風の旗標


七回目

やがて西の空が蒼ざめてきて、ちらちらと瞬くものが見えてきた。
星だ。
だいぶ走ったはずだと焦れながら、徐々に闇に包まれていく光景のなか、揺れ動くものがないかと目をこらす。
馬上からだと、それをなかなか確かめることがむずかしい。

目を酷使しつづけたため、軽い頭痛に悩まされながら、孔明はひたすら前へ、前へと進んだ。
こんなときでなければ、西の空はため息をつきたくなるほど、すばらしい配色にいろどられていた。
いかなる天人がこぼしたものか、薄墨いろの空のうえには、青空の残滓が展開し、そのうえに白い雲が浮かんでいるのだが、そのはしばしには茜色の陽光がさして、豪華絢爛にかがやいている。

これほどの苦難を地上のひとびとに味あわせながらも、天はつねに、変わらずうつくしいままでいるらしい。
それを無情と思うか、それともそういうものだとあきらめられるかで、心のありようはだいぶちがうな、などととりとめのないことも考えた。
この広い大地の果てには、戦乱のことすら知らず、平和に生きている者たちもいるはずなのだ。
この差が運命の差なのだろうか。
とはいえ、わたしは、みずから選んでこの場に立っているのだから、そこを悲しみはしない。
そうだ、苦難はもとより承知のうえで軍師となったのだ。
多くの人々に守られながら、なにより人の世に光をもたらすものになれと言われ、ここまで生きてきた。
自分を守ってくれたかけがえのない者たちのためにも、かれらから受け継いだ志を天下にあきらかにするのである。
そのためには、生きねばならない。
ただ、生きるにしても、一人というのはどうも心許ないので、だれかが付き添ってくれると、とてもありがたいのだ。

そうして馬を走らせながらひたすら街道の前方を見つめていると、やがて、ぽつぽつと明かりが浮かび上がっているのが見えてきた。
その歩みは遅い。
馬を全速力で走らせているこちらのほうが、どんどん一行に近づいていく。
そのひずめの音と振動で気づいたか、やがて一行の姿かたちもはっきり見えるようになってきたところで、青竜は部下たちに足をゆるめるよう指示したが、孔明はそれを聞かず、なおも馬を走らせた。
篝火を持った兵卒たちの奥から、追跡してきた何者かをたしかめるべく、出てきた者の姿を、しっかり目でとらえることができたからである。

「子龍!」
見覚えのある、影の多くふくんだその姿の名を、孔明は思い切り叫んだ。
趙雲のほうは趙雲のほうで、最初は槍をしっかり構えていたのであるが、やってくるのが孔明だとわかると、槍を下げた。
もしその表情をはっきりと見ることができたなら、戸惑いを濃く浮かべていたことだろう。

孔明は、趙雲のかたわらにある安車と、その周囲の女たちの様子を確認して、すっかり子どものようになっていた。
だれも死んでいない。
甘夫人の車もそのままであるし、なにより趙雲が平常である。
孔明は、趙雲に異変があれば、遠目でもそれと知ることができるという自負があった。
なにせ、おのれの主騎なのだからにして。

馬に乗ったまま、そのまま、むささびのように飛び降りて、趙雲に飛びつくことも考えたが、おのれの跳躍力のことと、趙雲が怪我をしていることを考えて、やめた。
そうして、一行のなかに馬を突っ込むようにすると、そのまま、手綱は手近なところにいた兵卒に、投げるようにしてあずけて、予想どおり、おどろき、うろたえて、馬首をこちらにめぐらせている趙雲のところへ駆け寄った。
「みな無事か! 甘夫人のご容態はどうだ!」
孔明が甘夫人のことを知っているということから、勘のよい趙雲は、劉備がなにもかもあきらかにしたのだと察したらしい。
やはり槍と手綱を手近な者にわたすと、馬を降り、孔明のほうにやってきた。
「おまえだけか。主公はどうされた」
「主公は民とともに街道沿いに南下されている。夫人とあなたのことを聞いて、まずはわたしがやってきたのだよ。よかった、莫迦なことは考えていないようだな。さて」
孔明は、荒いおのれの息をととのえるべく、怪訝そうにしている趙雲の前で、深呼吸をくりかえすと、やがて気持ちもおちつけて、強いまなざしを趙雲にむけた。
「この、たわけもの! いかに主公のご命令とはいえ、それをそのまま真に受けるやつがあるか! こんなわずかな手勢ばかりで、いったいこれから先、どうするつもりであったのだ!」
孔明に詰問されて、言語明瞭な趙雲にしてはめずらしく、むっつりと黙りこんだ。
孔明はさらに周囲を見まわし、おのれに目線があつまっていることを確認して、つづける。
「よいか、みなも聞け! わたしがここにやってきたのは、主公が最初におっしゃったように、夫人を民から隔離するためではない。夫人の病を治すためにやってきたのだ。まずは車を止めよ。このあたりの地理に詳しいものはいないか!」

たずねると、趙雲が引き連れていた兵卒のなかから、ひとりが挙手をして近づいてきた。
この近在の生まれとかで、地理にあかるく、この道をもうすこしいったところに、この人数でも休める、ひらけた場所があると言った。
その言葉に孔明はうなずき、さらにたずねた。
「そこは、日が昇ったあとも、陽射しを避けることができるだろうか」
「はい、ちいさい林がございますので、その木陰に移動すれば、大丈夫かと思います。そばには清い泉もございますので、休むには打ってつけの場所かと思います」
「助かる。それでは、そなたがその場所まで案内してくれ」
孔明は兵卒に礼を言うと、みなに号令をかけた。
「みな、いまの話は聞こえたな。しばらく、夫人のご病状が落ち着くまでそこで野営をする! みなあらためて準備をせよ!」

孔明の出現がとつぜんであったこともあるだろうが、一行は、まだ、なにがなにやらわからぬといったふうで、それでも命令に従ってのろのろと動き出した。
夏の日差しにいじめられながら一日中、進んできたのだから、さぞかし疲れているにちがいない。
趙雲が、まるでおのれを責めるかのような目をこちらに向けているのを無視して、孔明は、甘夫人に仕えている、顔見知りの年かさの女をつかまえると、ほかの者に聞こえないように、小声でたずねた。
「夫人のご容態はどうだ」
年かさの女は、気をきかせて、周囲に目をくばりつつ、すばやく答えた。
「とてもではございませんが、よい状態ではありませぬ。うわ言ばかりおっしゃられて、そばにわたくしがいても、わからぬ様子にございます」
よけいな感傷をくわえず、事実だけを的確に述べてみせるところが、さすが流浪生活になれている甘夫人の仕女らしい。
時間の尊さがわかっているのである。
しかし、兵卒たちが捧げもつ篝火の下に見えるその双眸には、よほど主人を心配したらしく、目がすっかり充血しており、孔明に報告をしながらも、涙が浮かんでいる。
女の泣き顔を見るのはつらい。
孔明は思わず目をそらしかけたが、おのれをはげました。

これから先に見るであろう光景は、泣き顔ばかりになるだろう。
いまからひるんでいてどうする。

「医者はついておらぬのか」
孔明が周囲をみまわし、たずねると、仕女は、決まり悪そうにうなずいた。
さすがに孔明は顔をけわしくして、たずねる。
「なぜに。医者の一人もつれずに、そなたたちだけで看病できると思うたか」
「申し訳ございませぬ。わたくしに多少の知識がございましたので、それを頼みにいたしました。
それに、もしも奥方さまがお心を取り戻されましたなら、自分のためばかりに医者がついてきたと知ったなら、きっとわたくしどもをお叱りになったでしょう。多くの民を引き連れておられる主公のほうが、きっと医者を必要となさるはず、と」
「なんと」
「そういうお方でございます」
孔明は、仕女を叱るか叱るまいか迷ったが、しかし言葉を飲み込んだ。
「そなたたちのなかで、以前に疱瘡を患ったことがある者はおるか」
「はい、いま夫人に付き添っている者が、疱瘡を患ったことがある者たちです。いまは休ませておりますが、もう一台の車に、ほかに2人ほどおります」
「わかった。その者たちを引き続き、夫人の看病に当たらせよ。ほかに疱瘡を患ったことのない者は、なるべく近づいてはならぬ」
反論しようとする、忠義者の仕女を、孔明は手ぶりでとどめた。
「そなたたちの気持ちはよくわかる。しかし、いまは飲み込んでくれぬか。もし、夫人ばかりではなく、そなたたちまで病みついてしまったなら、もう面倒を見切れぬ。背後には曹操が追ってきているのだから、どうなるか、わかるであろう」
「軍師のおっしゃるとおりでございます。しかし、お尋ねしたいのでございますが、軍師は疱瘡を治す方法をご存知なのでございますか」
「まちがいない方法ではないが、心あたりがある」
答えると、仕女は、感嘆の声をあげ、すでに孔明が夫人を助けたかのように、深々と頭をさげてきた。
それを苦く受け止めながら、孔明はさらに言った。
「医者がいないというのであれば、わたしが夫人の治療にあたるゆえ、そなたには、女たちの采配をたのむ」
「軍師がみずからでございますか?」
老仕女は、目をひらいて、まじまじと孔明を見つめた。
「医者でもない御方が女人の肌に触れるとは、士大夫らしからぬお振る舞い」
「士大夫だのなんだのといっている場合ではなかろう。奴婢たちのなかに医術の心得がないのであれば、触診もわたしがするしかあるまい。
よいか、たしかに儒の道からすれば、わたしの振る舞いは恥ずべきことかもしれぬが、しかし夫人の命をいまは優先に考えよ。
みなにも動揺せぬようにと、同じく伝えてくれ。これは軍師としての、わたしの命令である。よいな」
仕女は、とまどいつつも、孔明のつよいことばに押されるようにしてうなずいた。

とりあえず、段取りはつけた。
孔明がひといきついていると、肩をつよく掴むものがある。
振り返るまでもなく、相手はわかっていた。
趙雲である。

趙雲は、孔明を、一行から離すべく腕をつかむと、多分に苛立ちをふくめた声で、たずねてきた。
「ずいぶんと言い切ったものだな。疱瘡だぞ! 罹ればさいご、助かる見込みはほとんどない疫病ではないか。
ほんとうに心あたりがあるのか。それとも、気休めか! そうであったならば許さぬぞ!」
趙雲の強い口調に、孔明も負けじと強い口調で応じた。
「声をおとせ、われらが仲間われをしている場合ではなかろうが、たわけもの! さきほどのことばはでたらめではない。
ただし、わたしも知っての通り、医者ではないから、知識としてしか知らぬことだから、成功するか否かはわからぬのだ。
しかし、どこぞのたわけものが、主公の言葉に動揺してのことか、医者もつれずにこんなど田舎まできてしまったがために、わたしがその方法を、直接ためさなくてはならなくなった。
わたしを責めるのは、夫人を助けられなかったときだけにしてくれないか」
「さきほどから、たわけ、たわけとくりかえしてくれているが、その方法とやらは、なんだ。おまえがいつも懐にしのばせている、怪しげな薬を飲ませるつもりか」
「失礼な。怪しげどころか、わたしの薬は先祖代々、家長にのみ伝わる製法にてつくられる、貴重な万能薬であるぞ」
「以前にもらったことがあったが、あまり効かなかった」
「図体がでかいからだ」
「ほんとうか?」
「ええい、そこを論じている場合ではなかろう、ほんとうにまったく、たわけ! かなりの勢いで見損なったぞ、趙子龍! それでもわたしの主騎か!」
「また、たわけと」
「言われたくなかったら、二度とこのような愚かな真似をするでない。あえて聞かぬが、もしわたしが追いつかなかったなら、あなたはどうするつもりだった。
夫人のご容態がどんどん悪くなるのにまかせて、最後は楽にしてさしあげるつもりであったのだろう。呆れたものだな。もうすこし知恵があるかと思ったが」
「そういうおまえは、相当な知恵があるらしいな。俺とてまったく知識がないわけではないのだ。
しかし、疱瘡を治す術があるなどという話は、はじめて聞いた」
「わたしとて、罹ったことがないからなんとも言えぬが、疱瘡から生還した者の話なら知っている。その者の話を参考にしようと思うのだ」

孔明のことばを聞き、趙雲は、しかめていた顔を、ここでさらにおおきくしかめた。

「人聞きの話なのか? 自分の目で確かめた話ではなく?」
「こと、命にかかわることでは誇張や冗談をまじえる男の話ではないから、信頼してよいと思う。なにせ、その男も疱瘡によって死にかけたのだからな。
あなたは知らないだろうか。龐士元という、わたしとおなじく司馬徳操先生の門下で、わたしの姻戚でもある男なのだ」
龐士元の名に、趙雲はすこしばかり記憶を刺激されて、こたえた。
「聞いたことはある。龐家といえば、襄陽の名家だろう。
そうだ、主公がおっしゃっていたのだ、司馬徳操の推挙では、軍師に迎えるならば徐元直、諸葛孔明、さもなくば龐士元がよろしいと。
たしかおまえと同じくらい、派手な号を持っている男ではなかったか」
「たしかに派手だ。なにせ鳳雛だぞ。龍には負けるが」
「おい」
趙雲がつめよると、孔明は、ひらひらと手のひらを蝶のように動かしてみせた。
「冗談だ。しかし徳操先生は、主公に、協調性のある順番に推挙したのだな。妥当な判断だ。
龐士元はわたしより気むずかしい男だ。表面ではいつもにこやかにしているが、腹はいまひとつよくわからない。打たれ弱いところもあるしな」
「疱瘡の話にもどってくれ。その鳳雛先生がどうしたという」
「そう、士元は幼少のころに疱瘡を患ったことがある。そのためにいまでも肌に疱瘡の独特の痕が残っているのだが、それはそれとして、疱瘡を患ったとき、いちばん上の兄上と同時に患ったそうなのだよ。
親としては同列に扱いたいところであるが、どちらかといえば、それは長男である兄上のほうをより重点的に看るかたちとなるであろう。士元のところはたいへん裕福で、いちばん腕のよい医者と、高価な薬を、金を惜しむことなく求め、なんとかして息子を治そうとしたらしい」
「で、助かったのか。それでは、薬かなにかで?」
「いいや。助かったのは士元だけで、いちばん上の兄上は助からなかったそうだ。
その差はどこから来たのだろうと、長じてのちに、士元はみずから調べたそうなのだが、ほかにも、家族が同時に患って、生き残った者などの話をあつめて分析した結果、どうやら薬や治療法がよかったのではなくて、ひたすら熱の出るがまま、要するに疱瘡が暴れるがままにしていた者のほうが、手厚い看護を受けていた者のほうより、生きのこっているというのだ」
「ほんとうか」
「もちろん、士元がそうであるように、肌に傷が残ることや、失明の恐れがあることも十分に覚悟しなくてはならないが、熱を下げよう、下げようとするよりも、熱を高めたほうがよいのだ。
疱瘡の熱は、ある程度高まったあとは、自然と下がっていく。
その後、膿んだ傷が瘡蓋になってかゆみを発するわけだが、士元によれば、そのときかゆみに負けずに肌をかきむしらぬように気をつければ、痕がひどく残らないということもわかっている。
あとは熱に耐えられるかどうか、体力勝負だ。
夫人はもともと頑健な方であったから、この方法は通用するのではないかと思うが、どうだ」
「要するに、それは方法などという立派なものではなく、夫人まかせということにならぬか」
「夫人に解熱の薬を飲ませているのであれば、それは止めさせなくてはならぬな。
発病してからの日数を考えると、今夜から明日にかけてが山になると思う。あとは熱が下がるはずなのだ」
「はず、とか、だろう、というのが多すぎる。もしも、その方法が通用しなかったら? 
おまえは夫人から薬をとりあげ、よけいに苦しませて、」

と、ここで趙雲は、おのれが言わんとしていることばの残酷さに気づき、口をとざした。
しかし、孔明はそれをみずから引きついで、言う。

「わかっている。夫人をよけいに苦しませたうえで、死出の旅路につかせることになるだろうな。だが、それはわたしの手によるものだ」
趙雲は軽く眉をひそめて、孔明を見た。
甘夫人の安車を中心とした一行は、すでに粛々と先へ進んでおり、闇にしずんだ野原の上に立つ孔明の姿を映すのは、かぼそい月の光ばかりである。
おたがいさまではるが、ほとんど休みなしの行軍で、疲れているはずなのだが、闇が細部を隠しているからそう思うのか、孔明の姿は、はじめて会ったときと同じように、快活で生命力にあふれていた。

孔明は、趙雲を真っすぐ見据えて、言う。
「あなたはようやく過去から解放されたばかりではないか。主公のご了解はすでにいただいている。この件はわたしが引き継ぐのだ。よいな」
「よいも悪いもあるか。ひとたび引き受けた以上は、俺の勤めだ」
「いいや、ここは譲らぬぞ。わたしがあとは引き継ぐゆえ、あなたはひと晩休んだうえで、早朝には街道を取って返し、主公に合流せよ。
いま主公の一行は、何万もの民に囲まれて、ほとんど身動きがとれないでいる。かれらを守り、指導する将が、ひとりでも多く必要だ。
長距離の行軍に慣れていないわたしより、いまはあなたのほうが役に立つ」
「主公がそれを承知したというのか。俺には、夫人に付き添えと言った」
「変わったのだよ。よいか、これは命令だ」
孔明はきっぱり言うのであるが、その決然とした表情のしたに、気負いがあることを、趙雲はしっかり見抜いていた。
「おまえとて、叔父君のことからようやく解放された身だろう。俺に気を使う必要はない。
おまえにだからはっきり言うが、俺のほうが、おまえより、ずっと人の死というものに慣れている。人を苦しませずに殺す方法も、何通りも知っている。だから主公は、俺を夫人に付き添わせたのだ」
「そうかもしれぬな。だが、あなたはまちがっている。叔父の残したものは、まだまだ片付いていない。子龍、これはわたしの意地でもあるのだよ。
叔父はよかれと思い、孤児たちのために壷中というものを作ったが、これが大きな仇となってしまった。
樊城をめぐる争いは、ひとまずは収束したとはいえ、壷中そのものは、まだ残っているのだ。
わたしが戦うべきは、壷中という組織にだけではなく、かれらがまき散らす死の気配、なにもかもすべてだ」
「奥方の病は、壷中のせいではない」
「わかっている。だが、壷中の策略によって、糜夫人は命を落とし、さらには主公も何万という民を背負うことになった。
もし、そうでなければ、同じ病に罹ったとしても、夫人の扱いは、ずっとよいものであったはずだろう」
「憶測だ。似たりよったりかもしれないし、もっと悪かったかもしれない」
「よいものであったかもしれない」
趙雲は、苦笑まじりに、ちいさくため息をついてみせた。
「頑固なやつだな」
「そのあたりは頭が固いのだ。感傷だけで言っているのではない。くりかえすが、いまの主公には、わたしよりあなたのほうが必要だ」
「怪我人だぞ」
「怪我人であろうと、将として采配が揮えれば問題ない。ほとんどろくに休んでいないだろうから、今夜はともかく身体を休めることに専念して、夜が明けたら北上するのだ。叔至たちも連れて行け。わたしにはあの者たちがいる」
と、孔明は、夫人の一行のあとを、邪魔しないようにゆっくりとついていく、青竜たちの一団を指さした。
「あいつがおまえをここまで届けてきたのか」
「みじかい道中であったが、いろいろあって、あやつらが壷中ではないことは確認済みだ。
そういうわけで、わたしのことは気にせずに行け、わが主騎よ」
「あのな、行けといわれて、わかりましたと素直に答えられるほど、俺も人間ができていない。
さっきおまえは、奥方の容態は今夜か明日が山だと言ったな」
「うん、言った」
「曹操の速さはどれくらいだ」
「さて、おそらく樊城の壷中はあっさりと曹操に下ったそうだから、おそらく青州兵を先兵に出してきたとして、日数として、二日は余裕があるはずだ」
「主公は江夏に向かうため、南下してきているのだな。ならば、ここからなら一日もあれば合流できるはず。俺は夫人の容態が落ち着くのを見届けてから主公のもとにもどる」
「今夜か明日というのは予測だぞ。ずれ込むかもしれない」
「どちらにしろ、ただおまえの命令に従って戻りましたでは、俺としても決まりが悪い。
夫人の容態が回復したという報せを持っていくことができたなら、主公とて喜ばれるであろう。どうだ」
孔明は、しばし思案し、甘夫人の一行と、目のまえの趙雲を見比べたが、やがて納得したのか、うなずいた。
「わかった。そこは譲ろう」
「よかった。ところで軍師、気になることがひとつあるのだが、よいか」
言われて、孔明は、すこしばかり決まり悪そうな顔をした。
いつもは、あえて超然としているこの人物にしては、そうした人間臭い素の表情を露骨に見せるのはめずらしい。
「なんだ」
「さきほど、おまえは樊城について気になることを言ったな。樊城の壷中はすぐに曹操に下った、と。なぜそんなことを知っている」
「聞いたからだ」
「だれに」
「元壷中の仲間に。あなたはほんとうに武将にしては耳ざとい。聞き流してくれればよいものを。でなければ、今宵もぐっすり眠れぬぞ」
「つまりは、知れば、俺が興奮して眠れなくなるほどの話というわけか。どんなことだ」

趙雲が詰め寄ると、それまで、馬すら遠慮したものか、いななきもせず、しんとした行軍のなか、風の音しかしなかったのだが、べつの人物の声が、ふたりのあいだに割ってはいった。
「それは俺から話そう。久しぶりだな、子龍。樊城の壷中とやりあったようだが、息災でなによりだ」

その声。
趙雲は、自然と全身がこわばるのを感じていた。
月光の下、孔明の背後に立つ、その子供のような姿は、まさしく、いつぞや、同じように名もない大地のうえで別れたきりの幼なじみ、夏侯蘭のものであった。

八回目につづく
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