飛鏡、天に輝く
三十七
ここでふたたび舞台は鳥林へと移動する。
徐庶とともにひたすら道を西進し、用意されていた船で陸口から鳥林へと渡った趙雲であるが、新野と樊城以外の土地に足を運ぶことが稀であったことがさいわいし、だれに見咎められることなく、鳥林に入ることができた。
そして、鳥林での兵舎の様子を目の当たりにして、その悲惨なありさまに絶句することとなる。
徐庶が鳥林を出て、そして戻ってくるまでの十日に満たないあいだに、疫病は驚異的な速さで兵舎を席捲していたのだ。
「医者はなにをしているのだ」
死に支配された兵舎の、その独特の臭気に吐き気をおぼえながら、趙雲が呻くと、たったひとり、その場で医者として腕をふるっていた嫦娥が、趙雲がやってきたのを見つけると、前置きもなにもなしに言った。
「見てわかるだろう。医者はわたし一人。ほかの連中は、蔡都督が邪魔をして、この兵舎に来たくても来られないでいるのだ」
嫦娥は、堂々と月の女神の名を名乗るほど、もともとの顔立ちも凛として美しい女であったが、残念ながら高すぎる知性がそうさせるのか、色気のまったく感じさせない女である。
趙雲と目の高さがほぼ変わらない、という背の高さも、この女の持つ、独特な威圧感の源となっている。
趙雲は、一瞬、この女の元夫である孔明の近況を、まずは教えてやるべきかなとも思ったが、しかし言葉はでなかった。
妙なもので、この女には、ふつうの挨拶さえ、してはならないような空気がある。
まして、目の前にひろがる惨状をまえにして、呑気に近況を報告しあえる空気はまったくなかった。
「蔡都督というと、あいつか、蔡将軍。都督とは、ずいぶんと出世したものだな」
「なんだかんだと劉氏の後ろ盾がある男は強い。あたらしい樊城の主となったあの坊やは、知っているだろうが、『例のあの方』に繋がっているからな。だから曹操も邪険にできないのだ。
本当は切り捨てたいところだろうが、実際に役に立つ部分もあるし、この状況で劉氏を騒がせるのはまずいと思っている」
憮然と言う嫦娥に、趙雲は高熱に呻いて横たわる兵卒たちを気にしながら、たずねた。
「やはりそうか。壷中の大元は、曹操が擁護している『あの方』か」
嫦娥のほうは、顔色ひとつ変えずに、てきぱきと兵卒たちの看病をつづけながら答えた。
「擁護しているというより、曹操からしてみれば、抑えている、といったほうがいいだろう。
『あの方』からすれば、曹操を利用して天下をふたたび劉氏のもとに集めようと夢想しておられるわけだし、曹操からすれば、その名前だけを利用して、おのれの天下を目指そうとしている。
いまは、たがいの利益が上手く合致しているから、それぞれ牽制しあいながら手を組んでいる、というわけだ」
「曹操も苦労だな。しかし」
嫦娥は横たわる患者のために座って薬を飲ませていた。
それに合わせて中腰になっていた趙雲であるが、身体を伸ばすと、兵舎に隙間なく横たえられた患者たちを見て、ため息をつく。
「いくら苦労をしているからといって、これは怠慢であろう」
毎日のように出る死体の山を片付ける、兵卒たちの姿がある。
兵舎のなかで病に苦しむ者たちに対して、医者がいないために、症状の軽微なものがこれの看病に当たっている。
隔離されてしまっているので、健常な兵卒たちは、病棟と化した兵舎に入ることができないからだ。
しかし、いくら症状が軽微とはいえ、病人は病人である。
看病することで、かえって症状を悪くしてしまい、共倒れになってしまうのだ。
ぞっとする眺めであった。
このような有様が出現してしまっているなかで、士気が上がるはずもない。
見れば、病に罹っている兵卒のほとんどが荊州の者たちで、曹操が虎の子の兵として優遇している青州兵の姿は見られない。
使い捨て、という言葉が、いやでも趙雲の脳裏をよぎった。
曹操は南進を焦りすぎたのだ。
そして曹操は、江東の勢力が烏合の衆であると決めてかかっている。
数では勝っているということも、慢心の源になっているのだろう。
もしも以前の曹操であったなら、疫病が発生するような要塞をつくることもしなかったであろうし、また、疫病をむざむざ持ち込ませてしまうような、甘い警備体制を敷くこともなかったはずだ。
箍がゆるみきっている。
数だけ聞けば、たしかに曹操側の勝利を疑うものはいないだろう。
これまでの曹操の鮮やかな勝利の数々を思えば、もっとそうだ。
だが、これでは、勝利は望めない。
曹操は、負ける。
趙雲は確信した。
「これほどの状況に陥っているのに、曹操ほどの男が気づかぬとは、不自然のように思えるが」
趙雲が言うと、患者の汗をぬぐってやっていた嫦娥が、冷たい目線を投げて寄越してきた。
趙雲は、この、おのれの感情に正直な、侮蔑のこもった女人の目線が、どうにも苦手である。
「そうであるならば、医者がわたし一人などという状況にあると思うか?
やつは冷酷な男だが、おのれの天下取りに必要不可欠な兵卒たちは大切にする。
もし疫病が発生しているとなれば、抜け目のないあの男のことだから、おそらくはこれを逆手にとって、荊州の民におのれの心象をよくするために、大量の医者を贈って寄越すだろう」
「曹操の耳に都合の悪い情報を入れさせない、蔡都督の力は、それだけ強い、ということか」
「曹操側の人間にも、いま曹操の機嫌を損ねさせたくない、などと考えているばか者がいるのだろう。だからこそ、曹操は知らないでいるのだ」
「老害だな、長生きしすぎた」
悪態をついてみるものの、本音のところでは、劉備と五つしか歳の離れていない曹操のことを、趙雲はまだ老人だとは思っていなかった。
逆に、いまここで曹操に死んでもらっては困る、と思っている。
死因はなんでも困る。
暗殺でも病死でも戦死でも。
なぜ困るかといえば、曹操に中原を抑えてもらっていなければ、孔明の構想する天下三分の計が成り立たなくなってしまうからだ。
曹操には多くの子息があるが、いまだにその後継者を定めていない。
突然に曹操がこの世から去れば、家督争そいも起こるであろうし、涼州で、このところ不穏な動きをみせているという馬超らが騒ぎ出すだろう。
中原の混乱は、すなわち、ふたたび時代が十年前に戻るということでもある。
天下三分の計は破綻してしまうのだ。
趙雲は、この計を気に入っている。
孔明が立てた計だから、などという理由ではなくて、この計の根底にあるものが、あくまで『民に平和をもたらすため』のものだからだ。
疲弊した国力を三つの地域にわけて三すくみの状況をつくりあげて回復させ、それから天下統一を狙う。
時間がかかるが、現実的だと思う。
ここには過度な野望もなければ、無茶な理想もない。
なにより、平和というものから無縁だった民を、すこしだけ戦火から遠ざけることができる。
荒れ果てた人心を、癒す時間が生まれるのだ。
「そこで突っ立っているのなら、わたしを手伝うか、さもなくばここに来た目的をさっさと果たすべきだと思うが?」
と、いささか挑戦的ともとれる口調で、嫦娥が言ってきた。
思わず「すまん」と謝った趙雲であるが、どうもこの女人から嫌われているような気がするなと、そのときに思った。
日が暮れて、嫦娥の仕事が落ち着いてから、趙雲と徐庶、そして嫦娥の助手をしている斂少年と、そして陳逸徳は、隔離された兵舎のなかの、嫦娥が居室として使用している小部屋にあつまった。
それぞれの面持ちは、暗い。
明るくなろうはずもない。
同じ屋根の下では、高熱に苦しむ病人たちの声、悲しげに、ここにはいない家族の名前を呼ぶ声が漂い続けているのである。
かれらを救うための作戦会議がはじまろうとしていた。
「薬もろくてに入らぬ。いっそ毒でも手に入れて、病人を楽に死なせてやりたいとすら思うほどだ。
試しに病に罹った者をあつめて、曹丞相に直訴させようともしたのだが、すぐに蔡都督に邪魔されてしまう。
もっと言うならば、蔡都督に付き従う壷中の残党と、龐士元の放った残党とが組んで、これを邪魔しているのだ」
「つまり、壷中が再編成されたものと見てよいか?」
「それぞれの思惑はちがうが、いまは利するところは一致しているので、手を組んでいる、というところだろう。
龐士元側の壷中の残党は、もうすっかり別の組織と見ていい。蔡都督のほうは相変わらずだ」
「どちらにしろ、倒す相手であることに変わりはない、というわけだな」
曹操側の官僚である司馬の陳逸徳が、おずおず、といったふうに口を開いた。
陳逸徳にしてみれば、気おくれしているのは当然で、趙雲は敵である劉備の配下の男なのだ。
しかも陳逸徳自身、壷中に命を狙われている。
どれをとっても、命が危うくなる状況にいるなかで、いまだ開き直れていないようである。
「蔡都督は疫病の流行っている兵舎のまわりに壷中の残党を配して、高官をだれも近づけさせないでいる。
まずはこやつらを突破し、曹丞相に近しい高官に接触するのが肝要だ」
「高官とひとくちにいっても、いろいろいるであろう。誰に接触するのが望ましいのだ」
嫦娥がたずねると、徐庶が口をはさんだ。
「荀軍師だ。曹丞相に直言できるうえに、蔡都督に取り込まれずにいる人物となると限られる。
あの方は官僚の鏡だぞ。安心できるという点では、この方がいちばんよかろう」
徐庶は、日が暮れるまで、長旅で疲れたといって、しばらく眠っていた。
嫦娥を手伝いたい気持ちもあるのだろうが、徐庶もまた、壷中に命を狙われているのだ。
自分がいることで、病人たちを巻き添えにした戦いになるのを避けたのである。
徐庶のことばに、嫦娥はやつれてほつれた髪を直す横で、陳逸徳が反論した。
「しかし壷中のほうはどうだ。壷中というのは、そも、正統なる劉氏、すなわち帝室による完全な漢王朝の復興を願っている連中のはず。
荀家は、清流で帝室擁護を主張していたのではなかったか」
「主張は同じだが、強硬的な壷中と、争いをなるべくなら争いを避けようとする荀軍師とでは、まったく反りが合わぬよ。そのあたりはまちがいない」
陳逸徳と徐庶の会話にしばらく耳をかたむけていた趙雲であるが、黙ったまま、首を横に振った。
その仕草に気が付いて、徐庶が怪訝そうにたずねてくる。
「なにか不満がありそうだな」
「すまぬが、ある。まどろっこしい手段は必要なかろう。それに、あいにくと俺には、荀軍師という男が、どれだけ信頼できるか、よくわからん。
もし直訴するつもりならば、曹操に搾るのがいちばんだ」
「それは」
と、陳逸徳と徐庶が顔を見合わせる。
「あんた、もしや、この気に乗じて曹操を討ってやれ、などと思っているのではあるまいな。
そうなれば、かえって混乱が深まる。孔明の天下三分の計も」
破綻する、と続けようとする徐庶に、趙雲は、手ぶりでそれを止めた。
「わかっている、俺もそこまで極端なことは考えていない。だが、良くも悪くも曹操は話のわかる男だ。さきほど、嫦娥どのも言っていたとおり、曹操はおのれの民、そしておのれの兵は大切にする男だ。これをないがしろにする理由はどこにもない。
曹操の周りには、いろいろな考えを持つやつが多すぎる。そいつらを一人一人吟味して、選り分けている暇はないのだ。
だったら、曹操に直接向かうのがいちばんであろうと思うが、如何か」
「如何、ってな」
趙雲の理路整然とした、しかし大胆な提案に、さすがの徐庶も言葉をなくしている。
趙雲のほうは、いたって冷静であった。
兵舎の悲惨な様子に対して、つよい義憤を感じているのは確かだが、それによって判断力を狂わせることはない。
趙雲はかつて、公孫瓚のもとにいたとき、曹操を見たことがあった。
容貌魁偉な男たちのなかにあって、ひときわ小柄ながら、しかし、ひとり、強烈な異彩を放っている人物。
当時から、曹操には、他者とはちがう何かをつよく感じさせるところがあった。
その小さな身体から、あふれんばかりの知恵と、そして生への執着を含む、ありとあらゆる物に対する強烈な執着が感じられた。
英雄という言葉がそのまましっくり当てはまるような、そんな印象を受けたのを覚えている。
もし趙雲が、そのとき曹操と関わるようなことがあったなら、趙雲はその配下に加わったかもしれない。
曹操には、この人物に従っていれば、面白そうだと感じさせる雰囲気があった。
新野を追われて、紆余曲折を経て、いま趙雲はここにいるわけだが、曹操の勢力そのものに敵愾心はあっても、曹操ひとりには、じつはさして悪い感情はない。
むしろ、敵ではあるが、大した男だと認めている。
とはいえ、それを口にしたなら、自分よりもっと曹操とかかわり、そしてその人となりをよく知っている張飛や関羽に張り倒されるのは目に見えているので、黙っているのだが。
曹操の動向は、新野にいる七年のあいだにも、ずっと見守ってきたから、その人柄も、断片的にだが知っている。
曹操本人に直訴すれば、手っ取り早い。
この確信は揺るがない。
そして、もしここに孔明がいたなら、同じように考えるはずだ。
工作はいらない。
複雑な政局は無視し、曹操に直訴するのがいちばん早い、と。
「で、具体的にはどうするんだい。曹操の身辺には、鼠一匹でさえ入り込めないのだぜ」
「策が必要だろうな。こういうのは、貴殿のほうが得意ではないか」
嫌味のつもりではなかったが、趙雲が切り換えすと、徐庶はすこしばかりむっとした顔になった。
「あんた、この半年で、すこし印象が変わったな。まえは、あまり本音を口に出さない男だと思っていたよ。まあいいけどな……
策、といっても、思いつくことといったら、そうだな、あんたが仕官したいと申し出れば、曹操のことだ、喜んで顔を出す。そのときに直訴する、というのはどうだ。単純だが、効果的だぜ」
たしかに人材を集めることに情熱を傾けている曹操には、有効な策に思われる。
が、趙雲は首を横に振った。
「だめだな。俺は新野から江夏へ落ちるさい、夏侯氏のひとりを斬った。そこを突かれたら、何を言う暇もなく処刑場へ連れて行かれてしまう」
「そんなことがあったのか。働き者だな、あんたは」
言いながら、次の策をひねる徐庶に、趙雲は言う。
「ここでこうして顔を合わせて、うなっていても仕方ない。
夜闇に乗じて、すこし鳥林の要塞の様子を把握しておきたい。なにかよい策が浮かぶかもしれぬしな」
兵舎に横たえられた兵卒たちの身体を踏まないように気をつけながら、趙雲は、そっと外へ出た。
趙雲について来る者はいなかったが、止める者もいなかった。
趙雲としては、自分の提案で、いささかぎすぎすした空気を和らげることも考えていた。
俺はあいかわらず、口が下手だなと、苦く思う。
そこへ行くと、孔明の口のうまさ、というのは、やはり天才的というべきだろう。
どれだけ無茶な言葉だろうと、相手を圧倒して納得させてしまう。
上には上がいる、という言葉があるが、弁舌に関しては、孔明はそれこそ雲の上にいる人間のように思える。
でもって、おのれは、もぐらだ。
嫦娥は病人のそばを離れられないので小部屋に留まり、斂少年は、その手伝いがある。
徐庶は壷中に命を狙われているから、外に出ることはできない。
趙雲はだれにも顔を知られていないだろうという自信があったが、万が一にそなえて兜を目深にかぶって顔を隠し、なるべく目立たないよう、猫背になって闇を進むことにした。
そうして準備をしていると、声をかけてくる者がある。
荊州兵に顔見知りがいたか、と身構えて振り返ると、そこには追いかけてきた陳逸徳の姿があった。
中原の士大夫の出身だという陳逸徳は、危機のなかにあり、いまだおのれの立場がよくわからず、おどおどしているような印象がある。
これといった特徴はうすいが、面差しのやさしい、上品な雰囲気のある男だ。
戦場にいるよりも、田舎の官庁で、竹簡に文字を綴っていたほうが似合う。
年齢は、自分とほとんど変わらないはずだ。
けれど、陳逸徳は、謙虚なところを見せて、趙雲には高位の者に接するような態度で振る舞った。
権威をかさに、威張り腐った文官に慣れている趙雲には、陳逸徳の様子は、好ましく思えた。
「如何された」
「いえ、もし要塞の様子を見たいというのであれば、わたくしが道案内をいたしましょう。
この闇のなかでございますし、迷ってしまうと、戻れなくなりますぞ」
「それほどに複雑な構造をしているのか」
怪訝に思って趙雲がたずねると、陳逸徳は、困ったような顔をして答えた。
「日に日に疫病が広がっているため、これを隔離するための兵舎が建て増しされているのです。
そして、そこに近づかせぬための柵や高楼なども作られて、曹丞相のおられる場所以外は、どんどん迷路のようになってしまっているのです」
「呆れたものよ。それでは管理が大変だろうに」
「逆にいえば、隠すのが楽になる、というわけでございます。たとえば曹丞相が思いつきで兵舎を視察したいと言い出しましても、柵さえくぐらせないようにすれば、疫病のことはわからないようにしてあるのです」
「そこまで周到に考えているとはな。だれの考えだ」
「だれ、というよりは、ともかくひたすら、おのれの間違いを隠しとおしたい人間が知恵を出し合った結果でございましょう」
「ふん、せっかくであるから、夜陰に乗じて、そやつらを斬ってまわる、というのも手かもしれぬな」
趙雲が冗談まじりにいうと、陳逸徳が、ぶるりと身をふるわせた。
「おやめくだされ。もしそのようなことをしたなら、たしかに曹丞相が異常に気づくことでしょうが、しかし、疑われるのは、ここで病に苦しんでいる兵卒か、あるいはこれを懸命に看病している者たちでございますぞ」
たしかにそうだ。
趙雲は、冗談が過ぎたことを謝罪してから、陳逸徳を連れて、鳥林の要塞を見て回ることにした。
陳逸徳のほうも、ここ数日間の潜伏生活で、変装は慣れたものである。
そうして、二人の影は、夜闇に隠れて、外へと繰り出していった。
それにしても。
趙雲は、病人で満員となっている兵舎からでて、外に出たとたん、その夜気の冷たさにほっとして、大きく呼吸をした。
ひどい有様だ。
上に立つ人間にとって、末端の兵卒というものは、ただの部品に過ぎないのだろうか。
かつて、自分も新兵として袁紹の軍の末端に加わっていたとき、おなじ味方から、ひどい目に遭わされた。
そのときの、理不尽な暴力に対する恨みと、そのときに受けた衝撃と怒りは、長い年月が経っても、まだ消え去っていない。
それ以上にひどい目に遭わされたこともある。
それでも、初めて世の中に出た、その最初に受けた仕打ちの衝撃というのは、なかなかに忘れられないものである。
世間の洗礼などというものの範囲を、大きく逸脱していた。
同じようなことが、いま、目の前で行われている。
深い落胆と、静かな怒りがある。
その怒りは、理性を失わせるほどに強烈なものではないが、しかしなかなか胸の内から立ち去ろうとしない、毒のように静かに心を蝕んでいく類いのものである。
この怒りを消し去るためにも、早く曹操のもとへ赴かねばならぬ。
思うに、これまで自分という人間は、自分ありきで、他者というものをほとんど省みることはなかったように思える。
冷淡だの冷酷だのと、さんざんに言われたものであるが、それでも、これほどに苦しんでいる多くの人間をまえに、見てみぬふりができるほど無神経であったわけではない。
この無神経さこそが、趙雲が理解しかねる最たるものだ。
蔡瑁にしろ、壷中の人間にしろ、どうしてそれほどに無関心でいられるのか。
そして、その利己的な無関心から生まれたものの、最たるものが壷中であるということが、なんとも皮肉なものではないか。
壷中に望んで入った者などいなかろう。
そこにいるかれらは、自ら望んだのではない。ただ生きるために、おのれを変えていかざるをえなかった。
その過程で、かれらは大きく変容し、いまや手のつけられないものに成り果てている。
かつて、自分たちを見捨てた者そっくりの醜悪な姿に。
ここに孔明がいたなら、おそらくは戦うことなく、なんとかして壷中をやり過ごし、曹操に事態を知らせるようにしようと、そのことを考えただろう。
だが、ここに孔明はおらず、そして、いま剣を持ち、地に立っているのは、趙子龍という名の、戦う以外のことは、なにもかも不得手な、自分だ。
兵舎の外には、隔離するための柵が張り巡らされていた。
「急ごしらえで作ったものにしては、立派なものだな。それとも、荊州兵とほかの兵卒を連合させぬためのものか?」
趙雲がたずねると、陳逸徳はかぶりを振った。
「この疫病のことが露見してから、急遽、作られたものでございますよ。上には、荊州兵のほうで不穏な噂が立っているからと報告したのです。
ありもしないそのでっちあげのために、十日のあいだ、荊州兵の食事が減らされるという罰もございました」
「腐り果てておるな。弱った兵は、それでは、たまったものではなかったであろう」
「だからこそ、ますます疫病が広がったのでございます」
静かな憤りをにじませて、陳逸徳はいう。
高い柵のまわりには、ふつうの巡邏の兵卒と、かれらを統率するように、不自然なほど若い兵が、あたりを警戒している。
疫病の広がっている兵舎に、わざわざ忍び込む者もいないだろうと思ったのか、兵舎への侵入はたやすかった。
だが、出るとなると、これはまた別らしい。
疫病を外に持ち出させないために、巡邏の兵卒はきびしく目を光らせている。
隔離された兵舎のすぐそばには、この要塞の生活と、そして戦そのものを支える倉庫が、ずらりと並んでいる。
その数の多さと大きさは、それだけで曹操の力の大きさを示していた。
倉庫の向こうには、べつの兵舎が並んでおり、そこはごくごくふつうに兵卒たちが寝起きしている空間らしい。
さらに本陣に近くなれば近くなるほど、青州兵など、曹操に近しい、強力な兵の兵舎となっている。
本陣そのものの作りは、たいそう立派なものであった。
大きな櫓が組み立てられており、その上には、錦の『曹』の旗がかかげられ、篝火に照らされて、風にたなびいている。
柵を隔てて天と地の差である。
曹操を中心とした荊州の現状が、そのままあらわされているような作りの要塞であった