風の旗標
十四回目
夜闇がこれほどにありがたく思えたことはない。
部下たちにささえられながら橋をわたり、趙雲は、闇に溶けていく空をながめて、安堵した。
背後から、ひづめの音が追いかけてくる気配もない。
張飛は、みごとに殿の役目をはたして、うまく足止めをしているようであった。
橋を渡りきると、ゆるゆると歩をすすめながら、民がそれぞれ糜竺と糜芳の兄弟に先導され、いくつかの列にわかれているのが見えた。
そのほとんどが、橋を渡りきった安堵によるものか、それとも大事な者を亡くした喪失感ゆえか、地べたに座り込んでいる。
かれらはたがいにほとんど口を利かぬまま、身を寄せ合っているのであるが、夜の帳がその姿をどんどん隠していき、うす闇の下にあるその姿は、川面に顔を出している岩塊のように見えた。
砂埃と汗とに汚れたかれらのなかで、腹をすかせた子供らが、ひたすら泣き喚いている声ばかりが響き渡っている。
怪我を負った兵卒らもまた、民にまじって身を地に横たえていた。
かれらはみな、困惑と疲労を、複雑に相貌に浮かべている。
夜がきてもなお、地面から湧き上がる熱気によって、寄り集まった人々のあいだからは、むっとするほどのにおいがたちのぼっている。
そのにおいで、趙雲は、劉備に仕官したばかりのころ、袁紹のもとから荊州へ逃げたときのことを思い出していた。
しかし、あのときはまだ食糧があった。
連れている女子供も、これほどの数ではなかった。
真夏という条件もあり、劉備と、まわりを囲む民の衛生状況は、目に見えてわるくなっている。
水と食糧をもとめて民が暴徒と化すか、それとも疫病が発生するか、どちらが早いだろうか。
甘夫人のわずらった疫病は、南方よりやってきた商人によってうつされたということであるが、はたして、その災禍に見舞われたのは、夫人ばかりであろうか。
民のなかに、疫病をわずらっている者がいないだろうか。
この状況ならば、疫病をわずらっていながら、命を守るために沈黙している者がいても、おかしくはない。
そしてそれを、責められまい。
趙雲はふしぎだった。
なにがふしぎかといえば、おのれの心がふしぎだった。
それまで、趙雲は、だれかを本気で心配したことの経験が、極端にすくない男であった。
これまでも部下の将兵のことは気にはしていたけれど、それはあくまで将兵を数字として見ていたがゆえである。
こちらの数が十で、向こうが百なら、どう戦うか、そういった戦略を練るために数字は必要であり、できあがった戦略を保たせるために、数を一定にしなければならないから、将兵を守る、といった具合だったのである。
いま、目のまえにいる民を、おかしな気持ちではあるが、趙雲は、いとしくさえ思った。
民が新野に集ってきたときは、これほど邪魔な物はないとさえ、どこかで思っていた。
かれらひとりひとりを、心のある人としてすら見ていなかった。
その傲慢さに、いまさらながら気づき、慄然とする。
将軍、将軍と持ち上げられて、七年のあいだに、心が思いあがりで醜くふくれていたのではないか。
七年の平和を享受できたのは、なにも自分たちが勇猛であったから、運がよかったから、天下の情勢がそうであったからというだけではない。
いま、目のまえにいる民のひとりひとりが、自分たちの生活を支えてくれていたからこその、七年もの平和であったのだ。
かれらと築いたちいさな積み重ねの日々こそが、いまのおのれを築いてくれていたのである。
なんの不安もない、穏やかな日々だった。
それをたやすく破壊してしまう力こそ、本来ならば、もっとも憎まねばならぬものであったのに。
孔明にひどいことを言ったと、趙雲はそこで気がついた。
なぜ民を助けないのかと、まず叫んだ、あの感覚は正常であったのだ。
それを、現実を見ていないと叱りつけ、取引の材料としての兵卒のみを優先させろなどとどやしつけた。
いまは、それが間違いであったと、はっきりわかる。
どこかに余力を残さねばという計算があった。
だからこそ、厄介な荷物でしかないと思っていた民を、切り捨てるように平然と述べることができた。
そんな莫迦な話があるか。
民を守ってこその将。
おのれの身を安寧にみちびく道具としての兵卒を優先させるのは、将のふるまいではない。
民をないがしろにして、おのれの身ばかりを可愛がる、それでは気の利いた盗賊の頭と、変わらないではないか。
趙雲は、ゆっくりと歩みを進めながら、深く深く、ため息をついた。
趙雲を支えていた部下が、気遣わしげに、
「傷が痛むのですか」
とたずねてきたが、趙雲は無言のまま、首をちいさく横に振っただけにした。
おのれの小ささを思い知らされて、悲しかった。
そして、やつれた顔をして、胡乱なまなざしを趙雲に向けてくる民の姿が、悲しかった。
かれらは何もかもなくしたのだ。
なにひとつ悪いことをしていないかれらが、なぜこんな理不尽な目に遭わなければならないのか、その答えを述べることができるものは、いない。
戦はほんとうに嫌なものだ、どうしてそれに、いままで気づかなかったのか。
そうつぶやいた孔明の心が、いま身に沁みてわかった気がした。
そしてさらに深い失望をおぼえる。
あまたの戦場を駆け、多くの命をこの手で奪った。
それなのに、いま、ようやくその重さを知ったとは。
やがて夜が本格的におとずれてくると、張飛の部隊は、孔明の指示どおり、橋に火をかけ、ひとまずは青州兵らが川を渡れないようにした。
街道の途中でつくられた橋であるから、木のつり橋とはいえ頑強なしつらえで、これを落とすのに斧をつかっての作業となったが、そのあいだも張飛はぎりぎりまでかれらを守るようにして、青州兵へのにらみをきかせていた。
橋を落とすというこちらの作戦に気づいた青州兵は、曹操の甥である夏侯恩が討ち取られたということもあり、一旦は退却し、曹操の判断をあおぐため、樊城へと戻っていった。
皮肉にも、雲ひとつない、見事な夜空であった。
満天の星空を見上げて、趙雲は、これならば、東へと馬を走らせている孔明も、いくらかマシな状況にいるだろうと考えた。
無意識のうちに、手当てを受けた胸の傷に、手が触れていた。
怪我さえしていなければ、いますぐに東へと、孔明を追いかけることもできるのだが。
趙雲は、じつは怪我がさらに深くなったことを隠して、東へ向かおうとしたのであるが、しかしどこから漏れたのか、耳敏い劉備に怪我のことはばれており、なかば叱られるようにして、野営地にとどまっている。
輜重隊は青州兵に襲われてしまったのだが、しかしべつに運んでいた食糧がいくらかあったらしく、あちらこちらで鍋の準備がはじまっている。
運び出した米だけではなく、戦で死んだ馬や牛の肉をさばいて食べているのだ。
いくらか活気を取り戻している民のなかでも、糜竺の指示を受けたものらしく、あちこちで男らが、それぞれの集落ごとにあつまって、あれやこれやと話し合いをしている。
なにをするつもりなのかと、民を守っていた兵卒にたずねると、孔明の策で、民を三つにわけて移動するのだと聞いて、趙雲は、繊細なくせして、こういう局面には図太いほどの強さをみせるやつだと、あらためて孔明に感心した。
荊州の南部の豪族や太守たちにうまく恩を売り、民たちを受け入れさせることに成功したら、船に収容したあと、民をどうするかという問題も解決する。
おなじ荊州の民である。
受け入れる側の土地にも縁故がいるであろうし、理不尽な目に遭わせられる危険はすくなかろう。
だれも救えないと嘆いていたなかで、窮余の策とはいえ、そこに目をつけたのは正解だ。
諸葛孔明、やはり只者ではない。
そんなことを考えていると、劉備のためにつくられた幕屋のほうから、民をまとめていたはずの糜竺が、民のあいだを縫って、こちらに向かって駆けてくる。
糜竺と趙雲は、さほど親交があるというわけではない。
たがいに悪い印象はなかったが、年が離れていることもあり、これまで、職務以外のことで親しくすることがなかった。
ここ数日の、想像を絶する苦難ゆえに、一気に十年くらい老け込んだように見える、この上品な初老の文官は、息を切らして、
「子龍どの、子龍どの」
と、手を振りながら近づいてくる。
どうしたのだろうと思っていると、近づいてきた糜竺は、これまためずらしいことに、興奮して、息を切らせているのであった。
しかしよろしくないことに、糜竺は怒りのために興奮しているらしい。
いつもはにこにこと穏やかな笑みをたやさない、おっとりした人物なのであるが、これが蜂に刺された馬のように鼻息を荒くして、やってくると、問答無用でいきなり腕をつかんで、ぐいぐいと引っ張ってきた。
こちらにこい、ということらしい。
「なにかございましたか」
身分にしても人品にしても、はるかにおのれより上にあたる(と、趙雲は思っている)糜竺の手をふりほどく気は、趙雲にはなかったから、されるがままにしてたずねると、糜竺は早口で答えた。
「みなは、戦に怖じて、おかしくなってしまったとしか思えぬ。よき論客が、わたし以外には貴殿しか思いつかぬのだ。
早くこちらへ。ささ、早く」
いろいろ誉め言葉をもらったことがあるが、『よき論客』といわれたのは、はじめてである。
趙雲はいやな予感にとらわれながらも、ちらりと前方の、幕屋のほうを見た。
いま、殿(しんがり)をつとめて、いまもなお橋から離れないでいる張飛以外の、主だった将は、みな、急ごしらえの劉備の幕屋にあつまっている。
趙雲も、怪我の手当てが終わったので、そちらに向かう途中であったのだ。
「なにか騒ぎでも」
慎重にたずねると、糜竺は、ぐるりと、駒のようないきおいで振りかえると、言った。
「呆れたものぞ! といっても、口惜しいことに、たわけものの中にも、わが愚弟が含まれているのが、さらに口惜しくてならぬ!
芳は、いまでこそ育ちすぎたくらいに大きく育ったが、幼いころは虚弱であったから、なにかにつけ庇ってきたのであるが、いま思うに、それがいけなかった。
ええい、その過ちが、我が身に返ればよいものを、なぜに軍師に向かうのか!」
「軍師?」
言葉を聞きとがめて趙雲が言うと、糜竺はこくりとうなずいた。
「よくない話をせねばならぬ。若君(劉封)とわが愚弟どもがあつまって、軍師をほぼ単身で東に向かわせたのは失敗であった、おそらく劉公子の船は到着すまいと、騒ぎ立てておるのだ」
趙雲は、糜竺の剣呑な表情にあわせるようにして、おおいに顔をひそめた。
「なぜに。軍師はこのまま江東に向かう手筈ではない。
東に向かったのは、劉公子と落ち合い、船を呼ぶため、そのあとに江東でございましょう」
「ところが愚弟どもが申すには、青龍とかいう偽名をつかって主公に近づいてきた男が、魯子敬だったというのが、なによりの証拠だというのだ。
魯子敬という男、軍師の兄君とたいへん親しい間柄だということを、貴殿は、知っていたかね」
「魯子敬本人が、親交がある、とは言っておりましたが、どれほど親しいのかまでは」
趙雲が怪訝そうに答えると、糜竺は、またうなずいたが、その表情には、さきほどよりも緊張がある。
「愚弟にしても若君にしても、どこでどう知ったのやら、魯子敬は、軍師の兄君とは刎頚の交わりの仲なのだそうだ。
つまり、そういった人物が、わざわざやってきたということは、われらと同盟を組むための様子見というのではなくて、兄君に頼まれた魯子敬が、軍師ひとりを迎えにきたのではないか、そして、軍師は船を呼んでくるという話を口実にして、じつはこのまま、江東に、単身で逃げるつもりではないかというのだよ」
「軍師がわれらを見捨てると、最初から、その腹積もりであると」
趙雲の表情が、どんどん険しくなっていくのに押されるようにして、逆に、糜竺の顔からは興奮が去っていった。
「うむ、すまぬ、そのような莫迦な話があるか、中傷もいいかげんにせよと叱ったのであるが、ともかくみな興奮しきって、わたし一人では抑えられぬ。
軍師のなくなられた叔父君のことからはじまって、やれ、壷中とかいうのも軍師の身内からはじまっているから怪しいだの、わが陣の情報が漏れているのも、軍師その人が漏らしたのではないか、だのと、好き勝手をぬかしよるのだ。
忌々しい。そしてわたしは情けない。このようなときに、もっとも働いている者を貶めて、民を慰撫することも忘れている者が、身内にいるのだからな。
主公はもっとたまらぬであろう」
「どうなさっておいでか」
「いつものように、黙ってみなの話を聞いておられるが、いつまでもつか」
話をしながらも、趙雲と糜竺は幕屋のまえにまで来ていた。
篝火の焚かれた幕屋のその内側では、なにやら激しいいい争いが聞こえてくる。
そのさまざまな声のなかで、劉備の養子である劉封の甲高い調子の声と、糜芳の畳み掛けるような声が耳に入ってきた。
孫乾ら文官たちは、孔明をかばっているのだが、糜芳らはこれを論撃しているのである。
糜芳をはじめとする武将の何人かは、すっかり孔明を裏切り者と断じているようであった。
とたん、趙雲は押さえが利かなくなった。
糜竺の腕をふりほどくと、趙雲は、無言のまま、衛兵にあいさつをすることもなく幕屋の中に押し入った。
趙雲のとつぜんの登場で、幕屋のなかの者たちは、議論を中断した。
趙雲は、やはり無言のまま周囲をみまわし、糜芳の姿をさがした。
周囲のものも、趙雲のただならぬ剣幕におどろいて、沈黙をつづけている。
とたん、趙雲のすぐそばで、耳慣れた声がした。
「おや、長坂の英雄のお出ましだな。
ご一同、場を空けられよ、阿斗を助け、奥方をお助けし、青州兵を食い止めた英雄どののお出ましだぞ。
しかし、子龍、儂の耳には、おかしな話が聞こえてきておるぞ。おまえが南から、ふたたび北にもどってきたのは、主公のためでも民のためでもなく、曹操に投降するつもりであったからだとな!
だから、曹操の甥もろくに討ち果たせず、汚らわしい小人風情に勲功を横取りされたのだ!
そして軍師が東に逃げるのも、そのまま見逃した! おまえもあの臆病者の仲間」
趙雲は糜芳にみなまで言わせず、振り向きざま、その顔面のど真ん中に、おのれの拳を叩き込んだ。
だん、と重い地響きとともに、糜芳は口を開けたまま、仰向けに地面に昏倒した。
夜の闇に押されるようにして、孔明はひたすら馬を東へと向けた。
案内された木々は夏のあいだに生い茂り、たまにその伸びた枝でもって、せまい道を全速力で疾駆する孔明の身を打ったが、もはや孔明はかまっておられなかった。
案内役の兵卒のほうが怖じて、道も暗いので危険だから休もうと進言してきたのだが、孔明は、天恵のごとく月が出ていることを理由に、ひたすら東へ走りつづけていた。
長坂の仲間たちは無事だったろうか。
怪我はしていないだろうか。
兵卒たちは、民たちは、みな青州兵の襲撃から逃れ、橋を渡りきっただろうか。
いや、渡りきっただけでは駄目なのだ。
そこから先が問題になってくる。
三つに分けたとはいえ、その数はやはり多い。
そして、なにより青州兵の襲撃により、輜重隊がうばわれたのだから、すでに食糧は尽きている。
空腹をかかえたままでの進軍は、昨日よりもなお、速度が落ちるはずである。
朝になって必死に東にむかってきたとして、その先にはっきりと希望を示してやらねば、民は極限状態に耐えかねて、ついには暴徒と化す危険がある。
なんとしても船を連れてこなければ。
「軍師、やはり無理がございます! 逸るお気持ちはわかりますが、どうぞここは堪えて、朝を待ちましょう!」
随伴してきた将が言うが、孔明はまったく無視して、先陣を切って馬を走らせた。
魯粛とともに、趙雲と甘夫人を追って馬を駆ったときは、整備された街道を走っていればよかった。
しかし、いまは、けもの道にちかい狭い場所を駆けている。
道には倒木もあれば、岩もあり、どころか夜になって、あちこちから野鳥だの鹿だのうさぎだのが出てきて、馬をおどろかせることもある。
「軍師、軍師は、夜のけもの道を早駆けした経験がおありなのですか!」
なければ止まれと暗に言う将のことばに、孔明は答えた。
「ない!」
あまりにきっぱりはっきり断言したために、将のほうは絶句して、それきりことばをかけてこなかった。
怖くないといったら嘘になるが、いまは恐怖よりも、なんとかせねばという心のほうが強かった。
趙雲は民より兵を優先させろと言ったが、まだ助けられる手段が残っているのなら、死力を尽くしてもそれに賭けたい。
馬が潰れたとしても、孔明はおのれの足で、劉琦の船を探すために東へ走っていく覚悟を決めていた。
それこそ、うまく劉琦に会えるのであったなら、二度と走れなくなってもかまわないとさえ思っている。
そうして、ときおり、意地の悪い小枝に額を叩かれつつ、それでも風で乾いた目を見開いて、けんめいに進んでいた孔明であるが、森を抜けてちいさな崖のきわを走っていたとき、風とも鳥とも虫ともちがうなにかが、ひゅっ、と真横をかすめていったのがわかった。
しばらくは、なにかが飛んできたな、カナブンだろうか、などと考えていた。
が、やがて、うしろについてきていた将兵の馬が、はげしく嘶いた。
同時に、周囲にある木々の枝を道連れにして、地面に落ちた大きな音がする。
ようやく孔明は、なにが起こったのかに気がついた。
暗い森のなか、月光に照らされている光景は、ぞっとするものであった。
さきほどまで孔明に元気に話しかけていた将が、草叢のなかへ頭から突っ込んでいる。
孔明からは、その両足だけが見えるのであるが、それはもう、ぴくりとも動かない。
気絶したのではない。
絶命したのだと、直感でわかった。
「馬を止めてはなりませぬ! 標的になります! はやくこの道を抜けてくだされ!」
と、もうひとりの将の叫び声に、孔明は我にかえった。
そして興奮してたたらを踏む劉備の馬をなだめつつ、ふたたび前進しようとする。
すると、将のことばが逆にきっかけを与えてしまったのか、崖のうえから、月光とともに、雨のように矢が降り注いできた。
「お早く!」
矢を跳ね返そうと、剣を抜いた将兵は、孔明の馬の腹を、足を伸ばしておもいきり蹴った。
とたん、凶馬と噂の劉備の馬は、なにやら『ぎゃふん』とも聞き取れるような、悲鳴のような奇妙な声をあげると、孔明を背に、猛烈に駆け出した。
振り落とされないように、馬の背にしがみつくようにした孔明の耳に、背後から、ずっと付き従ってくれていた将兵の、最期の声が聞こえてきた。
「くそっ、おまえは、まことに凶馬であるな!」
悔しさまぎれに孔明がいっても、まさに馬の耳になんとやら、馬は目が見えなくなってしまったのかのように、じぐざぐに、ネズミのように駆けていく。
しかしその、予測不能なうごきが、かえって刺客を混乱させたものか、矢はつづけて射掛けられたものの、孔明らとはまるで見当違いなところを狙っている。
背後を気にしていた孔明であるが、ふと前方に目をやれば、矢では拉致があかぬと見たか、頭巾をかぶった刺客が、大の字になって行く手を阻んでいる。
これは馬も怖じるかと思いきや、恐怖のためにかえって大胆になっているらしく、馬は速度をまったくゆるめずに、刺客に真正面からぶつかっていく。
こうなると馬は完全な凶器である。
刺客は馬の前足でもって、容赦なく跳ね飛ばされた。
「めちゃくちゃだ!」
だれに言うとはなしに、孔明が批難の声をあげると、馬は、まるで嫌がらせのように、さらに細かく蛇行をはじめた。
もはや視界も定まらない。
いま、自分がどういう状況になっているのか。辛うじて馬にしがみついているような状況で、孔明にできることといえば、ひたすら手綱を握ることと、太腿の力をゆるめないようにすることだけであった。
ときおり激痛が走るのだが、それは木に身体がぶつかったからである。
ひどい眩暈を起こしているなか、ふと、前方に、灯りが見えた。
人家かと思ったが、そうではない。
行く手に、刺客たちが先回りをしているのである。
方向を変えねば、と思うが、道は一本きりで、しかも馬は命令をまったく受け付けない状態である。
馬も前方の障害物に気づいたようであるが、走ることはやめない。
こうなったら、とことんまでこの馬に付き合うかと覚悟をきめた孔明であったが、刺客たちの姿がどんどん近づいてくるにつれ、馬の速度ががくんと落ちはじめた。
いまさらながらに疲れてしまったのである。
「こんなところで!」
思わず叫ぶが、馬は、これまた知ったことではないとばかりに、足を崩してその場に倒れこんでしまった。
「まさに凶馬だな」
つぶやきながら、孔明は前方を見た。
馬を潰れたと見た刺客たちが、それぞれ武器とかがり火を手に、こちらに向かってくる。
孔明は武器らしい武器を手にしていない。
身を守るために、衣の下に鎖帷子を着込んでいるだけである。
刺客は曹操からのものか。
それとも壷中なのか。
「あんたのところは、人だけではなくて、馬も不足しているらしいね」
唄うような調子の声に、はっとしたのと同時に、目のまえに、大きな鳥が降り立った。
それが、刺客らと同じく軽装に身をつつんだ者であると気づいたのは、剣戟の音が聞こえてきてからであった。
背中しかみえないかれらの姿は、みな小柄で、華奢である。
子供のように見える。
声の主に思いあたると同時に、孔明は疲れもわすれて、起きあがった。
「おまえたち、いけない! わたしのためになぞ、戦ってはならぬ!」
孔明の声はよく通る。
そのために、剣戟のなかにあっても、かれらの耳に、その言葉は聞こえたようである。
一瞬、孔明をかばうようにして戦っていた者たちの動きが、にぶった。
孔明はすぐさま、失敗をさとったが、取り返しがつかない。
と、同時に、頭上から、またもあの声が聞こえてきた。
「あんたなんかのために戦っているのじゃない。われらは劉公子のために戦っている!」
声が降ってくると同時に、ぱっと白いものが頭上のあちこちから落ちてきた。
それは投網であった。
刺客を捕獲するために、あらかじめ用意していたものだろう。
狙いは的確で、網は、ことごとく刺客たちを絡めとり、その動きを封じた。
「あんたなんかに心配してもらう必要などありませんよ。
自分で自分の身すら守れないくせして、なにを威張っているのだか」
おおいに軽蔑のふくまれる、その張りのある声に顔をあげれば、一本のおおきな木の枝のうえに、細作らしからぬ華奢な衣裳に身をつつんだ少年が、月を背にして立っていた。
そして、以前に樊城でそうしたように、あざやかな笑みを浮かべて、いった。
「こんばんは、軍師。またわたしに命を助けられたご感想は、いかがですか」