飛鏡、天に輝く
九
走り去った偉度の背中を、しばらく孔明は見つめていた。
その横で、魯粛が、なぜだか決まり悪そうにしている。
正直な男である。
孔明は鋭敏なところをみせて、偉度があれほど沈み込んでいるのは、魯粛の屋敷のなかで、なにかあったのであろうと見当をつけた。
そして、魯粛はそれを把握しているのだ。
魯家の別荘だという、その水辺の屋敷は、ともかく広い。
部屋の数がいくつあるのかもわからないし、家人が何人仕えているのかもわからない。
魯粛が連れてきている傭兵たちも、この屋敷に食客として泊まっているようである。
偉度も、聡明そうに見えて、あれでなかなか短気なので、そのなかのひとりと喧嘩でもしたのだろうか。
「わたしは昨夜は早く休んでしまったので、迂闊にも気づかなかったのであるが、なにか揉め事でもあったのだろうか。
もしわたしの主簿がそれに関わっているのであれば、わたしから謝罪させていただきたいのだが」
「いや、揉め事などないさ」
と、魯粛は目を合わせることなく、言う。
率直な男が、やはりおかしいな、と、孔明は怪しみながら、目線を外さずに、たずねた。
「あの子は、おまえ同様にわかりやすい子でな、あんなふうに落ち込むのは、まちがいなくなにかがあったからにちがいないのだよ。
このような情勢で、夜の街の明かりに惹かれてふらふらと出かける子ではないから、まちがいなく、この屋敷か、さもなくば、この近辺でなにかあって、あんなふうに沈み込んでいるにちがいないのだ。
なにか知っているな。答えろ」
「単刀直入に、ずばずばと来るお人だね」
呆れながらも、ようやく魯粛は孔明と、まともに目をあわせた。
「いま、俺の屋敷には、あんたたちのほかに、荊州から逃げてきた士人が何人かも泊まってもらっている。
そのなかで、あの坊主、ちょっとした知り合いと顔をあわせたらしいのだよ。
あの坊主は、壷中の人間だろう。顔をあわせれば気まずい思いをする人間が、何人かいるはずだぜ」
「あの子が壷中だなどと、なぜ知っている」
しらばっくれて、孔明が、まなざしを冷たくして言うと、魯粛は肩をすくめてみせた。
「おいおい、いまさら誤魔化しっ子なしだぜ。劉州牧の周辺は、俺だってあらかた調べて、それからあんたに接触したんだ。壷中のことだって知っているさ。
あの坊主が、樊城では花安英と呼ばれていたことや、どんな評判があったか、壷中のなかでも、かなりの腕利きだったこともわかっている」
「昔のことだ」
「たった一ヶ月かそこらの『昔』だろ」
「昔は昔だ。江東と荊州では、時の流れがちがうらしいな」
「あんたみたいにせっかちな人間は、江東には少ないんでね」
「それはよろしい。その泊まっている人間とは、だれだ。
わたしの知り合いかもしれぬ。ご挨拶をさせていただきたいな。紹介してはもらえぬか」
「そんな暇はないぜ。朝餉を食べて、それからすぐに出立だ。
孫将軍に貼り付けていたうちの人間が調べてきたのだが、孫将軍のそばには、例のじいさん連中が、朝から晩まで牡蠣みたいにぴったりへばりついているらしい。
孫将軍も、さすがにうんざりしていて、だいぶ弱気になっているようなのだ。
あんまり悠長にはしていられないのさ。すぐに支度に入ってくれ。
うちの客には、あとであんたが帰ってきたら、引き合わせるよ」
「よろしい、では、あとで」
無事に帰ってこられたなら、だな、と孔明は、おのれのことばに、心で付け足した。
朝餉をとって、それから身支度をととのえたあと、孔明は、趙雲とともに魯粛の案内にしたがって孫権の駐留している屋敷へと向かった。
その門の周辺には、すでにびっちりと隙間なく馬車が並べられている。
「田螺みたいだな」
と、黒光りする馬車の傘をながめて魯粛が笑ったが、孔明も趙雲も笑う余裕はなかった。
魯粛の馬車は、さすが裕福な家の持ち物だけあって、ほかの家臣たちのそれよりも、かなり立派な四頭立てであったが、一方で悪目立ちをしている部分もあった。無位無官の魯粛の派手な登場に、先に到着していた家臣たちからは、揶揄まじりのひそひそ声が聞こえてくる。
孔明のことも、昨日の宴での振る舞いが、もう広がっているらしく、向けられる目線は、けして好意的なものではない。
それでも、昨日ほどには、孔明は萎縮することもなく、堂々と振る舞えた。
やはり、趙雲の励ましの力が大きいのである。
すこしうしろをついて来る趙雲のほうをちらりと見ると、これは、向けられてくる孔明への敵意に対し、それを跳ね飛ばすように、ぎらぎらとしたまなざしを、周囲の者に向けている。
もし孔明が逆に江東の人間であったなら、こんな野生の虎のような双眸をもつ武人を、わざわざ敵に回したいなどとは思わないだろう。
なるべくなら、丁重にお引取り願いたいと思うはずである。
よく気が付くし、観察もするどいし、加えてこの仕事ぶり。
ほんとうに、この人は、主騎になるために生まれてきたような人だ。
打ち合わせどおり、周瑜は遅れてくることになっており、家臣たちのなかに、その姿は見えない。
と、同時に、兄の姿を探すのだが、それらしき人物を見つけることはできなかった。
どこかにいることは、まちがいないのだ。
「魯子敬どの、待たれよ、どちらへ行かれる」
廊下を進む魯粛に、声をかけてくる者がいる。
見れば、ひときわ重厚な雰囲気をかもしだしている老爺で、顔は苦虫を噛み潰している最中、というふうに、苦々しくゆがめられている。
つぶらな目に、太い眉毛が特徴的である。
髪は白くならずに禿げる体質であるらしく、冠から見える髪の部分は、なんとか辛うじて結っている、というふうで、そこがこの人物を、どこか愛嬌のあるものに見せていた。
これが張昭であろうと、孔明は見当をつけた。
なるほど、たいへん頑固そうであるが、それも責任感の強さの裏返しであろう。
難物ではありそうだが、噂よりも、ずっと誠実に見える。
だが、その背後にいる文官たちは、ひと癖もふた癖もありそうだ。
私利私欲に凝り固まった、ずる賢い集団が、虎の威を借るなんとやらで、張昭のうしろに隠れているようだ。
なるほど、いろいろと事情があるらしい。
が、この風雲急を告げるときに、小さな事情に振り回されている場合ではないのだ。
まずはここを突破せねばならない。
「どちらもこちらも、この屋敷に集っている人間の目的のほとんどは、孫将軍にお会いすることだろう。俺がなにをしようかなんてのは、見ればわかるのじゃないかい」
魯粛がなかばおどけて言う。
こうした物言いが、どこか許されるところが、この男の得なところである。
が、たいがいの者なら許したかもしれないが、孫家のご意見番を自負する老人には通用しなかった。
目を三角にして、張昭は言う。
「無位無官のくせして、なにを言い出すか。貴殿が魯家の当主であるからこそいままで見逃してきたが、いまは天下を揺るがす一大事の真っ只中にある。
孫将軍に軽い気持ちで会いに来られては、迷惑というものであるぞ」
「ただ顔を見に来たわけじゃない。俺はこの」
と、魯粛は、ぐいっと親指でもって、孔明のほうを指した。
「劉予州の軍師、諸葛孔明どのを、同盟の使者としてお連れしたのだ」
とたん、張昭をはじめとする文官たちは抗議の声をあげて、魯粛の行く手を阻んだ。
「勝手なことをしおって! だれの差し金だ! なにゆえ、劉予州の軍師を江東に連れてきた!」
「だれの差し金でもない。俺の考えたことだ。江東の未来を真剣に考えれば、いまは江夏の劉公子、そして劉予州と手を組み、曹操に対抗するのが一番だ。そのためには、まずは同盟だろう」
「同盟なんぞしてみろ! そも、劉予州は曹操から目の仇にされている男ぞ! われらも巻き添えを食って、どんな目に遭わされるか!」
そうだ、そうだと抗議の声が吹き荒れて、ほかの家臣や、武人たちも、いったいなにごとかと、目線をあつめてくる。
だが、魯粛は怖じることなく、にやりと不敵に笑ってみせる。
その笑みに、張昭がうろたえて口を閉ざしたのを見逃さず、魯粛は畳み掛けるようにして言った。
「そこまで曹操が恐ろしいとは、あんたもずいぶん腰抜けになったものですな。
あんたならば気づいているだろうが、いま、この江東の家臣のあいだには、曹操の細作によって、さまざまな虚言妄言が飛び交っているありさまだ。
だからこそ、俺はこの目で曹操に飲み込まれようとしている荊州を見てきた。曹操は、たしかに大軍勢だ。だが、その数は決して言われているほど多くはない」
「百万だと聞いたぞ!」
「ありえませぬな」
と、孔明がこれをすぐさま否定してみせた。
「わたしが調べたところによりますと、魏の戸数はおよそ66万戸。みなさまご存知のとおり、兵法いわく、10万の兵を動員するためにはこれを支えるのに必要な戸数は70万戸。
それを思えば、曹操が動員できる兵数は10万に満たないのでございます。
これにたとえ荊州の兵卒を加えたとしても、とても百万には届かぬ数字でございます。
百万などという夢のような数字を持ち出すあたり、逆に曹操の余裕が、われらが思っている以上にないものと見てよろしいのではございますまいか」
孔明のことばに、それまで魯粛のほうばかり見ていた張昭が、はじめて気づいたというふうに、目を向けてくる。
はっきりとどう思ったのかはわからないが、孔明は、この実直な老人が、すくなくとも自分には悪印象を持たなかったらしいことだけは判断した。
「劉予州の軍師の、諸葛どの、とか申されたか。はて、たしかおなじ姓を持つものが我らのなかにもおったはず。ご親族かなにかですかな」
と、張昭は、孔明を凝視したまま、たずねてくる。
これほどじっくり見つめてくるのは、老眼なのか、それともめずらしいのか。
たぶん両方であろう。
「孫将軍にお仕えしております諸葛子瑜は、わが兄でございます」
孔明が拱手してみせると、それまで剣呑だった場が、ほんのすこしだけやわらいだ。
「おお、左様か。これはご無礼つかまつった。わたしは張子布と申します。ようこそと歓迎したいところではあるが、あいにくと、このような事情でございましてな、なかなか思うように行き申さぬ」
「わかっております。どうやらお立場もさることながら、わたしとは、お考えもちがう様子。
張子布どのは、失礼ながら、孫将軍に降伏を勧めていらっしゃると耳にいたしましたが、相違ございませぬか」
「相違もなにも、江東に、これ以上の血を流させてはならぬ。ようやく黄祖を平らげたのだぞ。そこへ来て、今度は曹操だ。
民は疲弊し、平和を求めておる。孫将軍が真の君主であるならば、ここは降伏すべきであると、わたしはこう考えておる。
それが曹操の数が百万であろうと十万であろうと、こちらが圧倒的に不利なことにはちがいない以上、わたしの考えは変わらぬ。
遠路、荊州よりはるばると足を運んでくださった貴殿には申し訳ないのであるが、貴殿の主君に伝えて欲しい。
われらは平和を望み、戦は望まぬとな。たとえ貴殿らの力が加わったとしても、われらの不利は覆らぬ」
張昭の言葉には、しっかりと筋がとおっていた。
おのれの身の可愛さゆえに、降伏を訴えているのではない。
張昭の、その真摯な表情からも見てとれるとおり、民のことを思い、孫家の名誉を重んじての発言なのだ。
さて、この老人は数字を重んじて、平和を説いているわけである。
数字だけが目安ではないのだと説得し、論破するまではいかなくても、こちらにも理があるのだと、納得させるところまではいかねばならない。
誇り高い老人に対し、叩きのめすように言葉をぶつけるのではだめだ。
あくまで冷静に、論客として、説いたほうがよい。
「子布どののおっしゃるとおり、たしかに数だけで測れば、こちらが圧倒的に不利であることは、ちがいありませぬ。しかし、数だけが不利、有利を測る目安ではございませぬぞ」
「なんと?」
張昭は、器用に眉を上げてみせる。
魯粛が言っていたほどに、頑固で聞き分けのない人物ではない。
人の意見に冷静に耳を傾けることができる器量は、十分に持っているのだ。
これならば。
孔明は、張昭の目をまっすぐに見据えると、一気に述べた。
「曹操の兵数は、およそ十万弱。これに荊州の兵を加えても二十万あるかないかというところでございます。
が、もともと荊州の兵というのは、江夏あたりで当家と戦っていた兵をのぞいては、ここ十年ほどは戦も知らず、ただ調練に明け暮れていた、素人も同然の兵でございます。
さらに言えば、この荊州兵は、曹操のもとに組み入れられてから時間がほとんど経っておりませぬ。
荊州の者たちの心情をご想像くださいませ。たとえ降伏したとはいえ、兵というものはおそろしく暴虐に振る舞うもの。荊州兵のなかには、家族が掠奪にあったり、あるいは殺されてしまった者も含まれております。
いかに天下が覆ったからとはいえ、故郷を踏みにじった者と、容易に手を組み戦うことができましょうや。
さらにご想像いただきたい。もしわれらと孫将軍が手を組まれた場合、つまりは荊州兵は、かつての仲間と戦うことになるわけで、これで戦意が上がるはずがございませぬ。
そして、曹操の連れてきた十万の兵にしても、水上戦にかけては経験がとぼしく、荊州を併呑したあと、疲れ果てております。
曹操は戦上手でございますから、大事にしている青州兵を表に出すことはせず、おそらくは、いくらか水上戦に慣れている荊州兵を前面に出してくることでしょう。
先ほど述べた、戦意の乏しい兵を、でございます。つまりは、これが曹操の軍の真の姿なのでございます」
「ふむ」
張昭の表情が、思案している者のそれに変わった。
おそらくは、孔明の意見を頭の中で咀嚼しているにちがいない。
孔明のことばに、嘘偽りはない。
曹操は、狙い通りに動くはずだ。
青州兵は、曹操の最強の部隊であるが、馬術を得意とし、陸上戦において、はじめて輝ける兵である。
曹操はそれをわかっているはずだ。
おのれを天下人にまで押し上げた、この強力な兵を、わざわざ不慣れな水上戦に出すはずがない。
となれば、前面に出てくるのは荊州兵。
平和に慣れて経験にとぼしく、曹操に心服しきれずにいる。
そういう兵だ。
「貴殿は」
と、張昭が孔明にむけて口をひらいたとき、その背後にいた文官たちが、いっせいにわあわあと騒ぎ始めた。
「同盟を組みたいあまりに、嘘偽りを申しているに決まっている!
われらはたしかに曹操の軍が百万だと聞いた! せいぜい二十万だなどと、信じられるか!」
「曹操は稀代の戦上手であるぞ! 水軍とてたくみにあやつり、われらをたやすく打ち破るかもしれぬ。そ
うなった場合、われらは徐州の民のように、皆殺しにされてしまうかもしれぬ!」
「劉予州は、同盟を組んで、その影で、われらを前面に出し、こっそりそのあいだに、交州か益州にでも逃げる算段を決めているのだ、こんなやつを信用できるか!」
とたん、それまで沈黙をつづけていた魯粛が、大音声で怒鳴った。
「やっかましい! ぴーちくぱーちくと気の触れた鸚鵡のように大騒ぎしやがって!
なんだかんだとてめぇらは、曹操の細作に踊らされているだけじゃねぇか。
俺たちの言葉を疑うのなら、おまえたちが信じているその情報とやらを伝えたやつを、いますぐここに出してみろ!」
魯粛の啖呵に、張昭はもちろんのこと、その場の全員が、ぴたりと静まりかえった。
魯粛は、その大きな目で、ぎょろりと周囲を睥睨してみせる。
「孫将軍に会わせてくれ。いますぐだ!
俺はいままで、あんたたちを尊重して、孫将軍に会うのも控えていたが、もう我慢ならねぇ!
あんたたちなんざに江東を任せていたら、この地はめちゃくちゃになっちまう!
さあ、引継ぎをするのはだれだ?
魯子敬が、劉予州の軍師を連れてきたと、いますぐ伝えてくれ!」