飛鏡、天に輝く

四十五

孔明が署名を終えると、周瑜は、その書面を手にとって、誇らしげに見ていた。
青白い顔に、生気が戻ってきたようである。
書面に綴られた文章は、周瑜が口にしたとおりの内容で、罠が仕掛けられているふうでもない。
周瑜も若年ながら江東を引っ張ってきた実力者である。
市井において、孔明の名が高まっているのを見て、このあたりで度量が広いところを示しておかねばと計算したのかもしれない。
あるいは、鳥林を視察して、内部で諍いをしている場合ではないと気づいたものか。
どちらにしろ、孔明には、願ったりかなったりの申し出である。
これで曹操と江夏に集中できる。

「孔明殿、この誓約書のことを、みなに知らせたい。ご存知かもしれぬが、わたしと貴殿のあいだに、さも争いがあるかのように面白おかしく話を吹聴している輩もいるそうな。
それを信じてしまっているものに、われらのあいだには友情があるのだと示してやろうではないか」
「どうなさるのです」
「ちょうど、わたしの見舞いのために、いま柴桑にいる重鎮のほとんどがあつまっている。かれらのまえで、この誓約書を読み上げるのだ。
なに、手間はとらせぬ。みなを安心させることが目的なのだからな。貴殿はただ、わたしの問いに、『是(はい)』と答えてくれればよい」
「わかり申した。しかし都督、お顔の色も優れませぬ。文書を読むのは、わたくしがしたほうがよいのではありませぬか」

孔明が、書面を渡してほしいと手を差し伸べると、周瑜はほがらかに笑いながら、首を振った。
「いやいや、この役目はわたしがするべきであろう。客分たる貴殿に手間を取らせるわけにはいかぬからな。
さて、ではさっそく表へ出る支度をせねばな。さすがに寝巻きのままでは不味かろう」

周瑜はそう言って、おのれの寝巻きの襟に手をかけたので、孔明は気を利かせて、部屋を退出することにした。
周瑜の突然の和解の申し出にはおどろいたが、物事はよい方向に動いているようである。

そうして部屋を出ようとしたそのとき、周瑜が呼び止めた。
「すまぬ、最後にたずねたい。貴殿は、やはり江東にとどまる気はないのか」
はじめて周瑜から、江東に残らないかと誘われ、孔明も頬をゆるませた。
「申し訳ありませぬ。わたくしが主と定めたのは劉予州ひとりなのでございます」
「左様か。では仕方ないな」
そのとき周瑜の顔に浮かんだのは、失望よりも安堵であったことに、孔明は違和感をおぼえた。
だが、ともかく書面があるのだし、しかもそれを満座の前で読み上げようとするのだから、心配することはなかろうと考え、そのまま部屋を出た。


見舞い客のずらりと揃った大部屋には、なるほど、周瑜の言ったとおり、江東の重鎮たちが揃っていた。
部屋に入りきれず、外で待っている者さえいるほどだ。
これが周瑜の実力、そして人望なのだろう。
この人を、完全に敵に回すことにならなくてよかった、と孔明が安堵していると、ほどなく、周瑜があらわれた。

孔明が、おや、と思ったのは、周瑜の顔色である。
さきほどまでは血の気もなく、目にクマを作ったやつれた表情をしていたのに、いまは以前と変わらず、生気にあふれている。
目はきらきらと輝き、血色のよい唇には、笑みが浮かんでいた。
書面ひとつで、ここまで変わるものだろうか。

周瑜の変化に、孔明がおどろくなか、周瑜は朗々とした声で、その場の全員に言った。
「心配をかけてすまなかった。貴兄らがそれがしの見舞いのために、わざわざ足を運んでくれたことに感謝する。
すでにみな知っていることかと思うが、この戦には、南東へ吹く風が不可欠である。ところがこの時期は、あいにくと南東への風は吹かぬ。
どうしたものかと思案していたところ、救いの手が差し伸べられた。
ここにいらっしゃる劉予州の軍師諸葛孔明どのは、かねてより仙術にくわしく、われらが切望する風について、ほかならぬその仙術を駆使し、かならずや風を吹かせて見せると、そう断言してくださった。
みなも、軍師の術がうまくいくよう、協力できるところは、惜しまずしてほしい。戦の行方は、いまや孔明どのにかかっているといってよい状況であるからな」

だまされた。
孔明がとっさに思ったことは、それである。
周瑜と魯粛以外の、その場のだれもがどよめき、孔明に視線をあつめてくる。

「お待ちくだされ」
どういうことだ、とたずねようとする孔明に、周瑜は書面を懐から取り出すと、さらに声を高くして、言った。
「これは、さきほど孔明殿と交わした誓約書になる。ここに、かならずや近日中に、南東への風を吹かせてみせると書かれてある。ご本人も署名もある」

莫迦な。
孔明は周瑜が掲げる書面を受け取ると、その文章を読んだが、内容に愕然とした。
さきほど署名した文書とは、まるで内容がちがっている。
そこには、はっきりと、孔明が南東の風を吹かせる、吹かせられなかった場合は、厳罰を甘んじて受ける、と書かれていた。
署名を見れば、たしかに自分の字である。

どういう仕組みで文書を入れ替えたのか。
孔明は書面をしげしげと眺めたが、ふと目線をおぼえて顔をあげると、周瑜の背後にひっそりと立っている男を見つけた。
龐統である。
その目は、かつて自らが語ったことを裏付けるように、こう言っていた。
面白いことになったではないか。さあ、どうする。

合点した。
そうか、かれが偽の署名を書いたのだ。
こちらの筆跡をうまく真似たわけである。

孔明は後悔した。
あまりに安っぽい詐欺だ。よくある手ではないか。
周瑜が和解を申し出てきたことを、もっと疑うべきだった。

周瑜は先の先まで見越して動いている。
この戦に勝ったあと、江夏にどう対処するか、この面倒な問題も考えている。『敵』はいまから力を殺いで置くべきだ。そう考えている。
わかっていながら、周瑜に同情し、あっさりとその罠に陥った。

孔明は、おのれのにせの署名の綴られた文書を手に、大部屋を見回した。
そこには疑いと敵意が満ちていた。
ここで、書面は偽ものだ、罠にかけられたと騒いでも、いったいだれが味方になるものか。
魯粛のことばが思い浮かぶ。
ここは江東、周瑜の支配する土地だ。
周瑜と孔明の会話を知るのは、周瑜の妻と医師と、奴婢だけである。
かれらに問いただしてみたところで、意味がなかろう。
かれらは周瑜の味方をするに決まっている。
江東は周瑜のことばが絶対なのだ。
ここでそうではないと騒いでも、逆に孔明が往生際のわるいことに、あとから出来ないと騒いでいると受け止められるだけだ。

そうだ、周公瑾は、こちらが騒ぎ立てることができないとわかっていて、この罠を仕掛けたのだ。
卑怯な。
いや、もはや周公瑾も、なりふりをかまっていられなくなった、というわけか。
風が吹かねば、火計は使えない。
兵力の消耗を覚悟で船上での白兵戦を仕掛け、そして勝利したとしても、戦力が落ちた状況では、曹操を追撃することすらできない。
よほどの運が重なるか、あるいは兵の消耗が予想より少なくすむかしないかぎり、江東に明るい未来は残されていないのだ。

滅び行くおのれの道連れとして、自分が見込まれたわけである。
どうしてここまで、と孔明は周瑜を見るが、唖然とする一同の前で、ひとり、明るくはしゃいでいるようにさえ見える周瑜の表情から、答えを見出すことはできなかった。
満座のなか、周瑜の明るさだけが、奇妙に周囲から浮き上がっているが、本人は頓着していない。
周瑜のこれまでの実績を否定しようとは思わない。
孔明が言葉をなくしたのは、これまで若くして高い名声を築いたものが見せる、失望すら感じるほどの卑劣さと矮小さのためである。
寿命が尽きつつあると知った者の前にあらわれた、自分の運がなかったのか。
もし健常であった周瑜と同じ状況で出会っていたら、どうであったろうかと孔明は考えて、意味のないことだと気づき、やめた。

その後、ふたたび周瑜は療養するために奥へ引っ込み、小橋の取次ぎで、ひとりひとり、見舞い客が通されることとなった。
孔明は、ひとりだけ逆に、足早に外へ向かっていた。
そのあとを、偉度が小走りで追いかけてくる。
「なんという莫迦な約束をなさったのです。風ですって? そんなもの、吹かせやしないでしょうに」
「そうだとも、騙された。わたしが署名したときは、文書の内容はまったくちがうものだった。わたしの筆跡を真似て、ちがう文書に署名を入れたのだ」
「単純な策でございますな。そして、あなたはそれを見破れなかった」
「そうだ。それに引っかかった。おそらく龐士元の入れ知恵であろうよ。
それに周公瑾の演技力はすさまじいな。おまえのいうとおりであった」
「いま気づかれても遅うございます。しかし、本当にどうなさるおつもりです。風は鏃とちがって、どこかから徴発するということは出来ませぬぞ」
「わかっている!」

孔明は乱暴に返事をすると、本当に風など吹かせられるのか、好奇心をむき出しにしてこちらに目線を投げてくる者たちを無視して、逃げるようにその場から立ち去った。



「夢を見た」
寝巻きに着替えながら周瑜が口にしたので、小橋は帯を解く手を止めて、たずねた。
見慣れた夫の顔には、策がうまくいったことへの喜びの表情はない。
深い疲れが見て取れる。病のせいだけではあるまい。
「どのような夢ですの」
「むかしの夢だ。亡き主公がいたころの」
「まあ、おなつかしい方の夢を見たものですわね」
小橋にとっても、孫策は忘れがたい人物であった。
夭折した姉の夫のことは、いまだに、生きて、会うことがかなわない遠方に住まう人のことのように語ってしまう癖が抜けない。
周瑜もその癖を知っているので、ようやく、ほんのすこしだけ、こころからの笑みを浮かべて見せた。

「あれほど気持ちがぴったりと重なる人間とは、もう二度と出会うことはなかろう。あのころは良かった。どれだけ長く語り合おうと、話題がつぎからつぎへと出て、際限がなかった。
かれの夢は、わたしの夢でもあった。かれがもっと長生きができたのなら、きっと情勢も変わっていたであろうに」

孫策の死のために、黄祖を滅ぼす時期が大幅に遅れた。
あたらしく江東の主となった孫権は若すぎたので、ほかの豪族たちに、かれを認めさせるためには時間と実績が必要だった。
貴重な年月が費やされ、いままできてしまった、という無念さが、周瑜のなかにあるのである。
孫策さえいれば、という思いは、孫権を気にして、ふだんは口にしないことであった。
だが、心許す妻には、周瑜は、本音を打ち明ける。

振り返るに、孫策は、まるで生き急いでいるかのように、ありとあらゆるものを手にいれ、享受し、そして楽しもうとしているようだった。
酒を浴びるように飲み、気に入った女をはべらせ、集められるだけの財貨を集めたおしていた。
しかしひとたび公の場に出れば、だれより勤勉さを発揮し、職務に没頭した。
まるで、おのれの寿命を最初から知っていたかのように。

「かれが亡くなってから、わたしは一人だな」
「お心弱いことをおっしゃいますこと。郎君は、いまでもお一人ではございませんわ」
周瑜はすぐには答えなかった。
その一瞬の間にこめられた夫の心情を敏感に感じ取り、小橋は黙った。

孫策と分け合うようにして姉妹を娶った。
そのとき周瑜は、まったく考えていなかったが、小橋が大橋の妹であり、おたがいの仲がよいことは、かえって周瑜から素顔を取り戻せる場所を奪うことになった。
周瑜は、小橋の口から、家庭の内情が、すべて大橋に筒抜けになっているのではと、警戒しているふしがある。
大橋に知れれば、当然、孫家にも知れる。
小橋は芯のつよいしっかりした、そして思いやりのある女であったから、だれより夫の味方として尽くしてきた。だから、姉には家庭のことは、あたりさわりのないもののほかは、一言も口にしていない。
けれど、疑わないでほしいと、夫を責めることもしない。
疑わないでほしいといったところで、心の曇りはまったく晴れはしないものだと、わかっているからだ。
小橋にできることは、夫をただただ、黙って支えるだけである。
いつか理解し合えるだろうと信じ、その『いつか』がおとずれる機会が、日に日に消耗していくのを恐れながら。



孫策が死んで以来、周瑜は、だれにも本音を打ち明けられなくなっていた。
そのために、ときおり、どうしようもなく故人が恋しくなる。
かれがここにいたなら、この苛立ちを、さして解説する必要もなく理解してくれるだろうに。
本音はそうであるのに、表面上では、そうではない、と振舞わなくてはならない。
病がこうした鬱積した思いを増幅させ、さらにそれが病をより進行させているのだということくらい、周瑜にもわかっていた。
わかっていたが、こればかりは解決のしようがなかった。

公務においては、その目立つ風采から、ありとあらゆる人々の目が集まる。
羽目をはずすことなどとんでもない。本音を押し殺して、周囲に気を配りつづけ、なおかつ数々の難題を解決していなけばならない。

常人ならば、とっくのむかしにどうかなっていてもおかしくなかった。
周瑜がこれまで、平常心を保っていられたのは、ひとえに亡き幼馴染の遺志を守りたいという一念からだった。
そうして必死になってやってきて、人生の終わりが来つつあることがわかったとき、周瑜はひそかに安堵した。
だが、それも一時のことで、すぐに理不尽な運命への怒りが湧き起こってきた。

これからだというときに、いつもいつも、大切なものが奪われる。
はじめは孫堅だった。
そのつぎが、孫策、そしていまは自分の命である。
そこへあらわれたのが孔明だった。

初めて孔明を見たとき、周瑜はおのれのなかに沸き起こった感情がなんであるのかわからなかった。
ただ、魯粛の推薦を、すぐにわけもなくつよく否定したくなった。
なぜ、と魯粛に問われ、そしてあとになって、自身でその答えを探ったとき、うすうすわかりはじめた。
おのれの無意識のなかにある、認めたくない醜いものを直視しなければならないのは、つらい作業である。
周瑜には、おのれに自信があった。
自身の築き上げたものに自信があった。
しかしこの築き上げてきたものの中身は、ほんとうに実力か。
いや、実力もあっただろう。
だが、運に拠る部分が多かったのではないか。
おのれの寿命が尽きつつあるいま、おのれの運も費えつつあるのではないか。
終わりを予感したこのときに、なぜにこんなおのれへの疑問を抱き、焦燥を感じなければならないのか。
避けられぬ運命ならば、誇り高く、誉れ高き英雄のひとりとして、おのれの人生をまっとうしたい。
醜く死ぬことなど、この自分にはふさわしくない。


「策はうまく参りましたな」
小橋が下がると、入れ違うようにして龐統があらわれた。
龐統の表情は信用ならない。
たとえどんなに内側に負の感情を秘めていても、龐統は決してそれを表にあらわさない。
周瑜はわかっていた。
龐統はこちらを信用していないのだ。
いや、この男が、だれかに本心を打ち明けることなどあるのだろうか。
その点では、この男は自分によく似ていると、ひそかに周瑜は思っていた。

「貴殿から見た諸葛亮の様子はどうであった」
「どうもこうも。あれほどあっさり引っかかるとは、逆に失望しましたな。
それからあともよろしくない。逃げるように行ってしまった。もうすこし粘るかと思いましたが」
「粘る、とは、わたしにはめられたと騒ぐと思ったか。もっと見苦しく?」
「思うていたより小心者でございましたな。それとも、おのれの命があやうくなってもなお、見苦しい者と思われたくないという見栄がはたらいたのか」

龐統はそう言って、おのれの口と鼻を手でかくし、笑ったのであるが、周瑜は気がついた。
龐統の表情は、孔明のことを語るときだけ、素の表情に戻る。
おのれでもそれがわかっているので、袖で表情を隠そうとするのだ。
皮肉なものである。
だれにも本心を打ち明けぬ男。
おそらくそうであれと自ら本心を隠しているのだろうに、憎むもののことを口にするときは、本心がにじみ出るのだ。

なぜ龐統が孔明を嫌うのか、その理由が、問うまでもなく、周瑜にはわかる気がした。
嫉妬しているのだ。
孔明のもつ、可能性と運に。
自分ではそのつもりではなくても、天に呼ばれて表舞台に立つことになる人間がいる。
孔明がまさにそれであった。

そして、いま、この自分は、舞台から下げられつつある人間だ。
目の前にいる男は、さまざまな理由をつけておのれをごまかしてはいるが、おのれがその可能性と運を持っていないとわかっている。

しかし、どうあれ、周瑜の心は動かない。
自分に心を開かない者に対して、同情することもあるまい。
利用できるものは、すべて利用すればよい。

孔明に風など呼べるはずがない。
だれになんと謗られようと、かまわない。
滅びの運命を、ひとしくかれにも贈らねばならぬ。

諸葛孔明は、稀代の詐欺師として死ぬ。
いや、死ななければならないのだ。

46へつづく
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