飛鏡、天に輝く

四十七

さて、ここですこし時間をさかのぼる。

曹操の陣から脱出した趙子龍は、裸馬に飛び乗って、一路、北へと向かったが、途中、馬に振り落とされて、とりあえず単身で長江の川岸までたどり着いた。
そしてそこで渡し舟を見つけて、対岸の江東へと向かったのであるが……

乗り合いの渡し舟のなかで、趙雲は徹夜の疲れもあって、ぐっすりと眠っていた。
だが、ゆったりと揺られて眠りをむさぼっているうちに、だんだんと、胸のあたりの痛みが、眠りを妨げはじめてきた。
寝ればおさまるだろうとおのれに言い聞かせ、しばらくは知らぬ顔を決め込んで、眠りつづけていた趙雲であるが、やがて、その痛みは、我慢できないほどにつよいものに変わっていった。

起き上がり、痛みを発する胸のあたりを抑えて、起き上がる。
すると、あまりの痛さに、脂汗を浮かべていたために、乗り合わせていた客たちが、おどろいて、心配そうに声をかけてきた。
「やあ、ひどい汗でございますよ。もしや、お加減が悪いのではございませんか」
「船酔いでしたら、薬を分けて差し上げましょうか」
気のよい同乗客は、そういって趙雲につぎからつぎへと声をかけてくる。
だが、それにすら、趙雲はまともに答えることができなかった。

そして、事態に気づいた。
以前に負った傷が、裸馬に振り落とされたときに、また開いてしまったのだ。
なんという間の悪さ。
船に乗るまでは、緊張していたので痛みに気づかなかったのだが、気が緩んだとたんに、傷が主張をはじめた、というわけである。

「船頭さん、この方が、どうも具合が悪いようですよ。引き返して、どこか近くの岸で、おろして差し上げたほうがよろしいのじゃありませんか」
と、人のよさそうな男が、船頭に言うと、竿でもってたくみに船を動かしていた船頭も振り返り、趙雲の様子を見て、顔をしかめた。
「ひどい顔色をしてなさる。どうです、お武家様、その人の言うとおり、どこか途中で降ろして差し上げましょうか。ほかの人も、それでいいかね」
「あたしたちは構いませんよ。だって、この人、ほんとうにひどそうですもの」
と、夫婦連れの客のうちの、妻のほうが、趙雲の額の汗をぬぐいつつ、言った。

そうした思いやりのある、温かな言葉が飛び交うなかで、趙雲ひとりが、冗談ではない、と思っていた。
一刻も早く柴桑へ戻らねばならない。
小船は、対岸どころか、まだ鳥林から北東の土地の岸にそって動いている状態である。
せっかくうまく逃げたのに、戻ることになっては、意味がない。
「いや、大丈夫だ。このまま陸口へ行ってくれ」
趙雲が訴えると、しかし船頭をはじめとする、善良な客たちは、口々に心配そうに言った。
「それはいけない。無理をなさって大事になったらどうなさるのです」
「渡し舟は、まだあとからでも出ますよ。すこし休まれて、それからまた船にお乗りになればよろしいでしょう」
「近くに村がございますから」
と、船頭は、趙雲の訴えを無視して、船をふたたび荊州側に戻しながら、言った。

趙雲は、かれらの善良さと純朴さに、かえって強くものが言えなくなってしまった。
もしこれで、乗り合わせた客に迷惑そうな気配があったのなら、声を荒げるなりできたかもしれないが、どういうわけか、みな、心から趙雲の様子を心配しているのである。
近々、戦が起ころうというこのご時勢で、人の心は荒みきってはいない、ということか。

ほどなく、葦の原をゆっくりくぐりぬけていくと、いかにも貧しそうな、朽ち果てかけたほったて小屋が目に入ってきた。
ずきずきと痛みを訴えてくる傷口をおさえる趙雲を乗せた船をたくみに操りながら、船頭は、村ともいえない、二、三軒しか家屋の見えないその土地に向かって、大声で呼ばわった。
「おおい、おおい、だれかいるかね。すまないが、病人が出たのだよ。すこしでよいから、そこで休ませてやってくれないかねえ」
一度目は、なにも返事がなかった。
二度目に、船頭がふたたび呼びかけると、小屋のような家から、よたよたと、痩せこけた老爺がひとり、顔を出してきた。

病にかかった鶏、あるいは人の姿にそっくりな枯れ木。
さらには狡猾そうな顔つき。
老爺の痩せ具合とみすぼらしさは、あきれるほどであり、いまにも倒壊しそうな家の様子とあいまって、見ただけで不幸になってしまいそうにさえ思えた。
さきほどから傷の痛さと、そして乗り合わせた人々の善意に困り果てていた趙雲は、老人が不吉の使者に見えたほどである。

実際、趙雲は不運であった。
傷がはげしく痛みはじめてしまったため、声を荒げることもできず、不信を招かぬために、強情を張るわけにもいかない。
人の良い船頭は、よたよたと出てきた老爺のたつ桟橋(これもところどころ腐っており、老人ほど身の軽い者でなければ、すぐに踏み抜いてしまうのはまちがいないような代物であった)に船を寄せると、知り合いらしい老爺に言う。
「どうも船に乗ったお武家さんの具合が悪いようなのだ。じいさんのところですこし面倒をみてやってくれないか。
大丈夫、迷惑をかけるような人ではないから」
と、船頭は、趙雲とは初対面にもかかわらず、いいかげんな身の保障をする。

すると、日に焼けた肌に皺だらけの、疑い深そうな表情をした老爺は、やはり信用せず、片方の眉毛だけを器用に吊り上げて、胡散臭そうに言う。
「すでにおまえに呼び出された時点で、十分迷惑しているぞ」
「そういわないでおくれよ、お気の毒じゃないか。ひどい脂汗をかいているのだ」
「流行病をわずらっておるのではあるまいな。だったら、適当に河に放り込んでしまえ」
「そんなことはできないよ。はやり病だなんて、物騒なことをいうね」
「物騒なものか。南のほうから、蛮族どもが病を撒き散らしているのを知らんのか。噂じゃあ、あちこちで広がっているそうだぞ。そいつもそうかもしれん。
おまえ、うまいことを言って、わしを殺すつもりじゃないだろうな」
「はやり病のことはおどろきだが、相変わらず、殺そうだなんて怖い冗談をいうね。俺があんたにそんなことをするわけないじゃないか。
それに、じいさんなら、はやり病のほうが逃げていくよ」
「おだてたところで」
言いつつ、痩せこけた老爺は、やはり胡散臭そうに桟橋から首を伸ばして趙雲を見た。

趙雲としては、冗談ではない。
せっかくここまでうまくいったのに、今日には江東に戻るはずが、荊州に逆戻り。しかも見るからに怪しげな老人の世話にならねばならないとは。
それなら一人で野原に放置されたほうが、はるかに気が楽というものである。

「お武家様、じいさんが面倒を見てくれるそうですよ。ここですこしお休みなさい。
わたしは、また船を出しますから、具合がよくなったなら、迎えに来てさしあげましょう」
「おまえはいつ来る」
傷みをこらえつつたずねると、船頭は言った。
「さあて、風向きにもよりますが、こちらも商売がありますので、向こうで品が売れて、こちらで仕入れがうまくいきましたら。
だいたい十日くらいあとになりますか」
「十日だと?」
思わず声がひっくり返った。
十日も待ってはいられない。
鳥林から逃げたあと、すぐにこの船に乗れたのは、運がよかったのだ。

「すまぬ、ほかに江東へ向かう船は出ているのか」
「さあて、近頃は戦が起こりそうだというので、往来する船もめっきり減ってしまったようですよ。
ですから、こちらもいつもは人を乗せないのですがね、船がないと困る人のために、こうして船を出しているのです」
と、船頭は、まるで戦が起こる責任が自分にあるかのように、すまなさそうに答えた。
しかしとなりで、老爺は、鼻を大きく鳴らして、言う。
「殊勝な顔にだまされるな。どうせこいつは金が目当てだ」
「このじいさんは、悪いのは口と態度だけだから」
船頭は、趙雲に言うと、桟橋に乗るように、手を差し伸べてくる。

趙雲としては、その手は、何がなんでも取りたくないものであったが、遠慮していると思ったのか、それとも体の調子がもっと悪くなったと思ったのか、船頭は、手を伸ばし、趙雲がまったくのぞんでいないのに、船から無理に降ろそうとする。
こうなると、暴れては、かえって危ない。河に落ちる。

「それじゃあ、ごゆっくりおやすみなさい。じき、迎えにまいりますから」
そういって、なぜこんなことにと呆然とする趙雲を残し、船は桟橋を離れていった。
口と態度だけが悪い、という老爺と二人きり。
しかし、口と態度が悪いというのなら、いったいほかのどこがいいという?

口と態度だけが悪い、と船頭は言ったが、趙雲が見る限り、目つきも悪いし、性根も悪そうである。
ふたりきりになると、痩せこけた老爺は、わずかに曲がった腰を叩きながら、趙雲のほうを、盗人を見るかのような目線で見遣りつつ、口をひん曲げてたずねてきた。
「で?」
なにを問いたいのかがよくわからない。
趙雲が答えに戸惑っていると(傷が痛むあまり、頭がろくに働かなかった、ということも大きい)、老爺は、頭の回転の悪いものを蔑むように、鼻を鳴らして、言った。
「どこが悪い」

趙雲はすぐに理解した。
どうやらずいぶんと長い間、一人の暮らしに慣れている老人らしい。
なぜわかったかというと、その簡略的すぎる言葉遣いのためである。
人と対話することが稀な、孤独な生活をしている老人だ。
趙雲も、かつて長く一人で放浪生活をしてきたから、老人がなぜ、こうぶっきらぼうなしゃべり方になるのか、なんとなくわかったのである。

「傷がひらいた」
「どこの」
「胸のあたりだ」
「そうか」
そうか、といったきり、老爺は、なにをするでもなかった。
趙雲はすでに立っていることもつらいほどに傷に悩まされていた。
しゃがみ込まなかったのは、意地である。
士大夫の子として生まれ育てられた趙雲は、誰の前であろうと醜態をさらすことを嫌った。
上に立つ者として教育されていたので、下々には意地でもぶざまな真似を見せないのだ。
それは見栄ではなく、誇りのためである。
上に立つことの責任感を示すためにも、つねに隙をみせず、立派に振舞ってみせるのが当然なのだ。

老爺は、趙雲を、船頭が置いていった厄介な荷物と思っているようで、ぶつぶつと、聞き取れない声で、なにやら言いながら、崩れかけている小屋のほうへと向かっていく。
「あいつは阿呆だ」
と、不意に老人が声を高くして言った。
「わしに面倒を押し付けることが、いいことだと勘違いしている、ド阿呆なのだ」
「そうか」
としか答えられない。
趙雲も、あまり口のうまいほうではない。

「でっかいの。とりあえず、あの船が次にくるまでは置いてやる」
振り返らず、老爺はいまにも崩れそうな掘っ立て小屋に入っていく。
「十日も待てない」
趙雲の脳裏には、孔明のことがあった。
偉度たちがいるので、なんとかなっているだろう、とは思うが、その偉度たちの能力がどれほどのものか、趙雲はまだ測りかねている。
柴桑に出るときも、周瑜の動きに不穏なものがあった。
孔明がうまくやりすごせているか、早く帰って、それを知りたかった。

「待てなかろうと、待つしかあるまい。それとも泳ぐか」
「無茶だ」
それこそ途中で力尽きて死ぬ。
「ほかに船はないのか。あるだろう」
「おまえの乗れる船はあれだけだ」
なぞめいた言葉を口にしつつ、老爺は小屋に入ってしまった。

屋根も崩れて、雨が降ったらひとたまりもなさそうだ。
野宿するのとさして変わらないな、と思った趙雲であるが、小屋に入ってみると、さらに落胆した。
どうやら片付ける、ということが苦手な人間であるらしい。
そこかしこにさまざまなものが積み重ねられており、その大半は、汚れた染みをつけたうえに厚いホコリをかぶっている。

趙雲は、この掘っ立て小屋のほかに、肩を寄せ合うようにして建っている、外の小屋を見て、たずねた。
「船頭は村といったが、ほかにだれか住んでいるのか」
「いたところで関係あるか」
「ない」
「余計な詮索はするな」

老爺はそのあとは、なにも言わず、怪しげな鍋から、なにかの臓物をたっぷり煮込んだものを器に盛り付けて、趙雲の前に差し出した。
食事ということらしい。
趙雲は食欲がなかったので、それには手をつけないようにしようとしたのだが、老爺は、
「食べないのか」
恩知らずめ、という目をして老爺が見てきたので、趙雲は仕方なく器を手にした。
なんの拷問だ、これは。

翌日、強風のひとつで吹っ飛んでしまいそうな小屋のなかで、趙雲は目を覚ました。
痛む傷と、だれにもぶつけようのない苛立ちをごまかして眠っていたのであるが、ひとたび目を閉じてしまえば眠りは深く、途中で目覚めることもなかった。

起きてみると、おどろいたことに、痛みはかなり薄らいでおり、体を無理に動かそうとするとすこし痛む程度になっていた。
これならば、昨日、是が非でもがんばって、船から降りなければよかった。
そんなことを考えながら小屋を眺めると、あいかわらず小汚いごみの塊のような小屋のなかに、昨日の無愛想な老爺の姿はなかった。
すこし腹が減ったので、かまどの鍋を覗いてみたが、それこそが、昨夜、老爺に出された、なにかの臓物の煮込みであった。
みためはきわめて醜悪ながら、においも我慢できないほどではなく、味はそう悪くはなかった。
だが、進んで食べたいとは思えないしろものである。
ほかには食べ物らしいものはなく、趙雲はおとなしく、老爺が戻ってくるのを待つことにした。

新鮮な空気を吸うために外に出てみると、予想していたより高い位置に太陽が上っていた。
空には、心の芯まで洗われそうな、ここちよい青空がひろがっている。
風はゆっくりと白い雲を運びながら、北へ、と向かっていた。
寒い、というほどではなかったが、すこしばかり風に冷たさをおぼえる。
秋なのだ。

太陽の高さからして、すでに正午は過ぎているはずである。
ずいぶん寝てしまったのだな、と思いながら、傷を痛めないように、すこし体を動かし、掘っ立て小屋が三棟ほど寄り集まった村の全体を見る。
老爺のほか、村人も不在のようである。
ほかの住人のことをたずねたとき、老爺は答えたがらない様子であった。
村と呼ぶのもためらわれるような集落の様子に、趙雲は、こうした場所に住む人間は、なにかしらの事情を抱えているのだろうなと想像をした。

そうしてふたたび掘っ立て小屋のなかに入ろうとすると、ふと、村の周囲にある草むらを撫でる風の音にまぎれて、子供の声が聞こえてきた。
聞き間違いがない。赤ん坊の声である。
小屋に戻ろうとした趙雲であるが、その声が気になって、出所を探ることにした。
赤ん坊の声は独特だ。
どこから聞こえるのであろうかと探ってみたが、そのうちに声はぴたりと止んだ。
あとには風の音が残るべきであるが、違和感はある。
人の気配はすくないのに、やはり、この集落のどこかに、人が住んでいるのだろうか。

そも、見える小屋は、じいさんの小屋をのぞけば、たった三つ。
ひとつひとつを覗くのに、そう時間はかかるまい。
趙雲がそのひとつに足を向けようとした、ちょうどそのとき、どこぞへ出かけていた老爺が戻ってきた。
「なにをしている」
その声色には、あきらかに趙雲へのつよい非難と敵意が含まれていた。
逆に、それが、なにかしらの隠し事の存在を想像させる。
趙雲が振り返ると、老爺は、軽蔑したように鼻を鳴らし(癖であるようだ)言った。
「どうやら、自分で立ち上がることができるくらいには、なったようだな、ほんとうに、運のよい」

胡散臭い老人だ。そして無礼でもある。
が、しかし、宿を貸してくれたこと、そして食事を分けてくれたことにはちがいない。
趙雲が礼を言おうとすると、老人はそんな様子もまったく無視して、あいかわらず機嫌が悪そうに、手にした籠や、水で洗ったさび付いた刃物を片付けながら、ぼそりと言った。
「鳥林でちょっとした騒ぎがあったらしい。大胆な曲者が、曹丞相のまえに現れて、なにやら不遜な言葉を浴びせかけ、立ち去ったとかなんとか」
趙雲は、礼を述べるために開きかけた口を閉ざした。
「男はまんまと逃げおおせたとのことだが、曹丞相は、まだ男がこの近くにいるであろうから、かならず捕らえよと命令を下した。いろいろ報奨も与えられるそうだ」

恐れていたことであった。
曹操からすれば、曲者が堂々と目の前にあらわれた。
面子にかけても、これを捕らえて処罰を加えねば気がすむまい。
つくづく、傷の痛みに耐えかねて、船を下りてしまったことが悔やまれた。
もしあのとき傷が痛みさえしなければ、いまごろは対岸にいたはずであった。
こんなところで死にたくはない。
柴桑にいる、孔明のもとへ帰らねば。

老爺は、釣りをしてきたようである。
篭いっぱいに入れたなにかを、壷に無造作に空けて、それから、さび付いた鎌を、しばらくじっと見つめていた。

いかんな、と趙雲はすぐに思った。
報奨がついた。
曹操のことであるから、気前よく報奨をつけたにちがいない。
荊州の人間のなかで、劉備を慕っている者は、新野とその周辺のかぎられた地域の住人たちだけである。
荊州の南の地方では、劉備の名前は知られていても、慕う、というほどではない。
かれらには生活がある。
いまや荊州の主は曹操だ。
その曹操にうまく取り入るために、賞金首のかかった人間を突き出すことに、罪悪感もためらいもないはずだ。

趙雲は、近くを流れる長江のせせらぎを聞きながら、考えた。
相手は、藁のように痩せこけた老爺だ。
手にしているのは、刃もさび付いた、ちいさな鎌のみ。
もし、これが欲にかられて襲い掛かってきたとしても、趙雲は撃退する自信があった。
傷も癒えてきている。問題はない。

警戒しつつ、老爺の様子をうかがっていると、老爺のほうは、藁の腰蓑をはずしながら、言った。
「男は身の丈八尺で、見るからに立派な風貌をしているとか。どちらかというと痩せていて、背丈の割には、あまり大きくは見えない。
だいたい三十なかば。訛りからして、どうも荊州の人間ではなく、北方、もしかしたら冀州の出自であるらしいとか」

趙雲は焦った。
短い会見であった。
こちらも顔を隠すべく、奪ったかぶとで顔を隠していた。
だが、さすがは曹操、あの短いあいだに、そこまでの観察をしていたわけだ。
しかも当たっている。

老爺はどうするであろうかと、注視していた趙雲であるが、警戒されていることに気づいたのか、老爺は刃物を小屋の壁の金具に引っ掛けてした。
「近頃は目立ちたがりが多いが、そういう目立ちたがりの首を狙って、跳梁跋扈する連中も増えた。
噂じゃ、報奨に目がくらんで、曹操の兵どものほか、夜盗の類や、流民くずれまでも、血なまこになって男を捜しているそうな。
褒美がもらえるだけではなく、出世ができるかもしれぬのだから、そりゃあ、みな必死になるだろうよ」
浅ましいことだ、と吐き捨てるように、老爺は付け加えた。
「その追っ手とやらに会ったか」
趙雲がたずねると、老爺は、みじかくうなずいた。
「会った。かくかくしかじかの男を見なかったか、とな。無礼な連中だった」
「なんと答えた」
「知らんと答えた」
「そうか」

趙雲は、ここで、老爺に礼を言うべきか、それとも知らぬ顔を決め込むか、迷った。
老爺の表情は、会ったときと同様に不機嫌にゆがんでいて、何を考えているのか、まったく読めない。

「曹操という男、報奨という餌があれば、だれでもそれに食いつくものだと思っているらしいな」
「そうだな」
趙雲はすこし冷静になってきた。
良くも悪くも、この老人は恩人だ。
恩人である以上、なるべくなら危害を加えたくない。
「追っ手はどこへ行っただろう」
「さて、まだここいらをうろついているようだ。あまりうかつに外を出るなよ」

気づいている。
趙雲は緊張し、老爺のつぎの言葉を待ったが、老爺はというと、もうその話には興味がなくなったのか、例の怪しげな臓物の煮込みがたっぷり入った鍋をかき混ぜながら、言った。
「昨日は雨蛙みたいに真っ青な顔をしていたが、顔色がよくなったな、でかいの。あと一日は大人しくしていろ」
そういって、趙雲ががっかりしたことに、老爺はふたたび昨日と同じ臓物の煮込みをたっぷりと器に注いで差し出してきた。

その夜、趙雲は、徐々に膨らんでくるさまざまな焦りと戦いながら、小屋のなかで横になっていた。
なかなか寝付けなかったが、ようやくうとうとしてきたとき、ふたたび、波の音、風の音にまぎれて、はっきりと、赤ん坊の泣き声を聞いた。
聞き間違いではない。
この集落には、子供がいるのだ。

小屋で二回目に目覚めたとき、趙雲は、おとといの不調が嘘のように、ほとんど完璧といっていいほどに回復していることに気がついた。
身体をひねろうが、屈もうが、まるで傷に響かない。
ためしに裸になって傷の具合を見てみたが、すこし痕になっているだけで、炎症を起こしている様子もない。

趙雲は薬の類を飲んでいなかったから、回復の理由として考えられるのは、老爺に振舞われた、例のあやしげな臓物の煮込みであった。
あれの効果としか考えられない。
あの臓物の煮込みは、なにかの薬だったのだろうか。

昨日の曹操の追っ手の話があったので、趙雲は外に出るのも慎重になった。
まずは扉(といっても筵を扉代わりにぶら下げているだけのものである)から外を覗き、周囲にだれもいないことを確かめてから、外に出た。
まだ川岸に生えた草木は、青々として、きつね色に変ってはいない。
日陰の無い場所でうける日光は、暑いくらいであったが、しかし風に乗って飛ぶ蜻蛉の姿が、秋であることを知らせていた。

風は北東へ吹いている。
蜻蛉のように翼のあるものになって、風に乗ることができたなら、いますぐにでも柴桑へいけるのに、と趙雲は思った。
片時たりと、柴桑に残した孔明のことを忘れたことがない。
鳥林に残してきた徐庶や陳逸徳らのことも、気にならないわけでもなかったが、趙雲の主命は、あくまで孔明を守ることなのだ。
このように時流からすっかり隔離されたような土地にいると、世の中がどういうふうに動いているのかもわからない。
せめてもうすこし、人の流れが活発なところで足止めを食らっているのならよかった、と思う。

徐庶や陳逸徳は、なんとかなりそうだ、という予感がある。
曹操は、やはり思っていたとおり、英雄のひとりだ。
けっして狭量な人物ではない。
突然の闖入者である自分の話を、ちゃんと聞いた。
ふつうならば、曲者の話なぞ戯言にすぎないと一蹴する。
あの柔軟な人物ならば、的確におのれの陣で起こっていることをしらべ、そして、対処をするだろう。
責任の所在がどこにあるか、ちゃんと究明もできるはずだ。

いや、究明に関しては、曹操だけに期待はできない。
残りの努力は、曹操側の徐庶や陳逸徳にかかっている。
あとは彼らの問題だ。こちらは出来る限りのことはした。
あとは柴桑に戻り、本来の目的を果たす。

そうだ。
もう身体は回復したのだ。
船頭は、あと十日もしなければ船をよこさない、などとのんきなことを言っていたが、たった一艘の渡し舟を中心に、物事を考えるのもおかしなはなしだ。
いくら戦のために往来が減っているとはいえ、船が一艘だけ、などというばかげたことはないはずだ。

趙雲は、おのれの懐に忍ばせている袋の中身が、まだちゃんと残っていることを確認した。
そこには、いざというときに使用するための、金塊が入っている。
微々たるものであるが、その輝きは、玉石を見せるよりも、世間では威力を発揮する。

見たとところ、この周辺に、ほかに民家はなさそうだ。
だが、もうすこし足を伸ばせば、船を持っている家を見つけられるかもしれない。
じいさんには悪いが、いますぐここを出て、柴桑へ戻る準備をするべきではないのか。

善は急げ。
川沿いに移動すればよかろうと歩き出した趙雲であるが、そのとき、ふたたび、赤ん坊の声が聞こえた。
やはり、この集落には、赤ん坊がいる。
いたところで、だからなんだ、というわけでもない。
ただ、人の気配の無い集落で、赤ん坊の声だけがハッキリ聞こえてくる、というのが奇妙であった。
好奇心にかられ、趙雲は、のこりの掘っ立て小屋の扉を開けてみた。

赤ん坊の声が聞こえてくる。
しかし、中にはだれもいない。
長く打ち捨てられて久しいと思われる、目だった生活用品のなにもない小屋であった。
逆に、あの老爺ひとりが、どうしてこの場所にこだわってすごしているのか、それが奇妙に思えてくる。
とはいえ、かれもまた、おのれにとっては行きずりの人間のひとりにすぎない。
助けてもらったわけであるが、わけを抱えているのなら、あまり深入りしないのも礼儀というものだ。
気にしないことにして、趙雲は赤ん坊の声がどこから聞こえてくるのかを手繰ろうとする。

中にだれもいないため、聞き間違いであろうかと、いったん外へ出たのであるが、逆に声が遠くなった。
やはり、室内にいるらしい。

「おい」
赤ん坊なら、答えることはないだろうと思ったが、趙雲は思わず声をかけてみた。
すると、赤ん坊の声のかわりに、不明瞭ながら、大人の声が聞こえた。
泣く子供をたしなめるような声である。
だれかいる。

「だれかいるのか」
今度は、はっきり尋ねると、赤ん坊の声が途絶えた。
赤ん坊とともにいる大人が、泣き声を抑えてしまったらしい。

しん、と静まり返った小屋は、ところどころ砂埃で汚れているのだが、抜けた天井から差し込む光で、最近に、床のうえを複数の大人が移動したのが、その足跡で見て取れた。
足跡をたどっていくと、小屋の奥に、不自然に茣蓙が扉の代わりに天井からぶら下げられている場所がある。
一瞬であるが、風もないのに、ところどころ綻びのある茣蓙が揺れたところを、趙雲は見逃さなかった。
中にだれがいるともわからない。
老爺は、趙雲の携帯していた剣は取り上げていなかったので、片方で、いつでも剣を抜けるようにしながら、趙雲は、その茣蓙を引っぺがしてみた。

とたん、茣蓙の帳の向こうから、二人分の女の息をつめたような声があがった。
赤ん坊を抱いている女の怯えた目と、目が合う。
女は泥まみれの、ひどい格好をしていた。
髪もすっかり崩れて、何日も結いなおしていないようである。
女の後ろには、それを助けるようにして、両肩をしっかり抱いている年老いた女がいて、こちらは、はげしい憎悪を双眸に宿らせて、趙雲を睨みつけていた。

趙雲は、とっさに声を出せなかった。
こんな崩れた小屋の中にいる、この女たちは何者なのか、そして、なぜここにいるのか、すぐに想像も推測もできなかったからである。
それは女たちのほうも同じであったらしく、赤ん坊を抱えた若い女は、がたがたと震えながら趙雲をにらみつけるばかりで、その後ろにぴったりと身を寄せて、女と赤ん坊を庇おうとしている老女のほうは、もし趙雲が危害を加えようという素振りを見せたなら、いますぐ刺し違えてでも戦おうと決意しているようであった。
身なりこそみすぼらしいものの、その誇り高い顔立ちからして、かなりの家柄の出自の女たちであることは推測できた。
だが、ここにいる理由がわからない。
住んでいる、というふうではない。どういうことなのか。

趙雲が戸惑っていると、背後から、老爺の声が聞こえた。
「見つけたか。運のよいやつ」

48へつづく
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