飛鏡、天に輝く
十一
「劉予州の軍師」
と、孫権は、はるか彼方を見やるようなまなざしから、ふたたび焦点をあわせて孔明の顔をまっすぐと見る。
その表情は、最前の、不機嫌でやつれた様子とはちがう。
無表情ではあるが、押し殺している感情のなかに、あきらかに熱が感じ取れる。
「劉公子は、貴殿のことばを聞いて、命を長らえた。その手柄を鼻にかけて、今度はわたしを助けようという腹積もりか」
「そのように不遜なことは」
思っていない、と言い終わらないうちに、孫権は、孔明に、じっとまなざしを当てたまま、つづける。
「貴殿がどのような腹積もりであろうと、この際、どうでもよい。忌憚ない貴殿の意見を聞きたい。が、そのまえに」
孫権は、そこで言葉を切ると、孔明の背後、ちょうど部屋の入り口の柱の影に、ひっそりと畏まっている趙雲のほうを見た。
「そこな男、下がれ。わたしがこれからする質問と、そしてこの軍師の答えは、だれにも聞かれたくはない」
唸るような低い声ではあるが、孫権の声はよくとおる。
静まりかえった部屋のなかを突き抜ける、重々しいその命令に、しかし趙雲は、顔を上げると、まるで怖じる様子もなく、まっすぐと孫権のほうをねめつけて、言った。
「孫討虜将軍に申し上げる。それがしの退去をのぞまれておられるのであれば、まず先に、この部屋に隠れている影の者たちを、先にお下げいただきたい。
それがしは、わが主公より、軍師の命をお預かりしている。
いかに貴君のご命令であろうと、ここに影の者たちが侍っている以上は、退くわけにはまいらぬ」
孔明は、孫権が、暗殺をおそれて、なにがしかの護衛はつけているだろうと予想はしていたから、趙雲が指摘した『影の者たち』の存在そのものにはおどろかなかった。
だが、どこに隠れているのか、わからないというのは落ち着かない。
今度は、趙雲と孫権が、たがいに目線を戦わせる番であったが、これについては、すぐに勝負がついた。
孫権のほうが先に目線を外すと、唇をゆがめて苦笑し、目の前の机に乗り出すような格好のまま、部屋の全体を見やって、言った。
「聞こえたか。かまわぬ、みな、下がれ」
とたん、それまで静かなたたずまいを見せていた部屋のあちこちで、一斉になにかが動く気配がした。
姿は見えないものの、はっきりと、日の光に追われる虫のようないきおいで、なにかが去っていく気配がする。
孫権を守り、そこかしこに隠れていた者たちが、部屋から退出したのであった。
「おまえの番だ」
孫権がふたたび言うのを、孔明は、ちょうど孫権と趙雲の目線を遮るように移動した。
「お待ちください。この者がこの場に留まることは、お許しください」
「なぜ。その男は貴殿の主騎。常山真定の士大夫の出だというが、あいにくと、その名をわたしは知らん。
いや、名が知れていたとて、わたしはその男の退出を命じたであろう。劉予州の軍師、わたしは貴殿と内密で話がしたいのだ」
「誤解があるようでございますな。たしかにこの趙子龍は、わが主騎でございますが、それだけの者ではございませぬ。
この者はいわばわたしの鏡とも言うべき者。万が一、わたしになにかありました場合は、この者が、わたしの代わりに、為すべき事を果たします。わたしの思うこと、そしてわたしの目指すもの、そのすべてはこの者と、ほとんど代わりがございませぬ。
孫将軍には、ここに趙子龍という名のわたくしの主騎がここにいる、というよりも、諸葛孔明を映す鏡がひとつここにあると思っていただきたい」
「鏡、とは」
孫権からすれば、孔明のことばは思いもかけないものであったらしく、身体をずらして、孔明の姿に隠れた趙雲のほうを見やる。
それに合わせて孔明も趙雲のほうを見たが、あくまで冷徹さをよそおってはいるものの、その目の動き方に、あきらかに動揺が見てとれた。
といっても、それは、趙子龍という人物に、すっかり慣れ親しんだ孔明であるから、読み取れる動揺である。
趙雲のほうとしても、孔明のことばは、思いもかけないものだったのだ。
孔明からすれば、主騎としての趙雲をこの場に留めるための、嘘でまかせを口にしたわけではない。
もし自分になにかあった場合、趙雲はおそらく、自分が果たそうとしていた目的を代わりに果たしてくれるであろうと予測してのことである。
孔明は、これまで出会ってきた人間のなかで、趙雲が、もっともおのれに近いと感じている。
ものの考え方、受け止め方、そして理想とするところ。じつによく似ている。
孫権に鏡、と言ったのも、いま思いついたことばではない。
万が一の場合、生き残るのがどちらであっても、たがいにたがいのなし得なかったことを果たせるようにしておきたい。
そのためには、なるべく多くの情報を共有しておいたほうがいい。
そう思っての、孔明の発言である。
「ふん、そこまで言うものを、あえて退出などさせれば、貴殿は臍をまげて、まともにわたしの問いに答えなくなりそうだな」
「もしも内密のお話が漏れることを心配しておられるのであれば、ご心配なく、口の堅さにかけては、わたくしよりも、子龍のほうが、はるかに勝っておりますゆえ」
「そのような面構えだな」
孫権は、気だるそうに、趙雲に、その場にいてよい、と手ぶりで示した。
「なぜだか人はつるみたがる。わたしの兄も、公瑾どのと、つねにともにいないと落ち着かないようだった。兄たちの場合は、真に純粋な友情から、ともにあろうとしたのだろう。
だが、たいがいの人の群れというものは、利害だけで結びついているものだ。
この柴桑にいま集っている者たちは、ほとんどがこの江東に古くから根づく豪族や氏族たちだ。
かれらの中には、つい最近まで、互いに血で血をあらう戦いをくりかえしていた者たちさえいる。
つまり、わたしは、そのような寄せ集めのなかにいるわけだ。
さきほど、貴殿は曹操が寄せ集めの軍であるからおそろしいことはないと言ったが、われらとて、内容だけすれば、そう差はない。
貴殿はよそ者だ。しがらみも持たぬゆえ、正直に答えることができるはず。
曹操が決して恐ろしいばかりの相手ではない、ということはよくわかった。
が、それに対するわれらは、果たして老練な相手に勝つことができる力を持っているものか、見て、感じたままを、正直に答えて欲しい」
孔明は、孫権が、これほどまでに塞ぎこんでいる理由の、そのもっとも奥底に隠されている部分に触れた気がした。
生きるか死ぬか。
それだけではない。
いま、孫権の内部では、若さゆえの悩みがくすぶっていて、しかしそれをだれにも相談できずにいるのだ。
よそ者でしがらみを持たない人間ならば、そして、劉表の長子に助言をあたえた者ならば、あるいは、と思っているのである。
しかし、危うい問いでもある。
たしかに自分はよそ者で、さらにしがらみを持たない人間であるが、孫権のこの問いに答えることにより、ここから無事に江夏へ戻れる可能性が低くなるのも予想できる。
どうするか。
孔明は、おのれをまっすぐと見つめる孫権を、あらためて観察する。
引き結ばれた口許に、真摯なまなざしをしている。
たとえ孔明から答えが引き出せなくても、なにがしらの答えの欠片を得ようと、なにひとつ見逃すまいとしているようだった。
いかにも将来に希望をもたせる君主らしい容姿のその下で、それほどに、この感じやすい青年は、ひとりで煩悶していたのだろう。
人が人を動かす、その原動力でもっともつよいものは、やはり同情なのである。
孔明も、そうであった。
「では、正直に申し上げましょう。ただし、わたくしのことばは、決して漏らさずにいただきたい」
無理な約束だろうなと思いながら、孔明は口にする。
自分のとなりには、魯粛がいる。
陽気で人懐こい男であるが、単純ではない。それなりに思惑を持って動いている男だ。
おそらく、これから自分が口にすることは、魯粛を困惑させるものになるだろう。魯粛は動くだろう。最悪の場合、敵にまわるかもしれない。
それでも、孔明は先をつづけた。
「江東は、先の黄祖との戦において見事な勝利をおさめ、兵卒の士気も高いまま。対する曹操は先ほど説明したとおりのありさまで、まともにぶつかれば、江東のほうが、まずまちがいなく勝つことでしょう。
ただし、この士気を維持することができる人物が、兵卒たちをまとめつづけることができれば、の話でございます」
「どういうことだ」
唸るように、先をうながす孫権に、孔明は答えた。
「江東には、きわめてすぐれた指揮官はおりますが、君主が存在しておりませぬ。
戦は、ただはじめればよいというものではございませぬ。はじめたあとも、さまざまに問題が起こりましょう。人と人との問題、物資の問題、流通の問題、さまざまなことが起こります。
すぐれた指揮官はこれを見事に捌きましょう。そして人々は、かれを賞賛し、崇めます。指揮官の仕える君主の名も、ともに崇めることでしょう。
しかし、江東の現状を見ますに、君主の存在そのものの印象が弱すぎます。さらにはっきりと申し上げますならば、いまの孫将軍は、まさに添え物と同じでございます」
となりで魯粛が息を呑み、そして背後にいる趙雲がこわばったのが、気配でわかる。
だが孔明はつづけた。
孫権が、なにを聞きだしたいのか、もうはっきりわかっていた。
「将軍が先ほどおっしゃったとおり、いま柴桑に集っている者たちは、江東の、さまざまな問題をむしろその身に体現している者たちの集りでもあります。
この危機にあたり、その代表者たちが、将軍を君主と仰いで従っている。そこは動かぬ事実でございます。
けれど、将軍ご自身が、いま迷いのなかにおられるために、場は混乱しております。そのため、人は迷い、苛立ち、そして孫将軍を疑いはじめます。果たして、この人物についていってよいものなのかと。
疑惑と苛立ちが昂じ、それでもなお、具体的な答えが引き出せない状態がつづくと、人々は、やがて焦れて、勝手に動き出すものです。
いままさに、江東の状況がこれなのでございます。
江東が混乱しているのは、なにも曹操ばかりが原因ではないと、わたくしは見ております」
「待った、いくらなんでも不遜に過ぎるぜ」
と、魯粛が孔明のことばを止めようとすると、孫権は、身を乗り出した姿勢のまま、孔明に視線を向けつつ、遮った。
「よい。聞きたいのだ。みなの不安の原因は、わたしにあると貴殿は言うのだな」
「わたくしが改めて指摘せずとも、孫将軍はわかっておられる」
切り返すと、孫権の表情が、素直に曇った。
「そうだ、わかっている。わかっているのだが」
「わかっている。そして、おのれの器が、すでに天下に名乗りをあげるに十分なほどに出来上がりつつあることも、わかっておられる。
けれど、気を遣ってしまって思うように動けない」
「そう、そうだ。そのとおりなのだ」
と、孫権は、孔明のことばに引き込まれるようにして、うなずいた。
その目は、はっきりと、理解者を得たことのよろこびに包まれていた。
「このことを踏まえて、さきほどの意見に率直に付け加えさせていただきましょう。将軍には、三つの道がございます」
「三つ?」
いまさら、なんだ、というふうに、孫権は、はっきりと顔をゆがめてみせる。
逆にその表情は、すでに孫嫌のなかでは、降伏か、それとも開戦かの意思が固まっていたことを示していた。
「降伏する道、戦う道、そしてもうひとつ、逃げる道でございます」
「む」
孫権に降伏するように勧めるものはいても、逃亡を勧める者は、これまでなかった。
内心ではそう思った者もいたかもしれない。
しかし、表立って口にする者は、孫権の周囲に存在しなかった。
孫権はまだ若く、そしておのれの器について、まだまだ迷いを持っている。
しかし江東の家臣たちというものは、地縁によって深くつながり、さまざまに複雑な事情を抱えている集りで、心より呉家に忠節を誓っているわけではない。
まず、保身ありきなのだ。
だから、おのれの立場を悪くする可能性のあることばを、あえて孫権のために告げられる者がいなかった。
後見人を自負する張昭さえも、それができないでいるのだ。
孫権は頂点に奉られながらも、一方で、孤独に追いやられているのである。
「逃げるとは、どこへ」
「交州でございます。ご一族とともに交州に逃げればよろしい」
「江東はどうなる」
「ご心配なく。おそらくは、周都督が残り、将軍の代わりに命がけで曹操と対峙されることでしょう。運良く勝つことができたなら、将軍はまた、江東に戻ってこられると良いのです。
周都督ならば、おそらく将軍がいなくとも、りっぱに江東を守り抜けることでございましょう。われらも、周都督に、喜んで尽力させていただく所存でございます」
とたん、孫権は無言で立ち上がった。
立ち上がり、目を大きく見開いて、じっと孔明を見る。
しばし、そのまま、だれもが身動きも取れずにいた。
やがて、孫権は、荒く息を吐くと、口をヘの字に曲げたまま、なにも言わず、そのまま黙って部屋を立ち去った。
そのあとを、孔明と孫権のやりとりを聞いていた魯粛が、あわてて追いかけて行った。
孫権と魯粛のふたりの、廊下を行く足音が遠ざかると、孔明は、肩から力を抜いて、大きく息をついた。
いまになって、こめかみを中心に、じわりと汗が浮き上がる。
相当に緊張していたようである。
懐にしのばせていた布で汗を拭こうと動いたのをきっかけに、背後に控えていた趙雲が、孫権の消えたほうを気にしながら、声をかけてきた。
「いろいろ言いたいこともあるが、いまは後回しだ。逃げるぞ」
「逃げる? なぜ」
孔明はふしぎに思って、趙雲を振りかえった。
趙雲は、自分をとりまく空間の、あちこちに目線を配りながら、らしくもなく、そわそわとしている。
「子龍、いずれは江東から出なければならない。あなたに謝らねばならないが、いささか出るには苦労がともなうかもしれないな」
「まったくだ。なぜあそこまで怒らせた」
「怒らせねば、孫将軍の意思は固まらなかっただろう」
「だからといって、逃げろとまで言うか。あれは自分からどんどん面子を潰していけ、笑い者になってしまえと唆したようなものだぞ」
「ああ、そちらのことか」
言いながら、孔明はおのれの汗を拭い、そして、冠からはみ出した毛を整えつつ、答えた。
「孫将軍が怒ったのは、わたしに莫迦にされたと思ったからではない。あれは、一種の、そうだな、良薬は口に苦しというか、よく利く薬とわかっていて口に含んでみたものの、やはり半端ではなくまずかったので、腹が立ったが、そのぶつけどころがわからなくて、さらに腹を立てているというか、そんなところだ」
「なんだ、それは」
趙雲からも、次第に緊張が解けてきて、孔明のことばに、怪訝そうな顔を向けてくる。
孔明は、いまは、自分たちが安全であることがわかっていたから、安心させるべく、にっこりと笑ってみせた。
とたん、趙雲が、なにを笑うか、というふうにうろたえる。
そのうろたえぶりが面白くて、孔明がまた笑うと、今度は趙雲は、はっきりと不機嫌になった。
「なにが楽しい。緊張のあまり、おかしくなったか」
「ひどいな、おかしくなぞなってない。けれど、緊張がほぐれておかしくなっている部分はあるかもしれない」
趙雲は、眉間のしわを引っ込めて、真摯な表情にもどり、たずねてきた。
「つまり、開戦をうながすのに成功したというのか」
「十中八九、まちがいあるまい。魯子敬が追いかけていったが、あれはもともと開戦派だし、問題はあるまい」
「大丈夫であろうと、なぜわかる」
「最後の一押しをするのに成功したからだよ」
抽象的な孔明のことばに、趙雲の顔がふたたびしかめられる。
孔明は、歌うように、上機嫌でつづけた。
「子龍、孫将軍は、正直者がやってくるのを、ずっと待っていたのだ。
道は三つ。開戦すれば生き残り、降伏すれば死ぬ。そして逃げれば、みじめな人生を送ることになるだろうと、そう教えた。
江東の人間では、周公瑾に遠慮があって、だれもそこまで言えなかった。だが、わたしはよそ者だ。よそ者であるから、言えたのだ」
「俺にもわかるように説明してくれ。孫将軍と、周都督はうまくいっていないとでもいうのか?」
「そうではない。上手くいっているのだ。けれど、それはあくまで、いままでは、ということなのだよ。
孫将軍の様子を見て、確信した。周公瑾は、たしかに英雄だ。華やかで、才気にあふれ、人の心を惹きつける。だが、その輝きは、あまり強すぎて、人を萎縮させるものなのだ。
ことばはきついが、狭量なのだろう。誇りが高すぎて、おのれと並び立つ者、あるいは上に立つ者を、知らず、排除する。表面上は慇懃に振る舞えても、自然と相手を落ち着かなくさせる、そういう部分がある人物なのだ」
「昨日のおまえは、それを感じ取っていたのか」
「わたしもそうだが、孫将軍も、同じように感じていたのだよ。
周公瑾は、あまりに非の打ち所がない。そんな人物を前にして、たとえ君主と崇められていても、よほどの鈍感でないかぎり、不安に思わないはずがないだろう。
孫将軍は、表情に乏しく愚鈍に見えるが、あの無表情さは、繊細な心を隠すための仮面のようなものだ。あの青年は、とても不安なのだよ。自信がないのだ。
父の仇である黄祖を討って、ようやく自信をつけてきたところへ、今度は曹操だ。なんとかまとめたはずであった家臣たちは、一斉に、自分たちの都合ばかりわめきはじめた。
ある者は張子布のまわりに集って降伏をささやき、ある者は周公瑾のまわりに集って開戦を説く。
その混乱の中で、孫将軍自身が内面に抱えていた問題も噴出したのだ。
誇り高く、気性のはげしい人物だ。もともと気持ちは開戦に動いていた。
けれど、ひとつ、かれのなかで大きな問題があって、それを解決できずにいたのだ。
ほんとうに、自分は君主の器なのか、そして、このまま、周公瑾に遠慮をつづけながら、ただ言われるがままに動いていればよいのかと」
「孫将軍は、周公瑾を煙たがっている?」
「煙たがるというより、恐れているのだろう。
孫将軍が凡者であれば、周公瑾は頼もしい味方、そして、周公瑾にとっても孫将軍は、よき君主となる。
けれど、皮肉なことに、周公瑾が守り、育てた孫将軍もまた、英雄の器なのだ。両雄並び立たず、というだろう。
周公瑾の気性からすれば、相手が君主だからといって、容易に折れることはなさそうだ。いずれは対決することがある。孫将軍は、それをうすうすと感じ取っていた。
だが、はっきりと、そう指摘し、ついて来るものがいなかった」
「そこをおまえが指摘した」
「そう。どちらにしろ、孫将軍が英雄として生きるためには、もう、まえに進んで戦うほかは、道は残されていない。
いまが、孫将軍にとっての正念場なのだ。周公瑾が主導で動いていた、これまでと同じであってはいけない。
孫将軍が決断し、孫将軍が指揮をとり、そして戦いに勝つ。
もしそうではなく、いままでと同じように周公瑾主導で動くのであれば、これからさき、孫将軍の印象は弱いものとなるだろうな。それほどに、周公瑾という人物は、強い光を放っているのだよ」
趙雲は、しばらく黙っていた。
黙って、孔明のことばを吟味しているのである。
孔明は、こういう趙雲の、慎重な面をとても気に入っている。
「しかし、おまえ、これは危ういぞ」
「そうだな、わかっている」
孔明は、笑みを引っ込めて、うなずいた。
「いま、孫将軍と周公瑾を仲違いをさせるつもりはないし、むしろ仲違いをされては、われらも困る。それは孫将軍もわかっているはずだ」
「孫将軍と周都督の橋渡し役が必要となるな。周都督を抑えつつ、孫将軍を立てることができる人物だ」
「そう、我らで言うところの、あなたのような人物が必要だ」
屈託なく、孔明が笑いながら言うと、趙雲はまたまた表情を渋くして、声を落として言った。
「ついでだから尋ねるが、いつ、俺がおまえの代役をつとめることに決まったのだ。
知っているだろうが、俺はこれまで武芸一辺倒で、文官のまねごとをしたことなど一度もない。
おまえを守り、無事に江夏に戻すのが、俺の役目で、おまえの代わりをつとめるためにここにいるのではないぞ」
「けれど、なにかしら不慮の事態が起こったら、あなたはわたしの代わりを果たすしかないだろう。ここには、わたしとあなたの二人しかいないのだから。
それに、文官のまねごとはしたことがないと言い切るけれど、そこまで時勢を読めるのであれば、まるで問題ないよ。
もともと、読み書きは得意ではないか。暗誦だって、わたしより、よほどすぐれていると聞いたけれど」
「だれが言った」
「主公が、『子龍は、文字がだいすきらしく、文書の一言一句をまちがえずに覚えていられる特技を持っている』とおっしゃっていた」
「だいすきじゃない」
「嫌いじゃないだろう。文字をそう邪険にするな。文字が聞いたら気を悪くするぞ」
「文字を人のように語るな。とうより、遊ぶな」
趙雲は孔明をたしなめて、それから、まったく緊張感のない、とぶつぶつと言う。孔明はその様子を面白くながめながら、言った。
「ゆうべ、あなたが言ったではないか。我らは主公の代わりに江東にいるのだ。
どちらかが倒れようと、残ったひとりが主公の代表でありつづけようではないか。それでは不満だろうか」
「不満というか、唐突すぎる。おどろいた」
「それは謝る」
「まあいい。ともかく、これからどうなる」
「同盟を正式に組む。それから、様子を見る」
「孫将軍か、張子布か、それとも周都督のか」
「主に周公瑾だろうな」
「いまの流れでいけば、孫将軍と周都督との橋渡し役がだれになるかで、こちらの対応も変わるわけだが」
「その役目は、俺がすることになったよ」
割り込む声に孔明と趙雲が顔をあげると、そこには、うんざり、といった顔をして、腕を組んでいる魯粛の姿があった。