飛鏡、天に輝く

四十六

「風だな」
「風でございます」
「風だ」
「ですから、風でございますよ」
「風。うむ、風だ」
孔明とのじゃれ合いのような会話のあと、偉度は大きくため息をついて、河岸にたって、じっと姿なき風を見つめて腕を組む孔明の後姿に言った。

河岸には、ほかに人影はなく、打ち捨てられ、朽ちかけた桟橋に、おなじく打ち捨てられた漁船が、さびしく草むらに埋もれているだけである。
名前のわからない鳥が、使われなくなった桟橋の、澪つくしに止まって、風を眺めていたが、やがて風をとらえたのか、大きく羽ばたいて去って行った。

「ひとつ言わせていただきます。そのように風よ、風よと呼びかけたところで、風伯(風の神)が立ち止まって、なにか御用、とあらわれることはありませぬぞ」
「そうか? 案外、わしを熱心に見つめているのはなにやつじゃ、と思って足を止めるかもしれないではないか」
「本気でおっしゃっておいでか」
「半分」

孔明は、ひたすら風を見つめていた。
夏から秋へ変わりゆく季節のなか、吹き抜ける風は北へ向かい、南へ旅立つものはない。
この時代、天候を読み、予測する者はいないでもなかったが、その根拠はたいがい類推と迷信に拠るもので精度は低く、この日、この時と限定できるようなものではなかった。
南東へ吹く風が、ないことはないだろう。
問題は、その風が、いつ吹くかである。
だいたいこのあたり、などというおおまかな予測では駄目だ。
これから決戦というその日に、風は吹かなくてはならないのである。

「御伽噺の世界に逃げても、駄目でございます。どうなさるのです」
「このまま御伽噺の住人になってしまいたいところだな。ふだんの行いのよい若者は、天帝に目をかけられて、助けてもらえるのだよ」
「どこに、ふだんの行いのよい若者がいるのでしょう」
「ここにいるではないか。ほかにだれがいる」
「あきれた」
「若者が、風さん、風さん、ちょっと南東へ吹いてくださいな、とお願いすると、風はいいやつなので、気持ちよく、ぴゅうっと吹いてくれるのだよ。びゅうっと」
「気安い風もあったものでございますね」
「風を褒めて褒めて褒めまくれば、そのうち気をよくして、ほんとうに南東へ向かってくれるかもしれない」

そのとき、ひときわつよい北風が、孔明と偉度の前をびゅうっと吹き抜けていった。
川岸の色の枯れ始めた草木が、北風になぶられて、ざあっと流れる。

「おだてが通用しない相手らしいな」
「いいかげん、現実にお戻りくださいませ。このままでは、風は吹かずに開戦となり、あなたさまは戦神へのささげものとして、適当な理由でもって首を刎ねられてしまうことでしょうよ」
「そうだな」

ぼんやりと風の流れをながめつつ、孔明はてきとうに相槌を打ってから、後ろで不満顔をしている偉度に言った。
「いまのうちに言っておく。もしわたしが死ぬようなことがあったなら、おまえがみなをまとめて、弟の均のもとへ行け。
あれには、叔父から譲り受けた財産をすべて渡してある。わたしが死んだなら、その財産はみな、おまえたちのものだ」
「財産とは? お言葉ですが、いまさらわれらに財貨など不要。われらに同情しておられるならば、そのような話は」
偉度が言い終わらぬうちに、孔明はさえぎるように、言った。
「同情ではないよ。おまえたちはわたしの子供ではないか。父の財産を子が継ぐのは道理。
それに安心するがよい。たしかにわたしも弟も、ちいさな家に住んではいたけれど、貧乏であったわけではない。叔父は予章を追われたとき、追っ手がかかることを予測して、すぐに持ち出した財貨を、持ち運びのしやすいものに換えたのだ。
たとえば、黄金や、貝、玉などに。いまそれらを金に換えれば、十分ではないかもしれないが、おまえたちすべてに、それなりのものは行き渡るであろう」
「ですが」

孔明は、振り返って、不満とは別に、戸惑いのいりまじった偉度の表情を見つけて、笑みを浮かべた。
「わたしの助けはいらぬか。それとも、そうしたものを汚らわしいと思うのかな。若者らしい考えであるが、しかし偉度よ、現実に、このように世相の安定しないなかでは、金は重要だぞ。
使い方によっては武器にも防具にもなる。おまえたちは、ほかのものよりもないものが多いのだから、それを補うためのものだと割り切って、受け取ってくれ」
「まるで遺言のように聞こえますが」
「まるで、ではなく、そのものだ」

孔明が言うと、偉度は今度はつよい不満と怒りを浮かべて、その大きな目で孔明をまっすぐにらみつけてきた。
負けん気のつよい偉度は、孔明が弱気になることが許せないようである。

「そのようにふくれ面をしないで聞いておくれ。わたしは叔父上がどうなさろうとしていたのか、なにを願っていらしたのか、なにも知らぬまま死に別れてしまった。
だから、もしわたしに子供にできたなら、未来がたとえ磐石のもののように思えていても、かならず遺言を残しておこうと思ったのだよ」
「泣き言にしか聞こえませぬ」

憮然として言う偉度に、孔明は微笑んで見せたが、しかし硬い表情は変わらなかった。
風が吹きぬけていく。
この風の吹き行く先とその時を、正確に当てるには、いったいどうしたらよいのだろう。

「もしも軍師が首だけになっておしまいになりましたら、偉度は、せめて首だけは持ち帰ってさしあげます」
おや、すこし歩み寄ったな、と思い、孔明は言った。
「ならば、持ち帰る先は敵地となってしまった襄陽ではなく、生まれ故郷の瑯琊にしておくれ。
いまとなれば、さして思い出深い土地ではないけれど、祖霊のいる場所であることにはちがいないからな」

「軍師、この件をやり過ごす手が、ひとつございます」
偉度の、さきほどまでの感情まじりの声色ではなく、こわばった口調に、孔明は、すこし眉をひそめて振り返った。
付き合ってみれば、偉度は他者を小馬鹿にした態度を装っているけれど、実際は装いきれずに、素の顔が透けて見えている。
いまもそうであった。

「どういう手だ。言ってごらん」
「周都督がお亡くなりになれば、話はなかったものになります。ご命令くだされば、周都督の首を取ってまいります」
「怪我をして、あれほど神経を尖らせている都督が、刺客を警戒していないと思うか?」
「警戒は増していることでしょう。ですが、これは戦でございます。どちらが死ぬか生きるか、そういう話ではありませぬか」
「そうかもしれぬな。都督の策略にまんまと嵌り、生真面目に風を吹かせることを考えているわたしは、愚か者なのかもしれぬ。常人ならば、江東を逃げ出そうとしているだろう」

「もし江夏へ逃げることをお考えならば、われらも尽力いたします」
声を落とし、真剣そのものに迫る偉度に、しかし孔明は首を振った。
「いや、それこそ都督の思う壷であろう。世間では、わたしから風を吹かせると宣言したということになっている。
ここで逃げたなら、わたしは残りの人生を笑い者として生きることとなる。まあ、死ぬよりはましかも知れぬが、あまりよい生き方ではないな」
「ならば、どうぞご命令を。以前に軍師はおっしゃったではありませぬか。ひとつでも可能性が残っているのなら、どれほどみっともなかろうと、それに賭けて努力するまでと。
逃げることができないというのであれば、あとはひとつ。都督の首を取るまででございます!」
「たしかに言ったが」

言いつつ、孔明は、ちょいちょいと、手振りで偉度を身近に招きよせた。
内密の話しかと思ったのか、偉度は顔をさらに険しくして、ささっと身を寄せてくる。
ちょうど偉度が手にとどく距離へきたとき、孔明はおのれのこぶしを、偉度の脳天に落とした。
突然の孔明の拳骨に、偉度がおどろいて抗議する。
「なにをなさいますか!」
「なにをなさいますか、ではない、たわけ! おまえはわたしの話の大事なもうひとつを忘れているようだな。
おまえたちには、二度と壷中にいたときのような仕事はさせぬと言ったはず。
わたしの命を守るため、おまえたちが命を落とすようなことがあっては、まさに本末転倒。
偉度よ、二度とその件は口にするな。みなにもそう伝えるがよい」
「ですが!」
「わたしの身を案じるおまえの心遣いはうれしく思う。だが、それは駄目だ。周都督が死ねば、江東の士気は落ち、この戦、負ける。江東の敗北は、わが主公劉玄徳の敗北に通じる。
いま生き延びることができても、遠からぬ未来に、やはり死が待っているのだ」
「だからといって、いま、甘んじて死を受け入れますのか」
「甘んじて受け入れるなど、だれがする」
「では、風を吹かせるおつもりか? どうやって?」
「わからぬよ。でも、しなければなるまい」

孔明はそういって、ふたたび川岸のうえを、波を作りながら行過ぎる風を見た。
この風をどうやって操るというのか、まったく検討もつかなかった。


周瑜に罠を仕掛けられた日から数日は、孔明は気がぬけたように、庵のなかでぼんやりと過ごしてばかりいた。
世人も冷たいもので、鏃の件で、あれほどちやほやしていたのに、庵の家令と漁村の住人以外は、もはや誰一人として孔明に近づこうとしない。

孔明がそのあいだ、なにをしていたかというと、張昭に頼んで借りてきた史書に、片っ端から目を通すことであった。
だが、英雄たちをずらりと並べてみても、『風を吹かせた』ことのある人物はいない。
太陽を矢で射落とした、といった、じつに妖しげな逸話ならばちらほらあるが、知恵と努力だけで天候を変えた、という実績をもつ人物はいないのだ。
もしこれで自分が死ぬことになったとしたら、このような話を持ちかけて死に追いやった周瑜もまた、前代未聞の駄々っ子として史書に名前を残すことになるだろう。風を吹かせと無理を言った駄々っ子大将の話として。
そして話の最後には、良識ある史家によって、いくらなんでも無茶な注文で見識を疑うところだが、受けたほうも受けたほうだ、と呆れ交じりの感想が綴られるにちがいない。文章までが目に浮かんでくるようだ。

といっても、これで曹操の天下統一がなってしまったら、史書に残るどころか、むしろ名前のひとつも残らず、笑い話のほうに名前が残るかもしれない。
風を吹かしそこねた男の話として。おおいに後世の笑いを誘うことであろう。
世の中を明るくするという点では貢献するわけだが、なるべくならば避けたい事態である。

妙な気分であった。
突きつけられた要求が、あまりに荒唐無稽で手も足も出ないものであるから、孔明もおのれの生死について、感覚が麻痺してしまっている。
今度こそ、死ぬかもしれない、と思うのだが、その実感が、いまひとつ迫ってこないのだ。
鏃を集めるときとちがい、期限が定められていないのが救いであったが、今度ばかりは、知恵が何も浮かばない。
どうしたらよいのかすら、わからないのである。

偉度に言った遺言のことは、そのときに思いついたことではなく、孔明がかねてから考えていたことであった。
であるから、血のまったくつながらない偉度たちに、叔父の財産を余さず分ける、ということに抵抗はまったくなかった。
弟の均も、どうしてだろうとふしぎに思うくらい、利益にまるで執着のない性質であったから、孔明の書面かなにかあれば、そこに書かれているとおりに実行するだろう。

孔明がそのときから考え始めたのは、財産のことではなく、たとえ死ぬにしても、偉度をはじめとする子供たちに、恥ずかしくない死に様を見せなければ、ということであった。
それは、これまで劉備と、その陣営の運営のほか、おのれのことだけを考えてきた孔明にとっては、なかなかに新鮮な感覚であった。
だれかの模範となって生きること。
死をも視野にいれて考えること。
もちろん、人の上に立とうと志すものは、常に下の者を守り、そしてその規範であらねばならないと思っている。
だが、はっきりと特定のだれかのために生き様を見せよう、死に様を見せようと考え、行動を組み立てることは、いままでにしたことのない経験である。

だが、その感覚を得て、はじめて孔明は、古史に描かれた英雄たちの誇り高い生き様の理由がわかった。
かれらは自分ひとりのために生きていたのではない。
その一族のためだけでもない。
おのれと同じ志をたしかに持つ、遠くのだれかに呼びかけて生きたのだ。
その呼びかけに、心が答えるからこそ、史書を紐解くとき、人の心は震えるのである。

さて、偉大な先人たちに習い、わたしは、いったいだれに呼びかけて死ぬのだろう。
「さらば、わたしは詐欺によって死ぬ。だが、賢明な諸君は、こんな理不尽な罠に引っかかるな」?
われながら、さして感動しない呼びかけである。
後世の若者は、たいがいこう思うだろう。
「要領のわるい間抜けがなにか言っている」

孔明はだれの目もないことをよいことに、おおきくため息をつきながら、文机のうしろに倒れて、仰向けになった。
静かである。
そして平和だ。
庵にいるかぎりは、自分に死が迫っていることを忘れがちになる。
これまでの人生で、いったいどれだけのことを為せただろう。
史書に載せるに値する人間であっただろうか。

曹操から鏃を奪った? 
それはたしかに痛快な出来事であったが、それで事態が変わったかというと、そうではない。
曹操はますます江東と江夏に腹を立て、周瑜もついでに腹を立てた。
両者の怒りを一身に受けて、生贄の猪のように処刑場へ引き渡されるわけか、わたしは。

なにか。
なにか。これが重要なのだ。
なにかきっかけ、あるいは取っ掛かりがほしい。
風を吹かせる、というと、あまりに抽象的すぎるが、要するに、風を吹かせたように見せればいいわけである。
現実的に考えれば、風を予測すればよい。
だが、どうすれば予測をすることなどできるのか。

そんなことを考えていると、ちょうど部屋の窓の軒下で、だれかが作業をしているのが見えた。
なにをしているのだろうと、孔明が興味をおぼえて窓から身を乗り出して覗いてみると、家令の妻が、干していた乾物を、ひとつひとつ取り入れているところであった。
「乾物はもう出来上がったのかね」
孔明が尋ねると、家令の妻は、いいえ、と首を振った。
「昨夜、月に嵩がかかっておりましたので、今日は雨が降るにちがいありませんでしょう。ですから、濡れないように取り込んでいたのです」
言われて孔明は思い出した。
たしかに昨夜の月には、ぼんやりと嵩がかかっていた。
そして今日の天気はどんよりと雲に覆われて、朝から薄暗い。
「締め切った中で文字を追いかけているのは目が悪くなりますでしょう。あとで火をお持ちいたします」
家令の妻がそういうのを、孔明はあいまいにうなずいて、そして、いつ泣き出してもおかしくない空を見上げた。

月に嵩がかかると雨になる。
雨蛙が鳴くと雨。
あざやかな入日の翌日は晴天となる。

天候を予測するための先人の知恵。
風に関することも、なにか残っていないだろうか?

「軍師はよほど切羽詰っているのであろうと、みなが心配しております」
と、孔明がくだした命令を聞いて、偉度は言った。
孔明が偉度たちに依頼したのは、天候に関する言い伝え、あるいはことわざの類を、何でも良いから集めてこい、というものであった。
「実際に切羽詰っておる」
「そのようでございますな」

なぜわかるのか、と孔明が表情で問うと、偉度はなにも答えず、おのれの目のしたの薄い皮膚を指した。
偉度の言わんとすることがわかり、孔明は顔を曇らせる。
「クマが出来ているか」
「はい。軍師は青白い肌をなさっておりますので、目立ちます」
「死が目前に迫ってきている囚人であるからな、わたしは」
「それにしても、ことわざとは。文献を片っ端から当たれば、風が吹く前兆をおしえる言葉が見つかるなどと思ってらっしゃるのですか。お言葉ではございますが、あまりに付け焼刃のように思えます」

偉度は不服を唱えてきたが、孔明はうなずいた。
「わかっている。けれど、なにかしらのきっかけが掴めるかもしれぬ。もともとが無茶な要求だ。それに屈して、なにもせず、どうしたものかとくよくよと悩んでいるよりは、よほど建設的だと思ぬか。
ことわざに頼ってなんとかしよう、というのではないのだよ。まだ、なにかが足りない。うまく説明できないのだが、そのなにかさえつかめれば、突破口が開ける気がする」
「風を呼ぶための突破口が? むしろいまから、仙術の修行をはじめるくらいの努力をしたほうがよいような気がいたします」
「そうかもしれないな。だが、仙術などという、きわめていかがわしいものに頼るのと、風を予測するためのことわざがないか調べるのと、どちらがまともかな?」
「一応は、後者でございますね」
「そのとおり。そういうわけで、よろしく頼む。今日はわたしも出かけてみる」

孔明が庵を出る支度をはじめたので、趙雲のかわりに主騎をつとめているのだと自負している偉度が、あわてて言った。
「出かけるとおっしゃいますと、まさか、軍師みずから、ことわざを探しに行かれるのですか」
なにを考えているのだ、この大人は、わざわざ笑い者になるつもりか、とうろたえている偉度を見て、孔明は声をたてて笑うと、答えた。
「それに近い。ときに偉度、風向きを気にして日々をすごす生業といたら、なにを思い浮かべる」
「それは漁夫でございましょうか」
「そのとおり。しかもうまい具合に、漁村は少し歩いて、目と鼻の先にある。
かれらならば、この季節の風の流れにくわしいであろう。なにかよい話が聞けるかもしれない」
「また素晴らしい思いつきで」
「嫌味を言うな。おまえもついてくるかね」
孔明のことばに、もちろんでございます、と偉度は大きくうなずいて、あとからついてきた。

張昭の庵のそばにある漁村は、これもまた張昭の管理する土地の者たちであったが、ならず者の脱走兵に焼き討ちをかけられ、それを趙雲と孔明が助けて以来、すっかり孔明に心服していた。
孔明がまたもや、周瑜に無理難題を吹っかけられているという話は、柴桑の町の中心部ばかりではなく、すでにこの辺鄙な村にも届いていた。
かれらは孔明の味方であったから、この季節の風向きを知りたいという孔明の申し出にも、気安く応じてくれた。

「あまりお力になれぬかもしれませぬが、たしかにこの時期、何日か、南東へ向かう風が吹きまする。
平時でございますと、われらも遠出をして、陸口あたりまで船を漕ぎ出すことがございますから」
「まことか」
孔明にとっては、朗報であった。
つまり、その日さえ予想できれば、問題がない、ということである。
「ですが、あいにくと、それがいつになるかはわかりませぬ。朝になって風が吹いていたなら、さあ出かけるか、というくらいいい加減なものでして、前日に予兆らしいものがあるという話も、聞いたことがございませぬなあ」

それは、村の古老に聞いてもおなじで、たしかにこの季節、南東へ吹きつける風はあるのだが、それがいつになるかなど、気にしている者はいない、というのであった。
これでは、だめだ。
たしかに南東への風が吹く、という話は朗報だが、それを予想できなければ意味がないのである。

困り果て、頭をかかえた孔明に、村人が、ふと、思い出し、声を弾ませて孔明に言った。
「お力になれるかもしれませぬ。柴桑の商船を操る男がおりまして、その男は、毎回、毎回、細かく天候をしらべて、記帳していると聞いたことがございます。
もしかしたら、ここ数年の記録も持っているかもしれませぬぞ」

孔明は村人の男の話を手がかりに、柴桑へ行って、その商船の水夫をおとずれた。
ちょうど男は柴桑にとどまっていて、孔明と周瑜の勝負の話も聞いていたから、孔明の質問にも、さしてあれこれとたずねることなく、簡単に答えてくれた。

「たしかに日々の天候などを記録しております。とくに船は風向きが問題になりますからな」
「さようか、ならば、大変申し訳ないのであるが、貴殿の記録しているというその書を見せてはもらえぬであろうか」
孔明が言うと、男はあっさりと、ようございます、と答えた。
ほっと安堵した孔明であるが、しかし、そのあとがいけなかった。
「貴方様と都督の知恵くらべのお話は、いまや柴桑で知らぬものはございませぬ。貴方様がわたしの元にいらしたのも、南東の風がいつ吹くか、それをしらべるためでございましょう」
そのとおりである、と孔明が素直に答えると、男は、難しい顔をして、言葉を選びつつ、慎重に言った。
「もしそうならば、残念でございますが、あまりお力にはなれますまい。わたしは風の記録をここ三年ほど、ずっと取っておりましたが、この時期の南東の風というものは、じつに気まぐれでございまして、いつ吹くのか、その予想はまったく立たないのでございます」
「なにか予兆のようなものはないか。たとえは、星がつよくまたたく日の翌日は、強風が吹くであろう」
「ええ、たしかに。そういう日の翌日は、転覆をおそれて船出を見合すことがございます。
ですが、この時期だけの風が吹く日を特定するとなりますと、経験から申し上げますが、やはり難しゅうございます」

孔明はとっさに、早朝に風が吹くことを確認できたなら、いつでも出陣できるように準備をしておくように進言するのはどうか、と考えた。
だが、すぐにあきらめた。
戦の準備に手間取り、出発が遅れ、風を逃してしまっては意味がないのである。
やはり遅くとも前日には、風を予測し、すでに朝には鳥林を目指しているくらいでなければならない。
「とりあえず、記録を見せてはくれぬか。比べてみれば、月のいつごろに吹くか、くらいは予測がつくかもしれぬ」

男は船乗りらしく、さっぱりした気性の男で、孔明の申し出をすぐに受けて、蔵から帳面を持ち出してくると、三年分の秋口の記録を見せてくれた。
三年前と、二年前、そして一年前の記録を比べて、すぐに孔明は、やはりうまくいかないことに気づいた。
三年間の記録には、それぞれ毎年、風が吹いた日が記載されていたのであるが、それがいつか、となると、あまりにばらばらで、特定することはできなかったのである。
「やはり、仙術に頼るしかないのではございませぬか」
失望を隠さず言う偉度に、孔明もため息とともに、答えた。
「そうだな。いまさらであるが、襄陽で仙術を学ばなかったことを悔やんでおるよ」


夕方になり、偉度の兄弟たちが、孔明のもとへあつまってきた。
何事かと思えば、かれらは自分たちで、市井に混じり、集めるだけことわざを集めてきたという。
秋口に暖かい風が吹くと台風の前兆。
山に黒雲がかかれば暴風雨。
月が紅くなれば天候が変わる。
などなど。
「しかし、この季節に数日だけ吹くという南東風を予測できるようなことわざはございませんでした。
地元の者にたずねましても、あまり気をつけていなかったようで、『言われて見れば、風が吹く日がある』という程度でございました」

突破口は開けない。
さすがに意気消沈する孔明であったが、あつまった子供らは、必死の面持ちで、訴えてくる。
「まだ、たった一日でございます。もしかしたなら、柴桑の町に、なにか知恵を持つ者がいるかもしれませぬ」
「そうです、どうぞわれらにお任せを。かならずや、なにかしら軍師をお助けする情報を持って帰ってまいります」

熱心に訴える子供たちに、孔明はかえっておどろいた。
子供たちは、たしかに孔明のいうことをよく聞いたが、いままでは、それは孔明に心服したからではなくて、孔明を頼るほかに、よりどころはないから、というふうであった。
それがいまは、心から真剣に孔明の命令を守り、そして命令以上の成果を返そうと躍起になっている。
これは、きわめて残酷で厳格な教育をほどこした、壷中という組織の名残なのだろうかと思った孔明であるが、子供たちが庵を去ったあと、偉度が言った。

「例の遺産の話を、みなにいたしました」
「そうか。みなはどんな様子であった」
たずねると、偉度はすぐには答えず、だいぶ間を置いてから、孔明の顔を見ずに答えた。
「みな、貴方様が本気でわれらを助けるつもりなのだとわかったのです。ですから、兄弟たちも、本気でその心にに答えようと決めました。
恩義を受けっぱなしというのも、われらとしてもいい気分ではありませぬので」
「恩義だなんだと水臭いことをいう。わたしは父親だもの。見返りなど、求めてはおらぬぞ。そういうものではないか」

孔明にとっては、あたりまえのことである。
実父も叔父も、惜しみない愛情を与えてくれた。
そこに打算も見返りを求める心も、まったくなかった。
父が子に与えるものというものは、そういうものだと、かれらが教えてくれたのだ。
だから、孔明もまた、偉度たちに同じものを与えるつもりであった。

偉度は、またすこし黙って、それから小さく、答えた。
「みなに伝えておきます」
「そうしておくれ。どうか無理をしないように。わたしの運命に、おまえたちを巻き込むことはしたくない」

今度は偉度は答えず、ちいさく拱手すると、静かに立ち去った。
その後姿を見送りながら、もしこの子らがいなかったなら、わたしはとっくの昔にあきらめていたなと、孔明は感謝するのであった。

47へつづく
BLOGまとめMAPへ
MAPへもどる
更新履歴へもどる