風の旗標
十一回目
「周公瑾には会ったことはないが、その名は何度も耳にしている。
孫呉がここまで大きくなれたのも、すべては周公瑾の力によるものと言ってもいい。それほどに才能のある男なのだ。
わたしも新野に軍師として招かれた際に、周公瑾のことを念頭に置いて行動したものだよ」
馬を走らせながらの孔明のことばに、趙雲は意外に思った。
古の賢者におのれを比することはあっても、孔明が生きている人間をそこまで高く評価したのを聞くのは、はじめてであった。
「ただ、参考にできない部分もあってね、周公瑾の力が江東全体につよく影響している理由は、その才能によるものばかりではなく、閨閥を築いたことにも理由があるのだ。
周公瑾の妻は、小覇王孫策の妻と姉妹なのだ。幼少の頃から家族ぐるみの付き合いがあったということもあって、両家のつながりは密接そのもの。いまの孫呉の束ねである孫将軍の義兄にもあたる人物であるから、その影響力はつよいのだ。
主公の徳を慕って集ったわれらとはちがい、孫呉は、地縁によってつながった豪族たちのあつまりだ。
ゆえに、結びつきをつよくするために、孫呉は積極的に、豪族同士の婚姻をすすめてきた」
「俺はもともと交友関係のせまい男だが、そうなると、江東に知己がいないのが痛いな」
趙雲が言うと、孔明もまた、応じた。
「魯粛も言っていただろう。協力者を扇ぐにも、縁故があるかないかが重要になる。そういう気風があるのだ。
まったくのよそ者がくい込むには、つらい土地だよ」
趙雲は、孫呉に士官したという、孔明の兄のことを考えた。
徐州から、弟たちとは袂を分かって移住したという。
孔明も苦労をしたようだが、孔明の兄の苦労は、それとはまたちがった種類のものであったろうと想像する。
「病とは、不運なものだ。たしか、あなたとそう年が変わらないはずなのに」
馬を極限まで飛ばしながら、休み休み、孔明は口にする。
風の轟々とうなる音が耳を駆け抜けていく。
照りつける太陽は生み出される風の帳の上にあり、容赦なく肌をいじめるのであるが、疱瘡に苦しむ甘夫人を守りつつ、南へ向かったときよりも、いま、同じ道を北ヘ向かっているほうが、だいぶ心が軽かった。
孔明は、趙雲の部隊を、陳到と趙雲の二手に分けて、甘夫人の護衛に陳到と青竜をつけた。
そして、趙雲の部隊とともに、夏口へ向かう劉備を追っているのである。
予定によれば、劉備の一行は、街道を途中で逸れて、間道を抜けて、漢水の港から船で夏口に向かうはずである。
甘夫人が危険な状況を脱したという吉報をたずさえての帰還は、手綱を持つ手の力加減さえ変えた。
もはや、なんの心の迷いもなく、趙雲は愛馬を北ヘ走らせる。
「樊城が落ちてから二日か。曹操はどうするだろうか」
趙雲がたずねると、孔明は、目のまえに、曹操その人がいるかのように目を険しくして、答えた。
「樊城のことは樊城のこととして、すぐに兵を追撃のために派遣するだろう。
ましてや樊城は、曹操にいっさい抵抗しないであろうし、兵を多く留める理由もない。
余力のある兵は、すべて追撃につぎ込んでくるだろう」
「最悪だな。樊城の連中は、すこしは抵抗せぬか」
「抵抗したところでたかが知れているさ。それより、怪我のほうはどうだ」
「悪くない」
趙雲が答えると、孔明は首を向けて、趙雲のほうを見て、それからふたたび前方を向いた。
「嘘が下手だ」
「昨日よりは悪くない」
「主公と合流したら、前面に出ることは考えるな。ひたすら民を指導する側にまわれ。
目の前のすべてを助けようなどとしてはならぬ」
意外なことばに、趙雲は、目だけを動かして孔明の横顔を見る。
その孔明の顔は、憔悴しているように見えた。
どうやら、おのれにも言いきかせた言葉であったらしい。
「すべては救えない」
「わかっている。おまえの失敗ではない」
「そうだろうか」
「そうだ」
そんなやりとりを途切れ途切れにくりかえしながら、ひたすら街道を北ヘと向けていた趙雲ら一行であったが、やがて三つ目の川を渡ろうかというときに、前方に、なにやら、舞い上がる砂塵が見えた。
趙雲は、引き連れていた部下たちに、馬の足を緩めるように命令すると、前方にあるものをたしかめた。
それは、何万という人間が、乾いた大地の上を踏みしだくために舞い上がる砂が、雲のように見えているのであった。
ゆっくり、ゆっくりと動く行列のあいだには、ぽつりぽつりと騎兵の姿があり、そして同じように点在して、『劉』の字を掲げた旗が見える。
見るからに動きの遅い一行にくらべ、騎兵らはあきらかに焦れており、
「急げ! 急げ!」
と怒鳴っているのであるが、その効果は、ほとんどあらわれていない。
劉備を慕って集ってきた民は、もはや急ぐこともできないほどに、疲労困憊しているのだ。
そして、よくよく見れば、その長蛇の列の後方では、さらに恐ろしい光景がひろがっていた。
恐れていた青州兵らが、すでに追いついてきており、行列の後尾に容赦なく襲い掛かっているのである。
行列の後尾には輜重隊がおり、青州兵らの目的は、まずは輜重を奪うことであるようだ。
うねる蛇のような形を見せる行列の、前後でまったくちがう顔をみせるふしぎな光景は、まるで一枚の絵を見ているようであった。
遠目にも、輜重を守る兵や、その周囲の民が、つぎつぎと凶刃の餌食になっているのが見える。
青州兵の数は予想外に多く、ざっと見ても五千。
道が狭いために詰まっているものの、輜重隊を潰してしまえば、あとは一気に雪崩のように民に襲い掛かってくることは、目に見えてあきらかであった。
それを予測しているからこそ、騎兵らは焦って、民を急かすのであるが、しかしやはり道が狭いことが災いし、なかなか早く前へ進めないでいる。
「子龍、ここは、長坂であったな」
その光景を、ぼう然と見つめながら、孔明がたずねてきた。
そうだ、と答えると、孔明は顔を蒼白にして、言った。
「なぜ街道を下ってきている。漢水に向かう手筈ではなかったのか」
馬腹を蹴って、一行のほうへ向かおうとする孔明の手綱を、趙雲は手を伸ばし、寸でのところで止めさせた。
「待て、冷静になれ。ただ頭に血をのぼらせて戻るだけでは、意味がない」
「しかし」
孔明は、まなじりを強くして趙雲を振り返るのであるが、冷徹に表情を動かさないでいる姿を見て、我に返ったらしく、一度、おおきく息を吐くと、たずねてきた。
「あなたはどう見る」
「おそらく、なんらかの手違いが起こったのだろう。漢水に向かう間道が通れなくなっていたか、あるいは伏兵が潜んでいたのかもしれぬ。
どちらにしろ、街道を南下するほかに、手段がなかったのだ」
孔明は、前方にひろがる、悪夢のような光景を遠くに見つめ、額に手を当てた。
「やはり、わたしが残るべきであったのか」
「らしくもない。後悔はあとにしろ。さあ、まずはおのれの為すべきことを考えるのだ。
それこそおまえの得意だろう。なにから始める」
孔明は、いまにも泣きそうな顔をして、非難するように趙雲を見た。
「よくそんなふうに冷静になれるものだな。見ろ、人が死んでいる! 助けに行く以外に、なにをするというのだ!」
孔明の動揺した姿を部下に見せるのはうまくないと思ったが、しかしここは取り繕っている場合ではない。
孔明は、そういうものだとわかっていると口では言っていたが、やはり凄惨な光景を目の当たりにすると、はげしく心を動かされたらしい。
趙雲は、部下に向かって馬首を向けると、告げた。
「ひとまずみな、主公の無事をたしかめよ! それから張飛とともに民の護衛に回れ。
よいか、青州兵を迎撃する必要はない。まずは主公をお守りするのだ」
趙雲の部下たちは、命令にうなずくと、すぐさま馬を走らせて、徐々に混乱が広がっていく一行のもとへと走っていったが、それを見た孔明は、ますます顔色をわるくして、趙雲に詰め寄った。
「青州兵を迎撃せずしてどうする! あなたは民を主公の盾にするのか!」
趙雲は、涙さえ浮かべて抗議する孔明に、おおきく息をついて心をととのえると、言った。
「軍師、こうなることはわかっていたはずだぞ。俺たちは民を守りきることはできないのだ。
ならば、助けられるものを助けるしかあるまい」
「助けられる民を、助けるのではないのか」
「ちがう。わかっているのに、あえて目を逸らしているのなら許さぬぞ。いまさら児戯めいた理屈を俺に振りかざすな。
俺が優先して助けるのは、俺の部下と、そして同じく兵卒のみだ。
おまえはわかっているはずだぞ。兵卒は、つぎの戦にも必要なのだ。だから助ける。
江東の孫呉! こいつらと有利な同盟を組むための貴重な材料だ」
「材料? 人だろう」
「いいや。俺たちは、その材料を土台に、なんとか生き延びようとしている、そういう者だ。
いかに理想を高く掲げようと、それはすべて生きてこそのこと。
おまえは言ったではないか、いかに醜くても足掻いて生き延びよと。あれは観念だけのことだったのか」
「それは」
孔明は言葉を継ごうとするのであるが、しかし、続かずに、沈黙した。
「人が死んでいるのは、戦場だからだ。そしてここは、おまえが生きる場所として決めた場所でもある。
おまえは、数字と文字だけで作られた戦場のなかで生きるつもりだったのか。
目を逸らさずに見るがいい。ここが戦場だ!
人が死ねば血が飛ぶし、内臓も散らばる。脂ですべる地の上を必死に生きるために戦う、それが俺たちだ。
そしておまえは、俺たちを生かすために言葉を述べる者だ」
趙雲のことばに、孔明は徐々に表情を沈めていった。
馬の手綱をもつ手が震えているのは、悔しさや悲しみのためではない。
純然たる恐怖のためであろう。
「覚悟を決めろ。さあ、知恵を絞れ」
「すべては救えないのか」
「民の一人でも救えたなら、幸運だったと思うがいい」
孔明は、しばらく沈黙をした。
それまで大地のにおいしか伝えてこなかった砂混じりの風に、徐々に、生臭いにおいが混じりつつある。
血のにおいだ。
孔明は、やがてあきらめたように、息をつくと、言った。
「わかっていると思っていたが、そうではなかった。わたしは、なにもわかっていなかったのだな」
絶望の含まれるその響きに、趙雲の心も暗くなった。
いま、孔明の心のなかにあった甘さとともに、その明るさの一部を、まちがいなく砕いたのがわかった。
いま、このときより、こいつの目に、明るさばかりが宿ることはなくなるだろうと、趙雲は思う。
残酷なことをしているのだと思うが、しかしこれは、どうしても乗り越えなければいけない部分であった。
さもなくば、この人を信用しすぎる軍師は、生き抜くことはできなかろう。
「おまえを軽蔑したりはしない」
「もし、わたしがここで間違えたら、もっと多くの人が死ぬのだな」
「だとしても、おまえを恨まない。他のやつはどうだか知らないが、俺は恨んだりしない。
おまえが必死に知恵を絞るだろうと、わかっているからだ」
孔明は顔を上げると、趙雲の顔を真っすぐ見た。
恐怖のための涙か、それともおのれの純粋さが確実に失われ行くことを嘆いているのか、その双眸からは涙がこぼれていたが、しかし、表情には、わずかに笑みが浮かんでいた。
「人の本性は極限になるとあらわれるという言葉の意味が、いまわかった気がする」
「俺はおまえの主騎だからな。最後までとことん守ってやるさ」
「心強いな」
孔明は言うと、目を伏せた。
その閉じた瞼から、ふたたび涙が落ちた。
「そうだな、わたしは、とんでもなく傲慢だったのかもしれない。一人の人間が救える人数など、それこそこの手で数えられるほどなのかもしれない。
わたしが出来ることは、救うことではなくて、かれらが自分で自分を救えるように道を示すことだけであったのか。
わたしは、なんと小さな存在だろう。
それでおのれを龍などと、よく恥ずかしくもなく口にできたものだ」
「おのれの小ささがどれほどまでかわかれば、おおきくなるために具体的な努力をすることができる。そう嘆くものじゃない」
「そうだな、嘆いている暇はないのだ。考えねば」
孔明は言うと、いまやはっきりと馬上の人間の表情すらわかるほどに近づきつつある青州兵らと、混乱のきわみの中にある民の姿を、橋の向こうから見つめた。
「子龍、いまわたしたちが渡ってきた川に、橋があったな」
「あった」
「輜重はあきらめよ。ひとまず兵卒は隊伍を再編成し、急ぎ、橋を渡るように伝えるのだ。
その伝令と指揮はあなたにまかせる。ともかくなにをも助けようとするな。ひたすら逃げて橋を渡るように。
そして全員が渡りきったなら、橋を焼き落す。それでしばらくは時間を稼ぐことができるはず」
孔明は言いながら、空に向かって目線を投げた。
「じき、夜がやってくる。暗くなれば、よそ者の青州兵には、ますます別の橋を見つけることはむずかしかろう。
そのあいだに、われらは夏口へ向かうぞ」
「わかった。おまえはどうする」
「主公にお目通りをねがう。奥方様のことをお伝えし、それから夏口だ。
奥方様が無事であることを知れば、おそらくは、無茶なことはなさるまい」
「そうだな」
そうして、趙雲が一行のもとへ駆けようとすると、孔明がつぶやいた。
「子龍、戦というものは、嫌なものだな。ほんとうに嫌なものだ。
どうしていまのいままで、わたしはそう思ってこなかったのだろう」
孔明とわかれたあと、何万とつづく民の行列にむかって趙雲は馬を走らせた。
おそらくは、孔明は、劉備の所在を趙雲の部下がたしかめたあと、その先導にしたがって、あとからやってくるはずである。
民は、すでに青州兵が追いついてきたことを知り、混乱のなかにいた。
やってきた趙雲に、なにごとか喚きながら近づいてくる者もいたが、趙雲はそれらにまったくかまわず、どころか蹴散らすようにして、ひたすら馬を走らせた。
途中、糜芳らの一隊とすれちがい、なにか言われたが、これも耳に届かなかった。
どうやら一行の殿(しんがり)は、張飛がつとめているらしい。
進めば進むほど、馬足が速くなるのは、どんどん行く手に人が少なくなるからである。
青州兵からの容赦ない凶刃から逃げるため、民は持っていた荷物を地に打ち捨てて逃げたらしい。
たくさんの荷物のなかに、おそらく混乱のなか、せまい道ゆえに、圧死してしまった者の死体が、やはり野ざらしになっている。
凄惨な光景の展開する地のうえを飛び越えながら、趙雲は、途中、先に派遣していた部下たちに追いつくと、すぐさま孔明の策をつたえた。
その場しのぎの策である感は否めないが、逃げるというほかに道はない以上、わずかな時間でも稼がねばならない。
劉備はどうしたかと首をめぐらし、見れば、なにやら馬上にて、口々になにかわめきながら、鎧を脱ぎ捨てている男がいる。
その異様な姿に呆気にとられて、よく見れば、それは劉備なのであった。
劉備が無事であったと安堵した趙雲であるが、しかし、鎧を脱ぎ捨てている意味がわからない。
まさか錯乱されたのではとひやりとしながら近づけば、劉備は顔を明るくした。
「おお、子龍よ、無事であったか。ほかのだれもが逃げ出すときに、おまえというやつは戻ってきてくれる。そういうやつだ」
子供のようによろこぶ劉備の目の色に、狂気がないことをたしかめて、趙雲はひとまずほっとした。
「ほんとうは、もっといろいろ言葉をかけてやりてえし、いろいろ言わなきゃならんこともあるが、なにせこのざまだ。時間がない。
俺はいますぐ漢水にむかって、劉公子の船を呼んでくる。
先にやった雲長は、わしらが道を変えたことを知らないはずだからな」
そのことばに、趙雲はようやく、劉備が鎧を脱ぎ捨てた意味をさとった。
どうやら、自身が使いになって、味方のための船を呼んでこようということらしい。
鎖帷子だけという軽装になって、東の方角へ向けて、
「さあ、気合をいれねぇとな」
などとつぶやいている。
錯乱はしていないが、混乱していることはまちがいない。
趙雲は鼻息もあらく、いまにも東へ飛び出しかねない劉備に言った。
「お待ちください。お心はわかりますが、主公がこの場からいなくなってしまわれたら、民も兵も、主公に見捨てられたものと思い、場はますます混乱いたしましょう。
劉公子への使いは、ほかの者にご命令ください」
「しかし、儂の軍のなかで、いちばん足の早い馬はこいつだぞ!」
と、劉備は自分の愛馬を示して口をとがらせる。
劉備としては、助けを呼ぶことで頭がいっぱいなのだ。
「この先に橋がございます。この橋を、まずはみなで渡りきり、青州兵がやってくるまえに焼き落としてしまおうと、軍師が申しております。
主公には、まず橋を渡っていただき、劉公子のもとへ向かっていただくのはいかがでしょうか」
「孔明も戻ってきたのか」
意外そうに言う劉備に、趙雲はうなずいた。
劉備という男は、これまでの人生で、敗走ばかりをくりかえしてきた。
そして、人に裏切られ、見捨てられることもくりかえしてきた。
逆に、うらぎられることが当たりまえのように思っているフシもある。
趙雲や孔明が、わざわざ、ふたたび北上してきたことを、心底おどろいているのが見てとれた。
「なんだってまた、そのまま東に逃げねぇんだ、おまえらは。
儂はそれで怒ったりしねぇよ。儂だったら、そのまま東へ逃げるもの」
事実、そうであろうが、劉備のその正直な言葉に、趙雲は思わず笑みをうかべた。
「申し訳ありませぬ。われらともども、そのようにお心のやわらかな主公が、心配でならなかったのでございます」
「莫迦だぜ」
「主公の家来でございますれば」
「そういうことだろうな。なんだって、儂のまわりには不器用なのが集るのやら」
ぼやく劉備であるが、その口には、照れくさそうな笑みが浮かんでいる。
趙雲は、その顔を見て、俺は父というものに縁がなく生きてきたが、主君には恵まれたと、しみじみ感じた。
この人の統べる天下を見てみたいと、心から思う。
そのためには、ここは生き延びなければならない。
「奥方さまはご無事でございます。軍師が看病いたしまして、病は峠を越しました」
「ほんとうか?」
「はい。どうぞご安心くだされ。いま、叔至と魯子敬とともに、間道をぬけて、夏口へ向かっております」
「魯子敬だ? 江東の孫氏のところの、客人あつかいになっている男じゃなかったか」
劉備はその名を知っていたかと思いつつ、趙雲はうなずいた。
「青竜という男が、魯子敬でございました。
われらが同盟を組むに足る相手か測るため、江東が送ってよこした男だったのでございます」
「江東が動きだしたか……さすが曹孟徳、つねにそこいらじゅうを揺さぶるやつだよ。
英雄というやつなのだろうな。あんなチビなのに、ちょっと動いただけで、天地が震えるのだ」
「主公も英雄でございます」
それは追従ではなく、本心から出たことばである。
しかし趙雲のことばを、劉備は笑って否定した。
「儂が英雄なら、こんなみじめな格好で、ひたすら逃げていることもあるまいよ。
儂に才覚があったなら、おまえらにも苦労をかけさせなくてすむのにな」
「なにをおっしゃいますか。高祖とて、時を得るまでは、敗走をつづけておりました。
主公はかならず時を得ることのできる御方。ここはどうぞ生き延びてくだされ。我らがお守りいたします」
「劉公子は気の弱い方だ。最初の手筈が狂ったのを見て、もしかしたら心を変えてしまったかもしれねぇ。
そうなったら、ますます船の到着は遅くなる。ここは、儂が説得せにゃならぬだろう」
「ならば、そのお役目は軍師にお申し付けください。
劉公子は軍師に恩義があります。軍師のことばならば、劉公子も耳を貸してくださるでしょう」
「うむ、そうか。そういう手もあるな。孔明に儂の馬を貸してやればいいのか」
「急ぎ、軍師と橋を渡ってくだされ。それがしは、輜重隊と、殿の張飛に、軍師の策をつたえに参ります」
「わかった。おまえの言うとおりにする。しかし、子龍よ」
と、劉備は、一旦は馬首を孔明の待つ方向へとむけたのであるが、途中で馬の足をとめて、言った。
「おまえは変わった。昔のおまえは、たしかに頭のいいやつだったが、もっと、誰にたいしても突き放した言葉を言うやつだった。
いいことだぜ。おまえはきっと、もっといいやつになれるだろう。生き残れよ」
「はい」
「儂は、ひと足先に、孔明と会ってくる。では、あとで会おう」
「必ずや」
劉備はそう言うと、馬腹を蹴って、その場に付き従っていた数騎とともに、南へとむかった。