飛鏡、天に輝く
四十二
ここで物語は、ふたたび柴桑にもどる。
周瑜との約束を守り、鳥林より、針ねずみになりながらも、約束以上の矢じりを手に入れて帰ってきた孔明は、いまや江東で、もっとも有名な人物となっていた。
これで、孔明が、少数精鋭の部隊を率いて、倉庫を襲って矢じりを手に入れた、というのなら、すこし話もちがったのであろうが、敵も味方も傷つけることなく、まんまと目的を達成したという、その痛快さが、よけいに民衆をよろこばせたのだ。
孫権はもちろんのこと、柴桑中にあつまっている有力者たちが、こぞって孔明を宴に呼びたがり、そして、このあたらしい英雄と知己であることを自慢したがった。
孔明は、本来はこうした華やかな場は苦手である。
が、それでも我慢して出席を続けたのは、こうして江東の民をおのれの味方にして、周瑜に、うかつにおのれに手出しをさせないようにするためであった。
宴は毎日のようにつづき、孔明は、鸚鵡のように、話を聞きたがる客たちに、同じ話をくりかえした。
なるべく慎重に、話に尾鰭がつかぬように気をつけていたつもりであったが、こうした派手な話を好む人間のなかには、あえて大げさに語らねばすまない気性の者もあり、孔明の名声は、いまや周瑜を追いやり、江東でもっとも人の口にのぼる名前となっていた。
周瑜はおもしろくないだろうな、と孔明は思う。
あの朝、鳥林から帰ってきた孔明を出迎えたときの周瑜は、本音を隠しきることができずに、素の顔を見せていた。
美周郎の名にふさわしからぬ、じつに凡庸でみにくい、動揺と嫉妬の表情が、そこに浮かんでいた。
だが、ふしぎと孔明は、周瑜に嫌悪を抱けない。
命が費えることへの恐怖、さらには追われる者の恐怖、この両者に苦しめられている心中は、どれほどの闇を生み出すことだろう。
もし健康な状態で出会っていたなら、こんなふうに味方同士でありながら、反目するようなこともなく、うまく手を取り合っていけたかもしれないのだ。
「お人のよい。ああいう人物は、どれだけ状態がよかろうと、おのれに並びたつ存在を許せぬものでございます。同じことになっていたことでしょう」
と、辛辣に、偉度は言い放った。
ふたりはいま、張昭の主催する宴に参加していた。
いっときは、人も少なく、寂しげであった張昭の宴であるが、いまは、孔明目当てに、多くの人物があつまってきている。
「現金なものではございませぬか、都督の宴に参加していて、軍師を窮地に陥れようと、笑っておりました者も何名も紛れておりますぞ。
あなたの舌は人を殺すことだってできましょう。ひとつ、だれか試しに屠ってみてはいかがです」
酔っているにしても、残酷なことを口にする偉度に、
「おまえの口は、ときどき針のように人を差し貫く」
と注意してから、答えた。
「仕方あるまい。どのように世間から笑われようと、生き残ることが、かれらの正義で、その方法にはこだわりがないのだろう」
「単に厚顔無恥で意志薄弱なだけではありませぬか」
「そうだな。そして勇気もない。だが、その弱さを責めてはならぬ。戦うことができる人間のほうが、むしろ異常なのかもしれないぞ」
「戦わねば、死んでしまいましょう」
「おまえの言うとおりだ。だが、戦えない者にも、理由があるのだ。それを忘れてはならない」
孔明のことばに、偉度はまだ、納得しかねる、というふうであったが、孔明も黙ってしまったので、それ以上はなにも言わなかった。
同じ質問に何度も何度もこたえているうちに、普段はあまり悪酔いしない孔明も、具合が悪くなってきた。
となりにいた偉度も、鳥林に同行したということで、宴客につかまって、あれやこれやと質問攻めにあっている。
偉度は人を小馬鹿にする言動をくりかえしてはいるが、本音のところでは、人とのつながりを求めている。
酔って、そうした、人を恋しがっているところがでているのか、酔客相手に、偉度は愛想よく、こまごまと鳥林での出来事を説明しているようだった。
盛り上がっているので、邪魔をしては悪かろうと思った孔明は、偉度をそのままに、張昭の屋敷の庭に出た。
日に日に夜気がつめたくなってくる。
夏が終わり、本格的に秋がやってきたのだ。
空に輝く星の顔触れも変わってきた。
庭の千草にひそむ虫たちのささやかな泣き声も、以前より高くなってきたように思われる。
それは同時に、冬を控えて、曹操が動きだす時期が近付いている、ということを示してもいた。
おそらく、霧にまぎれて近付いてきた偵察船が、じつはその攻撃をさそって、矢をせしめることだったという話は、すでに曹操の耳にも入っているはずである。
諸葛孔明の名は、これで大きく天下に広まった。
しかし、そこに喜びはない。
光をつよく浴びれば浴びるほどに、その影は濃くなっていく。
これから曹操はどう動くであろう。そして、周瑜はどうか。
そんなことを考えていた孔明であるが、ふと、それまで、あちこちから聞こえてきた、虫の声がぴたりと止んでいることに気が付いた。
だれかいるのか。
周囲の気配を探ろうとして振り返ったのと、その視界に、月光を浴びてにぶく輝く白刃が飛び込んできたのは同時だった。
息が詰まった。
どうやって刃をかわしたのか、孔明はおぼえていない。
反射的にあとずさった、それがよかったのだろう。
視界の悪い庭のなかで、刺客は、孔明の袖をその武器の切っ先で、裂くことしかできなかった。
おどろき、呆然としながら、引き裂かれた袖と、それから目の前の、覆面をした刺客をみる。
ずいぶん余裕があったように感じたが、しかしそれは一瞬のことであったのかもしれない。
目が合った。
奇妙な感じがした。
命を狙う者と狙われる者と、その生死を賭けた視線が交ざり合ったとき、そこに言葉ではうまく言い表わすことのできない、連帯感のようなものを、たしかに孔明は感じ取った。
だが、つぎの瞬間、刺客が動けば、こちらの命は費える。
声をあげなければ。
つよく思うのであるが、唇も舌も、凍えてしまったかのように、まるで動こうとしてくれない。
刺客が、ふたたび態勢をととのえる。そのあいだも、目線は、ぴたりと孔明に当てたままである。
声を、助けを呼ばなければ。
と、そのとき、まったく予想もしていなかったところから、甲高い悲鳴があがった。
それは、張昭が屋敷でつかっている仕女で、孔明が帰ってこないことを心配した張昭が、むかえによこした者である。
その悲鳴に怖じたかのように、刺客は、孔明をあきらめて、鷹のように素早く闇に飛んで消えた。
そのとき、孔明は、はっきりと舌打ちを聞いた。
刺客のものであろうか。
助かった、とまだ呆然としたまま闇を見つめていると、刺客が去ったあたりから、悠然と歩み寄ってくる者がある。
甘寧であった。
孔明は、甘寧が宴席にいることを知らなかった。
目立つ男である。
見落としたとも思えないのだが、と、いまだ衝撃から抜けきれないまま、思った。
屋敷のほうでは、仕女の悲鳴を聞いて、客たちが、なにごとかと、つぎつぎに庭のほうへ顔をだしている。
そうした一群のなかから、張昭と、偉度がかれらを掻き分けて、まっすぐにこちらにむかってくるのが見えた。
「如何なされましたかな、劉予州の軍師どの」
と、甘寧は、いささかろれつの回らない調子で問い掛けてきた。
孔明が刺客に襲われたことに気づいていない様子である。
孔明は、どこにも怪我を負っていなかったが、切り裂かれた袖を押さえるようにしたまま、甘寧にたずねた。
「たったいま、そちらに怪しい男が逃げ込んで行きませんでしたか」
甘寧は、そう問われて、はて、というふうに首を傾げつつ、いま、おのれのくぐってきた闇を振り返る。
「いいや、あいにくと、だれの姿も見なかった」
「だれも?」
「うむ、姿は見なかったが、そうだな、なにかが通り過ぎていく足音を聞いたように思う。
てっきり、野狐かなにかであろうと捨て置いたのであるが、人であったのかな」
ほんとうか?
たしかに闇の中だ。
刺客は、だれも傷つけていないから、血の匂いもさせてはおらず、ただ通り過ぎただけならば、気付かなかったということも十分にありえる。
が、さきほど耳に届いた舌打ちは、刺客が消えた位置と、すこしずれた場所から聞こえてきたような気がする。
だが、確かめようがない。
甘寧は知らない、と言っているのだし、こちらも酔っている。
まともな判断を下せる状態でもない。
孔明が刺客に襲われたということで、宴はそのまま、お開きとなった。
帰りぎわ、張昭は、孔明を呼んで、言った。
「刺客がどこから放たれたものかはわからぬが、それゆえに、慎重にするに越したことはない。しばらくは、あまり宴にも参加されぬのがよかろう。
貴殿の事情は、貴殿にかわって、わたしが代わりに、みなに教えておく。みなも、客分である貴殿が、ここで刺客にたおれたなら、それこそ江東の恥となるから、納得するであろう。
庵のほうに、わたしの部曲をむかわせるゆえ、ほかに不足があったなら、申し出てほしい」
孔明は、張昭のいうとおりに、翌日から、河岸の庵に引きこもる生活に戻った。
刺客に襲われた、という不穏な理由ではあったけれど、庵で、気心の知れた者たちだけで過ごすこととなった何日かは、思いもかけず、孔明によい休息を与えてくれた。
庵のそばの村人たちは、孔明の武勇伝を聞きたがり、新鮮な魚や、野菜などを理由にしては、裏口からおとずれて、話をねだった。
村人たちは、目の前にいる客に、すっかり心酔していた。
まるで孔明が、同郷の英雄であるかのように、村人たちは孔明を誇りに思い、いささか尾ヒレをつけた噂話兼自慢話を、近隣にふれてまわった。
おかげで孔明の名前は、ますます世間に浸透していった。
しかし、名声は、一方で厄介ごとも持ち込んだ。
物見高い者が、孔明が庵から出ないので、庵にやってくることもあった。
だが村人たちは、孔明が鳥林に向かうまで、どれほど神経をすり減らして行動していたか、それを見ていたので、うまくよそ者を追い返し、ここでも孔明の助けとなった。
そうして孔明は、ほんの束の間ではあったが、芯から穏やかな日々を過ごすことができたのである。
偉度は、自分がほんのすこし目を離した、その隙に、孔明が狙われたということでいたく誇りを傷つけられ、以来、片時と孔明と離れようとしない。
一方で、ほかの壷中の兄弟たちと連絡を取り合い、刺客の正体を探らせるのに躍起になっていた。
だが、孔明がめったに外出をしなくなったことや、偉度たちの警護がかたくなったことがあったからか、刺客が襲ってくることはそれ以降はなく、刺客を放った者がだれであるのかも、なかなかつかめずにいた。
そんななか、偉度が別の話を仕入れてきた。
「魯子敬と周都督が仲たがいをなさっている、という噂が流れているようでございます」
「仲たがい? なぜ」
魯粛は周瑜に心服しているように見えていた。
大戦を前にして、仲たがいをする理由がどこにあるのか。
おどろく孔明に、偉度は、目を細めて、しらじらしい、という顔をしてみせる。
「原因は、あなたさまでございますよ。魯子敬どのは、あなたに同行して鳥林の情況も観察し、それを土産話に戻ってきた。ところが、都督が、それを信用しなかったのです」
「話がつながっていないではないか。周都督が魯子敬の話を信用しないことが、わたしにどうつながる」
孔明に問われて、偉度は、こほん、と咳払いをひとつして、答えた。
「つまりですな、濃霧のなか、それも矢を射かけられた情況で、まともに物が見えていたのか、怪しい、というのが都督の言い分なのですが、実際のところは、魯子敬どのが、勝手にあなたに同行したことが気に食わないのですよ。
ですから、霧だのなんだのと理由をつけて、魯子敬の報告を否定しているわけです」
「要するに、本当はわたしを否定したいのだが、できないので、魯子敬を否定することで溜飲を下げている、というわけか?」
「その通り。お気の毒な周都督。よほど軍師の手柄が気に食わないのでしょうな。それもそのはず、本来なら、あなたさまの首をいまごろはちょん切って、それを肴に酒宴を開いていたのかもしれないのに、逃した大魚はでかかった。それもそのはず、龍だから」
「途中まではよしとして、なんだ、その最後のおかしな文句は」
「さて、場末の講談師の文句を借りてみただけでございます。早々と軍師のお手柄は講談の種となっているようでございますよ」
孔明としては、なんと答えてよいのかわからない。
自分の今後のためには、世間の評判を味方に付けておくのはよいことだが、評判が行きすぎても、あとあと困る。
「それともうひとつ。周都督は、近々、ご自分で鳥林へ偵察に行かれるそうでございます。魯子敬の報告が本当かどうかを調べるために」
「本当に決まっているだろう。嘘をつく理由がどこにもないのに」
「まあ、都督も、嘘がないだろうとわかっているのでしょう。なんだかんだと、ああいうご気性の方ですから、ご自分で見たものしか信じたくないのではありますまいか」
偉度の、多分に毒の含まれた報告を聞きながら、孔明は、そこに危ういものを感じ取っていた。
たしかに周瑜は有能な男かもしれない。が、狭量にすぎる。
病からくる焦りが判断能力を落としているのか、それとも逆に、普段ならば押さえておける性格の欠点が、病があるがゆえにあらわになっているのか。
どちらにしろ、まだまだ波乱はつづくであろうと、孔明は予測し、そして、それはよくない方向で的中するのであった。
朝から靄がたちこめていた。
孔明の朝はふだんはあまり早くないのであるが、なにかに呼ばれたような気がしたのである。
用意されていた水桶で顔を洗ってから、簡単にみづくろいをして部屋を出ると、相当に早かったのか、まだだれも起きだしていないようである。
大きく伸びをして、朝いちばんの呼吸を深く吸い込む。
そうしてひと息ついてから、ふと、鳥林に行った趙雲のことを考えた。
鳥林の疫病の話は、いまだに柴桑まで届いていなかった。
趙雲たちはうまくいったのか。
いや、そもそも鳥林に無事にたどり着いたのだろうか。
偉度の兄弟たちからの連絡も、いまのところ届いていない。
孔明は周瑜のうごきも気にしたが、同じくらいのつよさで趙雲の消息を気にしていた。
そして、確信もある。
もしもあの男の身になにか災いが降りかかったとしても、おそらく自分はそれを知ることができるだろう。
それは夢であらわれるかもしれないし、ふとした瞬間に、ぱっとひらめいたかのように訪れる予感(霊感とも呼べる)かもしれないし、あるいは、身体の変調かもしれない。
いまのところ、悪夢を見ることはないし、不吉な予感をおぼえたこともなければ、身体の変調もない。
無事だろう、そして、生きて帰ってくるだろう。
そんなことを考えながら、朝の冷気と身体がなじんできたので、外へ散策にでも出ようかと考えた。
近くの村に行くにしても、このごろは、かならず偉度が同行をする。
孔明がふたたび刺客に襲われることを恐れてのことであるが、ありがたいと思う反面、いささか窮屈に思うこともあった。
それというのも、偉度はなかなかに口のうるさい舅のようなところがあり、すこしでも孔明が士大夫らしくない振る舞いをしようとすると、すかさず、それはいけない、あれはいけない、こうすべき、ああすべきと口を出してくるのである。
その点、趙雲は楽で、よほど目に余るか、あるいはあとで不都合が起こりそうだと判断されたときしか口を出してこない。
口を出してくるにしても、これは人生経験の差であろうが、偉度は感情的なことばを口にすることが多いのに対して、趙雲は徹底して理論的である。
つまりは、より気が合うのは趙雲のほうなのだ。
偉度が、まだ十五という年齢を考えれば、ずいぶんしっかりしているとは思うが、やはり一回り以上下、ということもあって、孔明は偉度に小言を言われても、なにか冗談を聞いているような感覚をぬぐえないでいる。
一方、五つ年上で、人生経験も豊富、かつ、おのれにはない長所をふんだんに持っている趙雲のことばは、どうしても真剣に聞く。
これほどの人が苦言を呈してくるのだから、よほどの理由があるのだろうと受け止めるからである。
さて、偉度はまだ眠っているのかな、しかしこれだけ靄もあるのだから、刺客がどこかに潜んでいたとしても、おそらく視界が悪いからとあきらめるかもしれないな、などと、都合よく考えながら、孔明はそっと玄関へと向かった。
すると、意外なことに、玄関のところでカタカタと物音がしている。
だれかが扉の向こうにいるらしい。
偉度か、あるいはその兄弟たちが、もう起きだして、外の様子に変化がないか、調べてきたのかなと孔明は考えた。
「偉度か?」
誰何しながら、そっと扉をひらいて、孔明は思わず、ちいさくうめいた。
最初に孔明を閉口させたのは、匂いである。
安い酒の発散する、嗅いだだけで悪酔いしそうな、独特の臭気が、つんと鼻腔を刺激した。
孔明の鼻腔をいじめたのは、酒気だけではない。
どうやら、その酒のなかには、これまた安っぽい脂粉と、香のかおりがまぎれこんでいるようだ。
袖で鼻と口をかばいつつ、いったいどこの不心得者が、こんな河岸にぽつりとあるような庵にまぎれこんできたのかと見れば、玄関の扉の、その横で、ぐにゃりと背骨が抜けたようになって、座り込んでいる男が目に入った。
おそらく柴桑の繁華街から、このちいさな漁村のそばにある庵にやってくるまで、いろいろ冒険をしたらしく、男の衣は、あちこちが泥で汚れている。
結った髪もぼろぼろに崩れていて、だれかに髪をつかまれて振り回されたかのようだ。
だれかと喧嘩をしたわけではなさそうだ。
証拠に、男の衣からだらしなくはみ出した手足、そしてうなだれ気味の首筋などには、どこにも切り傷やあざが見当たらないからである。
当初、それがだれであるかわからなかった孔明であるが、じっと観察して、気づいた。
「魯賛軍校尉ではないか」
孔明がおどろきの声をあげると、いま、この江東の地において、周瑜につぐ賛軍校尉(参謀総長)という地位にあり、軍卒をまとめている男は、うなり声をあげた。
どうやら返事をしたつもりであるらしい。
「あきれたものだな、一晩中、風呂のかわりに酒樽にでも浸っていたのか、酒粕のようなにおいがしているぞ」
孔明は、ことばのとおり、すっかりあきれていた。
あきれていたので、嫌味ではなく、思ったままがつい口に出てしまった。
それでも、魯粛はほとんど聞こえていなかったようで、酔いのほとんど抜け切れていない、しまりのない表情で、顔を上げた。
「おお、ちょうどいい、軍師どの、貴殿に用があってまいった」
「こちらには酒粕に用はない」
今度は嫌味のつもりではっきりそう口にすると、魯粛は、なにがおかしいのか、ケタケタとおどけた笑い方をしながら、壁をたよりにして、立ち上がった。
魯粛がうごくたびに、ひどい酒の臭いがただよってくる。
孔明は大いに眉をひそめた。
もともと潔癖症である。
そして、せっかく気持ちのよい朝を迎えたと思っていたのに、ぶちこわしにされたことも腹立たしい。
魯粛はというと、孔明の仕草(袖で鼻と口を隠す)を見て、おのれの姿を不思議そうに見下ろした。
「そんなにひどい臭いかねぇ。なるべく世間で高級とか言われている妓楼へ行ったのだが」
「いつ戦が起こってもおかしくない状況で余裕のあることだな」
「お忍びで行ったつもりだったのだが、向こうはどうやらこちらを見知っていたらしくてな、いやあ、店の蔵の酒をすべて俺に飲ませたのかもしれぬ。
江東でいちばんの美酒とか言われて、まあいいやと飲み続けて遊びつくしたあとに会計を聞いたら、あんたがこのあいだ奪ってきた鏃が全部買えちまうくらいの値段で」
「酔客のほら話だと差っぴいて聞いたとしても、臭いから察するに、思い切りぼられたのだと思うが」
すると魯粛は、なにがおかしいのか、かみ合わない会話に上機嫌で、やはり、また、ケタケタと笑った。
孔明としては、その笑い方が、なにか妖怪じみていて、気に食わない。
そも、魯粛は、周瑜とともに鳥林へ偵察に行ったのではなかったのか。