飛鏡、天に輝く

二十六

秋とはいっても、まだ暑さののこる季節であったことが幸いした。晴れていたことも、この場合、よかったのだろう。
家令の夫婦があわてて用意してくれた風呂に、まず偉度をさきに送って、体を温めさせると、そのまま休ませた。

偉度は赤ん坊のようにされるがままになっていた。
湯から上がると、緊張がほぐれたためか、布団の中ですぐに寝入ってしまった。

偉度のあとに湯につかりながら、孔明はこれからのことを考える。
考えながら、自分のなかに、ためらいや恐怖、不安といったものが、まるでなくなっていることにおどろいていた。
さきほど、長江の水の中に、偉度の過去とともに、おのれの弱い部分も流してしまったかのような。
ちょうどよい熱さをもつ湯に、手足を浸すと、すみずみまでに熱が行き渡る。
行く手にあるものは困難ばかりであるが、なにひとつ突破できないようなものはない気がする。
おそろしいくらいに心が冴えていた。
いまならば、なんだってできるだろう。
むしろ、こういう状況を作ってくれた、龐士元には礼を言わねばなるまい。
そう、かれには特別な礼をしなければ。

湯からあがり、水滴をぬぐいつつ、軽く下衣を羽織った姿で髪をかわかしていると、脱衣場のそとで、背中を向けるかたちで、趙雲がいるのが目に入った。
陽はまだ中天にある。
「宴は夜からであったな。まだ余裕はあるだろうか」
孔明が問うと、趙雲は遠慮をしているらしく、背中を向けたまま、答えた。
「休むには十分だ。すこし眠ってから行け」
「いいや、休むつもりはないよ。宴に出るまえに、行かねばならぬ場所がある」
「どこだ。張子布のところか」
趙雲が、すこしだけ顔を向けてたずねる。
孔明は、布で、ざんばらにちらばった黒髪の水滴をぬぐいながら、答えた。
「いいや。魯家だ。わかるだろう」
「面倒が増えるぞ」
「わかっている。それでも行かねばなるまい。
わたしは、自分で思っている以上に、とんでもなく激しい人間のようだ。自棄になっているのではないから、そこは安心してくれ」
「そのようだな」
「わかるか」
「わかるさ。さっきはおどろいたが、冷静になってみれば、じつにおまえらしいと思う。
だが、わかっているだろうな。まえにも言ったが、生半可な覚悟では、人を救うことなどできないぞ」
「救うのかな。むしろ、救われている気がする。わたしは自分が半端者だと思っている。その半端者でも、覚悟さえあれば、なんだって受け入れられることができるのだ。そのことが、いまわかった。
わたしの欠けている部分を、きっとあの子らが補ってくれるのだろう」

そのことばにおどろいたか、趙雲が振り向く、と、同時に、怪訝そうに眉をひそめた。
思いもかけず、孔明の表情がほがらかであったからだろう。
悲愴な決意を秘めた表情でも、憤怒の表情でもなく、孔明は、晴れた日の、凪いだ海のようにおだやかな表情を浮かべていた。

「子龍、わたしは今日、ずいぶんたくさんの子供たちの親になったようだ。でも、わたしはきっと、よい親になるよ。そう覚悟を決めた」
「思っているよりも大変なことだぞ。食客を引き受けるのとは、色合いがちがう」
「それもわかっている。親になるのだからな」
趙雲はなにも言わなかったが、孔明以上に、未来を案じているのが、その曇った表情から見てとれた。
孔明は、安心させるように、晴れ晴れと笑ってみせる。
「心配してくれるのだな、ありがとう。でも、こういうとおどろくだろうか。わたしはいま、楽しくて仕方がない」
「楽しい?」
「うむ、なぜかわからないけれど、とても楽しい。これほど楽しい気持ちになれるのだから、未来はきっと明るいものだろう。
だから、あなたが不安になることなど、ひとつもないのだよ」

孔明のことばに、趙雲は呆れて、問いかけてくる。
「根拠があるのか、それは」
「ない」
「おい」
「が、わたしの直感のよさは、あなたも知っているとおりだ。
さて、主騎どの、あなたにもこれからいろいろと動いてもらわねばならない。わたしの頼みを聞いてくれるだろうか」
「聞かなければ、聞くまでごねるつもりだろう」

言いつつ、趙雲は苛立ちまじりに、布に覆われた、湿っている孔明の頭を、ぐりぐりとかき混ぜた。
声をたてて笑う孔明であるが、ふと気づけば、趙雲は真摯な表情で、自分をじっと見つめている。
孔明も笑みを引っ込めて、言った。

「子龍、わたしはこれから、偉度とともに龐士元のもとへ行く。それから、江夏にいる子供らを含め、どれだけの子どもが生き残っているのかを把握したい。
あなたは斂と戻って、鳥林へ行って欲しい。行って、曹操か、あるいは曹操を動かせる側近に近づき、疫病の対策をとるようにうながしてくれ。手段は問わぬ」
「わかった」

手段を問わない、と言った孔明のことばに、趙雲は、それ以上の質問はせず、つよくうなずいた。
趙雲も孔明をわかっているが、孔明も、趙雲という男の性質をわかっているのである。

孔明は、湯から上がると、かねて用意していた衣裳とはべつの衣に着替える。
さいしょは濃紺の衣をまとっていたのだが、いまは、かぎりなく闇色にちかい、濃い緋色の衣をまとった。
光彩によっては鮮やかな赤にも見えるし、闇に沈めば、ほんのり血のような色が浮かぶ。
金色の帯とあわせると、あでやかに、身に映えた。
人目を引きすぎるため、持ってきたのはよいけれど、身につけるのをためらっていた衣である。
だが、いまの気分には、この濃い血の色が、もっともおのれが身につけるにふさわしいように思えた。
目が覚めた偉度が、孔明の姿をみて、最初に口にしたことばが、
「喧嘩を売っているとしか思えない衣ですな」
であった。

趙雲の動きは、孔明よりも早かった。
孔明が身支度をあれこれと整えているあいだ、趙雲はすでに簡単に荷物をまとめて、斂とともに庵を出て行った。
鳥林へ、あらたな戦場へ出かけて行ったのである。
簡単な挨拶のほか、なにも特別な言葉はない。
孔明は、そんな趙雲が、河岸のやわらかい砂を踏みしめて、斂をともない、街道に向かって去っていくうしろ姿を見送りながら、あれはほんとうに、生まれながらの戦士だな、と思った。

戦うために理由のいらない人間、というものが存在する。
名誉のためでも志のためでもなく、ましてや家族のためでもなく、ただ自分のために剣を取る。
戦うこと自体が、かれにとっては人生そのものなのだ。
孤独を恐れて群れたがる人間もいる一方で、集団に迎合することが怖ろしくて孤独を選ぶ人間もいる。
どちらが正しい、正しくないということではなく、ただ、そう生まれついたのだ。
前者の例が偉度で、後者の極端な例が趙雲、前者と後者の、ちょうど中間に位置しているのが自分という人間か。

偉度の支度が終わるのを待って、孔明はすぐさま、魯家へ向かった。
魯家には龐士元がいる。
偉度の話によれば、討ちもらした刺客がいるようだから、おそらく、偉度の裏切りのことはすでに知っているだろう。
問題は、龐統が、どれだけ偉度の仲間、すなわち壷中の残党の全体を掴んでいるか、ということだ。
龐統よりも早くかれらを把握し、保護しなければなるまい。

「壷中という組織は、義陽をはじめ、あちこちに隠し村をつくり、そこで子供たちを細作に養成しておりました。
われらが結束し、反抗するのを防ぐため、上の人間は、われらの仲間がほかに何人いるのか、村がいくつあるのか、そうしたことはいっさい口にしませんでした」
偉度のことばに、孔明は苦る。
壷中の崩壊は一瞬だった。
おそらく、中枢にいた人間も、こうも見事に自分たちの組織が消えるとは、思っていなかったのだろう。
おかげで、壷中の子供たちは分散したままになっている。
孔明が『救った』と思い込んでいた、偉度を中心とする樊城にいた子らは、そのごく一部にすぎなかった、というわけだ。

「まったく結びつきがなかった、というわけではあるまい。柴桑に残っている、ほかの兄弟たちに働きかけて、行き場所をなくしている子供たちがいないか、手分けして探すのだ」
「探して、どうなさいます」
「江夏へ行くようにと。わたしが叔父から譲り受けた財産も、江夏にある。
弟夫婦が管理しているはずだから、それを使って、故郷に戻れそうなものは戻し、そうではないものは、わたしの帰還を待つようにと伝えよ」
「江夏にあなたが戻ったとして、それから、どうなさるおつもりですか」
偉度の問いに、孔明は、馬車に揺られながら、当然のことだというふうに答えた。
「それぞれが成人するまで面倒を見る」

偉度は、すっかり呆れた、というふうに、まじまじと、となりの席の、馬車に揺られている孔明を見た。
「十人や二十人という数ではございませぬぞ。百、あるいはまだもっと増えるかもしれませぬ」
「何百人であろうと、わたしのやることは同じだ」
「なぜ。叔父君が、そもそも壷中を作ったから? その負い目を感じておられるのですか」
「叔父が作ろうとしたのは、戦災で親をなくした子供らをまとめて、養育する学問所であった。わたしが理想とするのも、そこだ。
叔父は、わたしにとっては父同然。わたしにとっての名付け親でもあるわけだ。父の事業を、子が受け継ぐ。うむ、道理にかなっておるな」

うむうむと、納得してうなずく孔明に、偉度はあきれ果てて、言う。
「あなたは、なにもわかっておられぬ。わたしたちが、元の生活にもどることはできない」
「やってみなければわからぬよ。なにもしないうちから、あれはだめ、これはだめ、と言っていては、なにも出来なくなってしまう。『出来ない』理由を探すのばかり上手くなってしまうだろう」
「おっしゃりたいことは、わかりますが」
「と、いうわけで、今からおまえがわたしの長子であるから、責任を持って弟妹たちを探し出し、この指導にあたるように。
なにか変事が起こったなら、のこさず父たるわたしに報告すること、よいな?」
「は? 長子? だれが、だれの?」
うろたえる偉度に、孔明は、あたりまえではないか、というふうに、自分を指し、つづいて偉度を指した。
「父上と呼んでもよいぞ」
「いきなり、なにを言い出すやら。さっそく錯乱でございますか」
「錯乱もなにも、きわめて正気だが」
「こんな頼りない父上は、偉度はいやでございます」
「そうかい、ならば、それはおいおい詰めてく議題として」
「諦めないわけですか」
「龐士元だ」

その名をだすと、それまで穏やかさを保っていた偉度の表情に、暗いものが射した。
「龐士元の狙いは、ただおのれの力試しをしたいと、そういうことなのだな」
「はい。そうはっきりと口にしておりました」
「人を象棋の駒かなにかと思っているのかな、あの男は」

つぶやいて、孔明は、襄陽での龐統の様子を思い出していた。
本人はきわめて寡黙だが、いつも友人たちの中心にいた。
人当たりがよく、柔和な性格をしているので、周囲から好かれる人物であった。
『それすらも、周囲を欺く仮面だった、というわけか? それとも、司馬徳操先生の塾を離れてからいままでに、なにか、かれを大きく変えてしまうような事件があったのだろうか』

孔明は、これまで、龐統と親しく話をしたことがない。
言葉を交わす機会があっても、それこそ表面だけの、あたりさわりのない世間話をするばかりであった。
たがいに龍と鳳凰ということで、比べられていることは知っていた。
だから、無意識に、議論することを避けていたのかもしれない。

『逃げ。すべてが逃げの代償か。いつかは対決する時が来るだろうとは、わかっていたはずなのに。いまになって、相手の度量がわからずに戸惑うとはな。このツケは高くつくぞ、亮』
自身を叱りながら、孔明はさらに考える。
『士元が、江東での士官を望んでいない、というのは、ほんとうだろうか。周公瑾の病気のことも、士元は知っている。わたしを後継にしようなどという無茶な計画を立てた魯子敬が、士元を無視しているとは思えない。偉度に嘘をつく理由もないはず。
となると、ほんとうに、この戦を遊戯盤かなにかと勘ちがいして、状況を引っ掻き回して遊んでいる、ということか?』

およそ、想像のつかない心理状況である。
孔明は、自分が生真面目で、保守的な人間であることをわかっている。
自由奔放な龐統と、気が合わないのは、そこが理由だろうということも。
それにしても、理解しがたいことであった。
龐統には、名誉欲、権勢欲といったものがないのか?
状況を引っ掻き回して、そのあとに、なにをしようというのだろう。

「偉度よ、ほかに、士元が口にしていたことで、気になるようなことはなかったか。たとえば、士元が曹操と通じているというようなことは」
「いいえ、それはございません。龐士元めあてに魯家にあらわれる客のなかで、身元がよくわからぬ者はおりませんでした」

孔明は感心した。
混乱のなかでも、偉度はきちんと、おのれの視界に入ってくる人間の選別はしていた、というわけだ。

「おまえの知らぬところで連絡をしていた可能性は」
「ないとは言い切れませぬが、魯家は、主が賛軍校尉(参謀総長に相当)になったことを受けて、軍師が滞在されていたときよりも、警備が厳しくなっております。
これの目を盗み、曹操と通じるのは、おそらく不可能でございましょう」
「となると、魯子敬は、士元の策のことを知っていたのか」
「わかりませぬ。魯子敬は、あの屋敷には、ほとんど帰らず、周都督の陣に寝泊りしていた様子でございます」
「魯子敬と、龐士元は緊密ではない?」
孔明がたずねると、偉度は、おや、という顔をして、考え込む。
「言われてみればたしかに、都督と龐士元はよく密談をしておりましたが、魯子敬のほうとは、歓談程度であったようです」
「ふむ」

そうなると、魯粛が独断で荊州にあらわれた理由もわかる。
周瑜、魯粛、龐統と、この三者は、ひとつの派閥として動いてはいるが、その思惑は、必ずしも同じ方向にむかっていない。
とくに魯粛の性質を考えれば、龐統の用いた非人道的な策は、好みそうにない。

「士元は都督とはよい関係を保っているのだな。となれば、疫病のことも、都督は把握している可能性が高いか」
「なりふり構わぬ、というところかもしれませぬ」
「なりふりを構っておられぬのは、こちらも同じだ。子龍も言っていたとおり、戦というものは、数で圧倒すればよいというものではない。他者を過度に虐げた者が、長く天下を保てないのは、そこに理由があるのだ。
残虐さは、強烈な憎悪を生むだけだ。相手の心を挫くことこそ、戦の本来の目的なのだよ。
士元の策が明るみに出たなら、曹操は江東を根絶やしにするまで執拗に攻撃を仕掛けてくるだろう」
「江東が、徐州のようになると」
「なる。もしわたしが曹操の立場であったら、そうする」
孔明のことばに、偉度は、その大きな黒目がちの瞳を開いた。
「危ういことをおっしゃる」
「わたしは聖人君子ではないし、そこを目指すつもりもない。かといって、わざわざ泥に落ちるつもりもない。
さて、壷中の残党のうち、士元の傘下に下ったものは、どれだけいるのだろうか」
「実態数はわかりませぬ。龐家は荊州のなかでは権勢家でありましたから、壷中はつねに見張っておりました。
おそらく見張りについていたものが、巧みに取りこまれたのでしょう。鶉火という細作のほか、何名かいるようでございます」
「龐家を見張っていた、ということは、そもそも味方ではなかった、ということか」
「ご存知のとおり、龐徳公をはじめとして、あの家の人物は、みな高潔さを誇っておりますゆえ、おのれの治世を保つためならば手段を選ばぬという、劉州牧の考えとは相容れませぬ」
「つまり、士元だけがちがう、ということだな。それを聞いて、すこし安心した」

孔明の姉は、龐徳公の息子に嫁いでいる。
もし、龐統と自分との戦いが表立って大きなものとなった場合、立場が苦しくなるのは、まず、姉だ。
孔明にとって、姉は母に等しい特別な存在である。
姉が苦しい立場に追い込まれるのは、なんとしても避けたかった。

ふと、気づくと、偉度が、じっとこちらを見つめている。
弱気になるのを危ぶんでいるのかな、と思った孔明であるが、よくよく観察してみれば、偉度は、こちらの表情ではなく、腕を見ているのだった。
なにかおかしなところがあるのだろうかと見下ろすと、衣から覗いた腕に、いくつもの引っ掻き傷がついている。
偉度を水に鎮めたときに、抵抗されてついたものだった。

「痕になるかもしれませぬな」
偉度がいうのを、孔明は、衣のうえからその傷をさすりつつ、言った。
「痕になってもかまわぬよ。これは、おまえの生きたいと思う気持ちそのものだ。
もしおまえが、これから道に迷って、また死にたいなどと言い出したときに、わたしはこの傷をおまえに見せる。この傷こそが、おまえの本音だ」
孔明がいうと、偉度は黙り込み、魯家につくまで、ひと言も発することはなかった。

27へつづく
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