風の旗標
九回目
幕屋の周囲にはりめぐらされた布をかき分けながら、趙雲は、最悪の結果を予想し、なにを見ることになっても取り乱すまいと心を決めた。
切り換えのはやさは、武人にとっての必須の能力であると、趙雲は考えていた。
だからこそ、常から感情に起伏のとぼしい自分は、武人に合っているのだと思っている。
士大夫のはしくれとして、ひととおりの教養をおさめたが、詩文をものすのは苦手であるし、元々、おのれを表現すること自体が、照れくさくてできない。ゆえに弁舌も冴えない。
もともと武人を多く輩出した家の末裔であるし、幼い頃から、自分も、そして周囲も、将来について、武人になるだろうと自然とおもっていた。
適性もあるようだし、なにより生き残るということに関してのみいえば、自分の、情に左右されない性格というのは適しているとかんがえていた。
常ならば、周囲が眉をひそめるほどに、趙雲は割りきりが早い。冷
静といえば聞こえがよいが、じっさいは情がうすいだの、冷酷なのではないかなどと評されることすらあった。
ところが、甘夫人の仕女たちのほかには、男は孔明しかいないこの幕屋に入るにあたり、趙雲は、自分の心の切り換えがうまくいかないことにおどろいた。
最悪の結果、つまり、孔明の治療が失敗し、甘夫人が亡くなっていた場合についての心構えを準備しようと思ったのであるが、しかし、目のまえの光景が、ただの形骸に見えて、状況と結びつかない。
何度も踏みしだかれた草と土のうえに、白さの目立つ仕女たちの、色とりどりの衣裳が散らばっている。
いや、散らばっているように見えただけであり、実際には、仕女たちは、地に伏してそれぞれ泣いているのだった。
その背中を丸めた姿は、色鮮やかな団子虫のように見えて、そこに感情を読み取ることがむずかしい。
そしてしばらくぼう然と周囲を見まわし、趙雲は気づいた。
周囲の感情が欠落しているのではなくて、自分が、動揺しているあまり、目のまえの光景を理解できないでいるのだ。
なぜ理解できないのかといえば、あきれたことに、どうやら、主公である劉備の妻の死という悲報を聞きたくないというわけではなくて、孔明の失敗を見たくないという心情がつよいためらしい。
おのれの心の、あまりに偏った動きにうろたえながらも、趙雲の目は、泣き伏す女たちのなかのどこにいるのかと、孔明の姿をもとめた。
そして、しばらくもしないうちに、孔明の姿は見つかった。
地に頭を垂れて泣き伏している女たちは、仕女たちのなかでも身分の低いものたちで、高位にあるもの、古くから仕えているものは、夫人のそばで、いまもなお気丈に動き回っている。
そうした女たちのなかにあって、孔明は、まるで崩れるように、幕屋の支柱としてつかっている丸太に、かろうじて寄りかかるようなかたちで、身を崩していた。
いまにも倒れそうなそのうしろ姿を見て、趙雲があわてて近づいていくと、孔明は、まだわずかに意識が残っていたらしく、足音で気づいたのか、趙雲を振りかえった。
孔明は、趙雲の姿を認めると、笑った、ようである。
一瞬のことであった。
振りかえり、その姿を見て安心したものか、孔明は、そのまま意識をうしない、その場に昏倒した。
趙雲はあわてて足を早め、孔明の身が地面に打ちつけられる直前に、なんとか腕をさしのべて、その身を受け止めた。
受けとめた体の、あたたかさに安堵する。
孔明の顔色は、いつにも増して蒼白く、真冬の踏み荒らされることもなく凍りついた雪原の白さを思わせたが、唇の血色はよく、それは笑みを形づくっている。
よほど疲れたものか、閉じた目の下の皮膚は黒ずんでいた。
孔明が笑ったまま昏倒しているのを見て、趙雲は予感した。
成功したのだ。
そして顔を上げれば、そこには、泣き笑いの表情を浮かべている、見知った女たちと、そして、寝台の上に横たわる、甘夫人の姿があった。
肌の見えるところには、痛々しい発疹が見えるのだが、呼吸は落ち着き、その目も、うっすらとだが開かれている。
「ようございました」
と、辛うじてそれだけがことばとして出てきた。
もしも、孔明が追ってこなかったなら、みずから手をかけていたかもしれない女は、いま、ふたたび生きるために目を開けていた。
よかったと、心から趙雲は思った。
甘夫人が回復したことも、もちろんであるが、この女人を殺さずにすんだ、その運命に心から感謝した。
仕女たちを束ねている老女が、気をきかせて、趙雲のところへやってくると、安堵と歓喜に身を小刻みにふるわせながら、けんめいに声をはげまして、言った。
「軍師は寝ずに看病をつとめておられました。おかげで奥方さまはご回復なさったのです。軍師も疲れていらっしゃるはず、どうぞ休ませてさしあげてくださいまし。あとは、わたくしどもが奥方さまのお世話をいたします」
そのことばに、趙雲は大きくうなずき、孔明を抱え上げて立とうとしたが、片膝を立てたとたん、腕の中の孔明が、ぱっと目を開き、趙雲の袖の裾を、ぐっとつかんだ。
待てということらしい。
孔明の疲労は、みるからに極限に達しており、その開いた目の焦点もろくにさだまっていないのであるが、それでも袖をつかむ力はつよく、趙雲は立ち上がるのを途中で止めて、たずねた。
「どうした」
たずねると、孔明は、呂律のろくにまわっていない舌でもって、なんとかことばをしぼり出した。
「疲れているのはわたしだけではない。みなに、交替で休むように、その采配をせねばならぬ」
趙雲は、うっすらと額に汗を浮かべながらも、女たちのほうを向こうと身じろぎをする孔明に、感動すると同時に、呆れた。
なんとなく理解はしていたが、自分のことは、とことんまで後回しにする性格が、ここまでのものとは思っていなかった。
その無私の精神と責任感は立派なものだが、あまりになにもかも抱えすぎではないか。
物事の全体について、細やかに心配りができるという、その性質は、上に立つものにとって必要なものであるが、孔明の場合、その能力がありすぎて、かえってなにもかも抱えすぎてしまい、身動きがとれなくなっている。
優しすぎるからか、それとも、他者はおのれより劣っていると思っているから、信用できないのか。
この、おのれのあまりに美麗にすぎる容姿を嫌って、舐められることを避けようとするあまり、あえて傲岸不遜に振る舞うおかしな癖がついている軍師は、口では後者を理由にあげるだろうが、ほんとうのところは前者だろう。
「それは俺がする。おまえは休め」
さすがに趙雲が口にすると、孔明は立ち上がろうと腕を動かしながら、答えた。
「あなたはなにも見ていなかったから、だれを休ませ、だれを動かすかわかるまい。まだ油断してはならぬのだ」
と、口にしてから、孔明は、うわごとのように言った。
「そうだ、わたしがこのような有様ではいけない」
「莫迦。おまえは何日もろくに休んでいないではないか。みなを交代で休ませるのは、おまえだけしか出来ない仕事ではなかろう」
趙雲は、顔をあげると、老女に、そうだな、と同意をもとめた。
老女は大きくうなずいた。
「あとは我らにまかせ、どうぞお休みくださいませ。軍師のお体のほうが、わたくしどもは心配でございます」
そうなのだ。
回復したことに心を奪われていたのだが、夫人の病は、疱瘡、疫病なのである。
一度罹ったものは、二度とその災厄に見舞われないという性質のある病だが、孔明はもちろんのこと、趙雲も、疱瘡にかかったことはない。
体の弱くなっている者を、病は容赦なく襲う。
「ともかく、あとはみなに任せよ。おまえは休むのだ」
そう言って、趙雲は、孔明を抱え上げると、幕屋から出た。
幕屋の外では、陳到をはじめとする兵卒たちが、息を呑んで、趙雲の口から、甘夫人の容態がどうなったのか、その結果を待っている。
趙雲は、言葉にせず、ただうなずいてみせた。
その場にいたのは、みな、気心のしれた、おのれの部下たちばかりである。
趙雲のわずかな仕草で、それと通じたらしく、兵卒たちは、おおきく安堵の声をあげた。
かれらの喜びの声を聞きながら、趙雲は自然と口元をゆるめていた。
思えば、孔明が軍師として新野城に招かれた当初は、だれもかれもが、この目立つ容姿をした青年の能力を疑い、そして、その振る舞いや、容赦のない言動に眉をひそめていたものである。
見た目だけだと突き放し、親しくしようとする者は、主公である劉備と糜竺を除けば一人としていない状況だった。
いま、孔明を見る、みなの目には、剣呑とした感情はない。
わずかなあいだに、実力で、孔明は、みなの信頼を勝ち得たのだ。
戦場に出て、力を示すことができるものがいちばんだという尚武の空気があるなかで、よくやったと素直に思う。
孔明のために、陳到と、その妻の紅霞が、木陰にささやかな寝所をこさえている。
娘の銀は、おそらくみなが、どうしてそんなに喜んでいるのか、理解していないだろうが、それでもうれしいらしく、兵卒たちのあいだで、ぴょんぴょんと跳ねまわっていた。
「あなたはちゃんと休めたか」
と、孔明はうすく目を閉じたまま、たずねてきた。
「おまえの薬は意外に効いた」
「意外ではない。当然の結果だ。でも、よかった」
「ああ、おかげで疲れもとれた。怪我もさほど痛まない」
「一夜で治る怪我ではなかったろう。あまり無理をするなといいたいが」
と、ここで孔明は、深くため息をついた。
どうやら疲労のあまり、急激な眠気が襲ってきているのだが、趙雲と話をするために、懸命にこらえているらしい。
「軍師としては、そうは言えぬところがつらい。主公のもとへ」
「わかっている。これから準備が整い次第、北ヘ戻る」
「頼む。わたしもすぐに後を追う」
「休んでからな」
孔明は、ちいさく、そうだな、と相槌を打って、しばらく黙った。
眠ったのかなと目線を落せば、しかし、孔明は目をとじたまま、ふたたび言う。
「情けないな。ほんの数日、疲れただけでこれだから。わたしはもっと鍛錬しないといけないようだ」
「だいぶもったほうだと思うぞ。悲観することはない」
「なんだか優しいな」
「そうか。まあ、いまは気分がよいからな」
「死んではならぬぞ」
唐突な孔明のことばに、趙雲は意外に思い、ふたたび目線をおとすと、目を閉じていた孔明は、うっすらと目をひらいていた。
「死はすべてを断絶させる、いやなものだ。不様でもいいから、生きるために足掻け。そしてわたしの元に戻ってくるのだ」
そうだな、と相槌を打ちかけて、趙雲は思いとどまった。
「おまえのところにか」
「そうだよ」
と、孔明は、きっぱりと言うと、ふたたび目を閉じ、まるで子犬のように、すこしだけ頭を動かして、身をすりよせるような素振りをみせた。
単に頭が疲れたので動かしただけなのかもしれないが、なぜだかすぐには、趙雲はそうは思わなかった。
「戻ってきて、そしてわたしの鍛錬に付き合うように」
「ああ、そういうことか」
「そうだとも。あなたはわたしの主騎であろう」
「主騎の仕事は、ふつうはそこまでしない」
「だからだ。あなたは、わたしがそうしてほしいと言ったなら、きっとそうしてくれる。そういう面倒見のよい得難い人なのだ。だから、かならず生き残れ」
「おまえの世話をするためにか」
「ほかのだれでもない、このわたしの世話をできるのだぞ。ほかのだれにもできない」
「ひどい役目だ」
「でも、あなたは戻ってくるだろう。約束は違えない。あなたはそういう人だから」
なにやら知らないあいだに、ずいぶんと高い評価を得たものだと、戸惑いをおぼえるが、どこかくすぐったさもある。
眠りに落ちた孔明を、陳到が用意した草のうえのしとねに横たえて、趙雲は、満足そうに口元にわずかに笑みを浮かべている孔明の顔を見ろしていた。
十五で故郷を離れてから、何度と戦場に赴いたかしれない。
戦場はもはや日常のひとつであり、そこに向かうことは、なんら特別なことではなくなっていた。
そうしたなかで、死への恐怖は鈍磨した。
昨日までの味方が、突如として今日の敵になっているような、そんな状況にも、さして心を動かされることもなくなった。
いや、そもそも、心を動かされていたのかどうか。
生きて戻って来いといわれたことも、これまで重ねてきた年月のなかに、なんどかあったかもしれないが、同じことばが、これほど心に残ったのは初めてだ。
いや、そうではなくて、もしかしたら、初めて、戻ってきたいと思ったのかもしれない。
これまで、どこにいようと、そこが仮の宿りなのだという感覚が抜けることはなかった。
自分は旅の途上にいて、まだ終着点にたどりついていないのだと思っていた。
ところが、自分の居場所などというものは、存在しないと決めてかかっていたというのに、わざわざそれを作って、待つという者がいるようだ。
それは一方的な押しつけではなくて、ここが目指していた場所なのだろうという、確信めいた予感がある。
だが、悲しむべきか、いま赴く戦場は、これまでのどの戦場よりも、生き残ることがむずかしいものであろうという予感もしているのだ。
「叔至」
そばにいた陳到に、出立の準備をするために声をかけると、陳到のほうも心得ており、うなずきながらもこたえた。
「すでに準備は出来ております。みな、号令を待っておりますが」
「そうか。では、選抜はおまえに任せるが、甘夫人をお守りするために残すものと、俺とともに主公のもとへ戻るものの二手に分けよ。甘夫人の守りは、おまえに任せる。おまえはここに残るのだ」
趙雲のことばに、陳到の顔がゆがんだ。
てっきり安堵するかと思った趙雲には意外だった。
趙雲が陳到を残そうと考えたのは、この男が、なによりも家族を大切にする男だったからである。
劉玄徳という人物に心酔しているが、しかし家族とどちらを取るかと迫られたら、まよわず家族を取るのが、この男なのだ。
「なんと薄情なおことば。叔至は、将軍におともしますぞ。この苦難のなかにあって、わたしだけが死地から逃れるわけにはまいりませぬ」
陳到は、陳到なりに考えて、劉備への忠誠を果たそうと意気込んでいたらしい。趙雲の命令に、あきらかに不服そうにしている。
趙雲は真摯におのれを見つめる陳到と、そして、同じように自分にじっと視線をそそぐ、陳到の妻と娘を見た。
悲愴な覚悟を秘めた視線にぶつかり、趙雲は目をそらした。
平穏だった七年のあいだに、たとえかりそめであろうと、平和であることのすばらしさ、団欒のうれしさを与えてくれた一家である。
将としては、判断が甘いかもしれないが、趙雲はかれらを死地に追いやることはしたくなかった。
「死地から逃れられるわけではないぞ。曹操の青州兵の追撃のすさまじさは、おまえも聞いているだろう。病人と女子供を守り、おまえは逃げねばならぬのだ。
逆にいえば、俺のほかに、そういったむずかしい役目をこなせる人間は、おまえしかおらぬ。そう思うからこそ、頼むのだ。聞いてくれ」
「では、軍師をお守りする役目は、だれがするのですか。夫人を安全な場所にお届けしましたら、叔至は軍師とともに、北上いたしますぞ」
「だめだ。おまえのいう、安全な場所とはどこだ。われらは、これより南の地に、なんら縁故を持たぬよそ者なのだ。疱瘡という病をもつ夫人を、守りのない状態でだれが預かる。恩義をかけている者でさえ、夫人をあずかることを嫌がるであろう。
最悪の場合は、曹操の機嫌をとるために、曹操に送りつけられてしまうこととてあるかもしれぬ」
「それを言うなら、守りがいようと、危ないってことじゃないかい」
趙雲と陳到のあいだに割り込んでくるかたちで、いつからそばにいたのか、青竜が入ってきた。
もともと人見知りをするたちの趙雲が剣呑なまなざしをむけると、この人懐こい男は、やめてくれというふうに手を軽く振って、それから、言った。
「割り込んでわるかったよ。黙っているつもりだったが、しかし、このままじゃあ、すぐに話が進まなくなるだろうなと思ったのでね」
「どういうことだ」
と、たずねてから、趙雲は、木陰で、規則正しい寝息をたてて眠る孔明のほうを気にした。
深い眠りについているらしく、趙雲たちのやりとりにも目を覚まさない様子である。
邪魔してはいけないと思い、趙雲は、陳到や青竜に、場所を移動しようと指で示して、孔明のそばを離れた。
青草を踏みしだきながら、趙雲は、孔明は傭兵の頭である青竜を信用したようだが、さて、その判断は正しいだろうかと考えていた。
孔明の人物を見る目を疑うわけではないが、しかし、孔明が武人というものと、これまで縁遠く生きてきたことを考えると、すべて正しいと評価もできない。
「まずは先に言っておくが、俺はなにより金で動く傭兵にすぎないが、しかし、請け負った仕事は、最後まできちんとやりぬく」
「だから信用せいと言うのか」
と、突っかかるようにして尋ねたのは陳到である。
陳到は、袁紹のもとで細作として働いたことがある。
そのため、趙雲よりも裏の世界にくわしいのであるが、その陳到でさえ壷中のことを知らなかった。
ところが、蛇の道は蛇とでもいうのか、傭兵の青竜は、壷中を知っていたという。
そこに、陳到が疑惑の目を向ける根拠がある。
傭兵とひとくちに言っても、この青竜は、壷中の名を知るほどに、かなり後ろ暗いところのある男ではないのか。
そんな陳到に、しかし青竜は悠然とした態度をくずさずに、答えた。
「端的に言うとそうだな。信用してもらわなくちゃ、話が進まん。殿様は話がすんなり通る方だったが、あんたらは武人にしちゃあ、そろって慎重すぎるぜ」
「それはよく言われるが、あいにくと治すつもりはないぞ。おかげで生き残れてきた部分が大きいからな」
趙雲が言うと、陳到も、おっしゃるとおりというふうに、同調してうなずいた。
すると、青竜は、困ったように、無造作に頭をかく。
「困ったね。あんたらに信用してもらうには時間がかかりそうだが、あいにくといまは、時間そのものが足りない。回り道をする時間も惜しいからずばりいうが、奥方を曹操や壷中からも守れる土地を、俺は知っている」
「どこだ」
「夏口さ。あんたらがまさに目指そうとしている土地に、つてがある」
「俺たちとともに、北ヘ向かうとでもいうのか」
趙雲が莫迦にするなと言う風に目をほそめると、青竜は迷惑そうに顔をしかめた。
「ったく、あんたもあそこで寝ている軍師とおなじだな。元がいいから、顔を歪ませると怖いんだよ。頼むからふつうにしてくれや。どうも落ち着かねぇ」
しかし趙雲は、それには耳をかさずに、言った。
「あいにくと、俺は軍師とちがって疑い深い男でな、この乱世のなかで、すこしでも疑わしいところの残っているやつは、信用しないことにしているのだ」
「まいったね。それじゃあ、ますます話が進まん。しかし、検討だけでもしてもらえないかね。話の途中なんだが」
「続けてみろ」
「夏口に行くにしたって、ここからばか正直に街道を北上するつもりはないよ。俺の部下の面子をみただろ。このあたりに詳しい部族のやつもいるんだ。
思い切りよそ者の青州兵が、どんなに嗅覚がよかろうと、まずわからないような細道も知っている。
そこをつかって、殿様とはべつに夏口へ向かうんだ。まず追っ手がかからないし、俺たちが警護するから、のぼせ上がった地元の莫迦が襲ってきても安心だ」
「話だけ聞けば、よい作戦のようだな」
「というよりも、ほかに道はないだろう。どちらにしろ、あんたがたは東に向かわなくちゃならなくなる。ちがうか」
青竜のことばに、趙雲は、顔をしかめた。
「なぜ断言する」
「だってそうだろう。劉玄徳は生き残る。で、劉州牧の長男と合流したとする。樊城が曹操に落ちたことで、これに反発した荊州の豪族連中も、集ってくるだろう。
で、曹操にしてみれば、あんまり深追いして、補給線が長くなりすぎるのは怖いから、とりあえず追撃はやむ。そのあいだに、殿様はつぎの手を考えなくちゃいけないが、たんに江夏で曹操が襲ってくるのを待っているのはうまくない。
単純に、やっぱり曹操が南下することで迷惑がっている連中をさがして、そいつらと連合して、曹操に対抗しようと考えるはずだ。あんたの軍師もおなじくそう考えるだろうぜ。というよりも、ほかに道はないんだ」
「曹操に対抗しうる勢力となると、ひとつしかないな」
「そう。江東の孫氏だ。しかし孫氏に同盟を申し出るにしたって、兵力がそこそこなくちゃあ、意味がない。
あんたたちがいましなくちゃいけないことは、やっぱり、一人でも多く生き残ることなのさ。で、俺はその手伝いをしようとしている。どうだい、まだ疑うかい」
青竜は、そう言いながら、敵意はない、というふうに、手をひろげてみせた。
趙雲は、陳到と目を見合わせた。
たしかに青竜の読みどおりで、それは孔明の考えとも合致する。
そして青竜が言ったとおり、いまは曹操にはとうてい抗しきれない。
一人でも多く生き残り、味方を増やさなければならないのだ。
「将軍、わたくしは、どうもこの男が信用なりませぬ」
と、陳到は、青竜に聞こえぬように、趙雲に素早くつたえた。
趙雲は、陳到の人物鑑定眼を高く評価していたので、そのことばに、目で、なぜだと問いかける。
すると、陳到は答えた。
「たしかに筋のとおる話をしておりますが、傭兵にしては、聡すぎる。青竜というのも、おそらくは偽名でございましょう。
われらすら把握していなかった壷中の名を知り、かつ、われらの動向を正確に読めるのですから、只者であるはずがありませぬ」
「細作か」
「それにしては目立ちすぎる。おそらくは、われらの事情を探るために、どこぞの国より派遣された者にございましょう。
その勢力は、われらが敵になるか否かを判断するために、この男を寄越したものにちがいありませぬ。
とはいえ、主公に近づかず、むしろ軍師に近づいているところが奇妙に感じられますが」
「どちらにしろ、やはり信用はできないというわけか」
いいつつ、趙雲が青竜に目を向けると、青竜のほうも、陳到と趙雲のあいだで、どのような会話がなされたのか、だいたい見当がついたのか、頭をかきつつ、ぼやいた。
「まいったね。どうもここの連中は扱いにくい。俺が最初に聞いていたのは、新野の人間ってのは、どいつもこいつも猪突猛進の士で、ものごとを深く考えるのをきらう性質があるが、一方で素直で信用しやすい、ということだったんだがね」
「だれに聞いたのかはわからぬが、いかなる場合も例外がある」
「の、ようだな。となれば、俺も予定を変えて、本音を口にしなくちゃいけないというわけだ」
「本音?」
鸚鵡返しにした趙雲であるが、青竜はというと、その問いには答えず、にやりと意味ありげに口許をゆがめてみせると、片手をあげて、指をぱちりと高く鳴らした。
とたん、木陰に控えていたものか、青竜の部下たちがあらわれて、眠っている孔明を取り囲んだ。
その足音に気づいたか、孔明が、うっすらと目をひらく。
と、同時に、部下のひとりが、素早く孔明を乱暴に立ち上がらせると、手にしていた刃を、その咽喉元につきつけた。