飛鏡、天に輝く

十七

「ところで」
と、孔明は表情をあらためて趙雲を見た。
「張子布に部曲を借りたとして、わたしの警護はかれらにまかせ、自分は曹操を探る。そう考えていないか」
「考えた」
「それは、あまりよい策ではないな。なにより、わたしが嫌だ。わたしは、あなた以外の人間には、安心して背中をあずけられない」
「またわがままを言う。では、細作を雇うか? これだけの賑わいだ、職にあぶれた細作くずれのひとりやふたり、うろうろしているかもしれん」
と、趙雲は、ごった返す柴桑の町を見渡して、言う。

たしかに往来には、さまざまな身分、さまざまな民族、さまざまな風体の者たちが入り混じっている。
細作求むの看板をかかげたら、何人か、本気であつまってきてもおかしくない。
そして、ふと、胡偉度のことを思い出した。
自分で思い出しておきながら、孔明はすぐさま、自分の考えを打ち消した。

「いや、駄目だ。それは駄目だ」
「なんだ、唐突に。欲しいものでも見つかったのか。妙ながまんをしないで、買っておけ。人生は、なにがあるかわからん。明日死ぬかもしれないのだからな」
真顔で言っているが、果たして、この主騎なりの冗談だろうかと孔明は考えながら、首を振った。
「そうではなく、偉度のことだ」
「ああ」
趙雲もまた、偉度の前身を知っている。
だからこそ、孔明がなにを考えたのか、すぐにわかったのだ。
「あいつは庵に戻っているだろうか」
「戻っているといいな。ところで子龍、あなたの目のいいところを見込んでたずねるが、偉度は柴桑にひとりでやって来たのだろうか」
「すくなくとも、俺のわかる範囲では、だれかがいる気配はなかったぞ。けれど、あれが劉公子の細作であるというのなら、仲間は来ているだろうな」
「江夏の劉公子に、こちらの様子を伝えるため?」
趙雲はうなずいた。
「だろうな」

孔明は、樊城で起こった一連の事件と、そして偉度をめぐる、さまざまな出来事を、そして身の上のことを思った。
細作をやめろと、ほんとうはそう言いたいのだが、偉度が孔明の主簿ではなく(それは、あくまで一方的に押し付けた立場である)、劉琦の配下である以上は、なにも口出しはできない。
おそらく、孔明が頼めば、劉琦は素直に偉度を手放すだろう。
けれど、そんなことは、偉度はすこしも望んでいないのは、あきらかだ。
とはいえ、孔明は、偉度が望んでいることがなんであるか、それがわからない。細作をやめさせたいと思う、その考えの底には、細作そのものを蔑視する、士大夫特有の傲慢さがなかろうか、とも思うのだ。
偉度の武芸の腕はなかなかだ。だが、その性質が、趙雲のように大将向きかというと、それもちがう気がする。

偉度がもし、庵に戻っていたら、きちんと向き合って、一度、ゆっくり語ってみようと、孔明は決めた。
偉度は、なんだってそんなことを、あなたと話さなくちゃならない、と言ってごねるだろうが、理由はふたつもある。
こちらは偉度の名付け親で、さらには、大人なのだからして。

そうだそうだと、自分の出した結論に、自分でうんうんとうなずいていると、となりで、趙雲が、物珍しい動物を見るような目を向けているのだった。
「なにか」
「どういうわけか、おまえが何を考えているのか、だいたい見当がつくようになったが」
「それはすごい」
「いまもわかった。おまえは」
「わたしは?」
「やはりお人よしだ。なにを決めたかはわからんが、最後まで投げ出さずに貫けよ」
孔明は、自信満々に、大きくうなずいた。
「うむ、まかせろ。始めからそのつもりだ。わたしの好きなことばのひとつは初志貫徹だ」
「ほかの好きなことばは、なんだ」
「快刀乱麻」
「がんばれよ」
「む、気のせいか、なにやら莫迦にしたようなことば」
「莫迦にはしてない。ただ、覚悟を決めたのなら、ほんとうに貫け。
そうでなければ、偉度は、親兄弟だけではない、名付け親のおまえにまで、裏切られることになるのだからな」
「そうだな、わかった」
趙雲の重いことばに、孔明は、気を引き締めて、真摯にうなずいた。




背丈の胸ほどまである名もない草が、青々と茂る川岸は、その草の多さからもわかるように、めったに人の入ることがない。
草地は途中から湿地になっているのだが、よほど足元を気をつけていないと、途中で泥に足をとられかねない。
川の流れも早いため、近隣の住人が釣りをしていることもない。
ざわざわと草が風に流れる音を聞きながら、胡偉度はだまって、川の流れを見つめていた。
視界のすべてに、人の造ったものが、なにひとつ見えない場所である。

「おまえたちの行く先は」
口を開くと、唇がひどく乾いていることに気がついた。
ずいぶん黙り込んでいたらしい。
偉度の声が風に乗るのと同じくして、その周囲に隠れていた者たちが動く音が聞こえてきた。
「鳥林だ。いま、曹操が要塞を作っているはずだ。おまえたちは、そこへ入り込み、工事の進み具合と、そして曹操の軍に進軍の気配があるかどうかをしらべるのだ」
偉度は、自分の声をうつろに聞いていた。
どうしようもなく虚しかった。
なにに対して虚しかったかといえば、おのれに対してである。
樊城の一連の事件のあと、偉度は、心から、これでもう終わりなのだ、細作のまねごとなど、もうしなくてよいのだと安堵した。
そして同時に、自分と同じ、あるいはそれ以下の扱いを受けていた『壷中』の子どもたち……互いに兄弟、姉妹と呼び合っているが……もまた、解放されたのだと思っていた。

孔明が私財を投じてくれたおかげで、親元がわかっている子どもたちのほとんどが、無事にむかしの生活にもどって行った。
しかし、すでに帰る場所を失っていた子どもたちは、おなじく帰る場所をなくしていた偉度の周囲にあつまって、江夏の劉琦のもとにとどまった。
残らざるをえなかった子どもたちの大半の身の上は、悲惨なものだった。
この戦乱のなか、流賊に家族を殺されてしまった者もいれば、ほかならぬ家族から、まるで品物かなにかのように売られた者もいる。
かれらにとっては、壷中の仲間たちこそ家族であった。
そうした天涯孤独な子どもたちのことも、孔明は考えていた、ようである。

ようである、というのは、孔明がなにかしらの動きをするまえに、曹操が南下してしまったためだ。
だから、偉度たちにとっては、孔明という人間は、古いくびきを外してくれた恩人ではあるが、しかし、同時に、帰る場所を壊した人物でもある、という印象にとどまっている。
壷中の子どもたちは、だれもかれも、陰惨な過去を背負っている。
だからこそ、とくに自分たち仲間以外の『大人』に対しての警戒心がつよい。
たしかに諸葛孔明という人は、自分たちの解放のきっかけになってくれた。
が、果たして、信頼してよいものなのか?
自分たちの身につけている、この技能を利用しようと考えている、汚れきった大人の類いではなかろうか?

そんな子どもたちのなかで、偉度は、すこしちがっていた。
孔明のことは、正直に言ってしまえば、むかしは妬ましさもあって、大嫌いであった。
けれど、いまは、壷中の大人たちなどより、はるかに好きだと偉度は思っている。
だから、孔明が柴桑に行く、といったとき、劉琦の命令がなくても、一緒についていくつもりだった。
自分たちを助けてくれた大人が、ほんとうに信じてよい『本物の大人』なのか、それを知りたかった。
自分のためだけではなく、自分を頼りにして集ってきている、何十人という子どもたちのためにである。

そしていま、代表者としての自分を、ほかの子供たちが、不安まじりの期待で見つめていることを、偉度は知っていた。
知っていて、こんなことをするのだから、最低だな、と偉度は、自分で自分を貶めてみせる。
草陰にかくれて、『弟たち』あるいは『妹たち』の表情がよく見えないことは、むしろ幸いだった。
かれらの表情は、おそらく一律に失望の色を浮かべているだろう。
偉度は、ひとりではなかった。
一緒に、見慣れた大人がいた。
それは孔明ではなく、龐士元であった。

「なんのために」
草陰に隠れている『弟』のひとりがたずねてきた。
当然の問いである。
壷中の大人たちは、子供たちに対し、いかに本来の感情をうまく殺すかの訓練を、徹底してほどこしていたから、その声は、平静そのものに聞こえる。
だが、同じ仲間であるから、偉度にはわかる。
みな、当惑し、どういうことだと、偉度に問いかけているのだ。

『なんのために、鳥林に向かうのか。龐家は劉公子(劉琦)とつながりがなく、むしろ江東側に寄っている家だった。
もしや、われわれは、これから江東の下で働かねばならないのか』
短い質問のほんとうの意味は、こちらなのである。

しかし、偉度はあえてそれを無視して、答えた。
「曹操が荊州にて越冬するかもしれないという噂が流れてきた。
これが真実であるならば、江東側の勝機は減る。早急に噂をたしかめねばならぬのだ」
「それは、江東の草がすればよいではありませぬか」
と、あどけなさの残る声が、草原のどこからか聞こえてきた。
おそらく、この草地のすべてを取り払い、子供たちすべての姿を見たならば、まともな大人ならば、その痛々しい事実に声を失っただろう。
かれらのなかには、まだほんとうに子どもとしか言い様のない者も含まれている。
それは、一人や二人ではないのだ。

「わたしがくわしく説明しよう」
偉度が口をひらくまえに、それまで沈黙していた龐統が口を開いた。
龐統は、幼少のころに疱瘡をわずらったおかげで、肌にみにくい疱瘡のあとが残っている。
顔立ちも、荊州で一、ニを争う名家の出自のわりには、泥臭く、垢抜けない。
それゆえに、なにも知らない人間からは侮られがちで、本人も、自分の容姿が、他者に、決して好印象を与えるものではないと自覚していた。
とはいえ、美麗すぎる孔明が、その迫力のあまり、かえって人の不評を買っているのとは対象的に、鷹揚な士大夫らしい、ずんぐりむっくりとした体型の龐統には、親しみやすさがあった。
本人も、他者に与える印象をうまく利用して、ざっくばらんで気取らぬ態度をとっている。
そのせいか、その交友範囲はひろい。
しかも美文をものすことも得意であったから、大陸のあちこちに、文通友だちがいるのだ。

だが、偉度は知っている。
龐統は、孔明とは真逆の位置にいる人物だ。
好人物に振る舞っているが、実際は、冷淡で現実的なのが龐統だ。
およそ、他者を、心から省みる、ということがない。
自分の才能と才覚に、たっぷりと自信がある。だからこそ、自分が、どこであろうと溶け込めること、そして重用されることもわかっている。
この適応力の高さこそが、龐統の最大の武器であり、逆に、強い自信の源であると同時に、他者にたいし、常に心の距離を置きつづけている理由でもあった。

偉度は、龐統がきらいだ。
龐統からは、壷中の大人たちと、同じにおいがした。
自分たちを利用する道具、あるいはなんでも言うことを聞く玩具としか考えていない、残酷で傲慢な大人たちのにおいである。
それは、ほかの敏感な子供たちも同じようで、龐統が口をひらくと、草の生い茂る岸辺に、緊張感が高まった。

「ここに何人の壷中どもが潜んでいるかは知らんが、わたしのことを見知っている者もいるだろう。
知らぬ者のために、一応、名乗っておく。わたしは龐士元である。いまは周都督の食客となっておる」
周都督、つまりは周瑜の名が出た時点で、子どもたちのあいだに、動揺が走ったのを、偉度は気配で感じた。
やはり、自分たちは知らぬ間に、劉琦を利用した孔明……あるいは、劉琦を無視して独走した偉度により、江東側に売られてしまったのだろうか。

どんなにいやだと拒否しても、決してその意志を汲み取ってはもらえない。
どころか、拒否の意志をほのめかした時点で、嗜虐的な懲罰を課せられるという、そういう場所で何年も生活してきたかれらにとって、自分たちより上(壷中のなかでは、年齢より才覚が重視された)に反抗するなど、思いもよらない。
だから、偉度、あるいは劉琦が決めたことには、盲従する。
そんな生活からは、ほんとうは解放されたはずなのだが、何年もかけて押し付けられた体質というものは、容易に変えられぬものらしい。

「知ってはいると思うが、江東は、江夏の劉公子、そして劉予州と同盟を組み、曹操と対峙することになった。
しかし、この同盟にしても、あくまで曹操がすぐに攻めてくる、という前提のもとでのことだ。
万が一、曹操が方針を転換し、青州兵に荊州兵を合流させ、あらたに訓練し強化した水軍を展開する、となれば、数でまさる曹操が有利になるのは必定。
しかも江東としても、一年も兵卒どもの士気を維持させるのはむつかしい。もともと、寄せ集めの軍ゆえな。
軍のことだけではない。もし曹操が攻めてくるのが一年延びたら、また降伏派が台頭するやもしれぬ。
さすれば、同盟も意味がなくなり、江夏の劉公子や劉州牧は、もっとも身近な未来の敵となるわけだ。
もし両者が江東を抜けて交州へ向かうと方針を変えたとしても、曹操側につくと決めた江東は、これを襲って、自らの手土産として曹操側に擦り寄ればいい。
曹操が越冬した場合に、もっとも損害をこうむるのは、江夏の劉公子、そして劉予州なのだ」
つまり、江東側の思惑もあるが、自分たちが動くことで、劉琦も救うことになるのだと、龐統はそう言いたいのである。

龐統のことばに無駄はなく、子どもたちにもわかりやすいものであった。
だが、かれらがそれで納得したかといえば、また別の問題である。
さわさわと音をたてて揺れる草のなか、だれもが沈黙をつづけている。
わたしのことばを待っているのだなと、偉度は了解した。
「われらは劉公子より恩義を受けている身だ。寄る辺のない卑しきわれらを助けてくださった劉公子を、なんとしてもお助けせねばならぬ。
鳥林での曹操の動きを探り、進軍するのか、それとも越冬するのか、見越すのだ。もし越冬するようであれば、公子にはすぐさま江夏から南下し、交州へ入っていただくしかない」

「それは、公子のお考えなのでしょうか」
と、子どもたちのなかから、また質問が出た。
偉度は、ちらりと龐統のほうを見た。
魯粛の屋敷にて会ったとき、龐統は、言葉巧みにこちらを持ち上げて、劉公子のために協力せよと言ってきた。
実際は、劉琦のもとに温存させておくのがもったいない組織だから、うまく利用してやれ、ということなのだ。
ごてごてと飾った建前で、本音を巧みに隠して、人を翻弄してみせる。
こういうのを、ほんとうの策士というのだろう。
それを考えれば、心を開いた者に対しては、よくもわるくも、本音を正直に吐露する孔明は、とても策士とはいえない。
偉度には、孔明がずいぶん純粋な人間に見えてきた。

「公子のお考えではないが、まちがいなく公子のためになる」
「劉予州の軍師どのは、われらの鳥林行をご存知なのでしょうか」
子どもたちが孔明と接した時間は、ごくわずか。
なのに、大人にたいして強い不信感をもつ子どもたちは、なぜだか孔明を慕い、そして幻想を抱いている。
たしかに、幻想を抱きたくなる人だというのは認めよう。
そんなことを考えながら、偉度は答えた。
「知らぬ。が、この行動は、軍師のためにもなるであろう」
たしかに、孔明のためにはなるだろう。
が、曹操の動きの正確なところが判明した場合、それを『いつ知るか』によって、孔明の運命は変わってくる。
そのことは、偉度は黙っていた。

偉度のことばに完全に納得したわけではないものの、子どもたちは、采配にしたがって、鳥林への潜入の作戦をたて、その準備のためにそれぞれ散って行った。
その作戦を指示しながら、偉度の心は、ますます暗く、そして重たくなっていった。
作戦の様相は、壷中の手法そのままだった。
というのも、偉度はほかに、潜入の手段や方法を、思いつくことができなかったのだ。
一般的な兵法の勉強もしてきたけれど、実践で成功したのは、どれも壷中にいたときに学んだ『汚い』手段であった。
人間の欲を刺激し、籠絡する、単純で、ある意味、安全な手段である。
だが、同時に、自分たちの心をはげしく磨耗する手段でもある。
弟、そして妹たちの、またか、結局、なにも変わらないのか、と言いたげな、それぞれの諦めの表情を、あえて偉度は見ないことにした。
おそらく、おなじ表情を、いま、自分も浮かべているにちがいない。

「壷中の組織力というものは、やはり大したものだな。あまり者だけでも何十名といるとは、じつに拾い物だ」
龐統の、あまり者、という倣岸な言葉に、偉度は殺意にちかい怒りを燃え上がらせたが、すぐに自制した。
龐統は岸辺のそばに従者を数人待たせているほかは、自身は丸腰で、偉度のまえにある。
これを殺そうとおもえば、いつでも殺せる。
従者が斬りかかってこようと、難なく退けられる自信があった。
そうしない、いや、そうできないのには、理由がある。

「江夏の劉公子には、わたしから『礼状』をしたためておく」
莫迦な。
偉度はそう思ったが、口にはしなかった。
代わりに、こう言った。
「貴方は劉公子をずいぶん侮っているんだね。もしもそのような意味不明の礼状を受け取ったなら、いかに人のよい劉公子とて、これはおかしいと怪しまれる。劉予州に相談するかもしれないね」
精一杯のイヤミのつもりであったが、しかし龐統は、悠然と笑みさえ浮かべながら、あっさりと切りかえしてきた。
「つまりだ、『そうしたら、あんたが公子のそばにつけているっていう『刺客』が捕まってしまうかもしれないよ』と、そう言いたいわけか。
残念だが、壷中という組織そのものを作ったのが、そも亡き劉州牧と、われら豪族であることを忘れてはいないか」
「なにが言いたい」
偉度が目を尖らせると、龐統は、にやり、と笑った。
「荊州を守るための組織としての壷中。この壷中の人間を育てるための隠し村は、義陽だけにあったのではない。おまえの知らない弟妹、いや、兄姉たちもいる、ということだ。
壷中はなくなってしまったが、そこにいた人間がこぞってこの世からいなくなったわけではない。
世間に顔向けできぬ仕事に一度でも手を染めた者は、容易に陽の元にはもどれない。それは、おまえが一番よく知っているだろう。
おなじように寄る辺のない者を、わたしが拾ってやって、その力を発揮させてやっていることの、なにがいけない?」
「発揮かい。うまいことをいうものだね。利用のまちがいじゃないのか」
偉度が噛みつくと、龐統は、鼻を鳴らして、吐き捨てるように言った。
「なにを言うか、娼妓まがいの薄汚いねずみの分際で。そも、わたしと対等に口を利こうとする、その愚かさ自体がおこがましい。
こうして身に合った仕事を与えられているだけでも、ありがたいと思え」
「望まぬものを与えられて、喜ぶ者など、どこにいる」
怒りを押し殺して偉度がいうと、龐統は、目を細めて、唇をゆがめた。
「青い言い分だな。おまえはもしや、孔明に擦り寄ることで、おのれのこれまでの行ないを打ち消して、人並みにもどれると勘ちがいを起こしているのではないか。
いかにおまえが士大夫の出であろうと、壷中の人間であったことに変わりはない。樊城でのおまえのみだらな行ないを、公にしてもよいのだぞ」

偉度は、佩いていた剣の柄をぐっと握り締めたが、しかし、抜き放つことはできなかった。
龐統は周瑜の食客。
これを斬り殺したなら、孔明の立場が悪くなる。
劉備とともに、孔明を代表として送り出した、劉琦の立場もそうだ。

龐統の蔑みを一身に受けながら、偉度は必死に耐えていた。
耐えながら、自分が、そして同じ境遇に突き落とされていた子どもたちが、どれだけ日々を屈辱と苦悶のなかに身を置いていたか、知ろうともしない男を、はげしく憎んだ。
この男が今日まで享受してきた、その平和の日々は、自分たちの犠牲があったからこそ成り立っていたという事実を、この男は理解していないのである。

「花安英よ、そうはいっても、おまえの細作としての才覚は、たいしたものだ。
おまえが孔明のとなりにいても、すぐにその正体を暴露せずに、黙っていてやったのは、おまえの才覚を買っているからなのだ」
龐統のことばが、果たしてイヤミなのか、それとも本心なのかを偉度は探ったが、おそらく両方だろうと結論した。
たしかにこの男は利巧なのかもしれない。
が、一方で、了見がせまくもある。
この男にとって、壷中の子たちや孔明も含めた、世の中のほとんどの人間が、利用すべき愚か者なのだ。
世間での無用な摩擦を回避するため、好人物を装う狡猾さ。
こういうのを賢いというのなら、わたしは愚か者でいいさ、と偉度は、軽蔑のなか、思った。

「おまえはこれより、孔明のもとへ戻れ。そして、あれの動きを、随時、わたしに報告せよ」
「その報告は、どうせ周都督に行くんだろうね」
犬が、と、偉度は心のなかで付け加えた。
龐士元が、曹操の南下の噂がのぼる以前から、江東の士人と文通をしていることはわかっていた。
劉表はそれを警戒し、龐統側に壷中の人間を近づけていたのである。
ところが、樊城をめぐる混乱によって、その壷中の人間の行方はわからなくなっている。
龐統が、ほぼ正確にこちらの全体をつかんでいる、その余裕ありげな様子からして、龐統が、なんらかの手段でもって、自分に張り付いていた壷中の人間を、うまく味方につけたのは、あきらかであった。
龐統のそばについていた壷中の人間と、偉度とは、出身の村がちがっていたので、それがだれであるかはわからない。
子供たちが連携を深めすぎて、自分たちに刃向かうことがないようにと、壷中の大人たちは、よその村の仲間のことを、最低限にしか知らせないようにしていたからだ。

「周都督にとって、孔明はどうもいちいち癇に障るらしい。
魯子敬が諸葛子瑜を説得して、なんとか自分たちの側に下るようにと勧誘させに行ったようだが、かえって逆効果であったようだな」
「魯子敬は単純すぎるんだよ。兄弟だから、通じ合うものがあるんじゃないか、なんて、幻想さ」

同じ血を分けた人間だからこそ、憎しみが倍増する、ということもあるのだ。
偉度は、昨日の、兄と対面したあとの孔明の様子を思い出していた。
偉度が知るかぎり、諸葛孔明という人は、厳しくも優しい姉と、のんびり者の弟と、頼りになる同門の兄弟子らにかこまれて、悠々と遊学をしている人物、であった。
江東に兄がいる、という情報だけは知っていたが、ここまで確執が深いとは、想像もしていなかった。

腹違いの兄弟との確執。
あのひとも、自分と同じ苦しみを負っている人だった。
思いを馳せる偉度の横で、草原のうえを駆ける風を目で追いながら、龐統は言った。
「こじれにこじれたようだな。諸葛子瑜が孔明の庵を訪ねたあとに、周都督の屋敷に来たのだが、なぜ説得できなかったのかと、さんざん嘲弄されておった。
だが、わたしに言わせれば、孔明を頭を押さえつけるようにして屈服させようという、その考え自体がまちがっておるのだ。
あれは力で向かえば、反発してくる。情で訴えたほうが、はるかに易い」
「あんたは、司馬徳操の私塾では、ほとんど諸葛孔明と接点がなかった、と聞いていたけれど、ずいぶん詳しい口ぶりだね」
それはイヤミのつもりではなかったが、偉度が思いもよらなかったことには、それまで愚弄の表情ばかりを浮かべていた龐統から、はじめて余裕がなくなった。

18へつづく
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