飛鏡、天に輝く
二十
ここで物語は、しばし、鳥林に移動する。
この舞台での登場人物は、歴史に名前を遺すことなく生涯を終えたひとびとである。
かれらの名前は史書にはあらわれないし、また、今後、あらたに発見されることもない。
かれらは突出した才能も特徴も持たない、ごくごくふつうの人間であった。
鳥林はいま、かつてないほどの賑わいをみせていた。
おなじく長江のほとりにあり、曹操を撃退すべしと盛り上がっている柴桑とは対象的に、こちらは曹操を守り立てて、いよいよ江東も併呑すべしと盛り上がっている。
曹操は鳥林に、あらたに水軍のための要塞を建設していた。
先だって亡くなったばかりの、劉表がかかえていた水軍の要塞もあったのだが、あえて新しく作り直したのは、設備が小さくて大軍に耐えられなかった、というのもあるが、やはり、おのれの力を、あらためて荊州の民に知らしめ、かつ、江東の意気をくじくためであった。
曹操はこの遠征に、兵卒たちばかりではなく、数多くの楽団を引き連れていた。
かれらのためにも、曹操は船を用意した。
楽士たちが多く乗り込んだ船からは、ひっきりなしに雅やかな音色が聞こえてきて、要塞を作る槌の音と混じりあう。
曹操はこの楽士たちの船をおのれの船にはべらせて、みずから得意の詩を吟じてみせては、群臣の喝采を浴びるのを楽しみにしていた。
ありあまる才能を持つ曹操であるが、自分の持つ天与の宝を、どのように日々を過ごせばもっとも有効に生かせるかもわかっている。
毎日、きちきちと目標のことばかり考えて余裕なく過ごすのは、曹操のやり方ではなかった。
心行くままに遊びながら、なおかつ、覇者の余裕を天下に知らしめる。
曹操をはじめとする、鳥林にあつまった兵卒、将軍、部将ら、そのほか、軍務にはかかわらない商人たちまでもが、曹操の勝利を信じて疑わなかった。
司馬である陳逸徳もまた、そうした一人であった。
河東の、そこそこ名のある士大夫の末家の第三子として生まれたかれは、これといってとりえのない人物であったが、本家の威光を借りるかたちで、若くして校尉の地位までのぼりつめた。
とりえはないが、無能でもなかったので、司馬のつとめもうまく果たしている。
本人は、いまの地位を、おのれの才能によって得たものではないとわかっていたので、おれはきっとこれ以上は出世することもあるまいと、謙虚に考えている。
かれのいまの仕事というのは、鳥林の要塞の建設にたずさわる人夫たちを監督することであった。
人夫たちは、荊州を征服したさいに得た捕虜であったり、あやしげな斡旋人がつれてきた流民の群れであったり、鳥林近隣に住む荊州の民であったりした。
鳥林の要塞の建設は、じつのところ、うまく行っていなかった。
逸徳の上役にあたる校尉は、要塞の建設が遅れていることが、元帥である曹操の耳にとどくことを恐れ、要領よく、人の目に触れやすい場所を先につくらせて、なんとか誤魔化していた。
要塞のうち、ほぼ出来上がっているのは、部曲将以上の者たち、つまりは将校以上の者が使用する場所にかぎられており、それ以下の、兵卒たちがあつめられている場所などは、ひどいありさまであった。
曹操の勘気をおそれているのは、逸徳の上役ばかりではなく、最近、曹操に降伏したばかりの者たちもそうである。
劉表の旧臣、とくに中軍水軍都督となった蔡瑁を中心とする者たちは、なにがなんでもここで勲功をたてて、あたらしい主である曹操に、よいところを見せねばならなかった。
だから、要塞の建設がうまくいっていない、などという事実は、どうしても表に出せない。
似た思惑の者たちが、隠れたところで集って、誤魔化せるところは、誤魔化せるだけ誤魔化している。
それがいまの、鳥林の実体であった。
鳥林の要塞の建設がうまくいっていないのには、ふたつの理由があった。
まずひとつは、集められた人夫たちの、やる気のなさである。
これについては、監督にあたっている陳逸徳も、仕方のないことであろうなと思っている。
自分たちを征服した者のために、自分たちと同じ境遇を作るだろう戦のための要塞を作らなくてはならない。
戦とちがうから、がんばったところで恩賞がでるわけでもない。
しかも、いまは田畑の刈りいれどきである。そんな忙しいときに、いくら食事は配給されるし、ある程度の賃金も出るとはいえ、よろこんで作業などできるはずがなかった。
もうひとつの理由。
こちらのほうが、不可解でなのであるが、資材が届かないのである。
要塞をつくるためには多くの資材が必要となる。
この資材は、荊州の南方より取り寄せられているのだが、この資材が到着する予定が、実際よりも大幅に狂っているのだ。
目録によれば、すでに届いてよいはずのものが、期日どおりに届かないこともあれば、あるいは、途中で消えてしまったものさえある。
人夫たちを現場に集めたはいいものの、資材がないので、一日中、なにもできなかった日すらあった。
もちろん、要塞を作るに当たっても予定というものがあったのだが、これも、逸徳の上役らをはじめとする者たちが共謀して、もともとの予定を改竄し、上には、あたかも工事がうまくいっているように見せかけているのである。
資材が届かない原因について、逸徳は、だれかが横領しているのではと疑っていたが、同僚のだれに相談しても、みな、上役に逆らうことがおそろしくて、まともにとりあってくれない。
逸徳としても、もともと正義感のつよい人間というわけではない。
だれかが横領しているのだとしても、自分にとばっちりがこないのであれば、わざわざ最前線で騒ぐこともないか、とすら思っていた。
ともかく、負けるはずのない戦なのである。
数にしても、兵卒の内容にしても、負ける要素はどこにもない。
大将の格からしてちがう。
こちらは百戦錬磨の天下の英雄・曹孟徳。それに対して、江東の大将は、江夏の黄祖という弱小勢力さえ叩くのに何年と費やした、実績不足の若者である。
多少の問題があろうとも、それが原因で、負けるはずがないのだ。
「とはいえ、そろそろ兵卒どもが騒ぎそうな気配がある」
と、責任から逃げる機会を見ること関しては、天才的な直感をみせる上役は言った。
「うるさいのがいて、そいつがみなを扇動しておるのだ。はやく兵卒どもの住まいをまともにしてやれと、毎日のように言ってくるやつでな。
こやつが図に乗って、上のほうにまで訴える気配がある。
面倒は困る。それまでには、完全とはいわぬ。工事がそこそこ終わっているようにしなければならん」
そういうわけで、逸徳は、人夫頭たちをあつめて、工事を早く進めるようにと伝えたのであるが、返事はかんばしくない。
というのも、人夫たちのあつまりが、最近、とみに悪いのだという。
理由をたずねると、みな、たがいに顔を見合わせるばかりで、理由を言わない。
さては、賃金の払いがわるいことを不満に思っている者が、仲間を誘って働こうとしないのだなと、逸徳は見当をつけた。
人夫たちへの賃金も、だれかが上前を跳ねているらしく、本来の賃金よりも、だいぶ削られたものとなっている。
やれやれ、困ったものだと思いながらも、これまで言われたことを、ただこなすだけの人間だったものが、ここへきて急に仕事熱心になるわけもなく、
「とにもかくにも校尉どのの命令はわかったな。明日には規定の人数をそろえて作業にかかるように」
と、伝えるだけ伝えて、自分は、用意された司馬のための立派な屋敷に戻っていった。
陳逸徳は、けして悪い男ではない。
故郷にかえれば幼なじみであった妻の夫であり、四人の男の子の父でもある。
人並みに孝行にはげんでいたし、世間からうしろ指をさされる真似をしたこともない。
差し向かいになって語り合えば、この男をきらう人間はめったにいなかっただろう。
それほどに癖のない、ごくごく平凡な男であった。
陳逸徳ら将校のためには、士卒たちよりもずっとましな家屋が与えられていた。
狭いながらも、広さの十分にあるものである。
兵卒たちと将校である陳逸徳たちは、住まいも井戸も下水施設も、すべて分けられていて、よほどでなければ顔をあわせることがない。
といっても、それは通常の生活を送っていても、そうであっただろう。
逸徳は、自分が召し使っている者たちと、仕事場で接する者以外で、身分の卑しいものと会話をしたことがなかった。
また、そういう機会にもめぐまれなかったし、会話しなければならない必要にせまられることもなかった。
つまりそれは、逸徳がおのれと変わらぬ生まれの者とだけ付き合ってこられた、狭い社会のなかにとどまっていればよかった、ということであり、それだけ恵まれた、安全な生活をつづけられてきた、ということでもある。
その点だけは、非凡であったといえるだろう。
明日は人夫たちは集るだろうか、集らなければ、さあて、どのようにしたらよいだろう、などと考えながら、逸徳はいつものごとく、おのれの宿舎にもどる。
そうして歩いている途中、夕闇のなかで、なにやら傍目にはっきりと見えるほどに、言い争っている男女の影が目にうつった。
かれらは堤防のかたわらに植わっている柳の木の下で、なにやら言葉の応酬をしているのであるが、逸徳が、おや、と足を止めたのは、女のほうに見覚えがあったからだ。
あの、がりがりの痩せっぽちな女は、うちで召し使っている煙雪ではなかろうか。
妻を伴っていなかった陳逸徳は、おのれの身の回りの世話をさせるために、地元の女を屋敷に雇い入れた。
あたりの景色がすべてけぶる雪につつまれた日に生まれたことから、『煙雪』と
名付けられたというその女は、『女』と呼ぶのもためらわれるほど痩せていて、女らしさの欠片も見当たらない、棒のような体型をしていた。
無口で、どちらかというと陰気といってもいいほどの娘であったが、その前身を聞くと、なるほどと納得させるものがある。
年はまだ十四で、鳥林の町から遠くはなれたちいさな村の生まれで、ことしの春に嫁いだばかりであったのだが、戦乱で夫や親類ともはぐれてしまい、帰る場所がなくなり、困っていたところを、遠い親戚のつてをたよりに陳逸徳の世話をする仕事にありついたのだという。
ふだんは、ただひたすら黙々と仕事をこなし、めったに声をあげない娘が、おどろいたことに、だれかと言い争っている。
夫とはぐれた、ということを思い出し、逸徳は、その夫とやらが、もしや生きていて、迎えにきたのではなかろうかと考えた。
やましいことなどなかったが、口論があまりに強い調子であったので、逸徳は足音をしのばせて、そっと二人に近づいていった。
鳥林のあたりには、商売になると踏んだ女衒たちが、娼妓たちをつれてあつまってきていた。
であるから、要塞やその周囲に女がいたとしても、なんらおかしなことはない。
そも、曹操からしてお気に入りの楽士や舞姫たちの一行を、引き連れての荊州南下である。
どこか開放的で楽観的な空気は、下々にも伝わっていた。
しかしだからといって、女のひとり歩きはあぶない。
まして、夜ともなれば、娼妓すら買えぬ、よからぬ考えをもつ下流の兵卒たちが、徒党を組んでうろついている。
逸徳は煙雪に、日が沈んだら、だれの用事であろうと表に出てはいけないと言いつけていた。
相手の男が何者にせよ、いま、煙雪を雇っているのは自分なのだ。
縁があって雇い入れたわけだから、その面倒は、最後まできっちり見なければならない。
とはいえ、逸徳がしのび足で近づいていく理由には、好奇心もあった。
煙雪の双眸には、どんな歓楽であろうと拭えそうにない、暗い悲しみとあきらめが宿っていた。
そのことから、この山育ちだという娘が、これまでに相当な苦労をしてきたことは、わかる。
一方で、逸徳は、煙雪がつい最近まで主婦であった、ということがどうにもぴんとこなかった。
その語る身の上話は、よくあるものであったし、棒のような、女としてまるで育ちきっていない煙雪を妻として迎える男がどんな人間か、まるで想像できなかった。
もしかしたら、それがいま、わかるかもしれないのだ。
そうして、足音を殺して近づくと、ふたりの会話の断片が、川のせせらぎにまぎれつつも聞こえてきた。
「ほかに何人いる」
「いいえ、おりませぬ。お人違いでございましょう」
「どこからきたのだ」
「しつこいお方でございますね、あたしは山育ちだと、さきほどから何度も申し上げておりますのに」
「山は山でも、大人のいない村ではないのか」
「おかしなこと。大人のいない村なぞありましょうか。あたしのいた村は、大人も年よりもいる、ごくふつうの村でございます」
「いいや、ただの村ではあるまい」
「いいえ、ただの村でございます」
「だれにいわれてここへ来た」
「だれにも。身よりもなく、途方に暮れておりましたところを、いまのご主人さまに拾われたのでございます」
「なにが目的なのだ」
「生きることが目的です。なにをお尋ねになりたいのですか」
「生きることが目的なのであれば、このようなことはやめよ。
なにが足りぬ。金か、それともなにか弱みでも握られておるのか、そうでなければ、故郷へ帰れ」
「帰れるばしょなど、どこにもございません」
「そうした者たちを集めて面倒を見ているやつがいる。そいつのところへ行け」
逸徳としては、会話の意味がまったくつかめなかったが、見ていれば、煙雪よりふたつ頭ほど背の高いその男は、むりに煙雪の手をつかみ、その場から連れ去ろうとする。
煙月のいやがっている様子がすぐにわかり、さすがに逸徳も隠れてばかりはおられなくなった。
「やい、貴様、その娘はわたしの召し使っている者だ。勝手にどこへ連れて行く」
物陰から姿をあらわして、男のほうに逸徳は詰め寄る。
とはいえ、そんな勇気が出たのも、男が帯剣をしていなかったからだ。
逸徳のほうは武器をしっかり手に握っていたし、その装束から司馬とわかるであろうから、男がおびえてすぐに逃げ出すだろうと見ていた。
だが、しかし、そうではなかった。
近づけば、なにやら一目で、ひと筋縄ではいかぬ、癖のつよそうな男だとわかる。
身なりもよく、まだ若いのに、妙に世慣れしている雰囲気があり、胡散臭くすら感じる。
男は逸徳があらわれても、まったくおどろく様子を見せず、どころか、むしろ、おもしろそうに、逸徳の上から下までを、舐めるように見た。
「曹丞相は戦じょうず。戦じょうずな理由は、なにもその軍略の鋭さだけにあるのではない。兵卒をうまく味方につけるのが上手いのだ。
いかに見事な軍略を示せても、それを運用する兵卒どもが使い物にならないのであれば、うまくいくものも、だめになる。
ところが、劉州牧が調度よい頃合に死んでくれたおかげで、荊州があっさりと自分のものになったせいか、どうやら丞相も、ほかの家臣どもも、すっかり油断しきっているようだ。
だから、目が曇って、基本中の基本を忘れているのだ」
逸徳は、おのれをにやにやと眺めながら、際どいことを口にする男に対し、恐怖に似たものを感じた。
いまが視界のわるい黄昏時であったことが幸いだと思う。
この男のことばが誰かに聞かれて、讒訴でもされたら、刑罰は免れまい。とばっちりは、ごめんだ。
逸徳は、煙雪を奪い返して、はやくおのれの宿舎に逃げ帰ることを考えたが、近づいて見れば、男は文官装束に身をつつんではいるけれど、ずいぶん鍛えられた体をしているのがわかった。
腕づくでは、かなうまい。
だれか、このあたりを哨戒している兵卒でもいればよいのだが、と目線を動かしてみるが、だれも視界に入ってこない。
焦る逸徳をよそに、男は、なおもつづけた。
「兵卒どもの扱いは、牛馬並みにひどい。いや、馬のほうがまだ大事にされておるかもしれぬな。
不衛生きわまりない掘っ立て小屋に詰められるだけ詰めて、寝起きをさせている。
とくに便所と井戸、あの汚さは見たか。あれでは、疫病でも入ってきたなら、瞬く間に全軍にひろがるぞ。
士卒長は、はやくなんとかしてくれと、おまえやおまえの上役の校尉をせっついているのに、おまえたちは聞く耳を持たない。
もしや資材の横流しでもしているのではあるまいな?」
逸徳は、ますますぎょっとした。
この男、どうやら、こちらのことを知っているようである。
そして、上役の校尉に、兵卒の宿舎をはやく整備しろとうるさく言っているやつがいる、という話を思い出した。
こいつがその『うるさいやつ』ではないだろうか。
逸徳は、男の顔を、あらためて見た。
見たことのない男だ。蔡瑁を中心にあつまっている、劉表の遺臣たちかもしれない。
身なりはたしかに、よい。だが、耳から顎にかけての黒々とした虎髭は、長さが不ぞろいで、まるでやくざ者のようであったし、なにより鋭すぎる目つきが、ただ者ではないように思えた。
『もしや、細作ではあるまいな』
曹操は、内部に不正がないかどうか、細作を随所に配して探っている、という噂を聞いたことがある。
逸徳がそんな話を思い出し、どう出たらよかろうかと迷っていると、男は、また、にっ、と人懐こい笑みを浮かべると、言った。
「おまえが不正をしていようと、俺はどうでもかまわない。告発なんぞせぬから、安心しろ。
俺はただ、あんたたちに、おのれの責務は果たせと言いたいのさ。大きすぎる組織というものは、ときに内部の者の視界をにごらせるものだ。
おまえたちは、おのれの仕事が、人の命を左右するものだという自覚がなさすぎる」
「わたしは不正なぞしておらぬ。それは天地神明に誓ってよい」
「誓ったところでなにが変わるわけじゃなし。不正をしていようとしていなかろうと、どうでもよいと言っただろう。うだくだ言っているあいだに、働け」
ぞんざいで無礼な物言いに、逸徳はいたく気分を害した。
すくなくとも、この新参者、士大夫ではあるまい。礼儀がまるでなってない。
「無礼なやつだな、その娘に近づいたのも、わたしをけしかけるためか? 娘は関係なかろう、言いたいことがあるのなら、わたしに言え。
人を横領犯のように言いながら、おまえはずいぶん卑怯な真似をする」
「それはすまんな、この娘に近づいたのは、たまたま目に入ったからだ」
「なんだと?」
意味のつかめぬ言葉に、逸徳が眉根をひそめていると、男は煙雪の手を離し、そしてそのまま、その場を去ろうとする。
逸徳は、男をあわてて呼び止めた。このままで済ませてよい話ではない。
「待て、貴様、こちらを愚弄するだけして、このまま詫びもせずに立ち去るつもりか、無礼者!」
「愚弄ではないだろう。俺はありのままをあんたに突きつけただけだ。文句があるのなら、あんたこそ堂々と俺に言いに来ればいい」
「名前も知らぬのにか」
「名乗るのを忘れていた。俺の名は徐元直、位は中郎だ。間に合わせのものだがな」