飛鏡、天に輝く
四十
夜になると、趙雲は士卒長が昼間にひそかに集めた仲間たちと合流した。
兵舎の外へ出るのがまた問題になるため、趙雲は、あらかじめかれらに、兵舎の外であつまるように指示をだしていた。
初秋とも思えぬ生温い風が吹いており、あちこちに焚かれた篝火の、その炎を生きもののように揺らめかせている。
士卒長らに命じたもうひとつのことは、壷中に決して動きを悟られないように、ということであった。
だから、たとえ信頼出来る者だとしても、集中しておなじ部隊であったり、あるいは同じ持ち場の士卒であっては目立つ。
そうしたことも配慮するように命じて集めさせた結果、趙雲の前にあらわれた人数は六名と、ほぼ予想どおりの数となった。
「ご命令のとおり、こうして人数を集めてまいりました」
士卒長らと趙雲があつまったのは、櫓からちょうど死角になっている、倉庫群の一角であった。
要塞の構造に熟知し、なおかつ櫓に上ったことがないものでないと、見付けられない場所である。
「どうも昼間とくらべると、人が少ないようであるが、なにかあったのか」
趙雲がたずねると、士卒長は、ほんのすこし喜色をうかべて、こくりとうなずいてみせた。
「天はわれらに味方しておりますぞ。今宵は、曹丞相は川に船を浮かべて、夜宴をもよおされております。
それには蔡都督も出席されておりますので、要塞は手薄となっております」
荊州を併呑し、その主人であった劉家の抵抗もすくなかったことから、曹操は、自分たちが背面から突かれることはないと確信している。
事実そのとおりで、荊州の征服された豪族たちのなかで、曹操に屈したあとは、これに反抗しようとする者の動きはまったくない。
それだけ、曹操の力が、かねてより喧伝されていた効果でもあるし、劉家があっさりと降伏したという事実の重さであった。
「よろしい。それでは作戦を伝える。貴公らはこれより三手に別れ、青州兵の厩舎に忍び込み、方法はなんでもよろしい、馬たちを逃がし、暴れさせ、要塞を混乱させるのだ。なるべく曹操の目に付くような、派手な混乱を起こしたい」
趙雲のことばに、あつまった士卒たちは顔をあわせ、それからたずねてきた。
「暴れさせてどうなさいますか。混乱に乗じて、もしや曹丞相の御前に躍り出るおつもりか?」
趙雲は、返事の代わりに、不敵に笑ってみせた。
「いささか乱暴で単純な策かもしれぬが、曹操が船遊びに出ているほどに気を弛ませているのは、たしかに僥倖。
要塞の内部で問題が起これば、これの留守にあたっているものは、処罰をおそれて躍起になって騒ぎを沈めようとするであろうし、曹操は曹操で、思いもかけない要塞内部の騒動におどろき、あわてて戻ってくるだろう。その混乱をつく」
「厩舎を襲うのはわかりましたが、しかし、その後、われらはどうすればよろしいのでしょうか」
士卒長の質問に、趙雲は、当然のことをこたえるかのように、あっさりと答えてみせた。
「馬どもを暴れさせたあとは、貴公らは、すみやかに夜陰に乗じて兵舎へもどれ。だれにも姿をみられぬように注意せよ」
反論しようとする士卒らの気配を感じ、趙雲は、手振りでそれを止めた。
「すまぬが聞かぬ。日中にも言ったと思うが、俺が鳥林にきた理由は、貴公らを助けることであって、騒動に巻き込むことではない。
もし青州兵の厩舎を襲ったのが貴公だと知れて、それが原因で処罰を受けることになったなら、それでは意味がないのだ。
あとは俺に任せよ。なんとしても曹操に近付き、貴公らの現状を伝える」
「伝えてくださるのはありがたい、ですが、それでは貴殿はどうなるのです。
捕らえられ首を刎ねられるようなことになってしまったなら、われらとしても黙ってはおられませぬぞ」
「最悪の場合は、ありうることだな」
と、あっさりと、今日は風がつよいな、と口にするのと、同じくらいの平板な口調で、趙雲は言ってのけた。
「しかしそうなった場合でも、約束してほしいのだが、貴公らは、決して声をあげないでほしい。
名乗り出て、おなじく処罰を受けよう、そのほうが潔かろうなどということは、考えないでほしいのだ。
そうなったとしても、俺は貴公らを恩知らずなどとは思わぬし、俺も内部の手引きがあったことなどは、決して口にせずに逝くつもりだ」
士卒長らの心に、そのとき去来したものはなんであったのか、趙雲にはわからない。
ただ、かれらは、無言のまま、しばらく唖然としたように、趙雲の顔をまじまじと見つめていたが、やがて深々と拱手して、最初の命令どおりに、青州兵の厩舎を襲うために散っていった。
さて、残されたのは、趙雲のみである。
荊州の疫病に苦しめられている兵舎には、徐庶と陳逸徳、そして嫦娥らが、結果を待っている。
が、趙雲は、おそらく今夜かぎりで、かれらに会うことはもうないであろうと思っていた。
死を覚悟していたのではない。
死はいつでも覚悟しているが、死ぬことを前提にして行動を起こしたのではなく、単純に、曹操と接触したあとは、捕縛を逃れるために、ひたすら要塞からの脱出を考えねばならず、荊州兵の兵舎に戻る余裕はなかろうと考えていたためである。
趙雲は闇のなか、まずは曹操が優雅にも船遊びをしているという川岸の、その様子を一望できる場所へと、静かに移動をはじめた。
曹操が要人らをあつめて船遊びに興じているという状況は、たしかに僥倖というほかなかった。
警邏の兵のほとんどは、曹操を守るために川岸に集中しており、要塞内部の警邏の兵はずいぶん減っていたのである。
曹操と対峙するまでは、なるべく余計な体力を使いたくなかったので、移動が楽だということはありがたかった。
やがて、要塞の中枢たる河岸の曹操らの宿舎に近付いていくと、風に乗って、なんとも甘やかで華やかな楽の音が聞こえてきた。
曹操が南下とともにつれてきたという、楽士たちの奏でている音楽である。こうした余裕もまた、曹操の巨大な力を示すものであった。
川岸にまで近付いたとき、趙雲は思いもかけない光景に、これが吉兆か、それとも凶兆なのか、判断がつきかねて、しばし口をつぐんだ。
河岸には、うっすらと靄のような霧がかかっていた。
その白い帳の向こうから、おそらく中原では最新流行なのであろう、聞き慣れない音楽が絶えることなく聞こえてくる。
同時に、飾り立てられた遊覧船に乗せられた、舞姫たちの軽やかな笑い声やさざめきが霧にかすかに漂っている。
すっかり出来上がっている者もいるようで、調子はずれな詩を吟ずる声も耳に届いてきた。
いい気なものだ、と趙雲は思わず舌打ちした。
荊州兵の兵舎の、孤立し、見捨てられた惨状とくらべれば、あまりに差がありすぎた。
これが征服したものとされたものの差なのだから、といい聞かされたとしても、趙雲はけっして納得しなかっただろう。
つねづね思っているのだが、民を顧みなくなった権力者の姿というものは、このうえなく醜く、そして悲しい。
曹操は決してそうした係累の、『ぶざまな』男ではなかったはずなのだが、あまりに容易に手に入れられすぎた荊州が、英雄をあっさりと凡人に落としてしまったのだろうか。
その残酷さに、趙雲は、呆れるというよりは、恐ろしくなった。
生きて、今日、この土地から離れられるかどうかわからない、
わからないが、成功のすぐそばに慢心が潜んでいるように、すべては両刃の剣なのだということ、そしてその事実の冷酷な意味を、決して忘れまいと、こころに誓った。
警邏の兵は、予想したとおり、ほとんどが河岸のほうにむいて警備をつづけている。
まさか背面より敵が襲ってくるとは、夢にも思っていないのだろう。
趙雲は、川岸と、それから要塞の様子をぐるりと見回して、なかでも、もっとも全体を見渡しやすい、そして、兵卒の数もすくない櫓を選び、近付いていった。
櫓は、そう大きなものではなかった。
おそらく水面からあらわれるであろう敵を見張るための、ひときわ大きな櫓には、何名かの兵卒らがあつまって警備をつづけているので近付けなかったが、その傍らにある、要塞内部を見張るための櫓には、人はすくなかった。
趙雲は軽装をしていたので、まずは夜陰に乗じて、櫓の下にいる兵卒の動きを観察した。
そのひとりが自分のほうに近付いてくるのを見ると、猛禽が空から獲物を奪い取るような素早さでもって襲いかかり、その兵卒を気絶させ、身にまとっていた衣服のうち、曹操が兵卒らに支給している鎖帷子を奪って身につけた。
そして、兜をかぶると、何食わぬ顔をして、警邏の兵に紛れた。
案の定、警邏の兵たちの士気もまた、だれていた。
夜間の警邏の兵卒たちは、昼間にじゅうぶんに睡眠を摂っているはずなのだが、だれもかれも、やる気がなさそうな顔をして、あくびさえしているものもいる。
呆れたのは、そうしただらしのなさを叱る上役が存在しないということで、それだけ兵の士気全体が、だれ切っている、ということが感じ取れた。
かれらもまた、自分たちが、江東よりもはるかに勝る兵数である、ということと、江東のような『田舎者』が夜襲をかけてくるような度胸をもっていないだろうと、タカをくくっているのである。
眠気と倦怠感のただようなか、しばらく動きのとれない時間がつづいた。
あとは士卒長らの動きを待つばかりである。
青州兵の厩舎の警備は、夜間は手薄だということは、士卒長らが事前に調べていた。
まちがいがおこらなければ、騒ぎはもうすぐ起こるはずであった。
趙雲は忍耐づよい男であったから、待つことは苦ではあったが、耐えられないほどではなかった。
ほんの一瞬の焦りが、思いもかけぬ悲劇を呼ぶ事例を、いままで見てきたから、よけいに慎重に動くことができた。
孔明は、こうした趙雲の慎重さを、武将らしからぬ感受性のつよさのあらわれであろうと言った。
言われたほうの趙雲としては、ぴんとこなかったのだが、孔明が言うのだから、いい加減な根拠で言ったのではあるまい。
趙雲は、孔明が自分を評するときの、他者とはまるでちがう見解を、いつもおもしろく思って聞いていた。
そして、敵の警邏兵のなかにありながら、平然とそんなことを思い出している自分がおかしくなった。
感受性がつよいというわりには、自分はたいした強心臓である。
だれきった兵卒たちのなかにあり、趙雲は、自分が死ぬということを、まるで考えられないでいた。
おそらく作戦は成功する。
あともうすこしだ。
風が吹いていた。
もしおのれが曹操の配下であったなら、天女の衣が優美に舞うような霧のなかで、ゆったりと流麗につづく音楽と、おだやかなさざめきのなかに身を置いていただろう。
こうして夜陰のなかに立っていなければならないのと比べれば、天上の宴もかくやといわんばかりの、絵のように美麗な光景のなかで、ここが戦場であることを忘れ、身の危険を感じずに、愉しんでいられることに感謝しただろう。
曹操は、いまやこの国で、もっとも巨大な権力者であり、これに対抗し得るものはいない。
その勢力下にいれば、たしかにそう確信しただろう。
江東を見ていなければ、そして、孔明という人間の存在を知らなければ。
どれくらいの時間が経ったか。
もしかしたら、案外と短い時間であったかもしれない。
それまで、時間がのろのろと進んでいるかのようであった鳥林の夜は、唐突に打ち破られた。
青州兵の宿舎の方から、つぎつぎと叫び声があがってきたのである。
兵卒たちや、その家族(青州兵らは、戦があるたびごとに、家族とともに曹操と移動をくりかえすのが常であった)の叫び声と同時に聞こえてきたのは、馬の甲高いいななきであった。
同時に、つぎつぎと聞こえてくる、人の不明瞭な叫びは、やがてはっきりと意味をもって耳に届いてきた。
「厩舎が火事だ、馬が逃げたぞ!」
見ると、篝火の向こうで、夜空にむかって、黙々と、黒い煙がいくつも上がっている。
士卒長らは、てっとりばやく、厩舎の内部に侵入するのをあきらめて、外から厩舎に火をつけたのであった。
あちこちで、非常事態を報せる銅鑼がなり、寝静まっていた要塞は、とたんに蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
趙雲はおのれの唇をひと舐めしつつ、七年以上、荊州のなかにあって錆付いていた、故郷の訛りを思い出した。
そして、わあわあと動き回る兵卒らを尻目に、目をつけていた櫓に、一気に駆け上った。
「手の空いている者は、すべて厩舎へ向かえ、火を消すのだ、早く!」
そう叫びながら。
青州兵にとって、馬はなによりもかけがえのない財産である。
そして、かれらにとっては、財産以上に大切な武器、そして身をまもる盾であった。
馬と一体になってこそ、青州兵の真の強さは発揮できる。
かれらのなかでも、その軽騎兵の強さというのは比類なく、新野に侵攻してきた曹操軍のうち、もっとも孔明が恐れたのが、この軽騎兵の存在であった。
だからこそ、馬を失うことは、青州兵にとっては恐怖なのである。
最良の武器を失い、おのれの存在意義も失うことにほかならないからだ。
青州兵らの育てている馬は特別なもので、小馬のときから慎重に訓練をほどこしながら育てており、成長させるまでに手間がかかっている。
剣や槍といった心のないものとちがって、相性も重視されるから、簡単に交換できるものではない、という点も大きい。
だからこそ、厩舎を襲撃されるということは、青州兵と、かれらを頼みにしている曹操軍にとっては、急所を狙われるに等しいことであった。
そうであれば、もっともっと、警備をしっかりしておけばよいのだ。
そんなことを胸のうちで口にしながら、趙雲は櫓に駆け上る。
櫓には、ふたりの兵卒がいて、突然あらわれた趙雲に仰天していたが、趙雲は問答する暇をあたえず、すばやく彼らに当て身をくらわすと、それぞれかれらをその場に伸した。
狭い櫓で二人の兵卒の体は邪魔であったが、ここで蹴り落とすと、地上が騒ぎになるので、あえてそれはせずに、大騒ぎになっている地上と、優雅な夜宴が一変し、徐々に舳先を地上に戻している、霧のなかの船団を見つめた。
船はいくつも浮かんでいたが、そのなかでも、ひときわ立派で大きな船には、曹操の存在を示す軍旗がかかげられている。
はためくその軍旗を見つめて、趙雲は胸のうちでつぶやいた。
そうだ、戻ってこい。おまえに話がある。
しかし、しばらくして、思いもかけないことが起こった。
銅鑼の音が、ひときわ高く響いた。
地上からのものではない。
河の向こう、霧の奥のほうから聞こえてきたのである。
たった一度のその音は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっている要塞を、一瞬でも沈黙に落とすほど、なにか切羽詰まった響きをもっていた。
趙雲も、耳をすませて、霧の向こうを見つめる。
やがて、尾を引いていた銅鑼の残響にかぶさるようにして、さらにもう一度、銅鑼の音が聞こえてきた。
「江東の襲撃だ! 夜襲だぞ!」
地上の兵卒たちが騒ぎだした。
まさか。
趙雲は、やぐらから身を乗り出して、霧のなかになにがいるのか、たしかめようと目を懲らした。
が、暗すぎて、なにも見通すことができない。
地上に戻りかけてきた船団は、ふたたび向きをかえて、川の方へ舳先を向ける。
敵襲をしらせる銅鑼が、鳥林に響き渡りつづけた。
それを聞きながら、趙雲が思ったのは、柴桑に残した孔明や偉度たちのことであった。