飛鏡、天に輝く
五十六
そのころ、孔明は走っていた。
動きづらい衣裳を着てきたことを後悔しながら、高価な絹の衣擦れの音をふりまきつつ、走っていた。
広い屋敷である。
これだけ広ければ、かならず裏口があるはずだ。
一か八かの賭けであった。
孔明が懐にしのばせていたのは、小麦粉と唐辛子を混ぜたものである。
小麦粉は視界を隠し、唐辛子はその煙幕に包まれた者の視界と呼吸をしばらく邪魔する。
投げつければ、はじける、この特殊な袋を用意したのは、偉度であった。
龐統を探すために孔明のそばを離れなくてはいけないので、代わりにと差し出してきたのである。
唐辛子の刺激で、若者たちは、しばらくまともに目も開けていられないはずだ。
いまのうちに屋敷を脱するのだ。
子供たちがあらわれたことで、おそらく、屋敷のほとんどの者が、表門に集まっていたはずだ。
裏門は手薄になっているはず。
そこをなんとかして突破する。
だが、広い屋敷で、孔明には勝手がわからない。
しかも、やはり孔明自身、焦りもしていた。
書生には、命をくれてやる、などと大口を叩いてみたものの、やはり孔明としては、命は惜しい。
死んだら終わりなのだ。
その冷酷な事実を、孔明は叔父の死によって学んでいる。
どのようにぶざまと謗られようと、ここは生きねばならない。
走り続ける孔明の耳に、背後より、足音が聞こえてきた。
どんどん迫ってきている。
振り返ると、書生の青年であった。
かれもまた冷静さをかなぐり捨てて、衣の裾を両手でかかえあげ、憤怒の形相で孔明を追いかけてきているのである。
「待て、諸葛亮! くだらぬ小細工をしおって、われらに命をくれてやると言ったのは、やはり虚言か!」
殺気を四方に発散させつつ追いかけてくる青年に、孔明も走りつつ、答えた。
「当たり前であろう! だれが好き好んで殺されるか!
すまぬが、わたしは生きることのほうが、殺されることよりも、断然大好きなのだ!」
「好き嫌いの問題か! この大ほら吹きめ!」
「すまぬな、わたしは論客ゆえ!」
「さすが、ほら吹きで名高い劉予州の軍師、親子のようにそっくりだな!」
「怒らせようとしても無駄だ、おまえのそのことばは、むしろ、わたしにとっては誉めことばだぞ!」
「この、変態め!」
どうやら冷静さを装ってはいるが、本当は激情家であるらしい。
孔明を怒らせようと挑発しているが、実際に怒りのあまり、我を忘れかけているのは、青年のほうであるようだ。
「貴様だけはけっして許さぬ! かならずこの刃で斬り捨ててくれよう!」
この屋敷を首尾よく脱出することができたなら、きっと、これから先、うんざりするほど聞かされることになる言葉であろうなと思っていると、不意に、背後で、鈍い音が響いた。
そして、それきり、青年の声が聞こえてこない。
どうしたのかと振り返ると、青年は、気の毒にも、前のめりになって倒れていた。
そして、その隣には、なぜか鉄鍋を手にした、ほっかむりの男が立っていた。
鉄鍋を片手に持つ男は、ほっかむりをして顔を隠しているが、じっと、孔明のほうを見ている。
その目線の鋭さをおぼえつつ、孔明はゆっくりと足を止めた。
男は黙って、手にしていた鉄鍋を、無造作に床に捨てた。
鉄鍋が、地面に打ちつけられて、わんわんと小刻みに震えつつ、揺れている。
男はほかに武器を持っているわけではない。殺気も感じられない。
立ち方ひとつにしても、力を抜いた、すこし猫背気味ですらある自然なもので、このような状況でなければ、孔明はその者に恐怖を感じるどころか、気に留めることすらなかったにちがいない。
男は寝巻きのような簡素な麻の衣を身にまとい、ほっかむりを取ることもなく、孔明を見ている。
男は巧みに顔を隠しており、その表情を窺うことはできない。
しばらく、孔明と男のあいだに、沈黙が生じた。
おそらく鉄鍋で殴り倒されたのであろう書生は、気の毒にも、地面に倒れ伏したまま、ぴくりとも動かない。
この沈黙が不気味ではあるが、こちらを助けようとしてくれたのにはちがいない。
孔明が口を開こうとしたそのとき、背後より、聞きなれた声がした。
「父上! ご無事でございましたか!」
子供たちの声である。
おどろき振り返ると、孔明のすぐ背後に、裏口とおぼしきちいさな戸口があり、そこから、息をはずませ、頬を杏のように紅潮させた子供たちが、目を喜びに輝かせて、立っていたのであった。
「おまえたち、逃げたのではなかったか!」
思わず孔明が言うと、子供たちは、にこにこと笑いながらも、軽口を叩く。
「父上ならば、きっと、なんだかんだと、しぶとく生き残られるであろうと思いまして、逃げずに様子をみておりました」
孔明は思わず苦笑した。
子供たちへかけた言葉のすべてに、いつわりはなかった。
かれらには生きてほしいと思っている。
これ以上、大人たちの血なまぐさい闘争に首を突っ込んでほしくないとも思っている。
「あのう、余計なことをしましたでしょうか」
孔明の表情がわずかに曇ったのを、かれらは見逃さなかった。
大人に反抗することを、なにより罪悪だと教え込まれてきた子供たちである。
言われたとおりのことをするのは得手だが、自分たちで考え、動くことは、まだ慣れていない。
かれらはこちらの表情のひとつひとつを伺い、そこに自分たちを傷つけるものがあるのではないかと、まだ怯えている。
孔明は首を振り、言った。
「いいや。おまえたちの心遣い、ありがたく思う。よくぞ助けにきてくれた。礼を言うぞ」
孔明がそう言って、晴れやかに笑って見せると、子供たちはたがいに顔を見合わせ、うれしそうに微笑みあった。
純真な子供たちである。
この純真さゆえに、かれらを操るのは容易かったことだろう。
あらためて、かれらを天涯孤独に陥れた大人たちの傲慢さを、孔明は憎んだ。
明確な名前を持たない、だれの心にも潜む傲慢さ、狡猾さ、おぞましい欲望。
そうしたものと戦うのだ。
戦うためにも、かならず生き残る。
かれらの足元には、子供たちによって気絶させられた見張りが、これまた、のびている。
そして、表門のほうから、どたどたと、足音が大量に迫ってくるのがわかった。
孔明が足止めしていた若者たちが、回復して、猛然と追いかけてきているのだ。
と、それまで沈黙していたほっかむりの男が、口をひらいた。
「せっかく退路を子供らに作ってもらったというのに、そこでぐずぐずしていては意味がなかろう。早く逃げるとよい」
「それはそうであるが、しかし、貴殿は」
何者だ、と誰何しようとするより先に、ほっかむりの男が、突如として孔明に走りより、そしてそのまま、手を掴むと、外に向かいはじめた。
孔明はつんのめりそうになりながらも、男に引っ張られるまま、足を動かす。
やはり、不意に手を掴まれた不快感はあったが、ほっかむりの男が助けてくれたことを思うと、それもすぐに薄れた。
孔明とほっかむりの男につられるようにして、子供たちもまた、一緒に追いかけてくる。
男は、子供たちがついてくることを、あまり気にかけていないようである。
「どこへ行くのだ!」
息を切らせながら、孔明がたずねると、ほっかむりの男は答えた。
「ともかく、遠くだ!」
男は俊足であった。
その走り方、足の上げっぷりなどを見ても、常日頃から、相当に訓練を積んでいる男だということがわかる。
孔明は一瞬、こいつこそは、噂の曹操の細作ではないかと疑ったが、すぐに打ち消した。
曹操の細作が、自分を助ける理由はない。
息を切らし、そしてめまいと嘔吐感をおぼえつつも、ここが正念場だと自分に言い聞かせ、孔明は脚を動かしつづけた。
やがて、孔明と、ほっかむりの男、そして子供たちは、柴桑の町外れの河岸にまでやってきた。
すでに日が落ちつつあり、夕暮れどきの河岸には、きつね色に変じた草木のほかは、だれの姿も見えない。
さわさわと、耳に心地よい音をさせながら、河を渡る風とともに、草が風の向かう方角へ流れている。
草の示す方向は北である。
秋も深まりつつあるなか、冷たい風が大陸のすべてを覆うのも、時間の問題だ。
「もうここでよかろう」
そう言って、孔明の手を離しつつ、ほっかむりの男は草原のなかで、どっかりと腰をおろすと、そのまま胡坐をかき、満足そうに、大きく息をついた。
孔明も汗だくであった。不快な汗が、吹き出している。
もともとが虚弱であるから、若いとはいえ、これほどの長距離を走るのは辛い。
足を止めても、体がついてこられず、思わず吐きそうになったが、子供たちの手前、ぐっとこらえた。
もはや意地である。
こみ上げる吐き気を、おのれを叱り飛ばすことで抑えつつ、孔明は、息をととのえた。
子供たちのほうは、こちらは若いうえに鍛え上げられていることもあり、息を切らしてはいるが、孔明ほどに真っ青な顔をしている者は皆無である
ここで吐いたりしたなら、父として、面目丸つぶれだ。
なるべく涼しい表情を装いつつ、息を少しずつ整えて、汗のせいでべったりと体にまといつく衣のうっとうしさに苛立ちながら、それでも肌を見せないように気をつけつつ、汗を拭く。
しかし、そんな様子を見て、ほっかむりの男は、笑いながら言った。
「軍師どのは、知恵はあっても、体力がないご様子。われらの軍師とは、そこがちがうところでござるな」
言いつつ、男はほっかむりを取り去った。
ほっかむりの下からあらわれたのは、いかにも豪気な面構えの老人であった。
黄蓋である。
思いもかけない顔が、ほっかむりの下からあらわれて、孔明は、ことばを失った。
宴のときのような、勇ましい武官装束ではなかったので、すぐにそれとわからなかったが、まぎれもない、黄蓋である。
周瑜の逆鱗に触れて、鞭打ちの刑を受け、寝込んでいたはずの男である。
その相貌は、つやつやと輝いており、しばらく寝込んでいた病人の顔色ではない。
足取りもしっかりしており、目の輝きも同様であった。
やはり仮病だったのか、と孔明は合点すると同時に、顔をあらためて引き締めた。
みずから仮病であったことを、こちらを助けるという行為で、わざわざ明かすわけであるから、それなりの覚悟を決めたものとしてみるべきだ。
緊張する孔明と、そしてそんな孔明の変化に合わせて、おなじく顔を引き締める子供たちの様子を見ても、黄蓋はほがらかに笑いながら、ほっかむりをしていた布で汗を豪快に拭きつつ、言った。
「おどろかれるのも無理はない。だが安心なされよ、わしは都督と志を同じくする者であるが、貴殿にたいする心象はだいぶちがう。
そこな子供らも、そう剣呑な顔つきでわしを睨み付けんでくれ。わしはなにより、子供に嫌われることが好きではない性質でな」
いいながら、黄蓋は、またけらけらと笑って見せた。
孔明は、自分たちとは対照的に、余裕たっぷりな老将に圧倒されつつ、たずねた。
「いま、都督と志を同じくする、とおっしゃいましたか」
「言ったとも。であるから、安心めされよ。どうも都督は余裕をなくされているようで、貴殿にあれこれと八つ当たりをしているようだが、わしはそれには与さぬ。
ま、そう蒼い顔をして無理をなさるな。まずは座って落ち着かれよ」
といいつつ、黄蓋は、自分のとなりの地面を、ぱんぱん、と叩いてみせる。
孔明はなにやらきつねにつままれた心地ながらも、黄蓋に従うことにした。
「遅ればせながら、お久しゅうございます。助けていただきまして、ありがとうございました」
孔明が礼を言うと、黄蓋は、またも愉快そうに声をたてて笑った。
「なあに、あの若大将は、どうも気が短いところがあってな、貴殿がさんざん言っていたように、すこしばかり世間知らずなところもあるのだよ」
どうやら黄蓋は、書生の青年と孔明のやりとりをすべて、屋敷に身を潜ませつつ、耳を傾けていたらしい。
「あの若者は、何者です」
「さて、どこまで明かしてよいものかな。とりあえず、わしの口からは、あれの素性は言わぬほうがよかろう」
「その口ぶりでは、やはりお味方か」
「味方も味方。ほんとうにごく最近になってわれらの家臣に加わった人物で、名前は知られていても、顔を知っている者が少ない。
それゆえ、都督の指名で、この役目を担うことになったのだ」
「役目とは? それに、お怪我の具合はよろしいのでございますか」
孔明の問いに、黄蓋は、汗を拭く手を止めて、にっ、といたずら小僧のように笑うと、不意に、衣を上半身はだけて、孔明に背を向けた。
その鍛え抜かれた褐色の背中には、複数の古傷はあったものの、鞭打ちで受けたはずの傷は、ひとつも残っていなかった。
孔明は、唖然として、その古傷以外にはなにもない、年の割には肌つやのよい、鍛えられた武人の背中を見つめた。
唖然としているなかでも、意識していない部分で、頭がたいへんな勢いで回転をはじめていた。
黄蓋が引きこもり、だれとも会おうとしなかった理由、剣呑な書生たちの、過敏なまでの防護。
単純なことだったのだ。
ほどなく回答に行き着いた孔明は、あまりに節穴だったおのれの目に呆れ、力が抜けた。
周瑜が黄蓋に罰を与えていたとき、だれがその姿を見ていただろうか。
音だけがしていた。
周瑜に威圧されて、その場のだれもが、黄蓋のもとへ行くことができなかったのだ。
考えてみればおかしいことであった。
もし見せしめのための懲罰ならば、その状況を公の前にあらわにしたほうが、より効果があがる。
しかし周瑜はそうしなかった。
てっきり、黄蓋に対する、ぎりぎりのところで示せる周瑜の温情だと判断していたが、そうではない。
そもそもが、すべて仕組まれていた芝居だったのだ。
おそらくは、唐突に開かれた宴そのものが、この大掛かりな芝居のために、わざわざ用意された舞台だった。
周瑜と黄蓋。
このふたり以外の人物は、すべて観客に過ぎなかった。
騙された、という悔しさはない。
いま、孔明のなかには、ただただ感嘆がある。
周公瑾という人物の、これが実力なのだ。
周瑜であるからこそ、あの場にいた全員を釘付けにできた。
ほかのだれが、同じ役目を務めえただろう。
魯粛でさえ、芯からうろたえていたではないか。
大胆で、しかし効果的である。
江東の民はみな、周瑜の芝居に騙されている。
なりふり構わぬ無様さは、そこにはない。
おのれの評判を貶めてもかまわぬという、周瑜の、この戦にすべてを賭けた覚悟が見える。
わたしが戦っていた相手は、見事な策士ではないか。
同じことが自分にできるだろうかと、そんな疑問に、孔明はすぐに答えを見つけることができなかった。
大胆であるが、危険な策である。
下手をすれば、江東の家臣たちの分裂を招きかねない。
しかし、それを防ぐために、要人たちすべてに策を明らかにしてしまえば、今度は、策がどこから破綻するかわからない。
それに、要人たちがみな、この芝居を十分に演じきれるほどの役者とはかぎらないのだ。
そこまでして打った芝居の真意。
孔明は、周瑜の真意を悟った。
風がたとえ南東に吹き付けたとして、火を放ったとしても、それだけでは弱い。
南東への風のおそろしさに気づいた曹操が、火をかけられないよう、江東の船団と距離を置くか、あるいは、一時的に撤退してしまっては、せっかくの火計の意味がなくなる。
秋も深まり、風は北へ吹きつける。
南東への風が、いつ吹くか、それを正確に予想できる術はない。
それに抜け目のない曹操のことだから、一度、江東が船上での火計を狙っていると悟ると、つぎは、万全の対策を練って長江をわたろうとするだろう。
機会は一度きり。
一度きりの機会に、決定的な打撃を与える必要がある。