飛鏡、天に輝く
序
ぐらりと船がかしいだために、寝台にいた趙雲も大きく放り出されるかたちとなり、気づけば床のうえで天井をながめていた。
大将、だいじょうぶか、と揶揄をふくんだ声がかかるも、趙雲は無視して、沈黙のまま起き上がる。
とたん、胸の傷がはげしく痛み、呼吸が詰まる。
痛みのつよさのあまり、このまま呼吸ができなくなるのでは、と恐怖におそわれたが、混乱に陥りそうになるおのれを、趙雲は必死におさえた。
いま、周囲にいる男たちは、とりあえずは味方ではあるが、気を許してよい相手ではない。
こちらに隙があるところを、なるべく見せたくなかったのだ。
だが、あぶら汗が額から流れるのを止めることはできない。
それを見た、同室の男たちが、聞き取りづらい訛りのつよいことばで囃したてる。
どうやら、船酔いをしたものと勘ちがいしたようだ。
趙雲からすれば、屋内とはいえ、人前で恥ずかしげもなく平気で肌をさらしている男たち。
その肌には、さまざまな幾何学模様の刺青が彫られていた。
異国の風貌をそなえた男たちの、うっすらと肌に汗のにじませた男たちからは、独特の香料のにおいがする。
そうだ、こいつらのにおいに慣れなくて、寝ていたのだったと、苦しいなか、思い出し、趙雲は立ち上がると、自分が必死で痛みを堪えていることを気づかれないように、慎重に足を進めて、部屋を出る。
そうして、部屋を出てしばらく行ったところで、まわりにだれもいないことをたしかめてから、その場の壁にもたれて、しゃがみこみ、はじめて苦しみをじっくりと堪能する。
どうやら、放り出されたときに、胸の傷を床に打ちつけてしまったらしい。
とことんついていない。
痛みをまぎらわせるために見上げれば、まだ空は高く、太陽はぎらぎらと照っている。
風があるものの、夏の暑さは変わらない。
揺れる紺碧の波間のうえを、白いつばさをひろげて水鳥たちが飛んでいく。
水鳥が悠然と空をいく下では、船をこぐ男たちの掛け声が、風に乗って聞こえてくる。
どうやら、さきほど大きく船がかしいだのは、なにか問題があったかららしく、痛みをこらえている趙雲の耳に、どこかから、高い調子で、船頭が部下の水夫たちをしかりつけている声が聞こえてきた。
船とは、にぎやかなものだな、と趙雲は思う。
魯粛を船団長にすえた一団は、孔明と趙雲を乗せて、いまは周公瑾が全軍を束ねている柴桑に向かっている。
孔明の目的は、劉備軍と孫権軍の同盟を成立させ、両者によって、南方制圧をもくろむ曹操を妥当することである。
しかし迎える周公瑾および、魯粛のほうは思惑が微妙にちがっていて、曹操を直に知る劉備たちの協力がほしいが、しかしそれだけではなく、おなじく孫権に仕えている諸葛瑾の実弟である孔明に、呉に仕えてほしいから迎えにやってきたという。
孔明が樊城において果たした役割は公になっていないから、おそらくは司馬徳操の私塾にいたときの評判と、他を圧倒する存在感のつよさと容姿のよさを買われてのことなのであるが、孔明本人はこれにつよく反発し、あくまで自身の目的は、孫権と劉備の同盟にあると言い切っている。
趙雲はそれに随行する形で、いっしょに船に乗り込んだのだ。
痛みに耐えながら、趙雲は気をまぎらせるために、思い出していた。
船。
そうだ、公孫瓚のもとでは、船に乗る機会は、そうそうなかった。
公孫瓚のもとを去ってから、実家にはわずかにしか滞在せず、その後、あてもなく、数年にわたる放浪生活をした。
その旅のあいだに、移動の手段として船に乗ったことならある。
けれど、そのときに乗ったのは、もっと小さな商船か、あるいは渡し船であった。
水上の生活に入ってから、すでに三日が経過している。
魯粛の日程どおりであれば、明日には揚州に入るだろう。
深く息をする。
だれも気にしなくてよいという安堵も手伝ってか、呼吸がもとにもどってきて、ようやく痛みも引いてきた。
荒く呼吸をくりかえしながら、さらに痛みがちいさくなるのを待っていると、ふと、ほそい影が甲板に伸びているのに気がついた。
見たことのある影である。
痛みをおさえながら、首をあげて覗き見れば、伸びた影のもち主である孔明が、甲板にて、絶え間なく変化する紺碧の波のうえ、風を切って小気味よく飛んでいく水鳥たちを、じっとながめているのであった。
水鳥が高く空をめざせば、孔明の目線も上に、水鳥が波間に見えた魚の銀鱗をとらえて下降してきたなら、その目線も下に。
退屈しているのか、それともなにか考え事をしているのか。
どちらにしろ、見ていて飽きないやつだと、趙雲は思う。
寝台から放りだされるまえに、夢を見ていた。
それは、ほかの出自のあやしい傭兵たちとおなじ部屋で過ごして、さまざまな地方のことばが入り混じる会話を聞いて、公孫瓚のもとにいたときのことを思い出しながら眠りについたからかもしれない。
あそこも、東西南北、さまざま地方からあつめられた者がいて、漢族ばかりではなく、異民族もたくさんいた。
あまり愉快な記憶はないし、郷愁にとらわれるほどのこだわりもないので、ふだんなら思い出しもしない。
だが、異国のことばのいりまじったことばは、意味が聞き取れないだけに、ひっきりなしに聞こえてくる波の音とまざって、それ自体が音楽のように聞こえ、それが刺激となって、よけいにさまざまな記憶がよみがえってきたのだ。
おそらく、そうした記憶のひとつが、夢を見せたのだろう。
公孫瓚のもとから出奔し、その後、常山真定の実家に帰ったときの夢だ。
食卓を囲んで、兄弟が食事をしている。
大きな卓をかこんで、もくもくと食事を口にする兄弟たちの顔かたちは、みんな同じだ。
それというのも、趙雲は、自分の兄弟が正確には何人なのか、知らなかった。
父親はたいそうな色好みで、あちこちに子どもを作っていたからだ。
いちおうは、趙雲が末子だということになっているが、ほんとうのところは、どうだかわからない。
しかも、さして裕福というわけでもないのに、父もそのあとを継いだ長兄も、人の面倒を見るのが好きで、よく親族を長く屋敷に留めていた。
そうした者たちの子どもだの孫だのが混ざってしまえば、ますますわからない。
なんとなく一族だということがわかればいいと、趙雲も積極的に知ろうとしなかったし、長兄をはじめとして、ほかの兄弟や一族も、前線で武将として活躍していた趙雲の、まだ身に残る猛々しさをおそれて、近づいてこなかった。
そんななか、夢のなかで、もくもくと兄弟たちが食事をしていると、突如として長兄が言い出すのである。
『このなかに、わが一族ではない者がまぎれている』
もちろん、唐突ではあるが、不穏な宣言に、みな、食事どころではなくなる。
おたがいに、自分は一族だ、おまえもそうだ、と確認しあうのであるが、趙雲だけが、ひたすら沈黙を守っている。
なぜなら、確認しあえる相手がいないからである。
趙雲とほかの兄弟たちは、みな母親がちがっていて、成長するまで、ほかの兄弟たちと親密にしたことはない。
ただ、ひとり、自分に容姿の似ていた次兄とは、ほんのわずかなあいだだけ、親しくすることができたが、その次兄も、戦乱にみずから身を投じ、それきり行方が知れなくなっている。
不安そうに互いを励ましたり、憶測を述べたりしている兄弟たちをまえにして沈黙する趙雲であるが、しかし、じつは、長兄の奇妙な問いの答えは、自分であるということを、趙雲は知っていた。
教えられたわけではないが、まちがいないという確信がある。
なぜならば、長兄と趙雲は、その晩餐のまえに、はげしく口論を交わしていたからだ。
長兄の、家長であることを盾にした、特に女たちにたいする傍若無人な振る舞いが、ゆるせず、意見したことから口論になったのである。
しかし、長兄は長兄で、さして後ろ盾もなく、さほど身分の高い母親から生まれた趙雲を、親代わりに育てたのは自分だという自負があるから、反抗してきた末子が許せないようであった。
おまえは父をないがしろにし、勝手に家を飛び出したことを忘れている。
公孫瓚のもとで多少は名を挙げたようだが、世間のだれもが知るほどの大きな功績は上げられていない。
どころか、おまえは主君と定めた男が、君主の器ではないという理由をつけて、逃げ戻ってきた。
わたしは、こんな結果になるだろうとわかっていた。
血のつながっている兄弟たちとさえ、うまくやれないおまえが、よそで他人とうまくやれるはずがない。
おまえのやることなすことは、すべて半端に終わるのだ。
長兄の冷たいことばは、まさにこの場で証明されていた。
ざわつく晩餐の席のなか、だれとも会話をかわしていないのは趙雲だけである。
そうして、ほかの兄弟たちも、沈黙をつづけている趙雲の存在に気づいたようだ。
ひとりだけ、わが一族の血を引きながらも、まるで馴染んでいないものがいるようだ、と。
痛い視線をあつめながら、趙雲は息を吸い、そして口をひらいたのであるが、そこで、突然に夢が途切れた。
船がかしいだのである。
思い出してよく考えてみれば、いやな夢だ。
内容が不愉快だ、というよりも、現実にあったことを鮮明にくりかえし、わざわざ見せるいやらしさもそうであるし、多少、事実とは変わっているかもしれないが、長兄の言ったことは、たしかにそういったことだった、ということが不快である。
もし夢を司る精霊なるものがいるのなら、そいつを締め上げたい気分だ。
血のつながった兄弟たちとさえ、うまくやれていない。
事実であった。
それなのに、他人とうまくやれるものか。
それも事実であった。
そういえば、むかし、主公に人形のようだと言われたことがあったと、趙雲は思い出していた。
ずいぶん最近になって、ひどいことを言っちまったと劉備はあやまってきたのであるが、人形のようだといわれた意味も、そしてそれを『ひどかった』と感じて謝られる意味も、そのときの趙雲にはわからなかった。
が、いまならわかる。
たしかに主公はひどい。
無邪気であるからよけいにひどい。
当たっているから、なおさらにひどい。
情がうすいやつだとは、よく言われる。
そうした淡白さが、濃い付き合いを好む張飛や糜芳たちから、距離を置かれている原因なのだということもわかっている。
それでも、これが自分という人間であり、無理をすれば浮き上がってしまうことはわかっていた(じつは実証済みである)。
孤独であることは、自分にとっては好ましいことで、寂しいだの、心細いだのといった感情とは無縁である。
なににこだわることもなく、ただおのれの良心が正しいと思う行動のみをする。
しかし、さて、その良心なるものは、いったいどこから出てきたものかと問われたら、趙雲は生まれ持ったものだといままで答えていたが、ほんとうにそうだろうかと、最近では疑いだしている。
じつはそうではなくて、良心に従ってというよりも、単にしたいことを、ただしていただけではなかったか。
そうして、樊城での事件や、長坂での甘夫人のできごとなどを経て、趙雲は自分のことを考えるようになってきたのであるが、しかし深く自分について考えれば考えるほどに、恐ろしくなってきた。
というのも、容赦のない現実は、趙子龍という男に、じつは何もない、ということをはっきり見せてきたからである。
まず、夢のなかの長兄のことばのとおり、これといった功績がない。
公孫瓚のことを知っている人間ならば、多少は名前を知っている程度で、ひろい範囲でみたなら、知名度は関羽や張飛にはるかにおよばない。
そして、人脈もない。
放浪生活のなかでは、むしろ狼のように、人から遠ざかることを目的に旅をしていた。
そして、その習慣は、劉備に仕えるようになってからも抜けず、七年間のあいだに、これからの足がかりになりうるような人脈をつくってこなかった。
さらに、家族もなければ、財産もない。
唯一あると言えるのは武芸の才能くらいのものであるが、これとて弓では糜芳に負けるし、矛などの長ものの扱いになると、張飛には負ける。
趙雲の脳裏には、長坂において、まさに鬼神のごときはたらきを見せていた張飛の姿がある。
あれこそが、ほんものの天才、そして将の姿だ。民を守り、鼓舞する者。
ああいった男のために、兵卒は命を賭けて、戦場を駆けるのだ。
唯一のとりえとも言うべきものも、張飛や糜芳に負けるとなると、ますますもって、自分に何が残っているというのか。
せいぜいが、士大夫として、ある程度の教育は受けているから、こういう使者の随行にはうってつけだというところか。
とはいえ、容姿にしたって、そう抜きんでているとは思えない(と、趙雲は控えめなのではなく、本気でそう思っている)。
俺になにかあるのだろうか。
そんなふうに考えてばかりいるうち、だんだん気持ちが塞いできた。
こういうときは、面白いものを見るにかぎる。
痛みの治まりつつある胸をおさえながら、趙雲は、飽きずに水鳥をながめている孔明の横顔を見つめた。
孔明のほうは、趙雲に気がついていないようである。
まるでどこかの絵師が、気迫のこもった筆でもって、一気にかきあげたような、みごとな輪郭をもつ横顔である。
孔明の気むずかしさのまさる性格に関しては、いろいろと意見もあるが、容姿に関しては、誉めことばしか浮かばない。
そういった意味では、趙雲にとって孔明は、その身に、好ましく思えるものをすべて集めたような青年であった。
五つ年下。二十八。
若いな、と思う。
そして、今日も、船にはむさくるしい連中しか乗っていないというのに、孔明は流行の、美麗な色彩の服を身にまとっていた。
趙雲は、魯粛の部下たちとおなじ大部屋で寝泊りをしていたが、孔明はひとりだけ、賓客待遇をあたえられて、魯粛と部屋を共有していた。
といっても、魯粛は船団の指揮にいそがしく、夜でも動き回ることがあるから、部屋には、ほとんど孔明ひとりしかいないようである。
そして人見知りのはげしい孔明は、部屋に魯粛がもどってくると、自分は外にでて、こうして暇をつぶしているのだ。
「あなたには、ほんとうにふしぎな癖がある。どうしてそんなふうに、わたしを見るのだろう」
と、孔明は、水鳥から目を離さないまま、口にした。
見られていることに気づいていたのかと、気まずく思い、立ち上がろうとした趙雲であるが、思った以上に痛みがつよく、思わずうめき声をあげて、また床にへたってしまった。
趙雲のうめき声を聞いて、はじめて孔明は顔を向けて、そばによって来た。
「どうした、またどこか打ったのか」
「さっき船がかしいだときに、床に放りなげられた」
趙雲が答えると、孔明はあきれた顔をして、近づいてきた。
「水夫たちが、みなで柱につかまれと叫んでいたのに、聞こえなかったのか」
「寝ていた」
「ああ、それならば仕方ないな。しかし、よほど疲れていたのだろう」
「なぜわかる」
「自分で、武人は眠りが浅いから、すこしでも周囲に変化があったら、目がさめると言っていたではないか。
となると、船がかしいだ原因も見ていないな」
「なにかあったのか」
「うむ、大亀が泳いでいたらしい」
思いもかけないことばに、趙雲は思わず口にした。
「なんだ、それは」
それは孔明も思っていたことらしく、肩をすくめて答えた。
「水夫によれば、このあたりには、このあたりを治める神がいて、それが大亀の姿をしているというのだな。
で、これの針路を邪魔すると、わざわいが起こると信じられているというのだ。
それで、水夫たちの一部が、あわてて針路を変えようとしたのであるが、そんなことができるかという者もいて、舵が混乱し、船がかしいだ。
魯子敬がさきほど、みなをあつめて、いちいち大亀ごときで騒ぎ立てるなと怒鳴っていたよ。
すこし気の毒だったな。だって、信じているものは仕方ないではないか」
趙雲は、さきほど、どこからか聞こえてきた怒りの声は、魯粛の代わりに、船頭が、まだ水夫を叱っている声であったのだと知った。
「さっそく大亀のたたりがはじまっているのではないか。俺は息が止まりかけたし」
趙雲がいうと、それまでどこかのん気な表情をしていた孔明であるが、とたんに真摯な顔になり、その真正面に屈みこんできた。
そうして、覗き込むように、顔を近づけてくる。
「いまは大丈夫なのか。苦しいのに、わたしに合わせているのではなかろうな」
その息がかかるほどに近すぎるところにある、真剣そのものの表情に気圧され、うろたえて趙雲は答える。
「息が止まっていたら、会話はできないだろう。落ち着いている」
「ああ、そうか、そうだな。よかった」
と、孔明は安堵すると、すこしだけ身を離したが、立ち上がらず、そのまま隣に腰掛けた。
おや、なにか話したいことがあるのだな、と趙雲は見当をつけた。
ふしぎなもので、この青年と出会ってから、まだ数ヶ月にしかならないのであるが、相手がなにを感じ、なにを求めているのか、ことばに頼らなくても、だいたいはわかるようになっていた。
これを気が合う、というのだろうか。
趙雲にとっては、これほど『わかりやすい』相手と行動をともにするのは、初めてのことである。
だが、おかしなことに、趙雲以外の人間は、孔明のことを、『こんなにわかりづらいやつは初めてだ』と敬遠するのであった。
「柴桑には、兄もいるそうだ」
と、孔明は唐突に口をひらいた。
その目は趙雲のほうではなく、さきほどまで熱心に見ていた海鳥のほうを向いている。
うわの空なのではなく、どうやら自身の内面について語ることに照れており、わざと素っ気なく振る舞っているようである(そういうことも読めるようになっていた)。
「兄君というと、諸葛子瑜どのであったな」
「うむ、ところで、あなたにも兄弟がいると聞いたが」
孔明の問いに、まあな、と短く答えながら、なにやら、さきほどの夢は、この問いの先触れであったのではないかと、奇妙な空想を趙雲は思い浮かべて、すぐに打ち消した。
偶然だ。
「たくさん兄弟がいるのだったな。そのなかに、どうしても反りの合わない兄弟はいなかっただろうか」
全員、と心の中で答えたが、それではあまりに自分が気の毒に思えたので、趙雲はあいまいに、そうだな、とだけ答えた。
「その兄弟と、ほとんど音信不通であると想像してくれ。で、その兄弟と数年ぶりに会うことになった。
当然、気まずいな。あなたであれば、なんと声をかける」
「まずは『お久しぶりでございます』かな」
「うむ、そのつづきはどうする」
「相手の出方を待つ」
「では仮に、『元気そうでなによりだ』といわれた。となると、『兄上もお元気でなによりでございます』と、わたしは答える。
で、その次はどうする」
「つぎ?」
鸚鵡返しにすると、水鳥のほうを見ていた孔明は、ここで趙雲のほうに顔を戻して、うなずいた。
「こんなことは初めてで困っている。つぎに何を言うべきか、まったく頭に浮かんでこないのだ」
「その場になったら、自然と思いつくものではないか。たとえば、無難なところで天気のこととか、これまでの旅程での身体の調子のこととか、おまえの兄君の着ている衣のこととか」
「兄の衣は見なくても想像がつく。ほんとうにわたしの兄だろうか、というほどに、衣を選ぶ趣味がわるいのだ。
きっと見たら、びっくりするぞ」
と、孔明は憎まれ口をたたく。
ときどき、この青年軍師は、とても幼稚になるのだ。
「兄君は、魯子敬と親交があるということだったな。となれば、当然、その思惑も承知しているだろう。
そのことについて、魯子敬がなにもふれていないということは、つまり、おまえの兄君も、おまえが孫家の家臣になることをのぞんでいる、ということだ」
「迷惑な。わたしの意志はどうなる」
「こう考えろ。俺たちは主公に仕えて、これになんら不満がない。むしろ、ほかの家に仕えている連中も、主公に仕えさえたい気分だ。
同じように、おまえの兄君も思っているのだ。悪意ではなく、善意なのだろう」
「そうだろうか。けれど、叔父上のことは見捨てたのに、なぜいまになって」
不満そうにこぼす孔明の顔に、翳が落ちる。
暗殺された叔父の話になると、孔明の表情は、きまって暗くなるのだ。
そうして、孔明はしばらく床に目を落とし、口を閉ざしていたが、やがて、なにかを思いついたらしく、ぱっと顔をあげて、言った。
「そうだ、兄と口を利かない、というのはどうだ。そうすることで、『わたしは、公私混同はしません、孫家には下りません』と宣言するのだよ」
「莫迦」
「莫迦かな」
「ああ、莫迦だ。そんなことをしてみろ。一部には公平な人間だと評価されるだろうが、ごくごくふつうの、大多数からは、礼節を知らぬ田舎者と蔑まされるだろうよ。
私的に会わないというのならともかく、口を利かないなど、莫迦のすることだ」
「だめか」
と、孔明は、子供のようにしょげてみせる。
「なんだ、なんだ、妙に暗いな。いつものおまえらしくないな」
と、言ってから、なにやらこいつのことにかけては、何でも知っているというような口ぶりだなと思い、すこし気まずくなった趙雲であるが、孔明のほうにはいい印象を与えたらしく、それまで気むずかしく引き結ばれていた口に、すこし笑みが浮かんだ。
「そうだろうか。わたしらしくないか。いや、すこし、そうかな、とは思っていたのだが」
「だったら、直せ。発想が暗い。俺はおまえの家の人間じゃないから、勝手なことを言っているように聞こえるかもしれないが、これだけは言えるぞ。
おまえが兄君のことについてこだわって、妙な行動をするなら、それも公私混同だ。
相手はまぎれもない、孫家の家臣、そしておまえは劉玄徳の軍師、あくまで私情を殺して、冷静に対処しなくてはならぬ」
「うん、そうだな。これも公私混同になるな」
いつになく素直に、孔明は趙雲の意見に賛同し、うなずく。
どうやら、孔明の心のなかでは、同盟のことと同じくらいの大きさで、実兄のことが障壁になっていたらしい。
やれやれ、俺も、いつもの俺らしくないな、と思いながら、趙雲はつづけた。
「おまえが叔父君のことについて、こだわる気持ちはわかる。わかっていて、あえて言うが、もう十年以上経っているのだろう。
そのあいだに、兄君とて考えがいろいろ変わって、いまはすまなかったと思っているかもしれないし、それをうまく伝えられないで、困っているのかもしれない。
すくなくとも、そうかもしれないと思いやる気持ちは持っておけ」
「思いやり」
意外なことばに、孔明はおどろいて、まじまじと趙雲を見てくる。
俺とて、こんな言葉が自分の口から出てくることにおどろいているのだと、心の中で言いながらも、さらに趙雲はつづけた。
「期待ではないぞ。思いやりだ。期待はうらぎられると恨みに転じるが、思いやりはうらぎられても、それは同情に転じる。
思いやりをもてるのは、余裕のある人間だけだ。
おまえは、まずは劉玄徳の軍師として、兄君よりも、魯子敬よりも、そして孫将軍よりも、余裕のある人間にならなくてはならぬ。
おそらく、柴桑では、歓迎されるばかりではなく、不快な目にもあうだろう。目に見えることなら、俺が庇ってやるから、そこはいっさい心配するな。
おまえは、おまえの心がいじけて、萎縮しないようにだけ気をつけていればよい」
「自分のことだけを考えていろと? 段取りだのなんだのは、考えなくてもいいのか」
「それは自然とこなせるだろう、天才軍師」
冗談めかして言うと、さきほどまで強ばった笑みしか浮かべられなかった孔明の顔に、機嫌がよいときの、明るい笑顔が浮かんだ。
「そうだな。天才は心配しなくてもよいのだった。うむ、力が沸いてきた」
と、そこで孔明はことばを切って、笑みを引っ込めると、趙雲に、まっすぐ視線を向けてきた。
「あらためてありがとう、子龍。やはり、あなたについてきてもらって正解だった」
「やめろ、礼など」
照れくさがって趙雲がいやがると、孔明は声をたてて笑った。
「これは、いつものわたしの、大事なことは言える時に言っておくという癖だよ。癖が出てきたということは、平静になってきたということではないかな。
さあ、よい風が吹いてきた気がするぞ。子龍、同盟は成功する。そして、二人で思い切り大きな顔をして、主公のもとに戻れるぞ。
これはきっと、公にできるわたしたちふたりの大手柄となるであろうな」
そうして孔明は、屈託なく声をたてて楽しそうに笑うのであるが、趙雲は、それに合わせながらも、一方で、大事なことを思い出していた。
趙雲を孔明に随行させると決めた劉備は、孔明には内緒で、こんな命令を、趙雲につたえていた。
『万が一、孔明が孫家に仕えたいとのぞんだら、おまえはそれを止めず、孔明の思うとおりにさせてやれ』
こいつは大丈夫だ、ぜったいに裏切らない、と思う一方で、自分にはわからない血の濃さというものが、この確信を裏切るのではないかという不安もある。
と、同時に、孔明がもしも江東に残ると言い出したとき、俺ははたして平静でいられるだろうかと、趙雲は不穏な気持ちで考えた。