風の旗標


十二回目

趙雲は、劉備が南にむかって行くのを見届けると、自身は北、一行の最後尾にむかって馬の首を向けた。
そして、周囲で命令を待っていた部下たちに言う。
「俺はこれから張益徳のもとへ行き、軍師の策をつたえる。
いま青州兵は、輜重隊を攻撃するのにかかりきりになっているはずだ。おまえたちは、輜重隊を援護しつつ、物資を盾に、一兵でも多く引き揚げられるように力をふるえ。
物資を惜しむな。すべて連中にくれてやれ。
青州兵どもは、遠路はるばる荊州までやってきて、褒美を手に入れることに躍起になっているはず。
連中が物資をひろいあつめるのに時間をかけるよう、荷車の紐はすべて切り、地面に散らばせるのだ。
燃やせるものは燃やしてしまえ、火を消そうと、ますます時間をかけるはず」
むずかしい命令であるが、趙雲の部下たちは、不平のひとつもいわず、うなずいた。

そも、趙雲の部隊は、張飛や関羽のように最前線で派手に戦うための部隊ではなく、孔明の意図を忠実に守りながら、策を成功させるために現場の動向を冷静に見きわめ、臨機応変にうごくことを旨とした部隊である。
派手な功績はのぞめないものの、その存在は、最前線の精鋭たちにも劣らないほど、全軍にとっては重要である。
徐庶から、軍の運営方針すらも引き継ぎ、その意思にしたがっていた孔明が、唯一、おのれの発案によってつくったのが、趙雲の部隊であった。
腕が立つのはもちろんのこと、大将である趙雲とおなじく冷静で、なおかつ臨機応変にうごくことができる、頭脳にすぐれたものが選抜された部隊だ。
孔明の言によれば、趙雲の振る舞いを見ていて、おそらく趙雲ならばこれをうまく使いこなせるだろうと判断したので、立ち上げた部隊なのだという。
その身分はさまざまであったが、部隊の兵卒たちは、みな、自身がとくに孔明によって選ばれたことを誇りに思っており、その結束も高いのである。

「よいか、敵兵の首をとって勲功を狙おうなどと考えるな。ともかく時間を稼ぐことが俺たちの務めだ。青州兵を足止めできたなら、すぐさま反転、南へむかい、主公と合流せよ。
無理に民を助けようとも思うな。青州兵どもは高い調練を積んでいる。こちらがすこしでもまごまごしていたら、あっさり追いつかれてしまうであろう」
趙雲のことばに、部下たちは、一様に緊張した面持ちでうなずいた。



部下と別れ、趙雲はふたたび一行の最後尾にむかって馬を走らせた。
混乱は、先に進めば進むほどひどくなり、どころか、地に伏している屍の数も増えてきた。
おそらくは、青州兵の襲撃を受け、なんとかその場は逃げたものの、負った怪我が深く、力尽きてしまったものも含まれているのだろう。
そうした者たちのなかに、どこか見覚えのある顔もあり、趙雲の心はふさいだ。
果敢に戦った兵卒もいるなかで、逃げた者もあるらしく、これもまた、仲間によってそうされたのか、地に伏して絶命していた。
武器をもっていないところを見ると、おそらくは逃げる途中の民に奪われたものだろう。
だれしも、生きるために必死なのだ。

やがて、前方に、張飛と、その部隊が見えてきた。
これはだれもかれも、一騎当千のつわものばかりで、勇敢に青州兵と戦っている。
青州兵の馬術というものはすばらしく、かれらは手綱をほとんど使わず、中腰になった姿勢で、太腿から下の、馬と密着した部分のみによって、馬をみごとにあやつっている。
これだけの技術をもつ集団は、天下広しといえど、青州兵のほかはおるまい。
そして、この恐るべき兵団の力によって、曹操は天下人としての座を確立したのである。
この者たちは、巨大であった袁紹の軍すらも蹴散らしてみせたのだ。

ならば。

趙雲は、馬を走らせたまま、器用に手にしていた槍を構えなおすと、そのまま馬をおおきく跳ね上がらせ、背後から張飛にむかって剣を振り下ろそうとしている兵にむかって、その刃を振り下ろした。
馬とおのれの力をすべてぶつけたような攻撃に、青州兵は背中を大きく斬りつけられた上に、おおきく馬上から吹っ飛んだ。
落命したらしい。
だん、と大きな音をたてて、その体は一度、地面を跳ねた。
そしてその反動で転がり、先に死んで地に伏していた、味方の兵卒とならぶ。

いつもは無感動に見つめるその風景に、趙雲は、めずらしく思った。
死ねば敵も味方もないな、と。
同時に、なにもわかっていなかったと嘆いていた、孔明のことを思い出した。
なにもわかっていないのは、きっと俺も同じなのだろう。
わかろうとすればするほどに、だれも殺すことができなくなってしまう。
あの場でそう教えてやらなかったのは、卑怯だったのではないか。
しかし、すくなくとも、おまえの命を奪うことになったかもしれない可能性のひとつは、これで潰れたわけだ。

「子龍、戻ったか!」
と、全身にすでに返り血を浴び、まるで悪鬼のようになっている張飛は、破顔して言った。
趙雲はうなずくと、孔明もともに戻ってきたこと、甘夫人が無事であること、傭兵たちが、じつは江東の人間であったこと、そして孔明の策も伝えた。
「ともかく時間を稼ぎながら後退するしかない。輜重隊は捨ててしまってかまわんと、軍師の命令だ」
「ここまで混乱しちまったなら、そうするしかねぇだろうよ。
歩兵どもにゃあ、もう隊列だなんだとうるせぇことは言わねぇ、ともかく泥水をすすってでも、夏口へ行けと言っておいた。
いま、俺のところに残っているのは、騎兵だけだ」
「そのようだな。しかし、なぜ道を変えることになったのだ」
「道が塞がれていたんだよ。こっちの動きは、曹操だか樊城の連中だかに、筒抜けになっていたようだ」
「まことか」
趙雲が顔をしかめると、張飛はそうだ、とおおきくうなずいた。
「こんなとこでしたくない話だがな、漏れているぜ、うちのことは」
「細作がもぐりこんでいるのか」
「かもしれねぇし、だれか裏切り者がいるのかもな。
どちらにしろ、いまはそいつを探している暇はねぇ。俺たちは街道を南に下るしかなくなったのさ」

いいつつ、張飛は前方からやってくる青州兵の一団を見て、その太い眉をしかめる。
そして腰にさしていた瓢箪の水を含むと、それを大きく地面に吐き出して、唸るように言った。
「さあ、連中が性懲りもなくきやがった。青州兵だかなんだかしらねぇが、この俺様に刃を向けたことを、とっくり後悔させてやらあ! 
行くぜ、野郎ども、あいつらを全員、自慢の馬から落としてやれ!」



「急げ、ここで足を止めたならば死あるのみであるぞ! 命が惜しくば荷物は捨てよ! 余力のあるものは年寄りや怪我人を背負っていけ!」
それまで声を嗄らして民をはげましていた糜竺が、突如として口をとざした。
民たちの行列のかたわら、馬をおりて、ひたすら手紙をかきつけていた孔明は、不自然な沈黙におどろいて顔をあげる。
糜竺が怪我でもしたのかと思ったのだ。
ところがそうではなく、この品のよい初老の文官は、馬上でうなだれていた。
涙こそ流していなかったが、その両肩はふるえている。
時間が惜しいことにはちがいなかったが、孔明はこの老人を見捨てることができない。
筆を草叢のうえに休ませると、立ち上がって、糜竺のそばに立った。

「民が怪訝に思いましょう。おつらいこととは思いますが、みなに声をかけつづけてくだされ。
糜子方さまのお言葉となれば、民も素直に耳をかたむけます」
糜竺は、ここ数日でずいぶんと老け込んでしまった。
冠からのぞく髪の色が、一気に白くなったように見える。
そして、疲れきったまなざしを孔明に向けて、ぼそりと言った。
「だれも見捨ててはならない、そう付け加えようとしたのであるが、わがことばの、なんと無責任なことよとあきれ果てて、ことばがつづかなくなってしまったのだ」

誠実さにおいては、劉備よりも勝るこの老人は、ここから先に関しては、自分たちが民を守れないというのに、民には仲間を見捨てるなと告げるのが恥ずかしくてならないのである。
見捨ててはならぬと言いながら、おのれはかれらを見捨てようとしている。

孔明は、そんな糜竺の、手綱をにぎる手に、そっとおのれの手を重ねた。
「本来ならば、子方どののご心労も、すべてこのわたしが引き受けねばならぬたぐいのもの。わたしが未熟であるばかりに、申し訳ございませぬ」
糜竺は孔明のことばに、かなしそうに首を横に振った。
「そうではない。すべては、まわりまわって己に返ってきただけのことだ。
わたしはいつも民を見捨てるばかりで、だれ一人として助けることができぬ宿命であるらしい。
わたしがもうすこし若ければ、貴殿とともに宿命相手に戦うこともできようが、残念ながら老いすぎた。
もしもこのまま青州兵が、民を殺そうとするならば、わたしはみなの盾になり、ここで果ててもいいとすら思う」
ため息とともに、そんな悲しいことばを述べる糜竺に、孔明は、それは同感でございますと口にしかけて、あわてておのれを戒めた。

おのれは軍師である。
軍師たるもの、つねに感情に流されてはならない。
すべての感情を超越し、事態を俯瞰し、動かす者でなくてはならぬ。

「そのように悲しいことをおっしゃいますな。子方どのには、ぜひに生き残っていただかねばなりませぬ」
「奥方と、阿斗のためか。妹の死を無駄にしてはならぬからな」
「それもございますが、ここにおります、民のためにも、生き残っていただかねばなりませぬ」
孔明が言うと、糜竺はふしぎそうに目を向けてきた。
孔明は、糜竺をはげます意味をこめて、にっと笑って見せた。
とても笑える気分ではなかったが、ふしぎなことに、これは職務なのだとおのれに言いきかせることで、人は意外にぎりぎりまで、おのれの力を発揮することができるらしい。

「子方どのには、使者に立っていただきたい」
「使者というと、どこだね。江東か」
「いいえ、南部にでございます」
「南部とは、荊州の?」
「はい。おそらく曹操は、すぐには南部を制圧しないでしょう。制圧したとしても、それはゆるい支配になるかと思われます」
孔明の言わんとしていることがわからずに、糜竺は顔をしかめた。
「どういう意味だね」

「ここにいる全員を、夏口にまで連れて行くのは、おそらく無理でございましょう。このまま放置すれば、かれらは救われないように見えます。
けれど、ほんのすこし視点を変えれば、事態も変わってきましょう。
いまは、ともかく、民を青州兵から引き離すことを最優先に考えねばなりません」
「視点を変えるとは、どういうことだ。君はどうするつもりだね」

新野をうしない、長年かかえていた秘密も明かされ、妹の死も重なった糜竺は、張りのない顔をして首をかしげる。
民の盾になりたいと言ったのは、おそらくは方便ではあるまい。真剣にそうしたいと考えているのだ。

孔明は、糜竺の手をふたたび握ると、励ますようにして手を揺さぶった。
「しっかりなさってくだされ。わたしは世にも図々しい人間でございますれば、子方どのに、それこそ民の盾になっていただく役目を押し付けようとしているのですぞ。
しっかり聞いてください。すでにおおまかには決めてありますが、橋を渡りきった民たちを、すぐにいくつかに分けようかと思っております。
もともとの集落ごとに分けることに考えております。そのほうが、まとまりがよいでしょうから」
「分けて、どうするつもりだね」

なんとなくではあろうが、勘のよい糜竺は、孔明の考えにぴんときたようである。
孔明は、さきほどの生気のない表情から一転、話の先を気にする糜竺に、うなずきつつ、つづけた。

「ひとつは、われらとともに夏口にむかう民。ほかは、荊州の南部の郡にそれぞれ向かわせる民でございます。これは二つでよろしいでしょう。
南部も肥沃な土地でございますから、数を分散させれば、民を迎え入れることはできるはず。
子方どのには、その民を導き、南部の太守や豪族たちに、これを受け入れるよう、説得する役目を担っていただきたいのです」
「南部へかね。江東ではなく?」
おどろく糜竺に、孔明は、確信とともにうなずいた。
「奇妙なことをと思われるでしょうが、いま、わたしがもっとも拠り所にしているのは、劉公子でも江東でもなく、曹操なのです。
曹操は、侵略したばかりの荊州の民の反発を最小限にとどめ、すぐに揚州の制圧にとりかかりたいはず。
となれば、ここにいる民は、掠奪目当ての青州兵の脅威に、『いまは』さらされておりますが、曹操は、青州兵に、すべて殺せとは命令していないはず。
だからこそ、青州兵は、追いついたけれど、まずは輜重隊にかかりきりになっており、そこを益徳どのが食い止めているので、われらも助かっているのです」
「たしかに」

「曹操は、徐州のことで学習しておりますから、いまここで、見せしめとしての虐殺を行うことに、なんら意味がないということをわかっております。
もともと、荊州の民は、劉州牧の教化もあり、漢王朝への尊崇の念がつよい気風がございます。清流の士人も多くある。
だから、許都にて陛下を擁護しながらも、実権は離さない曹操への反発はつよい。
そんななかで荊州の民からすれば『同胞』である者たちを、曹操が虐殺したなら、これはただの恨みではなくなりましょう。
いくら曹操の兵数が多いとはいえ、揚州を攻めるとなれば、それなりの兵力が必要となる。
つまりは、兵の大半を揚州に向けなくてはならなくなり、荊州、つまりは後方の数はうすくなるのです。
孫家と対峙しているあいだに、背後を襲われたら、たまったものではない。曹操はそれを警戒するはず。
だからこそ、荊州の民の恨みを多く買うような真似ができないはずです。
か細い道ではあるが、ここに民の活路があると、わたしは見ます。
荊州は南北に長い土地。劉表の権威は、樊城を中心に北で盛んであり、南方に関しては、北方よりも影響力があったわけではありませぬ
劉表が死に、その後継を、次子の劉琮が継いだと聞いたとき、南方の太守たち、豪族たちは、どう反応するでしょうか」

「うむ、劉州牧が、後継ぎをご子息のどなたにするかで悩んでいたことは、おそらく南部に住まう太守や豪族たちは、みな知っているであろうな」
「左様。そして、いま、曹操の勢力は眼前に迫ってきた。かれらの脳裏には、ふたつの選択肢が浮かぶはずです。
ひとつは、劉琮どのに従うというかたちで、曹操にくだって身の安泰をはかる。
もうひとつは、劉琮どのの後継に異を唱えるかたちで、混乱をついて、独立してしまうことです」
「そこまで思い切った真似をする者が、いるであろうか」
「そこです。おそらく、独立したとなれば、曹操は、容赦はしない。
われらは曹操をまえにして、さまざまなことを知っているが、かれらは、知らない。そこを取引の材料にするのです。
第一に、南部の太守と豪族らは、まだ、曹操が、揚州を制圧せんとする野望をいだいているということを知らない。
そして、曹操が季節を気にしながら動いているということも、見抜いているものはすくないはず。
いまは夏。樊城が苦労せずともすぐに落ちるであろうことを、曹操は壷中から聞いて知っていたはずです。
すくなくとも、荊州北部の制圧はたやすいと知っていた。
じき、秋になり、冬になれば北ヘ帰還するのに困難が生じる。
と、同時に、遠征が長引けば長引くほどに、兵の士気は落ちる。兵は拙速を尊ぶ。このことばを、曹操は肝に銘じている男です。
つまりは、このまま南部も制圧するか、それとも揚州を制圧するかを考えた場合、それは少なくとも雪が降るまでには、完全に終わらせなければならない事業だということになります。
荊州があっさり落ちたということで、いまや曹操の軍の士気は高まっています。意気が盛んなうちに、曹操は一気に兵を進めようとするでしょう。
となると、曹操は、僻地ともいえる、政治的にもさほど重要ではない南部には向かわない可能性が高い。
それよりも、はるかにてごわい、江東に集結している揚州の豪族軍団ともいうべき孫呉を叩いたほうがよいと、考えはしないでしょうか。
それを知れば、南部は安全だということで、太守たちや豪族たちに余裕ができるはず」

孔明のことばに、糜竺の愁眉が、ようやくひらいた。
「おお、そうか、つまりは曹操の動きを正確に教えてやり、いちばんかれらが助かる身の振り方を教えて、恩を売ってやればよいのだな」
「左様でございます。本来ならば、その役目は孔明が担うべきものでございますが、わたしは主公の活路をさぐるため、江東にむかわねばなりませぬ。
とすれば、この役目を果たせる者は、徐州の名家の長として天下に知られた子方どのしか、わが陣営にはおりませぬ」

孔明のことばを、しばらく心のなかで吟味していた糜竺であるが、やがて顔をあげると、孔明と、その背後にて主を待っている手紙と、そして懸命に足を進めている、土煙のなかの民の姿を、それぞれに見た。
その顔には、さきほどまでなかった生気がよみがえってきている。

「貴殿が手紙を綴っていたのは、もしや太守たちに宛ててのものなのかね」
「無名にひとしいわたしの手紙が、どれほどの力を発揮するかはわかりませぬが、すこしでも子方どののお力になればと思いまして」
「いいや。貴殿のものの考え方は、柔和でありながら精密だ。
おそらくはこの言葉に、みなが動かされるであろう」
「そうであればと思います。曹操は、主力は揚州に向け、南部にはすこしの兵を置くだけに止めるはず。
そのときに、南部の太守らが抵抗しなければ、制圧らしい制圧もなく、逃げてきた民にたいしてのお咎めもないはず。
これも、後方を危うくできないからでございます」
「わかった。民のなかから長を決めて、それぞれわれらの指示に従うよう、いい含めておこう」

糜竺は言うと、人々のほうに顔を向けて、なにか懐かしいものをそこに見るかのように、目をほそめた。
「わたしはかつて、主公をお助けするためとはいえ、おそろしい秘密を守らされた。あのいまわしい不正は、妹の死をもってしても、まだ清算されていないような気がしていた。
だが、いま目の前の民を守ることで、わが罪がすこしでも清められればよいと思う。尽力させてもらおう」
孔明は安堵し、心から言った。
「ありがとうございます」
「しかし夏口への民はほかの将軍らが守るとして、もうひとつの民の群れはだれが率いるのだね」

糜竺の問いに、孔明は、おなじく糜家の出身である、糜竺の弟、糜芳の名をあげた。
その人品に問題がないわけではないが、糜家の名の影響力はつよいし、糜芳はそれはそれで、すぐれた武人でもある。
民の群れをうまく誘導することはできるだろうという判断から、選んだのである。
孔明は、糜竺が、そうか、弟と行動するならば、とすぐに承諾してくれることを予想していたのであるが、思ってもいなかったことに、糜竺の表情は、まったくすぐれなかった。

「ほかに人選はないのかね。たとえば、そうだ、趙子龍などはどうだ。あれはいま怪我をしているから、ひきつづき前線でつかうのは問題があるだろう。
それに、武人のなかでは、もっとも弁も立つし、頭も働く。名前はほとんど知られてはいないが、名前からして士大夫だということはわかるだろうし、見栄えもよいから、問題はないと思うが」
「ですが、その賢さが、いまの主公にはなくてはならぬもの。わたしと子方どのが主公から離れたあと、主公を武人としてではなく、軍師としての視点から補佐する者が必要です」
孔明のことばに、糜竺は、肩を大きく落として、ため息をついた。
「まったく、以前からの問題が、またもここで息を吹き返してきたか。わが陣営は文官がすくなすぎる。
ほかの文官では、性質がおとなしかったり、口が悪すぎたりと、ここぞというときに役にたたぬ。
武人である趙子龍が、二役をこなさねばならぬほどにな」
「なぜ子龍なのです。子仲どの(糜芳)ではいけない理由でもあるのでしょうか」

孔明がたずねると、糜芳は、そばに仕えていた士卒に、民の誘導を一任すると、馬をおり、孔明を、もとの手紙を書いていた場所までつれていった。
「弟はいけない。恥ずかしいことを打ち明けるようであるが、貴殿にだから言う。
あれは、主公やわたしの目の届いているところでは立派に振る舞おうとするが、だれの目もなくなると、とたんに怠惰な面を見せる。
あれを一人にさせる采配はいけない。ほかの者を選んでくれぬか」
「ほかの者、と申しましても、名前の点からしても、ほかによい人選が思いつきませぬ」
糜竺は、困ったように天をあおいでいたが、ふと、何事か思いついたらしく、顔をもどすと、孔明に言った。
「では、わたしがふたつの民の群れを率いることにすればよい。弟はそれの補佐というかたちでどうであろう。そうすれば、あれも困った真似はすまい」
「そこまでおっしゃるならば、采配に関しましては子方どのにお任せいたします。しかし、そうなれば、ご負担も増しましょう」
孔明が心配すると、糜竺は、さきほどの打ちひしがれた様子はどこへやら、声を高くして笑った。
「なんの、軍師のご命令を守るためとあらば、この糜子方、そうそうへたばってはおられぬ。
民を南部の太守らに預ける役目、たしかに承った」
「お願いいたします。むつかしい役目となりますが、子方どのならば成功することでしょう」

糜竺に頭を下げる孔明の耳に、北のほうから、聞きなれた声が聞こえてきた。
顔をあげて見れば、それは甲冑を脱ぎ捨て、鎖帷子だけという軽装になった劉備なのであった。
孔明と合流するべく、劉備がわずかな騎兵を率いて、文字通り飛んできたのだった。

十三回目につづく
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