風の旗標


十五回目

「偉度」
顔をあげて孔明がつぶやくと、胡偉度は、鼻で笑って、おもしろそうに孔明を見た。
「合格です」
「なにがだ」
「あなたがわたしの名を忘れていたなら、このまま斬ってしまう予定でおりましたので」
と、偉度は、おのれの後れ毛を、長細いひとさし指で、くるくると巻いた。
孔明は衣のほこりをぬぐいつつ、眉をひそめて立ち上がる。
「忘れるはずがなかろう。自分でつけた字だぞ」
「それはよかった。字をつけるということは、わたしと縁を結んだこと。
同時にわたしの抱えた厄介なめぐり合わせとも、縁を結んだことになる。
勢いで名付け親になったけれど、あとになって後悔しているのではと思いまして」

唄うようにいう偉度に、孔明は気が塞がれる思いがした。
そんなふうに想像するのが、癖になっているほどに、この少年の周囲には、いままでろくな大人が存在していなかったのだとわかったからだ。
そして、偉度がそんな憎まれ口を叩くのは、自分を試しているからにほかならない。
さて、ここで忘れるはずがないではないかと、母親のように抱擁することもできるのだが、それでは、この少年の心は安らぐであろうが、求めているところは別のものだ。
わたしは父親であることを求められている。

孔明は、つんと顎をそらすようにすると、胸を張るようにして、高らかに言った。
「おまえはまだまだ誤解しているようだが、わたしは覚悟の塊だぞ。わたしはおまえの名付け親である。それなのに、おまえのこの態度はなんということだ。
おまえは父を、こんなふうに泥まみれにさせて迎えるように躾を受けたというのかね」
孔明のことばに、太い樹の枝のうえにいた偉度は、月光の下、秀麗な顔をゆがめてみせた。
「あなたが勝手に転んだのでしょう」
たしかにそうだ。
孔明は、ほかの子供たちも、刺客を討ち果たし、こちらにちらちらと目線を送ってきているのを気にしつつ、答えた。
「では、おまえはなにゆえ、わたしより高いところにいるのだね。降りてきて、名付け親たるわたしに、きちんと挨拶をするがよい」
「あいかわらず、むだに高飛車な方だ」

偉度は憎まれ口をたたきつつ、木の枝を滑るようにして降りてきた。
栗鼠のような子だと、その軽快な姿を見て、孔明は思った。
見た目だけであったなら、偉度は小柄で、少女のように見える。
表情豊かな双眸と、白磁のような肌、上品な目鼻立ちが、この少年の特長である。
しなやかそうな体つきをしているが、醸し出す雰囲気は、あくまで庇護欲をかきたてるような弱弱しいものだ。
とはいえ、見た目にだまれてはいけない。
この少年の外貌は、趙雲の幼なじみである夏侯蘭と同じように、影の仕事をさせるため、徹底して計算して、他者より押し付けられたものなのだ。
この少年の本来の顔は、その辛辣な言動や、色気の過剰な外貌からは読み取れない。
そこをまちがいなく的確に読みとってやらねば、この深く傷ついている少年は、たやすくおのれを見失い、ふたたび絶望の淵に立ってしまうだろう。

さて、ふたたび戦いだな、とおのれに言いきかせつつ、孔明はきびしい顔を崩さないように苦労して、偉度たちが自分のまえに集るのを待った。
じつのところ、偉度があらわれてくれたことは、うれしかった。
もちろん、自分を守るために、子供たちが戦ってくれたことも感謝している。
劉玄徳の軍師としての立場だけであったなら、かれらを使い捨てのきく手足のように見て、その働きを誉めてやればいい。
だが、父としては、これは叱らねばなるまい。
なぜ戦った、なぜ故郷に帰らなかったのか、と。

闇夜にあらわれた子供たちは、十余名ほどで、集めてみれば、びっくりするくらい、みな華奢で、少女の姿も含まれているようであった。
その前身は、流民からはぐれた子供であったのか、親がだまされて子供を差し出してしまったのか、あるいは恣意的に親を殺され引き離されてきたものか。
どちらにしろ、みな、悲しい過去を背負っていることにはまちがいない。
利権にまみれた大人たちが、その身から吐き出した鬱屈した闇でもって、この子らを飲み込んだ。
ならば、世間には、その闇に飲まれることなく、徹底して戦いつづける大人もいるのだということを示してやらねばならない。
それが、あらたに始まった、孔明の戦いであり、子供たちを守るということは、孔明の場合、そうした意味をもっていた。

「みな、息災でなによりだ。偉度、おまえ、怪我の具合はどうなのだね」
「おかげさまで、順調に回復しております」
「それはなにより。ほかに、怪我をしたものはおらぬか」
子供たちは、刺客を迎え撃ったことの首尾を最初に聞かれるだろうと想像していたらしい。
偉度をはじめ、戸惑って、顔を見合わせている。
しばらく様子を観察していると、素直に答えるべきか迷っている子供たちが、複数いるのが見てとれた。
「ならば、あいさつはあとにして、すぐに手当てをするように。傷口が化膿したら厄介だ」
「われらが使い物にならなくなったら、困るというわけですか」
偉度が先回りをして、吐き捨てるようにいうのを、孔明はぴしゃりと跳ね除けた。
「たわけ! 万が一、このようなところで傷を悪化させて、腕や足が使い物にならなくなってみよ。どうやって土を耕す? どうやって井戸から水をくみ上げるのだ! 
さあ、遠慮はいらぬゆえ、すぐに治療をするがよい。
それから、ここに留まっていては、あらたな刺客がやってくるかもしれぬ。元気なものは、すまぬが、わたしの従卒と馬を助けて、移動を手伝ってくれ」
「馬はともかく、あなたの従卒は、みな、死にました」
偉度のことばに、孔明は目をつむり、深くため息をついた。
その様子を、偉度は冷ややかに、大きな瞳でもって凝視している。
「あなたを狙ったのは、樊城の壷中の残党です。われらの指導に当たっていた者たちですよ。
どうやら、はやばやと曹操に協力することを決めたようですね」
「そのようだな」
短く答えて、孔明は、偉度の言葉のなかに、倒した者への嫌悪が含まれていることに安堵した。
と、すぐに、安堵したおのれを軽蔑した。
子供たちを、恐怖と屈辱でもって抑圧していた者たちが敵だったとして、だからこれでよかったのだという言いわけにするのは、ずるいことだ。

「偉度、みなの代表として、おまえに尋ねるが、どうしてみな、いまだに壷中にいたときと同じ暮らしをしているのかね」
「すっかりすべて同じではございませぬ。われらはいま、劉公子のもとに身を寄せております。
年少の子で、親のいるものは故郷へと返しましたが、身寄りがないものや、帰るに帰れない者は、わたしとともにいるか、故郷へ向かう子の付き添いをしております」
「劉公子が、わたしのために、おまえたちを差し向けたのか」
「なにをお尋ねになりたいのか、なんとなくわかりますのでお答えしますが、劉公子を責めるのはお門ちがいでございますよ。
われらは、われらの意志によって、劉公子にしたがい、あなたを助けた。壷中のときとはちがう」
「もう剣を振るってはならぬ」
「そのご命令には従いかねます。あなたはたしかにわたしの名付け親ではあるが、われらの主君ではない」

言いつつ、偉度は、へたばっている劉備の馬の手綱を取った。
「いまは落ち着いていますが、気が狂ったような馬ですね。自分の身体がどれだけ傷つこうとかまわず、ひたすら逃げることばかり考えていた」
さきほどの狂乱した様子が嘘のように落ち着いている馬に、偉度がいうのを、孔明はたしなめた。
「そう悪く言うな。わたしの馬ではなく、主公の馬だ」
「劉玄徳の馬は凶馬、あの男は、人でも馬でも、厄介者を抱えるのがすき、とだれかが申しておりました」
「それはちがうな。あの方は、われらと目線がまったくちがう。気性のむつかしい馬であるにはまちがいないが、もしもわたしがいつもの馬に乗っていたら、刺客たちから逃げおおせることができたかどうか、あやしいと思う。
すべてのものには相反する側面がある。あの方は目線が柔和なので、そのどちらも冷静に見据えることができるのだ」
孔明のことばに、偉度は反発するように鼻を鳴らした。
「たしかに、目と鼻の先にいながら、樊城を中心とする悪徳に毒されなかったのは、新野のあなたがただけでしたね」
「悪徳のほうが主公を避けたのだろう。あのひとには、こう、悪が触れると自滅させてしまうような、ふしぎな力がある。呂布もそうだった」
「曹操もそうなりますか」

偉度の言葉の調子が少し変わったので、孔明が意外におもい、顔をあげると、ほかの子供たちも、みな、孔明のつぎの言葉を緊張して待っている。
かれらは劉琦のもとで働いている。
劉琦は、気弱ではあるが心優しい若者なので、子供たちには慕われているのだろう。
子供たちはみな、曹操が樊城を落としたことで、劉琦の運命がどうなってしまうかを心配しているのだ。

不意に孔明は泣きたくなってきた。
この子らの、いまの境遇があるのは、樊城と、それを取りまく豪族らのしがらみと欲と、惰弱ゆえである。
劉琦はたしかにわるい人物ではないが、うすうすと、樊城とおのれを取り巻く裏側に気づいていたはずだ。
保身のために沈黙することも、悪徳を助長させる原因である。
それなのに、子供らは、自分たちにやさしくしてくれる大人に飢えているからこそ、劉琦に心を寄せているのだろう。
同時に、劉琦の立場は、おのれにも当てはめられることなのだと、孔明は思った。
ほんとうになにも知らなかった。
だが、知らなかったから責任がなかったとは言えない。
自分は運がよかっただけで、叔父たちが命を捨てて守ってくれたから、助かったのだ。

叔父はほんとうに立派な人だったと、あらためて孔明は思った。
いくら血縁だとはいえ、甥や姪のため、自身のすべてをかけて守ることができた、勇気のある人物だった。
もらった命と志は、決して惰弱と悪徳に捧げてはならない。
建前ではなく、なんとしても、子供たちのすべてを、本来のいるべき場所に戻してやろうと、孔明はそのときつよく決意した。

そのためには、まずは劉琦と劉備を合流させる。
そして曹操が手を出しかねて迂回し、そのまま江東に向かうように仕向け、孫氏と曹操の対決をうながすのだ。
孫氏には、もちろん勝利をしてもらわねばならない。
そこで勝って、はじめて劉備も劉琦も、同盟者としての位置を確固たるものにできる。
曹操の軍は勢いづいているとはいえ、一方で疲弊していることも確かなのだ。
そして、その主戦力は陸上戦には向いているが、水上戦にはとんと疎い青州兵が中心である。
戦い方によっては、江東は十分に勝利をおさめることができるはず。

「劉公子には、江夏にて、荊州に残留する、曹操の兵への牽制をお願いしたいと思っている」
孔明は子供たちに指示しながら、徒歩で林道を歩きつつ、自身の展望を語った。
子供たちは孔明のあとからゆっくりと歩を進めながら、私語ひとつはさまず、だまって聞き入っている。

やはり最初に口を開いたのは偉度であった。
「公子は、江夏から動くことは、かないませぬ」
「ご病状が悪くなっておるのか」
「ひどい貧血をなさっておいでで、薬もなかなか効かないのです。
曹操が南下したという報を関将軍の急使より聞かれた公子は、ご自分で劉予州をお助けするのだとおっしゃっておりましたが、機伯どのが、床についたきりの御身が動いて、途中で倒れたりしたら、かえって劉予州の足を引っ張ることになると、けんめいに説得して、代わりにわれらを遣わしたのです」
「それほどにお悪くなっておるのか」
偉度は、悲しそうにちいさく首を振った。
「ご想像なさい、樊城は、われらにとっては悪しき夢の象徴ではありますが、劉公子にしてみれば、ふるさとそのものなのでございますよ。
それが敵の手に落ちたのです。おのれの身の不甲斐なさに、気が塞がってしまったのも無理からぬこと」
「仕方あるまい。あの方は、あの方のできる最善のことをした。いち早く江夏に向かっていなかったら、おそらくいまごろは、曹操と組んだ蔡瑁らによって、樊城は虐殺の場となっていたであろう。
おのれの執着を捨てることによって、おのれに仕える家臣とその一族を救ったのだ。なかなかできることではない」
「それをどうぞ、公子にお伝えくださいませ。さすれば、お心がすこしはやすまりましょう」
偉度のことばに、うしろからついてくる子供たちも、そうしてほしいというように、無言でうなずいた。

孔明はここで、偉度を中心とする『壷中』の規則に気づいた。
壷中は実力主義なのである。
背後にひかえる子供たちのなかには、偉度よりも年上の若者がいるようであるが、偉度が口を開かないかぎりは、絶対に何も言わない。
おそらく、実力があるものが頭となり、ほかのものは、徹底してそれを立てるようにと躾けられてきたのだろう。
そうすることで、命令を忠実に実行させられるようになるからだ。
もちろん、自由がないため、臨機応変さにかけるが、波に乗れば、そういう集団ほど恐ろしいものはない。

「しかし、おまえは、よくわたしがこの道を通るとわかったね」
孔明がたずねると、偉度は馬の手綱を引きながら、なんてことはない、というふうに肩をそびやかした。
「関将軍の急使の話から判断したまでです。
劉予州の軍は、樊城の壷中のために道を妨害されて、どうしても南下せざるをえなくなる。
とうぜん、道を変えたという遣いがわれらの元へと来るはずだ。
壷中が動いているということを知っているのに、わざわざ目立つ道を通る莫迦はおるまい。
となると、間道を抜けてくるはず。
だから、こちらも手を分けて、いくつかある間道に、人を配して待っていたのです。
まさか、あなたが来るとは、思っておりませんでしたが」
「いい読みだったな。おまえは軍師に向いておるかもしれぬ」
「わたしもそう思っておりますが、軍師と名のつく者は、みなおかしな人たちばかりなので、やめようと思っています」
「そうかい」

「それよりも、お尋ねしたい。なぜにあなたが直接来たのです。
わたしは、武官のどなたかがいらっしゃるだろうと思っておりました。
刺客があらわれる危険を思えば、文官より武官のほうが、この役目にはふさわしい」
「うむ、そこは気づかなかった」
「は?」
「いや、こちらも劉公子の加減がそこまで悪くなっているとは知らなかったら、おそらく劉公子ご自身がこちらに向かっているだろうと思いこんでいた。
だから、話を早く進めるには、ある程度の知己がよかろうと、それを基準にしか考えていなかったのだ」
「つまり、刺客があらわれることに関しては、なにも想定していなかった、と」
「うむ、甘かったな」
「大甘です! あきれたな。我らが出てこなかったら、あなた、確実に死んでいましたよ」
「まったくだ。いまになって背筋が寒くなってきた。そなたたちには感謝している」
「当然でしょう」
「主公の肝の太さが、馬を通じてすこし移ってきたのかな。となると、わたしの運は、まだまだ尽きていない、ということにもなるまいか。
これならば、江東でもよい成果が出せるかもしれないな」

孔明のことばに、偉度が顔をしかめた。
どうやら、まだ劉琦のもとへは、魯粛たちは到着していないようである。
孔明は、魯粛から持ちかけられた同盟の話を、隠すことなく正確に偉度らに伝えた。
みな、賢い子供たちばかりである。
下手に嘘をついたり、隠し事をしたりすれば、かえって不信感を煽るだけだとわかっていたからだ。

話を終えて、孔明がとなりを見れば、自分を、すこし顎をあげて見ている偉度の目つきが、すこし変わっていることに気づいた。
そこにはおどろきがある。
江東の孫氏が動き始めたことへのおどろきではなくて、すべてを正直に伝えようとする孔明に、おどろいているようであった。
「では、お独りで江東に向かわれるのですか」
「そのまえに、劉公子にごあいさつをしたい。叶うであろうか」
「それは是非に。すでに兄弟らが、公子あてに急ぎ発っております。
劉予州と合流できるように、すぐに船団は移動するはずでございます。
それにしても、魯子敬がじきじきにやってくるとは、軍師の人物を見定めるためもあるのでしょうが、それだけではございますまい。
江東の孫家が割れているという話は、どうやらほんとうのようでございますな」
偉度のことばに、孔明は柳眉をひそめた。
「名にしおう美周郎こと周公瑾が病を得ているという話は、事実でございましょう。
孫権は年若く、その後見として、二人の人物が控えているのですが、周公瑾は、そのひとり。
そして一方は、張子綱でございます。
両者ともに見識が高く、徳の高い人物であると聞いておりますが、しかし、張子綱と周公瑾は、あまり仲がよくないと聞いております」
「まことか。そういえば、曹操が間者をひんぱんに遣わして、江東の家臣らを混乱させていると、魯子敬が話していたが、それゆえか?」
「いいえ。もともと性に合わないということから始まるようでして、派手好みで、若く血気さかんな周公瑾と、功名をもとめずひたすら忠勤に励む張子綱と、その両者の目的は孫家を守るということで一致するのに、用いる手立てがちがうと申しましょうか。
今回の曹操の南下に関しては、おそらく両者とも、孫家を守るという目的から、開戦を推奨することでありましょう。
けれど、周囲の豪族たちが、反発し、それぞれ勝手に意見を戦わせているという状態であるようです」
「そうか。なれば、わたしは周公瑾ばかりではなく、張子綱とも協力する必要がある、というわけだな。
貴重な話をありがたく思うぞ、偉度」
「どういたしまして。魯子敬は、あなたを周公瑾の後継に、と言ったのですか」
と、偉度は胡散臭いものを見るように、孔明のほうに目を向けてきた。
「わたしがそう望んだのではないぞ。そも、受ける気などまったくない」
「けれど、先方は、すっかりその気なのでしょう。
周公瑾はたしかに千年に一度の大器。ですが、欠点もある。強引。それです」
「よく知っているな」
「わが兄弟たちが、周公瑾には何度も泣かされておりますから」
「それはそれですごいな。おまえたちを泣かせることができるなど」
「どちらの味方です」
「悪く取るな。しかし、千年に一度の大器とは、すさまじい評価だな。
おまえがそういうのであれば、そうなのだろうが」
「ずいぶんと信用していただいているようですが、わたしだけではない、みながそう言っております。
周公瑾は只者ではない、帝王の器である、と」

孔明は、そこに感心するというよりも、なにか不穏な、そして不吉なものを感じ取った。
主君である人間がそこまで高い評価を得ているというのならともかく、周公瑾は家臣なのである。
孫権は、自分よりいくつか年下の青年で、実兄の義弟である周公瑾をたいへん慕っているということだが、そんな評判を方々から聞かされて、心穏やかでいられるものだろうか。
まだ心がおさなく、無我夢中で執務をとっているあいだは、そこに疑問すら浮かべないかもしれないが、おのれの才覚に自信を持つようになって、周公瑾の評判についてあらためて考えるようになったなら、なにを考えるだろう。

もし、自分が曹操であったなら、そこを突かないか?

「曹操の南下について、孫権自身がなにか動きを起こしたという話は、おまえは知らないか」
「いいえ、ふしぎと、とんとなにも聞こえてきませぬな」
「周公瑾の話ばかりか」
「はい。なにか気になることでも?」
「いや」

情報がすくないと、孔明は思った。
自分は、周公瑾や張子綱、そして孫権の人となりを伝聞でしか知らない。
やはりここは江東へ出向き、おのれの目で、いま何が起こっているのかをたしかめねばならないだろう。

江東。揚州。
いやでも連想されるのは、叔父を太守の地位から追放した者たちに与し、暴徒と化して襲ってきた民の姿であった。
あのときから、運命は変わったのだと、いまだからわかる。

ふと、偉度をはじめ、子供たちが、孔明のほうをじっと見つめているのに気がついた。
孔明は、気を取り直し、かれらに笑ってみせた。
「すこし気になることがあったのだよ。
しかし、おまえたちがこうして共に歩いてくれているから、きっとじきに解決するだろう」
「よくわからぬお方だ。どうしてそんな言葉がぽんぽんと口から出てくるのやら。
思いつきで話しているだけで、実際がともなわないのなら」
「なら?」
「首を頂戴しますよ。わたしはそういう人間がだいきらいだ」
偉度の言葉に、孔明は声をたてて笑った。
「おまえを怒らせてしまうような人間なら、首を取られてしまっても仕方あるまい。
そうならぬように、わたしも努力しなければな」



林道を抜けると、そこは小さな川になっていた。
偉度たちが乗ってきたという小舟が何艘か用意してあり、孔明は劉備の馬とともに、船に乗って劉琦の船団へと向かった。

と、同時に、東の空がしらじらと明け染めて、川面の上に、いくつもの光の波を起こした。
昨日の殺戮など嘘のように、さわやかな景色である。
これほど世界は美しいというのに、人ばかりがなぜに争うのだろうと、曙の空のした、光を喜ぶようにして飛び立つ水鳥をながめながら、孔明は思った。
そして、この景色を眺めることができなかった、何百、何千という民のことを思った。
同じくこの太陽を見るであろう、顔もしらない曹操という男は、死んでいった民のことに、思いを馳せるであろうか。
それとも、勝利の余韻にいまだ浸っているのだろうか。

そして太陽が高く昇りはじめたころ、遠方に、劉琦の船団を目にしたとき、孔明は心より安堵した。
これで民は救われる。
けれど、忘れてはならないことは、すべての民を救うことはできなかった、ということだ。
曹操の南下に対して、準備をしてきたという油断がどこかになかったか。
ありとあらゆる可能性を含めて、最大限の努力ができただろうか。
いま、混乱は収束に向かいつつある。
つぎの戦いが始まろうとしている。
つぎは、けっして負けない。
いや、負けてはいけないのだ。

十六回目につづく
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