風の旗標
十三回目
「気むずかしいやつだからな、気をつけろよ」
と、劉備に念を押されたとき、孔明は、気むずかしいのは江東の人間を指すのだろうかと考えた。
江東の孫氏は、かの高名な兵法家孫子の子孫を自称する一族である。
現在の当主は孫仲謀という、孔明よりも年若い青年であるが、その父親と劉備は、董卓の討伐のさいに顔をあわせたことがあるということを、以前に孔明は聞いたことがあった。
だから、なんとなく現当主の気性も知っているのかもしれないと想像した孔明であるが、劉備は混乱と興奮のなかにあるらしく、つづけて言った。
「ええい、まったく、情けねぇことに、なにに気をつけろといっていいのかわかりゃしねぇや。
ともかく、いろいろ気をつけろ。おまえは変なところでお人よしだから、人にも馬にも舐められそうで心配だ」
すると、そのことばに抗議するように、孔明のまたがっている劉備の愛馬が、ぶるると、不満そうに息を吐いたので、孔明は緊張していたけれど、すこし気持ちがほぐれた。
「凶馬などと評されたこともあった馬だが、こいつはおかしな性質があってな」
と、劉備は、馬をなだめるようにして、その鼻面を撫でてやる。
「逃げ足がはやい。逃げることにかけちゃ、雲長の馬より早いだろうよ。
そういうわけで、道中、刺客があらわれたら、ひたすらこいつにしがみついていろ。命令しなくても、助かりそうなところへ自分で駆けるやつだから」
「刺客に襲われたことがあったのですか」
孔明がおどろいてたずねると、劉備は平然とうなずいた。
「うん、おまえに会う前だが、こいつと遠乗りしていると、多いのだよ。
三回ほど襲われたが、こいつの逃げっぷりのよさで、いまこうしているというわけだ」
だから問題はない、と劉備は言いたいようであるが、孔明としては笑えない。
「ほかの馬で遠乗りをなさっていたとき、刺客に襲われたことはございますか」
「ないな」
きっぱりと劉備は答えるのであるが、だから凶馬なのではなかろうかと孔明は思い、栗色の肌をした馬の背を、なんとなく気味悪く思いながら撫ぜてみた。
もともと、孔明は馬が得意ではない。
元来の病弱さゆえ、士大夫でありながら、あまり馬に乗る練習をしてこなかったことも原因である。
まして糜竺や糜芳らのように、馬に乗って弓を射掛けるなんてことはできないし、趙雲のように巧みに槍をふるうなど、とうてい無理な話だ。
あらためて孔明は、かれらの技量のすごさを身に沁みて実感した。
さて、これからは、ひたすら東だな、と孔明は、街道からはずれた、東にむかう細い道を見つめた。
将兵のなかから、江夏の出自で、土地に詳しいものを選んで、案内役につけた。さらに護衛の兵と、おのれをふくめて四名での夏口行きである。
劉琦は、おそらく劉備らが道を変えて街道沿いを南下したことを知らないから、いまごろは船を北上させすぎて、劉備の姿をさがして右往左往しているかもしれない。
二つの川を越えて、漢水のほとりへむかう。
その道中は、ほとんど山深いなかにつづくけものみちを、草木を抜けていくものになるという。
一日で抜けられるか。
体力勝負になりそうだと、孔明は覚悟した。
「民のことについちゃ、子仲から仔細を聞く。おまえは、あとは儂らにまかせて、ひたすら公子の船をこっちに向けることだけに集中しろ」
劉備のことばに、孔明はうなずきつつ、ほとんど無意識のまま、おそらくは血で血を洗う戦闘がつづいているだろう最前線、橋の向こうを見やった。
劉備や糜竺らのけんめいの指導の賜物か、民の一行は、もうそのほとんどが橋を渡りきれていた。
そして、思った以上に、張飛と趙雲らが奮闘したということもある。
かれらは生きて戻ってきてくれるだろうかと、孔明は思った。
いや、戻ってくると信じよう。
いまは主公のおことばどおり、おのれの使命に集中していなければ。
「参ります」
短く言って、馬上より、孔明は短くうなずいてみせた。
劉備も、それに答えるようにしてうなずく。
そうした表情のなかにも、悲壮感がないのが劉備だ。
孔明がきっとうまくやるだろうと信じきっているために、表情が暗くならないのである。
父親と変わらぬほど歳の離れた主君から、子供のように純粋に信頼されて、うれしくない者はおるまい。
孔明は、馬腹を蹴ると、もう振り返ることをせずに、東へと向かった。
もはや迷いは消した。
あとはひたすらおのれの使命を果たすだけである。
みなで生き延びるために。
一合、ニ合と、槍での応酬をつづける趙雲であるが、しだいに肋骨に負った怪我が響くようになっていた。
変に庇おうとすると、戦に慣れた相手には、すぐにつけ入られてしまうことはわかっていたので、なるべく出会い頭の一撃で相手を馬上から打ち落とし、敵が転んでいるところをおのれの槍か、さもなくば付き従っている歩兵の剣によってとどめを刺すように戦法をかえた。
あまり誉められた戦い方ではないが、そうもしなければ、戦い続けることはむつかしかった。
趙雲がひたすら敵を馬上より叩き落すことに専念している一方で、張飛の戦いぶりはまさに鬼神のごときすさまじさで、味方の将兵すらも近づけないほどであった。
張飛の戦いぶりを見ていると、血を見ると、あの男には、なにか別なものが降りてくるのではないかと思うほどに、普段と変わる。
張飛は粗暴ではあるが、残虐な男ではない。
ところがひとたび戦場の最前線に立つと、みずから血をもとめて、困難な戦場にみずから突っ込んでいくのである。
趙雲が地味ではあるが確実な戦法を取っているのに対し、張飛の戦い方は、ひたすらおのれの切っ先で、敵兵の血肉を切り刻むもので、勇猛で知られた青州兵も、張飛を前にしては、なにをすることもできないでいる。
天才というものが、この世にはたしかにいるのだと、張飛を見ると思う。
もはや理屈ではないのである。
勝手に身体が動き、反応するのだ。そしてひとたび集中すると、もうなにもみえなくなる。
そのすさまじい集中力が、さらなる力を張飛という男から引き出すのである。
そこに迷いなど、欠片もないのであった。
そんな張飛のすがたをかたわらに見ながら、趙雲が何騎めかを地面に叩き伏したあと、そばにつきしたがっている従卒が近づいてきて、言った。
「将軍、恐れながら申し上げます。これ以上はきりがございませぬぞ」
「わかっておる。斥候からの回答は如何に」
「ぞくぞくと青州兵は数を増やしている様子。青州兵のみならず、曹操の親衛隊も駆けつけているようにございます」
「曹操の、親衛隊と申すか」
聞きなれない者たちの存在に、趙雲は鸚鵡返しにした。
従卒は、こくりとうなずく。
「錦で織られた旗じるしに『曹』の名がございました。
斥候によれば、青州兵に守られる形でこちらに向かっているようでございましたが、口々に叫んでいたことには、われらは曹丞相のおぼえ目出度きつわものにして、なんとしても劉玄徳の首をとり、旗標にかざって帰還せんと意気込んでいたよしにございます」
「なんと不遜な。して、それらの部隊長はわかるか」
曹操の陣営は、武将もまた、層があつい。
こちらが怪我をしている状態のなかで、名うてのつわものが追尾してきているのなら面倒である。
やり過ごすべきか、迎撃すべきかを判断するため、趙雲がたずねると、従卒は答えた。
「曹丞相のご一族であるようでございますが、申し訳ございません、斥候が申しますには、見覚えのない顔である、と」
趙雲が斥候として使っている男は、劉備に古くから仕えている男で、腕は立つのだが、寄る年波には勝てずに、いささか腕がにぶってきたために、その知識と経験をいかすべく、斥候に採用したものである。
斥候は、かつて劉備が曹操のもとに身を寄せていた当時、ともに曹操と顔を合わせている。
数のおおい曹家や夏侯家のすべてを知るわけではないが、名だたる人物ならば、ひと目でわかるはずであった。
「二十歳ごろの、少年とも呼べそうな、若い男であったようにございます」
それほどの若い男が親衛隊の長をまかされていると聞いて、趙雲は考えた。
曹操は、こちらの窮状を知っている。
だからこそ、曹操からしてみれば、この戦場は危険のないものだと見做しているにちがいない。
そうした戦場に、無名の一族の若者を出してくる。
つまりは、ここで大きな勲功を、その若者に取らせてやろうという腹積もりなのではあるまいか。
舐められたものだと、趙雲はじわりと湧きあがってくる怒りとともに思う。
つまりは自分たち敗惨の将相手には、熟練の将軍は必要ないということか。
その思いあがりを、叩き潰してやりたいところであるが……
趙雲は、後方を見やった。
あれほどにいた民は、張飛と趙雲、両部隊の活躍によって青州兵の襲撃をまぬがれているあいだに、あらかたいなくなっていた。
「主公のほうは如何か」
「はい。ご安心くだされ、主公は、すでに橋を渡られました。おなじく、ほとんどの民が橋を渡ったとのことでございます」
趙雲は、ひとまず安堵してうなずいた。
誰一人として救えない、最悪の事態さえ想定していたのだから、街道の、ちょうど隘路にあたっていた場所が戦場になったという幸運もあり、青州兵の雪崩のような追跡を、ある程度は抑えることに成功したようだ。
まだ天は、われらを見捨ててはいない。
趙雲は、気合もあらたに、ひと呼吸おくと、従卒をふくめた、周囲の部下たちに命じた。
「うむ、では撤退をはじめる。全兵に通達。われらはこれより張将軍の部隊の補佐をしてこれとともに撤退を開始する。
われらの務めは敵を多く叩くにあらず、一兵でも多くの仲間を助け、ともに生きて橋を渡ることである!
いかなる蛮勇も勲功と認めぬ。肝に銘じて慎重に撤退を開始せよ!」
趙雲の命令に、従卒は拱手して、ほかの仲間たちに伝えるために去って行った。
「益徳、聞こえたか、撤退するぞ!」
趙雲が呼ばわると、獅子奮迅のはたらきをみせていた張飛は、ぶん、と大きく矛をふるって、近づこうとしていた敵兵をなぎ倒すと、血まみれの顔を振り向かせて、答えた。
「おう、殿は俺に任せるがいい。子龍、おまえは先にみなをまとめて橋を渡れ!」
「無理をするな」
趙雲が言うと、張飛は、悪鬼のような形相であったのを、不意に子供のように、にっ、と無邪気に笑わせて、答えた。
「それはおまえにそのまま返すぜ。怪我をしているってのに、これだけやっつけやがって、たいしたやつだよ、おまえは」
張飛のことばに、趙雲は素直に喜ぶことはできなかった。
あれだけ集中していた男が、きちんとかたわらで闘っていたこちらのことも気にしていたのである。
その視野の広さと余裕に、趙雲はすくなからず張飛に嫉妬した。
味方の将兵をまとめながら、趙雲はゆっくりと撤退をはじめた。
公孫瓚のもとにいたころは、敵の大半は蛮族で、しかも勝ち戦が多かった。
だから、こうした大人数での撤退は、あまり経験がない。
劉備の家臣に加えられてからは、すぐに荊州に入ったので、そのあとの経験もほとんど積むことがなく、ここまできてしまった。
日ごろの調練が、みごとに物をいっていると、趙雲は身に沁みて思った。
曹操の南下にそなえて、付け焼刃であつめた、ほとんどが農夫の出自という、寄せ集めの軍であるが、効率よい調練の結果、古参の将兵にも負けず劣らずのはたらきを見せている。
これだけの圧倒的兵力を目のまえにして、逃げようとする者すらいない。
そしてかれらを検討してみれば、たいがいが、孔明がみずから選抜し、趙雲のもとにつけた兵卒なのである。
そして、調練の方法にしても、孔明がみずから兵卒の様子を観察して、細かくつくりあげたものである。
孔明は自分ではまだ気づいていないかもしれないが、なによりその才能は、人を変えるということにより発揮されるらしい。
それも、体制にとって都合のいい者にむりやり作り変えてしまうような変え方ではなくて、その人間にとって、もっともよい方向に変えることができるのだ。
孔明は、おのれを龍といったことを恥じると嘆いていたが、恥じることはなにもないだろうと、趙雲は思う。
人心は疲弊し、だれもが天下を見失い、おのれの心すら見失っている。
そうしたなかで、人を導くことができる才能を示せる人間は、まさに貴重ではないか。
人をいかに多く殺すかが試される戦場において、その力が存分に発揮されないのはあたりまえである。
諸葛孔明という人間の才能は、人をいかに生かすかという局面において、もっとも発揮されるのだから。
兵卒たちは、趙雲の命令をよく聞いた。
撤退と聞けば、上手に敵をかわし、負傷した仲間を助けながら、徐々に後退していく。
趙雲もまた、容赦なく追撃してくる青州兵の刃を受け流しつつ、部下たちがなるべく早く撤退できる時間を稼ぐことに専念した。
ただ敵を倒せばいいという戦いではない。
周囲に気を配りながらの戦いである。
この神経をつかう戦いのなかで、趙雲をもっとも励ましてくれたのが、張飛の存在であった。
負け戦の多かった劉備にずっとしたがっていた張飛は、殿(しんがり)の経験が多い。
采配の仕方や戦い方など、張飛からは学ぶところが大きかった。
そうして、趙雲が劉備のあとを追うようにして、橋をわたろうとした、そのときである。
不意に、頬を掠めるものがあった。
風を切る頬にするどい痛みが走る。
矢を射掛けられたらしい。
さいわいにも矢は当たらず、そのまま趙雲の頬をかすめて地面に落ちたのであるが、はっと気づけば、前方に、馬を足止めすべく、左右に縄が張られている。
しまったと舌打ちし、手綱をひきしめ、愛馬の赫曄(かくよう)を止めようとする。
赫曄も足元に違和感をおぼえたのか、趙雲の命令どおり、すぐに足を止めようとしたのであるが、それまで疾駆していたものが、急に止まれるはずもない。
ぐらりと視界がゆれると同時に、趙雲はとっさに、手にしていた槍でもって、赫曄の足にからまった縄を切った。
縄が切れたことで、つまづいて転ぶのはまぬがれたものの、赫曄は、切れた縄を足に絡ませて、数歩まえに進んだ。
足元にからむ縄の違和感に、赫曄は癇癪をおこして、はげしくたたらを踏んだ。
趙雲が制しても、すっかり興奮してしまい、いうことをきかない。
棹立ちになり、逆に趙雲を振り落とす結果となった。
地面に振り落とされた趙雲は、すぐに起き上がろうとして、胸に激しい痛みをおぼえた。
呼吸ができない。
どうやら、怪我をしていた箇所を、再度打ったらしかった。
立ち上がろうとした腕が、痛みに負けて、がくりと折れる。
呼吸ができない恐怖と苦しさにおそわれ、趙雲は咳き込んだ。
そうすることで、呼吸を取り戻そうとしたのである。
そんな趙雲の耳朶に、こんな声が聞こえてきた。
「やりましたぞ、若君! どうやら名のある武将の様子。いまのうちに打ち果たしてしまいなされ!」
年老いた男の声である。
どうやら伏兵がいたようだ。
俺としたことが、なんと迂闊なと、己を呪いつつ、趙雲は咳き込みつづけた。
徐々に、呼吸が回復し、胸の痛みもゆるやかになってくる。
「けれど、爺、この男の名もわからぬのでは、首を持ち帰ったところで、なんの勲功にもならぬであろう」
と、若い男の、不満そうな声が聞こえてきた。
どこか間の抜けた、子供のような話し方をする男である。
この俺の首を取ろうというのか。
苦しいなかでも、笑いがこみ上げてきて、趙雲は意地だけで身体を起こすと、前方にいる二人の男を見た。
これまた笑いがこみ上げてくることに、男たちは両方とも、じつに派手な鎧を身にまとっていた。
老人のほうは古参兵らしく、日に焼けた肌をしているが、若者のほうはといえば、ほとんど日に焼けておらず、鍛錬もしているのかどうか怪しいほどに、ふっくらとしている。
こんなやつが、俺を殺すというのか。
おのれの運のなさを笑いたいのか、それとも若者の思いあがりを嘲りたいのか、自分でもわからなくなりながら、趙雲が二人にむかって笑みを浮かべて見せると、若者のほうが、気味悪そうに顔をゆがめた。
「爺、こやつ、笑っておるぞ」
「覚悟をしたものでございましょう。名のある御仁とお見受けした、名をお聞かせ願いたい」
老人の問いに、趙雲は呼吸を何度かととのえ、胸に走る激痛をこらえながら、こたえた。
「常山真定の趙子龍だ」
しかし、その名を聞いたふたりの反応は、想像していたとおり、よろしくない。若者のほうが、ますます顔をしかめて老人に言った。
「そのような者は知らぬ。爺は知っておるか」
「あいにくと、爺も知りませぬ。しかし、さきほどからの戦いぶりからして、只者ではないはずでございます」
「知らぬ者の首なぞ、やはり持ち帰る意味も無かろう。臭い荷物が増えるだけであるぞ」
「知る人がみれば、それとわかるかもしれませぬ」
「爺のいう、知る人というのがいなかったら如何する。
曹丞相は、私に勲功をあげさせようという親心から、青州兵どもをつけて、私をここへ送ってくださった」
「ご両親を早くに亡くされた若君を、不憫に思われたからこそのことでございましょう」
「うむ、伯父上のお優しさには感謝しておる」
こちらはたまったものではないと、地に伏せたかたちの趙雲は、悪態をついた。
「伯父上は、さらには劉玄徳の首をとってまいれと私にご命令された。
それなのに、知る人ぞ知る首などというよくわからぬものを持ち帰ったら、きっとがっかりされるであろう」
「ですから、まずはこやつの首をとり、勲功の弾みとなさいませ」
「弾みになればよいのだが」
緊張感のうすい会話をしながら、若者はすらりと腰の剣を抜き放った。
その剣は、若者の身にまとっている鎧とおなじく、豪奢な鞘におさめられていたのだが、鎧の豪華さと中身がともなっていない人間のほうにたいして、剣の、震えが来るほどの澄明な輝きと鋭さは、それが相当な名剣であることの証しであった。
助けはこぬかと周囲を見れば、部下たちは、趙雲を助けようと戻ってきているのであるが、若者と老人のさらに周囲にはべっている兵卒たちに阻まれて、思うように行かない様子である。
張飛のほうはといえば、これは追撃してくる青州兵に手一杯だ。
趙雲は、武器を手に取ろうと、身体を動かそうとするのだが、動くたびに胸に激痛が走って、思うようにならない。
このまま、武器も手にとれずに死ぬなどという、ぶざまな最期だけは避けたかった。
奥歯を噛みしめて、なんとか佩いた剣を抜こうと手を伸ばす。
常ならば、まったく意識もしないですむ距離が、そのときばかりはずいぶん遠く感じられた。
曹操の一族であろう若者が、剣を片手に、足元に寄ってくる。
最悪だ。
趙雲が剣の柄を握るのと、若者が剣を振りかざしたのは、ほぼ同時であった。
だん、と大きな音がした。なにかが跳ね飛ばされた音である。
おのれの首の落ちる音も聞こえるのかな、などと考えた趙雲であるが、それにしては胸の痛みがつづいている。
どういうことかと目をひらけば、若者の背後にて、老人の、首を落とされた体が地面に倒れていた。
「爺!」
若者が悲痛な声をあげた隙を逃さず、趙雲はほぼ矜持を守るためだけに身体を起こし、一撃を加えようとしたのであるが、それよりも、猿のような影が若者に飛びつくほうが早かった。
ばっ、と血の花が宙に咲いた。
返り血を浴びながら趙雲が見上げると、そこには、地に落ちるまえにその首を手にとった、夏侯蘭の朱に染まった姿があった。
「こいつは、曹公の甥のひとりで夏侯家の恩という男だ」
抑揚のない声で、夏侯蘭は言った。
その手には、あざやかな鮮血を地にしたたらせる、若者の首がある。
夏侯蘭は、どこか胡乱なまなざしを、その首に向けた。
「何度か顔をあわせたことがあるが、俺たちのような人間には、けっしてことばをかけないやつだった。
しかしこうなってしまうと、御曹司も細作も、そう差がないものだな」
夏侯蘭は、そこですこしだけうっすらと笑みを見せたが、それは淡々とつむがれることばのなかにある怨嗟ゆえのものではなく、おのれを笑ったものであるようだった。
「前線に出てさえこなければ、こんな末路をむかえることはなかったであろう、気の毒に。
文人肌の多い曹家とちがって、尚武の気性のつよい夏侯家に育ったがために、自分は武将に向いているのだと勘違いしちまったのだ。
武芸の才能など、人並み程度にしかないというのに、それをまた、親がいないというので、そういうところは妙に情の厚い曹公が、すっかり気の毒がって、甘やかしたから、さらに勘違いが深まった。その剣は」
と、夏侯蘭が目線で示した先には、胴体のほうがにぎっている剣がある。
「青釭の剣といって、曹公がもつ剣とは対になっている名剣だ。たいそうなお宝だぞ。将のおまえが持つといい」
趙雲は、呼吸をととのえながら身を完全に起こし、いまやつめたい骸となった青年の身体を見下ろし、つぎに、夏侯蘭の、思いもかけないほど暗い表情を双眸に宿した姿を見た。
趙雲は暗然とした。
こいつの中にある闇は、途方もなく深いのだ。
こいつは、その闇の深さに迷い込み、おのれを見失っている。
だから、いつもいつも、道をまちがえてしまうのだろう。
夏侯蘭の目には、友を助けられた喜びも、敵を討った興奮も浮かんでいない。
あるのはただ、これで道は閉ざされた、道はもうひとつしかないのだと、覚悟を決めたまなざしであった。
そしてそれは、夏侯蘭にとっては、うれしい道ではないのである。
この男のむかうべき道はここではなく、曹操のもとであったのだ。
それを薄々と気づいていながら、自分をだましているのだ。
それほどに、『劉氏こそが天下を担わねばならぬ』という思想は、こいつを縛っているのだろうか。
「いいや。その剣は、俺には鋭すぎる。それに、曹操とおそろいなんぞ、ぞっとせぬわ。おまえが持つといい」
趙雲のことばに、夏侯蘭は、おどろいたように顔をあげた。
「なぜ。よいのか」
「ああ、かまわぬとも」
可愛がっていた甥を殺した男であると知れば、曹操は夏侯蘭をゆるすまいが、しかし、この混戦のなかでは、証言者もすくない。
こいつがもし本来の心を取り戻して、曹操のもとへと向かおうとしたときに、夏侯恩を殺したのは自分ではないとシラをきりとおしたうえで、この名剣を持ち帰れば、曹操はよろこんで迎えてくれることだろう。
それくらいの手伝いならば、してやれるさと、趙雲は心のなかで思った。
それが、こいつがほんとうに幸せになれる道ならば、たとえ敵にとっては有利になることだとしても、あえて目をつぶろうと思う。
その代わり、こちらが受ける損失分は、おのれが働いて埋め合わせればいいことである。
もっとも、そんな計算づくではうまくいかないのが世の中ではあるが。
趙雲は、夏侯蘭や部下たちに支えられ、橋へと向かった。