飛鏡、天に輝く

二十五

孔明のいる庵が目の前に見えてきた。
とたん、それまで早足で前進をつづけてきた徐庶が、ぴたりと止まった。
川辺に咲く、薄紅色の花々のうえ、徐庶はそれまで「暑い」といって脱いでいた笠を、わざわざかぶると、訝しげにしている斂と、道案内をしてきた偉度に言う。
「俺はここで待っている。おまえたちで孔明に話をしてきてくれ」
「あんたが行ったほうが話が早いだろう」
偉度が抗議すると、徐庶は、そうではない、というふうに首を振った。
「俺が孔明に会っちゃ、いかんのだ」
「なぜ。よくわからない人だな。斂はまだ子どもだし、わたしだって、あんたから又聞きしたことしか伝えられない。
わたしでさえ、あんたたちの話を信じかねているのに、又聞きで聞く軍師は、もっと信じられないだろう」
偉度の抗議に、徐庶は両手を胸のところまで挙げて、やめるように、と手ぶりで示した。
「わかっている。それでもだ。斂、おまえは女房どのの信をちゃんと孔明に渡せ。女房どのが嘘をつかない女だということは、孔明がいちばんよく知っている。
きっと動くはずだ」
危険な旅のあいだ、大切に手紙を守ってきた子供は、わかった、とつよくうなずく。

そんな様子をみて、偉度は徐庶に言う。
「軍師は曹操を助けるために動くだろうか。あんた、あのひとが徐州の人間だということを忘れているんじゃないのかい。
徐州の人間は、いまだに曹操への恨みを忘れていないよ。
それに、どんな原因であろうと曹操の軍が弱るのは、江夏にいる劉予州にとってもいいことだ。動く理由なんて、どこにもないじゃないか」
「理由はあるさ。人の道に大きく外れた策だ。だから、動く。
おまえならわかるだろう、花安英」
古い名を呼ばれて、偉度がむっとすると、徐庶は言い直した。
「いや、いまは偉度というのだったか。いい名をもらったな。ともかく、孔明に話をしてくれ。俺はここで待つ」
「軍師があんたのことを知ったら、きっと、あの庵から飛び出してくるよ。泣いて喜ぶ。それでもかい」

そのさまを想像したのか、徐庶は目を伏せて、言った。
「だからこそさ。俺はもう、曹操側の人間なのだ。細作たちが襲ってきたのも当然だと思うぜ。たとえどんな理由があったにしろ、曹操に対して仕えることを約束しちまった人間が、のこのこ江東にやってきたのだからな。
なあ、俺は、あとになって、条件がちがうじゃないかとごねて、出奔するなんて見っともない真似はしたくないのだよ。
愚かものだと揶揄されようと、徐家の人間は、約束は決してたがえない。これは、俺と、俺の母の、両方の意地だと思ってくれ」
「最初の約束自体、ほとんど詐欺のようなものだった、っていうのにかい?」
「それでもさ。詐欺だろうと、俺は約束をしたのだ。約束は守る。守ることが、オ俺の、曹公に対する、唯一の反抗なのだ」
「あんたも古い人間だね」
偉度がいうと、徐庶は、寂しげに微笑した。
「そうさ。だから時代に追いやられていくのだろう。
だが、孔明を見たら、きっと決意がゆらぐ。一緒に劉予州のところへ帰りたくなっちまう。だから、俺はここに留まる。わかってくれ」

孔明を見たら、というその言葉は、徐庶を置き去りにして庵に向かった偉度にも、重くのしかかってきた。
孔明に鳥林のことを打ち明けるということは、自分が龐統とつながって動いていたことを打ち明けなくてはならない、ということだ。
劉琦も龐統によって、その命を奪われるのだろう。

ならば、主に殉じて、自分も死ぬことが、家臣としての勤めではないか。

徐庶ではないが、それは意地だ。
細作であるということが露見しても、劉琦は以前と変わらぬ接し方で迎え入れてくれた。
ほんとうに短いあいだではあったが、世の中は、そう悪くないかもしれないと、夢を見させてもらった。
その尊い思い出のために死ぬのだ。
そうではないと否定する者に対しての、抗議の死だ。

死、という逃げ道を思い立ったとたん、偉度の心は軽くなった。
孔明に対峙しても、恐怖で身がすくむこともなかった。
もともと汚れた身なのである。
落ちるところまで落ちきった。
どこまで落ちるかの限度くらいは、自分で決めてもよいではないか?

血に汚れたその姿を隠すこともせずに、かつて妻であった女が連れていた少年をともなってあらわれた偉度に、孔明は絶句した。
ちょうど、周瑜の宴に向かうための支度をしていたところであった。
あとは出かけるばかりとなっていたところへ、偉度があらわれたのだ。

その偉度と目が合ったとたんに、その不吉な姿があらわすように、なにか大きな問題を、この少年が抱えているのだということを、孔明は直感した。
と、同時に後悔した。
偉度が、なにかに悩んでいることは気づいていた。
しかし、それにもかかわらず、たいして対策をとらなかった。
歩み寄ろうとするたびに、偉度がすばやく逃げてしまったことも原因だが、しかしそれでも、無理に引き止めておくべきだったのだ。

家令の夫婦は、薄汚れた旅装の子どもと、血まみれの少年という取り合わせに、すっかり度肝を抜かれて、お湯を沸かせ、いや、まずは水甕に水を汲もう、などと、とんちんかんな行動に走っている。
そんななか、冷静なのは趙雲ひとりで、ただ黙って、孔明と偉度、そして斂のやりとりを見つめている。

斂が、鳥林での状況を訥々と語り、それを、偉度が補強するかたちで語る。
鳥林にて起こっていることに関し、龐統が関わっているという、そのことが飲み込めない。
疫病をわざと広めるという策をとったことについても、うまく頭に入ってこなかった。
斂が大事にかかえていた、妻の手紙を差し出してきたとき、孔明は、受け取る自分の手が震えていることに気がついた。
すでに戦は、中原と江東のふたつの勢力のぶつかり合いというだけではなく、まったくちがう面を孔明に見せ始めていた。

妻の手紙を一気に読み、その女人らしからぬ、無駄のない的確な文章によって、孔明は、斂と偉度が語る話が、現実に起こっていることなのだと理解した。
ほんの一瞬だけ、心のどこか弱い部分が、
「放っておけ。これで戦は勝つ」
という声が囁きかけてきたが、孔明はすぐさまそれを追い払った。

「これは策ではない。策などとも呼べぬ。敵味方の論理ではなく、命というものに対しての侮蔑そのものではないか!」
孔明が吐き捨てるようにいうと、斂や偉度をはじめ、趙雲も、そして、家令夫婦も、その剣幕に、おどろいて作業の手を止めた。
「疫病が、もし鳥林に駐留する兵ばかりではなく、そこに出入りする商人らから外に持ち出されたら、どうなる? 多くの民が死ぬ。
いますぐ疫病を食い止めねばならぬ! 曹操はなにをしているのだ? なぜにおのれの陣の異変に気づかぬ? わたしが生涯の敵と目している男は、ここまで愚かか?」
やり場のない怒りに動かされて、孔明が苛立ちのあまり庵の廊下を行ったり来たりをはじめると、それを押さえるように、趙雲が言った。
「曹操は、実質的にはいま、ふたつの軍隊を率いていると見てよい。一方は、おのれの連れてきた中原の軍、もう一方は、劉州牧の遺臣である蔡将軍……いまは都督か……を中心とした荊州の軍だ。
時機を焦るあまり、曹操は、荊州の軍の全容を把握しきれないまま、鳥林まで駒を進めてしまった」
「つまり、まとめきれていない、というのか」
孔明のきつい口調にも動ぜず、趙雲は、そうだ、というふうにうなずいた。
「軍師、これはたしかに、われらにとっては僥倖だ」
「あなたまで、なにを言い出す」

抗議の声をあげると、趙雲は、全部聞け、というふうに片手で孔明を抑える素振りをして、先をつづけた。
「曹操の軍の大半が疫病で使えなくなるなら、戦略的にもこちらが有利になるうえに、ほかの兵たちの士気も下がる。いいこと尽くめだ」
「戦略だけで考えるならばな」
「そうだ。だが、曹操とて愚かではない。疫病が自身の陣に広がっていると知れば、病の沈静化を先に考えるだろう。
そうすれば、先に流れた噂どおり、兵を進めることを中断し、鳥林の要塞で冬を越すことも考えられるのではないか」
「そうなると、こちらが不利になる」
「そうだ。ただ、数だけを考えれば、疫病の流行は有利なことかもしれぬ。が、実際には不利な材料だ。
つまり、おまえの最初の思惑どおり、曹操に冬を越させずに、いま進撃させるためには、この疫病は障害でしかない。
軍師、戦は、数で圧倒すればよいというものではない。相手の心をいかに打ちのめすかが、戦いの本来の目的なのだ。曹操の意気をくじくことがこの戦の主要でなくてはならぬ」
「あなたの言うとおりだ。けれど、もしここで、曹操が、逆に疫病のことで復讐心を持ったなら、どうなる。
徐州のときのように、あの男は激しく怒り、我武者羅に軍を進めてくるだろう。撃退しても、撃退しても、けっして退かずに、執拗にな」
「だれかが疫病が広がっていることを、曹操か、あるいは側近に伝えねばならない。嫦娥どのが指摘するとおりだ」
「けれど、この内容によれば、龐士元の放った細作が要塞のあちこちにいて、曹操への報告を邪魔しているというのだろう」
「障害なら取り除く。それだけの話だ」
「どうやって」
「俺が鳥林に行く。行って、細作どもを始末してくる」

「あなたは、わたしの主騎だろう。そのような刺客のような真似を」
させられるか、と抗議しようとした孔明は、ふと、気づいて偉度のほうを見た。
疫病と龐統という、奇抜な取り合わせに混乱して見落としていたが、偉度と、その仲間である子供たちのことに、孔明はいまようやく気がついた。

「偉度」
呼びかけると、それまで無表情にこちらを向いていた目に動揺が走り、さっと顔をそむけた。
「偉度、わたしの目を見よ」
声が、自分でも強ばっていくのがわかる。
「おまえはさきほど、なんと言った? 龐士元に命じられ、鳥林に仲間を向かわせたと、そう言わなかったか?」
偉度は答えず、顔をそむけたまま、下唇を噛んでいる。
その表情は、そうだと肯定したも同然である。
「鳥林に行った、おまえの仲間たちは、どうなったのだ」

偉度はなにも言わない。
なにも言わないまま、蒼ざめた顔をして、ただ震えている。
いつもは、ふてぶてしい態度で、何事も受け流す子どもである。
それが、いまはこうも怯え、震えている。
最悪の答えが、孔明の脳裏に浮かんだ。

「死んだのだな。そうなのか」
孔明の畳み掛けるような問いかけにも、偉度はなにも答えようとしない。
ただ時間が過ぎるのを、懸命に耐えて、待っているような顔である。

「なぜ死んだ。疫病か」
孔明が問うと、それに答えたのは、偉度と孔明を何度も見比べて、どうするべきか困惑していた斂であった。
「龐士元の細作たちが疫病をはやらせていることを知って、協力したくないって言ったから、みんな死んじまったんだよ。
たったひとりを除いて、みんな死んでしまったのだって」
「なんと」
孔明が絶句していると、それまで長く沈黙をつづけてい態度が、涙そのものは流さないまでも、涙声で、抗議するように答えた。
「仕方ないだろう! 命令を聞かなければ、劉公子が殺される! あんたに話しても同じだって、そう言われたんだ!」
「なんという、愚か者めが!」
「仕方がなかった!」
偉度は、孔明の叱咤を弾き返すようにくりかえす。
「どうしたらよいか、思いつかなかった」

それは、孔明を完全に信頼していない、という、告白でもあった。
それを責められまい、と孔明は瞼を閉じる。
孔明もまた、偉度を責められない立場にあった。
「偉度よ、おまえは、わたしが、劉公子の身の危険に、気づかないほどの迂闊者だと思うていたか」
孔明の、感情を必死で抑えた声に、偉度は、おどろいて顔を上げる。
「劉州牧が、後継者を名指しせずに逝ったのは事実。この戦の動向次第によっては、ふたたび劉公子を推して、荊州を復興させようという動きがでるかもしれぬ。
それを阻止せんとする勢力から命を狙われることも、十分にありうるであろう。
だからこそ、わたしは伊機伯どのと相談し、劉公子の身辺を、より固めておくよう手を打ったのだ。
いまの劉公子には、たとえ医者であろうと、伊機伯どのが決めた合言葉を知る者でないかぎりは、近づくこともできぬ。
江夏の居城の部屋には、符牒があって、それを持つ者しかさらに奥に進めないようにと仕掛けもつくっておいた。
にわかにあらわれた細作ごときが、容易に近づくことはできぬ」
「そんな」
唖然とする偉度の表情を、孔明は痛々しく思いながら見た。
「おまえに告げなかったのは、壷中の子供たちが、劉公子に対して、忠心を残しているかどうか、曖昧であったからだ」
「わたしたちを疑っていたと?」
「疑っていたわけではない。おまえたちの身の上を考えれば、せっかく自由になったというのに、また劉家のために働こうとは思わないだろうと、そう思ったのだ。
あまりに甘い読みであった。おまえたちの世に対する憎しみと恐怖が、それほどに強いとは思わなかった。ゆるせ」
「わたしは」
偉度はなにかを言いかけて、蒼ざめて口をつぐむ。
はっきりと言葉にできない、おのれの本音に気づいたのだろう。
劉琦のもとに身を寄せていた、ほんとうの理由である。

偉度たちは、これまで幼い身で、世の辛酸を嘗め尽くしてきた。
世間に対して、つよい敵愾心を内に秘めている。
故郷に帰れない者たちの中には、肉親すらも信用できず、行く場所をなくしてしまい、仲間のいる劉琦のもとに、仕方なく留まっているのだ。
劉琦に対する忠心、というのは、あくまで表向きの理由である。
子供たちは、その建前を、自分自身で、本音であると思い込もうとした。
それが建前だと認めてしまったなら、今度は本音と戦わねばならなくなる。
行き場所がないという現実と、そして自分自身の秘めている、強い憎悪と恐怖に。
あまりに状況が急転し、子供たちも孔明も、その本音と向かい合う余裕がなかった。

いや、それは、言い訳だな、と、孔明は、おのれを叱る。
結局のところ、子供たちを引き受けるつもりでいただけで、実際には、なにもしてやれていない。
相手は子供なのだ。狭い世間しか知らず、偏った知識しか与えられず、途方に暮れている子供たちの群れ。
ほんとうにかれらを救おうと思っているのなら、まっ先に自分が、真正面から現実と向き合わなければならなかった。
なのに、結局は、時流に翻弄されるかたちで、局面ごとにしか動けていない。
このままでは、だめだ。
子供たちは、また失望して、世間を放浪することとなる。
子供は、いつまでも子供ではない。この成長の過渡期に植えつけられた絶望は、ともに膨らみつづけて、さいごにまた、悲劇がくりかえされてしまう。
それを断ち切るために、戦ったのではなかったか。

「もし龐士元の細作とやらが江夏に入り込んでいるのなら、劉公子を守るための、数々の符牒や合言葉のこともわかっているはず。そのことを口にしたことはあったか?」
偉度は呆然としたまま、首をつよく横に振った。
「そうであろう。龐士元は、江夏のことなど、じつはよく知らぬのだ。おまえは騙されたのだよ、偉度」

「騙された」
呆然とつぶやく、そのうつろな目が、痛々しい。
目を逸らしかけて、孔明は、おのれを強く叱咤した。
これから先の、なにひとつ、目を逸らしてはならない。
すべてが、自分の行動の結果なのだ。受け入れろ。

「おのれを責めるな。士元は、おまえや、仲間たちの腕を欲し、わたしから奪うことが目的であったのだ。
もし、おまえが騙されることがなかったら、ほかの手段でもって、おまえを籠絡するつもりであったのだろう。
別に言い換えれば、龐士元は、それほどにおまえたち壷中の力を買っている、ということだ。
ただ、士元にしてみれば、思いもかけなかったことは、想像以上に、おまえが劉公子を大切にしていたことだろうな」

孔明が言い終わるか終わらないかといううちに、それまでうつむき加減であった偉度の黒目から、大粒の涙がこぼれていった。
泣き声をたてることもせず、偉度は黙って、唇を噛んで、ぼろぼろと涙を落としていた。
子供なのだと、あらためて孔明は、偉度を見て、思った。
大人びた言動をしてはいる。十五ともなれば、世間では成人として扱われる。
が、この少年の時間は、生母をもとめて義陽の家を出たときから止まってしまっているのだ。
優しくおのれを受け止めてくれるはずの生母は、あらわれた実子を闇に突き落とした。その仕打ちから受けた傷は、この少年のなかで、いつまでも癒えないままになっている。
逆に、だからこそ、偉度は、同じ境遇の仲間たちには、深い愛情を注ぐ。
孤独の辛さを、だれよりも知っている。
だから、ひとたび縁が出来た者を、最後まで見捨てない。

その偉度を、こうも嘆かせている原因は、自分が作ってしまったのだと、あらためて孔明は、おのれを責めた。
樊城でこの子を救い、そして字を与えることまでしたのは、ただ罪悪感に負けてのことであったのか?
そうではない。

「おのれを責めるな。責めるなら、わたしを責めるがよい。もっとも卑劣なのは、おまえを罠にかけた龐士元であって、騙されたおまえではない」
「それは、慰めているつもりですか。あなたはやっぱり、なにもわかっちゃいない! 浅墓なやつよと笑われたほうが、どれだけましだろう!」
「笑うことなぞできるか!」
「いや、あなたの同情なんていらない。どうあれ、死んだ兄弟たちは生き返りはしないのだ。
あなたは、やっぱり、樊城で、わたしを助けたりしちゃいけなかった。わたしはあそこで死ぬべき人間だった」
「なに?」
「だって、そうではありませんか! わたしが生き残ったから、兄弟たちが死ぬはめになった。あなたは、わたしを見捨てるべきだった。
死んだ兄弟たちよりも、汚れきっているわたしが、生き残っていることのほうがおかしい!」
「なにを言い出す。おまえはいま、錯乱しているのだ」

孔明がなだめようとすると、偉度は、これまでにない剣幕で、声を張り上げて否定した。
「いいえ! あなたは勘ちがいをしている。わたしが樊城であなたを助けたのは、死にたかったからだ! あなたを助けたかったからじゃない。
最悪の危険のなかに身を置けば、もう逃げられる。死ぬことができる。
あなたのように、綺麗なままに大人になれた人間には、わたしの気持ちなんてわかりやしないのだ! 
本来なら、あなたが見るはずだったかもしれないものを、わたしはすべて見てきた。
そうですよ、わたしがあなたの身代わりになったようなものじゃありませんか。
だとしたら、あなたはわたしに責任をもたなくちゃいけない。
あなたの穢れを引き受けたわたしを、あなたは殺すべきなのだ」
「汚れていると、おのれのことを、ほんとうにそんなふうに思うのか」
「あなたは知らないだけだ。わたしがこれまで、どんなことをして生きてきたか。どんなことをさせられてきたか。どれだけ汚れきっているか、実際を知ったなら、きっとあなたもわたしを忌み嫌うようになるでしょうよ」
「そうか」
孔明は短くそう答えると、力なく両腕を垂らしたようにしている偉度の、その片方の二の腕をぐっと掴んで、そのまま、庵の外に向かって、大きく歩きはじめた。

偉度の腕を掴んだまま、外へ向かいだした孔明に、趙雲が仰天して追いかけてくる。
それほど、孔明の形相というものは、かつてないほどに、憤怒に歪みきっていた。偉度は抵抗をすることもなく、孔明に引きずられるようにして、ついてくる。
孔明もなにも言わないし、偉度もなにも言わない。

足の裏に、やわらかい、河岸の砂の感触が伝わってきた。
孔明は、まっすぐ前を向いて、穏やかな波をたたえて流れる川面をめざした。
「待て、落ち着け、軍師!」
趙雲が声をかけてくるが、無視をした。
ただただ、無性に腹が立って仕方がなかった。
宴に出るために装った絹の衣裳のその裾が、足元にまとわりつきながら、風にはためく。
やがて、沓が打ち寄せる波に入り、裾もまた、水を含んではためかなくなっても、孔明はひたすら偉度の腕を掴んで、まえに進んだ。

重たい抵抗をみせる水をかき分けながら進み、おのれの腰くらいの深さまでくると、力なく引きずられるままになっていた偉度を、そのまま、水の中に投げ入れるようにして、両手で押さえるようにして鎮めた。
憤怒の感情に突き動かされながらも、一方で、孔明は怖ろしいまでに冷静だった。怒りのあまり、突き抜けてしまったかのような感覚がある。

水に鎮められた偉度は、さすがに抵抗をみせはじめ、その両手を暴れさせて、おのれの頭を押さえる孔明の手を振り解こうとした。
だが、孔明は許さなかった。
偉度の口や鼻から、気泡がたつ。
水は無慈悲なほどに清く、もがく偉度の姿と、その偉度を押さえる、おのれの手をはっきりと目に映していた。

背後から、趙雲の制止する声が、何度も聞こえてきたが、孔明は、水のなかに偉度を閉じ込めつづけた。
「やめろ! 殺すつもりか!」
孔明の思わぬ凶暴な面に、趙雲ですら度肝を抜かれているのが、その声色でわかる。
孔明自身も、自分に、ここまで激しい感情が眠っていることに、いまのいままで気づかないでいたくらいだ。
これまで、ちょっとした挑発に乗って喧嘩することは多々あったが、いま抱いているほど、他者に対してつよい感情を持ったことはない。

偉度の抵抗が弱くなってきた。
孔明もまた、自身の手の力を抜き、偉度が、その意志のまま、ゆっくりと浮かび上がってくるのを、今度は押さえつけずに、受け止め、そして引き上げた。
偉度は、弱弱しく咳き込んでいる。
抵抗しているあいだにほどけた髪が、真っ青になっている頬にかかり、いっそう、雪のような肌の白さを際立たせていた。

「偉度」
呼びかけると、偉度はうっすらと目を開き、唇を動かそうとする。
「おまえは、いま、この水によって死んだ」
朦朧としている偉度が、目を何度か瞬かせる。
その目をまっすぐと見下ろして、孔明はつづける。
「そしてまた、おまえは、わたしによって生き返った。
おまえは汚れてなどおらぬ。おまえの汚れは、いま、わたしがすべて、この水とともに祓ったのだ」
偉度が、唇を震わせるようにして、動かした。
孔明は、それに応じて、ほほ笑みかける。
孔明の問いに、偉度は、また、かすかに唇を動かして、なにかを答えた。
聞き取るのもやっとの、小さな小さな声に、孔明は大きくうなずいて、水中にあるまま、偉度の体を受け止めるようにして、抱きとめた。
「ああ、そうだ。ほかのだれでもない、龍と呼ばれた、このわたしが言うのだ。いま、おまえは生れ変わったのだよ。龍たるわたしが生んだのだ。
だれであれ、もうおまえを汚れているなどとは言わせぬ。おまえはわたしの子となった。おまえの兄弟たちもまた、わたしの子だ。
どうだ、それでもなお、死を願うのか、おまえは。
父たるわたしを置いていく、そのような親不孝は、もうだれにも許さぬ」

孔明のことばに、それまで死んだようにぐったりとして動かなかった偉度が、急に顔をくしゃくしゃにして、みずから、孔明に抱き付いてきた。
幼子が、親にしがみつくように、不恰好ながらもしがみついて、声をあげて泣きじゃくる。
孔明はそれを静かに抱きとめていた。
あらたに生まれた子供の産声を聞きながら、たゆたう水のなかに、立っていた。

26へつづく
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