飛鏡、天に輝く

長江のほとり、潘漳。

曹操がやってくる。
徐州からの難民を多く受け入れた揚州では、曹操の評判は、とかくわるい。
まるで怪物が押し寄せてくるかのような勢いで、恐怖に満ちた噂が囁かれている。
それは潘漳の市井のあいだでもそうであるし、兵卒たちのあいだでもそうだ。
しかも曹操の軍隊の数は、噂が勢いを増せば増すほどに膨れ上がる。
最初は十五万とか、十六万といわれたものが、どういう計算なのか、いまは百万というとんでもない数にまで膨れ上がっていた。
曹操の細作が、この潘漳にまで入り込んでいるのか。

周瑜は、そうした噂にも動揺せずにおられた。
それというのも、周瑜もまた、独自に情報をあつめ、たとえ曹操が荊州の兵卒を総動員させてこちらに向かってきても、百万などという規模には決してならないとわかっていた。
せいぜい多くて二十万にすぎない。
曹操の軍隊の内容は、精鋭の騎兵を中心にしたもので、水上の戦いには不慣れである。
しかも、荊州の兵に至っては、侵略を受けた側であるから、曹操に忠誠を誓っている者はすくない。
いくら劉琮やその一族が手厚く保護されたといえ、平和な侵攻であったわけではないのだ。
掠奪の被害を受けたものを家族にもつ兵たちとて、多かろう。
たしかに、曹操の動きは早い。
冬をまえにして焦っていることもあるだろうが、その速さが、逆にこちらの味方にならないか。

曹操は、人々がおびえるほどに恐ろしい相手ではない。
正確な情報を掴んでいたからこそ、周瑜はそう確信していた。

大将たる周瑜の態度が、平素とかわらず、むしろ堂々と落ち着き払っているために、周囲の兵卒たちも、安心して調練に集中していた。
それほどに、周瑜への兵の信頼というものは高い。
さらに、周瑜は、黄祖との戦いで得た捕虜たちにも、十分な報酬をはらって、これを手懐けることに成功していた。
武将たちよりも、熟練の古参兵のほうが、身の振り方に関しては現実的である。
周瑜が『話のわかる』男だと知ると、素直に力を貸してくれた。
江東の水軍は、さらに力を増したといってもいいだろう。

冷静沈着をよそおう周瑜であるが、じつはひそかに心を痛めていることがある。
曹操がやってくるという噂の一方で流れている、下世話きわまりない噂のことだ。
曹操が、銅雀台なる名の、壮麗な離宮を建てたことは江東でも知られているが、曹操が、その竣工式の座において、
「江東を平らげたあかつきは、絶世の美女だという大橋、小橋の姉妹を両脇にはべらせて楽しみたいものだ」
と発言したというのだ。
たしかに曹操の色好みは有名だし、そんな発言があったとしても、おかしくはない。
周瑜が心を痛めているのは、そうした噂を面白おかしく広められることの不快さではなくて、その噂に付随して、ささやかれている話のためである。
なんとかこれを止める手立てはないものかと思っているところへ、家人が、妻の小橋が潘漳に到着したと伝えてきた。

小橋はちょうど十年ほどまえに、周瑜が、義兄弟のちぎりを結んでいた主君である孫策とともに攻めた町において、捕虜となっていた橋公の娘たちのうちの、妹のほうであった。
姉の大橋を一目見て気に入った孫策は、捕虜の待遇からこれをあらため、側女として大橋を置くようになり、これがなかなか度胸のある女だとわかると、さらに正式に妻として迎えることにした。
大橋を妻にするにあたり、孫策は、周瑜もまだ独り身であったから、いっそのことおまえも妹のほうを妻にすればよいと提案してきて、周瑜もこれを受けた。
じつのところ、周瑜はそのとき、小橋に、さほど惹かれてはいなかった。
結婚の話を受けたのも、そろそろ身を固めねばならないということもあったし、姉妹を妻にもらえば、名実ともに孫策と兄弟になる、ということが面白かったからにすぎない。
たしかに小橋は美人なうえに、姉とおなじく、よく気の付く女だったから、妻にするには申し分がなかった。
孫策のほうは、その当時、もっとも勢いがあったこともあって、
「この二人はわれらのような婿を得られたのだから、喜ぶべきではないか」
などと嘯いていた。

こうした明るい出発の孫策たちの一方で、周瑜の新生活のはじまりのほうは、いささか地味であった。
小橋はたしかに美しい女であったが、もとの性質は慎ましやかで、黙って夫に従って動くような、古風なところも持っていた。
周瑜はすこし物足りなく思ったが、それでも主婦としての小橋の能力には、なんの不満もなかった。

孫策が死に、孫権が後を継ぐと、ごたごたを見せた家臣たちのあいだをなだめることが、周瑜のもっぱらの務めとなった。
それは思った以上の激務で、気遣いに気遣いをかさね、下げたくない頭も何度も下げながら、ようやく、いまのように、呉の家臣たちを孫権のもとにまとめ上げた。
疲れ果てた周瑜を、いつでも黙って迎え入れてくれるのが小橋で、この妻の優しい気遣いと支えがあったからこそ、周瑜はいまの地位と名声を手に入れることができた。
それに気づいて以来、周瑜は、妻を以前よりも大切にしている。
二人のあいだには、二人の息子と一人の娘が生まれていた。
どれも愛らしい子供たちで、周瑜は目に入れても痛くないほどに可愛がっている。

潘漳にて兵の調練をしている周瑜のもとへあらわれたのは、小橋ひとりであった。
「子供たちはどうした」
顔を見るなり子供たちの心配をした夫に、小橋は悲しそうな笑みを見せて、答えた。
「姉に預けてまいりました。義母さまとも相談したのですが、ともかくいまは、郎君をお助けすべきであろうと」
「子供たちは寂しがるであろう」
「よく言い含めておきました。みな、聞き分けのよい、よい子たちでございます。一日もはやく父上のもとへ行ってくださいと、そうまで言いました」
そうか、とつぶやき、子供たちのひとりひとりの顔を思い浮かべて、悲しくなる周瑜であるが、ふと気づけば、目の前の妻の様子がおかしい。
思いつめた顔をして、じっとこちらを見つめているのである。
「どうした。なにか問題でもあったのか」
「姉上とも相談して参りました」
小橋は言うと、しばしためらう様子をみせた。
周瑜がじっと黙って、つぎのことばを待っていると、小橋は、決意をかためたのか、顔をあげて、言った。
「郎君、もしわたくしたちを曹操に届けることで、江東が戦に巻き込まれずにすむのなら、是非にそうしてくださいませ」

「莫迦を申すな!」
家族以外にも、滅多に声をあらげない周瑜が、はげしく小橋を叱責した。
とはいえ、そこで縮こまる小橋ではない。大人しいように見えるが、芯はしっかりしているのだ。
なにひとつ見逃すまいというように、じっと周瑜を見つめている。
もしそこに、迷いが見てとれるなら、すぐさま姉のもとへと行き、ふたりして曹操のもとへ行く覚悟を決めているのだ。

周瑜が怒鳴ったのは、小橋の言葉そのものに対してではない。
小橋がつまらない噂を生真面目に信じ、それを実行しようとしたことに怒ったのである。
曹操が橋公の二人の娘を欲している、という噂に対し、こんな下世話な噂も世間では流れていた。
曰く、
『橋公の二人の娘さえ曹操に差し出せば、曹操はよろこんで軍を北ヘ取って返し、江東は平和を取り戻すだろう』

「くだらぬ噂におまえたちまで踊らされて、なんとする! おまえたちを曹操に人身御供として差し出したとして、あの老いぼれめは、軍を引き返させることなどせぬ。
どころか、おまえたちがいかに懇願しようとそれを無視し、江東へ軍を向けるであろう。
荊州を併呑し、勢いに乗っているいまだからこそ、曹操は動いているのだ。いまさらおまえたち二人を見て、心代わりをすることはない。
いや、曹操がおまえたちにほだされて噂どおりに考えたとしても、あの老いぼれのまわりにいる軍師たちが、それを許すはずがない」
そこまで一気に言ってから、周瑜は肩の力を抜くと、袖でおのれの唇を隠し、うつむいてしまった妻の肩を抱き寄せた。
「すまぬ、きつく言いすぎた。おまえたちなりに、いろいろ考えてくれたのだな。悩ませてすまぬ。噂のひとつも止められぬ、わたしは不甲斐ない夫だな」
言うと、小橋はおどろいて顔を上げた。
「なにをおっしゃいますの。噂に踊らされた、わたくしたちを責めてくださいませ」
それから、小橋はことばを切って、まじまじと、周瑜の顔を見た。
「顔色がよろしくありませんわ。それに、こんなにむくんでしまって」
「おまえの料理が食べらないからだろう。しかし、今日からは不自由せぬな」
と、混ぜっ返す周瑜であるが、しかし小橋は誤魔化されなかった。
「薬が効いていないのですね」
「疲れているだけだ。心配するな」
笑いながら、顔を背けた周瑜であるが、夫想いの妻が、その背後にて、涙をこぼしているのが気配でわかった。
「なぜ、あなたさまだけが、これほど苦しまねばならないのでしょう。いままでわが君に代わり、その兄として、江東を牽引してきたのはあなたさまだというのに、天は褒美を与えるどころか試練を与える。悔しくてなりませぬ。
わたくしは、見ておられませぬ。天下も戦も、どうでもよいではありませぬか。子供たちと一緒に、どこか平和なところへ逃げて、静かに暮らせれば」
「言うな!」
妻の涙まじりのことばを、周瑜はぴしゃりと跳ね返した。
そして、気持ちを落ち着けるために息をつく。
「おまえがわたしを心配してそのようなことを口にしていることは、わかっている。だが、もうそれ以上は言うな。
いまは孫家にとっての存亡の危機なのだ。おまえもその一員として、自覚をもって過ごしてくれ。おまえが動揺すれば、それは人に伝わる」
そう言って、周瑜は振りかえると、袖でけんめいに涙を始末しようとしている妻に、笑って見せた。
「そう嘆くな。曹操を追い返してしまえば、あとは荊州、そして益州だぞ。どちらも曹操ほどに恐ろしい相手ではない。
天下をふたつに分ける。これが成れば、わたしもすこしは息がつける。そのときこそ、おまえが言ったとおり、みなで平和で暮らすこともできるであろう。
おまえにとっては、子供がひとり増えるようなものだぞ。そのときに、こんなはずではなかったと嘆かぬようにな」
周瑜の軽口につられて、小橋は、涙を浮かべながらも、にっこりと笑って見せた。

孫家への忠誠。恩義、亡き友への友情の証。
それだけではない。
最愛の者たちを守るために、勝たねばならない。なんとしても。



柴桑の街は、想像していた以上に小さかった。
が、そのにぎわいは、大都市に負けないほどである。
江東の主である孫権が仮の宿りにしている城を中心に、市場が立っており、突然の好景気に沸いて、にぎわっている。
あつめられた兵卒ばかりではなく、孫権にしたがって柴桑にやってきた家臣たちの家来なども町に繰り出しているので、街は、そこかしこが喧騒につつまれているようだ。
港の賑わいも最たるもので、孔明たちが舟を降りるとすぐ、商人たちがカモと見たのか、手に手に品物を持って、一斉に押し寄せてきた。
人の波が押し寄せてくる、その勢いに、さすがの孔明も思わず足を止めて竦んでいると、趙雲がすぐさまやってきて、抱きかかえるようにして、庇って、人の輪から脱出させた。
そのあたりの気遣いは、劉備の主騎をつとめた経験から学んでいるのだろう。
「おまえがそんな、いかにも『金を持ってます』という衣裳を着ているからだ」
と、孔明の主騎のつとめを果たした趙雲は、ぶつぶつ言ったが、腹を立てているふうではない。
趙雲は、樊城の騒動と、そのあとの長阪の戦いにおいて怪我を負っていたが、孔明のみるところ、その経過は良好であるらしい。

「肩書きのない口八丁はどこへ行った」
人の輪から逃れると、趙雲はあたりを見回して、魯粛を探す。
どうやら魯粛は、船の荷物を下ろす作業の指揮をとっていたらしく、孔明と趙雲の視線に気づくと、にこにこと愛想よく、手を振ってやってくる。
「いやあ、すごい人気だ。どうだい、呉の商人のたくましさ」
と、魯粛は愉快そうにけらけらと笑う。
が、人ごみが苦手な孔明としては、強ばった笑みしか浮かべることができない。十年前、樊城にて叔父の玄を目の前で殺害されて以来、孔明は、人に不用意に触れられたり、あるいは近づかれると身体が強ばってしまうという病のような癖がついてしまっていた。
すこしづつ克服しているが、やはり苦手は苦手なのである。

「これからどうする。いますぐ孫将軍にお会いしたほうがよいのか」
気を取り直して孔明が問うと、魯粛はいや、と首を振った。
「なるべく早いほうがいいが、しかし準備をしたほうがいいだろう。さっき、周都督からの急使が来た。潘漳から、柴桑に向かっているそうだ。
あんたがわが君と会うまえに、打ち合わせをしたいそうだ」
「すると、やはり子敬どのと、周都督の意見は一致していると見てよいのだな」
孔明が確認すると、魯粛は、大作りな顔を悲しそうにゆがめて見せた。
「おいおい、信頼ないねぇ。俺の意見は都督の意見だぜ。
まあいいや、ともかく、あんたたちだって疲れているだろう。宿は確保してある。俺の親戚の屋敷でね、宿とちがって、ざわついてないから、きっと気に入るだろうよ」

言いながら、ついてこい、というふうに、魯粛が手ぶりで示す。
と、同時に、船に一緒に乗り込んでいた、魯粛の部曲の男たちもまた、ぞろぞろとあつまって、そのあとにつづいていく。
異様な風体の男たちの行進に、さすがの商人たちも、遠巻きに見ているだけで、近づいてくる気配はない。

その先頭に立ちながら、魯粛は得意そうにしながら、言った。
「そうだ、あんたが喜ぶだろうと思って、あんたの兄さんの子瑜どのも呼んでいる。なにせ孫家の未来を決める大事な軍議だ。主だった家臣は、すべていま、この柴桑に集っているんだぜ。
まだ返事は来ていないが、きっとあんたの兄さんのほうも、あんたに会いたがっているだろうさ」
しかし、孔明は返事をしなかった。

「うつむくな。顔をあげて、強ばる顔も、無理に笑わせておけ。おまえの挙搓を、みなが注目する。ここは敵地だ。油断するな」
趙雲のことばに、孔明は、はっとなって顔を上げた。
どうやら、知らないあいだに、暗い顔をしてうつむいていたらしい。
「すまない、ありがとう」
みじかく言うと、趙雲は一歩下がる形で随行しながらも、すました顔をしたまま、孔明のほうを見ずに答えた。
「いや」

魯粛は、たまに見知った顔とすれ違うらしく、調子よく声をかけあったり、挨拶をしながら往来をすすむ。
そのうしろで、孔明は魯粛に従って歩いているのだが、もはや街の様子を見て楽しむ余裕はなく、頭の中は、兄のことでいっぱいであった。
最後に会ったのはいつだったか。
父の珪が死に、その葬儀のために、遊学先から兄がかえってきたときが最後だったか。
そのときは、子供すぎて、家の中で何が起こっているのか、さっぱりわからずにいた。
わかったことは、兄がやってきたと思ったら、義母と一緒にいなくなった、ということだけだ。

姉は幼い弟をかかえて、孔明に、もう二度と兄のことは口にしてはならないと、きつく言った。
孔明にとっては、姉は母親と同然であったから、その命令は絶対だ。
そして、その後、姉と弟と連れ立って揚州の叔父のもとへ逃げ、さらにその叔父が揚州での動乱に巻き込まれて荊州へ移ることになるまでのあいだ、兄の存在というものは、家のなかからすっかり抹殺されていた。
長子でありながら、兄は家督を継ぐ者とは見做されていなかった。
次の家長として、養育されたのは孔明のほうで、その理由は、叔父の急死のせいで、ついに知らされないままで終わっている。

「主騎の仕事は大変だな。わたしの顔色まで気にしなくてはならない」
気持ちをまぎらわせるために孔明が言うと、趙雲はむっつりしたまま、答えた。
「おまえの背中にすべてがかかっているからだ。外貌のよさがおまえの武器のひとつだろう。それを使わないでどうする」
趙雲が、親しい相手にこそ、容赦なく、物事をずばずばという性格だということを、初対面から半年、孔明もさすがに理解していた。
「それほど暗い顔をしてたかな。やれやれ、それでは、本人をまえにしたら、どんな顔になってしまうだろう」
「兄君のことか。たしか中司馬として、盧江を守っておられるのだったな」
「その盧江から、はるばるやってくるらしい。さあて、どんな顔をしてたかな」
「似ているのか」
「いいや、まったく似ていない。聞いた話によれば、あだ名は驢馬だそうだ」
「ずいぶんだな」
「叔父が死んでからは、手紙のやりとりすらしてこなかった。中司馬とは、出世したほうかな。どう思う」
「本人に聞け」
と、素っ気なく答えたあと、すぐに趙雲は、すこしだけ口調をやわらげて尋ねてきた。
「会いたくないのか」
「なぜ叔父が予章を追われたとき、あれほどの混乱のなかで、兄たちはわたしたちを無視したのか、会ったなら、それを問い詰めてしまいそうだからな。
そんなことをしている場合ではないのだと判っているし、それに、他者から見れば、わたしたちは兄弟だ。だからこそ、公私混同していると思われたら、あとがやりにくい」
「なるほど」
「もし顔をあわせたとしても、必要最低限以外はおそらく話すことはしない。だからといって、叱らないように」
「そういうことならば、わかった」
「でも心配してくれて、ありがとう、子龍」
孔明が言うと、返事がない。怒ったのかなとちらりと見れば、趙雲は、どういうふうに返事をしたものかわからず、困っているようだった。
その顔を見てつい孔明は声をたてて笑ったが、そうしているうちに、暗く落ち込んでいた気持ちは、どこかへ消えてしまった。

魯粛が用意した屋敷というのは、水のほとりの瀟洒な屋敷で、町の喧騒のとどかない、静かな落ち着いた場所であった。
水辺にせり出したつくりの書斎があり、そこの鶏窓からは、風情ある河の暮らしが良く見える。
葦の原のまわりに泳ぐ鴨や、客を乗せた小舟の姿など、見ていて飽きない光景だ。

「いいところだ。さすが魯家の持ち物」
孔明が言うと、魯粛はすこしばかり顔をしかめた。
「俺の趣味ではないがね。気に入ってくれたのならいい。
おそらく、周都督も、今晩にはこちらに到着するだろう。今宵は宴会だ。ぱあっとやるので、あんたたちも楽しみにしていてくれ」
「ぱあっと? ふつうでいいぞ。戦争が起こるというのに、いまからどんちゃんと騒いでおられるか」
孔明が言うと、魯粛はそれを遠慮と取ったか、豪快に笑った。
「まあ、そう言うな。客は盛大にもてなす。それが江東流だ。郷に入りては郷に従えというだろう。
なにか注文はあるか。もしあれば、いまから聞いておく」
「静かなのがいい」
「それ以外で」
「だったら、ない」
「なんだい、遠慮深いな、あんた。まあいいや。趙子龍、あんたは」
「俺も静かなのがいい」
「だから、それ以外でだ」
「だったら、俺もない」
「そうかい、そっちの小奇麗な少年、あんたは?」
偉度がなにか言おうとするまえに、孔明が口をはさんだ。
「子供なので、宴には出せぬ。日が沈んだらぐっすり眠る。そういう健康的な子供なのだ、これは」
「へえ?」

魯粛は、孔明のことばに、なにやら訳知り顔で眉をよせて、偉度を見る。
魯粛は、劉備たちのまえに現われる前に、樊城を中心とした、細作集団である「壷中」の存在をしっていた。
かれらの一員であった偉度のことも、ある程度は知っているらしい。

魯粛の訳知り顔に、なにやらかちんと来た孔明は、その目線を遮るようにして偉度のまえに立つと、言った。
「ちなみに、なにか勘ちがいされても困るから先にいうが、これは小姓とか、そういう子供ではなくて、わたしの主簿見習いなのだ。
いまから側において、いろいろと学ばせている。妙な勘繰りはしないように」
すると、それまで黙っていた偉度が、口を尖らせて抗議した。
「いつ、わたしがあなたの主簿になったのです!」
「たった今だ。胡偉度、そなたをわたしの主簿見習いに任命する。そういうわけで、あまり勝手な真似をせぬように」
「どっちが!」

きいきいわめく偉度を、手にした扇で牽制しつつ、孔明は魯粛のほうに向いた。
「ともかく、宴には出るが、余興はできないからな」
「唄も歌えないかい」
「三人の勇者が桃のせいで死ぬ唄(梁父吟)なら。でも主公に嫌がられた唄だが、それでよいか」
「陰気な唄はよせよ。じゃあいいや、適当に場に合わせてくれ。盛り上げるのは、都督がぜんぶやるだろうからな。
ああ、それと」
と、魯粛は決まり悪そうな顔をして、言った。
「あんたの兄さんだが、急用ができて、こられないそうだ。期待していたなら、申し訳なかったな」
孔明はそれを聞いて安堵したが、一方で、傷ついている自分も見つけて、なにやら複雑な気分におそわれた。


※周瑜の妻の小喬については小「喬」が一般的ですが、橋公の娘の小橋、という説をとって、小橋と表記させていただきます。

6へつづく
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