風の旗標
八回目
気だるい夏の風が、草叢の上を吹きぬけていく。
夏の風は、ほんの一瞬だけ、その不快感をやわらげてくれる程度である。
せめて日が翳っていればだいぶちがうのかもしれないが、ただ立っているだけでもじっとりとわき出る汗が、さらに不快感を高めていく。
趙雲は孔明の指示にしたがって、ちいさな林の脇に陣を立てた。
そして、陳到に指揮をたのみ、兵卒たちは休ませるために木陰でいこわせ、自分は、甘夫人たちや兵卒たちのすべてを守るべく、敵の襲撃にそなえた。
この場合、敵とは、曹操の兵のことではない。
曹操を恐れた民が、恐怖のあまりに判断をくるわせ、殺戮の危険からのがれるため、落ち延びていく一行を襲ってくる可能性のほうが、いまは高かった。
かつて、帝号をみずから称し、偽帝なる不名誉な称号を世間からたまわった袁術の最期が思い出される。
その末路は悲惨で、おなじ血族である袁紹をたよるべく、一族郎党そのほかを連れての逃避行は、やはり、地元の民や盗賊たちに襲われつづけ、ついには袁術は病死、残された一行もまた、離散してしまったのだという。
袁術の人徳が足りなかったせいだという評価もあるようであるが、それだけではあるまい。
偽帝などと酷評された袁術に対し、荊州での劉備の評判はよかったが、だからといって油断はできない。
民心というものが、どれほど当てにならぬ酷薄なものであるかは、説明されなくとも、わかる。
劉備に仕えるまでの数年におよぶ流浪生活のなかで、趙雲は、人のずるさ、したたかさを、この目で見てきた。
そして、同じように、かつての領民たちに追われて荊州に逃げてきたという苦い経験をもつ孔明が、いま、こんどは曹操に追われて逃げている。
おのれの命もあやういというときにさえ、孔明は人を助けようと奮闘していた。
孔明は、まず甘夫人のための幕屋をつくると、そこからさらに、ありったけの布でもって、幕屋をすべて囲い外から見えないようにした。
甘夫人が病に苦しんでいる姿を、男たちの目にさらしたくないという、仕女たちの願いを聞いてのことだった。
幕屋の入り口は空けて、空気が籠もらないように工夫はされているようだが、その周囲を布でかくしてしまったのだから、風の流れはさえぎられてしまう。
まともなものさえ暑いにちがいない。
さらには高熱でうなされている甘夫人の苦しさは、どれほどだろうか。
そして女たちをはげましながら、孔明は、慣れない病人の看護に必死なはずである。
自身も疱瘡に襲われる危険があるというのに、それをものともせず、士大夫としての面子にもこだわらず、医師として動こうとする、その意志のつよさには、たしかに頭が下がる。
劉備から、甘夫人の病が疱瘡だと聞いたとき、助かるまいと思った。
病状を知らされたうえで、だれにも知られぬように伴につけということは、これは、楽に死なせてやってくれという主公の意志であろうとしか考えなかった。
おのれと、孔明との差について、思わず趙雲は考える。
そして、いままでの三十余年の人生のなかで、だれかとおのれを、こんなふうにして、真剣に比較して考えたこともなかったということにも気づく。
人は、人のなかにおのれを投じて、はじめてようやく、真のおのれを見つけるものらしい。
しかし、それは愉快なばかりの作業ではないらしい。
一方は死なせようとし、一方は助けようとしている。
孔明とおのれとの、この差はなんだろう。
考えたところで、答えはでぬか、とちいさく息をつき、趙雲は無意識のまま、こめかみからつたう、ひとすじの汗をぬぐった。
川の側であったなら、虫や湿気で、もっと悲惨な状態にあったはずである。
草叢のなかから飛び出して、うるさくつきまとう虫をいじめながら、趙雲は、いまは北方で民とともにいるであろう劉備と、その一行のことを思った。
背後に控える曹操を気にしながらの逃避行である。
熟練の兵卒でさえも怖じるこの逃避行に、何万という難民がついてくる。
しかも、かれらを守っていかねばならない。
劉玄徳は仁徳の男なのだから、民を助けなければならないのだ。
そうではない劉玄徳など、世人は認めない。
ここで民を見捨てて逃げたなら、こんどは世論が劉玄徳を見捨てるだろう。
民心をつかめぬ者に天下は遠い。劉玄徳の道も途絶えてしまう。
理屈ではわかっているが、なんとかならぬかとも趙雲は思う。
難民のなかには病人や年より、子供も含まれているだろう。
曹操の最強部隊である青州兵は、容赦のない殺戮をすることで知られる。
徐州を席捲したのもかれらである。
かれらが劉備とその一行に対してだけは、とつぜん慈悲を見せるとは思えない。
俺はやはり、ここに留まっていないで、主公のもとへ馳せ参じるべきではないのか。
「北ヘは行かぬのか、子龍」
まるでおのれのこころを見透かされたような感覚に陥ったが、さほど苛立ちがないことがふしぎである。
姿は異形ではあるが、やはり、ことばのはしはしに、なつかしい常山真定を思い出させる響きがあるからだろうかと、趙雲は考えた。
夏侯蘭は、ひとびとの奇異のまなざしを避けるべく、この猛暑のなかでも、頭から頭巾をかぶり、手足の先のほかは、肌が見えないようにしていた。
いかなるいまわしい技を用いたのか、成長期のただなかにあり、体つきはほとんど大人に近くなっていた少年は、想像を絶するおそろしい力を加えられたらしく、骨と肉をねじまげられたせいで、ちいさく縮み、その体のまま、成人した。
影だけを見たならば、子どもに見える。
声に振り返った趙雲が、痛々しい姿を見るのがつらくて、すぐに目をそらしたせいか、夏侯蘭は、布に覆われた口の下から、くぐもった声で言った。
「やはり俺の身体は気になるか」
「そうではない。俺が昔から、人の目を見るのが苦手であったことは知っているだろう」
嘘である。
趙雲は、いまもって、義勇軍の頭として、常山真定から引き連れてきた少年たちのすべてを、みずから公孫瓚のところへ連れて行かなかったおのれを責めていた。
たとえ恨まれることになろうと、無理にでもいっしょに公孫瓚のもとに連れて行っていたら、いまの夏侯蘭の姿はなかったはずだ。
趙雲の嘘を、夏侯蘭は見抜いたらしく、鼻を鳴らした。
「そうであったかな。忘れた。もしもおまえが、俺が以前のように、つまらぬ嫉妬から、おまえの命をねらっているのかもしれぬと警戒しているのなら、安心するがいい」
趙雲は、夏侯蘭の声色のなかに、穏やかさがあるのに気づいて意外に思った。
かつてのおのれの心を、つまらないと哂うことさえできるようになっている。
たいしたものである。
「変わったな」
素直に感心していうと、布で隠された口をゆがませて、夏侯蘭はわらったようである。
そして、その返礼とばかりに、夏侯蘭は言う。
「おまえも変わった。なんといおうか、むかしのような茫洋とした印象がなくなった。
うまくいえないが、昔のおまえはどこか霞がかかったような印象があった。だが、いまはおまえ自身が、はっきりと表にあらわれているように見える」
もし印象が変わったのだとすれば、播天流のことも影響しているのだろうかと考えながら、趙雲は応じた。
「誉めことばと思おう。しかし、俺の命をねらわないのは、どうせ放っておいても、曹操が俺たちを殺すだろうという読みがあるからではあるまいな」
趙雲のことばに、夏侯蘭は、布がこすれるような声をたてて笑った。
「劉備の首をほしがっているのは曹公だ。俺はいらない」
孔明とともにやってきた安車のなかには、夏侯蘭と、その仲間だという、やはり同じような境遇に陥った者たちがいた。
壷中に対する記憶は、まだまだ生々しい。
孔明は、夏侯蘭が安車からあらわれた当初は、趙雲のくちから、夏侯蘭にまつわる話を聞いていたから、また壷中とつながりのある者が襲ってきたのではとかまえたようである。
ところが、夏侯蘭は意外にも、孔明が自分たちのことを知っているとみるや、自分が趙雲と同郷であること、自分たちの身に起こった悲劇を切々と訴え、天下はすでにあの御方のものにはならないと読んでいる、このままでは泥舟に同乗したまま、沈むのをまっているようなものだと告げた。
それに、われらには、身体をこのように変えられてしまった恨みがある、とも。
そこで相談して、劉玄徳にあらたに仕えようと思い、曹操の軍にまぎれて南下し、途中でこっそりと軍からはなれて、単身、南へ向かったというのだ。
かれらは街道沿いに劉備が南下すると読んでおり、一度は荊州を出て、揚州の当陽にかならずやってくると思い、待ち伏せするつもりであった。
だが、劉備は江夏からの船に早く乗り込むために、荊州と揚州の国境の手前にある近道を抜けて、漢水の船着場へむかう計画であったのだ。
そこで劉備を追うために北への道をもどるか、このまま別の道をさぐるか、困っていたところへ、ちょうど運よく孔明たちがやってきたのだという。
もちろん、この話が嘘で、やはり劉備の首をとるために待ち伏せしていた可能性とて、ないわけではない。
だが、孔明はかれらをゆるしたのだった。
理由は、趙雲があきれたことに、
『目が清くなっている』
からだという。
そんな根拠のあやしい理由から、かつておのれの命をねらってきた者を信じることなどできやしない。
さすがに抗議すると、孔明は、いったいどういう自信からなのか、胸を張って、言った。
「では、あなたはかれらを斬るか。あなたの佩くその剣は、徐兄の剣だ。友のためにみずから泥をかぶることを覚悟で剣をふるった男を知るその剣で、幼なじみを斬れるのか」
孔明らしい理屈ではあるが、こうなるとほとんど脅迫である。
いっそ命令してくれと趙雲が言うと、孔明は、こほんと咳払いひとつすると、妙におごそかに告げた。
「よろしい、それでは趙子龍、貴殿は、夏侯蘭をゆるすこと。ただし、夏侯蘭の目の清いうちは」
さいごに付け加えられたことばで、いくら孔明でも、さすがに完全に夏侯蘭を信用しきっているわけではないと気づき、趙雲はすこしばかり安堵した。
それが表情に出たのだろう。
孔明は、困ったように笑うと、言った。
「子龍、われらは、たしかにいまは、一人でも多くの味方を欲しているが、そのことと夏侯蘭のことは切り離してくれ。これはあなたのためなのだよ。わたしは思うのだがね、播天流のことといい、夏侯蘭がいまあらわれたことといい、いまがあなたにとっての天機なのではなかろうかね。
つまり、天があなたに過去の清算をする機会を与えてくれているのだよ。これはとてもよいことなのだと思わないか。これで過去との決着がついたなら、あなたは、あとは前だけを見て進むことができる」
そのあと、わたしと一緒だな、などと添えて、孔明が妙に照れくさそうに笑ったものだから、趙雲としては、こいつがそう言うのなら仕方ない、と納得するしかなかった。
過去との決着か、と心のなかでつぶやきながら、趙雲は夏侯蘭を見た。
夏侯蘭の仲間たちは、正式に帰順をゆるされていないことで遠慮しているのか、安車から出てこないでいる。
兵卒たちは、鎧さえぬいで、交替で泉のほとりで水をくみ上げ、顔をあらったり、身体をあらったりしていた。
たまに、幕屋から女が桶をかかえて出てくると、命令されたわけでもないのに、兵卒たちが率先して、女のために水をくみ上げてやる。
この殺伐としたなかにあって、そうしたさりげない人のやさしさが、いまの趙雲にはなにより尊いものに思えた。
幕屋を囲う布から出てくる仕女たちの表情が、どれも固いところからみて、甘夫人の容態は、依然としてよくならないらしい。
孔明を信じていないわけではないが、相手は疱瘡。多少、医術をかじっただけの素人の手に負えるものではない。
やはり、最悪のことを覚悟しておかねばならぬか。
暗い想像に支配されそうになり、あわてて趙雲は、目のまえの夏侯蘭に集中することにした。
孔明は目が清い、などと抽象的なことを言ったが、たしかに、夏侯蘭は変わった。
全体にあふれていた、ぎらぎらとした気配が消えている。
とはいえ、だから信頼できるなどという単純なものではないだろう。
そこで、あえてたずねてみた。
「許都に幽閉されている『あの御方』はどうだ」
カマを掛けてみたのだが、頭巾のあいだからのぞく、夏侯蘭の、すこし色のうすいこげ茶色の瞳は、動揺を見せることはなかった。
「やはりそこまで握ったか。まずは言っておくが、俺はすでに、『あの御方』とは切れている。
おまえは知らぬだろうが、あれはただの妄想にとりつかれた病んだ龍だ。おそろしく狂気に満ちた夢を、えんえんと見るだけしかできない龍だよ。二度と淵から目覚めることはあるまい。
とはいえ、この俺は、その龍の夢から生まれたのだがな。
高祖の時代よりはるか昔から、貴族たちを楽しませるために、身寄りのない子どもたちのなかでもとくに才能のある者をえらんで、手足を切ってわざと不具にしたり、俺のように身体を曲げてせむしにしたりと改造する技が伝えられていたそうだ。
宦官とて、その一種にすぎぬそうだから、闇は深い。
やんごとなき方々というのは、俺たちを見ると、安心するらしい。自分たちより、もっとみじめで不様なものがいる、とな。そこいらの民衆を哂うだけでは足りないのだと。そして、俺たちのような体に異様に興奮したり、美を見たりするのだそうだ。どうなっているのだか、狂っているぜ。
いまは、自分たちが笑い者だってことにも気づかないのだから、お目出度いことだ。狂っていることの証左かな」
趙雲はつとめて表情には出さないようにしたが、いやな話だと胸をざわめつかせた。
夏侯蘭の話が、単なる与太話と笑い飛ばしてしまいところだが、しかし、それが現実であることは、目のまえの夏侯蘭を見ればわかる。
少年のころの快活だった夏侯蘭を知っているだけに、その現実は、いっそうの重さを増す。
再会というものは、人とふたたびめぐり合わせてくれるだけではなく、そのときに、その者に刻んだ、おのれの印象と対峙することにもなるらしい。
地面の上に伸びる、長身の趙雲の影と、どう見ても子供のものにしか見えない夏侯蘭の影が、いっそうその対比を強めていた。
しばしの沈黙が支配する。
夏侯蘭は、趙雲がおのれを信頼していないとわかっているはずである。
しかし、わかっているだろうに、夏侯蘭はみずから趙雲に寄ってくる。
信頼を得たいというあらわれか、それとも策略なのであろうか。
かつては同じ村で育った仲間を、こうも疑わねばならない。
俺も嫌なやつになったと、趙雲が胸のうちで嘆息していると、夏侯蘭が、孔明と甘夫人がいる幕屋のほうを見ながら言った。
「おまえの龍は死にそうにないな」
「あたりまえだ。まだ若い。病すら跳ね返すであろう」
「その徳を慕ってあつまった民は、すでに十万を超えたらしいという噂が、もう流れていたぞ。実際は、その半分であろうな。
どうもわが朝の民は、物事をやたらと大きくしたがる、わるい癖がある」
蘭のいう龍とは、主公のことであったかと、趙雲はひやりとした。
孔明の号が『臥龍』であったことから、単純にそう思ったのであるが、よく考えるまでもなく、龍とはすなわち皇帝をあらわす。
帝位をのぞむもの、天下をのぞむ者は、趙雲にとっては劉備でなければならず、孔明はあくまでその補佐だという位置づけでなければならない。
危ういなと思い、趙雲は、今後はなるべく孔明の号を意識しないようにしようと決めた。
そうでなければ、ただでさえ口下手なのだ。うっかりしたことを口にして、どこでどう揚げ足をとられるかわからない。
「本気で主公に仕えるつもりか」
気を取り直して趙雲が問うと、夏侯蘭は迷うそぶりもなく、すぐにうなずいた。
「本気だ」
「なぜだ。本家本元の劉氏に嫌気がさしたからか」
趙雲は、夏侯蘭がどこまで本気なのか、読みかねていた。
わざと怒らせて本音を聞くべく、挑発したのであるが、夏侯蘭はそれをあっさりと受け流し、平然と答えた。
「それもある。だが、俺とて昔のように、のぼせ上がった小僧じゃない。
曹操が袁紹を滅ぼした時点で、はっきりとわかったさ。もはや中原の情勢は動かぬ。曹操の天下は、半分は為った。
いかにあの御方があがこうと、変えられるものは、すでにわずかだ。せいぜいが、俺のように、世間知らずなガキをだまして、手駒にする程度だな」
「そこまで読んでいるのならば、曹操に仕えればよかろう」
さらに挑発をかさねる趙雲のことばに、夏侯蘭は、またもくぐもった声をたてて笑ったが、さきほどの笑いとはちがって、その笑いには、ふしぎな色気があった。
「曹操、曹操か。あいつの名前を口にするだけで、なぜだか気分が高揚する。俺とおなじく祖先を夏侯氏にもちながら、この運命の差はどうであろう。
あの男にあったことがあるか、子龍。まるで燃え盛る紅蓮の炎が、人の形になって動いているようだ。
風采は冴えない男なのだが、あいつが下知をとばすと、それこそすべてが一斉に波立つように動き出す。あいつのことばを、みなが聞きたがり、あいつのことばの意味を探ろうと懸命になっている。
成り上がり者、宦官の孫のために、みなが命すら捧げようとするのだ。
あんなやつを見たことがない。おそろしいやつだ。あいつのそばにいたら、俺は俺でなくなる。俺の信念も、あいつが焼き殺してしまった。
漢王朝の復興の夢を断たれてしまったなら、俺はただの哀れな小人だ。いっそ一思いに殺してもらったほうが、まだマシであったぞ。
だから俺は、必死になって俺の夢を託せるやつを探したのだ。中原にはいなかった。劉玄徳だけしか思いつくことができなかったのだ」
夏侯蘭が語る、信念を焼き殺されたという話は、具体的にどんなことがあったのか、趙雲にはわからない。
だが、おのれのこれまで過ごしてきた七年間のことになると、ことばを濁す夏侯蘭が、曹操のこととなると、とたんに饒舌になるのは、奇妙に思われた。
ことばだけを聞いていれば、夏侯蘭は曹操を憎んでいるかのようにとれるが、しかし、その熱を帯びた口調から感じ取れるのは、曹操に対するつよい撞着である。
趙雲は考えた。
いま、夏侯蘭は、かつては、自分を見捨てた男として、趙雲を憎むと同時に嫉妬していたのとおなじように、曹操にあこがれながらも、はげしく嫉妬しているのではないか。
夏侯蘭は、常山真定のなかでも、趙家とならぶ名家の出自であった。
曹操が夏侯氏の出自であることは知られているが、これとの血縁関係は、いまは途絶えている。
とはいえ、先祖が同じであることにはちがいない。
夏侯蘭は、幼少の頃から、趙家よりも、おのれの家のほうが、格式が高いと信じていた。
曹操に出会うまでの、夏侯蘭にとっての目障りな壁は趙雲であった。
現実として、常山真定の夏侯氏よりも繁栄している家の出で、さらには、自分が行くのをいやがった公孫瓚のもとで、憎らしくも華々しい武勲を挙げた。
同じ村の人間のくせに、俺たちを見捨てたくせにという、恨みと嫉妬があったのだろう。
ところが、この壁は、自分とおなじ祖先の血を引く曹操という男に触れたとたん、瓦解したのだ。
なぜかといえば、趙雲などよりも、曹操のほうが、世間的に見ても、大きくつよい相手だったからである。
それまでは、同じ村の人間のくせに、安泰な(夏侯蘭から見ればそうなる)人生を歩む趙雲が憎かった。
が、趙雲の人生をはるかに上回る成功をおさめている曹操があらわれると、趙雲に抱いたように、おなじ夏侯氏のくせにという嫉妬を抱くようになったのだ。
そして、趙雲は、夏侯蘭のなかでは、すくなくともゆるされたのだ。
だからもう命をねらう理由がなくなったのだ。
その、みずからの心の動きを、夏侯蘭自身は気づいていないようである。
「おまえは壷中から抜けたものと見てよいのだろうな」
趙雲が問うと、夏侯蘭は鼻で笑った。
「質問ばかりだな。おまえは昔から慎重で、猜疑心のつよいやつだった。
俺を信じていないのは仕方がない。だが、壷中ではないことは信じろ。
それにひとくちに壷中というが、壷中とは荊州の組織だけを指してそう呼ばわっていた。
だが、いいやすいために、かつての俺たちも含めて、全体がそう呼ばれるようになったのだ。
俺たちが、そのためにどれだけ苦々しい思いをしたと思う」
「苦々しい?」
鸚鵡返しにすると、夏侯蘭は、風のなかに、忌々しい敵がたたずんでいるかのように、顔をゆがめてうなずいた。
「ほんの一年前のことだ。風狗という劉州牧の小童が、あの御方にうまく取り入って、自分の組織を売りこんだ。
あの小童は、俺たちよりもはるかに狂っているのだぜ。本気で劉氏以外は、すべて畜生だと信じているのだ。逆に、劉氏の血に対しては、ぶきみなほど従順だ。
想像してみろ。軟禁状態で孤立するあの御方にとって、どんな命令もたやすく聞いてくれる、便利なやつが、向こうからすり寄ってきた。しかも、自分で苦労せずに、使える刺客集団が手には言ったのだぞ。
そのため、あの御方は壷中ばかりを贔屓にし、まわりもなにかというと壷中、壷中と言ったので、いつしか、あの御方の細作や刺客、俺たちも、ぜんぶ壷中と呼ばれるようになってしまった。古参の俺たちを差し置いて、だ」
「その恨みが、もしや主公に仕えようと思った動機なのか」
「それもある、だが、よくわからぬ」
「わからぬとは、おかしなことを」
「わからぬのだから仕方あるまい。それまで、俺はあの御方のためならば、いつだって命を捧げられると信じていた。
俺はいままで、あの御方のためになるのなら、いまの身体であることさえも幸運なのだと信じてきた。
ところが、曹操だ。あいつの挙搓をみているうちに、だんだんと、その心が蝕まれてきた。
あいつの体が発する熱にあてられたせいで、心が炭のように燃え尽きてしまったように思える。俺は、曹操を知ってから、おのれの体が恥ずかしくて、悲しくてしかたなくなった。すこしも幸運だなどと思えなくなり、こんな体に変えられたことを恨むようになった。
曹操さえ、俺のまえにあらわれなければよかった。俺の心を砕いたのが曹操ならば、砕き返してやるのが筋だろう。だから戦わねばならぬ」
それほどまでに曹操はすごいのだなといいかけて、趙雲は止めた。
曹操という男は、遠目でしか見たことがない。
その方針は破天荒で、身分にとらわれず、才能のある者があれば、どんな素行のものでも仕官をゆるす。
曹操の貪欲なまでの人材収集の噂が天下にひろまったため、官渡の戦いがおわったあと、曹操のもとには、その配下にしてほしいという者たちが全国から集ったとか。
もちろん、曹操自身の魅力もあるのだろう。
天下を論じるに、決して避けてとおれない名前となった曹操に対し、夏侯蘭は、本心では、まるで少女のように、曹操に熱狂しているのである。
だが、曹操を知ったがため、並行して、『あの御方』への忠誠心がくずれた。おのれの価値観を崩されてしまったことによって、心の持っていきようがなくなってしまったのだ。
そうした心理を読めるのは、やはり自分のなかにも、夏侯蘭に似た部分があるからなのだと、趙雲は思う。
さきほど、龍と聞いて、短絡的に孔明だと思いこんだのが、よい例だ。
だからこそ、夏侯蘭の不器用な心のうごきを、軽蔑したり、笑ったりすることができない。
いかんな、夏の日差しにあてられたか。
「壷中は、いまもあの御方の指示にしたがっているのか。荊州のほかにも、壷中はいるのだろうか」
趙雲がたずねると、渋るかと予想してたものの、夏侯蘭は、じつにあっさりと答えた。
「荊州の組織を参考にして、ほかにもあちこちに隠し村が作られたはずだ。
だが、地方はもともと漢王朝への尊崇の念がうすい。江東は地元の豪族の力がつよすぎて作れなかったから、代わりに既存の組織を移動させたと聞いている。曹操の南下に備えてのことだ。
それと益州は、これはあまりに奥地すぎて、たいした組織を作れなかったとも聞いた」
「では、目下、注意すべきは荊州の風狗を中心とした組織か。曹操はおまえたちのことを把握しているのか」
曹操の名が出ると、夏侯蘭の気分は高揚するのか、いささか荒い呼吸で言う。
「知ってはいるが、利用するだけのようだ。曹操は曹操で、独自に組織を持っている。これが存外につよくて、壷中と力が拮抗しているのだ。
だから曹操は、あの御方への遠慮もあるので、壷中にもそれなりの便宜をはかっているが、当てにはしていない。
曹操は、滅びよと天が定めたものにたいしては、どのようにあがいたところで滅びていくということを知っている。つまりは不遜にも、あの御方を恐れていないのだ。
とはいえ、壷中の目的である玉璽の奪還には協力したくないようだ。
ふしぎなものでな、あれほど冷徹な男でありながら、変に気にするところがあって、玉璽が漢王朝にもどると、ふたたび人心も漢王朝にもどってくるのではないかと考えているらしい」
曹操という男、夏侯蘭の話からすれば、強引さばかりが目立っているが、なかなか繊細な感覚も持っているらしい。
「では、もし玉璽を見つけたら、曹操はそれを消し、それを知る者たちも消そうとするだろうし、壷中は手に入れるために、やはり持ち主を消そうとするということか」
曹操は万が一、孔明を捕らえたらどうするだろう。
有能な人士が、また手に入ったと喜ぶだろうか。
だが、孔明は世間のだれもが納得するほどの大きな功績を、いまだ示していない、号ばかりが先行して名が高まっている青年なのだ。
夏侯蘭の話からすれば、もし、孔明が玉璽の一部を身につけていると知ったら、口封じのために、孔明をあっさり処刑してしまうかもしれない。
なにも好んで厄介を抱えようとしているわけではなかろうに、諸葛孔明というのは、どうも厄介事になつかれやすいようである。
玉璽などと言っても、見た目はただのバラバラの小石だ。
ふしぎな霊力が秘められている、などと思われているようだが、ならば、なぜ世がこんなに乱れているなかで、その力は発揮されないのだ。
人が苦しいときに力を出さないものなんぞ、すこしもありがたくない。
捨ててしまえばよいのだと、趙雲は思う。
「子龍よ、玉璽はどこにあるのか、おまえは知らぬか。袁術に仕えていた家臣が、これをバラバラにして、袁術の女官たちに配ったのはわかっている。
そして、それを手に入れようと、風狗が女たちを殺して回っていたこともな。
風狗の手下どもがいうには、すでに風狗のもとに、半分は集っていたそうだが、しかし樊城の騒ぎのために、その大半がふたたび失われてしまったとか。だれかが持ち去ったという話も出ているらしい」
その話を聞いて、趙雲は眉をひそめた。
さすがに、諜報もなりわいとしている組織だけあり、正確な情報をつかむのが早い。
これでは、やがては生き残った壷中らの証言や推理を重ねていけば、玉璽のかけらを孔明が所持していることがわかるのも時間の問題だろう。
趙雲は、北の空に目をやった。
樊城では、いまごろ曹操が、風狗と会っているはずだ。
果たして、二人のあいだにどのような会話が為されたであろうか。
そして、劉備は、おおくの難民らとともに、ひたすら江夏への船へ向かって動いているはずである。
できることならば、この身をふたつに分けて、一方をすぐさま北ヘ向かわせたい。
だが、趙雲は、孔明ひとりを傭兵たちの中に置いていくことができないでいた。
主公も守らねばならぬ。が、諸葛孔明もまた、守ってやらねばならぬ。
武の心得がないだけに、孔明のほうが守り手を必要としているのではないか。
やがて太陽の位置が少しずつ東にずれはじめたころ、幕屋のなかから、仕女のかなきり声が聞こえてきた。
まるで鵺の叫び声のように聞こえて、趙雲はぞっとした。
と、同時に、孔明が失敗したのだと思った。
幕屋のなかは、騒ぎになっているらしい。普段は女子どもには、けっして声を荒げることのない孔明のこえが、女たちの甲高いこえの合い間合い間から聞こえてくる。
当初、林のなかで、おのれの娘といっしょに、ほかの兵卒たちと休んでいた陳到が、幕屋の中には入ろうとしたが、趙雲はこれを押し止めて、自分がなかに入ってたしかめることにした。