婦女子の祭典

「ああ、暑い、暑い」
と、礼装の襟をぐいっと掴んで、気休めていどに身体に風を入れる。
 緊張しきっているわたしは、そんな文偉の態度に、なかばあきれている。
 「涼しいか?」
 「わずかにな。おれは暑がりなのだ。成都のたいがいには慣れたものだが、この湿った毛布を何枚も押し付けられているような湿気だけには、なかなか慣れることができぬ。おまえは平気か? やはり地元はちがうのだな。そんなにぴしっと着飾って」
 のんきなことを、とわたしは嘆息する。
 文偉の表情には、まるで緊張というものがない。わたしなど、さきほどから緊張のあまり、身体の震えが止まらないというのに。一張羅の着物を着てきたが、地味ではないだろうか、趣味が悪いと思われないだろうか、裾が汚れていないだろうかと、そればかり気になる。一方の文偉は、なんで礼装なんぞせにゃならんのだ、とぶつくさ文句まで言う有様。
 緊張がない、といえば、さきほどから壁際で、そっとしている公琰どのも同様だ。
この方はなかなか掴みにくいお方で、親しくしていただいているのだが、どうも本心がわからない。わたしたちの様子を見てはいるが、感心はないのか、まったくの無表情だ。
 文偉は、掌を扇の代わりにして、ぱたぱたと生暖かい風をかきまぜる。 
「そうかしこまることはなかろう、休昭。父君の上役とはいえ、役職をこえていろいろ親しくしているお方なのだろう。おまえとて、此度が初対面ではあるまい」
 のん気者め。 
「あのお方とは、何度顔をあわせても緊張するのだ。おまえは違うのか。だいたい、なんでおまえがあのお方と知り合いなのだ。荊州時代に機知であったのか」
「そうではない。縁があっただけの話だ。言っておくがな、休昭、あのお方はおまえなんぞより、ずっと内気なお方だから、おまえがそんなふうにカチコチだと、かえって気を遣わせてしまうぞ」
「…くわしいな」
「あのお方の友を気取るわけではないが、なんとなくわかるのだ。いつもどおりにしていろ。だいたい、内密で呼び出して、しかもこの面子だ。ろくな用件ではないぞ」
なんと不敵な、口が過ぎるぞ、と咎める前に、主簿のひとりがわたしたちの部屋に入ってきて、あのお方のご来室を告げた。

「全員、整列」
執務室に、朗々とした軍師将軍・諸葛孔明の声がひびく。
 全員、といっても四人しかいない。
蒋苑、費褘、董允、郭攸史。
それぞれ下端ながら、なぜだか孔明さまから気に入られている四人である。
孔明さまは卓から離れると、不意の呼び出しにこたえた、わたしたち四人を見まわした。
 尚書令の蒋苑。これは劉備の訪問を受けても、堂堂と昼寝をしていた、という豪胆なエピソードの持ち主である。
もともとは荊州の人なのだが、すっかり蜀になじみ、地元の者と同様、人生のさまざまを占いに頼っており、ちかごろ当たると評判の、趙直という夢占い師と仲がよい。
なにかにつけて占いを持ち出してくるところが玉に瑕だが、それ以外では泰然としており、さきほども言ったとおり、どこかつかみ所のない男だ。
無表情だといっても、愚鈍なのではない。その内側には熱いものがあり、ふとするとそれがあふれ出てしまうので、壷に蓋をするようにして、じっと黙っている、というふうである。その泰然自若とした物腰が頼りにされ、まだ若いのに人望も厚い。
 費褘。このなかではもっとも下っ端であるが、もっとも気に入られているのも費褘…文偉である。わたしの親友だ。
そして、もっとも苦労人なのも文偉だ。戦禍に追われるようにして、江夏から伯父とともに、蜀にやってきた。
境遇が孔明さまに似通っており、そのあたりも、気に入られている要因なのだろうが、ナゾなのは、いつ、どこで、どうして孔明さまと知り合いになったのかがわからないところだ。
本人はそれを言いたがらぬし、孔明さまに聞くわけにもいかない。わたしなぞから見れば、図々しいと思えるほどに孔明さまになじんでおり、孔明さまもそれを喜んでいる様子である。
文偉は常にほがらかで、弁も立つが、それだけではなく、きちんと言ったことはやり遂げる生真面目さも持っている。見た目の細さにかかわらず、度量も大きく、度胸も良い。くわえて、たとえ相手が高位の者であろうと、けしておもねらず、堂々としているので、わたしたち同年輩からは人気が高い。
 つづいて郭攸史。これはこのなかでは、いちばんまっとうな人間である。
しかし困ったことに、ともかく気が弱い。つねに逃げ腰で、たまに勇気をふるって危機に立ち向かうと、翌日から寝込んで起き上がれなくなる、というくらいの肝の小ささだ。莫迦にされることも多いが、しかし、その芯からやさしい性格が、民に慕われていることも確かだ。
存在感が圧倒的にないので、わすれられることもしばしばで、気の毒といえば気の毒。わたしも、いままで、郭攸史がそこにいることを失念していた。
 最後に董允。わたしだ。
わたしは、軍師将軍・諸葛孔明さまとともに、左将軍大司馬の幕府をとりしきる、掌軍中郎将・董和の息子である。
ほかに紹介すべきことは、いまは、まだ、ない。
付け加えるなら、上記三人とは仲がよい、という程度か。
わたしもまた、費褘と似たり寄ったりの貧乏下っ端役人である。
そういうと、世間は、父親があれだけ高位にいながら、冗談だろうと思うかもしれない。
しかし、それは父の気性を知らない人のことばだろう。
父の「清貧」のこだわりはハンパではない。
おのれが、ひとに対して、華美を排除し、清貧を尊しとせよ、と命じているのに、いくら高位の役人とはいえ、贅沢なくらしをしていては、世間に顔向けができぬ、と宣言してから、幾年かがすぎ、あいかわらずうちの屋根にはススキが生えている。
おそらく、なにも事情を知らぬ人を連れてきて、我が家を指して、あれが掌軍中郎将の屋敷だとおしえても、信じないだろう。
世の人は、好意的に受け止めてくれていて、あんなに質素にしているのは、かの古代の偉大なる皇帝堯の、その宮殿は、宮殿と名ばかりのみすぼらしいものであった、という故事を引いて、父をほめたたえているのであるが、誤解だ。あれは、うちで雇っている家令やら家人やらが、どれもこれも老齢なので、屋根にのぼっての作業ができない、というだけの話なのだ。
ではなぜ若い者を雇わないかというと、これは父なりの優しさで、年寄りの仕事をうばってしまったら、とたんに気力がなくなって、老け込み、死期が早まってしまうだろうというのである。
たしかに父は立派な人物であるかもしれない。あれだけ厳しく世の中を取り締まったのに、恨まれるどころか、漢族だけではなく、羌族や、ほかの蛮族(というと父は怒るのだが、とりあえず便宜上、世間一般の呼び方をさせていただく)からもたいへん好かれており、父が劉璋に左遷されそうになったときには、ひとびとは劉璋に、措置のとりやめを訴えてくれた。
だが、それとこれとは別だ。
おなじ年頃の青年らが、美麗な蜀錦を身にまとって、往来を歩いているのを見ると、さすがにおのが姿を省みてしまう。
それなりに、身奇麗にはしているつもりだが、やはりわたしも年頃であるし、いつも同じ着物ばかりでは気が引ける。それにせっかく天下一の錦の産地に生きているのであるから、いい格好をして、おいしいものを食べたりしてみたいのである。
父はもう干からびるばかりの年寄りだから、さほどたくさんの食物をたべなくてもいいだろうが、わたしはちがう。
父や家令らに合わせた生活をしているものだから、あだ名が「若年寄」。これでは嫁の来手もない。
父にそんなことをポツリとでも漏らしたら、それこそタダではすまないだろうが。あの父は、人の好さげな顔をして、けっこうな武闘派なのである。
 
さらさらと、耳にさやかな衣擦れの音がした。
さすがは孔明さま、いい布地の衣裳を着てらっしゃる、と感心していると、その音が、ぴたりとわたしの前で止まった。
あいかわらず、年齢不詳なお方である。聞いた話だと、劉備さまにお仕えするようになったころと、寸分たがわぬ容姿を保っているとか。
ご出自は泰山で有名な徐州は琅邪。多くの著名な神秘家を輩出している土地である。この方もどこか、この世から遊離した雰囲気をまとっている。
ふと、鋭い、それでいて不思議とつめたさの感じられない瞳が、じっとわたしを見つめている。
なんだ?
 「よし、決まり。休昭。そなただ」
「え」
なにが?
「ほかの三人は下がってよし。ああ、となりの部屋に饅頭があるから、持って行ってよいぞ」
 「参加賞ですか」
やれやれ、といった顔で、蒋苑と費文偉のふたりは、部屋を出ていく。郭攸史にいたっては、よほど緊張していたのか、ふうっと大きなため息をついている。
文偉のやつが、出て行きざま、わたしを憐れみの目で見たのは、なぜだ?

 「休昭、こちらへ」
と、孔明さまは、うろたえるわたしを、別室へうながした。
正直な話をしてしまえば、わたしは、この神仙の如き美貌の軍師が、ちょっとばかり苦手である。
 わたしがこのひとを苦手に思うのは、あまりにきらびやかにすぎて、周りがかすんでしまうところだ。
父は、このひとの補佐として仕えているのであるが、父の手柄のほとんどは、自動的に孔明さまの手柄と見做されてしまう。
父は、功名にこだわってあくせくしないひとだし、なにより孔明さま本人は、そのことをかえって気に病んで、父をたいへん尊敬してくれている。
 ではなにが苦手なのか、というと、そばにいると、このひとの放つ光に圧倒され、おのれを保てなくなるような怖さがあるからだ。
いつしか惹きこまれ、おのれがこのひとに同化してしまうのではないか、という怖さである。

 別室には、見たことのない、肌の黒い男がいた。
妙ににこにことしていて、肌の色とは対照的な真っ白な歯が光っていた。
漢族の衣裳を着ているが、その趣味は派手すぎて、お世辞にも似合っているとはいえない。
あきらかに漢族ではない。おそらく、南蛮からやってきた者だろう。
 その男は、孔明さまが入ってくると、さらに太陽みたいにニカニカと笑って見せた。
 「コメさん、待ッタヨ。コノヒト、ソウネ?」
 片言のことばで男はそういうと、無礼にも、わたしの顔をじろじろ覗き込んだ。そして、彫りの深い、仮面みたいに大作りな顔に、あからさまな失望の色を浮かべていった。
 「コノヒト、ダメヨー、チョトムズカシーネ」
 「そこを何とか頼む。というよりは、そなたがなんとかしなければ、このまま蜀を北上する許可はやれぬ」
「コメさん、イジワル、イケズネー」
「…どちらさまですか」
 「休昭、この者は、成都に流れてきた旅芸人一座『黒猿団』の座長をしている比翻環(ぴー・ぽーんかーん)、という」
 「ピンポンパン?」
 「ドゾ、ヨロシク」
奇妙な名前だ。風体も奇妙だが名前も珍妙である。
 わたしの注意は、この愛想はよいが、無礼なぴんぽんぱんに向いていたのだが、なぜだか、孔明さまは、さきほどからじっ、とわたしを見ておられる。
 「そなた、色が白いな」
 「は?」
 神経質な性格をそのままあらわした、細くつめたい指先が、意味ありげにわたしの頬をなぜた。
 「つねづね思っていたのだが、そなたは父上に似ておらぬな。肌を整えれば、十分に通用する。ふむ…白に紫を重ねた衣裳がよく映えるであろう」
 通用する、って、どこに?
 「休昭、服を脱げ」
 「はあ?」
 うろたえるわたしの背後に、いつのまにかぴんぽんぱんが回っていた。
うろたえつつ、あばれるわたしの帯を、黒い手が容赦なく解いていく。
「サッサト、スッポンポンニナリナサイネー」
わたしの背筋を冷たいものが駆け抜けた。
…二人がかりで犯される! 
そういえば、孔明さま黄夫人という、気立てはたいそうよいが、容姿はいま百歩くらいの奥方がひとりいらっしゃるだけで、そのほかに浮いた噂のひとつもない。
しかし、その性癖が、実は女人ではなく、男に向けられているというのなら、話は別だ。
たしかに孔明さまは、稀にみる美貌のお方だが、いくら顔立ちが綺麗だといったところで男は男だ。
よほどのことがないかぎり、スネ毛や咽喉仏がある相手に欲望を抱けるものじゃない。変態! 天下の軍師は変態だった!
というか、なぜ、わたしなのだ? やはりこの方は天下のゲテモノ食いなのか?
「これ!」
孔明さまの白羽扇にあたまをはたかれた。
わたしを脱がそうとしているぴんぽんぱんに至っては、柄のほうで、あたまを、がつり、と殴られた。
「イタイヨ、捕虜ギャクタイ反対!」
「たわけ。そなたは捕虜などではなく、この孔明の客だ。それに、そなたの国では知らぬが、われら漢族は、肌を人に見せるのを恥としているのだ。われらは外へ出る。休昭、その間に、その衣裳に着替えよ」
と、孔明さまは、上等な絹で織り上げられた、女物の衣裳を差し出した。
やっぱりこのお方は…
すると孔明さまは、名人が筆で一気に書き上げたような眉を、ぎゅっと寄せた。
「こんど、妙な想像をはたらかせたら、そなたも柄のほうで殴るぞ。ともかく、それに着替えるのだ。ワケはそのあと話す」
…なんでわたしの考えたことがわかったのだ?
ともかく、そういって、孔明さまはぴんぽんぱんと共に出て行った。

女物の衣裳をまとう、などという恥辱にまみえるのは、当然はじめてのことだ。
たとえ相手が孔明さまといえど、これはあんまりな仕打ちである(とはいえ、あまりに情けないので父に訴えることもむずかしいが)。
鏡に映った自分の姿を、とてもじゃないが正視できない。絹の肌触りはなんともいえない心地よさだが…

「このところ、奥向きの様子がおかしいのだ」
と、孔明さまは、あえてわたしから目をそらさずに、いつもの調子で、明瞭かつ明朗にお話をされる。
しかし、こめかみのあたりで、ぴくぴくと脈が打たれているのが見てとれるのは、わたしの姿があまりにすさまじいからだろう…
「呉夫人がわが君に嫁がれてから、はや幾年。わが君は、もともと色事に関しては、さほど熱心でないお方。ほかに夫人を持たれるわけでもなし、お二人は実際、仲睦まじくしていらっしゃる。ところが最近、わが君もご政務がいそがしく、呉夫人にかまう時間がなかった。そのためか、呉夫人と、その取り巻きの女たちが、なにやらおかしな行動を取っているのだ。出入りの商人から、内緒に大量の布地を買い付けたり、あるいは、ろくろく仕事もせず、数人でかたまっては、一室に籠もって、書をしたためていたり、あるいは、奥向きから出て、わたしをはじめとするお歴々を影からこっそり覗いたりしているのだ」
たしかに、由々しき問題である。
「まさか、間者が、奥向きに?」
「それにしては、行動が目立ちすぎる。間者であれば、もっと目立たなく行動するであろう。それに、女たちのあらわれる場所は決まっていて、わたしや、子龍や、馬超どの、馬岱どのなどのところに集中している。法正どのや、そなたの父上のところにあらわれた気配はない。もしわが国の状況を把握したければ、法正どのを狙うのが順当であろう。おかしいとは思わぬか」
「呉夫人が、なんらかの意図をもって、女たちを操っていると?」
「奥方様は、たいへん聡明な方だ。おろかしくも他国に通じているようなことはないと信じる。信じるが…なれば、なぜこのように奥向きが浮き立っているのか、その理由が知りたい」
「もしかして、そのための、わたしのこの格好なのでしょうか?」
「よくわかったな。さすが蜀にこの人あり、と言われる董和の息子、話が早い。そういうわけで、奥向きに潜入してほしい」
「ご冗談でしょう。なぜ女細作をお使いにならないのです」
「こたびのことに、わが国の使役する女細作も、若干、かかわりがあるらしいのだ。かの女たちが、どこでどう繋がっているかわからぬうえは、たやすくこちらが疑っていることを悟られたくない。女というのは、奇妙な同朋意識を持っているからな」
「お話はわかりました。しかし、やはり無理でございます。わたしの姿をよくご覧くださいませ。どう見たところで、女には見えませぬぞ」
「いや、そうでもないぞ。たまにそなたのような女を街で見かける。なあ、比翻環」
「馬子ニモ衣裳ネ」
ぴんぽんぱんが、わかっているのかいないのか、調子よくことばを挟む。
「そういうわけで、この比翻環がそなたの臨時の師となり、そなたをたった一昼夜で女らしくなるよう指導してくださる。あらためて礼を取るが良い」
「無茶でございます! 第一、いくらうまく仕立てたところで、女というものは聡いもの。すぐに気づかれてしまいます。声の問題、咽喉仏の問題、歩き方から体格、第一、厠でバレまする!」
「そこはうまくやれ。でなければ我慢するのだな」
「そんなご無体な! この役目、わたくしなぞでなくとも、もっとほかに適任がおりましょう。もっと見目良い者が…」
と、気がついた。わたしが知るなかで、もっとも美麗な男といえば、孔明さま以外にほかにいない。
豊かな黒髪、瑕ひとつない陶器のような肌、痩せてはいるがみすぼらしさはなく、かといって威圧的でもないそのしなやかな体格。
そうだ、孔明さまがやればよいではないか。
でなきゃ文偉だ。あれだって紅を注せばそれなりになるはず。
いや、やはり目の前のこのお方がいちばん適任だ。おしろいを塗って、紅を注して、髪を結って、流行の髪飾りでもってまとめて、豪奢な衣裳を纏わせれば…そこまで想像し、わたしの脳裏に、男とも女ともつかぬ、妖艶な者の姿が立ち上った。
銀のにぶい光が黒髪を照らし、しなやかな体を軽やかな絹が包む。
似合う。すばらしく似合うではないか。まさに天上の乙女も恥らう風情。完璧だ!
がつり、とわたしの頭をにぶい衝撃が襲った。
「なにをなさいます!」
「たわけ! そなたの考えなどすぐに読めるわ」
「顔ニ、モロニデテイルネ。モロバレヨー」
泣きそうになったわたしの顔を見て、孔明さまは、ため息をひとつついてから、言われた。
「もしわたしが出来るものならば、自分でしている。しかし、身の丈八尺の女など、そうそうおるまい」
「たしかに…」
孔明さまは徐州の出身である。徐州といえば、大男の産地としても有名で、孔明さまもその例に漏れず、八尺の偉丈夫だ。
面貌はいくら美麗とはいえ、身の丈八尺の女がうろうろしていたら、それはすぐにばれるだろう。
「ともかく、休昭、これは軍師将軍として命ずる。女装して奥向きを探れ! 探らぬうちは、後宮から出てはならぬ」
「ええ? お待ちください。そういうことならば、わたしのような小心者より、文偉。費文偉のほうがよほど向いております!」
「文偉か…たしかにあれは度胸がよい。だが、あれは駄目だ。この仕事を楽しんで、行ったきり、戻ってこなくなる可能性のほうが高い。ちなみに公琰(蒋琬の字だ)は危機に際してはいちいち占いにたよって動かなくなるし、演長(郭攸史の字だ)にいたっては、気絶してばれる」
それはたしかに。
「よいな、これは決定だ。幼宰(父の字である)どのにはわたしから話をしておく。そなたも心置きなく任務に打ち込むがよいぞ」
そう言い放つと、孔明さまはわたしの反論を待たずに、身を翻して出て行ってしまった。
に、しても、軍師どのの女装、見てみたかった気もするが…

それ以降のことは、あまり思い出したくないので割愛する。
ともかく、わたしは傍若無人な蛮人・比翻環(ピー・ポーンカーン)…ぴんぽんぱん相手に、女らしさのなんたるかを教授された。
もちろん、教授されっぱなしもなんなので、こちらも礼節のなんたるかを教え含めようとしたのだが、この浅黒い肌の異邦人は、二言目には
「オナカ空スイタヨー」
しか言わないために、まったく話にならなかった。
どういう経緯で孔明さまが、この者を留め置いているのかはわからない。しかしぴんぽんぱんの断片的なことばをつなげて考えてみたところ、
○ ぴんぽんぱんは、南蛮よりはるか南に下ったところの、海のそばの国の者
○ 中原を目指して移動中、南蛮を通って蜀に入ったところを国境の兵に捕まった
○ そのまま孔明さまのもとへ送致され、屋敷に軟禁されている
○ 孔明さまは食事をくれない
ということらしい。しかしいくら怪しげな異人とはいえ、あの孔明さまが、客として遇している者に食事を与えないなんてことがあるのだろうか? 
 
馬車で隠すようにして運ばれて、わたしは孔明さまと、ぴんぽんぱん率いる『黒猿団』なる旅芸人らと一緒に後宮へと向った。
もちろん、男子が容易に後宮に入れるはずがない。孔明さまは殿のとくべつの計らいでもって、入り口まで付いてきてくれた。
「この方が、董幼宰どのの姪にあたるお嬢さまなのですか」
と、わざわざ孔明さまとわたしを迎えに、呉夫人が足を運ばれた。
落ち着いた物腰の、品のよい、それでいて、どこかしどけない雰囲気のする女性である。
すでに腰のあたりがふっくらと肉がついており、そのふくよかな四肢が絹の衣裳にわずかに透けて見える。
もちろん、わたしのような下っ端が、直にお会いできることなどないお方だ。
呉夫人は孔明さまに、艶麗な笑みを投げかけた。
もちろん、他意はないのであろうが、ふつうの男ならば、足元がぐらつくほどの威力を秘めた笑みだ。
わたしなども危なかったのだが、しかし、任務を思い出して持ちこたえた。
孔明さまはというと、まったく動じず、小春日和のようなおだやかな笑みを返した。
 「はい。この戦乱で行方不明になっておりましたのが、最近になって見つかったとのこと。しかし苦労を重ねたゆえか、あまりに内気で幼宰どのも気を揉んでおられます。いずれは董家の娘として嫁ぐ身なれば、修練の場として、奥向きづとめをわたくしが奨めた次第です。これ、挨拶をするがよい」
 「よろしくお願いいたしまする…」
蚊の鳴くような声で顔を隠すようにして挨拶をすると、孔明さまの口から出たでまかせが功を奏したのか、呉夫人は哀れみのまなざしをわたしに向けた。
 「まあ、ほんとうに秋の虫のようなお嬢さまだこと。さぞかしご苦労を重ねてきたのでしょうね。そう固くなることもないのですよ。ここは、劉備さまのご配慮もあって、とても和やかでのんびりした場所なのです。名前はなんというのです?」
 「明鳴と申します」
 と、これは孔明さまが答えた。すると、呉夫人は低めの艶やかな声を弾けさせてわらった。
 「まあ、幼宰どのの姪ごというよりは、軍師のお身内のようなお名前ですわね」
「わたくしの姉とおなじ名前でございます」
「そうでしたの、ふしぎなご縁もあるものですね。気に入りましたわ。明鳴さん、みなにはわたしから紹介して差し上げます。それと、その後ろにいる者たちが、遠く南蛮からやってきたという旅芸人の一座なのですか?」
と、呉夫人はぴんぽんぱんを指していった。ぴんぽんぱんは、しおらしく漢風のお辞儀をした。
「今宵は、女たちだけでちょっとした宴を開きますの。その者たちもきっと華を添えてくれるでしょうね。軍師をお招きできないのは残念ですわ」
「そう仰っていただけるだけで光栄でございます。さあ、明鳴、比翻環、奥方さまに無礼のないよう、お勤めするのだぞ」
呉夫人に連れられて、無邪気に「オイシソーナモノ、イッパイアルネ」などといいながら、奥向きに入っていくぴんぽんぱんと、やはりぴんぽんぱんによく似た風体の、褐色の肌の集団。
この者たちの後ろについていれば、わたしの全身からにじみでる怪しさも薄れるだろう。
あとを付いていこうと足を進めると、孔明さまに呼び止められた。
 「待て。この守り袋をもってゆけ」
孔明さまが差し出したのは、掌の半分ほどの錦の袋で、見た目は華奢ながら、受け取ってみると固く重い。
 「もし、何事か身の危険を感じたなら、その袋を開くといい。気を抜いてはならぬぞ」
 はあ、と気の進まない返事をすると、孔明さまは声をたてて笑った。
 「そう暗くなるな。奥方さまは人を疑うということをまるで知らないお方ゆえ、わたしの話も信じてくださったようだ。
おそらく、女たちも、短い間なら、そなたがあまり口を開かぬ理由も、大人しいからだと納得してくれるだろう」
 「つまり納得が疑惑に変わる前に、女たちの様子を探らねばならぬというわけですか」
 「そのとおり。しかし、昨日までは、あの面子の中ではいちばんマシ程度であったのに、たった一昼夜でずいぶん本物の乙女に近づいたではないか。これは、比翻環に感謝せねばならぬかな。(と、ここで人の気配があったので、孔明さまは声を高くした)しっかりやるのだぞ、明鳴」
 孔明さまは、尊大さのかけらもない、すがすがしい笑みをわたしに向けた。
 「さあ、ゆけ、奥方さまがお待ちだ」

 呉夫人がおっしゃったとおり、奥向きは宴の準備に浮き立っていた。
中に入ったとたんに、むわっ、とよい香りが身を包む。
むせかえるほどではないが、これが女人ばかりの空間というものなのか。
男だらけの空間なら嫌というほどよく知っているが、あの汗臭さとは雲泥の差である。
そして、さすが後宮勤めというだけあり、奥向きの女たちは、みなどれも明眸皓歯の色白美人ばかりであった。
学問を好む呉夫人の啓蒙によるのか、過剰なまでに華美な者はおらず、質素にしている。
それがかえって、本来のうつくしさ、愛らしさを際立たせており、目は、どれも輝いている。選ぶのに困るほどだ。
 しかし残念ながら、いまのわたしは選ぶことのできる立場ではない。
呉夫人がご紹介くださったためか、女たちはみな、わたしに親しげな笑みを向けてくれる。
相手が、わたしを男だと知ってもなお、その顔が変わらない、というのであれば最高なのだが。
 「明鳴さん、そんなに緊張して、今宵はお疲れになったでしょう。わたくしたちは宴の準備があるからもう行きますけれど、あなたはもうお休みになられたほうがよいわ」
と、案内されたのは、こぎれいな一室であった。
簡単に、室内の調度を教えてもらい、それからひとりになる。
 とたん、緊張の糸がほぐれて、膝から力が抜けた。よろけるようにして、寝台につっぷす。
ムリ。ムリです、軍師! いまは夜だから、灯火のおかげで女たちの目を誤魔化すことができたけれど、明朝からどうすればよいのですか!
最悪の場合は、緊張のあまり腹を壊したといって、部屋にこもるしかあるまい。
それにしても、男だとバレたらどうなるのだろう。孔明さまは助けてくださるだろうか。いや、そのまえに怒れる女たちによって捕らえられ、宦官にされてしまうことだってありうるのでは…
さらば、この日がなければ産まれてきたかもしれないわが子よ。父には死地を抜け出す自信がない…

目を覚ますと、とっぷりと夜が更けていた。
いつのまにか眠っていたらしい。いまはどれくらいなのだろうか。宴はもう終わってしまったのか、あたりはしんとしている。

いや…
耳にさやかな衣擦れの音。
わたしは仰天し、起き上がった。
月光に照らされて、しずしずと廊下をゆくその姿は、まぎれもない、武人のものである。
そんな莫迦なことはありえない。ここは後宮なのだ。漢中王劉玄徳のみ入ることのゆるされる、禁断の園である。
まさか、大胆にも、目当ての女を捜しに、だれかが忍び込んだ、というのだろうか。
わたしは足音を殺し、そおっと廊下を覗き見た。
月下に浮かぶその姿は、どこかで見たことがある。
が、しかし、なにか、ずれている。
ハテ、と首をかしげて、思い当たった。
そうだ、あのどこか涼州の草原をおもわせる装飾の鎧の形は、まぎれもない、馬超どのの従弟、馬岱どののものである。
だが、そのうしろ姿は小さく、華奢で、すぐに本人ではないと見てとれた。
中天を見上げると、月はまだ、わたしが後宮に入った頃より、さほど移動していない。
ということは、まだ宴がはじまったばかりなのか。
その騒ぎを隠れ蓑に、馬岱どのの扮装で、男が女に会いに来た?

あんな重そうな鎧で??

しばらくつけていくと、前方のナゾの武人に、そっと近づく影がある。相手の女か? と思ったのもつかの間。
よくよく見ると、あらわれたのは、正装をした文官である。もちろん、こちらとて、ここにいるはずのない存在だ。
武人は、うかつにも、背後からあらわれたその文官に気づかない。文官はというと、おどけた足取りでそっと武人の背後に近づくと、なんとその両腕でもって、武人を背後から目隠しした。
「きゃ! ちょっと、ダレよ!」
と、その武人は言った。女の声で。
すると、目隠しをしている文官が、くすくすと忍び笑いをした。こちらも女の声で。
「駄目じゃない、宴が終わるまでは、成りきらなくちゃ」
「あんただって、女の言葉になっているわよ。だいたい、なによ、その地味なナリ」
「言ってくれるわね、仕方ないじゃない。あたしのところは、あなたのところと違って、実家にお金がないのだもの。いいわね、あなたは馬岱どのができて。あたしなんか、この格好で精一杯よ」
「で、だれのつもりなのよ」
「董幼宰どのよ」
ずるり、と足がすべった。派手に物音をたててしまい、二人が振り返る。
「あら、まだ誰かいたのね…ああ、明鳴さんとかいう、今日入ったばかりの新入りじゃない。ほら、ちょうどいいじゃない。この子、董和さまの姪ですってよ。あら、並ぶと似ているわよ、あんたたち」
「じゃあちょうどいいわね、一緒に宴に行けば、ウケることまちがいなし。ねえ、明鳴さん。あたし、ちゃんとあなたの伯父君になりきれているかしら?」
と、なぜだか父の扮装をしている女官は聞いてきた。
月光を頼りに目を凝らすと、たしかに父の特徴をよくとらえていた。丁寧に化粧までして、顔のほくろの位置までぴたりと合っている。もともとかわいらしい顔立ちの娘が扮装しているので、いかめしいばかりの父の姿が、妙にちんまりとしていて大熊猫の子のようである。
わたしは大いに頷いた。こういうかわいらしい父なら大歓迎だ。いまの父を屋敷から追放してもよい。
「お身内にそういわれたなら、自信がついてしまうわ。どうせ扮装大賞は、お金のある大貴族の子女が持っていってしまうのよ。ウケねらいでいかないと、わたしのような貧乏貴族の娘は太刀打ちできないもの」
父はウケ狙い要員なのか…本人が聞いたら悔しさのあまり悶絶するにちがいない。
「たしかに、回を追うごとに派手になっているのはあるわよねー。楽しくていいのだけれど、あんまり派手になりすぎても困るわ。実家に、後宮におつとめしているのに、いったいなぜそんなに金を使うのだと問われて、返事に困ってしまうもの」
「それに、人気のある方は、どなたが扮装するのか、というのが決まってきていて、ちょっとマンネリよね」
「それなのよねー。実家に力のある方はつよいわよ。だって、女細作に賄賂を渡して、扮装する相手のことを探らせている方もいるらしいわよ」
「それってずるくない? あたしたちなんて、仕事を抜け出して、必死になって自分たちで情報収集しているっていうのに」

だんだん、状況がつかめてきた。
つまり、女たちは、暇つぶしのために、男の扮装をして、宴を開いているのだ。それも普通の男ではない。
城下で人気のある俳優の真似でもなく、陛下にお仕えする家臣の真似をしているのである。
思いもかけない展開に、くらくらしていると、いつしか大広間にたどり着いていた。
「うあ」
わたしは思わず地声で声をあげていた。
そこには文武百官、見知っているような、見知らぬような者たちがずらりと並んでいた。
女たちは、新手が広間に現われるたびに、歓声をあげて、それを迎える。
「あ、見てよ、なにあれ、馬超どののつもりかしら? 派手にすればいいってもんじゃないわよ。センスわるい」
「いやー、なんなの、あの趙雲さま。あんな貧相に扮装するなんて、どういうつもりかしら。イメージ壊れるわ」
「考えたわね、見てよ、あの姉妹。太りすぎの体型を活かして、関羽どのと張飛どのよ。たしかに髯さえつければ、それなりになるもの」
たしかに、特徴をとらえやすい方については、女たちも真似しやすいらしく、長い髯を垂らした関羽どのが何人もいるのには辟易した。虎髯に酒瓶片手に蟹股であるいているのは張飛どの、遠目からも派手な鎧が目を引くのは馬超どの、弓を持っている年寄りは黄忠どの、槍を手にしていて、無愛想なのは趙雲どの。
しかし、女の目から見たわれら家臣というのは、こんなふうなのかと、衝撃の連続である。
わたしや、わたしの友は下っ端ゆえに、女たちの視界に入っていないようであったが、中には、なにゆえに、その人の格好を、という者もいた。
頭に矢をくっつけて、血糊を垂らしてうろうろしているのは龐統どの、後頭に「反骨」と書かれた紙を貼り付けて、おおいに笑いを攫っているのは魏延どの…女たちの視点は容赦ない。
に、しても異空間である。
なかには、娘たちに囲まれてきゃあきゃあ騒がれている武将(女)もいる。それが趙雲どのであったり、馬超どのだったりするのだから混乱きわまりない。
男のわたしから見ても、ちょっとぐっとくる者もいて、なんだか妖しい世界に引き込まれてしまいそうだ。
 しかも、真隣では、馬超どのの扮装をした娘が、真顔で馬岱どのの扮装をした娘を口説いているし。
 詩の披露もあったりしたのだが、あまりに乙女心満載の内容で、身じろぎせずには聞けない、語れない内容であったので、こちらは割愛する。
 しかも露店を模したものまで開かれており、そこでは、後宮の女たちが、せっせと書きとめた小話がつづられていた。
わたしも場の雰囲気におされて中身を見てみたのだが…
 
その内容については、いまもって誰にも告げていない。
わたしはあの夜見たものを、墓場の中まで持っていくつもりだ。
もったいぶるなと言う向きもあるだろうが、勘弁して欲しい。
わたしはいまもって、将来を棒に振るつもりはないのだ。
まあ、だいたいのところは予想がついているかと思うが、男の友情も、女の視点からすれば、いかがわしく見えることもあるのかな、というところである…。

年頃の娘たちの放つ、むんとした熱気におされ、わたしもぼおっ、としてきた。
そのうち、銅鑼が鳴らされ、呉夫人の登場を告げた。
黒猿団が、われらの楽器とよく似た楽器をかきならし、場を盛り上げる。
そうして現われたのは、なんだかどこかでよく見た扮装の、呉夫人であった。
手には白羽扇、上等な絹の濃い青の袍を羽織った、実質上の蜀の文官の頂点。
「まあ、奥様、実によくお似合いですわ!」
と、娘たちが呉夫人に駆け寄り、口々に賛辞を述べる。
形こそ簡素であるが、その材質は最上等の衣、汚れないのがふしぎな白羽扇、丁寧に刺繍の施された金の帯。
異様に色っぽい軍師さまの登場である。もしも本当に軍師さまがこんなふうだったら、文武百官、はっきりいって仕事にならない。
賛辞を受けて、呉夫人は機嫌よく笑う。が、よくしたもので、笑い方も軍師さまそっくりであるから参る。
「今回は、会心の出来ですのよ…っていけませんわね、ちゃんと軍師らしく話さなくては」
と、呉夫人は、えへんえへんと、咳払いをしてから、もともと低めの声を、さらに低くして言った。
「さすがに軍師にはお金がかかるのだ。あの方、地味そうにみせかけて、じつは服装にはずいぶん力をいれてらっしゃるのだからな。それにこの髪! 後れ毛の垂らし方にも工夫が必要なのだ。ただ垂らせばいいってものではない。ちゃんと計算して、いちばん見栄えが良いようにしているのだ。あと、この扇の持ち方。ただ手にしてればいいってものではない。手首をうまくひねって、こうだ!」
と、呉夫人は扇の持ち方を女官たちに披露する。たしかにその仰ぎ方は、孔明さまにそっくりだ。
周りの女たちは、やんやと拍手喝さいである。わたしも思わず手を打っていた。
「そのままですわー。奥方様でなくてはできないことですわね。なにせ軍師将軍はひとりがお好きな方。わたくしたちなどおそばに寄れる機会もありませんもの」
「こんな楽しみでもなくては、あの方のこまかーいご報告を、じっと聞いてはいられなくてよ…ではなくて、いられないのだ」
この人は、孔明さまからの政務のご報告を受けながら、そんなところを観察していたのか…
「さあ、今宵は南蛮からきた楽団も招いたことだし、ぞんぶんに楽しみもう! みな、思い切り羽根を伸ばすのだ!」
と、呉夫人は、華麗に白羽扇で号令をかける。とたん、黒猿団はそれを受け、派手な南蛮の音楽を奏ではじめた。
絵になる方である。本物の軍師さまも尊敬しているが、こちらの軍師には惚れてしまいそうだ。いやいや、たとえ主公の奥方といえど、憧れるくらいならば、ゆるされよう。
まさかそれが聞こえたわけでもあるまい。呉夫人と目があってしまった。呉夫人は、よほどよく研究したのか、孔明さまそっくりの手つきで、わたしを招かれる。
わたしは誘われるまま、ふらふらと呉夫人の前に進み出た。
「明鳴さん、だったわね、あなたの目から見て、どうかしら。似ていると思う?」
「ええ。よくご観察なさっていると思います。軍師さまにそっくりですわ」
おのれでも呆れるほどに、抵抗なく女言葉が出てきた。
「そう、うれしいわ。ねえ、次回は、あなたも扮装してらっしゃいよ。わたくしが軍師をするから、あなたは伯父上の格好をなさるといいわ。ほら、そのままではないの。きっとみな大喜びするでしょうよ」
と、その様を想像したのか、呉夫人は声をたてて笑った。
このひとの観察眼はたいしたもので、軍師さまはめったに人前で声をたてて笑わないのだが、その笑い方ですら、とてもよく似ていた。
そうして、ふう、と大きな息を吐いて、大胆にも胸元に手を入れて、布を直す。
「楽しいけれど、扮装の問題点は、胸をこうしてさらしで巻かなくてはいけないところね。苦しいこと」
ぐいぐいっと…目の毒だ。
黒猿団が、南蛮の神秘的な踊りを披露しはじめた。男の扮装をした娘たちは、みな、胡坐をかいたり、乱暴なことばを使ったりして、黒猿団をはやし立てている。
何を考えているのだか、ぴんぽんぱんのヤツは、妖しげな太鼓の音にあわせて踊りを披露しつつ、バチバチとこちらに秋波をおくってくる。まず、ここを無事に脱け出すことができたなら、あいつをぼこぼこにすることから人生をやり直そうと思う。

と、優雅に白羽扇をあおぎつつ、黒猿団の演舞をたのしんでいた呉夫人であるが、その顔が、一瞬にして強ばった。
向こうから、龐統どのの扮装をした女がやってきたのだ。さきほどの、頭に矢、血糊をべったりとつけた扮装の女である。
本物の龐統どのにお会いしたことはないのだが、面貌魁偉の小男だったと聞く。しかしこの『龐統』は目も覚めるほどのうつくしさ。あまたいる後宮の女たちのなかでも、群を抜いて容姿が整っている。呉夫人があでやかな牡丹とすると、この女の風情は、可憐な芙蓉。柔和そうだが、意志の強さも双眸に宿っている。
「まあ、いったい何のつもりかしら。みなが楽しんでいる中で、そんな嫌味な格好をしてくるなんて」
呉夫人が剣呑な口調で問うと、龐統の女は、まったく無視して歌うように言った。
「奥様、実によくお似合いだわ。あまたの政争をくぐりぬけ、いまや殿の信任を一身にあつめる男。そのお方の扮装は、まさにあなたにぴったりですもの」
さきほどまで笑顔と活気に包まれていた場が、そのひと言で凍りつく。
呉夫人と、龐統の女の関係がわからないわたしでさえ、女の言葉が、みなを沈黙させるのに十分なものだとわかった。
 呉夫人は、しかし、負けていない。白羽扇を優雅に動かしつつ、目を細めて言う。
 「愚かしいこと。殿のご寵愛があなたからなくなったのは、わたくしのせいではなくってよ。そんなに殿を振り向かせたいのであれば、わたくしのように、御子を生んで差し上げればよかったのよ。簡単なことではなくて?」
 「嘯いていられるのもいまのうちだわ。あなた、その格好をするときに、ちゃんと自分のお姿を鏡で確認したのかしら? 犬みたいにぽこぽこと殿のお子を産んでさしあげたはいいけれど、おかげでなんなの、その丸い腹! 見苦しいったらありゃしない。殿の足が最近、後宮から遠のいているのは、あなたのその醜い体を見たくないからではなくて?」
 「なんですって! もう一度おっしゃい!」
 「何度でも言ってやるわ、このデブ! 慢心していられるのもいまのうちよ!」
 「許さないわ! みな、この女を捕まえて、放り出しておしまい!」
 「やれるものならやって御覧なさい! その前に、あんたのそのおきれいな衣裳をぼろぼろにしてやるわ!」
 と、龐統の女は、呉夫人に飛びかかると、言葉どおり、その召し物を力任せにびりびりと裂いた。呉夫人も負けていない。女の細腕を掴みあげると、その腹を、肘で蹴り上げた。
 女がうずくまると、呉夫人は、裂けた衣裳のまま、獣のような唸り声をあげて、女をめちゃくちゃに殴りつける。
 女官たちは呉夫人を止めようとするが、その隙に、攻撃される一方だった女が立ち上がり、拳でもって、女官たちに抑えられて身動きができなくなっている呉夫人の横面をぶん殴る。
 これはいかんと女官たちが呉夫人を放すと、自由になった呉夫人は、裂けた上着を脱ぎ捨てて、拳を使い、脚を使い、それはそれは見事な攻撃を繰り広げた。一方の女もたいしたもので、しなやかな体躯を活かして、繰り出される攻撃をかわし、一撃必殺の拳を狙って打ち込んでくる。
 両者の力は拮抗し、しばらく並行した打ち合いのあと、持続力の切れた女のほうが荒い息をはじめ、そこへすかさず、呉夫人の強烈な拳が鼻を打った。女は、容のよい鼻から鮮血をたらしつつ、床に崩れ落ちた。

失恋の最短記録である。
悲しくならないほうがどうかしている。ここは、楽園でもなんでもなく、表の政争をそのまま反映した、生の戦いの場であった。
両者の違いは、いい匂いがするか、しないかだけではないか。
に、しても、呉夫人の形相はすさまじかった。あんな艶やかでおっとりした女性(と、表の男たちはみなそう思っている)が、あんなに凶悪なものを内側に秘めていたとは…龐統の女も、まるで飢えた狼のごとしであった。
しかもよりによって、諸葛孔明VS龐士元。同窓でありながら、友とは呼べず、同じ主に仕えることになっても、交わりをもたなかったという二人の争いを、女たちがこれほど具体的に代理で表現してくれるとは。
心がさむざむとして、わたしは席を離れた。
国中の娘たちが、後宮の華やかな生活にあこがれている。
後宮に勤めている女たちはみな、才知にたけ、楽器をたしなみ、軽妙な会話を得意とする。
しかしその条件は、どれも男が女へ強要したものである。彼女たちはおそらく、無条件でそれらを習得するよう育てられてきたにちがいない。
華やかな生活とはうらはらに、ここには自由がない。宮殿の外へ出ることもかなわず、籠の鳥のように暮らす日々。才知があればこそ、そのむなしさに気づいているのだろう。
女が男の格好をして、まるで茶化しているようなこの行動に、ふしぎと腹立ちはなかった。どころか、時が経つにつれ、どんどん悲しさがこみ上げてくる。
彼女たちはみな楽しそうである。しかしわずかばかりの自由も、夜が明けたら失われてしまうのだ。

わたしは外へ出た。
背後では、女たちのいびつな、ささやかな反逆ののろしが灯りつづけている。
このことを、どう孔明さまに報告すればよいのだろう。
女が男の格好をするは、正順を乱すものにて、天下の乱れに通じる、などと言い出す者も出てくるかもしれない。下手をすれば、あのなかの誰かが処罰される可能性もある。
気が重い。やはり、このような任務は、どうあっても断るべきであった。

ふと見ると、父の格好をした娘が、気分がわるいようで、ひとりで外へ出て行く。厠かな、と思って見過ごすところであったが、よく見ると、その後ろから、ぴんぽんぱんがついていく。
わたしは移動し、そのあとをつけた。
娘は、背後からついてくるぴんぽんぱんに気づいていない様子だ。ぴんぽんぱんめ、なにを企んでいるのだろうと見ていると、不意に、ぴんぽんぱんは、娘を背後から抱きかかえるようにして襲いかかり、手近な一室に引き入れた。
瞬間、かっと怒りの火が点った。
あの南蛮人、こともあろうに後宮の娘を手篭めにしようとするとは。
月明かりに振り返った、あどけなさを残す娘の笑顔が脳裏を過った。
ゆるせぬ。
わたしは駆け出した。が、小さな靴に、足にまとわりつく絹の衣裳。走りにくいことこのうえない。
それでも懸命に駆けて、わたしはぴんぽんぱんが娘を連れ込んだ部屋に飛び込んだ。

その光景を、どう説明したらよいのだろう。
部屋はなにかの倉庫らしく。大甕が並んでいる。格子状の窓から月光が差し込み、そこに、力なく、ぐったりした娘と、その上にのしかかっているぴんぽんぱんがいた。
だが、ぴんぽんぱんは、娘を手篭めにしようとしていたのではなかった。
わたしが扉をひらくと、ぴんぽんぱんはこちらを振り向いた。
そして、気絶した娘の首筋には、ひとすじ、ふたすじ…と、鮮血が筋をつくっていた。
ぴんぽんぱんの手には、あやしげな管のようなものが握られている。その先端は針になっており、それが格子のはめられた窓からそそぐ月光に、ぶきみにかがやいていた。針からは、娘から抜き取ったばかりの血が、ぽたり、ぽたりと落ちて、床を汚している。
ぴんぽんぱんは、取り繕おうともせずに、あきれるほど平然と、その竹で出来た筒のような器具を、頭がくらくらするほど派手な衣装の袖にしまうと、あいかわらずの図々しさで言った。
「ダメヨー、オ食事ノ邪魔シチャ。漢人、オ行儀ワルイネ」
「食事だと? ふざけるな! その娘をどうしたのだ!」
ゆらりと立ち上がるぴんぽんぱん。わたしは一歩、後退した。いますぐ背をむけて逃げたい。でも、気絶した娘を置いて逃げることなどできるわけがない。
だが手元に、武器らしいものはなにひとつない。わたしはおのれの迂闊さを呪った。女ばかりの場所に行くのだからとタカをくくっていたのだ。
わたしの怒鳴り声に反応して、娘がちいさくうめき声をあげた。よかった、命は奪われていない。
「コメサン、蜀デハ食事スルナ、ッテイッタヨ。ホント、イケズ。ヤニナッチャウ」
「食事だと?」
「ソーネ。ワタシタチノ神様、人ノ血ヲ飲ム。神様ノらふハ気前ガイイ。長生キデキルヨウニ、ワタシタチモらふと同ジヨウニ作リ変エテクレタヨ。ワタシタチハらふノタメニ、血ヲ集メル。ワタシタチモ、らふト一緒ニ血ヲ飲ム。ワタシタチ、雲南ノモット南デ楽シク暮ラシテイタ。デモ最近、雲南カラ、たい族トカイウ、ヨソモノガヤッテキタヨ。アナタタチ『漢』ノ力ガ弱クナッタノデ、自分タチノ王国ヲ作ルト言ッテ、大張リ切リヨ。デモ、コッチハイイ迷惑ネ。たい族ハワタシタチヲイジメル。チョット血ヲワケテホシイダケナノニ」
「それはしかたあるまい」
わたしが言うと、ぴんぽんぱんは、哀しそうな顔をした。
「ドシテ? アナタタチ、米ヲ食ベル。ケド、米ヲ食ベナイ民族ニ侵略サレテ、米ヲ食ベルコトガ野蛮ダトイッテ、イジメラレタラ、悲シクナルデショ?」
「うむ…悲しくなる、というよりは腹が減るな」
「デショ?」
と、ぴんぽんぱんは、理解を得たのが嬉しかったらしく、漆黒の顔をぱあっとかがやかせた。
「ワタシタチ、考エタネ。コノママジャ、ミンナ飢エ死ニスル。洒落ニナラナイヨ。たい族ニ土地ヲユズッテ、ワタシタチハ北ニ行ケバイイネ。北ニイケバ、モット人ガイッパイ。国ハ戦争バッカリデ混乱シテイテ、チョット血ヲ吸ワレタダケジャ、ミンナ騒ギモシナイ。ホント、天国ヨ。ソレニ、コメサンハイナイ。仲間タチモ、ハラペコ。ダカラ北ヘイカナクチャ」
「待て! おまえたちの心情は理解できるが、かといって、漢への侵攻は許さぬぞ!」
「ワタシタチ、アナタタチミタイニ、欲張リジャナイ。天下ナンテイラナイヨ。タダ、フツーニ暮ラセル土地ガホシイダケ。ソウ思ウノハ、アタリマエノコトデショ? コメサンニモ話ヲシタラ、アノヒト、イケズダカラ、トットト南ヘ帰レ、ッテ言ッタヨ」
そのときのことを思い出したらしく、ぴんぽんぱんは怒りに顔をゆがめた。たとえ孔明さまがイケズでなくても、そう言っただろう。というか、この者たちに命があること自体が不思議だ。
「一族皆殺シガ嫌ナラ、食事ヲスルナ、トマデ言ッタヨ。ダケドワタシタチ、普通ノ食ベモノハ受ケツケナイ。職ノ世話マデシテクレタケド、ヤッパリワタシタチ、コノママジャ飢エ死ニネ」
「そういうのを、忘恩、というのだ! もし孔明さまでなければ、おまえたちは当のむかしに殺されていただろう。それをこんなふうに裏切って、申し訳ないと思わないのか?」
「スコシ」
「…少しだけか!大いに反省すべきところだぞ!」
「ドシテ、ソンナニ目クジラタテルノ? チョト、血ヲワケテモラッタダケ。コノ娘、死ンデナイヨ」
「どうしてだと? 決まっているだろうが。人の血を吸うなど、外道のすることだからだ!」
「人ヲ殺シテルワケジャナシ、持チツ持タレツデ行キマショーヨ」
「行けるか!」
そのとき、宴のおこなわれていた広間のほうから、ひときわ大きな悲鳴が聞こえた。それも、一つや二つではない。
あわてて廊下を出ると、至るところに明かりが灯され、昼間のようにあかるかった広間は真っ暗闇に包まれており、閉まり切りになった部屋の中から、女たちの悲鳴がひびいているのだ。
「アリャ、仲間タチ、ハラペコスギテ、逆ギレネ」
「ぴんぽんぱん、止めろ!」
「ヤナコッタ」
わたしはめったに人に対して暴力を振るおうなどと思わないのだが、このときばかりは激しい怒りを感じた。そうして、拗ねているつもりか、そっぽを向いている南蛮人の横っ面をはりたおし、そうして、広間の扉を開けた。
が、中から塞いであるらしく、うまくいかない。仕方なく、わたしは、殴り倒されて気絶しているぴんぽんぱんをまたいで、廊下の篝火をひとつ横倒しにして消してしまうと、中にあった薪をすべて捨てて、篝火の台座でもって、広間の扉を打ち壊した。
とたん、夜闇に、混乱してあわてふためく女たちの悲鳴が、外気にあふれた。月光に浮かび上がるその輪郭は男のものなのであるが、声だけが女のもの、という不思議な光景であった。ぴんぽんぱんの仲間、黒猿団の連中が、ぴんぽんぱんが持っていたものと同じ、怪しげな、血を吸う器具を手に、逃げ惑う女たちを追いかけている。呉夫人を守るべく、武器を所持している宮女もいるはずなのだが、この暗闇で、しかも相手はほとんど妖怪。もし気丈な娘が中にいて、武器を手に戦おうとしたとしても、この闇で、この混乱では動きようがないだろう。
「外へ!」
わたしは叫んだが、女たちの声に、逆にかき消されてしまった。ともかく呉夫人だけでも、と思ったのであるが、中の有様が、あまりにメチャクチャで、一歩進むごとに、だれか、あるいはなにかにぶつかって、思うままにならない、といった具合である。応援を呼ぶべきだろうか。
いや…待て。
わたしは孔明さまに渡された守り袋を思い出した。
このときこそ、あの袋を開いてみるべきかもしれない。
わたしは懐から、守り袋を開いた。とたん、嗅ぎおぼえのある硝煙のにおいがむわっとする。硝煙の臭いだ。
中にはちいさな紙が入っており、開くと、例の火が踊るような力強い流麗な文字で、
『火にくべること』
とあった。
そうか、これは火急のときのための狼煙であったか、と一人合点して、わたしは、袋の中身を、すぐ傍らにあった、廊下の篝火にぶちまけた。
とたん、ひゅるひゅる、と、狼煙が天空へ打ち上がるときの、独特の甲高い音がした。しばらくして、どん、と巨大な太鼓を思い切り叩いたような、腹に響く音がした。ただの狼煙にしては、ずいぶん派手だな、と見あげていると、闇夜を突き抜けるべく、上がった狼煙はそれだけでは終わらず、中空で大輪の菊のような、すばらしい火の花を咲かせた。わたしは、こんなにすばらしく美しい仕掛けを見たのは初めてだったので、ぽかんと口をあけて、夜闇に咲いた一瞬の花を見あげていた。
が、よくよく見ると、その中央に、やはり火花で描かれた
『救』
の文字が浮き上がっていた。
…孔明さま。あのひとらしい、華麗な狼煙である。に、しても、激務の最中に、よくこんな手のかかったものを作れたものである…もしかして、じつは暇なのか?
ともかく、この派手な狼煙によって、宮中で何事か起こったのだと、みなが知るだろう。
「オオ! ヤッパリアナタ、思ッタトオリノ人!」
素っ頓狂な声がして、見ると、気絶から復活して、片方の頬をぷっくらと腫れさせたぴんぽんぱんが、目をうるませて、なぜだかわたしを熱っぽく見つめている。わたしの本能が、ぞくりと背筋を震わせた。逃げろ、と頭が命令しているのに、ぴんぽんぱんの眼差しに、金縛りに遭ったように、身体が動かない。
「魔術師ダッタトハ! ワタシノ目、節穴ジャナイネ!」
「魔術師? ちがう、これは、孔明さまの作ったあたらしい狼煙だ!」
「ゴ謙遜、ゴ謙遜。奥ユカシイコト」
「おまえ、じつはかなり喋れるだろう?」
 しかしぴんぽんぱんは、わたしの問いを無視して、いきなりわたしに抱きついてきた。
 「やめろ! 気持ち悪い! 離せ!」
 そう叫んだのと同時に、宮中の小門のほうから、どおん、どおん、と太鼓の音が聞こえた。衛士たちがあらわれたのだ。とはいえ、普通ならば、衛士が後宮へ入ることはむずかしい。しかし、あきらかに後宮に異変が起こっていると知れたのだろう。衛士たちは小門からどどっ、とわたしたちのいる庭へと入り込んできた。その先頭は、まぎれもない、孔明さま、そのひとである。
 「イケズガ来タネ」
と、ぴんぽんぱんは、わたしを背後から羽交い絞めした形で、舌打ちをした。
と、同時に、信じられないことが起こった。目の前の光景が、急に遠ざかる。どんどん、地面に吸い込まれていくのだ。
 いや、それだけではない。ひとびとの顔が、どんどん地中に飲み込まれていく…?
おかしいではないか。彼らはだれ一人として、慌てふためいていない。いくら精鋭がそろっていたとしても、地中に飲み込まれれば大慌てするだろうに、なぜかみな、一様にわたしを見て、ぽかんと口を開けているのだ。
 そうして、わたしは、わたしの足元がおぼつかないことに気が付いた。
地面がなくなっている。しかしわたしは沈まない。
 見下ろすと、みなは地上にいて、ちゃんと地面に足をつけて立っていた。
風の唸り声がわたしの耳元でつづいている。さきほどまで、ほとんど風をかんじなかったのに、急に突風がわたしを襲う。そして、独特の、居心地のわるい浮遊感。
そうだ。わたしが逆に、地上から離れているのだ。わたしが宙に浮いている?
 みながぼう然としているはずである。わたしはぴんぽんぱんの背中に生えた、巨大な蝙蝠の羽根により、楼閣の三階にまで飛び上がって、ぴんぽんぱんとともに、地上を見下ろしていたのであった。
 ひときわ騒ぎが大きくなり、がたん、ばたんと激しい建具が倒れるおとがつづき、やがて、広間の扉から、巣を壊された蟻のように、わらわらと宮女たちが庭へ逃げ出していくのが見えた。どうやら、ぴんぽんぱんの仲間たちからうまく逃げ出せたようだ。
よかった。とりあえずほっとした。
 だが、わたしはどうなる?

 「比翻環! この忘恩の輩め! そなたの国では、これが恩義に応える方法なのか!」
と、地上にいる孔明さまが決め付けると、ぴんぽんぱんは、わたしを抱えたまま、声を震わせるでもなく、ふつうに答える。
 「ダッテ、アナタガ食事ヲクレナイノガ、イケナイノヨ!」
 「そのことについては何度も話し合ったはずだ! この国ではそなたたちの食事はゆるさぬ! 国へ帰れ、と!」
 「国ナンテ、モウナイシー」
 「おまえの仲間は捕らえたぞ、おまえも観念して休昭…」
しばしの間のあと、孔明さまはつづけた。
 「…の、従妹を離せ!」
 「休昭!」
見ると、いつもならば趙子龍将軍の立ってらっしゃる位置、つまりは孔明さまの真横に、なぜだか図々しくも、わが朋友、費文偉が立っている。
 「の従妹! がんばれ! かならず助けるからな!」
 となりにいる孔明さまも大いにうなずき、叫ぶ。あいもかわらず、よく通る声で。
「そのとおりだ、休昭! …の従妹!」
天よ、このありさまをもしご覧になっているのでしたら、あの二人の口を、いますぐ利けないようにしてください。
 宮女たちは、例の宴の最中だったために、みな男装をしているのであるが、地上ではわたしばかりが注目を集めており、しかも暗いために、衛士たちもまさか隣にいるのが、男装した宮女たちだと思っていないようだ。地上の衛士たちは、
 「こんな夜更けに、みな、まだ宮城で仕事をしていたのかな、やけに人が多いな」
 「こんなときでなけりゃ、後宮に入れないから、集まってきたのだろう」
などと、トボけたことをつぶやいている。
わたしはむしろ、彼女たちの役に立っていることに、わずかな慰めを見出しながら、全身に風を受けて、地上を見下ろしていた。こんなときでなければ、鳥のような気分だと、浮かれることさえできたかもしれない。しかし、ぴんぽんぱんが手を離したら、地上へまっさかさま、という状況である。
 「軍師!」
 地上では、宮女たちを代表して、呉夫人が孔明さまのもとへと歩み寄っていく。龐統の女と派手な殴り合いをしたあとに加えて、さきほどの混乱であったから、その姿は見るも無残なものであるが、しかし哀れっぽさは微塵もなく、むしろ、その艶やかさ、堂々たる風格を強調していた。
 「これはこれは、奥方さま。なんという…」
 と孔明さまはお見舞いの言葉をかけようとして、途中で絶句している。
 「なんだか毎日見ているような、じつに馴染みのある格好をなさっているように見受けられますが、わたくしの記憶違いでございましょうか?」
 「記憶違いですわ! それよりも、明鳴さんを、なんとかして差し上げて!」
 「は? わたくしの姉が、なにか?」
 しばしの沈黙。呉夫人は、本人の目の前で、本人そっくりに片方の眉を吊り上げてみせる。
 「この緊急時に、なにをとぼけてらっしゃいますの? 幼宰どのの姪の明鳴さんですわよ!」
孔明さまは、ようやく適当につけたわたしの仮名を思い出したらしく、ぽんと手を打って、大きくうなずいた。
 「ああ、そうですとも、助けなくてはいけませぬ。明鳴。あれは明鳴です…と、いうわけで、文偉、策を練ってくれ」
 「練りようがありませんよ」
と、文偉は薄情にも、あっさり答える。
 「考えもせずに、ありません、などと申すな。それでも休昭…の従妹の親友か?」
その言葉に、傍らの呉夫人が目を輝かす。
 「まあ、このお方は、明鳴さんの許婚の方ですの? それではご心配でしょうね! でもきっと軍師がなんとかして下さいますわ!」
 地上で、なにやら奇妙な人間関係が作り上げられていくなか、わたしはぴんぽんぱんに羽交い絞めにされながら、宙を飛んでいた。
 「おい、これもおまえたちの神のラフとやらの力なのか?」
 「ソノトーリ。スゴイデショ? 誉メテミソ」
 と、ぴんぽんぱんは得意げに胸を張る。
 「ワタシタチニカカレバ、空モ大地モ同ジヨ。アナタタチハ地面バッカリデカワイソウ! モシワタシタチミタイニ空カラノ眺メヲ見ルコトガデキタナラ、地上デバッカリ争イゴトヲシテイルノガ、馬鹿馬鹿シクナルコト請ケ合イネ」
 「たしかにそうかもな…」
 「アナタ、コメサンノ元ニイルヨリ、ワタシタチトキタホウガ、ズット幸セニナレルトオモウヨ。魔術師ハイツデモ大歓迎! 楽シソウデショ? アナタトワタシ、キットイイ夫婦ニナル」
 そうして、わたしは初めて気付いた。
 「おまえ、女なのか? いつから女になった?」
 「生マレタトキカラニ決マッテイルデショ。ボクネンジン」
 「…す、すまぬ」
つい、謝ってしまった。
もしも夜ではなく昼間で、鳥のように、地上を俯瞰することができたなら、たとえそれが邪神の力によるものだとしても、地上で小競り合いを続けているのが、馬鹿らしくなるかもしれない。事実、地上の人々は、ゴマ粒のように小さく見える。
 ゴマ粒の首領…孔明さまがわたしのほうを見ている。
そうして、頭上を遊覧するわたしたちのほうを見て、うめいた。
 「ともかくなんとかしなければ。幼宰殿や子龍にバレる前に!」
 「えっ、お二人は、このことを知らないのですか?」
 文偉の言葉に、孔明さまは、当然だろう、というふうに顔を向ける。
 「あの二人に知れたら、止められるに決まっているからな。内密に行ったのだが…なぜだろう。あの二人が噛まない策略は、いつも破綻するのだ」
 「それって…それだけお二人の尻拭い能力が高い、ということでは?」
 「尻拭いではない。それだけ二人が、わたしの策を理解し、想像するままに実行する能力がある、ということなのだ。やはり、そなたたちではまだまだか」
 「勝手なことを…やはり、策は軍師が練ってください。わたしは知りません」
 「薄情だな、文偉は。見ろ、あの休昭…の従妹の気の毒なこと。いまにも気絶しそうな心地に相違あるまい。矢を射掛けて打ち落とす、という手もあるが、そうなると、もろともに休昭…の従妹も落ちてしまうし」
 「蛍のように甘露でおびき寄せる、というのはどうです? だいたい、あの妖怪は、何者なのですか?」
 「そうか、甘露だ! 文偉、いますぐ怪我をしてみてくれ!」
 「は?」
 気の毒な文偉は、孔明さまの突然の言葉に、ぽかんと口をあけている。孔明さまはというと、傍らから、懐剣を取り出して、事情の飲み込めていない文偉の咽喉元に、抜き放った刃を向けた。
 「ぎゃあ! 人殺し!」
 「軍師、なにをなさいますの!」
 「比翻環! 食事をくれてやろう! 新鮮な食事だぞ! その代わり、休昭…の従妹を離せ!」
 「助けてー!」
 どっちが邪神かわからなくなってきた。めったなことでは動じない文偉が、本気で怯えている。それだけ、軍師も本気ということなのだろう。それをみて、ぴんぽんぱんがあきれてつぶやく。
 「コメサン、ザンコク」
 「残酷には違いないが、頼む、ぴんぽんぱん、離してくれ! あの男は、わたしの親友なのだ! 親友を見捨てることなどできぬ」
 「ムチャクチャヨ。ダッテ、アナタヲ離シタラ、食事ヲクレルッテ言ッテルノニ、アナタガ悲シムカラ、ワタシハ食事ヲ食ベラレナイ。デモ、アナタヲ離シタラ、アナタハワタシト一緒ニ北ヘイッテクレナイ」
 「何故にわたしなのだ? おまえはわたしを魔術師だと勘違いしているようだが、あれはちがう。孔明さまが作られた、特殊な狼煙だ。わたしの力ではないのだぞ」
 「ンー、ソレハイイノヨ。ワタシハアナタヲ気ニ入ッタダケ」
 「世間は広い。世には、もっとよい男がたくさんいるぞ」
 「カモシレナイ。デモ、ぴんトキタノヨネ、アナタイイヒト。ワタシタチ憎ム人、イッパイイルケド、アナタハ嫌ウダケダッタ」
 「悲しい基準だな。嫌うだけ、などではなく、好いてくれる人を選ぶといい」
ぴんぽんぱんは、悲しそうに顔を歪ませる。ここまでくると、情が移る、というものだ。わたしは言った。
 「先ほど、おまえは、ラフと同じように、長生きできる身体になった、と言ったな? ならば、きっとわたしたちより、時の流れを早く感じるようになっているのかもしれない。おまえも知っているとおり、この世は乱世だ。わたしは董幼宰の息子として、この国で、やらねばならないことがある。もし、わたしたちが志を貫いて、中華に平和を取り戻すことができて、そしておまえがまだわたしを忘れていなかったら、わたしを迎えに来る、というのはどうだ?」
 「ソレ、気ガ長イ話」
 「わたしの長所は、人とした約束は、けして違えない、ということだ。わたしを信頼してくれないか」
 「モシコノ国ガ平和ニナッタラ、ワタシハ約束ヲ果タシニクルヨ。本当ダヨ」
 「構わぬ。父から続く董家の宿願を果たせたあとに、仙人のように空を飛んで異国へいける、など、最高ではないか」
おのれが助かるためではなく、友を助けるためでもなく、そのとき、わたしは本当にそう思った。ぴんぽんぱんは、たしかに血を吸ったり空を飛んだり、見かけが黒すぎたりするが、悪人ではない。
 「ホントーネ?」
 「約束しよう」
 「ソレジャア、ワカッタヨ」
と、言って、ぴんぽんぱんは、ゆるゆると地上へわたしを下ろしてくれた。それっ、と号令とともに、衛士たちが集まってきたが、わたしはその前に、身体を張って、ぴんぽんぱんに、衛士の手がかかることを防いだ。ぴんぽんぱんは、ふたたび、たった一人で蝙蝠の羽根を闇夜に羽ばたかせつつ、空を飛びながら、言った。
 「約束ヨ! コノ国ガ平和ニナッタラ、キット迎エニ来ルカラネ!」
 「わかっている。それまで、北ではなく、西へ行くのだ! 西には、もしかしたら、おまえたちの安寧の土地があるかもしれない。おまえが再びわたしの元にあらわれて、おまえたちの築いた平和な王国に導いてくれることを待っている!」
 「ワカッタヨ。楽シミニ待ッテテネ! ソレマデ、サヨーナラ」
 ぴんぽんぱんの別れの言葉を合図に、衛士たちに捕まっていた黒猿団の仲間たちも、つぎつぎと背中の羽を広げて、宙へと飛んでいった。

 その後、結局、コトの次第は父上の知るところとなり、父上から趙将軍へ話が行き、孔明さまは、お二人からずいぶん叱られたらしい。
趙将軍は、もし自分や父上が現役から退いたあと、孔明さまを止めたり諌めたりすることができる人間がいるのだろうかとぼやいておられたそうだ。
 後宮での奇態な宴については、その後、一切、表に出ることがなかった。
どうやら、呉夫人と孔明さまとのあいだで、紳士(?)協定が為されたようだ。
呉夫人は、わたしのことをいまだに『文偉の許婚の董明鳴』と勘違いしているらしく、そのせいで、文偉が宮女のだれかとよい仲になれる可能性は低くなった。
今回、もっとも割に合わない目にあったのは、おそらく文偉だろう。咽喉に刃をつきつけられていたあいだは、生きた心地がしなかった、と嘆いていた。
孔明さまは、迫真の演技だっただろう、と笑っていたそうだが、文偉のほうは、あれは本当に斬る気だった、だからあのひとにかかわると、ろくなことにならない、と本気で怒っていた。
 父上と趙将軍に叱られたにもかかわらず、孔明さまはご機嫌であった。
 「そなたは実によくやってくれた。頭の痛い懸案を、一気に三つも片づけてくれたのだからな」
と、白皙のお顔に、にこにこと満面の笑みを浮かべて、おっしゃる。
 「まず、後宮のこと。これについては、もうよい。他国になんらかかわりがないことが証明されたのだからな。二番目は、比翻環たちのこと。捕らえて見たのはよいものの、その後の処遇に困っておったのだ。まさか、そなたの言葉で、あれがあんなにあっさりと西へ行ってくれるとは思わなかったな」
 「殺してしまおうとは思わなかったので?」
 すると、孔明さまは、意外そうに眉を吊り上げた。
 「わたしが、そのような恐ろしい男に見えるか? たしかに我らとは相容れない神を崇め、血を吸うという悪習を持っているが、彼らは独自の歴史と文化を持つ、地上にあまたある民族のうちのひとつなのだ。彼らが大地で営々と紡いできた歴史を、諸葛孔明というただの平凡な男が、消してしまってよい理由はない」
 「諸葛孔明という名前には、平凡という形容がもっとも似合いませぬ」
 孔明さまは、めずらしく、声を立てて笑うと、わたしの頭を、子どもにするように、ぐりぐりと撫でた。
 「たくましくなったな、休昭。おまえは公琰や文偉に比べると、少々、引っ込み思案であったから、心配していたのだよ。わたしに実子はないが、もしいるとしたら、こんなふうに成長がうれしいものなのかな。幼宰殿が、そなたを可愛がる気持ちがわかった気がするぞ」
 「はあ」
 まだ四十すこし前の軍師は、そんなことを言って目を細めた。年齢的には問題ないだろうが、父と呼ぶには若すぎる容姿だ。
 「ま、ともかくこれでタイ族との盟約も守れる。安心してイ族への対策に向かうことができるな」
 「ぴんぽんぱんたちを捕らえたのは、タイ族と契約していたからなのですか?」
 「そのとおりだ。わが蜀は、つねに四方を蛮族に囲まれている。特に隙あらばと、騒ぎを起こすのはイ族だ。よく知っているとおり、わが国が乱れてから、蛮族は、かつての領土の回復を狙ったり、あるいは機に乗じ、独立しようと狙ったりしている。中でもタイ族は、イ族に追われて南へ下り、そこで王国を作ろうとしているのだ。つまり、敵の敵は味方の論理だ。イ族を牽制するためには、イ族の後方に位置するタイ族と手を組むのがいちばんよい。それに、わが国の国力からしても、タイ族の王国にまで覇権を伸ばすのはむずかしいからな。そこで、盟約を組むことになったのだが、その条件のひとつが、ラフ族の中でも特別な、比翻環たちを捕らえて、二度と南の地を踏ませない、ということだったのだよ」
 「彼らは自分たちの神をラフ、と呼んでおりました。どのような神であったのでしょう?」
 「さあて、わたしも蛮族の神話には詳しくないが、日食や月食を引き起こす、おそろしい神だということになっているらしいな。とはいえ、比翻環たちは、あまり恐ろしくなかったな。野盗や外敵のほうが、よほど恐ろしいよ。それにしても、ずいぶんむずかしい約束をしたではないか。もし、本当に比翻環が迎えにきたら、どうするつもりだ?」
 「実のところ、考えておりませぬ」
 孔明さまは、また声を立てて笑った。わたしは、以前は、この方が怖くてたまらなかったのだが、いまはさほどではない。こうして声をたてて笑っているところを見ると、厳めしいのはあくまで公的な顔で、本当は、もっと人好きのする、くだけたお方なのではないかと思った。
 「まあ、そのときはそのときに考えるといい。この国に平和が戻ったら…か。そなたが比翻環に連れ去られるところを、わたしも生きてこの目で見てみたいものだ」

 もしも、あのとき、国に平和が、などという条件をつけずに、すぐにぴんぽんぱんたちに付いて言っていたら、どうなっていただろうと、ときどき思う。
わたしは西の大地の砂漠も、海というものも見たことがない。ぴんぽんぱんの翼に乗って、共に西に行っていたら、わたしのこの双眸は、まったく違う光景を眺めることになっていたのだろうか。
 しかしいまは、相変わらずの成都を眺め、そして親友と、父に囲まれ、暮らしている。
心のどこかで、ぴんぽんぱんとの再会を、すこしだけ期待しながら。



 直後に、孔明の「ひみつの人員名簿」の『即戦力』の欄のトップに、おのれの名前が書き足されたことを、休昭はまだ知らない…

更新履歴へ戻る
MAPへ戻る