飛鏡、天に輝く
最終回
祭壇から逃れた孔明は、趙雲や偉度とともに、張昭の庵のそばの漁村へと走って逃げた。
甘寧の兵卒たちが追いかけてくる気配はいまのところないが、しかし、いつ追いかけてこられてもおかしくはない。
これまで何度と無理難題を吹っかけて、執拗に自分を殺そうとしていた周瑜が、この程度であきらめるとは思えなかった。
当初は、誰も見えない場所まで来ると、おのおので走っていたが、途中で、足の遅い孔明のために、趙雲が手を引いて走りだした。
引っ張られるようにして走りながら、孔明はひたすら村へと到着した。
村に到着すると、すでに漁村のそばの波打ち際には、立派とはいえないが、逃げるには十分な船が用意されており、船出の準備を、偉度の兄弟たちがけんめいに進めているのが見えた。
そして岸辺には、村人たちが総出で孔明を送り出すために立っていた。
村人たちのなかには、家令夫婦の姿もあった。
孔明の姿を見て、涙ぐんでいる。
夕闇のなかで自分を見送る人々の、その屈託のない笑顔の数々を見て、孔明にも、さすがにこみあげてくるものがあった。
感極まって、喉が詰まったようになり、なにも言えなくなってしまった孔明のまえに、漁村の村長が進みでて、孔明の手をとって、両手で包み込んだ。
「どうかお元気で、軍師様、おそらくもうお会いすることはないでしょうが、わたくしどもは、みな、軍師様を忘れることはございませぬ」
村長のことばに、村人たちは、そうだそうだ、とうなずいている。
答えねばなるまい。
孔明は、泣きたくなるのをぐっとこらえて、口を開いた。
「どうもありがとう。あなた方には最後まで助けられる。
しかしこうすることで、あなた方に累が及ぶことがないか、それだけが心配だ。
もし咎がくるようなことがあれば、かならずこの孔明に知らせてくれ。
あなた方に救われた命だ。あなた方のために、いつでも捨てに来る」
孔明が言うと、村長は嬉しそうに破顔しながら、首を横に振った。
「いいえ、われらこそ、貴方様にどれだけ救われたことでございましょう。
脱走兵に村を焼かれたとき、助けてくださったのは、貴方様でございました。
焼けた村を再建する手伝いをしてくださったのも、貴方様でございました。
仕事のないわたしらに仕事をくださったのも、わたくしどもに、ほかの漁村の人間では、なかなか体験できないような愉快な冒険をさせてくださったのも、みな、貴方様でございます。
貴方様はわれらの命の恩人でございます。ですからお助けするのです。
どうぞわれらのことはお気になさらずに。
われら弱者には弱者の、それなりの知恵というものがございます。
さあ、どうかお行きくだされ。われらはきっと、ずっと一生、軍師さまのお姿を忘れないことでしょうな。
みんな、貴方様がとても好きでございました」
「ありがとう」
涙とともに声を押し出した。
おのれを包む手を、さらに片手で包んで、孔明は、深々と頭を下げた。
叔父を、そして少年だった自分の命を狙って、襲い掛かってきたのは揚州の民であった。
いま、ここでこうして、自分の命を助けてくれるのも、揚州の民である。
もう民を恐ろしいと思うことはないだろう。
かれらには等しく心があり、そしてこちらが尽くせば、答えてくれる。
もしかしかすると、いま見ている民の姿も、一面的なものなのかもしれない。
それでもかまわない。残酷なばかりが世の中ではないのだ。
乗り越えられる。
信じることもできる。
「ほんとうに、みなありがとう。わたしも、あなた方のことは、生涯忘れぬ」
孔明は、さいごに集まった村人すべてに礼を述べると、用意してもらった船に乗り込んだ。
その船出の、なんと心の軽かったことだろう。
趙雲が櫂を持ち漕ぎ出す。
そうして孔明は、惜しまれながら、江夏へと戻っていった。
※
「待てい、その船、待てい!」
孔明が祭壇にいないことを知り、追いかけてきたのは、甘寧の兵を率いた陸遜であった。
趙雲に殴られた頭の傷を隠すための布が痛々しい。
甘寧はというと、周瑜とともに鳥林へ向かったために、孔明の暗殺を、陸遜が代行することとなったのだった。
腰につけた鈴をちりちりと鳴らしながらやってた兵たちに、岸辺にて、孔明の船に向かって手を振っていた村人と、家令の夫婦は、なにごとかと目を向けた。
「軍師どの! 諸葛孔明どの!」
叫ぶと、あたまの傷にがんがんと響く。
しかし気にしてはおられない。
恨みの気持ちのほうがつよい。
しばらくすると、とおくから、よく通る孔明の声が聞こえてきた。
「送り出してくださるとはありがたい、お世話になり申した、伯言どの、みなさまにもよろしくお伝えくだされ!」
ふざけるな。
かっと頭に血がのぼったが、その瞬間に、くらりと眩暈がした。
が、なんとか持ちこたえ、陸遜は叫び返す。
「いいえ、そうではございませぬ! お戻りくだされ、軍師殿、われらには、貴方の知恵がまだまだ必要。
それに、この戦の勝利のあかつきには、ぜひ、ともに祝杯を」
「その祝杯を挙げねばならぬのは、われらも同じ。なにせ人がすくないので、江夏で勝利の宴を催すことができる人がおらぬゆえ、わたしが戻らねばなりませぬ。
さらば、江東! さらば柴桑!」
「この、戻って来い!」
「………………!」
孔明は、またなにか叫び返したが、陸遜の耳には届かなかった。
どうも『ごめん蒙る』と言ったように聞こえる。
そうしているあいだにも、船はどんどんと遠くなり、最後には、闇のなかに完全に溶け込んで、消えた。
あんな船、難破してしまえばよい、と呪詛を胸のうちでつぶやきつつ、陸遜は、岸辺の村人たちをぎろりとねめつけた。
「おまえたちが、あの軍師を助けたのか!」
すると、村長が前に進み出てきて、ふるふると震えながら、答えた。
「とんでもございません。おそろしゅうございました。
なぜにもっと早く来てくださらなかったのか。大事な船が奪われてしまいました」
「どういうことだ」
「軍師様が突然われらの村に戻ってまいりまして、全員集まれとおっしゃいますので、なにかと思いましたなら、いまからここにいる全員は人質なので、全員を助けたければ、全員で協力して、わたしを助けるために船を用意せよとおっしゃいました」
「なに?」
「軍師おひとりではございません。あの恐ろしく強い趙子龍さまもご一緒だったのですよ。虎に睨まれているのと同じで、生きた心地がしませんでした。
そこで、仕方なく、全員を助けるために、全員で船を用意しまして、全員で軍師に出て行ってもらったのでございます。おかげで全員が助かりました」
「まて、これだけ人数がいて、たった数人に立ち向かおうともしなかったのか?」
「仕方ありますまい。全員が人質だったのですから」
陸遜はめまいをおぼえた。
頭痛も吐き気もする。
都督はがっかりなさるだろう。
曹操の首と諸葛亮の首、ふたつならべて祝宴を行うことが本来であったのに。
陸遜は、孔明の代わりに、あきらかに孔明を逃がす手伝いをした村人たちをなんとかしてやろうとも考えたが、やめた。
ここは張昭の知行であるから、下手に手を出すと張昭が出てくる。
張昭どころではなく、孫権も出てくる可能性が高い。
悔しさと怒りのなかで、船の消えた方角を見つめ、陸遜は思った。
いつか連中に、いまのわたしのように、かならず地団駄を踏むくらいの悔しい思いをさせてやるのだ、と。
※
闇の向こうに江東の地が遠ざかり、そしてなにも見えなくなった。
暗い波濤のなかにあって、孔明は、子供たちが漕ぐ舟のなかで、胸に去来するさまざまな思いと戦っていた。
涙が溢れていたが、拭う気にはなれなかった。
それまで胸にしまっていた苦しみのすべてが、涙となって流れ落ち、消えていくような気がしたからである。
「子龍」
孔明が呼びかけると、趙雲は闇のなかで、すこし顔を上げたようである。
「わたしは、民を恨まない人間になれそうだよ」
「それはよかった」
「うむ、よかった。本当に」
趙雲は、少年のように涙を流す孔明に向かって、笑いかけたようである。
顔の見えない趙雲の姿が、一瞬、ほんの一瞬だけ、亡き叔父の姿に見えた。
その一瞬は、なんと尊かったことだろう。
姿かたちのまるで似ていない二人が重なった幻を見て、孔明は確信した。
叔父上も、いまのわたしを喜んでくださっているのだ。
そして、もう民を恨むな、恐れるなとおっしゃっているにちがいない。
おっしゃるとおりにいたしますと、孔明は、夢幻の世界の叔父に誓った。
長い旅であったが、よい旅であった。
それというのも、支えてくれる人間がいたからであろう。
「わたしは幸福な人間だな」
孔明が言うと、それが意外な言葉であったらしく、趙雲が問いかけてきた。
「これほどひどい目に遭ってばかりだったというのに、幸福だというのか」
「幸福ではないか。たしかにいろいろとひどい目には遭ったけれど、なんだかんだと乗り越えて、いまは、生きているのだよ。ほかにどんな幸せがあるって?
子龍、いまのわたしならば、だれのことでも許せてしまえそうな気がするよ。あの都督でさえも、そうだ」
本心から孔明が言うと、趙雲はあきれて、
「おまえは、たしかに、幸せなやつだな」
と、なかばあきれつつ、笑って言った。
孔明は、涙を流しつつも、声をたてて笑って、応じた。
「あなたも帰ってきたし、偉度たちも元気だ。わたしの行く手は、きっと明るいものとなるだろう。
見るがいい、すばらしい月が出ている。あの月のように、どんな闇夜であろうと、わたしはこの先、明るく照らしてみせるさ」
見上げると、中天には真白い月が、闇の航路を浩浩と照らしている。
闇に包まれた夜にも、人をやさしく照らす月のように、どんな苦境のときにあっても、かならず人を照らすものとなろう。
船は、その明かりを頼りに、北へ、江夏へ、仲間たちのいるところへと向かって行った。
終わり
ご読了ありがとうございましたm(__)m
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(C)Hasamino Nakama 2008 12 20