飛鏡、天に輝く
参
黄祖との戦いは、孫家にとっては、いつでも悲壮感がどこかに漂っている。
黄祖が、憎い仇だということが、まず前提にあるからだろう。
そして、九年にわたる長い戦のなかで、孫家の払ってきた犠牲も、けっして安いものではなかった。
孫権は、これが最後という周瑜のことばを受け、先鋒に、以前に甘寧が射殺した凌操の息子である凌統を指名した。
このはからいには、凌統本人ばかりではなく、家臣たちすべてが奮い立った。
凌統はまだまだ年若く、これをみなで助けてやろうという気風が、陣のなかに生まれたのである。
かつてない一体感、高揚感のなかで、孫呉の水軍は、みな一丸となって黄祖に向かって行った。
なにせ、いままでとちがって、後顧の憂いがなにもない。
思い切り、前だけに進めるのである。
一方で、周瑜が言ったとおり、黄祖のほうは、まるで勢いがなかった。
孫権が押し寄せてくると、夏口に二艘の駆逐艦を並べると、これを互いに綱で堅くしばり固定して、それぞれに千人の兵卒を配置し、水上の砦として、そこから弓でもって攻撃をしかけてきた。
この弓の攻撃に、孫権軍は、しばし足止めを喰らう。
これを倒すべく、名乗りを挙げたのが、董襲、字を元代という男である。
たいへんな大男で、力自慢であり、孫策の時代から孫家に仕えて、揚州の山賊や海賊を討伐して、名をあげていた男である。
董襲は、凌統とともに、孫権に先鋒を願い出た。
それが許されると、董襲は、兵卒たちの中から、とくに士気が高く、そして泳ぎに巧みなものを二百人選び出した。
そして、かれらに命じて、鎧を二重に着せた。飛んでくる矢を防ぐためである。
董襲と凌統は、兵卒を百人づつに分けて、それぞれが大型の船に乗り込むと、力任せに、黄祖の船に特攻をかけた。
ぶつかり揺らぐ船の、その混乱に乗じ、董襲と凌統の率いる兵卒たちは、黄祖の船に乗り移り、そして、敵兵をあらかた蹴散らすと、身に纏っていた鎧を脱ぎ捨てて、つづいて水に飛び込んだ。
その先頭に立ったのは、やはり董襲で、苦しい水中にて、必死になって、船と船を繋いでいた綱を、斧で切り捨てた。
これにより、均衡を失った船は、もはや砦としての役に立たず、黄祖の軍は、一気に崩壊へと向かっていくのである。
すっかり勝ち戦の勢いに乗っている孫権の軍のなかで、甘寧ひとりが、喜びに乗り切れずにいた。
黄祖の勢力が滅びることに、感傷的になっていたのではない。
自分を孫呉に導いてくれた恩人である、蘇飛のことが心配でならなかったのだ。
前線に出ていなければよいがと心配する甘寧であるが、ふと、孫権のほうを見ると、側仕えのものが、うやうやしく、ふたつの空箱を差し出している。
なんの箱かと首をひねっていると、こんな声が聞こえてきた。
「われらの勝利は、ほぼ決まったも同然。あとは、この箱に、黄祖めと、蘇飛の首をおさめればよいのでござる」
これを聞いて、甘寧は沈み込んだ。
蘇飛を助けたいと思うが、しかし孫権にとっては、黄祖は親の仇、そして、蘇飛は、その仇に与する男なのである。
落ち込んでいる甘寧のもとへ、子分がそっと近づいてきた。
「親分、蘇の旦那さまの手下が、親分あてに手紙を持ってきています。見つかったらコトですぜ。
追い返しますか、それとも、受けとるだけは受けとってみますかい」
「莫迦!」
甘寧は一喝すると、すぐさま蘇飛の部下と面談した。
混乱に乗じて、死んだ兵卒の衣を奪い、呉兵になりすまして、甘寧のそばまで命がけでやってきたのである。
その部下の持ってきた手紙には、蘇飛の、悲鳴にも似た、別れの言葉が綴られていた。
それを見てしまっては、もう甘寧は黙っておられなかった。
いつか、かならず恩を返すのだと誓ったことを思い出し、そして、そのためには命も惜しくないとさえ思った。
そも、いまの自分があるのは、蘇飛のおかげではないのか。
甘寧は、思いついたら、即実行の人である。
もはや宴席に入りつつある孫権のそのまえに転がり込むようにして平伏すると、呆気にとられている孫権のまえで、おのれの額を、何度も何度も床に打ちつけた。
何度目かで、額が割れて血が出たが、それでもなお、頭を打ちつけようとするので、孫権があわてて止めた。
「待て待て、このめでたい席で、なぜ貴公はそのように嘆くのだ」
「恩人を見捨てなければならぬ、この身が疎ましいからでございます!」
そうして、甘寧は、泣きながら、蘇飛とのいきさつを孫権に語ってみせた。
蘇飛がいなければ、甘寧は、孫家に仕官することはできなかったのだ。
孫権は、甘寧のことばに心を動かされたようであるが、それでも慎重なので、こうたずねてきた。
「しかしだ、蘇飛を助けてやったとして、のちのち、わたしに恩を感じるどころか、かえって恨みに思って刃を向けてきたらどうする」
「されば、そのときには、甘興覇の首をさし上げまする。そして、その箱に、この首をおさめてくだされ!」
孫権は、甘寧のその熱気に押されて、蘇飛を助けることをゆるした。
甘寧はよろこんで、兵卒たちにその旨を伝えると、蘇飛の命を救ったのである。
一方で、黄祖は、乱戦のなか、とうとう命運が尽きて、死んだ。
またも盛大な宴が催された。
とくに董襲は、その勇気ある見事な行動が、孫権の賞賛を得た。
程普や黄蓋などは、長年の悲願をようやく達成できたことに感激し、泣き笑いを繰り返していた。
凌統も、同じく、父の仇をこれで討てたと喜んでいたが、甘寧はあえて、凌統とは距離を置いて、席も近づかないように気をつけた。
そうして賑やかに飲み食いをしているなかで、孫権が言った。
「わたしが蘇飛をゆるしたのは、もちろん、貴公の言葉に感じ入ったこともあるのだが、公瑾の口ぞえによるところも大きいのだ。
あとで、貴公の口より、公瑾に礼を述べておいてくれ」
さて、そうなると、いてもたってもいられない。
甘寧は、宴のなかに、いつも華を添えている周瑜の姿がないとわかると、座を立って、どこにいるのかと探しに出た。
ほどなく、周瑜は見つかった。
人気のない場所で、だれかとひそひそと話をしているようである。
だれかな、と思って近づいていくと、話相手は、いつか見た、あばた面の青年であった。
篝火のあかりが、青年の特長のある面貌を浮かび上がらせる。
非の打ち所のない美貌をほこる周瑜と、気の毒にも、病の爪あとを顔に残している青年と、ふしぎな取り合わせであった。
「そうか、死んだか」
周瑜がつぶやいたのが聞こえた。
「樊城より使いがございました。劉州牧は死に、この跡目は遺言どおり、劉琮どのがつかれます。後見には、蔡将軍が指名されております」
「長男のほうは、どうなった」
「面倒なことに」
と、青年が、舌打ちでもしかねない口調で、言う。
「劉州牧が死んだら、蔡将軍は、すぐさま劉琦どのとその一派を片付ける腹積もりでありました。
ところが、新野の劉予州の軍師の諸葛孔明が、劉琦どのに、なるべく早く樊城を出て、江夏へ向かえと知恵をつけたのです」
「江夏。近いな。なるほど、厄介だ」
「黄祖の軍が弱かったのは、いままで劉州牧が貸していた水軍のうち、その一部が劉琦どのの元に戻ってしまったからです。
もともと劉予州は劉埼どのの後見。曹操に追われて劉予州が江夏に逃げてきたら、おそらくこれを助けることでしょう。
つまりは、劉予州は、荊州の劉琦側の家臣と、さらにはその水軍まで手にしたことになる。
どこまでが諸葛亮の指図かはわかりませぬが、これでわれらは、劉予州を無視するわけにはいかなくなりましたな」
「子敬が便りを寄越したぞ。劉予州はなかなかの傑物なので、これと手を組むべきだとのことだ。
かれはどうも、暴走する嫌いがある。たった一人で飛び出して、さも、こちらに同盟を組む意志があるかのように、話をしてしまったらしい」
「困った御仁ですな。しかし、あいにくと、魯子敬どののおっしゃるとおりにするしか道はない。劉予州を懐柔し、わが方へ組み込むのです」
青年のことばに、周瑜が笑ったのが聞こえた。
その笑い声は、それまで聞いたことがないほど、暗く陰に籠もったものだった。
「諸葛孔明とか言ったか、たしか子瑜どのの実弟だということだが、士元、貴殿から見て、どうだ。わたしの後継になりうるほどの器なのか。子敬はまちがいなしと言っている」
「たしかに、見てくれだけならば、人を魅了するには長けておりましょう」
「中身は」
「気むずかしい理想家。青臭さが抜けておりませぬ」
「それは困った。わが君を御するためとはいえ、張長史(張昭)のような人物がまた増えてもな」
周瑜は言葉を切ると、ため息をひとつ、ついた。
「この命が、せめてあと十年もてばよいものを。天下が大きく動くというこのときになって、なぜに命数が尽きる宿命を負わねばならないのだ。
付け焼刃の後継者など、何の役にも立つまい。芯からわたしと志を同じくする者が、そして軍の象徴となりうる人物が、どこかにいないものだろうか」
「わたしに美貌と弁舌の才能があれば、お嘆きもなかったことでしょう」
「言うな。貴殿には、嫌な役目を押し付けることになるな。許せ」
「お気になさらず。みずから望んだことでございますれば」
甘寧は、逃げるようにして、その場を去った。
さいわい、気づかれなかったようである。
そして、宴の席に戻ると、煽るように酒を喰らった。
周瑜が自らこぼした、『命数が尽きる』という言葉が、何度も頭のなかで繰り返された。
それを忘れるために、甘寧はひたすら飲んだ。
しかし、杯を持つ手が、震えて止まらなかった。