飛鏡、天に輝く
二十八
偉度の警告を念頭に、孔明が宴席につくと、それまで、てんでばらばらに立ち話をしたり、楽団のかなでる音楽に耳をかたむけたりしていた者たちが、自分たちの席につきはじめた。
雰囲気は、あくまで和やかで華やか。
ぴりぴりした緊張感は微塵もない。
戦陣の最中である、ということもあり、鎧甲冑に身を固めたものもいるが、過度なものものしさはない。
鎖帷子のうえに纏った、色とりどりの錦が、篝火に反射して、まるで川面に跳ねる魚の鱗のように見える。
勇ましい出で立ちの武将たちのなかには、いつか近くの漁村にやってきた、甘寧の姿も見えた。
周瑜の音頭で宴は本格的にはじまり、そして、すぐに舞姫や芸人たちがやってきて、宴に華を添えた。
出される料理は、どれも意匠を凝らしたもので、見た目にも楽しめるものであった。
毒が入っているかもしれないと思ったが、ここで何も手をつけないことは、逆に相手の警戒心をあおる。
もし毒を盛ったとして、そのわかりにくい死に意味があるだろうかと考え、孔明は箸を動かした。
そうして美味いのだろうが、こうなると味がよくわからないな、と思いながら咀嚼していると、やはり気まずそうにこちらを見ている魯粛と目が合った。
だが、目が合ったところで、話かけてくるでもない。
孔明がなんだろう、というふうに、すこし首をかしげると、魯粛は、あわてて目をそらした。
この男は、この男なりに、偉度のことで、なにか負い目があるのだろうか。
そうでなければ、鳥林の陣で起こっている疫病のことを把握していて、勝つためとはいえ本意ではないから、孔明とまともに目をあわせられないのかもしれない。
周瑜のほうはといえば、これは堂々としたもので、あくまで宴の主賓として振る舞ってはいる。
が、病の進行が早いのか、それとも連日の調練の疲れが出ているのか、孔明から見る周瑜の顔色は、あまりよいものではない。
それはほかの客たちも感じ取っているようで、にこやかにしてはいるものの、ちょっとした合い間に、ひそひそと、気心の知れた者同士で、周瑜のことを話しているのが目につく。
美酒や珍味が、つぎつぎと盆に載せられて運ばれてくる。
舞姫は艶やかに舞を披露し、楽士たちは、孔明がはじめて耳にする江東の民謡なども織り交ぜながら、澄明な音色をざわめきのうえに響かせた。
客たちは、終始笑顔で、たまに人懐っこいのが、孔明のそばにやってきて、酌をすすめてくる。
これが刺客ではあるまいなと、笑顔を浮かべつつも警戒し、ちらりと偉度を見れば、偉度は大丈夫だ、というふうにこくりとうなずく。
趙雲もこういうふうに敵か味方かを判別するのに長けていたが、いったいどこをどう見て大丈夫だと思うのだろうなと、そんなことを考えながら、孔明は、あらわれる客の杯を受けつづけた。
そうして宴もたけなわとなった頃である。
ふと、客のなかから、都督は、どうしていつものように剣舞を披露しないのかという催促の声が挙がった。
それに合わせて、ほかの客らも、そうだ、そうだと声を合わせるのであるが、周瑜は、それには笑顔を見せることなく、深くため息をついて、箸を置いた。
この人物らしからぬ、沈んだ挙搓に、それまで賑わっていた宴が、ぴたりと静まりかえった。
たったひとつの挙動が場を支配する。
周瑜は、やはり江東の主なのである。
「どうなされた、なにかご心配ごとでもおありか」
一人が声をかけると、ほかの者たちも、気遣わしげに声をあげる。
「戦のことを考えておられるのか。都督がなにかお悩みなのであれば、われらも力にならせていただく」
「そうだ、この戦は、都督お一人で戦っておられるのではありませぬぞ。われらのことを忘れていただいては困る。なにをそのように悩んでおられるのですかな」
つぎからつぎへと励ましの声をかけられても、周瑜は沈んだ表情のまま、じっと考え込んでいるふうである。
孔明はというと、それを隣で見ていて、どこか作為的なものを感じ取っていた。
この人物は、たしかに人の気を惹きつけ、そして動かすことに長けているのだが、その手法があざとく感じられることがある。
そうした『作った』部分が、孔明がどうしても好きになれない部分なのであるが、いまがまさにそれであった。
周瑜は、自分に集る声が、十分に高まるまで、じっと待っているのである。
そうして、場のほとんどの人間が、こちらを注視しているのを確認してから、周瑜は顔をあげて、口をひらいた。
「じつは、困った問題が起こっておるのだ」
同情を引くに十分な、蒼ざめた、打ちしおれた顔であるが、声の張りは、いつもどおりである。
「鏃の鋳造がうまくいっておらぬ。この戦のせいで、鉄の値が高騰しておってな、商人どもめ、足元を見おって、思うように鉄を仕入れることができぬのだ」
周瑜のことばに、あつまった客らはざわめいた。
「矢というものは、当たりまえのことではあるが、一度手放したら、それっきりで、戻ってくることのない武器ゆえ、調練などで使う物は、慎重に回収させているのであるが、戦も本番となると、そうもいかぬ。
みなもご存知のとおり、船上での戦において、矢ほど重要な武器はない」
「なんと、そのことは、討虜将軍もご存知か」
「もちろん。剣や槍の鋳造よりも鏃を優先させることも考えたのだが、そうなると、今度は船が接近して白兵戦となった場合のことを考えると、頭が痛い。
商人たちをこらしめて聞き出したところ、どうも鉄に関しては、曹操が買い占めてしまっているのだそうな」
おお、とどよめきの声が上がった。
曹操は、やはり百戦錬磨のつわものなのである。
戦に必要なものは兵力だけではなく、その兵の使用する武器もそうだ。
その武器のもととなる鉄鋼や、鍛冶職人を、曹操は江東よりも早く抑えて鳥林にとどめているのだ。
「じつは、こうして宴を催したのも、貴殿らのよき知恵を拝借したいがためなのだ。われらではよき知恵がまるで浮かばぬ。
どうであろう、よい解決策を持つ者はおらぬか」
とたん、ざわめきは、水を打ったように静かになった。
みな、周瑜に心服しきっている者たちばかりが集っている。
まさか、周瑜のできないことをできる者がいるのか、という、奇妙に互いを牽制しあっている空気が生まれていた。
その静まり返ったなかで、最初に口をひらいたのが、甘寧であった。
「都督、われらによき知恵はないが、そこにおられる諸葛殿ならば、なにかよい知恵をお持ちなのではありませぬか」
甘寧のことばに、その場の、はっとしたような目線が、孔明に集中した。
それは、孔明がいたか、という発見のおどろきの目線ではない。
これは、あらかじめ決められた策謀ではないのか、ということに、その場の人間が勘付いた、おどろきの目線であった。
いかんな。
孔明は、おのれに向けられた目線を見返しながら、内心で舌を打った。
宴にあつまっている人間のなかに、張昭ら、どちらかといえば孔明に友好的な人間の姿はない。
みな、周瑜側の人間で、周瑜のために迎合することを厭わない人間のあつまりである。
敵の中にいる。
その自覚はあったが、場の空気が緊張感の漲るものに一瞬で変わったのを見て、あらためて、自分は一人なのだと思い知った。
「そうだ、諸葛殿ならば、なにかよい知恵があるかもしれぬ」
と、甘寧のことばに合わせるように、だれかが発言する。
それにあわせるようにして、一斉に、人々が、そうだ、そうだ、かれならば、と口々に言い始めた。
いやな空気である。
異様に盛り上がったなかで、指名されて、断わることもできるだろうが、もし断わったなら、さんざんにけなされ、こちらの立場は悲惨なものになる。
名誉が汚されるどころではない。
自分を江東に使者として送り出した劉備の面子も汚すことになる。
使者としては、あとに引けないところに追いつめられてしまった。
かといって、鏃を集める?
鉄商人をなんとか集めよということか?
孔明は打開策を考えたが、よい考えはなにも浮かばなかった。
曹操が鉄鋼の仕入れを抑えているのなら、これを横からうばうのはむつかしい。
一瞬、江夏にある劉備たちの船団を動かすか、あるいは、そこでいまも鋳造されている武器を運んでもらうことも考えたが、そうなると江夏が手薄になるので、だめであった。
「孔明殿、貴殿がわたしを助けてくれるのか!」
と、周瑜が、感激しきった声で、孔明のほうを見やる。
「なにかよい策はないか」
ではなく、
「助けてくれるのか」
というところが、やはりあざとい。
すでに孔明が、策があると答えたように話を運んでいるわけだ。
これで断われば、なんという人でなしかと非難され、孔明の評判は地に落ちる。
一方の周瑜は、痛くも痒くもない、というわけだ。
孔明が、まだ返事をしないうちから、周瑜や、その側近らが、満足したように笑みをうかべて、うなずいている。
「左様か、左様か。さすが臥したる龍とあだ名される御方だけある。われらの苦境を助けてくださるか。
貴殿が江夏よりここに派遣されてきたのも、もしかしたら天の恵みかもしれぬなあ」
もはや、『諾』としか言えないように話が進んでいる。
それでも孔明が黙っていると、最初に口をひらいた甘寧が、また言った。
「諸葛殿が鏃を用意してくださるというのであれば、われらの勝利もまちがいないところ。曹操、なにするものぞ、だ。
われらがこれだけ命をかけて戦に望んでおるわけであるから、諸葛殿も賓客とはいえ、命を賭けていただかなくてはならぬ」
甘寧の言葉に、しかし周瑜は、やわらかに笑いながら、言った。
「そう脅すようなことを申すものではない。押し付けがましいことを申してしまったが、どうであろう、貴殿にお任せしてよかろうか」
孔明は考えた。
突然のこの申し出に対し、なんら策はない。
が、そうかといって、『なにもできない』と答えても、同じくあとはない。
いや、そもそも、この申し出の動機は、こちらに害を与えることからくる。
評判を落とさせ、そして鳥林での龐統の策を知る自分を抹殺するためのもの。
ならば、できると答えるしか、ほかに道はないのである。
「どこまでご期待に沿えるかわかりませぬが、尽力させていただきましょう」
答えると、宴席から、またもどよめきが起こった。
孔明には、罪人が死刑を宣告されたときの、どよめきに聞こえた。
「さすがは劉予州の軍師どの。お受け下さるとはありがたい。
われら一同、貴殿への協力は惜しみませぬぞ。なんなりとお申しつけくだされ」
甘寧が席を立って、わざわざ孔明のまえにかしこまり、拱手する。
甘寧の腰につけた鈴は、動くたびに、ちりんちりんと音を立てて揺れた。
「しかし、もうひとつ」
拱手し、顔をあげた甘寧は、孔明のほうをまっすぐ見て、突然に、にいっ、と悪鬼にも似た笑みを浮かべた。
「申し上げるのが遅くなりもうしたが、いまは風雲急を告げるときでございますゆえ、そう悠長にもしておられませぬ。
鏃を用意いただくのは、十日のうちにしていただきたい。なにせ、曹操がいつ攻めてくるかわかりませぬゆえなあ。
用意していただいたものを、われら水軍に行き渡らせるためには、最低でも十日ないと、真に合わないのでございます。
数は3万はほしいところ。ぜひにお願い申しあげまするぞ」
謀られた!
気づいたのもあとの祭り。
甘寧の提示してきた十日という期限に、息を呑んだ者もいたようだが、この宴席のなかでは少数派である。
一度引き受けたものを、ここで『それはできない』ということも不可能な空気が、しっかり出来上がっている。
ここで動揺して、日時をのばしてほしいと懇願すれば、それはそれで、情けないやつよと悪評が立てられる。
自分だけの悪評に留まるのならば、それはそれでかまわない。
が、ともに貶められるのは劉備ら江夏の人間である。
孔明は、かれらの代表なのだから、そんな真似はできない。
周瑜からすれば、こちらが、それは出来ないといって泣きついてきたなら、それはそれで、江夏の人間は江東よりも下にある人間なのだと内外に見せ付ける、よい機会である。
受ければ受けたで、こちらを排除する十分な理由を得ることができる。
出来もしないことを安請け合いし、最前線を混乱させた罪。これを理由に、使者であろうとなんであろうと、斬ってしまうことができる。
答えを先延ばしにする、ということも考えたが、それはこの場ではっきりと期間を提示されている以上、ただでさえ少ない時間をわざわざ潰してしまうことになる。
これも龐統の策か?
十日では、江夏に急使を送ったとしても、鏃をありったけ届けさせるには足りない。
用意できてもせいぜい3千くらいにしかならない。
もちろん、鍛冶職人や鉄職人を曹操から奪い返す、などということも不可能だ。
それが容易にできるようなら、そも、戦は起こらないだろう。
孔明は、おのれの首に縄をかけられたような思いがしたが、しかし、けんめいにそれを表には出さぬようにつとめた。
そして、敢然と、甘寧のその悪意の読み取れる目を見据えると、言った。
「判り申した。十日のうちに、用意してさしあげましょう」
この無謀な返答に、またもどよめきが起こったが、その声の調子は、さきほどのどよめきとはちがって、同情の多分に含まれたものであった。