風の旗標


六回目

孔明は思わず、そばにあった大木の木陰に身をかくし、青竜の様子をうかがった。
青竜の表情は、孔明に見せていたものとは打って変わってきびしいものであった。安車の幌をかきわけて地上に降り立つと、まるでその中に親の仇でもいるかのように、いまいましそうに安車をふりかえってみせる。
安車の脇には、これの護衛のためであろうか、武装した男たちがいるのだが、その面構えや装束の不揃いなところからして、まともな兵卒ではなさそうである。かれらはかれらで、青竜のほうを胡散臭そうにじっと見つめているが、敵意は感じられない。
しかし、声をかけることもないのであった。

いったい何者なのか。
孔明は青竜の様子や、安車のしつらえや、部曲の男たちの態度などから推測しようとした。
安車と、ほかに連なっている馬車からして、商人の一行に見えるのだが、どこの地方から来たものか、そしていったいなにを商っているのか、外見からは測れない。特長がないのである。
そして、特長がなさすぎるところが、かえって怪しいように、孔明には思われた。
なにもかにも疑心暗鬼になりすぎているのだろうか。

青竜は、憮然とした表情のまま、ひと言も発さずに、孔明のほうへと向かってくる。
青竜とて得体の知れない男であることにちがいない。なにより壷中のことを知っていた。
青竜自身が口にしたように、傭兵の頭をしているからこそ、裏の事情にもくわしいのか。
しかし、孔明と壷中の対決を知っているとなると、その情報の深度はかなりのものである。
ふしぎと図々しさを許せてしまう雰囲気がある男だから、情報をあつめるのに苦労はないのかもしれないが、それがじつは擬態で、万が一、腹に一物のある男であったなら、これを連れて、病にくるしむ甘夫人のもとに向かうことなどできるはずがない。
もしも敵だというのなら、さて、どこに繋がっている男なのか。

もっとも考えられるのは、壷中である。
壷中は、もともとは劉表が私設の暗殺者を要請する場所としてつくりあげた組織であるが、これは劉表をひそかにうらぎった風狗によって、曹操が擁護する『あの方』の直属の組織に組み込まれた。
そして壷中は『あの方』の命令を受け、洛陽が焼け落ちたさいにうしなわれた玉璽を得るために、表向きは曹操に与して、こちらを狙っている。
玉璽は、それを手にした袁術によって、ばらばらにされて散ったのであるが、いま、その一部は孔明が所持している。
そのことを知っているのは、孔明本人と趙雲、そして趙雲と行動をともにしている陳到とその夫人だけだ。
孔明が持っていると知らないまでも、趙雲や陳到がなんらかのかたちで玉璽の在り処を知っていると壷中が考えているならば、やはりかれらを追うだろう。
青竜が壷中にやとわれているのだとしたら、孔明に従順な理由もわかる。
趙雲は青竜たちだけが来たなら警戒するが、孔明も一緒だとなると気をゆるませるだろう。そこまで見越しているのかもしれない。
糜夫人が襲われているときに、ともに壷中と戦ったことも、こちらの信用を得るためかもしれない。
壷中は目的のためには手段を選ばず、死さえも忠誠の証しとする組織だ。
そこからすれば、目的のために、簡単に仲間をためらわずに殺めることもできるだろう。
青竜たちが、壷中そのものではなく、壷中から雇われた者たちだとしたら、ますますそこにためらいはなくなるのではないか。

青竜の足音が近づいてくる。
孔明は、大木の幹の木陰で、懐に隠した短刀を、利き腕の袖に隠すと、いつでも取り出せるようにした。
とはいえ、武器で脅しつけるためではない。身を守るためである。
われながら物騒なしぐさが平然とできるようになったと自嘲しつつ、青竜が近づくのを待つ。
劉備のためにと、自分のための護衛の兵も連れずにここまでやってきてしまったのは、迂闊に過ぎたかもしれない。
悔しいことではあるが、青竜が言ったとおり、自分はどこか世間知らずで、頭では理解しているけれど、どこかまだ経験が不足しているがために、ツメが甘いのだ。
いまここで青竜を脅しつけ、あの一行は何者なのだと尋ねたとして、多勢に無勢、あっさりと取り押さえられ、どころか命を奪われる可能性とてある。
ここはそ知らぬふりをして、元に戻るべきではなかろうか。
いや、青竜が壷中の仲間だと仮定すると、あの安車の一行は、壷中そのものである可能性とてあるのではないか。
だとしたら、ますますこれを放置しておくわけにはいかない。

とんだ厄介をかかえてしまったものだと己を責めつつ、孔明は幹の影から、そっと青竜の様子をうかがった。
近づいてくる青竜は、無精ひげのぱらぱらと散ったその顔に、苛立ちと困惑を浮べ、目線も足元に落として、うなだれているようにも見える。
もし安車の一行が壷中だったとしても、あまりいい話ではなかったようだ。

ふと、孔明は思いついた。
もし、青竜たちが壷中に雇われているのだとしたら、その倍の値段でこちらが青竜たちを雇うと申し出たら、どうなるだろう。
壷中そのものであったなら意味はないが、ただ雇われているというのなら、交渉の余地はある。
樊城での騒動の余韻がまだ残っているはずだから、こちらも混乱しているが、壷中とて混乱しているにちがいない。
その混乱を逆手にとって、敵を味方に変じてしまえばよいのである。

さて、そうなるとどこから取り掛かるべきか。
そ知らぬ顔をして、青竜に高位を条件に仕官を勧めるか。
それともずばり壷中のことを切り出して、こちらに寝返るように説得するか。
孔明は、自分が寝入る前の青竜の様子を思い出していた。
むさくるしい風貌の男ではあるが、その双眸に野蛮な色はなく、むしろ澄明であった。
だからこそ、孔明もつい心をゆるし、眠ってしまったのである。
それに、やたらと自分のことについて尋ねてきたではないか、あれは、純粋にこちらに興味をおぼえているからこその態度ではなかったかと、孔明は考えた。
青竜は粗野な風貌にたがわず見識が高い。
引き連れている兵卒たちの様子を見ても、他者より多くの信望を得られる男なのだろう。
そういう男ならば、信義に厚く、軽々しく物でつられたりはすまい。
しかし逆に言えば、そういう男が壷中と繋がっているということが奇妙に思える。
とはいえ、それは青竜という男が、印象どおりの男だったら、の話である。

さて、わたしの目は疲労で鈍っていなかろうかと孔明は、まずおのれの力を測り、まずはそこに問題がなさそうだと判断すると、つぎにあらたに方針を決めた。
物で釣るのではなく、真実で釣るのだ。
こちらの現状すべてを素直に打ち明けることで、青竜の心情に揺さぶりをかけ、さらに壷中が、どれほどに悪辣で罪深い組織であるかを訴えるのだ。
壷中を束ねる者には、たしかに天下を取り戻す権利があるのかもしれないが、しかしだからといって、多くの人命を粗略にあつかってよいというわけではあるまい。

できるか。
おのれに問いかけて、孔明はうなずいた。
なにも刃を振りかざして命のやりとりをすることだけが戦いではない。
非力な者には非力な者ゆえの戦い方がある。
敵は敵だと断じることなく、個々人の心情に訴えて、ひとりでも多くの味方を増やすのだ。
いまは青竜だ。失敗したら命はないだろう。
だが、成功すれば益は大きい。
このまま趙雲たちに合流してしまうのは、あまりにかれらの負担を増やしすぎる。
まことにかれらを救いたいと思っているのなら、ここは力の見せどころだ、ここで刃を使うことなく、一気に敵を失くしてしまうのだ。

孔明は、おのれの心に背水の陣を引くべく、護身用の刀を袖に隠すのをやめて、もとにもどし、木の香にあふれる森のなか、深呼吸を何度かして、おのれの心を整えた。
そうして、目をひらくと、青草と枯れ草の入り混じった地面を沓で踏みしめつつ、木陰から青竜のまえに姿をあらわした。
すると、うなだれて歩いていた青竜は、おどろいて顔をあげ、愁眉をひらいた。
あやしいと思う人間の真意をたしかめたいのなら、その者の不意をつけばいい。隙をついた一瞬に見せるその表情は、よほど訓練された熟練の細作でもないかぎり、真情を語るものなのである。
孔明は、青竜の表情をうかがった。
青竜の表情に気まずさはなく、単純に、孔明が姿をあらわしたことをおどろいているようである。
度胸がよいのか。それとも、やましさがないからなのか。
「やあ、起きていたのかい。だいぶ顔色がマシになったな」
青竜のことばに、孔明はうすく笑みをうかべつつ、答えた。
「おかげでだいぶ気力が回復した。いますぐ出立できるぞ」
「それはよかったな。馬も元気になったようだし、早いところ出立しよう」

わたしを安車の一行から遠ざけようとしているのだろうか、それとも本心から出たことばだろうか。
探りつつ、孔明は、木々のあいだにはっきりと見える安車の一行の方に目を走らせた。
あえて青竜がかれらに触れないところが、なにやらあやしげである。
「このような街道はずれの道にいる、あの者たちはなんだ。見たところ、商人のようだな。なにか話でもあったのか」
孔明が言うと、青竜は、さして悪びれるふうもなく、答えた。
「気にすることはねぇさ。曹操の南下の話を聞いて、ここまで逃げてきた商人だそうだ。あんたが眠っているあいだに俺たちに近づいてきて、金をやるから、自分たちも一緒に、安全な場所に連れて行ってほしいと言ってきたのだ」
青竜の平然とした様子と、その話の内容から、孔明の脳裏に別の可能性が浮かんできた。
すなわち、青竜はほんとうにただの情報通の傭兵で、商人だと名乗るかれらは壷中であるという可能性である。
「左様か。どのような連中であった。子供はいたが」
壷中には、つねに子供の存在がある。
そのことを考えての質問であったが、青竜は気味悪そうに孔明を見た。
「おかしなことを言うね。子供ってのはなんだい」
孔明はそらとぼけて答えた。
「曹操から逃れているのなら、家族を連れているだろう。だから子供がいるのではないかと思ってたずねたのだ」
青竜はしかし、孔明のことばにはうなずかず、気味悪そうな表情を浮かべたまま、言った。
「あんたに言って、よけいな心配をかけさせるのも、仮とはいえあんたの主騎になっている俺としちゃあ、いやだったので、言わなかったのだが、安車の中には、子供がいるようなんだ」
孔明はきつく柳眉をしかめた。
すると、青竜は、よほど孔明のきつい表情が苦手らしく、すこし身体をのけぞらして、言った。
「あんたのそういう顔を見たくなかったから、言わなかったってのもあるんだがな、まあいいや。
報告させてもらうけれど、あんたが木を枕にして寝ているあいだ、商人が近づいてきて、さっき言ったとおり、自分たちも南に逃げるつもりなのだが、どうも一緒に連れている部曲だけでは心許ないので、一緒に連れて行ってくれないかという。
もちろん、俺はダメだと言ったよ。けれどしつこいやつでな、俺が良しと言わなくちゃ、主人というやつに殴られると、泣きそうな顔をして言うのだ」
「呆れたな。まさかそれで良しと言ったのではなかろうな」
孔明が言うと、青竜は、首と手を両方左右に動かした。
「信用してくれよ、俺はもちろん、なんといわれようとだめだと言ったさ。けど、俺は、人に泣かれるのがだめなのだ」
「なんだと?」
孔明は、すっかり呆れて、まじまじといかつい男の姿を上から下までながめた。すると青竜は傷ついたらしく、顔をゆがめる。
「そんな顔するなよ。これは子どもの頃からの癖で、どうにも直らんのだ。
そこで、俺は、あんたの代わりに主人とやらに話をつけてやると、そこの安車の中に入るというやつに話をしにいったのだ」
がっしりした男が、人の涙に弱いというのは、なんとも妙に聞こえる話だが、商人云々の話の筋は通っている。
作り話だとしたら、巧妙すぎる。
孔明が、先をうながすように、首をすこしかしげると、青竜はつづけた。
「で、俺は、主人とやらと話をしようとしたのだが、そいつは病気だとかいって、あの安車のなかにさらに衝立みたいなものをこさえていて、そこからこっちには顔を出そうとしないのだ。
奇妙なもんだぜ。狭いところでさ、まるで布と話をしているみたいだった」
「わたしの名や、子龍の名は出したか」
「いいや。なんだか得体の知れない連中だと思ったから、あんたの名前も、趙子龍の名前も、殿様の名前も出さなかったよ。まあ、向こうはこっちが何者か、だいたいの見当はつけているみたいだったけどな。
ともかく、俺は急いでいるから、あんたたちを同行させるなんてのはできないときっぱり断った」
「素直に承諾したか」
「粘られたさ。けれど、だめなものはだめだと言い切った。俺が殿様からもらった金の倍を出すとも言われたが、断ったぜ。いくら金を倍払うといわれたところで、いまの俺たちの雇い主は殿様だろ。
傭兵商売も信用が大事でね、金に目がくらんで、あっさりと裏切りましたなんて話がひろまったら、つぎの仕事をするときに、ろくなことになりやしないのさ」
「そうか」
言いつつ、孔明は自分の眼力が正しかったことに安堵していた。
うかつに金や物で釣ろうとしていたら、かえってこの男を怒らせたことだろう。
「子供がいるようだと言ったな。どうしてわかった」
「わかったというか、幌の中に衝立があったと言っただろう。それが、ちょうど木漏れ日を受けて、影を受けたんだな。
俺のほうから見たら、俺と話をしているやつの影のほかに、何人かの影が映ったのだが、それがみんな小さかったのだ。あれは子供の背丈だろう」
「小さいとは、どれくらいだ」
「いや、影がだいぶ歪んでいたから、はっきりとはわからねぇが、頭でっかちで手足が短い。あれは子供だ。
とはいえ、俺たちが話をしているあいだも、妙に大人しくて、そのくせなにやらがさごそと動き回っていて、気味が悪かったな」
だからこそ、青竜は、安車から降りたときに、嫌悪の表情をにじませていたのか。

姿をあらわさない商人。大人しすぎる子供。
子供のように見える影。
似た話を知っている。まさか?

孔明はちらりと安車と、その周囲にいる部曲たちのほうを見た。
かれらも、木立のあいだから、こちらをじっとうかがっているようだ。
孔明は、怪訝そうにしている青竜の腕を引っ張って、かれらから見えないように木陰に隠れると、さらに声を落として、青竜をまっすぐ見た。
その目線が、あまりに厳しく、さらには真っすぐでありすぎたためか、青竜はたじろいだ。
「なんだい、急に」
「声を落とせ。単刀直入にたずねる。おまえも正直に答えよ」
「なるべくな」
「なるべくではだめだ。正直に答えるのだ。ずばり尋ねる。おまえは壷中の仲間ではないのか」
青竜は、孔明の質問に、しばらく目をぱちくりとしていたが、やがて感嘆したように言った。
「おどろいたね、あんたは見かけによらず、ずいぶん真正面からぶつかってくるんだな」
「認めるのか」
ヒヤリとしつつ、孔明は青竜が武器を取り出す気配がないか、かまえた。
とはいえ、徐庶にならった武術は、防御ばかりであったから、斬り合いになったら弱い。
そうした孔明を、青竜のほうは、これは多勢に無勢とわかっているからか、余裕の笑みをうかべて観察している。
「で、もし俺がそうだとしたら、あんたはどうするんだい」
「どうもこうもあるか。壷中ならば、狙いは子龍か、それとも叔至か。わたしはおまえたちのための道案内になぞならぬ。樊城の壷中がどうなったのか、正しく知っているのだろうな」
「あいにくと知らないね。連中は、いいことばかり言ったからな」
「連中とは、風狗のことか。それとも許都の御方か」
「へえ、壷中というのは、なんだかあっちこっちにいるのだな」
とぼけて感心する青竜に、孔明はおおいに眉をひそめた。
青竜が信頼できる男だと思ったからこそ、こちらに寝返らせる価値もあると見たのだが、もしや、人物を見誤ったのか。
だが、ここまで話してしまったのだから、いまさら後戻りはできない。
孔明は言った。
「壷中とは、劉州牧と側近の豪族たちが、流民の子どもたちや貧農の子らを拉致してつくった、細作や暗殺者を養成する組織だ。知っていて雇われたのではないのか」
すると意外なことに、青竜はおおいに眉をひそめて、うなるように言った。
「子どもを拉致して作ったなんてのは聞いてないな。ひどい話だ」
孔明は、自分の眼識がまちがっていなかったことを確信し、意をつよくして、言った。
「それだけではない。荊州の治世を磐石にするために、劉州牧は豪族の子弟を人質にとって、やはり壷中へと送り込んでいたのだ。だから十年ものあいだ荊州の平和は保たれていた」
「なるほどな。けれど、そうなると壷中というのは、荊州の治安を守るために存在していた組織なわけだろう。
なら、おなじく新野に駐屯し、曹操から荊州を守っていた劉玄徳と対立する意味がない。仲間割れをしたというのか」
「そこが肝心なのだが、しかしおまえがどれほどに壷中に関わっているかが問題なのだ。身命に賭けて答えよ、おまえは壷中の一人か、それとも壷中から雇われた人間なのか」
孔明が決め付けると、青竜は、やめてくれというふうに片手を挙げた。
「さっきも言っただろう、俺のいまの雇い主はあんたの殿様。壷中じゃない。壷中の名前は前から知っていたが、じかに接触を受けたのは、今回がはじめてさ」
「どういうことだ」
青竜は木立の向こうの商人たちのほうを気にして、幹の影から、そっと様子をうかがう。
「尾行されてはいないようだな。すくなくとも、いまのうちは真心を見せようというわけか。あいつら、俺たちとは敵対するつもりはないと言っていたからな」
「あいつらとは、だれのことをいっているのだ」
「あんたの壷中だよ。あんたを起こさず、俺ひとりで話をつけたのは悪かったと思うが、しかしあんたの顔色はほんとうに悪かったから、休ませておいたほうがいいだろうと思ったのさ。これでも気を遣ったのだぜ。
連中が商人だなんていうのは嘘だ。あいつらは自分たちが許都からきたと言った。壷中だとはいわなかったが、しきりに樊城の仲間がどうとか口にしていたから、これは同じ組織だと断じていいだろうよ」
「壷中の名を前から知っていたというが、ほんとうか?」
「蛇の道は蛇ってね。俺たちのあいだじゃ、正体のよくわからない暗殺者集団が荊州にいるという話は有名だった。
けれど、そいつらが壷中という名前だということは、ごく少数しかしらない。
聞けば、連中はみな見目麗しい若者ばかりで、多芸なものだから、ついつい情にほだされて接近をゆるしてしまい、その手にかかってしまうのだと聞いた。もしかして」
と、青竜は、その手を孔明の顎にのばし、ぐいっと顎をつかむと、顔を上向かせた。
「あんたも壷中だったわけか」
とたん、孔明は頭に血をのぼらせて、青竜のごつごつした手を思い切りふりほどき、ついでにその手の甲を、ぱんと打った。
「無礼な! わたしは斯様な後ろ暗い者に見えるのか!」
「いや、その傲慢な物言いといい、まったくそうは見えない」
「ならば口を慎め。おまえのそのことばは、わたしに対してだけではなく、壷中の子どもたちに対しても大いに侮辱であるぞ」
孔明のことばに、青竜は何を言い出したのやら、というふうに顔をゆがめた。
「いまのは、あんたを怒らせてみたかったから言ったことばだったのだが、壷中の子どもたちに対しても侮辱だ、というのはなんだい」
青竜の怪訝そうな問いに、孔明は、ずいっと身を乗り出すと、一気に説明をはじめた。
「壷中という組織は、もともとわが叔父を中心にした荊州の豪族があつまってつくった、中原から絶えず移動してくる流民のなかでも、優秀な孤児をひきとり、立派に成人させてやろうという親心からはじまったものであった。
ところが、そこへさまざまな欲が絡み合って、途中でいかがわしい組織に変貌してしまったのだ。叔父はこれをひどく怒り悲しみ、劉州牧と対立するようになった。
劉州牧は、ほかの豪族たちとおなじく、叔父に対しても人質を要求しようとした。その人質として白羽の矢が立ったのはわたしであったのだ。それを察した叔父は、劉州牧に、壷中のことを天下にあきらかにするぞと脅し、わたしを守りぬいたのであるが、かわりに自身の命を取られた。
そうしたいきさつがあるため、壷中の内部のものには、自分たちの境遇を生み出した叔父に対して恨みを持つ者もあるし、叔父によって守られたわたしを妬む者もいる。
そうした悲しい身の上の者たちがおまえの話を聞いたなら、諸葛亮なんぞ、自分たちの仲間ではないと、おおいに怒るであろう。だから、口を慎めと言ったのだ。わかったな? 二度と言うなよ」
青竜は、どうだと言わんばかりに胸をそらして威張っている孔明を、まじまじと見て、それから呆れたように言った。
「なんだかいま、ものすごい話を聞いたが、さらにあんたの理屈はわけがわからん。あんたは自分たちの命を狙う組織を憎んでいないのか。
糜夫人が死んだことや、新野の難民が殿様のところにあつまってきちまったのも、壷中のせいなのだろう」
「たしかに壷中のせいではある。しかし壷中の内部に留まっている子どもたちは、たいがいが本意でそうしているわけではない。ほとんどが人質をとられて身動きがとれない状態に置かれているのだ。
壷中という組織には、仲間という意識がない。上位者が下位の者を絶対的に従わせて動かすのだ。
たとえば同じ組織にいる兄弟や、あるいは想い人などを質にとって、あえて死地に飛び込ませることをする。その仕組みを知れば、かれらのすべてを悪だと決め付けることはできなかろう。
叔父がそう望んでつくったものではないが、土台をつくったという事実は動かぬ。だから、かれらがわたしを私的に恨むことも、仕方がないことだと思っている」
「命を狙われてもか」
「わたしが逆にかれらの立場であったら、おなじように思うであろう。わたしは守られて、無傷のまま今日まできた。
一方の壷中の子どもたちは悲惨だ。親元から引き離され、まるで望まぬ過酷な鍛錬をむりやりつまされ、その果てには無謀な命令と、無惨な死が待っているのだぞ」
「そこだよ」
と、青竜は、孔明の話を止めた。
その表情には、さきほどの余裕のある笑みはない。
「俺も傭兵の頭をやっているからわかるが、おなじ傭兵にしても、頭数だけはそろっていても、ほとんど素人と変わらないやつらより、数が少なくても質のいい連中が多いほうが強い。この質のいいという意味は、熟練のつわものであるという意味だ。そういう連中を多く抱えているところほど、やはりずば抜けて強い。
あんたの話からすりゃあ、壷中というのは、育てるだけ育てておいて、いざとなったらあっさり見殺しにするような、めちゃくちゃな連中じゃないか。そんなふうで、組織として成り立っていられるのか」
「強い信念、いや、信仰と言い換えてもよいか。そのためならば、人はいくらでも残酷になれる。それはわれらとて、黄巾党の様子から見知っているはずだ。
かれらにとって、子供たちは使い捨てのできる手足に過ぎない。情はまったく介在しないのだ」
「信仰っていうのはなんだ」
「ある者の権威をふたたび天下に明らかにする、それが壷中の目的なのだ」
「ある者ってのはだれだい」
「さきほどから、その者がいる地名は出ているぞ」
「荊州かい。なんだ、それなら劉州牧のことか。でも劉州牧は死んじまったのだろう。
だったら、劉公子のことか。まだ少女のように幼い公子だと聞いた。父親を亡くして、老練な曹操にいいようにされちまうのだろうな」
青竜の表情には、あきらかに劉公子こと劉jへの同情がある。やさしい男である。
しかし、その同情は無用なものなのだと皮肉に考えながら、孔明は首を振って、言った。
「劉州牧が死んだのに、壷中はなおも活動をつづけているのは何故だと思う。劉州牧ではない。その血の大元となるところに、かれらのよりどころがあるのだ」
孔明の謎かけに、青竜はなんのことやらというふうに首をひねっていたが、やがて気づいたらしく、目をひらいて、ふたたび孔明をまじまじと見つめた。
その視線には、驚きと、そして誰に向けられているともわからない非難がある。
「めったなことを言うな。証拠はあるのか」
「はっきりとした証拠はない。だが、まちがいのないところだ。樊城を中心にうごいていた壷中というのは、中原を中心に活動していた者たちとは別個に生まれた組織であった。
ところが、活動をしていくうちに、壷中の一部が許都の御方と接触し、これに合流したのだ。その壷中の一部の頭になっているのが風狗という狂人だ。こやつが特にわたしを狙っている」
「なぜまた」
「わたしが何もかも知ってしまったからだ。そして、風狗というのは、自分にも劉氏の血が流れていることを誇りにしており、許都の御方と同族であると信じているが、しかしそうではないことも、わたしは知っている。
あやつの腹違いの兄によれば、風狗は劉氏による天下の回復を望んでいるが、それはあくまで許都の御方によるものか、さもなくばおのれの手によるものでなければならぬと決めてかかっているらしい。
しかし、その身に劉氏の血が入っていないことを知ったなら、風狗の信念は崩れてしまうし、周囲の信望も失せる。だから、すべてを知るわたしを狙い、そしておなじく劉氏を名乗るわれらが主公を狙うのだ。
許都の御方は、曹操の庇護をうけながら、とりあえずはその力を借りて、めざわりな勢力をあらかた消し去ることを狙っている。それを影から支えるのが風狗が率いる壷中だ」
「待てよ。風狗というのは、もしや」
孔明は深くうなずき、青竜の顔をまっすぐ見据えて、言った。
「劉州牧の子、劉jのことだ。おそらく許都の御方の口ぞえがあるであろうから、曹操がかれらを殺すことはあるまい。となると、樊城の制圧は早く、曹操はすぐにでも南下してくる可能性がある。
だからわたしが焦る理由がわかっただろう」
「わかったが、けれど、最初から言えよ。だったら、あいつらに招かれたとき、腕に覚えのある部下をつれて、あいつらに近づくフリをして、ばっさり斬ってやったのに!」
「ほう、すると、おまえは、やはり壷中ではないのだな」
「ちがう。事情を聞けば聞くほど、いやな汗が出てくるぜ。いままで俺は、あんたをキリキリした余裕のないやつだと思っていたが、逆だ。なんだってそんなに冷静なんだよ。いますぐ出発しようぜ。
って、待て。殿様のところに戻るべきじゃないのか」
孔明は、しかし首を振った。
「壷中と一口にいっても、風狗の一派と、許都の一派のふたつがあるのだ。許都の一派のほうが、断然、組織も大きく、歴史も長い。
かれらは長いあいだ、ある物をさがしていたのだが、ここにきて、ようやくそれがどこにあるかのめぼしをつけた。
そして、かれらはそれを子龍か、あるいはその副将である陳叔至が持っているものと信じている。
つまり、主公と子龍、それぞれ別々に移動しているこのふたつを壷中らは狙っている。もしおまえが壷中であれば、どちらを狙う」
「それは、そうだな、人数もすくなく、病人を抱えている趙子龍たちのほうか」
「そうだ。壷中は荊州中のあちこちに隠し村を持っていたから、子龍たちが向かう先に壷中がいないとは断言できないのだよ。
主公は民草のために夫人を隔離する目的で子龍を別行動させたのだが、しかし壷中からすれば、これほど願ったり叶ったりの機会はない。
いくら子龍や叔至に腕があろうと、子龍は怪我をしているうえに、夫人を守らねばならぬのだから、どちらが不利かはわかるだろう」
「壷中がねらっている『ある物』ってな、なんだい」
「それは教えられない。わたしは正直にありのままを答えたぞ。つぎは、おまえの番だ。あの安車のなかであった、ほんとうの話を言え」

青竜は、しばし困ったように、自分の、あまり手入れのよくない髪をかきむしったが、やがて考えがまとまったのか、口をひらいた。

「さっきの話は、ほとんどほんとうさ。劉玄徳の倍を払うから、自分たちに付かないかと、そういうんだ。
ただ、あんたの話と矛盾するかもしれないが、連中は許都からきたのだが、曹操から逃げているというのだな」
「なんだと。どうして」
「わからん。もともといた組織を裏切って逃げている最中だというのだ。とはいえ、劉玄徳にも因縁があって、こちらはそうではなくても、劉玄徳のほうは嫌がるだろうから、簡単に膝を折ることもできなくて困っている、とこうだ。つまり、孤立無援なので、俺たちに護衛してほしいというのだよ」
孔明は、木のあいだからちらちらと見える、安車のほうを気にした。
さきほどの青竜のことばと照らし合わせると、なにか奇妙な予感がある。
「安車のなかの者は名乗ったか」
「ああ、曹操の血縁かと思ってびっくりしたから、ありゃ忘れねぇよ。安車のなかのやつは、夏侯蘭と名乗ったぜ」

七回目につづく
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