風の旗標


最終回

船団に迎え入れられた孔明は、船団長となっていたのが、ほかならぬ伊籍であることにおどろいた。
と、同時に、随行していたのが、かつて孔明の叔父の部下であった、黄漢升であったことにもおどろいた。

伊籍は、なんとしても劉予州をお助けするのだ、と息巻いており、孔明の話を聞くと、すぐさま全団に号令をかけ、劉備との合流地点へと船を動かした。
途中、船は、甘夫人と魯粛らの一行を見つけ、これともまた合流したのであるが、伊籍らの魯粛への警戒心は、孔明が想像していたより高かった。
魯粛たちは、なんやかやと理由をつけられて、別の船に、それぞれ分けて乗せられた。
魯粛に至っては、あつかいは丁寧ではあるものの、なかば軟禁されるようにして、船の内部の一室に案内され、外に出ることはゆるされなかった。

いささか態度が固すぎると思った孔明であるが、偉度の説明によれば、
「こちらの顔ぶれを御覧なさい。劉州牧と孫家が戦ったことを記憶している者が多いからでございますよ。
いくら曹操と対するという意味では共闘すべき相手とはいえ、昨日までは牽制すべき敵だったのですから、急に仲良くはできないのは、道理ではありませんか」
とのことであった。

伊籍は甘夫人の容態を気遣い、甘夫人に随行していた陳到に、さらに将をひとりつけると、小船でもって、江夏の劉琦のもとへ先に向かわせるように手配した。
伊籍ら、劉琦の側近たちは、孔明が、気が引けるように感じるほど、劉備をすぐに助けられなかったことを、すまなく思っていた。
みな、劉備に心服しているというだけではなく、劉琦そのひとが、劉備に対して申し訳ないと感じているからであるようだ。
曹操の南下が早まったのは、自分が長子であるのに後継者とされず、樊城が混乱した隙をつけいれられたのだということで、劉琦が責任を感じていると、伊籍は涙ながらに語った。

「劉公子は何度も床から抜け出しては、自分が船の指揮をとるのだとおっしゃっておりましたが、あのご容態ではとても無理なこと。
世間では、劉公子は曹操に怖じて、父の墓を見舞うこともなく、弟と義母らを見捨てて逃げたと囃しているようでございますが、われらはそれが口惜しうてなりませぬ。
劉公子は、われらの前では気を遣って黙っておられますが、内心では、世間の評判に心を痛めておられる様子。
われらとしては、むしろ長子たる公子を追放した、弟君と蔡将軍にこそ非があると訴えておりますのに、世間はすこしも耳を貸してはくれませぬ」
そう言って、劉琦の父親代わりを自認している、四角い顔の人のよい男は、悔しそうに声をふるわせつつ、袖で涙をぬぐった。
本来ならば、劉琦こそが荊州を継ぐはずだったのに、という思いは、かれらがいちばん強いのである。
「ご同情いたしますぞ。おそらくは、はやばやと城を明け渡したことを責められぬよう、蔡将軍が壷中の残党に命じて、こちらに批難が向かうようにしむけたものでしょう。
それに関しては、こちらも同じように、だれに非があるのか明らかにする話を流すことにいたしましょう。
しかし、それよりも、もっと効果があるのは、曹操に対し、劉公子や、貴殿らが結束し、毅然とした態度をつらぬくことでございます」
「江東でございますな。まこと、軍師はお一人で江東へ向かわれるのか」
「逆に一軍とともに向かえば、江東の者の反発を買いましょう。ここは、すべてを利用してやるつもりです。
おそらく先方は、こちらがひたすら下手に出て、同盟を頼んでくるだろうと想像しているはず。
こちらがみじめに見えればみえるほど、先方はこちらを侮って、かえって胸襟をあきらかにすることでしょう。
こちらにおります偉度の話や、魯子敬からの話からするに、江東もまた、意見が割れて、まとまりがなくなっているとか。
それが曹操の策による混乱ならば、逆に、われらはそれを利用するのです」
「と、申しますと?」

伊籍が怪訝そうにたずねてくるのを、孔明はうなずいて答えた。
「江東が開戦を決意しないかぎり、われらの命運は風前のともし火。
ならば、われらは江東のなかでも、開戦を主張する一派と組まねばなりませぬ。
そして、江東の混乱を収束させ、開戦派に恩を売るのです。
さらに、なんとしても江東には勝利をおさめていただく。
そうすれば、われらの発言力は、江東の中では高まり、侮る者もすくなくなる。
どころか、手薄になった荊州を、われらが奪還する機会も出てきましょう」
孔明のことばにうなずきつつも、伊籍は頬を掻きながら、言った。
「しかし簡単におっしゃるが、江東には兄君がおられるだけで、軍師はほかのご家来衆と、ほとんど面識がないと聞いております。
ひとくちに恩を売るといいましても、具体的な道筋はありますのか。
それに、開戦派に味方するのは結構ですが、となると、孤立無援の陣営のなかで、降伏派の恨みを買うのではありませぬか」

「じいが怪我をしておらなかったら、亮さまとともに江東に向かうのであるが」
と、黄漢升が、古びた甲冑をまとった姿で、腕を組み、悲しそうに言った。
甲冑はたしかに古いのであるが、ところどろにある凹みや傷が、黄漢升が幾多の戦場を駆け抜けたつわものであると、逆に誇らしく伝えていた。
「ありがとう、けれど、じいやには、まず怪我を治してほしい」
孔明が言うと、とたん、天邪鬼な老人は、顔をゆがませた。
「なんの、これしきの怪我など、江東に向かうあいだに治ってしまいますわい。うむ、やはりわしが亮さまに随行させていただこう」
「お待ちを。主騎の趙子龍はどうなさる」
伊籍のことばに、孔明はすこし間を置いて、それから答えた。
「おそらくは、長坂にて戦った疲労がたまっていることでしょう。
それにやはり怪我をしておりますので、連れて行くのはむずかしいかと」

長坂での戦闘が、そのあとどうなったか、孔明はまだ知らない。
だから、答えるのに躊躇したのである。
生きているはずだと思う一方で、もしそうではなかったらという不安が、じわりと胸をいじめる。

「ふむ、となると、当然のことながら、目立ちすぎる関将軍も張将軍もだめ、ということになりますな。
講談の題材になるほどの人気者は、こういうときにだめだ。
容姿をみなが知っておる」
冗談をまじえつつぼやく伊籍の横で、意気込みをずっと無視されている格好となった黄忠が、怒りを発した。
「先ほどから、なにゆえわしを無視するのだ。わしが行くと申しておろう!
老人とて侮るな! 曹操も孫権も怖くなんぞないわい!」
「だから、軍師のお話をちゃんと聞きなされ。矛を交えてチャンリンと戦うような、そういう戦いに向かうのとは、わけがちがう。
ご老体を莫迦にするつもりは毛頭ないが、軍師に随行するのは、判断力にすぐれ、寡黙で、いざというときにためらわず行動ができる者がふさわしい」
「それはまるで、わしのことだ」
「先ほどの条件に追加いたします。神経をつかいますので、若い者のほうがよい」
「なにを! 神経をつかうのなら、なおさら老人には向いておる。
なにせいろいろ経験しているから、神経のつかいどころを心得ているからな!」
「でもって、記憶力にすぐれている者がよろしい。
漢升どのは、昨夜の献立をすぐに思い出すことができますかな」
「米」
「それから?」
「………………」
「というわけで、われらのなかから随行を選んでくださってもかまわぬが」
と、伊籍は言うのであるが、劉琦側の家臣たちは、みな、それは困るという表情を顔に浮かべていた。
もちろん、偉度が先に言ったとおり、江東は敵だという意識がかれらに染み付いていることもあるのだろうが、かれらはそれぞれが、住み慣れた樊城から一族を率いて江夏に身を寄せた者たちばかりである。
家長たる自分がいなくなったあと、一族はどうなるのかという不安も、かれらのなかにはあるのだ。

「わたくしがお供をさせていただきましょう。軍師、わたくしをお選びください」
見れば、それまで沈黙を守っていた偉度であった。
大人たちの輪からはずれて、じっと様子を眺めていたのである。
「けれど、おまえも怪我をしているではないか」
孔明がいうと、偉度は、鼻を鳴らしていった。
「だからなんだというのです。この状況下、かえって怪我をしていない者のほうが信用できませぬぞ。
わたしは直接、江東に言ったことはないが、内情については、兄弟たちから聞いておりますので、おそらくここにいるだれよりも詳しく知っております。
それに、先方は、わたしが何者であるかを知らない。
趙将軍や漢升どのが随行したら、これは武官が随行していると見られて警戒されるでしょうが、わたしが随行しても、おそらく警戒されることはないでしょう。
それに、わたしはお二人よりも口うるさくありませんので、あなたが思うように、自由に動けますよ」
「口うるさいとは、なんたる侮辱ぞ!」
と、腹を立てて怒鳴る黄忠に、偉度は冴えたまなざしを向けた。
「それよりも、武官を必要とすることがほかにあるのでは」
「む。江東とともに曹操と戦うことか」
「いや、そうではない。偉度、おまえはじつによいところを指摘してくれた」

孔明は、あらためて偉度の時流を見る眼のするどさと、的確な判断力に感心した。
「どういうことですかな」
ふしぎそうに目線をあつめてくる者たちに、孔明は言った。
「その場しのぎではいけない、ということです。江東が曹操に勝利したあとのことを考えねばなりませぬ。
われらの目的は、荊州を奪還することだ。
しかし、曹操に勝利したあと、勢いに乗った江東が、われらを併呑し、荊州を狙う可能性は十分にある。
それにあわてて対処するようでは、いけないのです。
荊州の南部に、いま、糜子仲らが難民とともに向かっております。
これを布石に、江東が曹操にかかりきりになっているあいだ、荊南の豪族や太守らに、こちらの勢力に入るように働きかけておくのです」
孔明のことばに、伊籍をはじめとする家臣らの、感嘆の声があがった。
「なるほど、さすれば、平和裏のうちに荊州の一部を取り戻せる」
「おなじ荊州の者からすれば、確執の多い江東に与するより、われらに与するほうがいいと思うはず。
とはいえ、戦によってそれが途切れるようではいけません。
いまからでも、すぐに工作をはじめておかねば」
「樊城を中心とする北部よりも手薄ではあろうが、曹操の支配下にある荊州を行き来するわけだから、なるほど、武官のほうが必要となるわけですか」
やぎ髭をしごきながらいう黄忠に、孔明はうなずいた。
「隠密行動ができる、知性ある武官が必要だ。となると、やはり、じいやの出番だな」
孔明がいうと、黄忠は、カカカ、と愉快そうに声を立てて笑った。
「いやはや、そういわれてしまいますと、なるほど、荊南に行かねばなりますまい。
さあて、では、そこの小童、おまえに亮さまはお預けするゆえ、なんとしてもお守り申し上げよ」
黄忠のことばに、偉度は肩をすくめて見せるだけであった。


そのとき、大きく銅鑼を鳴らす音が船の内部に響き渡った。
一行が顔を見合わせ、ついで表に出て外を見れば、岸辺に、大きく『劉』とかかげられた旗をもつ一団が、ずらりと並んで待っていた。
その先頭に、まぎれもない、劉玄徳その人の姿をみつけ、孔明はもちろんのこと、伊籍をはじめ劉琦の家臣たちも、大きな歓声をあげて喜び合った。




趙雲はろくに眠ることができず、月光のもと、ひたすら、まるで蓑虫のようになって地べたに横になっている民のすがたを見つめていた。
民のなかにも眠ることができないものがいるようだ。
闇の中で、もぞもぞと、何度も寝返りを打っている。
ふと、目についた女が寝返りを打って、寝具のかわりに身体に巻いていた衣が、肩からずり落ちた。
女は幼子を抱えていたらしく、夏の夜風を肌に受けた子供は、くしょん、とちいさく、くしゃみをした。
趙雲は立ち上がると、母子のために、ずりおちた衣をかけなおしてやった。
そして、だれも起こさないように、ふたたび足音を殺して、もとの座っていた場所にもどる。

だれが裏切り者であるかはわからない。
けれど、孔明であるはずがなかった。
ほんの数ヶ月でなにがわかるかと、趙雲に殴り倒されたあと、糜芳は言ったが、逆に趙雲は、おまえたちはこの数ヶ月なにを見てきたのかと思う。
地道ではあったけれど、毎日のように、冷たい敵意のなかで、けんめいに曹操の南下にそなえて準備をしていたのは、いったいだれのためだったと思っているのだろう。
そして、孔明や自分に対して疑いのまなざしを向けているのは、ひとりやふたりではないということが、趙雲の心を塞いでいた。

「こんな連中のために、とか思っていないか」

趙雲があわてて立ち上がろうとするのを、いつのまにか背後に座っていた劉備は、肩をつかんで止めさせた。
劉備が背後にいることすら気づかず、考え込んでいたおのれを恥じた。
「主公、お休みにならねば」
趙雲がいうのを、劉備はまた、手ぶりで止めた。
「固いことをいうなよ。わしも眠れないのだ。情けなくてな」
「なにをおっしゃいますか」
言いつつ、趙雲は、月光に輪郭を浮かび上がらせる劉備の横顔を見る。

その顔は、だれが見てもわかるほど、落ち込んでいた。
子供のようにしょんぼりしている。

短慮にも、怒りにまかせて糜芳を殴り倒したことを、趙雲は後悔して、謝罪しようとしたのだが、しかし、なかなか言葉をうまく選べない。
こういうとき、孔明ならなんと言うだろうか、などと考えたが、やはりうまくいかなかった。
「主公だ、将軍だ、劉予州だ、などと持ち上げられて、結局はこのザマだもの。裏切っちまえと思うやつがいたって、ちっともふしぎじゃねぇし、そいつを責められるだろうかね。
儂がもしガキで、逆に儂についていかなくちゃならん立場だったら、この親父は頼りにならねぇと、さっさと逃げたと思うのだ」
「けれど、民は逃げずに主公に従っております。主公の仁徳を慕ってのことでございますぞ」
「だといいがなあ。結局、ほかに道がないから、とりあえずこの親父に従うか、というところじゃねぇのかな、とも思うよ。
そして、わしはそういう民を責めることができないほど、無力で意気地のない親父なのさ」
「卑下なさいますな。それがしまで悲しくなります」
趙雲が言うと、劉備は、すこしだけ口角をあげて、趙雲の背中をかるく叩いた。
「おまえは、ほんとうに、この数ヶ月で変わったな。
もしも十五のときのおまえをここに連れてくることができて、いまのおまえを見せたなら、いったい、だれだ、こいつは、ってびっくりするのじゃねぇかな。いいことだよ」
「そうでしょうか」
「結局、人は人のなかにおのれを見い出す。
おまえは孔明という鏡の中に、自分の姿をようやく見つけたというわけだ」
「鏡、でございますか」
「ああ、大事にしろよ」
なにか遺言のようだと趙雲は思い、同時に、そんな連想をするおのれを、趙雲は恥じた。

劉備は、しばらく黙って、趙雲がそうしていたのと同じように、地面の上に横になる民の姿を、じっと見つめていた。
「民が儂にそっぽを向くのはかまわねぇ。そいつは『不徳の致すところ』ってやつだ。
儂がいやだなあと思うのは、おまえや孔明みたいに、どんなつらいことでも、黙って知恵をしぼってなんとかしようとしてくれる連中が、きちんと仲間から評価されずに、いじめられることなのだ。
そして、おまえたちが心をゆがませて、どうしてこんなやつらのために、命を削って戦わなくちゃならねぇんだと恨みに思うようになるのが、もっと怖い」

それはないと、趙雲はすぐには答えることができなかった。
昔なら、それこそ数日前のおのれなら、劉備のことばを何も考えずに否定することができただろうと思う。

「世の中には、けんめいに言葉を尽くしても、なかなか理解できねぇ、とんちんかんが、残念ながら、たしかにいる。
感覚が、さっぱりちがうのだろうな。
儂は若い頃、そういうやつらが許せなくて仕方がなかった。
どうしてやるべきことがたくさんあるってのに、逃げてしまうのか、無視できるのか、わからなかった。
けれど、いま、人の上に立つようになって、連中が逃げたくなった気持ちや、無視できた気持ちが、理解できるようになってきた。
許せるか、といったら、また別なんだが、『そう思うだろうな』とわかるようになった」
そう言って、劉備は、儂も丸くなったねぇ、などと言いながら、うすく笑った。
「おまえや孔明が、これから先に見るものは、きっと儂が見てきたものとはちがうものだろう。
けれど、そこにいるのが人間であるかぎり、儂は自信をもって言える。
人の心に絶望するな。愚かもののことばにつまずくな。
おまえの真実は、おまえの心がなにもかもから自由になった、その瞬間にあらわれる。
なんて、ちとわかりづらいかな」

劉備のことばに、趙雲は、しばらく沈黙し、つぎの言葉を待った。
なにかもっと奥に、言いたいことを隠しているように感じ取れたからである。

「子龍」
「はい」
「おまえは孔明といっしょに江東へ行け」
「もちろん。それがしは、軍師の主騎でございますゆえ」
当然のことだ、と言おうとした趙雲であるが、口をつぐんだ。
劉備の横顔は、いつになく厳しいものに転じていたからだ。
「これから言うことは、孔明にも言うな。おまえの胸だけにしまってほしい。約束できるか」
「はい」
「よし。それじゃあ言うが、もしも、孔明が江東に馴染めるようであったら、向こうが、ぜひに家臣にと言っているわけだし、おまえはそのまま、孔明を江東に置いて来い」

趙雲は、しばし言葉を口にすることができなかった。
まじまじと、民を見据えている劉備の、厳しい横顔を見つめる。
「おまえもおなじだ。もし、江東のほうがいいと思うのであれば、孔明といっしょに残れ。
そうなっても、儂はいっさい責めない。おまえたちの好きなようにするのだ」
「ありえませぬ。主公、もしもほかの者のことばに煽られているのであれば、それはちがいますぞ。
それがしはもちろん軍師も、なんのために江東に行くとお思いですか。
そのほうが悲しく思えます」
「儂はなにも、おまえらを疑って、ヤケになっているんじゃねぇよ」
「ならば、なぜでございますか」

批難をこめて趙雲が言うと、劉備は肩から大きく力を抜いて、答えた。
「子仲らを見ていたら、不安になってな。
儂はいままで、おのれのことしか考えてこなかったが、この状況で、江東を敵に回すことになったなら、孔明はどうなる。
たしかに親兄弟で敵味方になることも稀じゃない世の中ではあるが、あいつはこの先、ずっと兄貴の存在を気にしながら動かなくちゃならなくなるだろう。
ただでさえ苦労かけているってのに、儂は孔明の人生をこれ以上、ややこしいことにしたくないのだよ」
「それは、過小評価でございますぞ!」
「うん?」

劉備のことばに、趙雲はおおいに怒りを感じていた。
孔明がそれほどに小さいものだと思われていることも腹が立ったし、疲労困憊しているとはいえ、劉備の意気がすっかり下がってしまっていることに、腹が立った。

「主公はお疲れなのです。軍師は親族のしがらみに屈し、志をたやすく曲げるような変節漢ではございませぬぞ。
主公は、諸葛孔明という人間をかばっておられるようで、その実、低く見られておられるのでは!」
趙雲の声が高くなったため、しんと静まり返っていたあたりに反響し、おどろいて、身を起こした民が何人もいる。
劉備はあわてて、迷惑そうに身を起こした者に頭をさげ、すまねぇ、この莫迦が、と言いわけしつつ、趙雲の耳をぐっと引っ張った。
「莫迦、みんな疲れて寝ているんだぞ!」
「それがしも疲れておりますが、これまでは眠ることができませんでした」
「だな」
「しかし、これから眠ろうと思います」
「うん」
「そして、軍師に合流しましたなら、さっそく江東へ向かいます」
「おう」
「そして、みなが、疑って悪かったと平伏するような見事な勲功を土産に、かならず戻ってまいります! 
そして主公にも、くだらぬことを考えたものだと、ぜひ反省していただきたい!」
「ええ? なんでそこで怒る?」
趙雲がすっくと立ち上がると、劉備は、その剣幕に、しばらく口をぱくぱくとさせていたのであるが、趙雲が怒りにまかせてずんずんと、寝所へ向かうと、ようやく我にかえったのか、
「ばかー、みんな起きちまったじゃねぇかー! 戻ってこーい。戻って、儂といっしょにみんなにあやまれー!」
と背後から声をかけてきた。
趙雲は戻ることはなかったが、劉備の声は、さきほどのしょげたものとはちがって、うれしそうに笑っているように聞こえた。



朝が明けるまえに、民をつれた一行は三方に分かれた。
結局、趙雲にたいし悪感情のぬぐえない糜芳は、ずっと口をきくことはなく、かわりに糜竺が、しきりにすまなかったと謝って来た。
趙雲にしても、あまりに糜竺がすまなさそうにするので、申し訳なくなり、短慮にすぎたと謝罪したのであるが、受け入れたのは糜竺だけで、やはり糜芳はなにもいわずに、黙って荊南へと民をつれて去っていった。

それを見て、なにやら面白い見世物を見たようにわらっている劉封らを思い切りねめつけて、趙雲は、これではたしかに、劉備が、親族同士で争うことになるかもしれない孔明のことを心配する気持ちがわかると思った。
兄と弟、養父と養子。
一緒に苦難を乗り越えるべきこのときにあっても、なぜに争うことがあるのか。
劉備は絶望するなと言ったが、これと見込んだ若者が、このように和を乱す真似を平気でするのを目の当たりにしては、心穏やかであるはずがない。
それなのに、自分たちの将来を案じてくれる。
優しい方だと、趙雲はようやく気づいて、それに気づかなかった昨夜のおのれを責めた。

謝罪しようと劉備を見れば、これはどういうわけか酔っ払っている。
戸惑いつつも、劉備に頭を下げようとした趙雲であるが、劉備は薄暮のなか、うれしそうに歌まで唄いながら、言った。
「よお、子龍。ちゃんと眠れたか? おまえには感謝せねばならん。
なにせ、おまえの声で起きた民と話をすることができたのだよ。これがやたらと面白い。
連中が言うのだよ。先祖伝来の土地を捨てるのは、身を引き裂かれるような思いであったけれど、この七年間、ずっとおのれを守ってくれた父にも等しい劉予州を見捨てたら、男がすたると思ったので、家族を引き連れてついてきたと、こういうのだ」
劉備はそういって、愉快そうに、声をたてて笑った。
「儂を見捨てちゃいかんと思ったというのだぞ。
儂が民を見捨てずにつれてきたのではない。民が儂を見捨てないで、ここまで連れてきてくれておったのだ。
いや、儂はほんとうに思い上がっておったわ。
人というものは、ほんとうに愉快なものだな。
なんだか楽しくなっちまって、そのあと、こっそり持ってきた酒甕をあけて、みなで酒盛りよ。
いや、盛り上がること、盛り上がること。なあ、益徳」

劉備に呼びかけられて、馬上の張飛は、どうやらめずらしくも二日酔いにかかっているらしく、うるさそうに答えた。
「ひでぇ酒だよ。なにが入っていたのだかわかりゃしねぇ。
くそっ、いま敵が襲ってきたら、昨日の倍は相手にできるな
……って、そこ! 俺の耳のとどく範囲で銅鑼を鳴らすな! おとなしくしてろい!」
出立の合図をするための銅鑼を鳴らす係である怒られた兵士は、銅鑼がならないように、あわてて揺れる銅鑼に飛びついて止めた。

趙雲は、なんだかおかしくなってきて、つられて笑っていた。
こんな困難のなかにあっても、陽気な連中だと思う。
江東がたとえ東華のごとき国であったとしても、かれらが陽気さをうしなわないように、かならず帰ってこようと、趙雲は決意をあらたなものにした。



民の数が減ったということもあり、劉琦の船と合流するための道中に、苦労はほとんどなかった。
途中、関羽が使者をよこし、首尾よく劉琦と合流できたことを伝えてきた。
それに遅れるようにして、孔明からの、劉琦の代理として伊籍が船をつれている、という報せが入ったとき、一行の士気は、ぐんと高まった。
とくに趙雲は、孔明が江東に逃げる気配もなく、きちんとみなを待っていることが誇らしかった。

そうして、一行が川辺から、水面にうかぶ白い大きな帆を見たとき、その場にいたすべてのものが、やっと苦境を乗り越えられたのだと悟り、大きく歓呼して、船を迎えた。
その声におどろいた水鳥が、いっせいに水際から飛び立ったのであるが、その光景は、まるで自然さえも、かれらの無事を喜んでいるかのようであった。



孔明は、まっさきに劉備の無事をよろこび、ついで、民の移動はうまくいったのかと気にした。
劉備と張飛が酒臭いことに首をかしげつつ、さしたる混乱もなく、民を移動させることができたときくと、まるで荊南にむかった民のなかに親族がいたかのように、うれしそうに破顔した。
それから、孫乾や簡雍といった、古参の家臣らにあいさつをしたあと、孔明はこちらに顔を向けたのだが、それはうれしいというより、すこし照れくさそうであった。

「まずは、お帰りと言うべきかな。やはりあなたは約束を守る人だ」
「返事に困るな」
趙雲が素直に言うと、孔明は声をたてて笑った。
「じつは、わたしもなにを言っていいのか、困っている。生きてあえてうれしい、だろうか。
でも、うれしいのは本当だよ。それをうまく言えない。怪我の具合はどうだ」
「悪くない」

むしろ悪化したのであるが、趙雲は黙っていた。
もし怪我が悪くなったと言ったなら、孔明は江東にいっしょに向かうことを許さないだろう。

「とりあえず、生き延びた。だが、それだけだ。いまは生き延びた。
そのあとの、俺たちの進むべき道はまだ見えていない。おまえが先導するのだ」
「うん」
孔明は力強くうなずいた。
その目に、悲愴な曇りがないことが、趙雲を安堵させる。
「おまえには謝らねばならぬ」
「おや、なんであろう」
孔明が怪訝そうに小首をかしげる。
「民よりも兵といった、俺はまちがっていた。主公がおっしゃるとおり、民があってのわれらであったのに、俺は恐ろしく思い上がっていて、それとも気づかず、おまえを傷つけたように思う。
おまえが正しかったのだ。あの土壇場で、おまえが考えた策があったからこそ、これだけの人数が生き残れた。民にかわって感謝する」
孔明は、趙雲のことばに、しばし息を呑んでいた。
そしてゆっくりと氷が解けるようにして、孔明の内側にあるなにかが、崩れていくのが感じられた。
と、同時に、孔明の瞳から、涙がひとすじ、こぼれた。
「ありがとう」
「江東へ向かおう。そこで曹操を迎え撃つのだ」
「江東は動くだろうか」
「いや、動くのを待つのではない。動かすのだ。おまえが動かせ。ここまで俺たちは生き延びたのだから、きっとできる。
俺はとことん、おまえに付き合ってやるぞ」
趙雲の言葉に、孔明はうなずきながらも、地平線からのぞいた太陽が、まさにそんなふうであったように、晴れ晴れとうつくしく笑った。
「そうだな。なぜだろう、あなたがそういうと、なんだってできる気がする」
「できる気がするというのなら、できるのさ」
趙雲としては、そうだろうと思ったことを言ったのであるが、孔明は不意に顔から笑みを引っ込ませると、趙雲の手を、その両手でぐっとつかんだ。
「わたしこそ、感謝せねばならぬ。
ありがとう。百万の敵をまえにしても逃げ出さない勇気が残っているのは、あなたのお陰だ。
わたしはきっと、あなたが望むどおりの者になる。見ていてくれ」
「いきなりなにを言いだすか」

さすがに趙雲は照れて周囲を気にするのであるが、周りは、それこそ船に乗り込む準備やらあいさつやらで、孔明と趙雲のやりとりは耳に入っていないようだった。

趙雲が照れているのを見て、孔明は満足そうに笑うと、その手を引いて、歩き出した。
「さあ、それではさっそくわれらの船出と行こうではないか。
そのまえに、あなたに会わせたい者がいるよ。向こうもあなたに会いたがっている。
嘘ではない、ほんとうだよ。ほら、あそこで手を振っているではないか。
おや、なんと爽やかな風であろうか。
まわりを見たまえよ、子龍。わたしたちは居城を捨てて逃げてきたのに、だれも悲しんで泣いている者はいない。
あなたの言うとおり、生き延びたのだから、きっとなんだってできるな。
さあ、行こう、東へ」



※無事に連載終了することができました。ご読了くださって、ありがとうございました(^^)/

「飛鏡、天に輝く」につづく
更新履歴にもどる
MAPにもどる
本編MAPにもどる