飛鏡、天に輝く
四十八
「運がよい?」
意味がわからず、趙雲が鸚鵡返しにしても、老爺はそれには答えず、趙雲の存在を無視するようにして小屋に入ってくると、おびえているふたりの女に言った。
「大丈夫だ、怖がることはない。これであんたたちは、ここから出て行くことができる」
老爺の態度は、趙雲に対するつんけんとした態度に比べれば、女たちには、ずいぶんと優しいものであった。
女たちも、老爺を信頼しているらしく、茣蓙の帳の向こうで、わかった、というふうにうなずく。
「わしは生憎と、あんたたちについていくことはできない。けれど、この男ならあんたたちを守って西へ連れてける。もうここにいる必要は無い」
状況がまるでつかめずにいた趙雲であるが、老爺の言葉を聞きとがめ、言った。
「待て。話が見えない。だれが、だれを西へ連れて行くと?
爺さん、あんたは俺が柴桑へ向かっていると知っているはずだぞ。西だなんて、正反対ではないか!」
「そうだな」
何を当たり前のことを、というふうに、老爺は、蔑みの目で趙雲を見た。
その、人の神経を逆なでするような目線に、ますます趙雲は苛立つ。
「なにを勝手に話を進めている! そも、この女たちは、なにものだ!」
「曹操によって家を焼き払われ、一族とはぐれた気の毒な女人たちだ。
難民の群れに加わっていたのだが、そこを偵察隊に襲われて、ほかの人間はみな死んでしまったのだが、この女たちだけは助かった」
「そうか」
その点には同情する。
曹操の軍は、比較的、ひどい略奪をすることもなく、粛々と南下を進めているが、なかには、やはり制御をなくして、『従来の軍』らしく、夜盗まがいの略奪をしている輩もいるのだ。
ひどいときには、略奪の対象をめぐり、正規の軍と、夜盗とが、戦いをはじめることすらある。
「この女たちの一族は、西に移動している。益州を目指しているのだ」
「益州?」
曹操の略奪をおそれた富裕層の一部は、いち早く益州に逃げている。
おそらく、この女たちの一族も、その逃亡に加わっているのだろう。
だが、趙雲にとって、いまは益州はどうでもいい話であった。
方角的には真逆の、柴桑に用があるのだ。
「でっかいの、おまえはこの女たちを連れて西へ行け。益州までとはいわん」
「ふざけるな、なぜ俺が!」
声を荒げると、女の腕のなかの赤ん坊がぐずりはじめた。
趙雲は赤ん坊に弱い。
なんとか気を静めるため、浅く呼吸を整えてみる。
「益州までとはいわん、と言っただろう。せめて当陽まででいい。そこまで行ったなら、あとは一族の者が待っているはずだ」
「待て。話がさっぱりわからん。どうして当陽までいけば安心などと断言できる。
じいさん、じいさんは、この女たちのなんなのだ?」
「この女たちを拾った。拾ったからには最後まで面倒を見なければならん」
「当陽に、この女たちの一族がいると、断言できる理由は?」
「理由もなにも、そこにいるのはまちがいないからだ」
と、なにを言っているのか、と呆れたように、老爺は言った。
ふと、趙雲は、突拍子もないことを思いついて実行しようとするときの、孔明を思い出した。
孔明も、こんなふうに小憎らしい態度をとる。
あれにはまだ愛嬌があったが、この老爺の場合は、憎たらしいだけだ。
「俺がそれを承服すると思うか。俺はなんとしても、柴桑へ行かねばならんのだ」
「行って、諸葛孔明のもとへ戻るか。それは、いまのままでは無理だぞ、趙子龍。おまえはわしの頼みを聞かねばならん」
驚きというよりも、戦慄が先に身体をつらぬいた。
この老爺はなにものだ? 曹操の細作なのか?
それにしては、要求してくることの意味がわからない。
趙雲は、この二日のあいだ、おのれの名前を名乗らなかった。
いや、待てよ。
うわごとでおのれの名か、あるいは孔明の名を口にしたのか。
「なぜ俺を知る」
趙雲が率直にたずねると、老爺は、無意識に剣に手をかけている趙雲をちらりと見てから、まったく動揺することなく、平然と答えた。
「知っているからだ。なぜおまえたちは、つまらないことに、なぜ、とか、どうして、とかこだわって、わざわざ悩みを広げて、複雑にしたがるのか、わけがわからん。
おまえがここにいるのは運がよかった。だが、このままここから普通に出ることは出来ないのだ。なにか代償を払わねばならん」
「代償とは、なぜ」
「わしは傷を治してやった。宿も貸してやった」
たしかに老爺のいうとおりだ。
趙雲は、いまこそ懐にしのばせた黄金の出番だと思い、子袋を取り出しかけた。
が、老爺は、それを見越したように言った。
「わしはモノには興味がない。行動、それだけがわしを喜ばせる唯一のものだ。
でっかいの、どうする。といっても、おまえの為さねばならぬことはひとつだ。この女たちを連れて西へ行く」
「それは出来ない。言っただろう、俺は柴桑に戻らねばならんのだ」
「船もないのにか」
「船は捜す」
「いいや。船は一艘きりだ。おまえは西へ行かねばならない。それがおまえの払う代償で、ほかには手段はない」
「なぜ。もし俺が西に行かないと言ったら、爺さん、もしや曹操に俺を売るつもりではなかろうな」
趙雲が言うと、老爺は、ふむ、とうなずいて、そういう手もあるな、などとつぶやいた。
「逃げ出すのは無理だぞ。それに、この女たちを連れていたほうが、おまえは曹操の追っ手から逃れられるだろう。
曹操の追っ手どもは、刑吏のように人を追跡することには長けておらぬ。夫婦者を装えば、連中をたやすく捲けるぞ」
「たとえ捲けたとしても、西へ行き、それから柴桑に戻るときには、また一人だろう。意味がない」
「おまえが柴桑へ戻ろうとするときには、ほとぼりも醒めているだろうさ。
曹操とて、そうあちこちに人員を裂いている場合ではないと気がつくだろう」
趙雲は、当初は感情に流されて口論をしていたのだが、だんだん薄気味悪くなってきた。
見るからにみすぼらしく、姿かたちもやせぎすでみっともないうえに、知性も感じられない顔つきの老人であるのに、どうしてここまで世情にくわしいのであろうか。
曹操の名前なら、いまや幼児でさえ知っている。
だが、諸葛孔明となると別だ。
おそらく新野や襄陽の周辺、そして江夏か柴桑のあたりでなら知られている、要するに地域限定で有名なだけの名前で、こんなふうに世間から打ち捨てられたようなところの人間が知っているような名前ではない。
まして、自分の名前ともなれば、もっと知られていないはずである。
「あんたは何者だ。曹操の細作なのか」
「もしそうなら、おまえを助けるか」
曹操は、有能そうな人士を集めて家臣に加えるのを好む。
その作業の一貫ではないか、とも思ったが、それにしては子連れの女を西に連れて行け、という依頼は奇妙だった。
「わしのことを詮索しても無駄だ。おまえにはわかるまい。
それよりどうする、でっかいの。西へ行くしかほかに道はない。もちろん、おまえが西に行くふりをして逃げ出さないか、わしが途中までついていく」
「もしどうしてもいかない、といったら?」
「おまえの命運は尽きる」
曹操の追っ手にかかったとする。
曹操の前に引き出されたとして、仕官に誘われたとき、趙雲は首を縦には振らないおのれをすぐに想像できた。
そんなことはできない。
俺は人生の最後の最後まで、……の、味方として……と、ここで、一瞬、劉備ではなく孔明の顔が真っ先に浮かんできて、趙雲はあわててその顔を劉備に挿げ替えた。
なにを考えている、俺は。
俺の主は劉玄徳ひとり。孔明は守るべき相手、上役、というよりも、世話のかかる後輩、あるいは弟分のようなものだ。
道はない。
当陽まで行って、その足ですぐに柴桑へ向かう。
どれだけの日数はつぶれるか、想像もつかないが、死ですべてが断絶するよりは、はるかにましである。
「わかった。西へ行く。ただし、条件がある」
「言ってみろ」
「俺は西へ行く。じいさん、あんたも途中まで付いてくるといった。だが、俺が西へ行ったのを確認したら、じいさん、あんたは柴桑へ行って、俺が無事であることを、柴桑の諸葛孔明に伝えてほしい。
そうしてくれたら、俺は黙って西へ行く。どうだ」
「わしが、柴桑へ」
老爺は、趙雲の交換条件に、しばらく考え込んでいた。
「柴桑、柴桑か。柴桑、うむ」
「耳が遠いのか?」
不安になって趙雲がたずねると、老爺は、むっとして顔を上げた。
「しっかりしておるわ。柴桑だな。わかった、よろしい、そうしてやろう。
この戦がどうなるか、わしもすこし興味がある」
老爺の、さきほどからの、天上から地上を見下ろしているかのような発言に、趙雲は違和感をおぼえていた。
この老爺、細作ではないというのなら、いまはこれほど身をやつしてはいるが、実は相当に身分の高い人間ではなかったか。
だから、世人の目を避けるようにして、こんな薄汚い場所で生活をしているのではないか。
と、それにしても、この子連れの女たちを助けることといい、趙雲をその守護につけてやるところといい、たしかに客観的に見れば悪いことではないが、どうも親切も過剰に過ぎる気がする。
これで、女たちがこの老爺の親族だというのならわかるのだが、いまのところの言動からすれば、縁もゆかりもない人間であるらしい。
「こいつは、でかいわりには、なかなか知恵が働く。また余計なことを考えださないうちに、出発をしたほうがいい。おまえたち、歩けるかね」
老爺がたずねると、女たちは、おびえた風でありながらも、こくりとうなずいた。
「それならよろしい。すぐに出発するとしよう。
荷物の類はなにもなかろう。準備をすることもないはずだ。さあ、西へ参ろう」
趙雲としては、まだなにかこの旅から抜け出せる方法があるのではと思っていたが、結局のところ思い出すことができず、老人に引っ張られるように、本来の目的地である柴桑とは真逆の当陽へ向かうはめになってしまった。
女たちは趙雲を警戒してのことか、川岸の集落を出発してから、いちども口をきこうとしない。
目を合わせることもしない。
目を合わせたら、とたんにこちらが襲ってくるとでも思っているようであった。
おもしろくない。が、仕方ない。
趙雲は、なるべく早く当陽に向かい、そして一日も早く柴桑に戻りたかった。
もしこの女たちの事情を知ってしまったら、かえって足が遅くなる予感がした。
知らないほうが、情もわかない。
若い女のほうは小柄で、腕にしっかりと赤ん坊を抱えている。
その姿には、いやでも麋夫人のことが思い出される。
女の傍らに、ぴったりとくっついているのは五十台くらいの女で、これは若いころはたいそうな美人であったろうにと思わせる、目元に美しさを残す女であった。
だが気のほうはだいぶ強いらしく、趙雲のほうを、定期的ににらみつけてくる。
なにを間違ってもこちらに寄ってくるなと、無言で威圧しているようだ。
娘と孫を守ろうとする母、といったところか。
馬もなにもないため、徒歩での旅となったのだが、女たちは無言で西へと道を歩く。
趙雲は、自分を追っているはずの曹操の兵を警戒しながら、老爺にもらった笠で顔をかくして歩く。
そして老爺はというと、女たち、そして趙雲のあとから、すこし遅れて、傘もかぶらず、まるで囚人をうしろから監視する警吏のように、すこし尊大に顎をあげて、ゆっくりとついてくるのだった。
足の弱い女ふたりに加えて、乳飲み子をつれた徒歩の旅は、すぐに行き詰った。
そも、ろくに水も食料もないのだ。
路銀といえば、趙雲がふところに忍ばせている金塊のほかは、女たちが持っているわずかな路銀のみ。
その額を聞いて、ちかくの農家で牛を借りることもできないと、趙雲はがっかりした。
老母のほうは、これはいままで、よほど悪い連中に絡まれてきたらしく、落胆した趙雲に対し、
「だからといって、我らは身を売る真似はいたしませぬぞ!」
と叫んだ。
それは安心していいと答えて、趙雲は別の手段を考えた。
別の手段。
すなわち、どこからか牛馬のどちらかを盗み、足にする。
このさい、道徳だの倫理だのは気にしていられない。
どうせいま立っている荊州は、曹操が盗んだ荊州だ。
盗人から、さらに牛馬の一頭くらい盗んでも、罪には当たるまい。
そんな滅茶苦茶な論理を無理に頭に組み立てて、趙雲はおのれの思い付きを正当化させた。
焦っていたのだ。
戦が本格的にはじまるまでには、柴桑に戻らねばならない。
もし運よく孔明が生き残っていたとしても、戦が終わったあと、周瑜がどうでるか、見当がつかなかったからだ。
旅の最初のうちは、食事は、老爺が、どこからか捕らえてくる魚や泥鰌で食いつないでいた。
だが、道を進んでいくうちに、切羽詰ってきた。
それというのも、老爺が言っていたとおり、賞金首のかけられた趙雲を狙って、あちらこちらに野盗くずれや兵卒くずれがうろついていたからだ。
趙雲は女たちと夫婦もののふりをしてやり過ごしたが、凶暴そうな一団を遠くに見つけたときは、本来の道を迂回しなければならないこともあった。
その面倒が、水と食料の調達もさらに困難にしたのである。
このままでは、ただでさえ遅い旅が、ますます遅くなる。
出発してから、趙雲は、老爺との取引に乗ったことを後悔した。
要領がよいものであれば、なんやかやと理由か難癖をつけて、約束を反故にしただろうが、趙雲は根が真面目なので、そんなことも思いつけない。
なにかよい手はないものかと考えながら、とうとう鳥林のそばまで戻ってしまった。
曹操と会見したあとに北上し、そのあと馬に振り落とされた地点である。
ここから馬に見捨てられたので、仕方なく徒歩で北へ、川岸へと向かったのだった。
まさか、こんな事態になるとは夢にも思っていなかった趙雲は、あのとき、どちらへ逃げていたらよかったのだろうと考えた。
曹操ならば、追っ手をどちらに仕掛けるだろう。
江夏の劉備の配下であろうと見当をつけているのなら、やはり北東方面に追っ手を割くだろうか。
となれば、いま南西に向かっているのは、追っ手をまく、という点では正解かもしれない。
そんなことを考えていると、小用を足そうと、趙雲から離れて茂みに向かっていた女たちが、鋭い悲鳴をあげた。
兵卒があらわれたか、さもなくば蛇か。
飛んでいった趙雲であるが、そうではなかった。
草むらに埋もれるようにして、こちらに背を向けて、横倒れになっている兵卒の死体がある。
そのうえに無残にも蝿が何匹もたかっていた。
死んでから、すでに何日か経っているであろうことは見て取れた。
蝿のたかるその死体の格好からするに、どうやら曹操の兵卒であるらしい。
こんなところでなぜ死んだのか。
脱走したところを、運悪く見つかって殺されたか、あるいは曹操をよく思わぬ地元の人間に、ひとりでいるところ、殺されてしまったか。
女たちは怯えて、ぶるぶると震えている。
これから先、似たような光景に何度も出くわすだろう。
趙雲は、女たちかを、死体の見えないところまで連れて行き、そして先を急ぐことにした。
哀れな兵卒の姿が気になって、ちらりと振り返り、気を取り直すために、若い母親のかかえている、みずみずしい明るさをたたえた赤ん坊を見る。
赤ん坊は、なにもわからず、元気に四肢をぱたぱたとさせて、あー、あー、と、言葉にならない言葉を発していた。
その目線に気づいたか、若い母親が、礼のつもりか、ぺこりと、軽く趙雲に頭を下げた。
女たちのほうから、まともになんらかの接触があったのは、そのときがはじめてであった。
それまで、口を利くこともなければ、目すらあわせたことがなかったのである。
「あれを哀れと思うか、でっかいの」
と、うしろから、近くの川へ釣りにでかけるかのような軽装でずっとついてくる老爺は、ぶっきらぼうにたずねてきた。
「戦場で果てることができたのだ。武人としては本望であろうに」
「本望か。たしかにそうかもしれないが」
答えつつ、趙雲は、すこしづつ全体の色が褪せつつある草原を見回す。
草むらと、岩と、それから思い出したように生えている木々と。
人家もなければ、人の姿も目に入らない。
こんな戦場ともいえないさびしい場所で、たったひとり、朽ち果てていくのは、はたして本望といえるだろうか。
「不服そうだな。おまえは本当は、どう死にたい」
妙なことを聞いてくる老爺である。
よほどの変わり者であるらしい。
「聞いてどうする」
質問に質問でかえすと、老爺は生意気だと思ったらしく、不機嫌そうに、ふん、と大きく鼻を鳴らした。
「参考にするまでだ」
なんの参考だ、と怪訝に思ったが、趙雲は、ふたたび身体の黒く変色した、土に還りつつある兵卒の後姿を見た。
「そうだな、俺はおそらくこれから先も、家というものには縁がなく生きていくだろうが、それでも、死ぬときくらいは、乱世の武人としてではなく、士大夫のはしくれとして、家で眠るように死んでいきたい」
「だれかに看取られて、泣きながら送られたい、と思うわけか」
「そこまでは思っていない。そうだな、一人で死ぬにしても、だれにも見つけられることなく、こうして埋もれていくのがいやだ。
戦で果てるにしても、名前もわからぬ雑兵に、さんざん身体を探られたあげくに、五体をばらばらにされたうえ、首をさらされる、などという羽目に陥るもの最悪だな」
そんなふうにして死んでいったものを、たくさん見てきた。
趙雲は、自分がそんな願いを持っていることに、はじめて気づいて、自分で自分を意外に思った。
戦場で果ててこそ、武人の本望だと思っていたはずだが、これでは真逆である。
「死はこの世との断絶なのだ。それを見せ付けられるような死に方を目にするのは、さすがに心が塞ぐな」
思わず素直に感想を述べて振り返ると、そこにいるかと思った老爺は、もうどこにもいなかった。
あとは、さわさわと、草原を揺らす風が吹いているだけである。
「あの方は、いま、東へ向かわれました」
と、それまで一言も口を利かなかった若い母親のほうが、趙雲に語りかけてきた。
「わたくしたちも先を急ぎましょう。この土地はじきに戦場になる。その前に行かなければなりませぬ」
たしかにそのとおりだ。
趙雲は、見晴らしの良い土地のなかで、忽然といなくなった老爺のことを気にしつつ、女たちを守り、西へ、当陽へと急ぐことにした。