだ。人の連携がうまくいかねば、策はかならず失敗する」
「おまえがさきほど馬家のご子息と話をしていた、愚か者の喩えか」
「そうだ。仲間割れなどしている暇はない。だが、実際はばらばらの状態だ。
徐兄から聞いていた新野の人間は、もっと聡明で気持ちのよい男たちだったはずなのに、いまの新野の人間は宦官のように陰湿だ」
「いや、それなのだが、たしかにここ最近の、みなの様子はおかしい。殿とてお元気だが、どうもちがう。
むかしはみなの異変には、いちばん最初に気が付いて、大事にならないうちに手を打つのに、今回はなにもなさらないどころか、気づいてさえいないのではないか、というくらいだ」
「わたしもおかしいとは思う。わたしは、わたしが殿にお仕えする前のあなたたちのことは知らない。
しかし、徐元直という男は、人を見る目にすぐれており、けして誇張して物を言う人間ではなかった。
徐兄の言う人物と、いまわたしの目の前にいる人間の像がまるで結びつかない。それにあなたがただけではない。わたしもしばらくはおかしかった。必要以上にいじけて、すべてを悪くとり、攻撃的になっていたと思う。
ところで子龍、このあいだの宴で、羹の椀に毒蛾を入れられていたことをおぼえているか」
「おぼえている」
「実はあのあと、気分がわるくなって、しばらくなにも口にしていなかったのだ。普通はそこで、気分がまたわるくなるはずだろう?
しかし、そうではなかった。そこでしばらく河原の工事現場で食事をわけてもらって、新野城ではなにも口にしないようにしていたのだが、すると、どんどん気分が上向いてきた。
最初は偶然かもしれないと思っていたのだが、何日か続けているうちに、偶然ではないと気がついたのだ」
趙雲は、孔明のつぎのことばを待たずに、気が付いた。
そういえば、河原での事故があった朝も、孔明は食事をしていなかった。
食事、しばらくの絶食、つづいて井戸に犬の死体のあった事件。
「まさか、犬の死体を投げ入れたのは、おまえか?」
「実際には投げ入れていない。城下で死んだ犬を季常に手に入れてもらって、井戸の傍らにおいて、水をかぶせてそれらしく見せて、話を流しただけだ。
わたしのおかげで、みな噂話をする習慣が定着していたのか、気分がよくなるほど、広まるのが早かったな。
おかげであの井戸の水はだれもしばらく使わない。あたらしい井戸にはひそかに見張りをつけて、怪しい者が近づけば、すぐに捕らえるように指示をしている。
どのような類の薬かは知らぬが、3日程度で効果がなくなるのだから、鍛えているあなた方なら、もっと抜けるのが早いだろう」
「薬を…」
孔明は、深く頷いた。
「それが『古鏡』の手なのだ。古鏡とはよくいったもの。古くなった鏡というのは、いびつにひとの姿を映し出す。
薬の力で人を疑心暗鬼に陥りやすくし、そこへ互いに反目しあうような噂を絶え間なしに流す。一度破壊された人間関係は、修復するのはむずかしい。人間関係のわるくなった組織ほど、潰すのにたやすいものはない。曹操はそうやって袁紹を打ち破る地盤をつくったのだ」
ぞっとする話であった。薬のせいで、心を晦まされ、本心ではないのに、互いに傷つけあい、自滅していく。これほど陰湿な手があるだろうか。
「城内に喧嘩が絶えなかったのは、そのためだったのだな。みなに知らせなくては」
と、意気込む趙雲であるが、しかし孔明は首を横に振った。
「いまはならぬ。だれが『古鏡』かわからぬのだ。おおよその見当はつけているが、はっきりした証拠がない。
その者は、殿の信任が厚いゆえ、こちらもうかつに手が出せぬ。それを計算してのことであろうが…」
「もったいぶらずに教えろ。だれが『古鏡』なのだ」
「銀の櫛さ。さあて、話し込んでしまったな。いつまでも良くんを奥に閉じ込めておくわけにはいかない。そろそろ城へ帰ろうか」
と、孔明ははぐらかした。
「曹操はすさまじい男だな」
帰路、月光をたよりに城への道をたどりながら、孔明はつぶやいた。
「まったくだ。天下に名を轟かす男とは思えないほど、やることがえげつない」
と、趙雲が悪態をつくと、孔明はそうではない、と首を振った。
「曹操は、人になにを言われようと動じないのだよ。たしかに汚い手ではあるが、この策略によって、われらを討つのが易しくなれば、それは同時に、味方の兵士たちの被害が減る、ということだ。
味方の兵士にとって、これほど頼りになる男はおるまい」
「だが、曹操がいまだに覇業を成しえていないのは、仁徳に欠けるからだろう」
「仁徳とはなんだろうな。堯舜の時代のように、自然と徳によって国が治まるなどということが本当にあるのだろうか。
たしかに理想は高くあらねばならぬが、そこに至るまでの道では、悪と呼ばれることにも、敢えて手を染めねばならぬことも出てくるだろう。
その覚悟がなければ、天下を目指してはならぬのかもな」
「それこそ器の問題ではないか。曹操には曹操の手段があり、殿には殿の手段がある。
たとえ殿が曹操と同じ立場になったとしても、はたして、おなじ命令を刺客に下すだろうか」
「しないな」
「そうだろう。たしかに遠回りであったかもしれないが、それでも殿は今日まで、おのれの道を見失わずに歩いて、生き残った。だからこそ、おれたちも殿を信じているのだ。
愚直と笑うものもあるかもしれない。だがその愚かさで、いままでたくさんの人の心が助かった。殿を評価するときには、曹操と同じ土俵で語ってはならんとおれは思うのだ。
殿の志はだれより高い。あの方は、これからも多くの人の心を救う」
ふと、孔明が、怪訝そうに趙雲を見ている。
「殿のことになると、饒舌だな」
「そうか? 関羽どのほどではないぞ」
「へえ、あのひと、喋るのか。『うむ』と『承諾しかねる』しか口にしないのかと」
「それは語りかけることばを間違えているのだ。今度、殿のことについて尋ねてみるがいい。それこそ、聞いてもいないことまでいろいろ教えてくれるはずだ」
「そうか。実を言うと、城内の人間であのひとだけが掴めなかったのだ。相当に相性がわるいのかと思っていたが」
「気むずかしい人だ。だが、気に入った者にはとことん尽くす。殿は、人を選ぶときには、かならず関羽どのの意見を取り入れる。おまえが軍師として選ばれたのも、関羽どのの意見がすくなからず入っているはずだ」
「そうなのか。ならばすこしはゆとりをもってよいかな。子龍はどのくらいで慣れた」
「半年ほどかかったかな。しかし、いまでも親しいというほどではない」
「それはわかる。あなたは、張飛どのは『張飛』で、関羽どのは『関羽どの』だからな」
と、孔明は声をたてて笑った。それにつられて趙雲も微笑する。
数週間前が信じられないほどの打ち解けようである。
要するに、この青年は、もともと内気で、人見知りがはげしいのだ。
そこへ嫌がらせを受けたものだから、内に籠もって、攻撃的になっていたのだろう。
しかし趙雲は味方だと判断して、ようやく打ち解けてきたのだった。
これもまた悪くない、と趙雲は思う。
孔明というのは、塞いだ空気にあたらしい風を吹き込んでくれるような、そんな颯爽とした雰囲気をもっている。
性格的にいささか問題があるが、それもまだ若いのだと思えば、目をつぶれる。
城の者は薬が抜けたところで、記憶がなくなるわけではないのだから、しばらく趙雲と孔明を合わせてあつかうだろう。
一蓮托生となったわけだから、いがみ合うより助け合うほうが、よほど健全である。
「ところで劉封どのだが、養子に入るときに、関羽どのが反対した、という話はほんとうか」
「ああ。殿は気をつかって、そのことを伏せていたのだが、どこからか漏れて、いまでは知らぬ者がないほどだ」
だから、劉封の関羽に対する態度はぎこちないのだ。
「それでは劉封どのもつらいだろうな」
「まさか直後に阿斗さまが生まれるとは、だれも思っていなかったからな」
そんな不安な立場のなかで、養父の劉備が、自分も阿斗もかえりみず、軍師として招かれた孔明に夢中になっているのを目の当たりにしたら、おもしろくないのは当然だろう。
ぴた、と趙雲は足をとめた。
趙雲の動きに、孔明は合わせて足を止める。
どうしたのか、などとばかげたことを聞いてこないのが、この青年軍師の勘のよいところである。
気配はひとつ…ふたつ。
「剣を持っているか」
「小剣だが」
「そうか。ならばおれが合図したら真っすぐ城へ向かえ。足を止めるな」
孔明は、わかった、と頷くと、懐にしまった小剣に手を伸ばす。
しゅっ、と風を斬る音がした。
趙雲はすぐさま闇から放たれたそれを剣で打ち払う。
「行け!」
合図をすると、すぐに孔明は走り出した。
それを追うために、刺客が二人、闇から現れた。
趙雲はすばやくそれを阻止し、打ち合いがはじまった。
刺客は、おそろしく身軽であった。
小柄ですばしこく、まるで燕のように身をかわす。
ひとりだけならばたやすいが、敵ながら見事な連携で、右から来るのをよければ、すぐに左から刃が飛ぶ、といったふうである。
一撃一撃のつよさはたいしたことはない。
だが、一瞬たりともおなじ場所にいない相手に合わせ、動くのは、骨であった。
だが、すこしでも長く、相手をひきつけねばならない。
そうでなければ、なんのための主騎か。
趙雲は、孔明がだいぶ離れたであろう頃を見計らい、反撃を開始した。
とたん、速度を増した剣先に、刺客たちがうろたえたのが、空気でわかった。
一度、空気を呑んでしまえば、あとはこちらのものである。
張飛と、本気の打ち合いをしたあとでは、刺客程度は、なんともない。
杭が放たれる。それを趙雲は難なく跳ね飛ばす。
月光に映えるその白刃は、まるで生き物のようにみえた。
命を与えられた鉄の塊が、闇を切り裂いているかのように。
薬が抜けてきたのだろうか。闇夜にあっても、視界がはっきりしている。相手の動きが手に取るようにわかる。
跳躍したひとりの足をめがけ、するどく剣を振るう。
手ごたえがあった。
生ぬるい液体が、宙を跳ねる。どさりと地面に体が落ちる音。
風を斬る音がする。
しかしそれは、最初の一撃よりにぶい。
仲間が倒されたので、動転しているのだろう。
その白刃を、身をかがめて避けると、趙雲は狙いしましたように利き腕ではないほうの手に剣をとって、刺客の首を一撃で刎ねた。
相手の攻撃をかわしつつ、背に手をまわして剣を持ち替え、相手の予想していなかった方向から攻撃を仕掛けたのだ。
地面には、這いつくばりながらも、なお逃れようとうごめく人影がある。
「運がなかったな」
それだけを手向けに言うと、趙雲は刺客に止めをさした。
静寂がふたたび闇をつつむ。
孔明は城へ逃げた。これで終り、のはずである。
しかし、この胸騒ぎはどうしたことだろう。
いくたびもの戦場できたえられた第六感が、よくない知らせを訴えてくる。
孔明は、ほんとうに城に逃げただろうか。
その疑惑が胸に浮かんだとたん、趙雲はふたたび、馬良のいた家にむかって走り出した。
うかつであった。なぜ刺客は、いまになって攻撃をしかけてきたのか。
『古鏡』は孔明を狙い、見張っていた。
となれば、主騎たるおのれの動向も見張っていただろう。
あの家で話したことを、聞かれていた。
そして手の内がばれ、正体すらばれたことに気づいたので、口封じのために攻撃をしかけてきたのだ。
と、すれば、おなじく家にいた馬良も、口封じをされる可能性が高い。
孔明もそのことに気づき、友を助けるために馬良の家に向った…
しばらく行くと、馬良の家の方角で、騒ぎがおこっている。
ひやりと肝が冷えた。あかあかと闇を焦がす炎が、小さな家をつつみ、近隣の住人が、あわてて避難をしている。
遅かった。
呆然とする趙雲の肩を、乱暴に掴む者がある。
「子龍、よく来た! 手伝ってくれ!」
「無事だったのか」
「わたしは無事だが、家は無事じゃない! 早く手伝え!」
それだけ言うと、いつも見目麗しいさまをくずさない孔明が、汗だくになって、近隣の男たちに号令をかけて、火のかかった家を打ち壊にかかった。
もはや水による消火はむずかしいと見た孔明は、火が広がるのを止めるため、家の打ち壊しを決めたのだ。
孔明の声、というのはふしぎな威力を持っていて、なぜか混乱のなかにあっても、はっきりとよく聞こえてくる。
怒鳴るわけでも、威圧感があるわけでもない。
それなのに、耳を傾けずにはいられないのだ。
家のそばには、呆然とたたずむ下男と、主である馬良の姿があり、さいわいなことに、どちらも怪我はないようであった。
やがて家は倒壊し、火は隣家に移ることなく消し止められた。
そうして、孔明から聞き出したのは、こんな話であった。
孔明は、ひとまず城へ向った。
しかし、すぐに大切なことに気づいた。いま攻撃を受けたのは、まちがいなく馬良の家での会話を聞かれたからであり、口封じのためである。
と、すれば、おなじく家にいた馬良も命を狙われる。
剣を叔父や徐庶から習っていたとはいえ、人を斬ったことはない。だが、ここで、数少ない朋友を見捨てる、などということは、孔明にはできない。
果たして、馬良の家に駆けつけてみると、刺客どもが、馬良たちを襲っている最中であった。
馬良にとってはさいわいなことに、料理番の下男というのが腕におぼえがあり、刺客の攻撃をなんとかかわしていた。
家が狭いのもさいわいしたのだ。
居間から厨に通じる狭い戸口に下男は陣取り、その背後に、主の馬良をかばった。
たとえ手練れの刺客といえど、その機動力がいかせなければ、得意の同時攻撃を仕掛けることもできない。
しかしやってきた孔明を見るなり、刺客ふたりはいっせいに孔明にむかってきた。
むしろ飛んで火に入る、なんとやらではなかっただろうか、と思いつつ、孔明もまた、下男にならって、戸口に陣取り、その攻撃を小剣でしのいだ。
よくしのげたと思う、とは、本人の談話である。
だが、所詮は実戦経験のとぼしい文官。息が上がってきた。
繰り出される攻撃のいくつかは、完全に避けきれずに、その服を切り裂いた。
真っ白になった頭のどこかで、それでも、せっかく殿からもらった絹で仕立てたものなのに、と苛立っていると、とうとう一方の刺客より、とどめの一撃が繰り出された。
それは、怨恨のありったけを籠めた、純粋な殺意のカタマリであった。
ちりん、と涼やかな鈴の音が聞こえた。
そうか、この者が、櫓でわたしを突き落とそうとした者か。合点がいったものの、もうなす術がない。
ここまでか。
いかな知恵者であろうと、それが活かせる場というものがあり、慎重な孔明の場合、目の前に死があるようなぎりぎりの修羅場は、そうではない。
死を覚悟して、それでも目をつぶらずに、おのれの命を奪いにむかってくるそれを凝視していると、するどい金属音がして、切っ先は大きくそれた。
おどろいたことに、もう一方の刺客が、その一撃を弾き飛ばしたのであった。
「話がちがうだろう! この男は、殺さずに許都に連行せよとの曹公のご命令をわすれたか!」
しかし、孔明をあやめようとした刺客は沈黙している。
動くたびに、ちりんと鈴の音が聞こえる。修羅場にあって、その音はふしぎと耳に残った。
そのとき、厨に避難していた馬良が、刺客たちの背後にそっと忍び寄り、手にしたツボの中身をひっかけた。
敵も、いままで怯えて出てこなかった男が、いきなり仕掛けてくるとは思っていなかったのだろう。
まずは小うるさいのから、と孔明に背をむけた。
と、馬良は下男に命じた。
「いまだ! 火を放て!」
ツボの中身は油であった。
下男は命じられるまま、かまどから取ってきた火種を刺客にぶつけた。
とたん、ちいさな家の中は、阿鼻叫喚の生き地獄と化した。
刺客のうち、一人は完全に炎にまかれ、そのまま崩れ落ち、絶命した。
もうひとり、孔明を殺そうとしていたほうの刺客は、片腕を炎にまかれながらも、孔明の制止をふりきって屋外に逃げ、闇に消えた。
「そういうわけで、良くんがぼう然としているのは、家が燃えてしまったからではない。おのれがあんな大胆になれるとは思っていなかったので、ほうけているのだ」
と、話の締めくくりに孔明は言った。
趙雲は、ちらりと、いかにも大人しそうな、そして泣きそうな顔をして崩れ落ちた家を見つめている馬良を見遣った。
類は友を呼ぶ、といった言葉がちらりと頭をかすめたが、趙雲は、それについてはなにも言わずに、黙っていることにした。
新野城。
闇に明かりが灯された。
ぼおっと浮き上がるその炎は温かく、そこに人が在るのだということを知らせてくる。
月光と、行灯の明かりが、交差して、闇に閉ざされていた部屋に、影をつくる。
だれもが寝静まった城内で、ひとり、うごめく影がある。
おぼろな明かりに浮かび上がるその輪郭は、はっきりと天下に知られた特徴をしめしていた。
長い手足、大きな耳。
齢そろそろ五十に届こうかという年齢であるが、その体躯には、いまだ老いの残酷な影響はあらわれていない。
劉備は、起きぬけのため、ちいさくうめくと、そばに控えているはずの薬師を呼んだ。
劉備はこのところ、ひとりで眠る。
妻も子も近寄らせない。
しばらく夜はゆっくり養生しなければ、薬湯の効果があらわれないのだと、薬師が言ったためであった。
薬師はいつものように、そっと闇をくぐるようにしてそばにやってくる。だが、いつもよりその動作がぎこちない。
「いましがた戻ってきたのか」
その問いに、薬師はおどろいて顔をあげる。劉備は微笑した。
「ヤボは聞かねぇよ。おまえさんが封に連れられて新野にきてからこっち、ずうっと一緒にいるのだ。おまえさんの気配はすっかり覚えちまった」
薬師は恐縮して、ふかぶかと頭をさげる。
寡黙な男である。いつも頭巾で顔を隠すようにして、無駄口はいっさいたたかない。
しかし劉備は、この薬師になつかしささえおぼえている。
どこかで会ったかな、と問いかけたが、薬師は頭を振るばかりである。
まあ、そうかもな、と劉備も納得する。
むかしは、腐ったものを食べたって平気なほどに丈夫だったから、薬湯なんて鼻にもひっかけていなかった。
変わったのは体だけではない。頭の回転も、むかしよりずいぶんとろくなった気がしている。
孔明はこのところ、夜中にでかけて城下に出て行っているらしい。
よからぬ噂が城内に蔓延していて、どうやら子龍もそのあおりをくらって孤立している様子だ。
問題は山ほどある。考えねばならぬことも山ほどある。
曹操の問題、孔明へのみなの不満、劉封と阿斗のこと…
「薬湯をくれ」
と、劉備は手を伸ばした。
ふしぎなことに、この薬湯を飲めば、悶々とした頭がすっきりして、気持ちが穏やかになる。
なにも解決していないし、なにも行動していないが、いつか時間がなんとかしてくれるだろう…
劉備は薬湯のはいった器を受け取った。
そして、いつものようにそれを口へ運ぶ。おのれに差し出された手が、小刻みに揺れていたことは、気が付かなかった。
「ちょっと待った!」
乱暴に戸口が開けられた。
とたん、血の臭い、汗の匂いが部屋に入ってくる。
まだ、なかば夢のなかにいた劉備は、いきなり飛びこんできた男二人の、その手にした篝火に浮かぶ凄愴な姿に、おもわず悲鳴をあげた。
返り血を浴びた趙雲と、汗だくになって息を切らしつつも、目だけはらんらんと輝く悪鬼のような孔明。
顔立ちが異様に整っているだけに、その崩れた姿はまたすさまじい。
「殿! その薬湯を口にしてはなりませぬぞ!」
と、孔明は戸口に寄りかかるようにして息を切らせつつもいい、それに呼応するように、趙雲は失礼、と低くつぶやくと、劉備から器を取り、かたわらにいる薬師にそれを向けた。
「飲んでみよ」
薬師は、おどろきうろたえ、向けられた器から顔をそらす。
それが答でもあった。
身を動かすと、ちりん、と涼やかな鈴の音が聞こえてきた。
「どういうことなのだ?」
劉備の問いかけに、趙雲は、答えることができなかった。ただつめたく、主公の信頼をうらぎった者を見下ろす。
その縮こまったちいさな姿は、あわれをもよおすものであったが、趙雲はだまされない。
「おそらく、今宵のその薬湯には、毒が入っておりましょう。子龍、その者の頭巾を取れ」
孔明に命じられるまま、趙雲は、薬師の頭巾をはぎとった。
抵抗して、顔を庇おうとしたが、趙雲が片腕を掴むと、悲痛な声をあげた。
その隙をつき、趙雲はつづいて、有無もいわさず、その柔和な顔にぽつりとある竜髯をむしり取る。
それは、あっさりと趙雲の手に引き抜かれた。薬師はちいさく悲鳴をあげたが、痛みのためではあるまい。
孔明が、篝火でもって、薬師の顔を照らし出す。
「殿、よくご覧くださいませ、この顔に、見覚えがございましょう?」
請われるまま、劉備は薬師の顔をのぞきこむ。しばしの沈黙のあと、劉備はすべてをさとった。
ことばを発することなく、ただ、その瞳が涙を浮かべる。
「この者が『古鏡』でございます」
容赦なく、孔明は告げた。
『古鏡』。そう呼ばれた刺客は、がっくりうなだれ、抵抗することもない。
柔和な顔、ふくよかに肉付いた体、うすくなった髪。
男装してはいるものの、よくよく見れば、それは中年女の姿そのものであった。
わずかに身じろぎするたびに、ちりん、と鈴の音がする。
劉備は口をひらいた。
「おまえ、まだそいつを持っていてくれたのか」
古鏡は、うなだれたまま、懐からそれを取り出した。
よく手入れのされた、銀の櫛。
鈴のついたそれは、女がまだ若さと美しさをとどめていたころに、その黒髪を飾ったであろうもの。
七年前、袁紹のもとにいた劉備から、最後に手渡された品だ。
「いつか、これに気づいて、わたくしを止めてくださるのではと、はかない望みをいだいておりました」
と、古鏡は、はじめてか細い声を出した。
「もし、わたくしに気づいてくださったなら、わたしは曹公に背き、あなたさまをお助けするつもりでおりました。
でも、あなたさまは、そちらのお若い軍師さまに夢中で、わたくしにとうとう気づいてくださらなかった。
これほどおそばにいるのに、まったくわたくしを見てくださらないあなたさまに、わたくしはいつしか任務をわすれるほどに、ふかい憎しみをいだくようになっておりました。
そちらの軍師さまには、それこそ身を八つ裂きにしても足らないほどの嫉妬をおぼえました。
あなたがたには八つ当たりに思われるかもしれません。しかし、おなじ思いを抱くものは、ほかにもたくさんおりました。
わたくしはおのれが刺客だということを忘れ、いつしか、城の代弁者のような気持ちになっていたのでございます」
劉備は、そのことばにうろたえ、趙雲と孔明は顔を見合わせた。
孔明の顔色は、こころもち蒼くなっている。
趙雲は、苛立ちをこめて刺客に言った。
「詭弁だな、そなたも刺客として生きてきたならば、おのが心をいかようにも抑えられるよう、訓練を受けているはず。哀れを誘って延命を得ようなどと思っているのなら、見当ちがいもはなはだしいぞ。
殿が憎い、軍師が憎い、この心は城のみなの気持ちだというが、おまえはその城の者にも毒を盛っていたではないか。
おまえは仕事を片時たりとも忘れたことのない、純粋な刺客だ。たとえほかの者がだまされようと、おれはだまされぬ」
趙雲は、本気で怒っていた。みじんたりともこの女に同情したりしなかった。
この女のせいで、城はめちゃくちゃになってしまった。
もしかしたら一生、見なくてもよかったもの、知らなくて良かったものを、この女は、みなの心の奥から、薬という卑劣な手段で引き出してしまった。
やがて時が経ち、ちいさな傷は癒えるだろう。しかし、記憶は消えない。それは呪いのようにいつまでも残り、心を縛る。
女は、すがるように劉備を見た。しかし、劉備は瞑目し、むずかしい顔をしている。
こういうときの劉備を知っている。
もっとも冷徹にならなければならない時、劉備はおのれの中の甘さと闘う。そのときの顔だ。
「殿、ご決断を」
孔明にうながされ、劉備は目をひらき、頷いた。
その顔には、迷いも憐憫もない。
「その女を斬れ」
「御意。衛兵、その女を連れてゆき、即刻斬れ。拷問はいらぬ」
拷問にかければ、おそらくかなりの情報をひきだせるだろう。
しかしそうしないのは、孔明の劉備に対する、わずかな気遣いであった。
「すまねえな、二人とも、しばらくひとりにしてくれ」
劉備のことばに、二人は静かに部屋をあとにした。闇に浮かぶその影は、いつもより小さくしぼんで見えた。
城の井戸に毒を盛られていたこと、そのためにみな虚言妄言にひっかかりやすくなっていたこと、みなを助けるために、孔明が策を弄し、曹操の刺客を捕らえて処刑したことなどは、すぐさま劉備によってみなに伝えられた。
孔明に対する評判は、劇的によくなる、といったことはなかったが、それでも以前のような、はげしいむき出しの敵意はなくなった。
張飛などは、すぐにおのれの過ちを認め、孔明と趙雲それぞれに詫びを入れにきた。
ほかの者たちも同様で、おのれの不明を恥じ、すすんで孔明の仕事に協力するようになった。
だが、すべてが元通りというわけではない。
「あの女の言ったことの半分は、ほんとうのことであろうよ」
と、しばらく経ってから、孔明はぽつりと言った。
孔明は趙雲とともに、調練場が一望できる、城壁の上にいた。
ごうごうと風が唸りをあげるなか、孔明の淡い色合いの袍がはためく。
真下では、張飛の号令にあわせ、兵士たちが一糸乱れぬ調練をくりかえしている。
どん、どんと銅鑼の音が大気をふるわせる。
張飛のとなりでは、劉封がともにそれをながめている。
だが、その位置が、以前とは微妙にちがうことに、気づく者はすくなくない。
「あの女がわたしにしたことは、櫓から突き落としたことと、季常の家で襲ったことだけだ」
「では、寝所にネズミの死体を入れたこと、毒蛾を羹の椀に入れたこと、河原の事故もだれの仕業なのだ」
「河原のことは、もしかしたら、あの女かもしれぬ。だが、寝所のネズミの死体や、毒蛾のなどは、攻撃と呼ぶには小さすぎる。
隙あらば、わたしを殺そうとしていた者が、どうしてそんなちまちました方法を取るのだ。
むしろ、わたしの警戒心をあおって、暗殺をむずかしくするだけだろう。事実、そのことがきっかけで、わたしたちは結束を固めたわけだろう」
「うむ、まあそうだな」
それに、思い出してみれば、あの宴のおり、あの女はずっと劉備のそばにおり、劉備に話かけられつづけていた。あの女に孔明の椀に細工をする暇はない。
「ほかに内通者が?」
「それとは知らずに、利用されていただけなのであろう」
と、孔明は、多くは言わずに、ただ、真下にいる、劉封を見つめた。
是非にと請われ、連れられてきた、才気煥発な少年。
その誘いは、将来を大きく拓く、夢のようなものであったろう。
だが現実は容赦なく、あっさりとその希望をなぎ払った。
時を経ずして生まれた嫡子。つづけて、雇われた年若い軍師。
嫡子ならまだいい。しかし養父である男は、自分とおなじ赤の他人である軍師に、おのれだけではなく、すべてを委ねようとしているように見える。
少年は、足元を揺さぶられるような危機感を抱いたにちがいない。
少年には、後見もなく、そして身の処し方をおしえてくれる者もそばにいないのだから。
「出来る限りのことはしてやりたいのだが」
孔明は劉封からまなざしを外さず、独白のようにつぶやく。
その目には、たしかに同情があった。
「おれも、なるべく気をつけるようにする」
そうだな、と孔明は相槌を打ったが、互いに劉封との仲はよろしくない。
そして劉封を取り巻く環境は、孔明に対して拒否反応がつよい。
その障害を突破することは、生半なことではないだろう。
「そうだ、すっかり忘れていたのだが、いま、用意できる金はどれくらいある?」
ぱっと表情をかえ、その顔が明るい華のあるものとなる。こういうときはかえって危険だということを、趙雲は学習していた。
「金? なんだ、それは」
「わすれたのか、馬家の料理番の家の錠前をこわしただろう。弁償すると言っていたではないか」
「言ったが、しかしあの家は燃えた」
「そうだ。だから立て直すにあたって、資金が必要なのだ。季常が半分、わたしが残りの四分の一。さらに残りの四分の三があなただ」
「ちょっと待て。なぜおれが、そんなに負担せねばならぬ。家を打ち壊すように指示したのはおまえだろう」
「あれは、延焼を防ぐためにはどうしても必要な措置だった。むしろ感謝されたくらいなのだぞ。だが、あなたは錠前を壊したではないか」
「おまえは家を壊した。おれは、錠前しか、壊していない」
「そこだ。刺客どもがあの家を襲ったとき、たやすく侵入できたのは何故だと思う」
「うん?」
「錠前が壊れていたからだ。もし壊れていなかったら、侵入されることもなく、家が燃えることもなかったかもな」
その場合、駆けつけた孔明が屋外で賊にでくわし、あっさり斬られて、いまごろ葬式、という図式もありうるわけだが…
男たるもの、みみっちい言い争いをしたくないので、趙雲は答えた。
「わかった。で、いくら必要なのだ」
孔明は、さっと指で数字を示す。一瞬にして、趙雲の血の気が引いた。
「高い! 宮殿でも建てるつもりか!」
「聞いていないのか。この間のことで、あの引っ込み思案の季常が一念発起して、とうとうわたしとともに殿にお仕えすることになったのだ。
そのための屋敷として、あの家をそのまま建て直そうという話になってな。
まさか、あんなちいさな家に、馬家に白眉あり、とうたわれた俊英を住まわせるわけにはいくまい。で、もっと大きめの屋敷を建てることになったのだ」
「それはめでたいな。で?」
「なにが『で?』なのだ。いまさっき、わかったと言ったではないか。もう前言をひるがえすのか」
もうこいつの話には相槌を打たない。
「ふざけるな。そこまで言うなら禄を上げてくれ。おれの収入がどれくらいだと思っているのだ」
「もう無心か。親しくなったとはいえ、すぐに禄を無心するとは、はしたないぞ、子龍」
「…」
「そんな顔をして睨むな。一括で無理なら分割でいい。もちろん、利子はなしだ。それくらいの慈悲は、わたしも持っている」
「…」
「いまどき、利子のない分割を組めるなど、ありえないことだ。あなたは運がいい。わたしの主騎でよかったな」
「…」
おれは、なにかとんでもない災厄を抱え込んだのに、その大きさがあまりに途方もないので、どうしたらよいのかわからずに、ついつい、いつもと同じ生活をしてしまっているのではないか…
そんな不安が胸を過ったが、それも一瞬のことであった。
見ると、口では辛辣なことばをつむぎつつも、青年軍師はどこか楽しそうである。
その親しげな笑みは、劉備にすらめったに見せない素のままのものであった。
城の者たちは、趙雲が変わってしまった、と嘆いているが、それでもよいか、と趙雲は思った。
けして他人にかかわらない、熱を持たないでいたおのれの変化に、心地よさすら感じている。
突き抜けた青空を、高く燕が飛んでいく。
その小気味良い姿をながめながら、趙雲は、確実にやってくるだろう苦難でさえ、いまならば、やすやすと乗り越えてしまえるように思った。
終