飛鏡、天に輝く
五十
孔明は日に日に目だってやつれ始めていた。
さて、準備は万端、ととのった。
曹操とて荊州の稲刈りをすっかり終えて、いつでも出陣する構えである。
が、風がない。
このままでは、圧倒的に江東が不利。
江東が呑まれれば、江夏にいる劉備たちの命運も尽きる。
だが、風など、どうやって吹かせればいい?
智者だなんだと褒め上げられ、鏃をまんまと曹操からせしめたりもして、すこしばかり得意になっていた孔明であるが、そこへきて、いきなり断崖から突き落とされた気分である。
かといって、生きるために柴桑から逃げ出そう、などという行為は、誇りが許さない。
庵に引きこもり、暇さえあれば欄干に立って、ひたすらぼおっとなにもない中空を見つめている孔明の姿に、庵の家令夫妻、そして、賄いに来ている漁村の者たちも心配し、毎日、せっせと孔明にご馳走を持ってきた。
だが、もともと食がほそいところへ来て、心を痛めるこの注文。
どれほどうまそうな料理を出されても、咽喉を通らないのだ。
孔明が残した料理を、しめたとばかりにがっつくのが、偉度の兄弟たちである。
偉度も食べ盛りなので、きっと本音はたらふく食べたいのであろうが、これも孔明に負けず劣らず誇り高いので、うまい、うまいといいながら料理を口に運ぶ弟たちを、恥ずかしそうに見ているだけで、あまり食べない。
孔明は、ただひたすら悩んでいたわけではない。
偉度たちは孔明の言いつけを守り、毎日、せっせと天候に関することわざや言い伝えを集めてきていた。
だが、そのどこにも、具体的に、いつ、風向きが変わるか、というものは見当たらない。
それでもかれらは毎日、足を棒のようにして柴桑だけではなく、遠方の町や村まで当たってまわり、そして腹を空かせて帰ってくるのだった。
村人たちが振舞ってくれる料理を、うれしそうに食べる子供たちを見て、孔明は、この土地を無事に離れることができたとしても、この子らがすべて揃って付いてくるとは、かぎらないかもしれないな、と思った。
観察するに、子供らのなかには、漁村の手伝いにすっかり夢中になっている者もいるようだ。
それでいいと思う。
細作になりたくてなった者たちではない。
忠誠心も恐怖によって無理やり持たされていただけのもの。
かれらを本来の人生に戻すことが、孔明の望みである。
日々がいたずらに過ぎていくなかで、さすがの孔明も万策尽きていた。
南東風が吹く日がある、ということはわかった。
だが、それがいつかは、どうしてもわからない。
おそらく、地元である周瑜は、そのことを十分に承知していたのだろう。
承知していて、孔明に無理難題を吹っかけてきたのだ。
魯粛が言った、冥土の道連れ、という言葉が浮かぶ。
憎い相手とてけてけと、不愉快な冥土の道を歩きたいとは、周公瑾もずいぶん変わっている。
そんな悪態を胸のなかでついていたからだろうか。
孔明の庵に、周瑜からの使者がやってきた。
これは、いよいよ催促か、と緊張した孔明であるが、使者の口上はちがっていた。
「都督はこのたび、近くにせまりました出陣のために、諸将を鼓舞するため、宴を開かれることを決定いたしました。
つきましては、ぜひに軍師どのもご招待したいと、都督は申しております」
「あいにくと、この孔明、まだ風を吹かせる算段を立てられておらぬ。そちらに忙しいので、今回はあいにくであるが、お断りさせていただくと伝えてくださらぬか」
孔明が言うと、周瑜がいかにも好みそうな、派手な衣装に派手な顔立ち、しかし中身はあまり深みのなさそうな、その若者は、鸚鵡のように抑揚のない口調で答えた。
「それでもかまわぬ、是非に軍師をご招待したいと、都督は申しておりました」
可能性はふたつある。
いくらなんでも周瑜の孔明につけた注文は、あまりに無茶だという声が広がり、周瑜がこれを撤回するため、宴に呼び出した可能性。
もうひとつは、孔明がまったく身動きをとれないことを糾弾する可能性。
これまでの経緯を考えると、可能性として高いのは、残念ながら後者なのであった。
孔明は、仮病を使うことさえ考えて、宴への出席を断ろうとしたのだが、そうしたこそこそとした態度を見せることは、自分ばかりではなく、劉備の恥になると思い、こらえた。
そこで、仕方なく、宴への参加を承諾した。
「三つ目の可能性がございましょう。軍師を糾弾し、そのついでにその場でばっさりと切り捨てる可能性でございます。
あちらは、ともかく軍師が憎くてたまらないのでございますから」
と、偉度が言うので、孔明は考え込むのをやめて、言った。
「偉度や」
「はい」
「おまえの発想は、子龍より暗い。子龍であれば、そういう可能性もあるかもしれないが、その前に俺がやつを斬る、くらいのことは言うぞ」
呆れている孔明に対し、偉度は冷たい目を向けて、つんと顎をそらして、答えた。
「なんとでもおっしゃい、残念ながら、偉度は趙子龍どのほどの腕を持っておりませぬゆえ、あくまで現実を見て、意見を述べております。
三つ目の可能性は、ずいぶん高うございますぞ。わたしが都督であったなら、あなたがおかしな知恵でもって動き出さないうちに、悪者に仕立て上げて殺します」
「それでは、風は吹かせられなくなるぞ」
孔明が言うと、偉度は冷たいまなざしを投げて寄越した。
「なにをおっしゃいますやら。もともと、江東の誰一人として、あなたさまが風を吹かせられるだろう、などと期待はしておりませぬよ。
殺されることになっても、魯子敬も張子布も、嘆願くらいはしてくれるでしょうが、効果は期待せぬほうがよろしいかと」
「それくらい、わかっておる。それにしても、頭の痛いことだ」
「それでございますよ」
「どれ」
「江東の酒が口に合わなかったといって、頭痛がすると、ずっと貝のように押し黙っていては如何。そうすれば、都督におかしな揚げ足取りもされませぬ。
同情も引けて、かえって立場がよくなるかもしれませぬ」
「ずいぶんと消極的だな。わたしの手法ではない」
そこまで答えて、孔明は、そうなのだ、と自分で自分に納得した。
現状は、あまりに周公瑾の主導で動いている。自分の意思がまるで反映されない。いくら敵地のど真ん中にいるとはいえ、あまりに萎縮しすぎではないか。
「偉度、わたしは殺される」
「はあ」
なにを言い出すやら、と怪訝そうにしている偉度に、孔明はいたずら小僧のように、にっ、と笑って見せた。
「現状のままでは、そうなるだろう、ということだ。それならばいっそ、宴では、思い切り開き直ってやる。
わたしは演者になるぞ、偉度。風を操ることのできる仙人になりきってやるのだ。都督や、まわりの連中になにを言われようと、できます、やってみせますと言い切ってやる」
「それでなにが変わるというのです。むしろ、それなら早くしろとせっつかれて、ますます窮地に追い込まれてしまいますぞ」
「だれもが、わたしにそんな真似が出来ないと、わかっているのであろう? そして、わたしがびくびくおどおどと、捕らわれたねずみのように怯えてやってくるだろうと、だれもが思って宴にやってくるだろう。
だが、劉玄徳の軍師は、いささかも怖じることなく、みなの前に堂々と姿をあらわす。どうせ死ぬなら、でかいほらを吹いてやろうではないか。
さて、わたしがにこにこと満面の笑みをたたえて現れたなら、江東の家臣たちは、いったいどんな顔をするであろうな」
「狂ったと思うのではないかと」
「おおいに正気だ。うむ、なんだか楽しみになってきたな。さっそく、宴のための衣を用意しておくれ。
嫌味のように白はどうだろう。かえって手を出すのが恐ろしくなるかもしれぬな」
その様子を想像し、声をたてて笑う孔明に、偉度は呆れて、悪趣味、とぼそりとつぶやいた。
白は、中国においては喪服の色である。
さすがに白は嫌味に過ぎる、というので、きわめて白に近い淡い色を重ねて、孔明は現れた。
帯まで地味に白にしようとしたら、偉度の大反対にあい、仕方なく、金糸が豪奢にあしらわれた帯を締めていくことにした。
衣の色が薄いので、帯が引き立つ。
もともとの美貌に加えて、その身にまとう衣装の鮮やかな色彩感覚は、宴にあらわれた客たちの注目を一身に集めた。
孔明がやってくるということは、すでに周知されていたようで、みな、孔明に対し、つめたいひそひそ話と嘲笑で出迎える。
だが孔明は、それらを一切合財無視をして、事前に決めていたとおり、堂々と胸を張ってかれらの前をとおり過ぎた。
それに習って、背後に付き従う偉度も、いつにも増して小生意気そうに澄まし顔をしてしずしずと歩く。
もともとが華やかな雰囲気をもつ二人であるから、反応はどうあれ、宴の目線は、一気にふたりに集中する。
病気であるはずの周瑜は、孔明をわざわざ出迎えにやってきた。
だが、煌びやかな衣装をまとってあらわれた周瑜を見て、孔明は、眉をしかめそうになり、あわてて表情を抑えた。
周瑜もまた、風が吹かないことに打ちのめされ、眠れない夜を何度も迎えているらしい。
病人特有の青白い肌に、さらに目の下にクマを浮かべているので、双眸が落ち窪んで見える。
髪もていねいに結い上げているのに、やつれのひどさは隠せないらしく、全体の空気が、寝起きであるかのようで、だらしがない。
そして、なにより孔明が眉をしかめたのは、周瑜の体から漂う、きつすぎる香のかおりであった。
医学をすこしかじった孔明は、周瑜の意図に、すぐ気づいた。
おそらく、周瑜の病は止めようもなく進行しているのだ。
周瑜の病は、さまざまなものが併発しているのではないか。
おそらく、内臓に腫瘍もできているのだろう。
内臓に腫瘍が出来、これが進行すると、体内から独特の臭気が出るのである。
周瑜は洒落男だから、それを気にして、香をおのれの体にきつくふりかけているのだ。
さすがの孔明も、おのれを罠にかけた周瑜をうらんでいたが、その必死さを隠せない様子に、思わず同情した。
あいかわらず、目の表情さえ完璧に変えた歓迎の笑顔をして、周瑜は孔明を出迎える。
孔明もまた、自分でできうるかぎりの演技をして、周瑜に騙されているふりをした。
満面の笑みを浮かべ、招待に対する礼を述べてみせる。
周瑜は、郊外の庵のまわりに細作を放っていたはずである。
そして、こちらがなにも手を打つことができずに、塞ぎこんでいたことを知っているはずだ。
それなのに、この余裕綽々の態度。
こちらの演技を見抜くか?
それとも、まさかと動揺しているか?
だが、孔明には、周瑜の真情を見抜くことはできなかった。
周瑜は完璧だった。
演者としては、周瑜のほうが、場数を踏んでいる分、孔明より、はるかに上手である。
「よくぞいらしてくださった。ご足労かけて申し訳ない。
しかし孔明殿がいないと、諸将も納得せぬからな。これで宴は盛り上がろう。貴殿も、ぞんぶんに楽しんでくれ」
周瑜がいうとおり、宴はずいぶんと贅を凝らしたもので、食客や門弟を派手にもてなし、気前があまりに良すぎるので、かえって人のためにならないと諌められた周家の曽祖父の逸話を思い出させる。
どこから調達したのだろう、というくらいに、食糧も酒もあふれているし、舞姫や楽師たちの姿も多い。
灯されている蝋燭の数もたいそうなもので、すでに空には星がまたたいていたが、宴会場はまるで昼間のように明るかった。
そして、顔ぶれ。
魯子敬はもちろんのこと、甘寧や黄蓋といった武将、そして周瑜とともに江東の武官をまとめている程普や、張昭の姿もある。
もちろん、孫権も招待されているのだろうと見回したが、これはなぜか臨席していなかった。
となると、上座は周瑜が座ることになるだろうなと思っていた孔明であるが、周瑜につよく手を引かれ、ぜひに、上座についてほしいという。
「貴殿はすでに我らの英雄であるぞ。なにせ戦に勝利をもたらす人間なのであるから。
主公はあいにくとこちらにこられぬようなので、ぜひ、貴殿に上座についていただきたい。今宵は、いろいろとお見せしたいものもあるのだ」
その言葉を聴き、孔明は、なにかあるな、とすぐに感じ取った。
だが、周瑜は、やはりにこにこと笑顔を浮かべるばかりで、本音をまったく見せようとしない…
不本意ながらも孔明は、周瑜のすすめで上座につくことになった。
名誉ある席のはずが、かえって晒し者だな、などと皮肉を心のなかでつぶやきながら、ちらりと周瑜を見ると、周瑜のほうは、そのような意図はまったくない様子で、つぎつぎにやってくる客にみずから挨拶をしに行き、にこやかに談笑をしながら、席へと導いている。
むしろ周瑜の眼中に、孔明はないくらいだ。
これは、あまりに気負いすぎたかと、おのれの臆病さにあきれつつ席につこうとした孔明であるが、そのとなり、てっきり周瑜と同格である程普が座るだろうと思っていた席に、別な者が座っていることに気が付いた。
面識がない人間ならば、まずは挨拶しなければと顔を向けた孔明は、思わず息を呑んだ。
そこにいたのは程普でも孫家の人間でもなく、龐統であった。
すぐにそれと気づかなかったのは、龐統の様子が、まるでいつもとちがっていたからである。
龐統は豪族の出自で、金にはまったく困っていない人間であるが、襄陽にいたころから、生活全体は質素だが、身につけるものには贅をつくす孔明とは対照的に、まったく身なりにかまってこなかった。
それでも、まったく地味なだけではない。
司馬徳操の私塾通いをしなくなったあと、龐統は、引きずるくらいの丈の、自分の身長ほどある衣を好んで着るようになった。
そこにどういう意図があるのかはわからなかったが、あまり手入れの良くない、裾の長い衣装を引きずるようにして、のっそり、のっそりと歩く龐統は、まさに奇人と呼ぶにふさわしく、隠者のような奇妙な雰囲気は、たしかにあった。
が、一方で、あまりに変わりすぎていて、かれがどのような人間かを測る邪魔をした。
孔明は、龐統の意図は、おそらく若者特有の、世間に対する反抗心を身にまといたかったわけではなく、単に、奇抜な姿を際立たせ、その風貌の印象を弱くすることであったろうと見ていた。
孔明が、おのれの男性的とはほどとおい容姿を嫌って、逆に派手に着飾っているのと、考えは同じである。
龐統は、いまは、きちんと冠をかぶり、みごとな光沢のある錦でつくった衣装を身に纏って座っている。
ふだん、にかまわない人間は、急に豪華な衣装を着ても、着こなせないで、逆にだらしない印象を与えてしまうことすらあるが、やはり育ちのよさゆえか、龐統はそんなことはなく、白と紫を重ねた衣を身に纏い、しゃんと背筋を伸ばした姿は、気
品すら漂っていた。
あつまった客のなかには、孔明のとなりにいる男は何者なのかと、ひそひそと、近くにいる者同士で話し合っている者もいる。
孔明もなぜ、ここに龐統がいるのだろうと、戸惑っていた。
龐統は周瑜に、芯から心服をしていない。
みずから堂々と、俺の知恵は、世間を騒がせるために使ってやるのだと宣言していたほどだ。
だが、ここへきて、主旨がえをして、周瑜を輔佐する役目を請け負うことになったのか。
ありえるか?
そうすることで、かれにどんな得がある?
いや、損得で動く男ではない。
面白いか、面白くないかだけだ。
いまの切羽詰った状況も、この男ならば面白いと感じるかもしれない。
言葉をなくしている孔明に、すでに宴がはじまっていないうちに、勝手に杯を口に運んでいた龐統は、にやりと口はしに笑みを浮かべて、目だけを孔明に向けた。
「どうした、まあ、座れ。せっかく勇気をふるってここまで来たのに、わざわざ帰ることはあるまい」
やはり、こちらを見張っていたのか。
だれのせいで窮地に追い込まれたのだと思っている。
そのことばが、咽喉元にまで出かかったが、孔明はおさえた。
江東の家臣たちのほとんどが集まり、そしてこちらに注目している。
そんななかで喧嘩をして、わざわざ意地の悪い噂話の主人公になる必要もあるまい。
「なぜここにいるのです」
司馬徳操の私塾における兄弟子たる龐統にたずねると、満座のなかの訝しげな目線を一身にあつめながらも、それを平然と無視している龐統は、やはり孔明の問いも無視して、ちびちびと酒を進めるのだった。