飛鏡、天に輝く
三十四
「こう言うのも奇妙なものだが、安心してくれ。都督は、あんたの作戦を知らない。ただ船を貸しただけだ」
意味がつかめず、孔明が戸惑っていると、魯粛は士卒長らのほうに目をやりつつ、さらにつづける。
「あんたの作戦を聞いた士卒長どもが、ほんとうに大丈夫かと俺に問い合わせてきたのさ。本来なら、都督にまで報告しなくちゃならないところだろうが」
と、魯粛はここで言葉を切り、孔明のほうを向く。
「わかるだろう。あんたに都合のよいふうにしたのだぜ」
要するに、孔明のこれからしようとする作戦の概要は、魯粛の胸の内にとどめて、周瑜には報告しなかった、というわけである。
「それでわたしを救ったつもりか?」
孔明が目を細めて、すこしばかり意地悪く言うと、魯粛は、困ったように笑った。
「そう言われると辛いが、都督の今回のやり方には、俺はどうも賛成しかねるところがある。
それに、あんたを江東に連れてきたのは、俺だからな。あんたはいろいろとやってくれたわけだが、しかしこうして窮地に立たされているのを見て、黙っているのも不人情かと思ったのさ」
「で、わざわざ見送りに来てくれた、というわけか。
都督には、孔明は意気揚々と鳥林に出かけたと伝えてくれ。さあ、みな、出発だ」
孔明は、まだ魯粛に腹を立てていた。
自分を孤立させたことに対してではない。
それだけならば、孔明は仕方のないことだろうと納得さえしていた。
孔明が腹を立てているのは、偉度たちのことである。
魯粛は偉度のことを知り、そして龐統に利用されているのを知りながら、見てみぬふりをしていた。
偉度たちは、どこからどう見ても子供である。
子供を戦に利用して、それを国のためだのなんだのと平然としていられる、その神経が、孔明には理解できないのである。
孔明が、ろくろく目もあわせず、さっさと船に乗り込もうとするのを見て、魯粛が声をかけてくる。
「待ってくれ、俺はただ見送りに来たのではない。少しでもあんたの助けになろうとおもってきたのだ。
鳥林まで、俺も同道する。邪魔はしない、誓おう、あんたの言うことを聞くさ」
桟橋の中ほどまで進んでいた孔明は、怪訝そうに、霧の中に浮かぶ魯粛にたずねた。
「賛軍校尉とは忙しい身の上だな。日も沈んだのに、戦目付けの役目も果たさねばならぬというわけか。しかし、同道してどうするつもりだ」
孔明の嫌味の連打に、魯粛は眉をしかめつつ、口を開いた。
「水夫たちは怯えているぜ。あんたの作戦は士卒長からだいたい聞いたが、大胆に過ぎる。たしかに水夫たちが怖じるのも無理はないものだ。
それにこの霧であるし、しかもあんたは、船の護符まで消させてしまったそうだな。水夫たちというのは、あんたが思っている以上に験を担ぐものなのだ。なにかの拍子に問題が起これば、すぐに連中は、あんたの所為だといいたてて、下手をすれば水上で反乱を起こすかもしれない。
そうなったとき、悪いが文官であるあんたには、対処のしようがないはずだ」
同じく桟橋を進もうとしていた偉度が、魯粛に反論しようとしたのを、孔明は手ぶりで止めさせた。
「なるほど、たしかに。そのために、おまえがが代わりに水夫らをまとめてくれるというわけか」
「そのとおり。水上での戦にかけては、すくなくともあんたより、俺のほうが経験があるし、こいつらとも馴染みがある。どうだ」
悪い話ではないだろう、と魯粛は言外にうながしてくる。
たしかに筋は通っている。
「よろしい、それではお願いすることにしよう。ただし、わたしと同じ船に乗り込んでもらうぞ」
「別な船のほうが都合がよいのではないか」
「いや、旗艦さえしっかりしていれば、これほど調練された水夫たちならば、そうそう行動を乱すことはなかろう。それとも、なにか不都合が?」
「いや、そういうわけではない。今宵の大将はあんただ。あんたに従おう」
魯粛の同船を許したことに対し、偉度は不満顔であった。
甘寧も魯粛も、孔明に遠慮をしているのか、いまのところは大人しくしている。
水夫たちも、言葉すくなに暗い水のうえを漕ぎ出した。
魯粛らの乗船は予想外のことであったが、思ったよりも霧が濃いうえに、鳥林へ向かうために必要な、南西の風が強いということに、孔明は安堵した。
劉備ではないが、運はまだまだ尽きていないようである。
「大鼠を一匹、乗船させたようなものではありませぬか。おかげで最悪の船出でございます」
と、偉度は、魯粛のほうを見て言う。
魯粛はというと、馴染みだという水夫らと、たまに話をしているが、とりたてて騒ぐでもなし、霧の向こうで後続する船の様子などを気にしている。
霧は、まるで孔明の思惑を知っているかのように、進めば進むほどに濃く立ちこめはじめた。
この霧の厚さならば、相当に近づかなければ、そこになにがあるのか、目視することができないだろう。
「いまはゆっくりしておいで。魯子敬がおかしな真似をするとしたら、それはおそらく鳥林に到着してからであろう」
「なにを呑気なことをおっしゃっておりますやら。なぜそう言い切れますのか」
「魯校尉のことばは、あれは本意であろう。よくもわるくも、嘘をつけぬ男なのだよ。
水夫たちが神経質になっていることは事実であろうし、それを感じ取ることができるのは、われらより、毎日、かれらの面倒を見ている魯校尉のほうだ」
「ほう、では、あの御仁をいまから大切にしなければなりませぬな」
と、口では言いながら、偉度は魯粛のほうを冷たく見遣った。
偉度は偉度で、魯粛に対し、思うところがあるらしい。
「まあそう尖った物言いをするものではない。魯校尉が言ったことは、たしかに真実ではある。
わたしは、この作戦がうまく行くことを確信しているが、水夫たちにしてみれば、疑うところばかりであろう。
なにかひとつでもまちがいがあれば、反乱まではいかなくとも、後続している船の何艘かが、勝手に離脱することとてあるかもしれない」
「思いますに、船同士を鎖でつないだほうがよかったのではありませぬか。
そうすれば、船がこの霧ではぐれることもないでしょうし、勝手に離脱する危険もなかったでしょう」
偉度の提案に、孔明は声をたてて鷹揚に笑った。
「たしかにそれはよい提案かもしれないけれど、しかし今回の作戦に関しては、それは駄目だ。
この作戦は、機動力がものを言う。鎖でつないでいては、一艘が転覆した場合に、すべてがこれに引き摺られてしまう」
「機動力とはおっしゃいますが、うまくいくのでしょうか」
たずねてくる偉度の頭を、孔明は、軽くはたいた。
「わたしの主簿たるおまえが、そのような弱気でいてどうする。
おまえの弱気は水夫たちに敏感に伝わってしまうゆえ、もっと堂々とするように。ほかならぬ、わたしの作戦に、誤りがあるはずがない」
「どこからその自信が来るのかが、ナゾでございます」
「まあ、見ておいで。なぜだろう、今宵はすこしも失敗するように思えない。腹の底から気持ちがわくわくしてくるのだよ。この作戦は、きっとうまくいく。
さて、鳥林まで、あとすこしはかかるだろうが、霧はまだまだ晴れぬようだな。
運はつづいているよ、偉度。われらは見事な針ねずみになってやろうではないか」
言いつつ、孔明がけらけらと愉快そうに笑うのを、偉度ばかりではなく、ほかの水夫や魯粛たちまでもが、ふしぎそうに見つめていた。
船は水の上を滑るように進む。
順調すぎるくらいに順調に長江を進み、やがては、陸口も通過した。
風にも恵まれたおかげで、孔明が思っていた以上に、船は早く鳥林の要塞にまで進んだのである。
この速さを生んだのは、風ばかりではなく、周瑜によって調練を受けた水夫たちの、船の操縦技術の高さもある。
かれらはひとたび船出をしてしまえば、軽口のひとつもこぼすことなく、黙々と船を漕ぎつづけた。
旗艦のほかに、後続に何艘もの船がつづいたが、一艘も遅れることなくぴったり等間隔をあけて追ってくる。
濃霧のなかの行動であることを考えれば、いっそう、水夫たちの働きのよさが際立って見えた。
鳥林の要塞に近づいてきたことは、士卒長の報告と、そして皮肉にも、鳥林の水上の調練場から聞こえてくる、風雅な楽の音によって、それとわかった。
噂には聞いていたが、曹操が、許都より、ほんとうにおのれの好みの楽士たちを呼んで、水上の宴と洒落ていることに、孔明はすこしばかり衝撃をおぼえた。
曹操の驕慢さに、ではなく、その余裕に、である。
「あれがいま中原で、もっとも流行っている音楽なのだな」
霧の向こうから聞こえてくる、その巧みな節回しに、思わず感嘆の声を漏らすと、呆れて偉度が言った。
「おそろしく余裕がおありですが、わたしには、あの楽の音は、鬼卒が冥府の入り口で、われらを歓迎して奏でているもののように聞こえます」
「そうだとしても、あれだけ華やかな歓迎の音楽であれば、冥府もそう悪いものではないように思えてくるな」
「軍師、真面目に」
「わかっておる。さて、この霧と、曹操の余裕に感謝だ。
音を立てるな、しずかに行動せよ。藁人形と戸板を隙間なく両舷に並べよ。
よいか、みなにあらためて告げる。これよりわれらは鳥林の要塞に接近するが、その目的は、あくまで接近のみにあり、攻撃ではない。
各艦は、旗艦の動きに注目し、これにかならずあわせること。
勲功を狙ってはならぬ。もしこれに違反し、鳥林に突進をし、あるいはなんらかの思惑によって隊列を乱そうとするものに関しては、われらはこれを一切、救わぬ。
わたしの言うとおりに行動すれば、そなたたちは、ひとりとして欠けることなく、故地を踏むことが出来よう。あくまで静かに速やかに行動にうつれ!」
孔明の難しい注文にも、兵卒たちは黙々と従った。
音を立てずに、あらかじめ積み込まれていた藁人形と、そして戸板を、両舷に、隙間なく並べて行く。
旗艦の行動に合わせるようにして、後続の船も、作業をすみやかに終えたようである。
「よろしい、みな、なるべく甲板に出るな。静かに、気づかれぬように岸へ近づけ。
近くに船を見つけても、挑発してはならぬ。
隊列を乱さず、ひそやかに岸へ向かうのだ」
孔明の命令に従い、船は、ゆっくりと岸へと近づいていく。
そのあいだにも、曹操の耳目を楽しませる楽団を乗せた船から、なんとも場違いな、優美で官能的ですらある音楽が、絶えず水上を流れつづけていた。
水上から見る鳥林の要塞は、あちらこちらに明かりが灯され、まるで星が集って輝いているようであった。
月明星稀(月明らかに 星稀に)
曹操が自らつくった詩歌の一句を、孔明は思いだしていた。
詩歌の内容は、おのれを月にたとえて、有能な在野の士よ、我が元に集えと誘いかけるものである。
かつて襄陽で、司馬徳操の私塾に通いながら、各地を旅する生活をしていたが、曹操に近づく機会は、これまでずっとなかった。
いま、こうして薄れてきた霧のなかに浮かぶ、煌びやかに飾り立てられた船のうち、どこかに曹操がいるのだろう。
徐州で曹操が虐殺を行ったとき、孔明は十二の少年であった。
あまりに大事に育てられすぎていた当時は、世間のことにも疎く、曹操という名前を聞いても、目の前に展開する凄惨な光景と、まともに結びつくことがなかった。
あとになって、自分がなぜ故郷を捨てて、袁術の配下にいた叔父のもとへ身を寄せなければならなかったか、その背景を知ったわけであるが、それでもなお、孔明のなかに、曹操への明確な憎悪や、嫌悪はない。
なぜに曹操のもとへ仕官しなかったかといえば、曹操の発想と、自分のそれが、とても似通っていたからである。
黄巾の乱のあとにつづいた、政治的混乱と、それにともなう各地で頻発した紛争と虐殺のおかげで、天下は手の施しようがないところまで荒れ果てた。
これを回復させるためには、まずは荒れた天下を、政治的に均衡のとりやすい三つの勢力に分けて、おのおのが、徐々に国力を回復する。
その後、ひとりの英雄による天下統一を目指せばよいと考えている。
これが天下三分の計である。
これを土台にして考えた場合、三つのうちのひとつ、北の勢力としては、もはや曹操以外に考えられなかった。
なにより、曹操は、その苛烈な性分を含めても、まちがいなく当代の英雄の一人であることがひとつ。
曹操が治めている中原の、ここ数年の回復の早さがそれを証明している。
曹操に対して、民が不平を口にすることはすくない。
むしろ、その手腕によって、確実に平和がもたらされているのだ。
漢王朝をないがしろにする漢賊だと謗られることももっぱらであるが、孔明はそこは仕方のないことだと、口に出すことはなかったけれど、心中では曹操を理解していた。
漢王朝は、どうにもならないほどに腐り果ててしまっている。
これを再生することはむずかしい。
禅譲なら過去にも例が多くある。その時期が来ていないだけの話である。
曹操の、あくまで漢王朝を擁護しつつも、実権はおのれが握るという現実に即した慎重な態度に、逆に孔明は感心すらしていた。
だが問題は曹操が年だということで、曹操があと十年も若ければ、孔明もこれに従ったかもしれない。
だが、どう考えても、曹操のもとで天下統一を目指すには、許される時間が少なすぎた。
曹操だけでは、この国は回復しない。
ならば、同じくらい有能さを示せるであろうおのれが、曹操に対抗しうるだけの力を持つ君主を担って、三つのうちのひとつを受け持てばいい。
他者が聞いたなら、おそろしく驕慢に見える考えだったかもしれない。
しかし孔明には自信があった。
だれも孔明のそんな考えを受け入れようとしなかったが、自分ならばかならずやり遂げられるだろうという、確信めいたものが、いつも胸の中にあったのだ。
そしてそれは、着実に現実のものになりつつある。
いま舟遊びをしているであろう曹操は、かつて自分が焼き尽くした土地から生まれた青年が、そのような考えを持って目の前にいることを知らない。
同じでありながらも、敵である。
同時代において、両者共に、似た思想と能力を持ちながら、ほかならぬ時代によって敵味方に隔てられた二人の英雄は、いまこうして、短い対面を果たしたのである。
篝火が闇を払うかのように、あちこちに焚かれている。
その闇に照らしだされる水面と、そして豪華に飾られた遊船の舳先。
船はゆったりと風に流れていき、妙なる楽の音が途切れることなくつづいていく。
その間に間に聞こえてくるのは、このうえなく優雅でな水上の宴をいろどる舞姫たちの、笑いさざめく声である。
曹操は南下する直前に、鄴都のおのれの居城のなかに、贅をこらした銅爵園なる巨大な庭園を造り上げたという。
銅爵園は天然の森を利用してつくられた人工池を有する庭園で、その敷地のなかには、遊戯のための施設ばかりではなく、兵馬庫などの倉庫が置かれている。
孔明は、その地図を目にしたことがあった。
鄴都のなかには、中陽門と広陽門からはじまる、ふたつの大路が南から北ヘとのびている。
南北をつらぬくこの大路と、真横に東西に区切る、東の建春門から西の堂明門にいたる道が都市の特徴だ。
この東西に区切る道から北には、曹操の居城を中心とした、政務の中心となる建物がある。
その北西に位置する巨大な庭園も、その一部だ。
そして都市でもっとも大きな広陽門から、一直線に北に伸びる大路の奥には、曹操が執務をとる聴政院があり、その背後には後宮を擁している。
自他共にみとめる天下人である曹操の勢いを、そのままに表わすような、機能的な都市である。
曹操がいま有している財力と、権力の象徴だ。
この壮麗な都市の建設に関して、民からの不平不満は、ほとんどなかったという。
だが、清流の士人らは、この曹操の贅沢を批判している。
古代の伝説の皇帝たちの宮殿は、屋根に雑草が生えているほどに素朴で、簡素なものであった。
だからこそ、天下は安んじていたというのに、曹操はそれを知らないのか、というわけだ。
曹操からすれば、伝説の皇帝たちが、ほんとうにどのような宮殿に暮らしていたのか、いったいだれが知っているのだ、と思うところではないか。
それに、こうも反論できるはずだ。
おのれの力を誇示するための事業ではなく、戦災によって傷ついた都市の復興事業の意味もこめてのものだ、と。
曹操は、その復興事業のついでに、都市の造営について、個人的な意見を多分に入れてみた、というわけだ。
孔明は、船べりでそっと外の様子を見て思う。
鳥林につくられた要塞もまた、曹操の歓心を得ようとした何者かがそう設計したのか、あるいは曹操自身がそうさてたのかはわからないが、鄴都を意識した作りになっているようである。
盛大にあちらこちらに焚かれた篝火のおかげで、水辺ばかりではなく、陸の様子もおぼろげながら見てとれるのは、ありがたかった。
この水辺を銅爵園の巨大な人工池と見立てた場合、おそらく兵馬庫などの資材があるのは北西。
そこから堅牢そうな柵を隔てて、多くの宿舎が闇のなかに浮かんでいる。
あの屋根のひとつひとつの下に、敵兵がいま、眠っている。
その数は、十数万という膨大なものである。
闇に溶けた宿舎のその圧倒的な数の多さに、孔明はようやく曹操が動員した兵卒の数の大きさを実感した。
かれらと戦うわけだ。
思わず緊張のあまり、生唾を飲んでから、あわてて周囲を探った。
自分が怖じた素振りをみせたなら、それはたちまち水夫たちの動揺にもつながってしまう。
幸いなことに、水夫たちは、だれも孔明のほうを見ていなかった。
戸板に身を隠したかれらの表情は、どれも強ばっている。
そして、戦場とは思われぬ遊覧船の数々と、その奥の闇に横たわる、地上にずらりと並んだ兵舎を、じっと見据えていた。